up date | 06 May, 2018 | (追記・校正:2018年5月23日、9月21日、2019年12月27日、2022年1月15日) |
36 - (7) 極寒のクラスノヤルスクとバイカル(7) オリホン島北部 2018年1月28日から2月13日(のうちの2月8日から2月10日) |
Путешествие в Красноярске и на Байкале эимой 2018 года (28.01.2018−13.02.2018)
極寒のクラスノヤルスクとモティギノ(地図) | |||||
1 | 1/28-1/29 | クラスノヤルスク着 | スラーヴァ・ルィヒン | エニセイ街道 | モティギノ着(地図) |
2 | 1/30-1/31 | 飛行場。学校 | パルチザン金鉱 | 南エニセイスク。ラズドリンスク | モティギノ博物館 |
3 | 2/1-2/2 | モティギノの病院 | ドラマ劇場、ルィブノエ村 | 遠回りのカンスク経由 | バライ村村長、クラスノヤルスク市へ |
4 | 2/3-2/4 | 見張り塔(地図) | ファン・パーク | ダーチャ | イルクーツクへ |
氷のバイカル | |||||
5 | 2/5 | ヤクーチア郵便街道を(地図) | バイカルの娘たち | 『バイカルのさすらい人』 | 『ニキータの館』 |
6 | 2/6-2/7 | (地図)フジール村再会 | オリホン島南部観光 | 氷上バレー | ドイツ人メルツ校長 |
7 | 2/8-2/10 | フジールの学校 | ハランツィ湾の氷、コサックの夕べ | オリホン島北部観光 | 氷上の長い割れ目 |
8 | 2/11-2/13 | イルクーツクへ戻る | ポーランド・カトリック教会 | コルチャーク像 | ハバロフスクのタクシー |
フジールの学校 | ||||||||||||||||
2月8日(木)。学校訪問する日だ。オリホン島フジール村に来た時は、たいてい1度は学校訪問する。授業の都合もあるだろうから、ルミャンツェヴァさんから11時半ごろ来てほしいと言われる。彼女の上級クラスの生徒がちょうど日本地理の勉強をしているからだとか。
11時半頃までは、ニキータに村の音楽学校訪問を勧められて、アレクサンドル・アキンディノフ Александр Акиндиновと言う青年をお相手につけてくれた。彼に連れられて『ニキータの館』を出て村の道を歩く。アレクサンドルはモスクワに住み、国立モスクワ教育心理大学 Московчкий государственный психоло-педагогический университетで学んでいる。今、卒論休暇を取り、オリホン島で実習・調査をしている。シベリアではどこでも都市化が進み、農村の人口は減っている。農村では、仕事場を求めて、若者たちが村から去り、過疎化が進み、活気がなくなっている。ところがオリホン島のフジール村は、近年、漁業コルホーズが解体されても、宿泊施設やお土産店などの観光業で経済状態が非常によくなっている。これは地方の寒村にしては特異なことだ。ロシア全国の各学校は音楽や演劇など様々な分野でコンクールを行っているが、オリホン島のフジールの学校は何度も賞をとっている。アレクサンドルは、ほかの僻地の状態とは異なるオリホン島の学校の生徒たちの活動を調査・指導するため、数週間、『館』に滞在しているそうだ。 私は、宿泊代について尋ねてしまう。彼も、半分スタッフの無料宿泊客の一人らしい。彼はスタッフ用の部屋で寝泊まりし、『ニキータの館』の業務も手伝っている。業務とはニキータから次男のチーホン(14歳)の数学を見てほしいと頼まれているそうだ。数学の家庭教師については困惑していた。確かに文科系なら中学の数学も戸惑うことがあるかも。ニキータの次男のチーホンには芸術的才能はあると両親は見ているが、数学・物理は苦手のようだ。チーホンはフジール村で両親と一緒に住み、村の学校に通っている。しかし、学期の半数近い日数はイルクーツクに行き芸術教育を受けている。つまり、2,3週間はフジールの学校に通うが、次の1,2週間は車でイルクーツクへ行き、イルクーツクの方の自宅(初日に私が案内された)で両親の一人か祖母と暮らし、音楽や絵画の英才教育学校(?)に通っている。私が疑問なのは義務教育期間中、学校の一定の出席日数を下回ってはならないのに、これでは明らかにチーホンは足りていない。アレクサンドルもそう思っている。しかし彼はフジールの学校がチーホンと彼の両親に便宜を与えているのだろうとは口に出さない。なにしろ、ニキータは地元の学校に、『館』運営の最も初めから変わらない貢献で尽くしている。
