と滞在後記
В Красноярске Welcome to my homepage
up date | 17 July, 2012 | (校正2012年7月26日, 8月2日, 8月9日、2015年2月3日, 2018年1月2日,2019年12月3日、2021年9月17日、2022年9月14日) |
29-1-(2) 2011年黄金の秋、クラスノヤルスク(2) エニセイ川右岸名所 2011年9月28日から10月20日(のうちの9月30日) |
В 2011 году в Красноярске(с 28.09.2011 по 20.10.2011)
1 | 北京経由クラスノヤルスク | リューダさんのダーチャ | ダーチャとコッテージ | 大都市の中の旧『ニコラエフカ自由村』 | |
2 | エニセイ右岸新旧の名所を行く | スリズニェーヴォ絶壁 | オフシャンカ村 | 『もの思わしげな』マナ川 | 『ビーバーの谷』パーク |
3 | 『プーチン』橋からソスノヴォボルスク町 | 旧・閉鎖町パドゴルヌィ | ニンジン畑 | 『レッド・リング』レース場 | |
4 | アフォントヴァ・ガラ遺跡 | ユージン図書館 | クルトフスキー植物園方面 | 旧ミサイル基地町ケドローヴィ | 『13戦士記念』村 |
5 | 再度アフォントヴァ・ガラ遺跡 | エニセイ左岸名所『ビック』と | ウスペンスキー修道院 | 崖の上のアカデムガラドク | |
新シベリア街道の旅(クラスノヤルスク・ノヴォシビリスク・オムスク) | ハカシア・ミヌシンスク盆地への旅 | アンガラ河口のウスチ・トウングースカ |
クラスノヤルスク南西部 1.クラスノヤルスク旧市街 2.コムナリヌィ橋 3.クラスノヤルスク駅 4.鉄道橋 5.アカデムガラドク 6.ソースヌィ 7.ウダーチヌィ 8.マヤーク 9.バザイハ山(タワー山) 10.バザイハ村 11.ビーバーの谷 12.ローエフ・ルチェイ動物園 13.ストルブィ自然保護公園 14.エニセイ駅 15.シベリア幹線鉄道 16.クラスノヤルスク・ジヴノゴルスク支線 17.ニコラエフカ 18.グレミャーチィ・ロック エニセイ川の流れは、地図では左から右へ |
||||||||||||
エニセイ右岸、新旧の観光名所を行く | ||||||||||||
迂回路を通って、コムナリニィ橋に出て、エニセイ川右岸に渡り、エニセイ川と並んで上流へ、スヴェルドロフスカヤという長い通りを走る(地図では赤色)。ここは連邦道M54号線の始発(2のコムナリ橋の黄色の通りとスヴェルドフスカヤ通りが交わる広場)だ。M54号線はクラスノヤルスク中心地を出ると、30キロは右岸を遡って走り、クラスノヤルスク発電所の手前で左岸に移り、さらに、エニセイ川を遡るように南下して、ハカシア共和国を通りぬけ、トゥヴァ共和国(両共和国ともロシア連邦の自治体)のモンゴルとの国境まで続いている。 最近は、クラスノヤルスク南部やハカシア方面へ行く時は、M54号線で市内を出ないで、一旦、広い新道(連邦道M53号線)を通って西北の飛行場方面まで行き、そこから南下するザレディエヴォ迂回路を通っている。というのは、M54号線では、途中の発電所までの道路(30キロほど)が古いのだ。道路幅が狭く、今では、交通量も多いうえに、東サヤン山脈のエニセイ川峡谷を通っているので、急坂やヘヤピン・カーブが多く、スピードが出せない。 昔、ザレディエヴォ迂回路ができるまで、スヴェルドロフスカヤ通りに続くM54号線は、唯一の南側への出口だったので、よく通ったものだ。(1999年、トゥヴァへ向かった時のこと、しかし、その年は発電所手前の橋が工事中で通れなかったので、往きはアーチンスクまで100キロほど遠回りをしなくてはならなかったものだ) スヴェルドロフスカヤ通りとエニセイ川との間にはシベリア幹線鉄道が走り、鉄道がクラスノヤルスク駅に向けてエニセイ川を渡ってしまう辺りは、昔はすっかり町外れだった。そのせいか、公害が問題になっている製薬工場が建っている。この鉄道の曲がり角に、急行は止まらない小さなエニセイ駅がある。