クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
В красноярске

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home up date 22 Feb, 2012  (校正・追記:2012年5月21日、2013年12月22日、2014年3月5日、2018年10月26日、2019年12月4日、2021年9月19日、2022年9月25日)
29-2(1) 2011年、黄金の秋、新シベリア街道の旅  (クラスノヤルスクからノヴォシビリスク経由オムスク市へ)
(1)ロシア国道事情
           2011年10月4日から10月10日(のうちの10月4日

Осенью по Сибирском тракте из Красноярска через Новосибирск в Омск (4.10.2011-10.10.2011)

1 クラスノヤルスクからシベリア街道を西へ 『13戦士の記念』町 カズリカ『退避線』駅村 榎本武揚も休憩したアーチンスク市 宿場町バガトール市
2 マーガレット畑 后妃マリアのマリインスク市 ケーメロヴォ州北部を走り抜ける ノヴォシビリスク市のルィヒンさん宅(往路) ノヴォシビリスク発電所ダムを通って西へ
3 西シベリア平原バラビンスカヤ低地 西シベリア最大のチャニ湖 バラビンスキー・タタールのウビンスコエ湖 空が広いバラビンスカヤ低地 オムスク州
4 オムスク市イルティッシュ・ホテル オムスクの印象 オムスク名所プーシキン広場レーニン通り オムスク砦 オムスク砦周辺を歩く
5 オミ川左岸レーニン広場、郷土博物館 オムスクが緑の町になったのは カザフスタンに近いオムスク、旧シベリア総督宮殿 オムスクからノヴォシビリスク市、ベルツコエ街道
6 ノヴォシビリスク市の名所 ノヴォシビリスク植物園 交通博物館 レーニン広場 交通機関の公安を守る 『ほろ酔い』丘陵群
クラスノヤルスク市 ハカシア アンガラ川河口のウスチ・トゥングースカ村

ラスノヤルスクからシベリア街道(今はバイカル道)を西へ
 9月29日(木)北京経由でクラスノヤルスク市へ入り、10月19日(水)同じく北京経由で帰国の途に着くまで、知り合いのディーマさん宅でホームスティしていた。はじめの4日間ほどは市内や郊外を回り、10月4日(火)クラスノヤルスクから国道(連邦道)53号線で西のオムスクへ向けて出発した。(クラスノヤルスク観光は前ページに)
 国道と言うより、ロシア『連邦』なのだから『連邦道』が正しく、ロシア語でも『連邦的意義の自動車道』と言って、76本ほどあり、モスクワと主要地点を結ぶ道路は“”と言う文字がつけられている(Магистраль幹線の“M”かもしれない)。
連邦道の一部 

