クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 22 Feb, 2012  (校正・追記:2012年3月13日、8月26日、2014年2月6日、2018年10月27日、2019年12月4日、2021年9月22日、2022年10月8日)
29-2 (5)   黄金の秋、新シベリア街道の旅   
                クラスノヤルスクからノヴォシビリスク経由オムスク市へ
(5)乾燥ステップ帯にできた緑の町オムスク(続き)
                     2011年10月4日から10月10日(のうちの10月6日の続きから10月7日

Осенью по Сибирском тракте из Красноярска через Новосибирск в Омск(4.10.2011-10.10.2011 )

1 クラスノヤルスクからシベリア街道を西へ 『13戦士の記念』町 カズリカ『退避線』駅村 榎本武揚も休憩したアーチンスク市 宿場町バガトール市
2 マーガレット畑 后妃マリアのマリインスク市 ケーメロヴォ州北部を走り抜ける ノヴォシビリスク市のルィヒン宅(往路) ノヴォシビリスク発電所ダムを通って西へ
3 西シベリア平原バラビンスカヤ低地 西シベリア最大のチャニ湖 バラビンスキー・タタールのウビンスコエ湖 空が広いバラビンスカヤ低地 オムスク州
4 オムスク市イルティッシュ・ホテル オムスクの印象 オムスク名所プーシキン広場レーニン通り オムスク砦 オムスク砦周辺を歩く
5 オミ川左岸レーニン広場、郷土博物館 オムスクが緑の町になったのは カザフスタンに近いオムスク、旧シベリア総督宮殿 オムスクからノヴォシビリスク市、ベルツコエ街道
6 ノヴォシビリスク市の名所 ノヴォシビリスク植物園 交通博物館 レーニン広場 交通機関の公安を守る 『ほろ酔い』丘陵群
クラスノヤルスク市 ハカシア盆地の遺跡 アンガラ川河口のウスチ・トゥングースカ村

 オミ川左岸 レーニン広場・郷土博物館
 オミ川にかかるユビレイ橋を渡るとレーニン広場に出る。ここには、かつて幾つもの丸屋根のある預言者イリヤ教会があった。18世紀後半、当時としては最新式オムスク七稜郭(大稜郭が4郭、小稜郭が3-4郭)城塞が建てられるまで、このオミ川左岸に砦があったのだ。その旧オムスク砦のズナメンスキー門の跡に1778年、市の守護聖人の預言者イリヤ教会が建てられた。1891年にはウラジオストックからシベリアを通って首都に帰還する途中の皇太子ニコライもこのオムスク市で最も由緒ある教会に参拝した。が、ソ連時代の1931年には閉鎖され、後に穀物倉庫となり、1936年には解体され、預言者イリヤ広場にはレーニン像が建てられレーニン広場と改名された。(この時期、ソ連邦のほぼすべての宗教施設は解体されたのだ)。しかし、2000年にレーニン像の後ろに、小さな預言者イリヤ礼拝堂が建てられので、礼拝堂から出てくる信者はレーニンの背中を見ることになり、レーニンを見る人はその背後に『寺院への道』を見ることになったと、皮肉られている。
旧『革命戦士広場』に残る彫刻
台座には『革命闘争における英雄達の
功績は常に人々の心に生き続ける』

