クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 11 April, 2012  (校正・追記: 2012年4月17日、2018年10月26日、2019年12月4日、2021年9月25日、2022年10月24日)
29-4 (2)   2011年、クラスノヤルスク市からアンガラ川河口へ(2)
ウスチ・トウングースカ村
           2011年10月17日(月)

Из Красноярска в Усть-Тунгуску (17.10.2011)

アンガラ川河口(ウィキマップから)

1,アブラコーヴォ村
2,ウスチ・トゥングースカ村
3,ウスチ・アンガルスカ村
4,ストレルカ町
5,ストレルカ浅瀬
6,カラウリヌィ島(中洲)
赤い線はR409号線

エニセイ川と流域全体図はこちら

黄金の秋 クラスノヤルスク  新シベリア街道の旅(クラスノヤルスク・ノヴォシビリスク・オムスク) ハカシア・ミヌシンスク盆地への旅
7回も名を換えるエニセイ川 エニセイはアンガラ川の支流か マンガン工場と市民運動 エニセイ街道シラー村の復興教会
ウスチ・トゥングースカ村の『ザイムカ・ルィブナヤ』ペンション アンガラ河口を回る(カラウリヌィ島、かつてウラン採掘?の村) 材木の町レソシビりスク
『ザイムカ・ルィブナヤ』ペンション
 『ザイムカ・ルィブナヤ』は魚荘とでも訳せる。ザイムカとはシベリアでよくある建物、または地名の1つで、(先住民ではなくロシア人にとって)未開墾地をはじめに開墾した家族が住む土地付き農家のこと。後世、そこを中心として集落ができると、初めの開墾者の名を取って呼ばれることが多かった。また、深い森の中や、僻地の川岸に、ザイムカ(冬越し小屋)を建てて、狩猟や漁労の基地にした。都市から少し離れた自然に恵まれた場所を指す(比較的新しい)固有名詞になっていることもあるので、この地名はシベリアに多い。最近では、そうしたところに建った(ペンションのような)宿泊所の命名にも拝借されている。
 クラスノヤルスク地方は、北極海の島々を除いても、北は北緯77度、南は52度と南北に長い自治体で、サハ共和国に次いで面積は237万平方キロ(日本の面積は38万平方キロ弱)とロシア連邦内で2位だが、人口は283万人。その住民の中でも、クラスノヤルスク市の99万人をはじめ、大部分は北緯54度から58度までの、特に56度前後のシベリア幹線鉄道沿いに住んでいる。(人口2位で北緯70度にあるニッケル鉱業の人工都市17万人のノリリスク市は例外)。だから、北緯58度も超えると行政区も粗くなる。クラスノヤルスク地方44の区のうち7区だけが北緯58度を含んで広大な北にあり、残りは人口の比較的多い南部に細かく分かれてある。(後記、クラスノヤルスク市は2013年100万人突破、2021年は109万人)
『魚荘』のホームページのトップ
『魚荘』の裏手のエニセイ川、
見えるのは対岸ではなく中洲の一つ

