up date | 22 Feb, 2012 | (追記・校正: 2014年2月6日、2018年10月26日、2019年12月4日、2021年9月21日、2022年10月5日) |
(4)オムスク観光 2011年10月4日から10月10日(のうちの10月5日と6日) |
Осенью по Сибирском тракте из Красноярска через Новосибирск в Омск(4.10.2011-10.10.2011)
1 | クラスノヤルスクからシベリア街道を西へ | 『13戦士の記念』町 | カズリカ『退避線』駅村 | 榎本武揚も休憩したアーチンスク市 | 宿場町バガトール市 | |
2 | マーガレット畑 | 后妃マリアのマリインスク市 | ケーメロヴォ州北部を走り抜ける | ノヴォシビリスク市のルィヒンさん宅(往路) | ノヴォシビリスク発電所ダムを通って西へ | |
3 | 西シベリア平原バラビンスカヤ低地 | 西シベリア最大のチャニ湖 | バラビンスキー・タタールのウビンスコエ湖 | 空が広いバラビンスカヤ低地を行く | オムスク州 | |
4 | オムスク市イルティッシュ・ホテル | オムスクの印象 | オムスク名所プーシキン広場、レーニン通り | オムスク砦 | オムスク砦周辺を歩く | |
5 | オミ川左岸レーニン広場、郷土博物館 | オムスクが緑の町になったのは | カザフスタンに近いオムスク、旧シベリア総督宮殿 | オムスクからノヴォシビリスク市、ベルツコエ街道 | ||
6 | ノヴォシビリスク市の名所 | ノヴォシビリスク植物園 | 交通博物館 | レーニン広場 | 交通機関の公安を守る | 『ほろ酔い』丘陵群 |
黄金の秋クラスノヤルスク市 | ハカシア盆地の遺跡 | アンガラ川河口のウスチ・トゥングースカ村 |
オムスク市、イルティッシュ・ホテル | ||||||||||||
オムスク市に近づいても渋滞と言うほど混んではなく、郊外のダーチャ地帯を5分も走ると市街地に入って、ナビの通りに20分も行くと、『カール・マルクス大通り』などと標識が出ている。その通りの名から、市の中心部とわかる。『Красный
путь 赤い道』と言うこれも中心部からイルティッシュ川に平行に延びている大通りを行くと、イルティッシュ川畔のイルティッシュ・ホテルに到着した。ここで、ディーマさんやルィヒンさんは3泊するが、私は1泊だけかもしれない。と言うのは、タチヤーナさんが自宅に泊めてくれるかもしれないからだ。1日目は一応ホテルで泊まろう。だから、彼女の家に一番近いというホテルを予約してもらった。3つ星だと言う。 イルティッシュ・ホテルにチェックインしたのはオムスク時間(ノヴォシビリスク時間と同じで、クラスノヤルスク時より1時間遅い、つまり、日本より2時間遅い、サマータイムなので)の7時半ごろだった。イルティッシュ・ホテルは1泊3000ルーブル(約7300円)と言う長期旅行者には安くない値段。レセプションではロシア人はパスポート提示と一緒にアンケートを書くが、ロシア語を知っているとは限らない外国人は、ロシア語でのアンケートは必要ない。(そうでないような田舎の小さな、例えば、トゥヴァ共和国のチャダン市のホテルでは「外国人はどうするのかしら、受け付けてはいけないのではないかしら」とつぶやく受付のおばさんを黙らせて適当にアンケートを書いて受け取らせたものだ) 1泊3000ルーブルもするような外国人宿泊受け入れホテルでは、外国人が宿泊すると、外国人一時滞在証明書を発行できる。これがないとロシア出国できない(少なくとも、以前はそうだった)が、私はいつもスーツ・ケースの奥のどこにしまったか忘れて出国している。 レセプションの感じのいい女性が英語で、 「一時滞在証明書を作るのでパスポート返還は明日の朝まで待ってください」と言う。 「今晩出かけるので、パスポートが要ります」とロシア語で答える。横のディーマさんが、 「ロシア語が通じますよ」と蛇足を加える。3分ほど待つと、一時滞在証明書を発行してくれて、パスポートと一緒に渡してくれた。こんなに早くできるのなら、翌朝までと言わなくても…。 ロビーもエレヴェーターも廊下も室内も水回りも、一応快適なホテルだった。