アレクサンドルに案内された村の音楽学校は、休校中なのか、まだ開校していないのか、修理中なのか、それらしくはなかった。ブリヤート人の女性が一人電話をかけていて、私たちが入っていくと挨拶して出て行った。3,4室あるが、雑然としている。ピアノと生徒の座る椅子と机も何脚かはある広めの部屋と、画架が置いてある部屋があり、アレクサンドルが(知的)障碍者のためだと教えてくれた部屋には床にきれいにペンキが塗ってあった。 後で知ったことだが、オリホン区(人口1万人弱で、オリホン島や大陸側のタジェランスキー草原、行政中心地エランツィなどを含む)には、普通教育学校の他に、放課後希望者が通えるような音楽学校(芸術学校)は、エランツィにしかなかった。それで、(自分の次男チーホンのためにも)数年前、ニキータ個人が『館』内に『音楽学校』を作ったのだ。それは無認可私立だが、生徒が集まり、次第に実績ができ、イルクーツク州の教育課は公立にするための予算を組むことに承知。もちろん、ニキータの妻ナターシャの言うには山のような書類が必要だったとか。予算は出るが、教員の給料に充てられる。それは州に採用されている教職員が派遣されるようになったということ(地元オリホン島居住者だが)。また、場所も州が割り当ててくれた。今音楽学校になっている建物は、以前は全く別の用途だった。ピアノはニキータの寄付だ(元の個人の学校から持ってきた)。設備は予算が少なくてなかなか整えられない。しかし、20人ほどの生徒がいるそうだ。絵画をレーナ・トルマチョーヴァ Толмачева Еленаが教える。彼女は『ニキータの館』のスタッフの一人でインテリアなど美術関係の仕事をしている。(日本好きのニキータは『ニキータの館』内に『ニッポンの部屋』を作った。見せてもらったが、絶句するほど珍奇だとは私も言わない。そのレーナの造作だという。) 11時半になったのでアレクサンドルと学校へ向かう。まず校長室で待つ。校長のメルツさんがパソコンとロシア国旗のある机で仕事をしている。プーチンの肖像写真はなかった。昨日話したことだが、メルツ校長はプーチンを支持していない(写真がないのはそのせいでもないだろうが)。来る3月の大統領選でプーチンがまた票を集めて大統領に就くだろうが、もう政権に18年もいるではないか。これでは、さらに6年かそれ以上居座る。対立候補者はいないのだろうか。メルツさんはパーヴェル・グルジーニン Павел Грудининを支持しているそうだ。パーヴェル・グルジーニンはモスクワ郊外の『レーニン名称ソフホーズ』のディレクターだ。ソフホーズとは国営農場の意味で、ソ連時代は農村にはソフホーズかコルホーズ(集団農場)しかなかった。ソ連崩壊後は、そうした農場は大部分が破産、解体したが、1995年その『レーニン名称ソフホーズ』のソフホーズ長に選ばれたパーヴェル・グルジーニンは、経営を有限会社組織に改め、それ以後、果樹園栽培、果樹加工業で大繁栄している。ソフホーズとかレーニンと言うのは昔の名前だけをただ引きついているだけだが、パーヴェル・グルジーニンはソ連共産党からの立候補だ。メルツさんは「昔の方がよかった」派だ。(後のことになるが、グルジーニンは第2位で、得票率は、公式発表では11.77%だった。) 校長室にルミャンツェヴァさんが呼びに来て10年生のクラスに入る。6人の生徒はロシア人の女の子が2人とブリヤート人の男女が4人だった。先生が日本について説明する。