 旧・預言者イリヤ広場(今のところは『レーニン広場』の名のまま)はオミ川左岸の河岸段丘にあり、道は上り坂になっている。道が上がったところの旧『革命戦士』広場に、革命戦士記念碑(1923年)や『永遠の火』(1967年)が残っているが、今は旧シベリア総督府宮殿庭園と呼ばれている。ここに、オムスクでも最も古い庭園があった。19世紀後半に建てられたシベリア総督の邸宅は、オムスクに立ち寄った要人たちも宿泊した由緒ある建物だ。1891年オムスクを通ったニコライ皇太子も宿泊した。
 (一方、ペテルブルクからの帰途、1878年榎本武雄は、チュメニを過ぎてから近道をしてトムスクに向かったのでオムスクには寄らなかった。正規のシベリア街道はオムスクを通るが、200キロほど近道をする『商街道』と言うのを通ったと『シベリア日記』には書かれている。こちらの宿場は国営ではないが、1キロについて馬の値段が同じだったそうだ)
 総督府宮殿は内部も当時と変わらず残っていて、ヴルーベル美術館になっている。ここへは次の日に入った。なお、アカデミー劇場向かいにも、ヴルーベル美術館分館がある。
 その向かいが目的地の郷土博物館だった。ここで閉館までの1時間余を過ごした。
 はるか西のトムスク州に近いヴァシュガンスカヤ低地から1091キロにもわたって流れてきたオミ川がイルティッシュ川に合流したところに1716年コザック兵たちによってできたのがオムスク砦だとは再三書いたことだが、ではそれ以前はどうだったのだろう。この地方に長い間住んでいた先住民族もいただろうが、普通はオムスク市の歴史と言うと18世紀のオムスク砦から始まっていて、それ以前がない。しかし、オムスク州郷土博物館にはさすが石器時代から始まるオムスク州全体の歴史が示してあった。そのコーナーには、大規模で有名なものとして、イルティッシュ川沿いの1万4千年前の後期旧石器時代チョルノアジョールニエ遺跡(サルガツコエの近く)であると、地図や、説明文、発掘品などが展示してあった。
19世紀草原地帯の街道の御者と警備隊(博物館の写真)

 郷土博物館に入って、石器時代からロシア帝国時代、革命内戦時から現代までの歴史や、鉱物資源から動植物の自然環境などの展示品を写真に撮ったり、説明文を読んだりしながらゆっくり回るのが大好きなのだが、閉館の10分前になると、かばんを持って帰る準備をした職員にせかされて外へ出た。その頃は、朝からの歩きどおしで、足が棒のようになってしまっていた。だが、疲れてしまったのはいつもは歩かない私だけで、細くて頑強なタチヤーナさんは平気だと言っていた。
 それでも、喫茶店に入りスウィートを食べて元気を出し、オムスク市の歴史へ戻っていく。タチヤーナさんの専門的なコメントのおかげで、建築士の目で通りを眺め、写真を撮りながら、リュービンスキー通りまで戻り、大きな本屋に入って、オムスクの本など買って、8時過ぎにやっとグルーニャさんの待つ家に戻った。グルーニャさんの用意した夕食を食べると、もうどこへも出たくなくなったが、今日の日程はまだ終わってはいなくて、9時からタチヤーナさんのスペイン語講座に一緒に行くことになっている。もう歩きたくないのでタクシーで行った。
壁紙が国際的な語学教室、後列男性がメキシコ人

 遅れて入っていった教室では6人の受講生がいて、先生やネイティヴのメキシコ人と丸いテーブルを囲み、会話中心の授業をしていた。スペイン語を知らない私に生徒がロシア語で質問し、ロシア語を知らないメキシコ人に生徒がスペイン語で訳し、先生が助言するという、飛び入りの私も活用してもらえる授業になった。生徒からの質問は3月の地震と発電所事故のことから始まるとは予測していたが、こんな難しいことを受講2年目でよくスペイン語に訳せるものだと感心して、さっぱりわからないスペイン語の音を聞いていた。タチヤーナさんは趣味でスペイン語をやっているが、受講している外科医夫妻はスペインに移住する計画があるとか。

 この日から2泊タチヤーナさんの1DKアパートに泊まった。いつもグルーニャばあさんが寝ているベッドを私が使い、台所の椅子を延して、タチヤーナさんたち二人が寝る。アパートは古いがトイレ・バスは快適だった。
 オムスクが緑の町になったのは
 オムスク市の建物の中にはタチヤーナさんの会社が設計したものがかなりあり、そのいくつかはタチヤーナさん自身も設計グループの一員だった。その中でも主任設計師として最近完成した建物の一つがオムスク農業大学付属図書館だった。10月7日(金)はそのタチヤーナさんの作品を見に行くことになっていて、前もって図書館館館長にも連絡してあったのだ。
農業大学への並木道、左右で違う樹木
最近完成した図書館
図書館長室(黒スーツ女性が館長)
キジュ-リン果樹庭園奥のエリート用住宅