シベリア幹線鉄道はここで、前述のようにエニセイを渡るのだが、そこから分かれてエニセイ駅より上流には、ジヴィノゴルスク市まで単線の支線が通っている。エニセイ・ジヴィノゴルスク線と言って、延長31キロ。クラスノヤルスク発電所建設と発電所町ジヴィノゴルスクを結ぶために1962年開通した。 M54号線(の始発のスヴェルドロフスカヤ通り)は、エニセイ駅と製薬工場も通り過ぎると、緑が増え、幾つかの新旧のクラスノヤルスク名所に出る。 古くからの名所としては、自然保護区『クラスノヤルスク・ストルブィКрасноярские Столбыクラスノヤルスクの柱の意、つまり岩山群)』があって、ロック・クライミングの名所でもある。クラスノヤルスクからバイカル湖までの南シベリアを、1000キロにわたって西北西から島南東に伸びる東サヤン山脈の北西支脈をエニセイが削って南北に流れたために、岩山群(モナドノック、残丘)は、右岸にも左岸にもあるが、右岸の『クラスノヤルスク・ストルブィ』は1925年から国立自然保護区域として名高く、面積も広い。 『クラスノヤルスク・ストルブィ』への古くからの登り道の手前に、古いバザイハ村があり、その横に今日の目的地ファンパーク『ボブローヴィ・ロック(Бобровый логビーバーの谷)』がある。元々は、アルペン・スキー場だが、通年楽しめるところ、つまり、ファンパーク(総合スポーツ娯楽施設の意か)となっている。ストルブィ自然保護区との堺あたりの300メートルの高さ(ここを、バビローヴィ・ロック『山』という、冬はここから滑る)まで、ロープウェイで登れるので、以前のように、急坂だが自然を楽しみながらハイキングコースを上らなくてもよくなった。このロープウェイに乗って、2010年晩秋も訪れた。
ここが、今日の目的地だったが、後で行くことにして、先に進んだ。 自然保護区の北西斜面と国道の間には『ローエフ・ルチェイ( 掘って、洗った小川の意 Роев Ручей)』という動物園が2000年にできた。19世紀のゴールドラッシュ時代、今の自然保護区内でも砂金が採れ、金を掘って洗った川という意味でローエフと名付けられたそうだ。動物園はその小川の横にあるが、もともとは自然保護区内で傷ついた動物の保護をしていた『動物コーナー』が始まりだった。そういえば、1998年頃、知人といっしょにハイキング・コースを上ったことがあったが、『動物コーナー』と書いた矢印が途中にあった。歩き疲れていたのでそちらへは行かなかったが。 ローエフ・ルチェイ動物園ができてから、何度か訪れたことがある。 M54号線(その始発のスヴェルドロフスカヤ通り)は山側ばかりか、エニセイ川側にも名所がある。クルトフスキィ(果樹園)植物園だ。ここへは10月3日に訪れた。 この先にも自動車道の両側に緑が広がり、緑の間にダーチャが見える。ダーチャの場所としてロケーションはいいが、住宅区ではないので上下水道はない。農地でもない(らしい)ので電気は通っている。 クラスノヤルスクからジヴノゴルスクまでの鉄道支線はエニセイ右岸河岸段丘の下、川岸のすぐ近くの狭く細い平地を走っている。が、自動車道は低い河岸段丘の上を走っているので、特にこの辺から坂も多くなり、有名な『チョーシン・ユズィック(姑の舌)』と云うヘヤピン・カーブも現れる。チョーシンというのは夫の母ではなく、妻の母のことだが、妻の母の口出し(忠告、注文、依頼)が最もしつこくて断りにくく、男性にとっては大の苦手だったのか、その名がついた。長く伸びた舌のように2回転して、何でもからめ捕りそうだ。差別的な地名だと思う。 急坂なので、ブレーキが弱い車も昔は多かったのだろうか、曲がりきれない車のために緊急停止坂が設置してある。そこへ直進すれば坂道を登るようになってひとりでにブレーキがかかる。このような緊急停止坂は、シベリアをドライブしているとたびたび出会う。居眠り運転してカーブに気がつかなくても、ハンドルさえ無駄に切らなければ、この坂に上って、勝手に止まる。いつか、寒くて道が凍っていた時、この坂の途中で止まっていた古いトラックを見たことがあった。 東サヤン山脈がエニセイに向かって突き出ている所に道路ができているので景色はすばらしい。クラスノヤルスク滞在中は私のドライブ・コースの一つだった。冬、針葉樹に雪が積もりキラキラ輝いて、北の国のおとぎ話の世界のような中を、ゆっくり走るのも好きだった。 |
