クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 07 April, 2012  (校正・追記:2012年4月19日、2013年1月13日、2014年1月10日、2018年10月26日、2019年12月4日、2021年9月24日、2022年10月23日)
29-4 (1)  2011年、クラスノヤルスク市からアンガラ川河口へ(1)
エニセイ街道を行く
           2011年10月17日(月)

Из Красноярска в Усть-Тунгуску(17.10.2011)

黄金の秋 クラスノヤルスク 新シベリア街道の旅(クラスノヤルスク・ノヴォシビリスク・オムスク)  ハカシア・ミヌシンスク盆地への旅
1 7回も名を換えるエニセイ川 エニセイはアンガラ川の支流か マンガン工場と市民運動 エニセイ街道シラー村の復興教会
ウスチ・トゥングースカ村の『ザイムカ・ルイブナヤ』ペンション アンガラ河口を回る(カラウリヌィ島、かつてウラン採掘?のウスチ・アンガルスク) 材木の町レソシビリスク
 クラスノヤルスク地方をほぼ南北に流れるエニセイ川は延長4287キロだが、その中ほどに、バイカル湖から流れてきたアンガラ川が合流し、そこにウスチ・トゥングースカと言う村がある。クラスノヤルスク市から270キロのそのウスチ・トゥングースカ村まで、10月17日(月)、日帰りの小旅行をした。
 7回も名を換えるエニセイ川
 エニセイの語源はエヴェンキア(エヴェンキ)語のイオネッシ(大きな水)からだと、たいていの文献には載っている。しかし、エニセイ流域に古くから住んでいたのはエヴェンキア人ばかりではなく、上流にはトゥヴァ人が住み、ウルッグ・ヘム(偉大な川)と呼び、中流のハカシア人(ハカス)人はキム、その北に住んでいるケット人はフック、セリクープ人はПӱӱл Тяас-Ӄолдピュール・チャアス・コルド(?)、最下流のネネツ人はエンジャヤムと呼んでいるそうだ。
 エヴェンキア人がエニセイ右岸に住むようになったのは、それほど古くはないらしい。セリクープ人やネネツ人のサモディーツ語系の話し手、またはケット人のみが現在も残っているというエニセイ語族系の話し手の方が古くからの住民だと言われる。ハカシア人やトゥヴァ人のチェルク語系は最も新しい。ロシア人が17世紀初めにエニセイ川下流に基地を作った頃、接したのはサモディーツ人だが。(だから、この地方にはエニセイ語族→サモディーツ語族→トゥングース系(エヴェンキ人など)→チュルク→そしてロシア人達と重複して住んでいたのか)。

エニセイ流域(ウィキペディアから)↓
赤は都市名
1)クィズィール 2)シャガナール 3)サヤノゴル
スク 4)アバカン 5)クラスノヤルスク 
6)エニセイスク 7)ノリリスク 8)ブラーツク  
9)イルクーツク 10)ウラン・ウデ 
11)ウランバートル市

青は川名
1)小エニセイ川 2)大エニセイ川 8)バイカル湖
3)パドカーメンナヤ・トゥングースカ川
4)ニジナヤ・トゥングースカ川 5)セレンガ川 
6)イデル川 7)デルゲル・ムレン川
エニセイ源流↓
緑色は地形
1)ドット・タイガスィン・ヌル山脈 
2)ダルハト盆地 3)トッジャ盆地 4)トゥヴァ
盆地 5)ハカシア・ミヌシンスク盆地
 

青色は水系
1)ムンガラギイン・ゴル 2)グヌィン・ゴル 
3)バフタフィン・ゴル 4)シシュギッド・ゴル 
5)ベリン川 6)グセイン・ゴル 7)クィズィール
・ヘム 8)バルィクトゥグ・ヘム 9)ヘムチック 
10)アバカン川 11)クラスノヤルスク・ダム湖
12)湖ドット・ヌール