その説明については口出ししない。私は生徒たちに日本についてどんなことを知っていますかと質問。先生の説明も生徒たちの質問も、10年生にしては高くないと思った。面白かったのは日本では女性の平均寿命が87歳で男性が81歳と言った時だ。男女の差が大きいと思ったのか、ブリヤート人男生徒からの質問は「男性は飲むから早死にするのか」というものだった。ちなみにロシアは女性が73歳、男性が60歳。この差は男性の過度の飲酒が原因だ。(自分達の良く知っていることに合わせて、ほかのことも判断してしまおうと言うその男性徒の発言か) 20分ぐらいで引き上げて『館』へ帰り、ニキータと昼食。昼食は『館』宿泊料には含まれていなくて特別注文。いつもオームリ(バイカル湖の特産サケ科ホワイトフィッシュのコレゴヌス属、2017年から漁獲禁止)の焼いたのが出てくる。オリホン島滞在中、オームリは毎日食べた。 |
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ハランツィ湾の氷、コサックの夕べ | ||||||||||||||||
午後からはハランツィ Харанцы村(ブリヤート語の хараа(н)見晴らしの野の意)へ行くことになっている。ニキータがイーゴリ Игорь
Витальевич Родоманов(彼は現在『館』の副支配人)運転の車を都合してくれて(いつものことだ)、出かける。ハランツィ村はオリホン島で2番目に大きく、フジール村の北6.5キロにある。人口は100人弱。ゲスト・ハウスはこの村にもある。
まず寄ったところはニキータの友人で、植物が趣味の男性。温室を見せてもらう。以前はイルクーツクで働いていたが、(人より多めの)年金をもらうようになって、ここに引退して趣味三昧に明け暮れているのか。苗も多かった。売ることもあるという。 それからハランツィ湾に降りる。ここは氷が美しい。北コースの観光ワンボックス・カーが必ず寄るスポットだが、時間を外せば1台もいない。ニキータはどんどん氷の上を歩いて岬の先へ出ていく。波に浸食された洞窟もある。バイカルの洞窟は控えめに言って、自然の美の極致だ。長いつららが下がっているばかりか、サスーイ Сосуиと言う下からのつららがあがっている。前記のように、これはバイカルがまだすっかり凍る前、波が岩にぶつかってそのまま凍ったものだ。バイカルの風は強く、サスーイの高さは20‐30メートルにもなると言う。
カニコフ Александр Коньковと言う男性の一人住まい宅を訪問。彼は元パイロットだった。村はずれの一軒家に住み、キツネなどやバイカルの動物を映して、SMSに載せている。金属探知機を所持していて、島内の鉄器や銅器の考古学遺物の発掘も趣味でやっているとか。だから彼の家には中世チュルクの武器や装身具などが保管してあるそうだ。しかし整理されていないので本人もどこにしまったかすぐにはわからないとか。(これはのちにナターシャが言っていたこと)。彼の話は面白そうだったが、運転手のイーゴリを待たせては悪いからと、ニキータは私を急がせて引き上げる。 この日の夜は、村の図書館でコサック結成大会があるとかで、文化担当のナターシャと一緒に出掛ける。図書館では何らかの会が時々催されているようだ。出席者は子供もいる。テーブルにはお茶とお菓子が出される。図書館の蔵書はそれほど多くはない。お茶会ができるようなテーブルがあるので、村では、何かの集いの時はここを使っているらしい。村には文化会館はあるが、設備が悪くて、こちらの方が会合には好都合だそうだ。書架を見ると、この日のために並べたのか、トルストイの『コサック』をはじめ、数冊の本が並んでいた。 まず、村の人形作家が一つ一つの創作人形を見せながらの長い説明があり、やっと、コサックの服装をした数人の男性の紹介があった。先祖がコッサクだったのだろう。イルクーツクから招かれたという声楽家の音頭で歌を歌う。『チョールヌィ・ヴォーロン(ワタリガラス)Черный ворон』の歌だ。以前にもロシア人がヴォッカを飲み過ぎた時などに必ず歌うのをよく聞いたものだ。