クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 06 May, 2018 (追記:2018年6月8日、9月28日、2019年12月26日、2022年1月11日)
36−(4)   極寒のクラスノヤルスクとバイカル(4)
クラスノヤルスク市
             2018年1月28日から2月13日(のうちの2月3日から2月4日)

Путешествие в Красноярске и на Байкале эимой 2018 года (28.01.2018−13.02.2018)

 極寒のクラスノヤルスクとモティギノ (地図
1 1/28-1/29 クラスノヤルスク着 スラーヴァ・ルィヒン エニセイ街道 モティギノ着 (地図)
2 1/30-1/31 飛行場。学校 パルチザン金鉱 南エニセイスク。ラズドリンスク モティギノ博物館
3 2/1-2/2 モティギノの病院 ドラマ劇場、ルィブノエ村 遠回りのカンスク経由 バライ村村長、クラスノヤルスク市へ
4 2/3-2/4 見張り塔(礼拝堂)(市内地図) ファン・パーク ダーチャ イルクーツクへ
 氷のバイカル
5 2/5 ヤクーチア郵便街道を(地図) バイカルの娘たち 『バイカルのさすらい人』 『ニキータの館』
6 2/6-2/7 フジール村再会 オリホン島南観光 氷上バレー ドイツ人メルツ校長
7 2/8-2/10 フジールの学校 ハランツィ湾の氷 北コース観光 氷上の長い割れ目
8 2/11-2/13 イルクーツクへ戻る ポーランド・カトリック教会(地図) コルチャーク像 ハバロフスクのタクシー
 見張り塔(現在は礼拝堂)
1.コムナリ橋  2.クラスノヤルスク・ラボーチィ誌通り  3.ニーナさんのマンション  4.ホテル・ドーマ  5.「エニセイの灯」ホテル  6.ディーマさんのオフィス  7.見張り塔跡  8. オペラ・バレー劇場  9.バザイハ村 10.バヴローヴィ・ロック 11.マヤーク・ダーチャ団地 12.シベリア大学 13.スキー場 14.クラスノヤルスク駅 15.第4の橋
クラスノヤルスク市と近郊
 2月3日は終日クラスノヤルスクだ。自分で動くこともできたが、面倒なのでディーマさんに車を頼む。10時ごろ迎えに来てくれたのはディーマの会社の副ディレクターのミハイル・ミハイロヴィッチ。ホテルの部屋はどうだったかと聞かれたので、寒かったと答える。先日スラーヴァが泊まった同ホテルの部屋も寒かったそうだ。シベリアで寒い部屋と言うのは調度品や設備が良くても評価が低い。(シベリア人が日本へ来た時も自分たちの評価で測るから、涼しい部屋に泊めてはいけない)。ミハイル・ミハイロヴィッチはホテルに小言を言ったようだ。後のことになるが、その日、夕方ホテルに戻ってみると、部屋に小型電熱がついていた。

 まず、ディーマさんの会社の事務室へ行って、列車の代金を円で払う。釣銭は不要。12時ごろにディーマさん運転のランクルで出かけたが、どこへ行こうか。昔からの名所、見張り塔があった崖の上の礼拝堂にでも行くか。クラスノヤルスクのシンボルとでもいうところで、他の名所は最近できたかもしれないが、市内ではこれは古典的な名所だ。
ディーマの会社のオフィスで、
ミハイル・ミハイロヴィッチとスラーヴァ
礼拝堂のある『見張り山』
『見張り山』から見たクラスノヤルスク市
中心地の広場。クラスノヤルスク・ホテル前の
噴水の階段(夏季のみ)と氷の彫刻
アリーナとディマ