||||||||||||
スリズニェーヴォ絶壁(見晴らし台) | ||||||||||||
スヴェルドロフスカヤ通りがここで終わり、クラスノヤルスク市もここまでだ。自治体の境界線を越えたからと言ってすぐ次の自治体に入るわけではない。集落『間』地と言う地がある。しばらく行くと人口500人のスリズニェーヴォ村に出るのだが、その前に、また、ヘヤピン・カーブがあり、これは『スリズニェーヴォ坂』と名付けられている。その手前に1970年代に作られた見晴らし台があって、スリズニェーヴォ絶壁とも言う。 今回、まずは、リューダさんとここへ登った。
1992年、初めてクラスノヤルスクに来た時も、ここへ寄った。その時は、崩れかかった石段を上って、ゴミの散らかった見晴らし台に出たものだが、当時も今も眼下の景色はすばらしかった。エニセイ川の流れが見渡せ、川下の方には靄にかかった鉄道橋、此岸のスリズニェーヴォ村やオフシャンカ村の家々、対岸にはアフォントヴァ・ガラ斜面や、その少し上流のグレミャーチャ・グリーヴァ(丘)の緑が遠く見え、真下にはクラスノヤルスクから発電所町のジヴノゴルスク市へ行く鉄道支線が見える。 ここへは本当に何度も上った。息をのむほど雄大で、これがクラスノヤルスク市近郊の自然と村々だ、と見るたびに思ったものだ。ロシアでは、結婚式の後、シャンパンも持って『結びつけるところ』、つまり橋へ行く。橋は川に架かっているので水辺のあるところや、結婚式ではどこでも景色の素晴らしいところに車を繰り出して騒ぐことになっている。だから、この場所は、新婚カップルの主要巡礼地の一つで、日和がよければ何組ものカップルに会える。 いつ来ても、足場は悪かったが、見晴らしは最高。翼があったら飛びたい、と長い間エニセイを眺めていたものだ。その後、2004年だそうだが、整備され、駐車場もでき、石段も廃墟趣味ではなくなり、高台もブロックを敷きつめてこぎれいになった。駐車場にカフェ、高台には17世紀風見張り塔も建てる計画があるそうだ。 17世紀にカーチャ川河口にロシア帝国コサック兵の柵が作られ、カーチャ川右岸段丘(その名も『見張り丘』という)高台の上に、見張り塔が建てられた。先住のエニセイ語族や、チュルク語系、サモエード(サモディツィ)語族系部族からの襲撃(と、ロシア史には書いてあるが、先住民にとっては祖先からの地を守っていた)に備えるためだ。だから、ロシア人のクラスノヤルスク史は、17世紀に柵と見張り塔から始まった。クラスノヤルスク人には柵と見張り塔には特別の思いがある。このスリズニェーヴォ見晴台には17世紀にもその後も見張り塔が建てられたことはないが、ただ観光のために建てるのだろう。現在の見張り塔の1階はお土産店ができるそうだ。 今、スリズニェーヴォ見晴らし台には、作家アスターフィエフ(1924-2001)の小説『魚の王様』から、長さ4メートルもあるチョウザメの彫刻ができている。というのも、アスターフィエフはこの先のオフシャンカ村に生まれ、晩年には、またここに住んでいたからだ。 |
||||||||||||
オフシャンカ村 | ||||||||||||
そのオフシャンカ村には、アスターフィエフの図書館や博物館がある。アスターフィエフ名称図書館は2002年にできた。以前クラスノヤルスク市に住んでいた頃にも、何度か訪れたことがある。日本語訳されたアスターフィエフの本を贈呈したこともあった。