 たとえば、『M1』号線はモスクワから西へ、ベラルーシへの国境までの440キロで、『ベラルーシ道』と言う別名がある。その先もベラルーシを通って西へ西へとポーランド、ドイツ、オランダ、イギリス経由アイルランドのコークまで5800キロにわたって伸びている欧州自動車道路の最長ルートの一つ『E30』号線がある。だから、ロシア内の『M1』号線はその欧州道一部になっている。また、『E30』号線はモスクワから東へ2500キロのオムスクまでも通じている。なお、ロシアの『M1』はアジア・ハイウェイ『AH6』号線(釜山からウラジオストック、ハルビン、イルクーツク、ノヴォシビリスク、オムスク、チェリャービンスク、モスクワ、ベラルーシの国境まで10407キロ)の一部でもある。
 『M2』号線はモスクワからウクライナの国境までの720キロの別名『クリミア道』で、今ではウクライナ共和国のクリミア半島までは通じていないが、欧州自動車道『E105』号線(ノルウェイの北端からウクライナの黒海沿岸クリミア半島のヤルタまでの3770キロ)の一部だ。
 『M3』号線も西寄りの別ルートでウクライナの国境まで伸びている。(欧州自動車道『E101』号線の一部)。
 『M4』号線はモスクワから黒海沿岸のノヴォロシイスク港までの1540キロで、ドン川に沿って延びているのか『ドン道』と言う名前だ。
 『M5・ウラル道』はモスクワからヨーロッパとアジアを分けるウラル山脈の中心都市エカチェリンブルグまでの2068キロだが、上記『M1』号線と同じく欧州自動車道『E30』号線とアジア・ハイウェイ『AH6』号線の一部だ。
 『M6』号線はモスクワから、ヴォルガ川がカスピ海に注ぐデルタの根元にあるアストラハンまで延長1380キロで、『カスピ道』という。
 『M7・ヴォルガ道』はヴォルガ川に沿ってバシコルトスタン共和国のウファまで1340キロ。
 『M8・ホルモゴーリ』道は北の北海沿岸へ1270キロ。
 『M9』号線はモスクワからバルト海のラトヴィヤの国境までの610キロで『バルト道』という。
 『M10』号線はモスクワからサンクト・ペテルブルク経由フィンランドの国境まで870キロで、サンクト・ペテルブルクまでは『ロシア道』(上記欧州自動車道『E105』号線の一部)、その先は『スカンジナヴィヤ道』(『E18』号線の一部)などあって、多くの主要連邦道は、国際的な道路の一部となっている(既存の道路網を利用して国際道ができた)。
 『M』の10番代や20番代、30番代は飛び飛びにしかない(私の知っているところでは)。40番代は全くない。構想中なのかもしれない。『M』の50番代はかなり揃っていて、『M51』号線、『M53』号線、『M55』号線はすべて『バイカル道』といって、『M51』はチェリャービンスク市からノヴォシビリスク市までの1530キロ、『M53』はノヴォシビリスク市からイルクーツク市までの1860キロ、『M55』はイルクーツク市からチタ市までの1110キロで、『M5・ウラル道』の続きのように、モスクワから東に延びてくる。
シベリア街道(イルクーツクからキャフタへの道もある)

 モスクワからチタまでは、帝政時代の18世紀から馬車が通れ、だから、宿場も換え馬も揃っているシベリア街道があった。チタ市の先はアムール水系を利用した河川路で太平洋岸まで出ていた。シベリア鉄道の方は20世紀初めには開通されたが、長い間、太平洋岸まで出られる街道(陸路。つまり、昔なら換え馬があって馬車が通れる、今ならガソリンスタンドと修理場があって自動車が通れる道)はなかった。事実、チタ市からハバロフスク市までの2100キロの『M58・アムール道』が全線開通されたのは2010年9月のことだ(舗装は部分的)。ハバロフスクからウラジオストックまでの760キロは『M60・ウスーリー道』が通っている。『M51、53,55,60』は、モスクワからウラジオストックまでアジア・ハイウェイ『AN6』(途中ハルビンなど中国領に入る)の一部となっている。『M58・アムール道』の方は『AH30』号線の一部。(1993年発行のロシア自動車地図には、M60は載っているが、M58はない、M56は途中のヤクーツクまで)。
 『M』のほかに、『A』や『P』で始まる連邦道もある。もちろん、連邦道の他に自治体の州道や地方道、共和国道もあって、こちらは必ず『A』や『P(ラテン文字Rに相当)』で始まる。

 モスクワからウラジオストックまで、こうしてほぼ舗装された通行可能な道路が出来上がったのは、上記のように最近のことで、東部方面は20世紀には鉄道しかなく、19世紀にはチタから東はアムール水系航行しかなかった。1991年から2010年までは、ウラジオストックから西へ日本製中古車を運ぶには、鉄道輸送か、仮ナンバーをつけてオフロードを自走するしかなかった。この自走の冒険物語は昔よく耳にした。車のルーフにはタイヤを何本も積み、さらに修理用部品も自前のが欠かせない。道中、宿泊するところもないし、ギャングも必ずいた(ゆすり屋と話せる人物を同乗させた。下記)。
 この時代、鉄道もあまり快適ではなかったし、2004年までのクラスノヤルスク滞在中の私は、日本とクラスノヤルスクを往復する以外、旅はしなかった、と言っても空路のみで。(シベリアは主要都市間ばかりでなく、サービスは不問にしても、航空網はさすがよく発達していたものだ)。
 しかし、今は、全線ほぼ開通だし、ぜひ走ってみたいものだ。鉄道とは違う旅ができる。と思うが、全線走破は、まず、機会がない。ウラジオストックからクラスノヤルスクまでは約5000キロあって、原野の中を通るに違いないこの線が最も面白いだろう。
 ところが、クラスノヤルスクから西のオムスクまで1500キロ弱だが、今回、ディーマさんが車で行くと言う。オムスクに取引先ができたので、一度、会ってみなければならないそうだ。もっと早くに行かなければならなかったが、私のロシア訪問まで待っていてくれたそうだ。たったの1500キロと言っても、1日では走れない。途中のノヴォシビリスクで宿泊すると言うから、快適なドライブになりそうだった。夜間にも走れば1日で行ける。夜走っても車のライトしか見えないから面白くないという私の希望を入れてくれたのかもしれない。