7300円だけあって、相部屋でシャワーなし、トイレは共通と言う250ルーブルのチャダンのホテルと違って、特に驚くものはなかった。部屋に入ってタチヤーナさんにもう一度電話する。30分後に迎えに来られると言うことだった。迎えに来たら、彼女の家まで車で送ってほしいとディーマさんに頼んだ。 部屋にあった説明書を見ると、『当ホテルではインターネットが無料』とある。すぐに受け付けに電話してやりかたをきくと、ワイファイが2個あるからどちらかに合わせるとiPhoneなら通じると言う。『設定』でワイフャイを開けると、確かに鍵マークなしのが2個あった。だから、このホテルでは国際ローミング用の1日2000円を払わなくてもアイフォンが使えた。それだけでも7300円の値打ちがある。 タチヤーナさんが迎えに来てくれたので、ディーマさんに電話して車を出してもらった。 タチヤーナさんのアパートはホテルよりイルティッシュ川沿いに都心に向かったところにある。つまり、ほぼ中心部にあるのだが、ソ連時代式の建物だった。建物に入ると真っ暗で、やや不潔なエレヴェーターで上がった階に鉄製の扉があり、ここを開けると物置兼廊下があって、その廊下に向かって4軒分のドアがあり、その一つを開けるとやっと目当ての住居にたどり着ける。1990年代の治安が悪かった頃、こうして扉を何枚も付けて財産と身の安全を各自が守ったのだ。 ここは市の中心部の1等地なのか、タチヤーナさんの住む古いアパートより2軒ほど向こうには小金持ち用のマンションがあって、敷地は柵で囲んであり、敷地内にはそのマンションの住民の子供だけが遊べる小公園があり、カラフルな滑り台など遊具も見える。そのマンションの外観は新しく、共通の玄関やエレヴェーターも清潔なのだろう。ゲーテェィット・マンションというのか。 タチヤーナさんのアパートは1DKで、最近同居することになったという83歳のお母さんが待っていてくれた。グルーニヤさんと呼べばいいそうだが、耳が遠くて会話は一方通行だった。タチヤーナさんたちは、ハカシアのエニセイ川畔の今はダム湖の底になっている小さな村の出身だそうだ( Малая Тумнаと言って、住民はノヴォショーロヴォ村へ移住した、と後に彼女との文通でわかった)。グルーニャさんは新しく引っ越した村の家を処分して、ミヌシンスク市の姉娘と暮らしていたが、婿との折り合いが悪かったので、大学卒業以来オムスクで建築士として独身で働いている末娘のタチヤーナさんと暮らすことになったとか。 この日はタチヤーナさんのアパートには泊まらないで、イルティッシュ・ホテルに帰った。
イルティッシュ・ホテルはイルティッシュ川畔に建っている。イルティッシュ川は全長4248キロもあるのに、全長3650キロのオビ川の支流と言うことになっている。オビ川の源流のカトゥーニ川はアルタイ山脈の最高峰4506mのベル―ハ山(カザフスタンとの国境近くの、ロシア連邦アルタイ共和国にある)の氷河から流れてくる。一方、イルティッシュ川は中国とモンゴルの国境からジュンガル盆地(中国新疆ウイグル自治区)を約525キロ、カザフスタンを約1700キロ、ロシアを約2100キロ流れ、オビ川に合流する(そこから、オビは北極海の河口までたったの1160キロ)。支流イルティッシュ川は、本流オビ川より長い。オビ川の源流をカトゥーニではなく、イルティッシュとすると5410キロで、ロシアで最長、世界で第7位になる。 10月6日(木)、ホテルの4階の私の部屋のベランダから朝焼けのイルティッシュ川がよく見えた。コンクリートやアスファルトで護岸工事をしてないのがいい。自生の灌木や雑草が生えている。今は秋で、水位は低いが、春の雪解けシーズンには川幅もずっと広くなるのだろうか。『全ソ連邦レーニン共産青年団(Всесоюзный Ленинский Коммунистический Союз Молодёжиと長いので略してコムソモール Комсомол)60周年記念』橋が見える。 ちなみに、オムスク市街地のイルティッシュ川には4本の橋がかかっているが、最も早く1959年に開通したのは、オミ川(全長1091キロ)がイルティッシュに合流するオムスク発祥地点近くの『レニングラード橋』だ。次がホテルの窓から見える『コムソモール60周年記念橋』で1978年開通。3本目の橋はM51号線のバイパス用にずっと南にあって1995年開通。