 アンガラ川が東から流れてきて合流する地点もだいたい北緯58度で、その辺りから北が上記7区の一つエニセイスク区に入る。エニセイスク以北では、大河の川岸以外には集落はほぼない。だから、アンガラ川が合流して下流エニセイとなるウスチ・トゥングースカ村辺りまで(その70キロ北のエニセイスク市まで)しか、今でも道はない。(冬期、凍結した時期だけ通行できる道はあるらしい)
 ウスチ・トゥングースカ村は他の小さな村3個と、12キロ離れたアバラコーヴォ村ソヴィエトに含まれている。人口は合わせて1700人。現在アンガラ川をトゥングースカ川と呼ばないから、「ウスチ・トゥングースカ」と言う村の歴史は古いらしい。昔はトゥングース人の住む地を流れてエニセイに合流する3大河のうち最も上流に合流したので上トゥングースカ川と呼ばれていた。(前記)
 1916年刊行の『エニセイスクの諸教区について』によると、当時はウスチ・トゥングースカ村は大村、つまり、1829年にできた石造りの『救世主キリストの神の形』教会のある村で、周囲の5つの小村が教区に入っていた。鉄道駅ができて今では、その中では一番大きいアバラコーヴォ村も、当時は、ウスチ・トゥングースカの教区に含まれていた教会のない寒村だったのだ。住民はシベリア土着民、流刑者や懲役囚などで、教区全体として男性(農奴)が680人、女性が696人。御者業、漁業、狩猟に従事していると記されている。また、19世紀半ばのエニセイ・ゴールド・ラッシュ時期には、この村もにぎわったそうだ。
 R409号線はこの辺では、エニセイ川の畔を通っているので、『ザイムカ・ルィブナヤ(魚荘)』は表が道路に、裏は川に面している。敷地内には2階建ての建物といくつかのバンガローのような小屋が立っている。冬季でも宿泊客を受け入れているそうだ。部屋によって1泊2000ルーブル前後とプライスリストに書いてある。食事つきだがロシア風蒸し風呂は別料金、バーベキュー用かまどは有料で貸し出すそうだ。宿泊の他に、『魚荘』主催の観光プログラムがあって、30キロ北のレソシビリスクの教会見物(所要時間2-3時間)や、魚釣りコース、エニセイ市観光コース、カラウリヌィ島ピクニック・コースなども載っている。
 アンガラ川河口を回る、カラウリヌィ島、ウスチ・アンガルスク村
 使い捨懐炉を、リューダさんは若いからいらないと言ったが、年配のネルリさんは喜んでもらってくれた。服の裏側に『貼るカイロ』をべたべた貼って、『魚荘』の裏手の川岸でしばらく待っていると、モーターボートが近づいてきた。橙色の救命具も着たので、水上でも凍えないだろう。『魚荘』の経営者の女性も一緒に乗った。彼女がガイドとなる。夏にネルリさんが行った時は島で焼き魚料理も食べたそうだが、私たちグループはたった3人なので、料理用道具を運ぶのも大変だからと、エニセイ川の魚料理は帰って来てから『魚荘』のレストランで食べることになる。ネルリさんはちょっと不満そうだったが、食事には用心深い私には、その方がいい。
中央の女性がオーナー
アンガラ河口を遡る
狭まっているのがストレルカ浅瀬
たき火に当たってアンガラの伝説を聴く