 前記のウラジオストックからの自走冒険物語の一つだが、ディーマさんが昔、2001年や2002年の頃、4回ほどウラジオストックで買った日本製中古車を自走させてクラスノヤルスクまで持って来る時は、武器を持った友達と二人組で運転してきた。当時、港で荷揚げした車を自分の居住地まで仮ナンバーで自走させ、住居地で本ナンバーを申請しなければならなかったのだ。この仮ナンバーの車は当時ウラジオストックのマフィアの財源の対象だった。たとえば、ディーマさんはウラジオストックから少し離れた街道で、後ろから来た車に越されて前を塞がれたそうだ。前の車から降りてきた男性が『通行料』を要求したので、ディーマさんたちは武器を向けた。それで『無料』で通行できたそうだ。
 2度目はハバロフスク通過中だった。ディーマさんに言わせると、当時ハバロフスクというのは仮ナンバー車にとって無事通過できない都市だった。つまり、町外れで『一味』に停車させられた。この時のために、ディーマさんはハバロフスク通過中だけ地元の知り合い(つまり、同様の『一味』)に同乗してもらっていた。だから、その同乗者が話をつけてくれたそうだ。
 もちろん当時は、ハバロフスクを過ぎるとチタまでの一部に全く陸路がない区間があり(現在M58は全線通行可)、冬場はシルカ川(アムールの支流)の氷上を走るが、氷の張らない夏場はその区間だけ鉄道で運んだ。当時、ウラジオストックからクラスノヤルスクまでの約5000キロの道のりは10日間以上はかかった。私も踏破してみたかったが。
 一方、最近、ディーマさんは大型部品をモスクワまで緊急で取りに行った(片道約4500キロ)。武器は持たず、二人で普通の乗用車で行ったが、車を止めたのは食事とトイレのときだけで、夜中も交代で運転して、往復1週間で行ってきたそうだ。どちらかというと、そんな旅はあまり面白くない。

 今回は、そういう強行進ではなく、全線アスファルト舗装道路を昼間だけの快適なドライブで、シベリア平原が満喫できることになったのだ。
 10月4日(火)に出発して、1日目はクラスノヤルスクからオムスクまでの約半分のノヴォシビリスク市まで行く。その内300キロはクラスノヤルスク地方内を、さらに250キロはケ-メロヴォ州内を走り、また250キロはノヴォシビリスク州内を走って、1泊目の宿泊地ノヴォシビリスク市に到着することになる。
軍事施設に囲まれていた『13戦士の記念』町
 ディーマさんの家(マンション)は、クラスノヤルスク市の西部にあるので、ノヴォシビリスクへ行くのに、市中を横断する必要はないが、それでも、慢性的な渋滞の市街地を抜けて、郊外の連邦道まで出るのに1時間近くかかる。そこまで来ると、木の生えていない低い丘陵地帯や牧草地を通りぬけて、エメリヤーノヴォ空港へ向かう広くて新しい道路ができているので、快適に走れる。(すでに1998年の橋本エリツィン『クラスノヤルスク会談』の時以前にできていた)。空港への分岐点を過ぎると、舗装はやや悪くなるが、交通量も少なくなる。この辺まで来ると、周りは山がちになる、というのも、連邦道53号線は東サヤン山脈の北端に沿って東西へ伸びているのだ。クラスノヤルスクからオムスクまで(それどころか全長4500キロの『バイカル道(つまりM51と53と55)』には一本もトンネルがない。山や沼地など障害物は迂回すればいいので、曲がりくねったところが数か所ある他は、道は山道を上ったり下ったりしてシベリア大平原をできるだけ真っ直ぐに進む。
クラスノヤルスクからM53を80キロほど西の地点まで
赤四角は格納庫などの旧施設 拡大図