1)クィズィール市 2)シャガナール市3)サヤノゴ
ルスク市 4)アバカン市 5)クラスノヤルスク市
 トゥヴァ共和国の北東トッジャ地方の山中から流れてくる大エニセイ川(トゥヴァ語でビー・ヘム)と、モンゴルから流れてくる小エニセイ川(カー・ヘム)がトゥヴァ共和国首都クィズィールで合流してウルッグ・ヘムとなる。ビー・ヘム(大エニセイ)は636キロだが、カー・ヘム(小エニセイ川)の方は、ロシア案では553キロ、モンゴル案では615キロと異なっている。と言うのも、合流点から236キロ上流のバルィクトゥグ・ヘムを本流とするかクィズィール・ヘムを本流とするかで、カー・ヘム(小エニセイ川)の長さが異なるのだ。バルィクトゥグ・ヘムはトゥヴァの南センギレン山脈から流れ、クィズィール・ヘムは東のモンゴルから流れてくる。
 1978年のソヴィエト大百科事典では、大エニセイ(ビー・ヘム)が605キロ。一方、小エニセイ(カー・ヘム)は573キロと、源流は全流域がトゥヴァ内(ソ連邦内)にあるバルィクトィグ・ヘムとしている。数字は、源流をどこまでたどるかによるが、長い方が大エニセイ、短い方が小エニセイと言う名前が一致してる。(ウィキペディアでは源流を最後までたどれば大エニセイは636キロ、小エニセイは680キロ)
 エニセイ川とは、このクィズィール市の合流地点から北極海のカラ海に流れ出るまでの3487キロを言う。その時は必ず、小エニセイも含めると4287キロになると付け加えられている。むしろ4287キロがエニセイ川の長さとなっていることが多い(足し算が合わないことは、下記参照)。
 しかし、名前にこだわらず水の自然の流れとして、最も長い1本の線をたどっていけば、エニセイ川の支流アンガラ川が流れだすバイカル湖に注ぐセレンゲ川の源流に行きつく。つまり、北モンゴルのイデル川からセレンガ川、バイカル湖、アンガラ川、エニセイ川と続く流れが、全長5539キロにもなり、世界で6位だ(数字は資料によって多少異なる)。流域面積は、問題なくすべての支流を含めるので258万平方キロ、とやはり世界で7位。(日本の面積は38万平方キロ弱)。