 シベリアは寒いが、晴れている日が多い。この日もアンガラ川が合流して川幅が海のように広くなったエニセイは水面も空も一続きのように青かった。目的地までは13キロほどあって、20分ほどで着くそうだ。
 ウスチ・トゥングースカ村の川岸から上流へ4キロほど行ったところでエニセイ川とアンガラ川の(大海原のような)合流点のちょうど真ん中に出る。ガイドとして同行している経営者の女性が、
「こちらの狭い方がエニセイ、広々と流れてくるのがアンガラ、その間にあるのがストレルカ町よ。ここでアンガラが合流してエニセイは広くなるのよ」と、教えてくれる。水面を見ても流れの方向はわからない。それほどゆっくりと流れているようだ。
 アンガラ川に入ると、モーターボートを運転している若者が、そろそろストレルカ浅瀬(難所・岩場)が近づいてきたと言う。川幅が狭くなって川面に岩が点々と見え、水が渦巻いている所がある。それまでは小さな丸いさざ波が立っているだけの水面だが、ここだけ先のとがった波がひしめいている。スピードもぐっと落とさなくてはならない。
 ここを過ぎるとすぐ岩だらけだが、それでも木が生えている中州に近づく。これがカラウリヌィ島で、『魚荘』の所有地(所有する権利を長期間借りる)だそうだ。なぜカラウリヌィ(見張り)なのか。17世紀初めにできたロシア帝国の主要拠点エニセイスク市のアンガラ川方面を守護するためにこの島に見張り塔ができた、という説もある。この島のロケーションの良さは名前にぴったりだ。大きな岩がアンガラ上流に向かってそびえていて、アンガラの奥深くまで一望できる。
 島の中ほどの高台に広場があって、ここでたき火を燃やして、人数が多ければエニセイで獲れた魚を焼いて食べるそうだ。設備と言えばたき火の周りの丸太いすしかない。離れたところにトイレ小屋があったが壁はもう飛ばされたのかなかった。中身も飛ばされたのか、柱だけのトイレだった。
 私たちはただ1時間ばかり島内をさまよっていた。アンガラの10月は、氷こそは張らないが寒い。だが、私とリューダさんは島の隅々に足を運び、四方からアンガラ川を眺めて飽きなかった。島から下流に向かって、まるで尻尾のように岩が点々と続いている。リューダさんは幾つか先の岩まで跳んで行ったが、私は安全なところから写真を撮る人になって満足した。岩の間から生えている木々の隙間からアンガラの右岸、つまり北岸(*)が見える。ネルリさんは石拾いに夢中になって、どこかの岩陰に消えた。碧玉や紅玉髄(カーネリアン)、メノウなどを見つけてくるのだ。
(*) 河口近くのアンガラ右岸には、2008-2009年シベリア連邦大学(旧クラスノヤルスク国立総合大学)調査により『ストレルカ1』遺跡から『同4』遺跡が発掘されている。そのうち、『ストレルカ2』遺跡は何千年にもわたって人々が住んでいたとみられている。さらに、同遺跡で紀元前3-2世紀の長期にわたり使用されたとみられる9軒の住居跡が発掘された。土器、青銅器、鉄器も発掘された。同大学のサイトでは、アンガラ下流域で発掘された石器時代からロシア人渡来までの多くの遺跡について載っている
http://www.sfu-kras.ru/node/7420
 広場でたき火がよく燃えた頃、私たちは集まって、島唯一の設備、丸太いすに座ってアンガラ川とエニセイ川の物語を聴く。バイカルの一人娘アンガラがエニセイに恋をして、父の反対を押し切って恋人の方に走る、という有名なもので、ガイドは美しく物語ってくれた。火を囲んで韻を踏んだ実在の人物(擬人化された川)の葛藤の物語を聴くのは何と快いことだろう。
 水浴びも魚釣りもせず、酒宴も張らない私たちは、このくらいで島を去ることにした。実は、私には、自然美にあふれたカラウリヌィ島と同じくらい行ってみたいところがあった。それはアンガラ河口にはあるが、ストレルカ村側でもウスチ・トゥングースカ村側でもないエニセイ右岸でアンガラ右岸のウスチ・アンガルスク村だ。2000年にも2006年にも2010年にも近くまで行ったが、交通手段がなくて上陸できなかった。今回、河口付近をモーターボートで回れるなら、謎のウスチ・アンガラスクに行ってみたい。追加料金を払えば寄ることもできると言う。カラウリヌィ島とウスチ・トゥングースカ村の途中にウスチ・アンガルスクがあるから、追加料金も多くないはず。
 クラスノヤルスク地方公式サイトによると村の住民は61人だそうだ。ウィキ・マップによると160人となっている。スターリン時代1950年から1952年にかけて強制移住者または囚人によってできた集落で、50年代「鉛採掘」と言って実はウランを採掘していたとか、その後閉鎖されたが、アンガラ川岸には採掘坑跡がのこっているとか。
墓地跡周辺の林にはトナカイゴケ
落ち葉と松葉の中のトナカイゴケ
トナカイゴケも点々と群生する墓地跡
(中央奥に棺を掘り上げた跡)

 今は、ただ林業の集落なのか、ボートをつけた川岸には長さをそろえて切った丸太の一山があった。そこから内陸にむかう道にはくっきりと大型車のタイヤ跡がついている。橙色の救命具を脱いだ私たちは、この道に沿って、登っていった。数分登ったところに墓地があった。というより墓地跡で地面には一面に白いトナカイゴケが生えていた。
 ロシア正教の十字架もあったが、ラテン十字の墓もあり、名前はラトヴィア人のものだと、ネルリさんが言う。確かに、キリル文字ではなくラテン文字で書かれていた。スターリン時代バルト地方から多数のラトビア人やエストニア人、リトアニア人がシベリアへ『特別移住』させられ、スターリンの死後、恩赦があったので可能な家族は故郷に戻った。(故人も連れて帰った)。だから、そのような村の墓地は棺を掘り上げた跡がある。ネルリさんによると、掘り上げた後は土を戻しておくものだと言う。しかし、ここには十字架の根元に大きな穴が掘りっぱなしで、十字架も傾いている跡地も数か所あった。
 ここよりずっと北のイガルカ市方面にも多くのラトヴィヤ人家族が『特別』移住させられた。このアンガラ河口にも気の毒なラトヴィヤ人家族が上陸させられたのだろう。憂鬱な無縁墓地だった。木製の柵は倒れ、まわりには美しい緑色のコケがびっしり生えていた。十字架も倒れていた。痩せ地の指標であるトナカイゴケが白いキャベツのように並んでいる。菊やグラジオラスの花を手向けなくとも、自然がこんな繊細な美を送ってくれる。
 何年もかかって落ちた松毬と水玉模様のように生えているトナカイゴケの間に松葉がどっさり落ちにふかふかになった地面に小さなラテン十字架が真っ直ぐに立っているのもあって、キリル文字ではない記名の墓標が読めた。年代は1948-1950とあった・・・
 ガイドは時間をかけたくなさそうだった。ネルリさんもリューダも長居はしたくなさそうだったので、先へは進まなかった。普通の集落もあって、もしかして採掘跡もあったかもしれないが、私たちはモーターボートに戻り、広い合流地点を横切り、狭いエニセイ上流を左に見て、アンガラのおかげで大きくなったエニセイ川岸のウスチ・トゥングースカ村へ戻った。