 エニセイ川上流は、エニセイ・キルギスが住んでいた。(中流はトゥングース人、下流はネネツ人だったらしい)。現在のクラスノヤルスクは中流の上流にあり、エニセイ・キルギスのカーチンツィКатинцы(その名からカーチャ川と言う地名ができた、またはその逆)が住んでいた。17世紀、北西オビ川右岸支流ケーチ Кеть川にできたケーチ砦からのケーチ・コサックが、カーチャ川がエニセイ川に注ぎ込むところに、シベリア進出のための前線基地(砦)を作った。ロシア帝国のシベリア膨張は西から東へ、北から南へと進んでいる。カーチャ川辺の『カーチンスク』砦は先住民の攻撃に耐えられず、エニセイ・コサックに助けを求めたそうだ。それで1628年、ドゥベンスキー Дубенскийを頭とするエニセイスクからのコサック隊300人が、エニセイ川に沿ってカーチャ川合流点までさかのぼり、ロケーションもいいからと、当時のイヴァン4世(雷帝)の許可も受けて南シベリア前線基地『新カーチンスク』砦を作った。もともとは先住民の地にできた基地なので、毛皮税を徴収するロシア帝国のコサックのその基地は何度も襲撃を受け、包囲された。それで先住民の襲撃を見張るためにできたのが、エニセイ左岸の崖上見張り塔だった。そこからはエニセイ川の川上、川下やカーチャ川が見晴らせる。エニセイ・キルギスの部族の一つであるエゼル部 Езерский улусはそれまでは、一帯を広く勢力下に収め、税を徴収していた。だから『新カーチンスク』砦に記録に残っているだけでも1667年、1679年と侵入者ロシア帝国の砦に大襲撃を加えた。
 強力なエニセイ・キルギス(エゼル部)の反撃にあって、ロシア帝国のコサック隊は、カーチンスク砦は持ちこたえたが、これ以上南には膨張できなかったのだ。実際にロシア帝国が南シベリアを支配下に置くのはその100年も後のことだった。
 1927年考古学者テプロウーソフ С. А. Теплоуховの調査によると見張り塔のあった崖上(ロシア語では『見張り山』と言う)から13‐14世紀の遺品が多く発掘された。チュルク語系のキルギスより以前に一帯を遊牧していたエニセイ語族アーリンツィ(アリン人)のものかもしれない。カーチンツィはこの崖(山)をクム・テゲイ Кум-тэгей (チュルク語で砂の頂上・山≪песчаная вершина/сопка≫)と呼んで、おそらくは神聖な山だったのだろう。この地の支配者たちの墓地でもあったのだろう。
 『新カーチンスク』砦の住民(ロシアからの移住者)は増え、17世紀後半には新砦を立て『大砦』と改名し、1690年には、砦から始まった集落はエニセイ左岸の赤い(クラスヌィ)断崖(ヤール)に建っていたので『クラスノヤルスク市』となった。19世紀初め、見張り塔のあった崖上に礼拝堂パラスケヴァ・ピャトニツァ Часовня Параскевы Пятницыが建てられた。1992年、私が初めて訪れた時は、穴の開いた屋根と壁だけで中は猫の尿の匂いがしたものだ。2012年頃には、礼拝堂は修理され、屋根は緑に、壁は白く、外壁の一面には大きく聖人のフレスコ画が描かれ、内部の壁には聖画かかけられ、その前にはろうそく立てがあるような、ちゃんとした礼拝堂に修理されていた。聖画やろうそくを売るおばあさんもいるようになった。
礼拝堂
 ここはクラスノヤルスク市の半分が見えるところだ。だから一気にクラスノヤルスク観光をしたことになる。礼拝堂前広場に、新しい碑が建っていた。土台が石でできた十字架で、由来が刻んである。『この場所には以前は木製、後には鉄製の十字架があり、1667年と1679年の先住民(エニセイ・キルギスの、つまりイレネク指揮のエゼル部族)の襲撃からこの町を救おうとして倒れたコサックたちをしのんで、毎年、十字行(*)が行われていた』と刻んである。不公平な歴史の見方だ。先住民は無視されている。  
(*)正教会における復活大際などの時に奉神礼として聖堂の周りを、聖歌をうたいながら行列・行進して聖堂に戻る
 (トゥヴァで知り合ったヴィチェスラフ・カンザイさんは、自分はカーチンツィ出身だと言っていた。自分達の祖先の地が奪われて、ミヌシンスク盆地のもっと南のトゥヴァ盆地まで一族が移住したらしい。クラスノヤルスク人は当然のように自分たちの『故郷』クラスノヤルスクに住んでいると言うが。)