 一方、エニセイ本流の方をたどると、より長い方のモンゴル案を取るとすれば、小エニセイ川の源流は、モンゴル北の高さ3351メートルのドッド・タイガスィン・ヌル山脈(東サヤン山脈の一つ)の東斜面から流れてくる。ちなみに西斜面からはセレンガ川の源流の一つデルゲル・ムレン川が流れ出ているので、どちらにしてもこの山脈がエニセイ川の最も遠い源と言える。(445キロのデルゲル・ムレン川と上記の452キロのイデル川が合流してセレンガ川になる、すぐ近くから発してお互いに別々の方向へ数千キロも流れた末、アンガラ川とエニセイ川として、北極海まであと2000キロというところでやっと巡り合えるのだ)
 そのドット・タイガスィン・ヌル山脈の東斜面から流れ出した本流エニセイの源ムンガラギイン・ゴル(1)は、同じく南斜面から流れてくるグヌィン・ゴル(2)と合流してバフタフィン・ゴル(3)と名前が変わる。一説にはグヌィン・ゴルの方が源流だと言う。としても、ドッド・タイガスン・ヌル山脈が源と言うことにかわりない。(ムンガラギイン・ゴルを含むと、小エニセイの長さは748キロと、68キロほど長くなる)。
 バフタフィン・ゴルは、ダルハト盆地に入り、無数の分水流に分かれ、沼地をつくり、川床や三日月湖を残して北上しているうちにシシュギッド・ゴル(4)と名前が変わり、盆地の湖ドッド・ヌールを抜けると西進してトゥヴァに向かう。
 ちなみにダルハト盆地にはサモエード(サモディツィ)、トゥングース(エヴェンキ)、モンゴル、チュルクの系統を引き、モンゴル語の1方言を話すダルハト人が住んでいる。(2万人強でモンゴル住民の0.8%、初めオイラト族の一部だったが、ダルハト人としては17世紀後半から知られている。また、ダルハト盆地 Дархадская котловинаにはトゥヴァ人に近いツァータニ人 Цаатаныという超少数民族も住んでいる)。
 シシュギッド・ゴルはトゥヴァ共和国に入ると、北から右岸支流ベリン川(130キロ)(*)が合流し、南からはグセイン・ゴル(129キロでトゥヴァとモンゴルの国境になる。源はドッド・タイガスィン・ヌル山脈の西斜面)が合流してクィズィール・ヘム(赤い川の意)とトゥヴァ語風に名前がかわる。この合流点近くに鉱泉が出るのでウシュ・ベリドゥィルと言う寂れた保養地がある。トゥヴァ語で『3つの川の合流』の意(**)。
(*) ベリン川 Билин(Беллин)   1999年6月、クィズィール市からヘリでベリン(ビリン)川中流に飛んだことがあった。そこには地質探検隊用小屋があって、食料(とヴォッカ)を持参すれば、清い川もあり、まわりには煮炊き暖房用の樹木が生えているから生活できる。食料は現地調達も可能。同行者クラスノヤルスクや新潟の(林業大学研究員)は川に網を張って大量の魚を捕まえたので、食べきれない分は塩漬や燻製にした。また、別の同行者は赤鹿を一匹仕留めたので、私たちはまず内臓から食べ始めたものだ。
(**) シュ・ベリドゥィル Уш-Бельдир   クィズィールから飛行機で270キロで、陸路では行きつけない。トゥヴァにはこうした鉱泉・温泉場『アルジャーン』が各地にあって、どれも神聖な場所とされている。トゥヴァをまわっていると、たびたびこうした『アルジャーン』に行きつき、地元人がテント生活で保養している姿を見る。しかし、この『3つの川の合流』温泉には1970年代には立派なサナトリウムがあり、ソ連邦トゥヴァ自治共和国の大物が保養していた、という。2000年代初めには全く荒れていたそうだが、少なくとも2008年には湯治客を受け入れている。そのモスクワからの湯治客の旅行記と写真は
http://www.centerasia.ru/issue/2008/35/2237-troynoe-sliyanie.html