 アンガラとエニセイに囲まれたストレルカ町は、この辺では人口5000人と最も大きいが、環境汚染が問題になっているらしい。『アンガラ下流』というサイトに、ゴレフカ鉛亜鉛採掘精錬工業が河口より33キロ上流で廃棄物を流しているばかりか、ウスチ・アンガルスクの放射性物質もあり、エニセイ上流にはジェレズノゴルスクやゼレノゴルスクといった『アトム』都市もあって、放射性廃棄物が川底にたまっている可能性が大きい、そうだ。町の時間当たり被曝量の数値は大きくはないが、長くこの町に住んでいる住民にはコバルト60やセシウム137の蓄積が見られる、と書いてある。これら致命的な帰結を厳格にコントロールするのは誰か、と地方議会の議員に質問したところ、ストレルカ町の被曝量は他の地方と比べて差異はない、特別の検査をする根拠はないという回答があったそうな。
 エニセイ川はアンガラ河口まで来なくても、クラスノヤルスクを過ぎるころから環境汚染に関しては十分に問題だと思う。
 しかし、『魚荘』に戻ってから、この辺で獲れたと言うハリウス(ヒメマス)の焼き魚料理をレストランで食べる。1匹ぐらい食べたって蓄積されない。これも観光料金に含まれているのだ。
 材木の町レソシビリスク市
 まだ5時にもなっていなかったので、ここまで来た以上はレソシビリスクまで足をのばすことにした。というのも信心深いリューダさんとネルリさんが最近建ったと言うレソシビリスクの十字架挙栄大寺院(クレスタヴォズドィヴィジェンスキィ・サボールКрестовоздвиженский собор)にお参りしたいと言ったからだ。シベリアでは一番高いと、私はリューダさんに説明してしまったが、正しくは最も高い聖堂の一つなのだ。2010年冬道でエニセイ川下流へ行く途中にレソシビリスクを通った時、アレクセイ・ルィヒンさんが得意そうにそう言っていた。高層建築などない小都市に建っているので余計に高く思える。
2001年9月23日
まだ未完の十字架挙寺院
2011年10月17日

 レソシビリスクはクラスノヤルスクから250キロ離れているが、R409号線は私が初めて通った1997年ごろにはもう舗装されていて、2001年には自分の車で行ったくらいだ。その頃、十字架挙栄大寺院は建築中だった。1995年から2002年にかけて建てられたと言うから、もう10年前には完成していたことになる。
 シベリアの町の名所と言えば今はロシア正教寺院だ。ソ連時代はレーニン像とか戦勝記念オベリスク、戦没者慰霊碑だった。今は大都市でも村でも、新築または復興教会が周囲のフルシチェフカ(フルシチョフが建てたという安普請の)アパート群の中で、ひときわ美しくそびえている。レソシビルスクでは特に、赤レンガで建てられ13個の金色の丸屋根(ドーム)で飾られた十字架挙栄大寺院は高さ67メートルもあるので、陸路で近づいても、エニセイを航路で近づいても、遠くから拝むことができる。
 シベリアの森という意味のレソシビリスク市は17世紀、シベリア進出基地の一つとしてできたマクラコーヴォ村がアンガラ松の集散地として発達して、材木工場の従業員団地の新エニセイスク村や新マクラコーヴォ村を合併して1975年にできた人口7万人弱の、エニセイに沿って20キロにも伸びる美観と無縁の材木産業城下町だ。
 そのレソシビリスク市に、モスクワの赤の広場にあるロシア建築の代表ヴァシーリィ・ブラジェンスキィ(聖ワシリィ)大聖堂を模して造られたと言われ、赤いレンガが波打っている十字架挙栄大聖堂が、エニセイ川岸にそびえている。今ではシベリアの名所で、全国からのお遍路さんが巡礼する寺院にもなり、門の前には施しを当てにする人たちも座っている。
鐘楼の東側はエニセイ川
案内の修道女さんと小さな鐘
2番目に大きい鐘をつくポーズ
シンメトリックなアンドレイ教会
アンドレイ教会の側面