一番新しいのは、レーニンスキィ橋とコムソモール60周年記念橋の間にある『戦勝60周年記念橋』で、1945年から60周年だから2005年開通と言うことになる。将来『戦勝橋』には地下鉄も通るそうだ。他に鉄道橋もある。 川に橋が架かっている風景にはいつも感動するものだ。特に朝焼けの中、ベランダの下の林の間や灌木の茂った中州を挟んで川が流れ行き、その向こうに何やら一直線に橋があり、空が広く見えたりすると、この光景から離れたくない気持ちになる。と言っても、仕方がないから写真でも撮っておいた。 朝、1泊3000ルーブルのイルティッシュ・ホテルを引きはらって、ターニャさん宅へ送ってもらい、そこにトランクを置かせてもらって、10時半には彼女と町見物に出かけた。 歩いて回れる距離に住居と名所が集中してあるのがいい。 |
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オムスクの印象 | ||||||||||||
だからオムスク砦跡が町を象徴する名所旧跡で、大寺院や、大商人の邸宅などは砦を中心に広がっている。タチヤーナさんのアパートもその範囲にあるのだ。 オムスクと言えばドストエフスキーだ。オムスクの国立総合大学も『ドストエフスキー記念名称』大学という。シベリアは当時流刑地で、ドストエフスキーもサンクト・ペテルブルクからペトラシェフスキー事件で1850年から1854年までここに流刑にされていた。兄ミハイルへの有名な手紙に『“Омск — гадкий городишко. Деревьев почти нет. Летом зной и ветер с песком, зимой буран. Природы я не видал. Городишко грязный, военный и развратный в высшей степени… Если б не нашёл здесь людей, я бы погиб совершенно (Ф. М. Достоевский. Из письма брату Михаилу, 1854 год, Омск)”オムスクは忌まわしい町だ。木々はほとんどない。夏は酷暑になって風が砂埃を巻き上げ、冬は大吹雪だ。自然なんてどこにもない。オムスクは極度に醜悪で淫蕩な軍人の町だ…もし、ここで人間(らしい人間)に会わなかったら、私は全く破滅していただろう (訳は筆者)』 と書いている。 ドストエフスキーは150年以上前のオムスクを書いているが、10年程前にオムスクを訪れた私のクラスノヤルスクの友人は 「ゴミゴミした不健康でいやな町だ、2度と行きたくない」と否定的に言っていた。当時クラスノヤルスクでさえ中心街の大通りに大きな水(泥)溜りがあったのだが、それ以上に否定的な町だったのか。 しかし、この数年、急速に整備されたのだろう。なにしろロシア第7位の人口の大都市で、機械、石油(オムスク州北部はロシア最大のチュメニ油田につながっている)、航空宇宙関係の大企業がある。
『バプテスマのヨハネ礼拝堂』広場の向かいには古いレンガの建物があって、1993年まで由緒あるビール醸造会社の一部だったそうだ。20世紀初めにはこの辺一帯がバラチャエフスキー・ビール醸造工場の敷地で、今残っているのは窓枠や屋根に20世紀初頭風の装飾のある古めかしいレンガ造りの数棟と、やはりレンガ造りの太い煙突のある一角のみだが、まわりがコンクリートの直方体のような味気ないアパート群の中で、時代をしのばせ、印象的だ。 ちなみに、それら味気ないアパート群は旧ビール醸造会社敷地内に建てられたもので、その一つがタチヤーナさんのアパートだ。住所もバラチャエフスキー通り13番地という。都心の1等地にある旧『バラチャエフスキィ』ビール工場敷地の所有権をめぐって公私の4者が争っているのだとか。解決すれば、この広い敷地にまたオムスクの名所の一つができるのだろうか。 |
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オムスク名所、プーシキン広場、レーニン通り | ||||||||||||
