と滞在後記
В Красноярске Welcome to my homepage
up date | 15 July, 2012 | (校正12年7月26日、8月12日、2016年11月28日、2019年12月3日、2021年9月18日、2022年9月23日) |
29-1(5) 2011年黄金の秋、クラスノヤルスク(5) 知られていない名所 2011年9月28日から10月20日(のうちの10月12日から19日) |
В 2011 году в Красноярске(с 28.09.2011 по 20.10.2011)
1 | 北京経由クラスノヤルスク | リューダさんのダーチャ | ダーチャとコッテージ | 大都市の中の旧『ニコラエフカ自由村』 | |
2 | エニセイ右岸,新旧の名所を行く | スリズニェーヴォ絶壁 | オフシャンカ村 | 『もの思わしげな』マナ川 | 『ビーバーの谷』スポーツ総合パーク |
3 | 『プーチン』橋からソスノヴォボルスク町 | 旧・閉鎖町パドゴルヌィ | ニンジン畑 | 『レッド・リング』レース場 | |
4 | アフォントヴァ・ガラ遺跡 | ユージン図書館 | クルトフスキー植物園方面 | 旧ミサイル基地町ケドローヴィ | 『13戦士記念』村 |
5 | 再度アフォントヴァ・ガラ遺跡 | エニセイ左岸名所『ビィック』 | ウスペンスキー修道院 | 崖の上のアカデムガラドク | |
新シベリア街道の旅(クラスノヤルスク・ノヴォシビリスク・オムスク) | ハカシア・ミヌシンスク盆地への旅 | ウスチ・トウングースカ |
クラスノヤルスク市西部と郊外
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アフォントヴァ・ガラ2遺跡 | |||||||||||||
右図から 1.1992年発掘のアフォントヴァ・ガラ2遺跡 2.ユージン別荘 3.ユージン別荘の崖下へのヴェランダ 4.学校 5.製材工場 6.シベリア幹線鉄道 7.鉄橋 8.エニセイ川 (この地域では現在の川の標高が約130m、左岸には河岸段丘が3段あって、川面から10m、14-15m、30mの高さにあり、アフォントヴァ・ガラ2遺跡は30mの高さにある。 | ||||||||||||||
再度、アフォントヴァ・ガラ遺跡とユージン図書館、教育大学の考古学博物館 | ||||||||||||||
10月12日(水)はサーシャが迎えに来てくれて、2009年も2010年も訪れたハカシアへ、サーシャさんと行く日だった。が、クラスノヤルスク教育大学歴史学部長のアルテミエフ教授に連絡が取れたので、アフォントヴァ・ガラ旧石器遺跡発掘現場を見せてもらってから、ハカシアに出発することにした。発掘中のアルテミエフ教授に会うため、サーシャ車でネルリさんと一緒に再度ニコラエフカ・スロボダの斜面を下りた。鉄道橋の近くのペットボトルやポリ袋の散らばった道端まで来ると、もう一度教授に携帯をかけて待っていた。
鉄道橋の近くのエニセイ川に面して、外見は状態の良い巨大な製粉工場の残がいが建っている。正面に大きく、1934と言う年号とソ連マーク(槌と鎌)が彫ってある。これはサイトによると矯正労働の囚人たちによって建てられたそうだ。崩れたバラック小屋が旧製粉工場を囲んでいる。(シベリアなどではたぶん)不要になった建造物は必ずしも撤去しない、必要な内部設備などを運び出した後は崩壊するに任せる、という土地利用方法をとることもあるのだ。だから1934年建築の巨大製粉工場はエニセイ川の河岸段丘の、アフォントヴァ・ガラの斜面下に、バラック小屋と雑草に囲まれて立ちつくしている。古い時代は、この場所に川の流れを利用した水車の製粉小屋などがあったのだろうか。斜面の上には、不動産資本が建てている明るい色の高層マンションが幾棟も見え、その周りにはニコラエフスカの木造平屋建てが無秩序に並んでいる。ちなみに、10月3日アフォントヴァ・ガラを探して工事中の建物の近くも回っていたが、それはこの『オルビート団地』だった。下から見ると山上の宮殿のようにも見える。5階建てから17階建てのマンション各戸が富裕層向けにほぼ売りつくされ、次期売出しは2013年、と『オルビート』建設の有限会社『クラスストロイ・センター』のサイトに載っている。 鉄道橋の少し上流こそが『第4の橋』建設予定地なのだ。