この歌が出てくるとそろそろお開きとか。哀愁のあるメロディーで一度聴いたら忘れられなくて、いつまでも耳に残る。「なぜそれが、ここで」とナターシャに聞いてみると、これはもともとコッサクの歌だからと言う。いつの時代のコサックなのだろう。歌詞の内容は。帰国後ネットで調べてみると、確かにコサックのロシア民謡で、1837年発表された詩らしい。時代とともに歌詞やメロディーが少しずつ変わって、今の曲になっているそうだ。戦争と死がテーマだ。傷ついた兵士が野に横たわっている。その頭上を黒いカラス(やはり不吉)が舞っている。兵士は黒いカラス(ワタリガラス)に話しかける。「自分はまだ死んでいない。黒いカラスよ、故郷の『静かなるドン』(ドン川流域は当時ドン・コサックの故郷)へ飛んで行って、母や父や若い妻に・・・」という内容だ。そのコサックは、敵、つまり、ロシア帝国の侵略に頑強に反撃したカフカスの山の民、チェチェン人やチェルケス人と戦ったのだ。ロシア帝国側から見れば、自分たちの味方が敵にやられている。しかし、侵略された山岳民から見た歌はないのだろうか。それはあるだろう。しかし、チェチェン語(バイナフ語)やチェルケス語で。
テーブルの上にはお菓子やお茶、ワインの瓶も並んでいる。コサックの軍服の男性(地元らしい)が5,6人と、女性のコサック衣装と言うのも、もちろんあって一人の女性が身につけて並んで座っていた。
私とナターシャはあまり長居することなく帰途に就く。お土産に人形作家の作った天使と、タイム茶の葉っぱをもらう。ちなみにナターシャの父方の祖先はザポロージェ・コサック(ザポロージャ地方は現在はウクライナ中央)だった。革命後粛清されている。 ナターシャの母アザ・ペトロ―ブナ Аза(Анна) Петровнаの祖父は革命前はエラブガ Елабуга(タタルスタン共和国カマ川ほとり)で穀物などを扱う大商人だった。祖母は貴族出身だったとか。しかし革命後は粛清されている。 『ニキータの館』に帰り、ニキータ一家のブロック(居住部分)にお客に行く。彼らは快適な家に住もうとは思っていない。2008年に来た時と変わらない質素な数部屋に住んでいる。収入の多くを旅行とか別なことに使っているのだろう。 |
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オリホン島北部観光 | ||||||||||||||||
10時レセプション前出発の観光ワンボックス・カーに乗って、今度は北コースへ出発。この日の運転手はヴァシーリーと言って、ウラン・ウデ出身。20年も前にオリホン島に来たそうだ。先祖を聞いてみると、祖父はポーランド人、祖母はロシアの中部のボロネジ出身だそうだ。いつものように助手席に座らせてもらう。後ろの席にはロシア語の全くわからない中国人が6,7人乗っていた。どこから来たのか聞いてみてもわからないから、手帳に書いてもらった。上海の漢字は解読できたが残り2都市は私には不明。 最初の観光スポットは、昨日も行ったハランツィ湾だ。この時間は10台近い車が止まっていて、観光客も多かった(全員が中国、韓国系)。ヴァシーリーが「1時間休憩」と言うと、後ろの中国人は降りて、思い思いの氷の写真を撮りに散らばる。私達の運転手のヴァシーリーは乗客が自由に過ごしている間は暇なので、他の車の運転手とおしゃべりしている。だから、彼は、2日前のゲーナのように、ちょっと離れたところに泊めないで、ワンボックス・カー群の真ん中に止めたのだ。 大勢のツーリストがいたが、目立ったのは真紅の地に鶴と梅の刺繍のある着物を着た女性だ。ウサギや花の模様のある赤い裳も履いている。いったいどこの民族衣装だろう。彼女の写真も撮らせてもらった。 1時間も氷に見とれているほどのことはないので車に入る。外は寒い。車内も寒い。1時間以上待っても後ろの席の乗客は戻ってこなかった。それで、私は運転手にちょっと文句を言ったのだ。「1時間の停車の予定の時は50分と言うようにして」と。 やっと、人数がそろって出発。すぐ近くの『わに島』へ行く。