 クィズィール・ヘムはさらに西進して、左岸支流バルィクトゥグ・ヘムが南から合流してくると、カー・ヘム(小エニセイ)と名前がかわり、トゥヴァ盆地の東で、北東のトッジャ地方から流れてきたビー・ヘム(大エニセイ)と合流してウルッグ・ヘムとなる。ボラやブリのような偉大な川だ。
 ウルッグ・ヘムとしてトゥヴァ盆地を188キロ西進するが、途中シャゴナール市からはサヤノ・シューシェンスカヤ発電所ダム湖が始まる。そのダム湖へ南西からの左岸支流ヘムチックが合流したところで、北へ向きを変え、西サヤン山脈を深い渓谷を作って抜け、ハカシア(ハカス)・ミヌシンスク盆地に出る。盆地への出口にサヤノ・シューシェンスカヤ発電所のダムがある。大エニセイと小エニセイの合流点のクィズィール市からここまでの474キロを上流エニセイと言う。(そのうち320キロはダム湖となって遺跡は水没、または沼地化し、元の自然は失われた)。
 ハカシア・ミヌシンスク盆地を北上してきた中流エニセイは、南西から流れてくる左岸支流アバカン川(514キロ)が合流するアバカン市から東サヤン山脈と交わるクラスノヤルスク発電所ダムまで360キロはクラスノヤルスク・ダム湖となるが、おおむね北へ向かって流れる。(このダム湖でハカシア・ミヌシンスク盆地の古代遺跡が多く水没したばかりか、一帯の気候も大きく変わった)。
 西サヤン山脈を抜け出、ハカシア・ミヌシンスク盆地を流れ、今度は東サヤン山脈を峡谷をつくって流れ出たエニセイ川は、クラスノヤルスク市を過ぎるともう山川ではなく幅も広がるが、東サヤン山脈(の延長エニセイ山地)の渓谷をまだすっかり抜けきれず、河床には暗礁脈が残っている。その最も大きいのは長さ4キロのカザチンスク浅瀬で、川幅は狭く河川運行の難所となっている。
ほぼ南北に流れシベリアを東西に分けるエニセイ川
 東サヤン山脈は北西から南東へ1000キロ以上もの長さで伸びる。西サヤンは南西から北東に600キロほど延び、東サヤンの中ほどにぶつかっている。
 ハカシア・ミヌシンスク盆地からアンガラ川の合流地点までの中流エニセイ川は876キロで、アンガラ川が合流して北極海のカラ海への出口までの2137キロは下流エニセイと区分されている。中流エニセイと下流エニセイの約3000キロは、シベリアの真ん中をほぼ南北に流れ、この大河でシベリアを東西に分けている。というのも、アジアとヨーロッパを分けるウラル山脈から続いている西シベリア平原がエニセイ左岸で終わり、右岸からは中央シベリア高原が始まるからだ。西シベリア平原の水分はほぼオビ川に集まり、エニセイ川の主な支流は、アンガラ川(1779キロ)の北のパドカーメンナヤ・トゥングースカ川(1865キロ)やニジナヤ・トゥングースカ川(2989キロ)など、ほとんど右岸の中央シベリア高原から流れ込んでくる。
  エニセイ航行会社運行の河川航行は、クラスノヤルスクを中心に、下流はカラ海への出口のディクソンまで2668キロ(しかし、乗客運行は夏場のみ、ノリリスク市のあるドゥジンカ港までで1989キロ)。クラスノヤルスクから上流はアバカンまで376キロ運行。
アンガラ川も、河口から、バグチャニ(バグチャンスカヤ)水力発電所のあるコーディンスク市まで445キロを同会社が運行。ダム建設の2008年以前には、さらに上流のクラスノヤルスク地方とイルクーツク州の境のエダルマ村(726キロ)をこえて上流ウスチ・イリムスク水力発電所のダムのある820キロ地点まで運行していた。
また、パドカーメンナヤ・トゥングースカ川は、河口から1146キロのヴァナヴァラ町まで、ニージナヤ・トゥングースカ川は1155キロ上流のキスロカン村まで、5月末から6月初めごろ航行が可能。
その他の支流のボリショイ・ピット川やカス川、スィム川、ドゥブチェス川、エログイ川、トゥルハン川、クレイカ川、ハンタイカ川、ボリショイ・ヘタ川(ヴァンコール油田が437キロ上流にある)なども短期間貨物輸送が可能。(Енисейское параходство社のホームページより)、

 エニセイはアンガラの支流か
 その『支流』アンガラ川については、アンガラがエニセイに合流するのではなく、エニセイはアンガラの左岸支流であるという論があるのも、もっともなくらいアンガラ川の合流後、エニセイ川の水量は増える。事実、合流地点でエニセイ側からの水量は年間104立方キロなのに、アンガラ側からは143立方キロだ。合流地点までの水路の長さも、エニセイ側が小エニセイの源流から2000キロ余なのに、アンガラ川はその水源のバイカル湖に流れ込むセレンガ川を含めて2800キロ余となる。流域面積はアンガラの方がはるかに大きい。
エニセイとアンガラの比較
1)アバラコーヴォ村 2)ウスチ・トゥングース
カ村 3)ウスチ・アンガルスク村 4)ストレル
カ町 (Google地図) 赤線は国道

 しかし、地史的にはエニセイの形成の方が早かったので、エニセイが主、アンガラは傍と言うことになっている。また、17世紀ロシア人が来た頃、上中流エニセイ右岸流域に広く住んでいたトゥングース(エヴェンキ)人のイオネッシからロシア語風のエニセイと言う名が定着し、右岸に合流してくる大河を上流トゥングースカ、中流トゥングースカ、下流トゥングースカと言う地名もエニセイ側には定着した。一方、バイカル側からは、バイカル湖から流れ出す唯一の川はアンガラと言う地名が定着し、ずっと後の時代まで、同じ川をバイカル側ではアンガラ、エニセイ側では下トゥングースカ川と呼んでいた。と言う歴史もあって、アンガラはエニセイの支流と言うことになっている。