 小川は、春の雪解けシーズンであふれるときの他は草木に隠れて見えないくらいに小さいが、何本も渡る。橋を渡る時にはどんなに小さな川でも標識が立っていて、この標識を丹念に読んでいくのが好きだ。20万分の1くらいの縮尺の地図でないと載っていないような川でも、標識は律儀に立っている。
 前日、リューダさんやネルリと行った『13戦士の記念』町(クラスノヤルスクから約50キロ)をすぎると、東サヤン山脈の北の端を通る連邦道沿いには、集落は見えない。集落へ通じる道に立つ標識も見えず、あるのは小川の名前を書いた標識だけになる。カーチャ川を渡り、さらにカーチャ川の支流のリストビャンカ川を渡り、チュリム川の支流の小ケムチック川の小さな支流の小ミナンジュリ川をわたる。カーチャ川はエニセイ川の支流で、チュリム川はオビ川の支流だから、この辺がシベリアの大河オビとエニセイの分水嶺になる。事実、連邦道とほぼ並行だが数キロ南を走っているシベリア幹線鉄道駅にも、その名も『分水嶺』と言う名前の小さな駅がある。
東サヤン山麓の森の中を走る

 小川はあっても集落はないように見えるが、ウィキマップで見るとこの辺には廃村がいくつもある。ケムチック川やその支流に沿って行くと、もっとある。ウィキマップには、集落はロシア語で書かれているが、軍事施設は英語圏からの投稿か、ロシア語ではないことが多い。この辺の森の中に大陸弾道弾ミサイルUR-100K(NATO のコード名SS-11 Sego)の地下格納庫がばらばらと数十か所も英語で示してある。すべて、廃墟となっているが。
 『13戦士の記念』町の近くの『クラスノヤルスク66』と言う軍事基地町は1960年代初めにつくられ、第36ロケット師団(戦略的ロケット師団ウィーン)がおかれていたそうだ。(ウィーンとかベルリンとかの名は多分暗号名)。ソ連解体後『ケドローヴィ』と言う普通の名前になったが、依然として重要基地だった。しかし、2002年、ウラン弾保管基地が再整備された時に解体され、2007年には閉鎖も解除された。ケドローヴィから、直線距離で約70キロ北まで、第36師団の格納庫など付属施設があった。連邦道から2,3キロ以内の範囲でも10ヶ所以上ある。格納庫以外の施設もある。すべて廃墟だが、そんなことを知らなければ、東サヤン山麓の針葉樹林や白樺林の間を通って、助手席から眺めるシベリアの黄金の秋は素晴らしい。(ケドローヴァ町は10月3日にリューダさんやネルリさんと訪れた・偵察に行った)
カズリカ『退避線』駅村
 連邦道のわきにある。西シベリア平原の東部を東や西に大蛇行して流れるチュリム川の右岸支流の中でも2番目に長いのが、441キロの大ケムチック川だ。その右岸支流が小ケムチック川で、それらの川がシベリア街道(今は連邦道)と交わったところにできたのが、大ケムチック村とか小ケムチック村とか言う小さな集落だ。その近くに1970年考古学者オクラドニコフによって大ケムチック石器時代遺跡が発見された。大ケムチック遺跡から出た遺物は放射性炭素測定で10,890±60年前と出ているそうだ。(小ケムチック石器時代遺跡も『西シベリア平原の後期旧石器時代』という題で博士論文がサイトに載っていた。実はこの地域には幾つもの石器時代遺跡があるそうだ)。
 まず小ケムチック川の方から渡りミハイロフカ村への分岐点も過ぎると、M53号線からクラスノヤルスクを通らないでM54号線へ通じるバイパスが分かれていくロータリー交差点がある、ロシアでは、ロータリー交差点が多い。故障するかも(壊されるかも、盗まれるかも)しれない信号機を設置しなくてもよくて、立体交差建設よりずっと安価で、土地の広いロシアに向いているのだろうか。ハカシアへ通じるM54号線に出ることが多いので、この辺までは、最近よく来る。クラスノヤルスクを出て30分で来られる。
山道を直線で下る