わにのかたちをしているように見えるので旅行者相手にそう言っているのかもしれない。たぶんブリヤート語の名前があるのだろう。ここで止まった時は、ヴァシーリーではなく、私が停車時間を英語で宣告した。 入り組んだ氷の坂があって、子供が滑って遊んでいた。これは面白そうだ。子供同士がけんかして泣いていたり、親に叱られて膨れている子供もいたりして面白かった。こうした楽しい日常的な光景を見ていると、自分がロシアに来たのではなく、中国に来ているような錯覚にとらわれる。 フジールから20キロも北にペスチャナヤ Песчаная(砂の意)と言う無人の集落がある。ここには1950年代まで強制収容所のバラックと鉄条網があった。ラトビア人や西ウクライナ人、ベロルシア人、ポーランド人など27か国人が収容され、漁業に従事させられていた。1956年スターリン死後、恩赦が出て故郷に帰れるようになっても一部の元強制移住者が住んでいた。今はその最後の住民も去るか死に、バラックの残骸や、砂地の上に板を引いた道だけが残っている。また、1992年に、ラトビア人が建てたという≪Это место помнит страдания жертв репрессий середины XX века この地は20世紀半ばの粛清の犠牲者の苦難を覚えている≫と書いた札のある八端十字架が建っている。 ペスチャノエの近くで氷上から島内に入る。ここはもう島の北部で森林におおわれている。林道を行く。ツーリストを乗せた車が通って広げたような林道で車輪の跡や急な曲がり角が多い。ときどき見晴らしの良い草原(雪原)も通る。助手席に乗っていて、前方がよく見えて快適だ。向こうから、見慣れない形のマイクロバスが数台やってくる。車のナンバーは、ロシアのものではない。運転手のヴァシーリーが、中国から直接、ツーリストを乗せて来た車だという。もちろん、中国とは陸続きだし、イルクーツクからモンゴルに出入りする通関所もある(通関所は何カ所かあるが第3国人が通れるのは2カ所だけ)。 中国ナンバーの車は、高駆動車なのか、雪原の中、自由に自分たちの道を通って進んでいく。 オリホン島の北端のハボイ Хобой岬にはいかない。ここへは夏に湖上を航行するか、陸路で行ける。冬場、島の北へは、氷上を通行するのは難しいらしい。島の北はマーロエ・モーレが広くなり(もう『マーロエ・小さい』ではなくなる)、風が強くて氷上が平らではないのだろう。(合法的にはバイカルの氷上は、棒が立っている公式氷上路の他は通行禁止である)。陸路も、北部の森林地帯は除雪されていない。だから、北端のハボイ岬から10キロは南の、島の東北岸のウズールィ Узуры(ブリヤート語で端、てっぺんの意)村というところまで行く。ここは公式の住民は9人(2012年)。島の東岸には、集落はハガ・ヤマン湾 Хага-Яманに面するこのウズールィしかない。ここには気象台があるからだ。(紀元前4000年―2000年の親石器時代の遺跡もここで発掘されているそうだ)
村や気象台は通り過ぎただけで、ハガ・ヤマン湾に降りる。オリホン島の東北はバイカルでも最深の1605メートルの場所も近い。そのせいで、つららや逆つらら(サスーイ)はマーロエ・モーレ側と異なるのかどうかわからないが、より雄大でより青い。大きなガラスのように透明な氷が、縦に並んでいたりする。これは湖面に張った氷が、持ちあげられて、垂直や斜めに立っているのだ。斜めの『ガラス板』は乗っても割れない。 ここも観光スポットなので、何台もウアズが止まっている。その一台のウアズの運転手に見覚えがある。先日図書館で『オリホン島のコサック会』に出席していた青年だった。今もコサックの外套を身に着けている。「私のこと覚えてる?」と話しかけると「もちろん」という答え。それで一緒に写真を撮った。 帰りもほぼ同じコースでペスシャンカまでくる。そこから湖上に出たのだが、ゆっくり進んでいると透明な湖面のところが見つかった。それで運転手のヴァシーリィに、ここで降りて写真を撮ることはできないかと聞く。