 寺院見物コースと言うのがある。これは鐘楼に上がると言うことで、有料でガイドがつき、一番高い丸屋根の下にある鐘楼まで行ける。急な階段を長い間登らなくてはならない。ガイドは若くない修道女さんのようだが、見物客の度にこの長い級階段を上り下りしているのだから、循環器も衰えないだろう。私たちより早く登り、私たちが追い付くのを待ってまた昇っていく。感心すると、細身のその修道女さんはほほっと笑っていた。
 上りつめた鐘楼からは360度が展望でき、エニセイや、町の家々が小さく見える。今通って来た物乞いさんたちの座れる門も、寺院前の道路もその向こうにある無秩序に並ぶ家々も、煙を吐いている煙突も小さく見る。その向こうにはシベリアの森が広がり、この時間は入り日が輝いていた。一方、東側のエニセイ川の方は寺院とエニセイの間は荒野になっている。エニセイ川は春の雪解けシーズンには水量が何メートルも増すので、川岸にある村々はどれも高い河岸段丘の上か、こうして冠水地になる広野を残して村が始まるのだ。
 鐘は大小11個あって、一番大きいのは4444キロ、小さいのは3キロだそうだ。小さい鐘は窓際に下がっている。ガイドが鐘をたたいてもいいと言ったので、私は小さいのを美しく鳴らした(つもり)。ネルリさんは大きいのを弱く鳴らした(つもり)だが、こちらの方は、体中が苦しいばかりに響いてしまった。
 鐘楼から降りていくと、下の売店の修道女さんから
「とても小さい音でしか鳴らさなかったのね」と言われた。つまり、有料で上に上がった見物客はみんな力いっぱい鳴らすのか。そうした方がよかったのか。
 
 レソシビリスクには、4軒のロシア正教の建物がある。この大寺院の他、木造の教会が一戸と最近建てられたアンドレイ教会、それに小さな礼拝堂だ。ネルリが、今ほどの十字架挙栄大寺院より洗練されていると言うアンドレイ教会を見たいと言ったので、エニセイに沿って20キロも時々途切れて伸びているレソシビリスクの町を北に走った。街並みが途切れるのは、レソシビリスクが3つの村を合併してできたからだ、一番北にあるのが旧名『新エニセイスク』村で、そこに12使徒のひとりの名をとったアンドレイ(アンドレイ・ペルヴォズヴァンヌィイ)教会がある。だから、先ほどの十字架挙栄大寺院は『レソシビリスクの』というが、アンドレイ教会の方は『新(ノヴォ)エニセイスクの』と言うことがある。
 行ってみると、門はもう閉まっていて入れなかったが、レースのような透かし細工の柵の向こうに白亜の教会が見えた。2007年から着工が始まりお勤めは行われているが完成はしていないそうだ。丸屋根が中心に一つだけそびえ、左右対称の三葉章という中世ノヴゴロド様式でたてられているそうだ。十字架挙栄大寺院はレソシビリスク材木コンビナートが資金を出したが、こちらの方は新(ノヴォ)エニセイスク材木化学会社がスポンサーだ。
 レソビルスク市を出る頃はもう暗くなりかけていた。薄明かりのエニセイをしばらく走ると、もう真っ暗な森に入る。

 この2日後、クラスノヤルスクを発って北京へ向かった。深夜から明け方まで北京の空港で時を過ごし、来たときのように、中国国際航空機で帰国した。
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