 そのアンガラの合流付近にはシベリアにしては多くの集落がある。アンガラがエニセイに鋭角に合流する三角地点のストレルカ(矢と言う意味)町は、名前の通りエニセイの右岸とアンガラの左岸に囲まれて、航路での交通の便が良い。その対岸のエニセイ左岸にあるのがウスチ(河口の意)・トゥングースカ村、そのやや北にアバラコーヴォ村、南にカルギノ村、アンガラ右岸にあるのがウスチ・アンガルスク村だ。ここから100キロ余のアンガラ右岸には集落はない。左岸だと合流地点のストレルカ町から45キロ下流に材木の町レソシビリスク市があり、そこから40キロのところにかつて中央シベリアの中心都市だったエニセイスク市がある。

 ウスチ・トゥングースカとウスチ・アンガルスクという名前のつけられ方があまりにももっともらしい。
  出 発
 今回、北京経由でクラスノヤルスクに到着したのは9月29日(木)早朝だったが、10月3日(月)には最近親しくなったクラスノヤルスクの郷土史家ネルリさん(クラスノヤルスクの観光案内もする)と会い、クラスノヤルスク市と郊外を回った。10月4日(火)から10日(月)までは新シベリア街道の旅に出て、帰って来た10月11日(火)にはネルリさん宅訪問。12日(水)も半日ネルリさんにクラスノヤルスク郊外を案内してもらう。10月13日(木)から16日(日)はハカシア・ミヌシンスク盆地の方をまわっていたが、17日(月)はリューダさん運転の車で、ネルリさんとクラスノヤルスクからR409号線(エニセイ街道、クラスノヤルスクからエニセイスクまで345キロ)を途中の270キロのアンガラ河口のウスチ・トゥングースカ村まで出かけ、少し足を延ばしてレソシビリスク市も回ってきたのだ。
 ネルリさんが、アンガラ河口に絵のように美しい島(中洲)があって、夏にガイドとして訪れたのだが、ぜひもう一度行きたい、私に見せたいと勧めてくれたので、R409号線なんてもう何度も通ったが、ホームスティ先のリューダさんが車を出してくれると言うので行くことにしたのだ。それは前日ハカシアからの帰途、ネルリさんとリューダさんに電話して決めたことだ。ウスチ・トゥングースカ村の『ザイムカ・ルィブナヤ』という宿がツアーを組んでいて、予約と一人1000ルーブルが必要だ。まずは、その村へ行くために、朝8時過ぎ、私たちはクラスノヤルスクを出発した。
 マンガン工場と市民運動
R409号線(Googleから)
 『ザイムカ・ルィブナヤ(魚荘の意)』の経営者からは、到着は遅めの方がいいと言われた。なぜなら『魚荘』からモーターボートでエニセイ川やアンガラ川の水上を行くので、午後2時、3時の方が温まっているからだ(夏時間なので)。しかし、日帰りなら遅出でない方がいいので、使い捨て懐炉を余計目に持って早めに出発した。R409号線でクラスノヤルスク郊外に出た頃は金色の朝日が地平線にまだ低く見え、遠くの丘陵には朝霧がかかっていた。北へ向かうR409号線はエニセイ畔のクラスノヤルスク市を出てから初めの100キロは耕地の広がる低い丘陵地帯を行く。  
 クラスノヤルスク市の北の端ソルニチヌィ団地を過ぎて11キロのところにある広大な『クラスノヤルスク重機械製作工場』敷地までは4車線の広い道路が続く。この異様な『クラス重機工場』廃墟は1996年にはじめて見て以来、外観はあまり変わらない。ソ連邦の生産部門の一翼を担うと言う大型掘削機や、おそらく戦車などを製造していた先端技術工場は、1970年代末に建造がはじまった。しかし、部分的にも稼働していたのは数年間で、ソ連崩壊後は破産し、分割売却され、運営していた部所もあったが、ここ10年以上は完全な廃墟となっている。同じく70年代末から工場近くに建造された従業員用の団地ソルニチヌィは、今はただクラスノヤルスク市の廉価なベットタウンになっている。
R409号線へ向かうバイパス
クラス重機工場(クラスノヤルスク市のメディアから
 [チェク・スー』社のホームページから
・ウサ鉱山からケメロヴォ州境まで40キロは
 建設中
・州境からベレンジャクまでの43キロは
 建設済み
・ベレンジャクからトゥイムまでは季節限定の
 自動車道
・トゥイムからアーチンスクは鉄道支線
・アーチンスクからクラスノヤルスクまでは
 シベリア幹線鉄道
 