『クラスストロイ・センター』社によると2016年完成とか。だから、この一帯は特別に予算(1760万ルーブリ・4千万円余)も下りて緊急に考古学調査しているのだ。 クラスノヤルスクを凝縮したような場所(と思う)にしばらく立っていると、やがてアルテミエフ教授が背の高い雑草の中から現れた。アフォントヴァ・ガラ遺跡について説明してくれて、今発掘している場所へ案内してくれた。雑草をかき分け斜面を少し登ったところに方形の深い穴が掘られていて、学生も作業をしていた。穴の断面にはいくつもの層が見える。層を調べるための垂直の穴らしい。こうした調査用の竪坑を85個掘るそうだ。これまでには15個掘ったと言う。アフォントヴァ・ガラ遺跡にはこれまでに8文化層が区別されている。1万5千年から1万7千年前にはもう犬(犬狼Cfnis-Lupus)を飼っていたと言うこともわかっているそうだ。 教授がアフォントヴォ・ガラ遺跡は今までのところ1から5まであり、最も有名で大きいアフォントヴァ・ガラ2遺跡で1992年発掘された個所はユージン庭園内(ユージン別荘から150m)だと言うので、再度行ってみる。前回は気がつかなかったが草叢には掘った跡も見つかった。遺跡に立つと、その当時住んでいたと言う石器時代人になったような気がするものだ。ネルリさんと草叢の中を長い間歩き回った。
学内考古学博物館は、なかなか充実していて、ザイカ館長に説明してもらって、2時間近くもゆっくり回った。シベリアには3万年前から現代の人類が住んでいたと言う遺跡があるそうだ。 シベリアの中心を流れるエニセイ川は、西シベリアの大河オビ川やイルティッシュ川より古く、流れができたのは数百万年前とされている。中央シベリアに人類がやってきたのは、アルテミエフ教授によれば、35万年前から40万年前だ。その時代は中石器時代、ムスティエ文化のネアンデルタール人と考古学の資料にある。クラスノヤルスク市より200キロ南(エニセイ川上流)のクラスノヤルスク・ダム湖左岸のクルタック遺跡群は35万年前から7万年前とされている。さらにアルテミエフ教授は、クラスノヤルスク市近郊の考古学調査では3万5千年前までたどれ、1万5千年前くらいの後期旧石器時代には、クラスノヤルスク地方はかなりの人類が住んでいて、クラスノヤルスク市近郊だけでも40遺跡が発見され、クラスノヤルスクダム湖周辺では200か所にもなる。 博物館には、アンガラ川のウスチ・コヴァ遺跡(2万年前)の地図や発掘物も展示してあった。アンガラ川にバグチャンスカヤ水力発電所をかなり前から建設中で、ウスチ・コヴァ遺跡はダム湖に沈むので、こちらも緊急調査発掘を行っているのだ。一説によると、アルタイ山麓(北緯52度)から、北のエニセイ中流のアフォントヴァ・ガラ(北緯56度)へ移住してきた人類がさらにエニセイ川沿いにアンガラ川を遡り、ウスチ・コヴァ(北緯58度)を経て、レナ川沿いにヤクーツク平原(北緯51度)に至った移動の波があったそうだ。 イルクーツク州のバイカル湖から北東へ流れ、クラスノヤルスク地方に入って東進し、エニセイ川に合流するアンガラ川の延長は1729キロだが、その合流点より526キロ上流の、イルクーツク州近くに、左岸支流コヴァ川が合流する。コヴァ川の延長は452キロと短くない。コヴァ川がアンガラ川に合流する地点より500-600m上流のウスチ・コヴァ後期旧石器時代遺跡は、中央シベリアで最も北にある遺跡の一つだ。1937年オクラドニコフによって発見された。 クラスノヤルスク地方を流れるアンガラ川流域(つまり北アンガラ、アンガラ下流)には、ウスチ・コヴァほど有名ではないが、石器時代から青銅器時代の遺跡が多数ある。岩画も発見されている(そのうち有名なのはフレブトヴィ村近くの川岸絶壁にある『ピサヌィ・カーメニ』。すでに18世紀前半のピョートル大帝お抱えドイツ人学者メッセルシュミットによって発見されていた。8月の水位4-10mの高さに長さ100mにわたって馬、シカ、乗馬の人、オクネフ文化時代風の顔などが赭土で描かれている)。2008年から、発電所のできるコーディンスク市の上流からウスチ・イリムスクまでの375キロもの長さのダム水没地域は大規模な発掘調査が行われている。アンガラの遺跡は4万年を遡る、とも言われている アンガラ川より北でエニセイに合流するポドカーメンナヤ・トゥングースカ川(北緯60度から62度、エヴェンキヤ旧民族自治管区を流れる)にも、特に支流の合流点や浅瀬急流付近にかたまって遺跡が発見されているそうだ。もっと北のニージニィ・トゥングースカ川(北緯64度)沿いでも、6千年前の膨大な数の新石器時代遺跡が発見されている。(ちなみに、カムチャッカ半島の南端が北緯50度) |