オムスク市中心部、つまり、オムスク砦のあったオミ川がイルティッシュに合流するところには130もの建築記念物、つまり、名所が集まっているそうだ。そこでは、歴史的な通りは修復され、スターリン時代解体された寺院は再建され、西シベリアのロシア的大都市らしい景観を取り戻しているのだろうか。 バラチャエフスキー通りの横には『戦勝60周年記念』橋に通じる大通りがあって、ここは地下道を通って大通りの向こう側に出る。将来開通予定の地下鉄の『プーシキン図書館』駅のための地下道だそうだ。出ると、広い石畳の歩道と花壇の中に、イルティッシュ川を行く帆船の形をイメージしたと言うオムスク州国立プーシキン図書館の建物が目に入った。
同行の建築家タチヤーナさんによれば、目障りな巨大建造物だとか。ちなみに、タチヤーナさんは株式会社『オムスクグラジダンプロエクト(オムスク民需設計)研究所』と言うソ連時代ではオムスクをリードした建築会社の主任建築家のひとり。だから、オムスクの町見物は専門家ガイド付き建造物見物となった。都心を歩くと、タチヤーナさんは建物をじっと眺めてこの建物のプロジェクトには自分が参加したとか、参加したが趣味の悪いものになったとか、専門家の評価を聞くことができたのだ。 シベリアで最大の蔵書量と言うプーシキン図書館の前面外壁には、ロシア千年史に名が残る偉人8人の高さ3メートル半もの像が並んでいるので、思わず誰だろうと足を止める。真ん中のプーシキン像はわかるが、あとは、ロシア国家の基礎を作った11世紀キエフ・ルーシのヤロスラフ賢公、中世ロシア正教の指導者ラドネジの聖セルギイ、聖像画家(イコン画家)の聖アンドレイ・ルブリョフ、19世紀初期の作家で歴史家のカラムジン、18世紀の博物学者で学問の父ロモノーソフ(*)、19世紀前半の近代ロシア音楽の父グリンカ、ロケット工学の父ツィオルコフスキィ(**)だと教えてもらったが、タチヤーナさんによると、この8人を選んだ理由もさっぱりわけがわからないとか。ロシア千年史の文化的代表としてユニークな選択だと私は思うのだが。だいたい行政が選ぶ歴史上人物とはそんなものだ。20世紀の革命家を無視したのは当然だ。1995年完成であるから。 プーシキン図書館があるから将来の地下鉄駅はプーシキン駅で、地上はプーシキン広場だ。 (*)ロモノーソフ (1711-1765)。月や火星にロモノーソフの名をつけたクレーターがある、大西洋の海嶺の一つがロモノーソフ海嶺と名づけられている、首都の国立総合大学もロモノーソフ名称モスクワ大学と言う。ロシアの学問の父だ。大通りの向こう側に金色の丸屋根のウスペンスキー大寺院が見える。19世紀末にオムスク・タラ教区本山として市の中心に建てられた。ソ連時代はオペラ劇場として改築も計画されたが、1935年爆破され、跡地はピオネール公園になっていた。2007年、『議会広場』の向かいの旧敷地内に再建され、その広場名も『大寺院広場』と改名された。以後は、市の重要行事やパレードはこの広場で行われることになったそうだ。本山なので、府主教の邸宅(教区管理事務所)が広場の隣にあるのだ、とタチヤーナさんが教えてくれた方を見ると、立派な煉瓦の建物だった。これも、オムスクの建築記念物の一つだ。 タチヤーナさんが案内してくれるまま、レーニン大通りと言う名前からして中心地だとわかる方向へ歩いて行くと、厳かなオムスク州議会とその後ろに州庁の建物がある。ウスペンスキー本山寺院や寺院広場の向かいだ。この議会の前には通りの名前のようにレーニン像があった。が、ウスペンスキー寺院の建った2007年には(向かい合って立っているのは不都合とされたのか)、取り払われて今は台座もない。レーニン像が立つ前にはアレクサンドル2世像があったそうだ。大物の像が立っていたのは、この州議会の建物は20世紀初め、旧オムスク要塞前広場に名のある建築家によって建てられた司法機関の建物だったからだ。革命後の内戦時は白軍コルチャコフ政府の元老院とロシア皇室金塊保管の法務省が置かれたそうだ(金塊そのものはとなりの旧国立銀行に保管されていた。その銀行も歴史建造物に指定されている)。内戦後はソ連中央委員会シベリア局が置かれたり、ソ連共産党オムスク州委員会がおかれたりして、州政治の中心だった。が2001年からは州議会のみになったのも、後ろにこの歴史的建築様式を真似て、続きの建物が建て増しされたからだ。それで、新しい方に州庁が移り、古い方に議会が残った。