 オムスクには28の大学があるが、帝国農業中等学校から、1918年シベリア農業大学となった現オムスク農業大学が最も古い。学内には1912年から1919年まで使われていたと言う校舎の一部が建築記念物として保存されているくらいだ。なぜ農業大学なのか、タチヤーナさんによると、オムスクは、ドストエフスキーも書いているように、夏は酷暑で砂埃の上がる忌まわしい町で自然美の乏しい地域だった。しかし、このオムスク砦が立てられた半砂漠の地(カザフから続くイシム草原)は農地化され、緑の街を目指して植林され、今のような森林公園や植物園、庭園、並木道の多い町になったのだそうだ。それを指導したのが農業研究機関だった。
 農業大学は旧オムスク市街からはちょっと外れの広大な敷地内にあって、タチヤーナさんの家からはバスで10駅ほど行く。オムスク市自体はこの先30キロもイルティッシュ川に沿って続いているが、工場地帯にはいり、68%は工場の敷地、32%が住宅地と、ソヴィエト管区広報に載っている(110万人都市オムスクは5つの管区に分かれていて農業大学よりイルティッシュ右岸下流はソヴィエト管区)。巨大な石油加工工場がソ連時代に建てられ、だから、農業大学より下流は『石油町』と呼ばれている。

 『農業大学前』というバス停で降りて通りを一つ渡ると、そこは樹木公園だった。一方には針葉樹、別の一方には落葉樹が整然と植えられているポルチャンコ並木道を半キロほども歩いていくと、大学本部の建物に出る。ポルチャンコ農学博士は、かつては木の1本もなかった敷地内に西シベリアに合う各種の樹木を植え、大学樹木公園創設を指導した、と入口の説明板に書いてある。今のような秋こそ、この並木道を歩くのにぴったりだった。右手は背の高いうっそうとしたマツ、モミ、トウヒ類などの列が並び、左手は黄金色の白樺林で、コントラストが鮮やかな上、足元は落ち葉で埋まっている。
 大学の校内には、寮やグラウンド、その向こうに射撃場、奥の方に広い実験農場、それに数棟の校舎があるが、その中でも最近建ったと言う図書館は、大学のサイトによると『超現代的』とある。実際、他の建物が実用一点の灰色のソ連時代風な中で、土台と屋根が赤く、広いエントランスが来館者を迎え、明るく実用的な外観だった。
 内装も垢ぬけしていた。日本からロシアに来ると、「あ、ここはロシアだ、昔のソ連だ」と、感じさせるものが当然ながら少なくないのだが、ここはいわゆる『ソ連様式』を脱却していた。ひとえに感心して近づいて行く。受付カウンターの女性から、どこへ行くのか、アポイントメントは取ってあるのかと聞かれて「外観はともかく、やはり、中身は、、、」と思ったが。
 タチヤーナさんによると、かなり以前に始めた仕事だったが、資金難のため、やっと最近完成したとのこと。注文側と施工側が初めから最後までよい関係にあった仕事の一つだったそうだ。だから、完成後も、こうやって時々訪れる。
 館長室には、ロシアの古い建物には決してない壁一面の窓があって(暖房が不十分だと寒い)開放的で、室内インテリアも統一されていて仕事をするのも快適そうだった。女性の館長も感じが良くてコーヒーをご馳走してくれて、しばらく話した後、最新設備を備えたと言う館内を案内してくれた。スタジオのある会議室が自慢そうだった。観葉植物の植木鉢が並ぶ広い窓のホールもあって、農作業道具を持って実験農場へ行く学生の一団が見下ろせた。もちろんパソコン・ルームもあれば、古い出版物が収集されていると言うミュージアム・ルームもある。
 農業大学には植物園もある。シベリアの植物園には日本では普通に生えているようなものが温室の中で大事に育てられていたりして、気候の違いには興味はあるが、植物そのものは珍しくない、と言うことも多い(日本の気候ならば普通には得ているから)。が、ここ農業大学に来て時間があると植物園を楽しむというタチヤーナさんに付き合って、園内を一回りした。タチヤーナさんも私もせっせと写真を撮ったが、私が最も多く撮ったのは真っ赤なカリーナのなる木だった。カリーナは植物園に限らず、ハカシアにもどこにでも生えているが。