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エニセイ左岸の名所『ブィッキ)』 | ||||||||||||||
ネルリさんが、エニセイ左岸上流方面にまだ私が見ていない所があるから案内しましょう、と言ってくれた。エリート・ダーチャ団地ウダーチヌィの先にあるサバキンスコェ・ブィッキ Собакинские быкиやカラウリヌィ・ブィッキ караульный быкだという。ヴィックというのは雄牛、転義で橋げた・扶壁、たぶん雄牛のような大岩も指すのだろうか。ブィッキはブィックの複数。 ハカシアへは今日中に着けばいいので、喜んでネルリさんの提案に応じる。
エニセイの対岸にもシャルニン・ブィックと言う岩が突き出ている。東サヤン山脈の北西をエニセイ川が流れているので、両岸には岩場が多いのだ。エニセイの流れができてから東サヤン山脈の場所が隆起して山脈になったので、エニセイ川は東サヤン山脈をまたいで流れなくてはならなかった。右岸のクラスノヤルスク・ストルブィ自然保護区がロック・クライミングの名所になったのも浸食から残されて突き出ている岩が多いからだ。エニセイの右岸には、その続きのように、ミニナ自然保護区があり、こちらにも岩が多い。 サバキンスコェ・ブィッキなどは、どの自然区にも入らないが、大きな岩のため特別に名前がついているのだろう。クラスノヤルスク市街地からこの左岸上流に沿って、カラウリナヤ川まで10キロ余にわたってグレミャーチャ丘(Гремячая глива)が突き出ている。(丘と川の間の段丘にソースヌィ団地などがある)。その西はカラウリノエ高地が続き、さらにその西にはコジュルヌィ山脈(エニセイ側がミニナ自然保護区になっている)と言うふうに、左岸はずっと針葉樹林の茂る低い山々が続いている。 グレミャーチャ丘下の河岸段丘にあるイズベストコーヴァや村を過ぎると、もう数百キロも集落はない。ソ連時代からのダーチャ団地組合が離れ離れに3個ほどある。その間に、スポーツ好きだが人出の多いところはあまり好きでないクラスノヤルスク人が楽しむ幾つかの岩場があって、たいていは洞窟もある。カラウリヌィ洞窟1とか2、ガルプカ洞窟などと名前がついているが、入り口は険しい岩場の途中にある。 だから、洞窟などは下から眺め、一応感心しただけで通り過ぎ、岩山の真下までエニセイ川が迫っていて麓が砂地になっているカラウリヌィ・ブィックまで行った。川岸は村ができるほど広くはないが、ボート・ポートぐらいにはなるかと『石灰工場の暁』号と言う船の停泊所になっているそうだ。確かにこの辺は陸上より水行の方が素晴らしい。カラウリヌィ・ブィック洞窟の辺りは中世まで含めて30もの文化層が調査されていて、ここに4千年前の遺跡もみつかっているそうだ。前5世紀ごろのシベリア・スキタイ時代の動物意匠の像も発見されている(*)。ちなみに対岸のシャルニン・ブィックには1万6千年前と4千年前の住居跡が見つかっている。ネルリさんによるとその大きな岩では、昔、儀式が行われていたとか。 石器時代人は、アフォントヴァ・ガラといい、これらブィッキといい、景色の素晴らしところを選んだものだ。 クラスノヤルスク観光も、この辺はルートに入っていないが、本当は最もエニセイ中流域らしい景観の場所だ。 (*) http://sibforum.sfu-kras.ru/node/112 |
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聖ウスペンスキィ男子修道院 | ||||||||||||||