タチヤーナさんは、わざわざ後ろの疑似20世紀初頭風建物の正面まで回って、本物と比較させてくれた。州庁前広場には噴水のある小公園があるが、その噴水は修理中で、作業員がしゃがんで煙草を吸っていた。 19世紀半ばに整備されたと言うレーニン通りも、ソ連時代前は、埃っぽいオムスクの緑化に貢献した当時の知事夫人の名前を取ってリュービンスキー(リューバの)通りと言われ(リューバ夫人の像は次の日に撮ることになる)、通りに面した建物の一軒一軒が歴史的建物になっているらしい。 「これはKGBよ」と言ってくれた建物も写真に撮る。それは20世紀初めにクレストヴァヤ教会付きの大主教邸宅として建てられたもので、宗教法院も隣にあった。しかし、革命後は精神病院、監獄などとして使われ、1935年には4階建てに増築して連邦保安庁オムスク支部となった。横にはクレストヴァヤ教会跡記念碑が立っていた。 |
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オムスク砦 | ||||||||||||
オムスクの一番の名所は18世紀のオムスク要塞なので、私たちもそこへ向かった。と言っても、今までオムスク要塞前広場(要塞のあった頃はそう呼ばれた)を歩いてきたのだが。 16世紀末、モスクワ大公国(ロシア帝国の前身)がイルティッシュ川中下流域にあったシビル・ハン国を統合する過程でつくったトボリスク市より南、つまり先住シベリア・タタール人(シビル・ハン国)の勢力範囲だった領域深くに、トボリスク強化と征服地統治のためタラ市(注)ができたのは1594年と言う。
オムスク砦はそのタラ市の保全のため、そのに南、イルティッシュ川の中流、オミ川との合流点に1716年に築かれた。当時中央アジアのカルムィク人やカザフ人、キルギス人の勢力範囲だったイルティッシュ中流の南シベリアにロシア帝国が支配地を広げるためにできたものだ。16世紀末イルティッシュ下流のシビル・ハン国を倒して、トボリスクやタラに統治拠点を作って膨張していく帝国には国境線軍事システムが必要だ。それが『シベリア・ライン』と呼ばれていた。シベリア・ラインに沿って要塞や前哨隊基地、コサック村を作り、軍事的システムを強化し、まだ帝国領とはなっていなかったが、広大なシベリアにオビ川やイルティッシュ川、エニセイ川やその支流を結ぶ統治・交易拠点を作っていこうとしたものだ。18世紀半ばにはウラル山脈からアルタイ山脈にいたる広大な領土を『シベリア・ライン』で維持するため多くの要塞や前哨基地、コサック村ができていた。その過程で、主要な要塞や前哨基地は再建強化されていったのだが、その中でもオミ川河口の左岸にあったオムスク要塞は、オミ川右岸に新たに最新式の大星型要塞として1764年建てなおされ、シベリア・ラインの最重要拠点となったのだ。ドストエフスキーの書いたとおり、オムスクは『兵隊の町』だったのだ。
新オムスク要塞は30ヘクタール以上の広さで、五稜郭(ペンタゴン)ではなくヘプタゴン(七稜郭)くらいの稜堡で、オミ川右岸とイルティッシュ川左岸に囲まれ、オミ川に向けたオミ門、イルティッシュ川に開けたイルティッシュ門とトボリスク門、北側のタラ門の4つの出入り口だけがあった。タラ門からタラ市への街道が通じていて、ドストエフスキーも含めてシベリアへの流刑囚がそこを通ってきたそうだ。 オムスク要塞は19世紀半ばまでは、つまり、中央アジアほぼ全体がロシア帝国に併合される(当時、インドを領有した大英帝国の言う『ロシアの南下』のこと)まで、シベリアとカザフスタンの統治に重要な役割を果たしてきた。今は、要塞のあった場所に数棟の建造物が残っているだけで、オムスク市三百年祭に向けて修理再建中とか。 その中でも、タラ門はソ連時代に解体されだが、21世紀になってから元の場所に再建されたそうだ。オムスク市の名所の一つで、門の前は噴水やスターリン犠牲者を悼む碑のある広い並木道があり、門をくぐると1キロ半ほどの並木道はドストエフスキーの像で終わっている。さらに行くとイルティッシュ川と言う要塞の自然の防衛に行きつく。その近くに1799年に完成で壁の厚さが1メートルと言う要塞司令官舎があって、今はドストエフスキー文学博物館になっている。オムスクへ日本人が来るとしたらドストエフシキーに曳かれてかも知れない。 ガイドも頼むことにした。