 大学を出て、町の方へ歩いて数分行くと、広いキジューリン果樹庭園入口に出る。20世紀初めまで一人当たりの緑の面積の最も少ない都市の一つだったオムスクが、今は緑の町となっているのは農業大学の努力によるが、特に、キジューリン果樹園にはシベリアの気候に合うようなブドウ、アンズ、ナシ、リンゴ、スグリ、コケモモなどを植えたそうだ。今、果物は見えなかったが、刈り込みの入った灌木の列や、花文字のある花壇などが見えた。果樹庭園そのものは、この時間閉まっていて入れなかったが、果樹庭園前公園は自由に散歩でき、車道もある。と言うのは、この車道の奥には政府関係者別荘群があるからだ。また、低層(2階までか)の連続住宅『タウンハウス』が将来建設されるようだ。これは国から土地の占有権を取った私企業が建設しているアッパーミドル・クラス用(富裕層というかも)の警備付きマンション群で、鉄柵の前にはタウンハウスの鳥瞰図や、タイプ別、広さ別マンションの見取り図などの広告看板が出ていた。
 再びオミ川左岸 カザフスタンに近いオムスク、生活風俗博物館、ヴルーベル美術館
 タチヤーナさんが私と回りたい通りがあると言うので、またオミ川左岸に向かう。どこを歩いても、歴史的建造物の並ぶ中心街だ。イルティッシュ川に平行に走るレーニン通り、それと並行のカール・マルクス通りを歩く。
カザフスタン国旗のある領事館横の
ワリハーノフ像
旧・女商人クズミナ邸にある生活風俗博物館
旧シベリア総督府宮殿の近く
ミュージカル劇場2階ホールにかかっている絵

 20世紀初頭風の赤レンガ2階建ての建物があって、横の歩道には銅像が立っている。チョカン・ワリハーノフと言う19世紀のカザフ・ハン国出身者だ。18世紀前半にはカザフ・ハン国は、着々と東方に進出してきたロシア帝国の服属を受け入れざるを得なくなり、1820年代になると、ロシア帝国はカザフ平原の安定化として直接統治をはじめた。東半分はオムスクを行政中心とするステップ総督府の管轄下に置かれていたので、チョカン・ワリハーノフはカザフスタンではなく帝政ロシアの軍人で、帝政ロシアの学者、歴史家、民俗学者、旅行家、啓蒙家と言うことになってしまう。銅像の在座には『2004年カザフスタン共和国大統領ナザレバエフよりオムスク市へ贈呈』と刻まれている。
 銅像背後の建物の方は旧グリシェビツキー宅で市の建造記念物の一つ、現在カザフスタン共和国領事館になっていて、銅像のある短い通りはチョカン・ワリハーノフ通りと言うそうだ。オムスク州はカザフスタン共和国と国境を接している。オムスクで4年間懲役囚だったドストエフスキーは、その後シベリア・ラインの一翼セミパラチンスク(現カザフスタン共和国、2007年からはセメイと改名)で4年間兵役に課せられている。オムスク府は帝国の南西シベリア(中央アジア)地方の要だったのだ。セミパラチンスクでドストエフスキーはワリハーノフと会っている。
 カザフスタン北部はオムスク南部と同じような自然が続き、同じイルティッシュ川が流れ、住民の30%がロシア人だ。一方オムスク市にもカザフ人は2%強いるそうだ。カザフ候族出身のワリハーノフはオムスクのカデットスキー・コルプス(軍人幼年学校)で学んでいる。ちなみにオムスクのカデットスキー・コルプスはシベリアで初めにできた軍事教育機関で、ソ連時代はフルンゼ赤軍学校で、1999年になるとカデットスキィ・コルプスと言う帝政時代風名称が復活した(この時期、同様の復活が多かった)。正面が柱廊式の立派な建築物は国(連邦)指定の歴史建造物になっている。