ヴァシーリィが止めてくれたので、後ろの中国人の乗客に「5分。写真」と英語で告げて降りる。言葉の通じる運転手の助手席に座らせてもらうと、自分の思うところで写真が撮れて助かる。 4時過ぎに帰る。この日夕方、またマッサージしてもらった。この日はオリガと言うイルクーツク出身、モスクワで学んだという30歳くらいの女性で、彼女が『ニキータの館』専属のマッサージ師なのだそうだ。 夕食後、ニキータがレーナ Толмачева Елена Витальевнаと言う『館』専属の芸術家を紹介してくれる。彼女はブリヤート人、イルクーツクの芸術大学を出て油絵を描いている。スマホにある自分の作品の写真を見せてくれたが、私は彼女の絵が好きだ。レーナは『館』のスタッフだ。室内のインテリアでも手掛けているのか。『館』のスタッフはスタッフ用の部屋(それはツーリスト用の新しい棟ではなく、初期に建てられた古い棟にある)に住み、食事もスタッフ用の食堂があるそうだ。給料は出来高払いで、例えば、インテリアなどの仕事を頼まれて、その都度受け取る。いつも何か仕事があるそうだ。 |
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氷上の長い割れ目 | ||||||||||||||||
割れ目は新鮮でまだ雪も積もってなく、透明だった。自然の美だ。 こんな割れ目があると、車では通行できないだろう。割れ目とは反対に地層が動いた(寄って盛り上がった)ところでは、湖上の氷も盛り上がる。そんなところも通行できない。 割れ目にはまってみた。深さ30‐40センチくらいで、これはバイカルの氷の厚さか。腰掛けたり、寝たり起きたりしてみる。しばらくは割れ目に沿って歩く。 アレクサンドルと旧漁業コルホーズの建物群までくる。そこで陸に上がる。水産工場や漁船などは、半ば廃墟となっている。オリホン島には様々なツーリストが往来するが、芸術家(の卵)も多い。彼らは、廃墟の工場の壁や、漁船の側面に、思い思いの絵を描いていった。大きなキャンバスだ。思いっきり好きな絵が描けただろう。アレクサンドルはこれら落書きが気に入っていると言って、写真を撮っている。バイカルでは、2017年10月から美味しい特産のバイカル・オームリ(マス科)は漁獲停止になっている。 水産工場跡から、フジールの『目抜き通り(レーニン通り)』を通って『館』に帰る。途中で先日の図書館があったので入ってみた。先日以来『コサック』と言うテーマに力を入れているようで、入り口近くの目立つ書架に、コサック特集が並んでいて『オリホン島のコサック』という新しいパンフまであった。 午後からは、ルミャンツェヴァ宅によって、折り紙と資生堂化粧品を届ける。と言うのも、先日訪問の折、(日本からのお土産はなかったのに)マフラーをもらったし、学校訪問の時一人の生徒が折り鶴(ちぎったノートに折った)をプレゼントしてくれたからだ。資生堂化粧品はロシアでも人気だそうだ。私はたまたま自分用に新品の日焼け止め美容液を持参していたのだ(それはたまたま購入したもので、私はあまり顔に塗り物はしない)。 オリガにまたマッサージしてもらう。オリホン島で最も気に入ったものの一つは彼女のマッサージだ。(たぶん旅先のオリホン島だから気に入ったのだろう。)オリガは日本に行きたいと言っている。ニキータは年に2,3グループをボーナス代わりと日本での仕事を兼ねて、一緒に日本に来ている(ビザ手続きはニキータがするが、飛行機代は自費と言うこともあるそうだ)。これまで3グループ以上は来日している。その都度、観光案内もしてあげた。ニキータは2018年花見のころに『館』のスタッフ6人と、日本との交流グループ2人と、資産家の観光客二人で日本に来ると言っている。スタッフ6人のうちの二人は芸術家のレーナとマッサージのオリガだ。 (後記:その後も2019年まで数組のグループがニキータ経由で来日したが、2020年から新型コロナ流行で国境通過が難しくなった)。 |
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