 空は真っ青な快晴だったが、崖上から眺めた町は曇っていた。17世紀にはなかったスモッグのせいだろう。寒かった。30分ぐらいで下に降り、オペラ劇場前の広場に出る。ここは市の中心でコムナリ橋を渡るとエニセイ右岸に出られる。広場にはオペラ劇場の他にクラスノヤルスク・ホテルや市役所が面していて、近くの川岸に降りる階段にはエニセイ川の伝説からとった噴水のある彫刻があり(冬は水は出ない)、氷の彫刻も並んでいる(すべてここ10年ばかりにできた新名所)。お祭り広場と言ったところだ。一渡り見たところでホテル横の喫茶店に入る。ディーマはウエイトレスの女の子と親しそうに話している。アリーナと呼んでいたので、はっと思い出したが、アリーナはディーマの長女だ。ディーマは以前、娘の将来を考えて、イギリスに留学させようか、日本に留学させようかと考えていたようだが、アリーナはあまり勉強が好きではないらしい。ディーマが話してくれたところによると、アリーナは上の学校には進まないで、喫茶店でバイトをして、やりたいことをやるための資金を貯めているそうだ。父親のディーマはそのためのお金は出さないと言ったからだ。実はこの時、父親のディーマは娘の計画を初めて知ったのだが、貯めたお金でイスラエルへ行くそうだ。帰りはいつか分からない。イスラエルで何をするかも決めてない。ただ、ボーイフレンドといっしょに行く。往きの旅費はもう溜まったから、近々出発する。帰りの旅費は現地でバイトでもして貯めるそうだ。娘の計画を母親はまだ知らない。ボーイフレンドと言うのはユダヤ人だ。
 喫茶店では食事ができないので、レストランで食事。ディーマはアリーナも合流するよう勧めたが、彼女は現れなかった。
 ファン・パーク『バブローヴィー・ロック』
 まだ3時半、右岸バザイハ村のファン・パーク『バブローヴィー・ロック Фан-парк ≪Бобровый лог』でも行こう。ここはクラスノヤルスクの見張り塔と並ぶ古典的な名所の一つで今はユネスコ世界遺産に登録されている『岩山公園 Красноярские столбы』がある。ロッククライミングができる。数年前には近くに動物園ができ、また冬はスキー場となる。ロープウェイがあって、スキー・シーズンでなくてもバザイハ山の頂上まで登れる。
『バブローヴィー・ロック』スキー場
ロープウェーで登ったバザイハ山
クラスノヤルスクの町が見えるが、
中心地はスモッグがかぶさっている。
高台だけスモッグに浮かぶ島のように見えた。

 スキー・シーズンの今、バブローヴィー・ロックはにぎわっていた。ロープウェイ(チェアリフト)で上に上る。スキーヤーが多いが、スキーも履かずにただ乗っているグループもいる。ロシアのチェアリフトは下にネット張ってないので、地面よりかなり高いところを通るときは怖い。そしてものすごく寒い。ディーマさんと二人で座る。
 頂上はやや平らなところがあって、喫茶店が開いている。夏場ならバーベキュー用バンガローが使える。またこの頂上から滑る難易度の異なるいくつものコースがある。
 チェアに乗って下へ降り、下のカフェでまた軽食。
 バブローヴィー・ロックのバザイハ村を去り、『第4の橋』を渡って左岸に出て、モティギノへ出発する日に寄ったディーマの会社の建設中の店舗と事務所に寄り、2枚ほど写真を撮って、シベリア連邦大学の近くにあるショッピング・センター前で降ろしてもらう。ここで、ネットで知り合った日本人女性と会うためだ。1月中旬クラスノヤルスクの気温が零下40度を下がったとFBに書いてあった彼女のページに、クラスノヤルスクへ1月末から2月初めに行くと書いたところ、お会いしましょうとなったのだ。そのずっと前から数回メールの往復はあった。
 モティギノへ行っていたので彼女と会えるのはこの日しかない。シベリア連邦大学から最も近い適当なカフェはどこかとミハイル・ミハイロヴィッチに聞いて、昨日、ここと決めて連絡しておいたのだ。2004年までの私のクラスノヤルスク滞在中は、このショッピン・センターは乱雑半壊で、治安も悪そうで、座って話などできるところではなかった。今見ると高級そうな品物がウィンドウに並んでいる。
 彼女と2時間ほど話す。注文したスープはとてもまずくて、完食できなかった。約束の2時間後ディーマさんが私の降りたショッピング・センターの駐車場まで迎えに来てくれた。
 ダーチャ(アッパーミドル層の)
ディーマさんのダーチャ
建設中のダーチャ2階で
地下室保存の瓶詰
「そんなにたくさん薪はいらないよ」
『ソープカ』でスキー教室
 2月4日(日)も10時ごろディーマさんが迎えに来てくれ、私は荷物をもってホテルを後にした。ディーマさんのランクルに乗ってみると長男のヴラーディック君が後ろに座っていた。彼は小さい時から活発だった。活発と言うより一瞬でもじっとしておられない、多動児と言ってもいいかもしれない。9歳の今、多動は好ましい活発さに見える。
 昨日話題になっていたディーマさんの建設中のダーチャへ行く。ダーチャはエニセイ左岸上流のマヤーク(灯台の意)団地にある。ダーチャの場所としては悪くない。エニセイ河川運航会社の社員のダーチャ団地だったが、医師夫妻が購入し、それを8年程前にディーマさんが購入した。建物はそれほど古くはなかった。7年前にはディーマさんの奥さんのリューダさんに案内して見せてもらったものだ。今、完全に建て直しをしていると言う。つまり古い建物は撤去して新しく建てた。新築中の建物が見たいと言ったので出かけることになったのだ。ダーチャの敷地内にはまっすぐで高く細いマツや、こんもりとしたトウヒの幼木が何本か生えていた。木は残して古い家だけ壊して新築したようだ。
 ディーマさんのダーチャは地下室付きの2階建て、内装の他はほぼ完成していて、未完だが階段を伝って2階へも登れる。大工道具が置いてあった。日曜日なので大工さんの仕事は休みなのか。ヴラーディックはさっそく何かの板切れにくぎを打つ。ヴラーディックでなくとも、釘の箱、金づち、たくさんある板切れを見たら、何か作りたくなるものだ。仕上がっていない階段の周りは平行運動にちょうどいい板が渡してある。これもヴラーディックは試す。跨いで落ちそうになり父親に注意されている。窓ガラスは入っていたが、割れ目が走っていた。新築の時からひびの入ったガラス窓でいいのか。どうしてひびがあるのかと聞くと、取り付けの時の手際の悪さだと言う。そんな建築業者では困るではないか。が、ロシアはこんなものだ。
 重い扉を開けて(ディーマさんは鍵を持っている)地下室へ下りてみる。壁際に作られた棚にはもう瓶詰がずらりと並んでいる。いいなあ。
 庭に出る。ここには斧があった。ヴラーディックは早速そこらの木をたたき割る。日本の9歳の男の子はとてもまねができない、と思う。私がやると自分の足を割るかもしれない。傍で静かに見ていた父親のディーマは、そんなにたくさん薪はいらないからもうやめておけと言う。
 敷地内にはもちろん立派な蒸し風呂小屋がある。蒸したり休んだりするための部屋もあって、飲み物(ウォッカ)が飲め、おつまみがつまめるテーブルもある。こちらの方はほぼ完成して何度か試したらしい。お風呂が苦手なロシア人に私は会ったこともない。2階には遊戯室もあり、ベランダには、魚釣りの好きなディーマさんが釣った魚を保存用の干し魚にする箱も、もうできている。すべて完成すれば、市内の狭いマンションより、こちらに住むことになるかもしれない。マヤーク団地からは市内まで車なら30分で行ける。