しかし、この日、図書館は休みだった。図書館の前で写真など撮っていると、村の井戸から水を汲んで運ぶ手押しタンクの村人が、「博物館なら開いているよ」と教えてくれた。 博物館は2つあって、村の入り口、つまり図書館から近い方がアスターフィエフのおばあさんの『エカチェリーナの家』、または中編の題名から取った『最後のあいさつ』博物館とも言うそうだ。7歳で孤児になったヴィクトル・アスターフィエブは祖母の家で子供時代を過ごしたからだ。テーブルで縫物をするおばあさんの下で幼い孫のアスターフィエフが木のおもちゃで遊んでいると言う実物大の像もあったが、当時の田舎の家の典型として保存されているという博物館だった。だから、住居だけではなく、物置も、貯蔵用地下室も菜園も当時のままにある。ガイドの眼鏡の男性(館長かもしれない)は、とうとうと作者の生涯について述べてくれた、が、途中で学童の団体が来て、そちらの方へ行ってしまった。博物館へは、学童が授業の一環として先生に引率されて訪れる。博物館内ではガイドが先生だ。だから、博物館のガイドは先生のように分かりやすく話せるものだ、しかも教訓も必ず入れて物語る。 もう一つの博物館は作者夫妻が晩年に住んだ家で、『アスターフィエフ記念博物館』と書かれている。2つの博物館はセットになっていて、まずは『おばあさんの家』から見てくださいと案内表示が出ている。 2つ目の博物館の方にも学童の団体が訪れていた。庭にはカリーナの赤い実や、シベリア・リンゴのサクランボくらいの大きさの実がたわわになっていて、その下に並んでベンチに座るアスターフィエフ夫妻の像があった。 オフシャンカ村の村外れには、クラスノヤルスク人のコッテージが建っている。この辺は市街地に近く環境もよく、村のインフラも使えるので、コッテージを建てるのに好都合だ。前記のように、クラスノヤルスク郊外にはこうしたコッテージ団地が、もう10か所以上はある。1990年代後半や2000年代初めには悪銭をため込んだ『ビジネスマン』が建てようとした立派な家が、ビジネスが破たんしたのか建築凍結の物件も多くあったものだ(その時の同行のロシア人の説明による)。 |
||||||||||||
『もの思わしげな』マナ川 | ||||||||||||
オフシャンカ村から、マナ川の河口のウスチ・マナ村までのM54号線の山際にもダーチャ団地が広がっている。そこだけ、森が切り開かれて、規定の面積(6アールが基本だった)に区画されて、中に小屋が建っている。市街地とダーチャ地ははっきりと区別されていた。今でも、住宅地、コッテージ地、非住宅・半農地のダーチャ地や、農村地など、土地利用方法が異なる。 マナ川はエニセイ右岸支流で、475キロとシベリアの川にしては短い。東サヤン山脈の1700メートルほどの高さの雪渓から流れ、針葉樹林帯やマナ・ストルブィ(マナの柱、つまり岩山)の中を通り、下流の40キロからはクラスノヤルスク・ストルブィ自然保護区の西を流れる。マナ川は人里離れた森林山地の絶景の中を流れ、岩場や急流もあり、難易度もそれなりなので、クラスノヤルスク地方ばかりか全ロシアのリフティング名所となっているそうだ。マナ川は1986年までは材木をいかだで流していた。また、2003年まで上流で金を採集していたそうだ。 『もの思わしげな』マナ川が『厳しい』エニセイ側に注ぎこむところに『ロマンチックな』ウスチ・マナ村があると、書かれているが、村は人口約1000人で、国道(連邦道)M54が通り、マナ川を渡る鉄道と自動車道の橋があって、埃っぽく、雨が降ると、すぐぬかるむごく普通のシベリアの村だ。が、村の奥にあるマナ・プリョースМанский плёс(プリョースは瀞・とろ、つまり、川の屈折の内側にある深い淵で流れが緩やかなところ)は、休日にクラスノヤルスク人が楽しむところの一つだ。ここで眺めるマナ川は、緑の絶壁に囲まれ、物思いに沈んだ乙女(マナは女性名詞)に見える。 マナ川は浅く、春の終わりになってようやく氷が流れ始める。その頃、エニセイ川はとうとうと流れているのに、マナ川は真っ白で、スノーモビールで走れる。