 そうした立派な建物の建つ通りにも、手入れの行き届いてない集合住宅の立ち並ぶ一角もある。如何にも治安が悪そうで暗くなったら通りたくない、と思うくらいの寂れ方で、表通りの華やかさとは落差がありすぎる。今日の目的地の一つオムスク生活風俗博物館を探して、そんな一角を歩く。
 探し当てたのはやはり20世紀初めに建てられた女商人クズミナ邸と言う歴史建造物に指定されている木造建築がそうだった。このシベリア大商人邸宅の窓枠はレース状の浮き彫りで飾られかつての美しさをしのばせるが、廃墟寸前で『オムスク生活風俗博物館』と言う表示板は出ていたがドアは開かなかった。後ろに回って尋ねてみると、幻の博物館とも言えばいいのか、登録はされているが一度も開館されたことはないそうだ。旧クズミナ邸が立っている通りも短いが、今はこの建物1軒だけが残っていて、市の中心部の一等地のこの敷地を狙っている不動産屋も多いとか。一応中に入れてもらった。電気もトイレもなく、屋根や壁は崩れかけ雨漏りしているそうだが、コレクションは多い。18世紀に建てられた家屋の断片、教会のドア、戦前の家具、古い生活用品、などがあった。

 ネオ・ルネッサンス様式と言う旧シベリア総督宮殿で、今はヴルーベル美術館に入ったのは、まだ閉館には十分早い時間だったのでゆっくり見物できた。来館者も少なく、各ホールに座って退屈そうに番をしているおばさん達から、
「どこから来たの、日本では地震や津波が大変だったね。あんな災害のあった国から生き残った人(私のこと)が旅行者として来ているなんて」などと言われ、
 「ここには古い日本のコレクションもあるのよ」と教えてもらった。『ツルの形をした燭台、19世紀から20世紀。日本』と説明があった。台座には『大明宣徳年製』と彫られた文字が見える。そんな年号は日本にはなかった。辞書には中国の明の宣宗時代1428年に作られた銅器とあるのだが。

 横の庭園には花の中に小路があって『ニコライ・コンスタンチノヴィチ・リョーリフ記念小路』と名付けられている。芸術家で学者のリョーリフNicholas Roerichが1926年オムスクを訪れたそうだ。
 夜はミュージカル劇場で、ゴーゴリ『死せる魂』を見た。まずまずの席のチケットが150ルーブル(380円)だった。劇場はソ連様式で、私にはこの方が旅行者気分になれる。劇場には必ずある当劇場博物館も興味深い。過去の出し物の舞台装置のミニチュアや、本物の舞台衣装をつけたマネキン、歴代アーティストの肖像写真などが飾ってある。
 この日の観光に大満足して、グルーニャさんの待つアパートに帰ったものだ。
オムスクからノヴォシビリスク市へのベルツコエ街道
 10月8日(土)の朝、ディーマのランクルでオムスクを去る。雨の中、ロシア国旗が至る所にある市内を通り過ぎる。電柱や街灯の中ほどに、太めの白、青、赤の粘着テープを巻きつければいいのだから、わざわざ作らなくていい。造作ない。一晩のうちに町中横縞『三色旗』でいっぱいにできると思ったくらいだ。その鮮やかな色の組み合わせは新古典主義様式やネオ・ルネッサンス様式の建物、丸屋根のロシア正教の建つ街並みの中、目を引く。恒常的にあるのだろうか。オムスク市はよほどモスクワに忠実なのか。
右の電柱に巻きつけられている横縞三色国旗
近道しようとして出てしまった野原
現カザフスタンのイルティッシュ川右岸は
17世紀初めからはロシア帝国領。
左岸とカザフ北は18世紀半ばに帝国領となる