 ここシベリアでは、かなり急な山道でも、真っ直ぐに登り、真っ直ぐに降りる。トンネルなど掘る必要がない。傾斜があっても直線道なら、雪道で滑るときだってハンドルを切らなくてもよくて、安全そうだ。

 クラスノヤルスクから105キロのカズリカ村近くで道路は2車線ずつの広さになる。また、ほぼ並行して南を走っていたシベリア幹線鉄道に間近になる。鉄道ではクラスノヤルスク駅からカズリカ駅まで118キロだから、地図で見ても連邦道の方が直線に近く、だから近道しているようだ。
 19世紀末、シベリア幹線鉄道駅として、カラマツやヤマナラシの混生する白樺林を切り開いてできた『カズリカ退避線』駅というのが、村の起源だそうだ。しかし、鉄道ができ始めるずっと前の18世紀中ごろからカズリカと言う小さな集落があった。カジョール(山羊)が多かったからそう呼ばれたとか。事実、この辺の森の中には、ロシア帝国のヴャトカ県からの移民が作った小さな開拓民村が90キロの長さに渡って点々と散らばっていた。その一つのカズリカ村の近くに4等級の駅(当時、5等級の規模・ランクまであったらしい)ができたと言うわけだ。初めにあったカズリカ村は、今は、旧カズリカ村になり、『カズリカ退避線』駅は1934年、『カズリカ』駅となり、鉄道城下村『新』カズリカ村も発展した。(以上、カズリカ中等学校付属郷土博物館『カズリカ村の歴史』サイトから)。
 同サイトには、1991年、駅の近くのモスクワ街道を、ウラジオストックからシベリアを旅した未来のニコライ2世(*)が通ったことも載っている。
 未来のニコライ2世 1890年10月にサンクト・ペテルブルク(のガッチナ宮殿)を出発した皇太子は、ウィーン経由でイタリアのトリエステへ行き、そこから戦艦『アゾフ記念』号に乗って、エジプト、インド、バンコック、香港から長崎港に着いた。日本訪問中、大津事件があった事は有名。神戸から出航して5月ウラジオストックへ。そこでシベリア鉄道の起工式典などに立ち会い、ブラゴヴェーシェンスクからイルクーツク、マリインスク、トムスクと東から西へシベリアを横断し、出発から8カ月後サンクト・ペテルブルクに戻った。
クラスノヤルスク地方西部からケーメロヴォ州北部 
赤は連邦道、黒は鉄道
 