 この工場敷地にマンガン工場ができると言うので住民の反対運動が起きているそうだ。クラスノヤルスク地方南東のケメロヴォ州のクズネック・アラタウ(山脈)は鉱物の宝庫だ。ここにマンガン鉱産地ウサ鉱山が1939年発見された。30年間露天掘りで採掘していたが、最近の調査で、まだロシアの全マンガン埋蔵量の65%はあり、60年以上は持つと報告された。しかし、クズネック・アラタウ自然公園内なので工場は作れない。それで、そのマンガン鉱産地ウサを2025年まで採掘する権利を得た『チェク・スー』社がエネルギーの豊富なクラスノヤルスク地方の、今は廃墟となっている『クラス重機工場』跡地を購入したそうだ。『エニセイ合金工場』として稼働させるためだ。同社は、ウサ産地からハカシアのトゥイム町へ抜ける130キロのうち80キロの新道も建設中だ。ソ連時代からタングステンで有名な軍事工場(今は破産)があるトゥイム町から先はアーチンスク・アバカン鉄道の支線がきている。
 『チェク・スー』社は『エニセイ合金工場』のため、クラスノヤルスク地方庁とも、国立融資銀行とも、途中のハカシア共和国政府とも、産地のケメロヴォ州庁とも2009年ごろまでには合意文書を交わしたそうだ。しかし、2011年9月に(つまり、ちょうど私たちが通りかかった直前に)工場敷地のあるエメリヤノヴォ区がクラスノヤルスク市民の反対運動のためストップをかけた。
 『クラス重機工場』跡地前を通った時、同乗のネルリとリューダがすぐその話を始めたのもうなずける。帰国後、サイトを調べると、地方テレビ局の11月15日と16日の放送が動画で見られた。さらに、2012年3月23日には、会社側が稼働延期で毎月2500万ルーブルの損害が出ると、エメリヤノヴォ区を訴え勝訴したとネットで読めるニュースに出ている。しかし、区側は控訴もできるし、こんどは、エメリヤノヴォ区の中でも、直接その敷地のあるシュヴァエヴォ村ソヴィットが主導して、つまり、村役場主導で第1級と第2級の危険度のある工場を村内に建造することを禁止する条例を作るとか。反対署名が3月23日現在で18万以上集まったとか。住民の反対が大きくなったため、クラスノヤルスク州新知事のクズネツォフが2008年に会社側と交わした合意文書を反古にすると宣言したとか。(ちなみに、知事は住民の直接選挙ではなくモスクワ、つまり連邦政府が任命する)。
 クラスノヤルスク市周辺は、マンガン工場でなくともウラン工場が半世紀以上前から40キロばかりのところで稼働している。市外でなく市内に巨大アルミ工場もある。しかし、それらはソ連時代にできたものだ。ソ連崩壊後でロシア経済立て直し後の今はインターネットのソーシャル・サイトがある。市民運動団体『クラスノヤルスク反対!』は『フコンタクトВКонтакт』というサイトで支持者を集めたそうだ。(モスクワの反プーチン運動も『フコンタクト』が情報の場になったとか)
 クラスノヤルスクはそのアルミ工場の廃棄物だけで十分環境は悪化しているのに、2つ目までは引き受けられない、と書いてある。
 エニセイ街道シラー村の復興教会
シラー村のパクロフスカヤ教会
復興前(教会ホールにあった写真)
新教会内部、
中央奥はペチカ、右カーテン奥は懺悔室
R409号線から、
マクルシンスコエ村のニコライ教会