 シベリア連邦大学裏のスキー場へ行った。ここには古くからTバーリフトsurface lift(地表リフト)の設備があるニコラエフカ丘スキー場だったが、そうした古い設備は取り払われ、2019年冬季開催のユニヴァーシアードの会場の一つ『ソープカ(丘の意)』が準備されている。近くにはクラスノヤルスク・アカデミー・バイアスロン会場もあるらしい。その横で子供のためのスキー教室があり、ヴラーディックも習っている。この日は別のグループの日で、やはりちびっ子たちが滑っていた。私たちは見ていただけだ、と言ってもヴラーディックはとびまわっていた。先生にあいさつに行き、雪の上をスキーなしで転がっている。
 
 イルクーツクへの列車
 ヴラーディックを家に送り届けて、ディーマとピザを急いで食べ、駅まで送ってもらう。イルクーツク行きの列車の発車5分前に駅に着き、スーツケースはディーマが持ってくれたとはいえ、長い階段を登って、線路上の通路をプラットホームに降りる階段まで走った時は本当に息が切れた。(息の切れようが尋常ではなかったので、帰国後病院に行って心肺機能を調べてもらったほどだ)。私の寝台のある車両を探す暇もなく、近くのドアからチケットを見せてとにかく乗車。私より遅れてきた夫婦が入ったところで、ごつい感じの車掌がステップを上げドアを閉めると、列車は動き出す。私はスーツケースを転がして、車両から車両を歩き、自分の番号の寝台を探す。
 コンパートメントの上段が取れていた。とってくれたディーマさんによると、下段はもう売り切れだったとか。私のコンパートメントの番号を探し当てて入ってみると、下段に男性が一人座っていた。彼とは1088キロの道のり17時間12分の間、一言もしゃべらなかった。暗くなった頃もう一人男性が乗ってきて、その前からの男性の上段にシーツを敷いていた。私の下段には夜中に母親と娘が乗ってきて二人で互い違いに寝ていた。誰とも一言もしゃべらなかった。イルクーツクとクラスノヤルスク間の列車には何度も乗ったが、今回は寝ているだけの退屈な時間だった。
 初日にディーマさんとクラスノヤルスクでの予定を決めた時、クラスノヤルスクからイルクーツクへ移動する日にちと時間から決めた列車は9時23分(現地時間は13時23分)クラスノヤルスク発、イルクーツク2時35分(現地時間6時35分)着の『ヴォストーク(東の意)』号だった(列車の時刻は常にモスクワ時)。『ヴォストーク』号といえば、モスクワからウラジオストックのブランド物の特急列車のはずだ。購入したのは、途中のチェリャービンスク駅からけん引される車両の席らしい。もしかして、そのまた途中のオムスクからウラジオストックまでけん引される車両だったかもしれない。『ヴァストーク』号は、快適な車両のはずだが、牽引されている車両は昔からの、トイレもペダルを踏むと線路が見えるような古い車両だった。値段は一緒だ。上段では窓が低くて腹ばいにならなくては外が見えない。
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