 その、ニコライ2世通過の7年後には、できたばかりのシベリア鉄道を、西から東へ、レーニンがクラスノヤルスク地方の流刑地へ護送される時、『カズリカ』駅を通り過ぎたとか。
 カズリカ村の近くは車線も広く、舗装も新しく、道端には村民たちが自分たちの畑で採れた野菜や、近くの森からとって来た木の実、白樺の皮で作った作品などを並べて都会からの車に売っている。道路が広くなっているのは、村人が副収入を得るため屋台を並べるためではなく(これは冗談)、村の横にある予備戦車部隊中央基地とか言うのがあって、そのせいかもしれない。ウィキマップには広い敷地内に数棟の建物、広場に無数の戦車の写真が載っているし、ユーチューブにはここで勤務する兵士たちの動画も載っている。
 しかし、連邦道からは何も見えないし、道も広いので、スピードを上げて通り過ぎる。連邦道はこの先で、シベリア鉄道の南側に移り、60キロほど行くと、クラスノヤルスク地方で人口第3位(11万人弱)のアーチンスク市に出る。
榎本武揚も休憩したアーチンスク市
 1960年代、アーチンスク空港近くで、2万年から2万8千年前(1万年前という説もある)の旧石器時代遺跡が発掘調査されている。(2010年、行ってみたが、他の発掘調査済みの遺跡同様、格好のゴミ捨て場になっていた)。
 ずっと南のアバカン山脈やクズネック・アラタウから流れてくる白イユース川と黒イユース川が、ハカシア共和国のコピヨーヴォ村で合流してチュリム川(1799キロ)となり、丘陵地帯を西や東やと大旋回して北へ流れていくこの一帯には、中世からキルギス人の一派のアチ族が住んでいた。それで、ウラルを越えてやって来たコサック兵が1641年、アチ族の地に要塞を作り、アーチンスク柵としたが、数年後、キルギス人(ハカシア人、アチ族)に攻撃され撤退、1682年に、要塞はより北のチュリム川の畔の今のアーチンスク市のある場所に建て直されたそうだ。シベリアにしてはこのように古いアーチンスクは、全連邦の歴史都市のひとつに登録されている。
 1872年8月、当時ロシア帝国の首都ペテルブルクからの帰途、シベリアを横断してウラジオストックへ向かったロシア公使榎本武揚は、チュリム川を渡ってアーチンスクに着き、『役人が出てきて食事の用意ができたと勧められたので休憩した』と日記に書いている。当時、人口は3千人余で、チュリム川では砂金がとれ、近くに鉄山もある、このあたりは土地が肥えていて路傍の雑草も稠密だが、オオカミやクマが多く牧畜の害をなす、とも書いてある。
 1929年には『トゥバ(トゥヴァ)紀行』を書いたメンヒェン=ヘルヒェンが、モスクワから当時3813キロのアーチンスクまで来て、ここでミヌシンスクへ南下する支線に乗り換えている。『小都市アチンスクはシベリアでは最も古いロシア人集落の一つである…ビール醸造所一つ、製皮所一つ、製粉所一つ、これが産業のすべてだ。町は駅が大きくなっただけのもので、一群の役所、そして何よりも穀物と腸詰産業…』と書いている。
 現在、アーチンスクは世界第2位のアルミ生産のルサール社傘下の『アーチンスク・アルミナ・コンビナート』が基幹産業となっている。また、アルミ生産の関連産業アーチンスク・セメント工場などもある。
 アーチンスク市の外れでチュリム川を渡ると、もう、低い山が遠くに見えるだけで、大平原になる。たまに見えるのは白樺林ぐらいで、葉っぱが黄金色にきらめいている。もう少し時期が早ければ、もっと光っていたかもしれないが、落葉して白い幹だけの林もあった。M53号線は、この辺ではほぼ真東に流れるチュリム川とシベリア鉄道の間を通る。クラスナヤ・レチカと言う住民374人と言う小さな村も通り過ぎる。前述、榎本武揚『シベリア日記』8月18日の冒頭には、『朝6時40分、カラスノ・レチカと言う村駅にて茶を飲み卵を食ふ。この村のはずれの小高き処に屯所あり。守兵70人ありて罪人護送等の用に供す。村はずれに河あり。チュリュムと云ふ。行くこと10ウョルスト(露里、1露里は約1キロ)ばかりにして路左に10尺ばかりの煉瓦の標識あり。すなはち東シベリアの境なり。この処よりしてエニセイスク県となる。道路自然のカーペットにして塵起こらず。9時40分、チュリュム川を渡りアーチンスクという邑に着す…』とあり、アーチンスクで休憩し、『ブリュリと云ふ小駅』で晩食を食べ、深夜1時に『カラスノヤルスク府』に着いている。
 つまり、18世紀中ごろできたモスクワ街道が走っていたと同じラインを連邦道が走っているのだ。私たちのディーマさん運転の97年制ランクルも、同じ道を、榎本武揚と逆に走っているのだ。(『サハリン日記』を書いたチェホフも『シベリアの旅』では西から東と、榎本と同じ道を行く)。
 宿場町バガトール市
 アーチンスク市から60キロほど行くと(クラスノヤルスクから250キロ)バガトール市への入り口に出る。東サヤン山脈の最も北東の小さな支脈アルガ山脈を迂回して深い弧を描いて流れるチュリム川はこの近くにも来ている。チュリム川はここまで来ると、もう山地に行く手を阻まれることなく一面のシベリア低地をよたよたと北東に流れ、オビ川と合流する、つまり、この辺から中央シベリア大低地が始まりそうだ。事実、このあたりは沼地が多く褐炭層(炭化の程度の低い石炭)が広がっている。
バガトール付近、干し草の山