村の奥のマナ瀞のまだ先へと、マナ川を遡る舗装道を5キロほど登ると、マンスキィと言うコッテージ団地に出る。10年前までは副業経営の村だった。都市と農村の生活水準の差が大きかった当時(今でも)、都市生活者はたとえ近郊でも農村には興味はなかった。近郊でも道路は悪く、マイカー用インフラは普及していなかった。しかし、前述のように、この7,8年都市近郊には幾つものコッテージ団地が不動産資本によってつくられている。 三方が森に囲まれ、南側にマナ川が流れる高台にあるマンスキー団地も、一級クラスの富裕層向けコッテージ団地で、M54号線からは新しい舗装道路が敷かれ、上水設備もでき、商店、緊急医療施設もあって、団地内はガード・マンが警備しているそうだ。300ほど区画ができていて、そのうち半分は建設済みとか。不動産関係のネットを見ると、10アールで20万ルーブル(50万円)から。水道があるとその倍。土地や家は良い投資対象になるので、不動産ころがしも盛んなのか、12アールの敷地に216平米の2階レンガ建ての家と96平米のガレージがあると千2百万ルーブリ(3千万円)とネットにある。シベリアにしては高価なのだ。 10年程前にも、来たことがあるが、もちろん舗装道はなく、手入れのあまり行き届いてない果樹園などがあった。この日、リューダさんと車で一回りしてみると、農村の面影はなく、周りを高い塀で囲んだ新築の邸宅が舗装道路に沿って並んでいた。建設中の家も塀だけは高かった。 家の前にナナカマドを植えた木造の家も建っていて、こんな家に住んでみたいものだと思う。 ちなみに、M54号線を、マナ川を渡るとクラスノヤルスク発電所町ジヴノゴルスク市があって、さらに4キロほど行くと、発電所があり、その手前にエニセイ川左岸に渡る橋がある。ここからは400キロ上流のアバカン市までエニセイに橋はない。今回10月3日にジヴィノゴルスク方面まで行った。 |
||||||||||||
『ボブローヴィ・ロック(ビーバーの谷)』パーク | ||||||||||||
この日、9月30日はリューダさんと、マナ川の橋は渡らなくて、マンスキィ・コッテージ団地から降りてくると、またスヴェルドロフスカヤ通りまで戻って、ファンパーク『ボブローヴィ・ロック』に上った。 クラスノヤルスク自然保護区とバザイハ村の境界部分にあって、2004年、ノリリスク・ニッケル社の資本(25億ルーブル)と、クラスノヤルスク地方と市(2億76百万ルーブル)の出資で建設が始まり、2006年アルペン・スキー設備が完成、2007年にはアトラクション設備が完成した。バザイハ村にはバザイハ川護岸整備や村への電力供給の便などの補償をしたそうだ。(ソ連時代には、補償という慣習はなかった)。それどころか、バザイハ村の住民にとっては、『ビーバーの谷』パークに近いことで、土地の値段が高騰するという益があったと言う。しかし、村なので
ボブローヴィ・ロックは、シベリア第一の規模のスポーツ・レクレーション設備だそうだ。ゲレンデが14面と練習用斜面があり、そのうち7面は国際スキー連盟FIS基準に合致していると、ホームページに載っている。オーストリア製と言う4人掛けロープウェイが2本あって、手前の方が長さ857メートルで241メートルの高さまで上れ、奥の方が長さ1470メートルで、高さ345メートルまで、約6分で登れるそうだ。夏期シーズンは大型円形プールと日光浴用『ビーチ』がある。ボブスレー式ジェットコースター(長さ3.4キロでユーラシア1とか?)をはじめ大人も子供も楽しめるアトラクションが多くあり、だから『ファンパーク』と自称しているのだろう。もちろん、利用料金はシベリアにしては安くはない。たとえば、ジェットコースターは400ルーブル(1000円)、プールの1日入場券700ルーブル(1700円)、VIPゾーンはその倍。 1年前も今回も、ゲレンデもプールもアトラクションも利用しなかった。50ルーブル(120円)だけ払ってロープウェイで麓から345メートルまで上り(海抜では約412メートル)、四方の景色を楽しんだだけだった。ボブローヴィ・ロック бобровый логのロックは『小さな谷間、水路にもなる窪地』の意味の一般名詞だが、地名としてもよく使われる。もとは窪地だったが今では平地になっても、何々ロックと言う地名が残る。ボブローヴィ・ロックの場合は412メートルの山頂も含めて、ボブローヴィ・ロック山と言っているくらいだ。 ロープウェイで登ったところにはカフェや、バーベキューのできるバンガローが6軒あって、それぞれ、20人くらいで楽しめる。