 スピードをゆるめなくとも、R409号線の工場廃墟横を通り過ぎるのはかなりかかるほど敷地は広大だ。過ぎると道幅は狭くなるが、耕地の広がる低い丘陵地帯の中をまっすぐ走る。自動車道からやや離れたところに集落が見える。昔のエニセイ街道沿いにできた集落だ。現在のクラスノヤルスク市一帯から北のこの丘陵地帯には、ロシア人が来る前は中流エニセイに住んでいたエニセイ・キルギス(ハカシア)の一派、カーチャ族(カーチンツィ、ストレルカ広場でエニセイに合流するカーチャ川の畔に住んでいたから、または、カーチャ族が住んでいたからその川の名前がついた)の藩国の勢力範囲だった。が、17世紀からロシア・コサック屯田兵たちが前哨基地をつくり、カーチャ族の遊牧基地跡に住みつき、ロシア帝国領化していった。それで、村々の歴史を見ると17世紀、18世紀から始まったと言うのも多い。また、ソ連時代強制流刑者の集落として始まった新しい村もある。
 それら村々の輪郭を平坦な耕地の中、遠く近くに見ながら私たちはエニセイ街道を疾走していった。クラスノヤルスクから60キロくらいのところに18世紀半ばの御者村、つまり駅逓馬車の宿場村からはじまったシラー村がある。昔からこの街道は当時のシベリア大商業都市(当時の規模からそう言ってもいい。1619年創設という)エニセイスク市と、エニセイスクを守護する為にできたクラスノヤルスク柵 (砦)を結ぶためにできたのだ。
 昔、各村には必ず教会があった。(教会のある大村をセロといい、教会のないデレブニャと厳格に区別)。全国の村々の教会はスターリン時代にはほぼすべて破壊されたが、ソ連崩壊後はぼちぼちと復活され始めている。2003年、まだクラスノヤルスクに住んでいた頃、よくエニセイ街道をドライブした。シラー村の中へも入ったことがある。その時は泥の中に廃墟の教会が立っていた。今、エニセイ街道からも遠く村の中に建つ立派な教会の塔が見える。ネルリさんによると2010年に再建されたとか。目的地に着くまでに時間があったので、同行の、信心深い二人のロシア女性と一緒に寄ってみることにした。
 シラー村は1747年からその名が知られ、この生神女庇護聖堂(パクロフスカヤ教会)は19世紀前半に建てられ、いったん破壊はされたが、2010年再建後は連邦指定記念建造物になっている。1600人の村には立派なラテン十字の形をした石造り建物だった。10時開館を待って入ってみると、壁中にイコンがかけられ、燭台もあって、伝統的なロシア正教会だ。ネルリによると懺悔コーナーがあると言うのが特徴だそうだ。(都市集中暖房はもちろんない)村にあるから暖房は自前で、中ほどに大きなペチカがあった。またトイレは建物の外にある。
 シラー村をでてR409に戻り、110キロほど走ると、マクルシンスコエ村を通る。自動車道は村を迂回して進むのにここにはまだバイパスができていないのか。だから、この村を通り過ぎる時は慎ましいただずまいの木造の教会を間近に見られる。1940年に破壊され、2007年に再建された『奇跡者聖ニコライ』教会だそうだ。
 もうこの辺は丘陵地帯も終わり道路近くまで森が迫り、村は森に囲まれている。クラスノヤルスク市から230キロのカルギノ村からは道路はエニセイ左岸を離れない。そしてウスチ・トゥングースカ村に入り、『ザイムカ・ルィブナヤ』に着く。
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