『須臾(しゅゆ) にしてエニセイ河畔に沿ひて行く。路筋は同河の左岸にして七、八丈(約24メートル)水よりも高し。しかしてなほ峩々たるフルハルデケレイ山、高さ十丈以上のものあり。この山脊を火薬にて砕き、しかして二時間半ばかりの歩頭となせしなり。この道筋は府(クラスノヤルスク府)より五ウョルスト(約5キロ)相距たるモナストリー(修道院)に通うため、寺僧の築きしものにてすこぶる見るべし。エニセイ河の幅は我が2丁余にして流れすこぶる急にして水清し…カラスノヤルスコエ(クラスノヤルスク)のウスペンスキーのモナストリーにて僧の招きにより茶を飲む。居は小といへどもエニセイ河に臨み、風景ははなはだ佳。』と榎本武揚の『シベリア日記』1878年8月19日にある。 事実、1875年、浄財で当時木造教会があったところまで道路が作られたと、サイトにある。修道院は、エニセイ左岸のアフォントヴァ・ガラよりやや上流のグレミャーチャ丘の下にあるので、崖路を作らなくてはならない。木造教会やその傍屋などの場所に修道院創立は1879年とあるから、榎本は木造僧院に訪れたのだろうか。『居は小といえども』と書かれている。修道院の外に木造だが革命前の建物と言う旧・主教宅がある。 修道院や修道院教会、付属建物は革命後の1921年に閉鎖(当時200人の修道士がいた)、孤児院として使われ、1946年からは『憩いの家Дом отдыха』や、少年団キャンプ場(ピオネール・ラーゲリ)などとして利用されたそうだ。2000年、修道院復興のため、クラスノヤルスク主教管区に返還された時には、主要な建物の87%が半破壊状態だった、とある。 今回、私とサーシャさんとネルリさんが訪れた時も、まだ復興途中だった。敷地内には個人の浄財で建ったと言う礼拝堂や、以前の僧たちの墓地、修道院畑などもある。畑にはキャベツが植わっていた。復興の足しにと思って、売店で聖人のイコンを買う。売店に座っていた修道士は一言も言わず売ってくれた、ただ読書に夢中になっていたからだ。聖人の中には、ロシア帝国(だけを)守護する聖人もいる。 修道院のエニセイ川側の外壁に並ぶ窓には特別の煉瓦で半円状にふち飾りがしてあって、川の流れと供に美しい。榎本武揚も絶賛した通りだ。1888年、大洪水もあって、ここまでも水がつき、木造建築などは流されたそうだ。 外に出て、またエニセイ川と、そびえたつグレミャーチャ丘の上に立つ建設中の高層マンションを見る。この辺のグレミャーチャ丘の崖にも洞窟がある。 3時を過ぎていたが、ネルリさんと別れて、サーシャとハカシアに向かった。4日後の10月16日夜遅くクラスノヤルスクに戻ってきて、17日はアンガラ河口のウスチ・トゥングースカ村へネルリさんと行った。(ハカシア記とウスチ・トウングースカ村記は別記。以下の章はその後) |
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崖の上の下アカデミガラドク | ||||||||||||||
滞在中のずっと後(10月19日)、ほぼ帰国間際の頃、つまり、ハカシアやウスチ・トゥングースから帰って、10月18日はホームスティ先のリューダさん宅の近くをまわった。森林大学の植物園が近くにあると言うので行ってみたが閉まっていた。大学の博物館が開いていたので、ゆっくり回り、ガイドも付いてくれたのでシベリアの森について勉強できた。
この眺めのよいところに殉教者ニコライ(2世)教会も建設中だ Церковь Николая, царя-мученика и Новомучеников и Исповедников Российских。 この一帯はグレミャーチャ丘から続く斜面が旧クラスノヤルスク市街地まで続き、リューダさんたちの『下』アカデミガラドク団地の横は科学センター(自然科学系研究所群、上記森林大学も含む)があり、その上には『上』アカデミガラドク団地があり(『上』の方が『下』よりグレミャーチャ丘のより上にある)、その上アカデミガラドクにはシベリア連邦立大学(旧クラスノヤルスク総合国立大学)があるのだが、お互いにかなり離れて敷地があり、その間は林か荒野になっている。殉教者聖ニコライ教会は、ほとんど荒野に立つ。エニセイの流れを見降ろせ、建設途中なのに半廃墟の様な教会のある荒野はそんなに多くはないかもしれない。 10月19日、この日は夕方クラスノヤルスクを去って北京経由で帰国する日で、午後からクラスノヤルスク教育大学で考古学博物館を見学させてもらう予定だったが、その前にもう一度、リューダさんのダーチャへ行き、スナジグミ(シーバックソーン)を摘んだ。この砂糖漬けは日本まで2日間の旅の後、冷凍しておけば、しばらく持つ。以前、こうして持ってきたスナジグミの実を食べて、種を地面に植えておいたことがある。芽は出たが、梅雨時期に枯れてしまった。 |
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