1日450ルーブルだそうだ。下からバンガローまで別料金で荷物を運んでくれる。この日はバーベキューで騒いでいるグループはなかった。平日だからか。ここからは、エニセイの流れが見晴らせる。対岸のクラスノヤルスク市や鉄道橋も小さく見える。眼下にはバザイハ村、遠くにクラスノヤルスク、ロープウェイの途中からは高く見えたバザイハ山も見下ろせる。バザイハ山はタワー山 гора Вышкаともいう。この山と保護区山地の間をバザイハ川が流れる。バザイハ村後方のボブローヴィ・ロックも元々はその谷の名からできたらしい) ロープウェイの終点から公園内に入る小路があって、行ってみると最近できたらしい見晴らし台にでた。ここからはクラスノヤルスク・ストルブィ自然保護区内の岩山が見晴らせる。つまりエニセイ川側ではなく山側。 クラスノヤルスク・ストルヴィ自然保護区は、東サヤン山脈系の北西部マナ山の支脈の472平方キロ(琵琶湖は670平方キロ)を占めている。高さは200から800メートルだが、大部分は500メートル以上となっている。保護区内の90%は立ち入り禁止の厳重保護区域だが、北東の端、エニセイ川と連邦道54号線近くの3%は『クラスノヤルスク・ストルブィ自然公園』としてハイキング・ゾーン。昔からクラスノヤルスク人は休日には上って自然を楽しんでいた。7%は緩衝地帯で許可を取って立ち入りができる。一応立ち入りができる10%の中に、ロック・クライミングで有名な柱(ストルブィ、つまり柱のような岩)がいくつもあって、ほとんどすべてのロックは名前がつけられているばかりか、ロックの一部をなす石にまで名前があるそうだ。ロックは単独で突き出ている場合もあるが、いくつかが固まりになってそびえている場合もある。その場合は、塊の頂点それぞれに名前があるそうだ。『羽』、『おじいさん』、『万里の長城』、『スズメ岩』、『破壊』、『獅子門』、『ヒキガエル』、『サメ』などは、その形から付いたようだ。番号で呼ばれている岩もある。『タク・マク』岩などは先住のチュルク語系からついている。また、保護区内を流れる川や小川には当然チュルク語起源が多い。 見晴らし台から緑の中に黄色の木々の混ざる山々を見晴らすのはとても気持ちがいいものだ。一面の木々の中、岩肌が突き出ている一角があって、これらがストルブィ(柱岩)だ。一番近くて、つまり自然保護区内では最もエニセイ川に近いところに残った残丘(モノドック)で、クラスノヤルスク市内からでも見えるタク・マク山塊は頂点が6個あり、登り口は4通り以上ある。見晴らし台の説明看板によると、数万年前に、現在のタク・マクのような残丘(モナドノック)・岩山がいくつもできたそうだ。タク・マクの奥に『ィエルマーク』ロックや『万里の長城』ロック、『子スズメ』ロック群が見えると、写真入りの説明板がその方向に立っていた。 この見晴らし台のベンチに何人ものお年寄りが気持ちよさそうに座っていた。途中の小道でもゆっくり歩くお年寄りグルーブを見かけた。(ロシアではお年寄りはたいがい肥満気味)。帰りの4人掛けロープウェイでも仲良さそうなお年寄りの何組ともすれ違った。クラスノヤルスクはどこへ行っても若者が多い。特に、ボブローヴィ・ロックのような西欧風レジャー施設では、普通、若者しか見かけない。リューダさんによると、この週末はロシア版敬老の日で、市が年金生活者(当時、男性60歳以上、女性55歳以上)たちに、ロープウェイ無料招待券を配ったのだろうとのこと。お年寄りの希望によっては、ロープウェイではなく、劇場の無料入場券と言うプレゼントもあるそうだ。出会ったお年寄りは後期高齢者のような雰囲気だったが、リューダさんによると、70歳過ぎのような人はいない、みんな50代後半から60代前半ぐらいだそうだ。 夜、ディーマさんのマンションの隣人宅に伺う。そこに、元教え子のナターシャ・クドリャフツェヴォが住んでいる。クラスノヤルスク大学日本語科卒業後の今、英語と日本語の小さなコースを開いているそうだ。 |
<HOME ホーム> | <ページのはじめ> | <NEXT 次のページ> |