 バガトールと言うのはチュルク語で「小さな谷」と言う意味だそうだ。トムスク州からハカシア共和国のトミ川流域にはチュリム・タタールと呼ばれる先住民が住んでいて、16,17世紀ごろまではハカシア盆地に本拠を持つハカシア諸侯国の勢力範囲だった。だが、18世紀初め、ロシア帝国はハカシア諸候国を合併し、旧諸侯国内に多くのコサック前哨隊基地ができ、ロシアからの農民の『開拓地』群も旧諸侯国を分断するようにできた。つまり、ロシア移民が、今のアーチンスク市やバガトール市に住みついたため、南のハカシア盆地に住むハカス人(ハカシア人、アバカン・タタールなどエニセイ・キルギスと当時呼ばれた)とチュリム・タタール(チュルク系のアルタイ・テレウート人やエニセイ・キルギス人を主として、サモディツィ語族のセリクープ人やエニセイ語族のケット人も含めて言う)は分断されることになった。
 ハカシア共和国のハカシア人の民族・歴史学者は、チュリム・タタール語をハカシア(ハカス)語の方言だとしているが、チュリム人は、自分たちは独立の民族であるとして、ロシア連邦北方(シベリア・極東)少数民族のひとつになっている。少数民族としてロシア連邦全体で30余の民族が登録され、保護を受けている。
 しかし、チュルク語族系が住みつく前は、ひろくエニセイ語族が住んでいたらしく、ボガトールと言う名前の語源は、『ボガト』と言うケット人(エニセイ語族の中で唯一残った)の氏族の名前で『ウル』は川を意味する、と言う説もある。

 前記のように、18世紀半ばには、帝国統治と中国貿易のためモスクワからイルクーツク(の先のキャフタやネルチンスク)まで馬車が通れ、換え馬のあるモスクワ街道が整備された。それにつれて、バガトールは、ケーメロヴォ州のスースロヴォからアーチンスクまでの中間宿場町として栄えた。18世紀半ばにボガトールとクラスナヤ・レチカ村で作られたヴォッカ(材料の小麦の収穫もその地は大)は全シベリアで取引されたとある。今では小さなクラスナヤ・レチカ村は当時榎本が足を止めるくらいの開けた村だったらしい。ボガトールにいたっては、18世紀末で住民が2000人いたと言うから、当時の商業中心地だった。
 19世紀末にはチュリム川に面した古いバガトールから6キロ離れてシベリア鉄道駅ができ、列車修理工場もでき、鉄道城下町として新バガトール町は再発展。ちなみに1975年の人口は3万人、2008年は2万人。2010年には市の中心2キロにわたって国産の発光ダイオード46個で街灯を灯したそうだが、これはロシア初だとか。
 連邦道はボガトール市の近くでシベリア鉄道から少し離れて、チュリム川の三日月湖の湿原を突っ切って近道してクラスノヤルスクとケーメロヴォ州の境界へ伸びている。境界のカシュタン村(300人余)でまた近づき、ケーメロヴォ側のイタットスキィ町(18世紀後半からの農村、チュリム川の左岸支流イタット川の畔。人口4000人)で鉄道を横切り北側に出る。

 クラスノヤルスク地方の連邦道53号線を走るときは、50万分の1のかなり詳細地図を持ってきていたので、フロントガラスの外付けナビは外してもらった。走りながら助手席から写真を撮っていると、カメラ・フレームに入ってしまい邪魔だったからだ。それに、53号線の1本道なので、ナビは不要だ。ノヴォシビリスクに入ってから、今夜の目的地のルィヒンさんの店を探すときに、セットすればいい。
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