 渋滞を避けて迂回路を通ったせいか、ぬかるんだ寒々しい道に出てしまった。『南西墓地』と標識の建っている所を過ぎると、あたり一面が濡れそぼった草地になった。収穫後の麦畑だったのか、こぼれ種から出た細い緑の芽も枯れかかっていた。
 連邦道M51号線にたどり着いて、3日前の道を逆に進む。主要道の要所要所に設置されている”ДПС”と書かれた道路交通警察署前も通り過ぎる。以前は”ГАИ”と言ってその警察官(インスペクター)はアネクドート(一口笑い話)の主要登場人物(庶民から嫌われてるので笑いものにされる)の代表だった。警察官または署前を通る怪しげな車を止めて、時にはトランクも開けた。通行手形を調べる関所のようだった。実は、私もクラスノヤルスクに住んでマイカーに乗っていた頃、何度も止められた。消火器や救急医療箱を積んでなくて罰金を取られたこともあった。スピード違反車を捕まえて罰金を取るときは、パトカーが茂みや曲がり角に隠れている(これなら、ロシアだけに限らない)。ディーマさんと出かけるときは、1度は捕まるのだが、今回3000キロもの道のりで、一度も捕まらなかった。高年式ランクルなのでスピードが出せなかったからもしれない。交通警察官の制服を見ると、豊かな連想がわいてくる。
 3日前に通ったバラビンスカヤ低地を通り、最近増えたドライブインで食事をする。長距離トラックの運転手などが、宿泊したり食事したりするのだろうか。トイレは別棟だが水洗で使用料が30ルーブル(約70円)だった。シャワーも有料だ。宿泊した時、あまり頻繁にトイレに行くと高くつくのか。

 夕方5時半、まだ明るい時間にノヴォシビリスクに入り、来た時のようにノヴォシビリスク・ダムの堤防の上を通り、オビ川右岸に出て、ベルツコエ街道を通り、ルィヒンさんのマンションにつく。このベルツコエ街道には彼の店もあるので、前回も今回もよく通った。ベルツコエというのはこの先にベルツクと言うノヴォシビリスク州の第2の都市(10万人弱)があるからだ。今は新興の大ノヴォシビリスク圏の一部(衛星都市)だが、歴史は古く、オビ川右岸支流ベルチ川が合流するところに1717年ベルツキー柵ができた時からと言うことになっている。
 ベルツキー柵は、トムスク柵とクズネック柵の間のオビ川中流に国境を強化するために築かれたのだが(南側からのチュルク系民族から)、18世紀前半には、ロシア帝国のシベリア統治の要の一つになり、18世紀後半にはセミパラチンスク(現セメイ市)からクラスノヤルスクまでの南シベリアを含むカリヴァニ県の中心カリヴァニ市になった。これはオムスク砦を中心とする帝国のシベリア・ラインの東翼に当たる。カリヴァニ県の方は、短期間で廃止になり、旧カリヴァニ県の西はイルクーツク県、東はトボリスク県に合併され、元のベルツキー市はベルツコエ村となった。
 ちなみに、19世紀になってオビ川の50キロほど下流(北)に合流するチャウス川畔のチャウスキー柵がカリヴァニと言うロシア民話の勇者の名前(カリヴァニという名については他説もある)を、受け継ぎ、そこは今でもカリヴァニ町と言う、と、レーナさんに教えてもらった。(このいきさつが載っているサイトを教えてもらった)。
 レーナさんとサイトで知り合い、文通が始まったのは半年くらい前だが、10月初めにノヴォシビリスクを訪れるかもしれないと書くと、案内してあげようと言われたのだ。だから、前もって、10月4日にクラスノヤルスクを出発し5日はノヴォシビリスクを通り過ぎるだけで、オムスクから8日の夜再びノヴォシビリスクに戻り、9日(日)に会いたいが、と知らせておいた。レーナさんはノヴォシビリスク市には古い歴史はなく、近くにベルツクと言う町がある。そこはノヴォシビリスクより古いはずだが、名所旧跡見物できるかどうかわからない、と書いてきた。では、ノヴォシビリスクの自然を見たい、と返事しておいた。

 ベルツコエ村の方は20世紀半ばにベルツク市になったが、ノヴォシビリスク発電所建設でダム湖に水没することになり、町ごと8キロ移転したため、レーナさんの言う通り、ここにも歴史的建造物はほとんど残っていない。
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