10人以上のグループでないとガイドはつかないそうだが、日本から来た愛読者だと言うと、特別に案内してくれて、1時間以上も詳しく説明してくれた。ドストエフスキーはサンクト・ペテルブルクの作家だか、オムスクの4年間を詳しく展示してあるこのオムスク文学博物館を、ドストエフスキー愛読者は必ず訪れるそうだ。さらにガイドは、当時のオムスク司令官デ・グラヴェ大佐が、徒刑囚ドストエフスキーの待遇を特別によくしたと、強調していた。 文学博物館なのでドストエフスキー以外のオムスクにゆかりのある作者の展示もあったが、ガイドさんはこちらの方は「名前も聞いたことがないでしょう」と言って、説明はなかった。学校からのグループも来ていて、別のガイドが説明していた。博物館の売店ではいつものようにお土産をどっさり買った。ガイドさんの言うには数年前オムスクのドストエフスキーについて国際的シンポジウムが開かれて、日本からの参加者もいたとか。 オムスク要塞内だったので、18世紀からの建物がいくつか残っていて、その一つ一つをタチヤーナさんが案内してくれた。1794年に建てられたトボリスク門は当時のままで、超一級記念物だとか。1832年に建った兵器(大砲)庫、1830年代代の兵隊宿舎、金保管倉庫、要塞の中央広場にあったと言う解体された教会跡など、確かにここはオムスク名所の中心だ。復古修理中の建物もいくつかあり、中に入ってみると、当時のオムスク市、オムスク要塞の見取り図、19世紀末の写真のコピー、将来の歴史文化遺跡地域の青写真などが展示してあった。オムスクの歴史が写真イラスト入りで載っていたので、丹念に読んで行きたかったが、写真だけ撮って次に進んだ。 旧砦内のイルティッシュ川岸のトボリスク門付近には、市民広場のようなものがあって、市祭の後なのか、ポスターや露店跡、臨時小展示館などが多かった。教会復興予定地の標識もある。 |
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オムスク砦周辺を歩く 設計事務所・語学学校・リューバ夫人通り・露日戦争の礼拝堂 | ||||||||||||
今日は休暇を取ったタチヤーナさんに携帯がかかりっぱなしだ。会社に寄って、仕事を少し片づけたいと言うので、要塞の中央に建っていたと言うヴォスクレセンスキー(復活)教会から数分のところにある株式会社『オムスクグラジダンプロジェクト(オムスク民需設計)研究所』(ちなみに、依然としてオムスクは軍事都市の一つだから民需と標榜謙遜しているのか)に寄ることになった。入り口にはガードマンがいてパスを見せると一人ずつ入れるバーがあるが、タチヤーナさんと同行者なので何も言われずにすり抜ける。建物は巨大で、全部がその研究所のオフィスなのかは聞かなかったが、ウィキマップによると全館が当社だ。タチヤーナさんの会社は1935年創立で、ソ連崩壊後の1993年に株式会社になったと言う。かつてはオムスクをリードする建築設計事務所で、都市計画全般を担当していた。だから、建物だけでなく団地丸ごととか、通り全体の設計もしていたが、ソ連崩壊後には多くの新設計会社ができ、そちらの方に移った設計士も多く、現在スタッフは最盛期の半数になっているそうだ。人員不足で休暇も取れないくらい忙しいのだとか。 タチヤーナさんの事務室は7階にある。ドアには、設計主任技師エヴゲーニー何某の名前と設計主任建築家タチヤーナさんの名前を書いたプレートが張ってあった。狭くない室内は幾つもの事務机の上の膨大な書類、設計図、パソコン、コピー機、電話などあって事務室らしい。しばらくお茶を飲んでチョコレートでも食べていて、と言われたが、もう一人の設計主任技師エヴゲーニー何某が入ってくると困るではないか。 「その人は最近辞めたの」と言う答え。そう言えば、もう一つの机の周りはやや物が少ないようだ。 30分ほどで仕事をひと段落したらしいタチヤーナさんが戻ってきて、上から町を見てみないかと言ってくれた。会社は市のほぼ中心にあるので、最上階からの眺めがいいそうだ。9階まで上がって、タチヤーナさん懇意の職員さんがいる事務室のベランダ非常階段から登れるだけ上へいってみる。イルティッシュ川の流れとオムスク・アカデミー劇場の緑の屋根や、ウスペンスキー本山の黄金色の丸屋根が見える。風が強くて長くは出ておられなかった。
外へ出ると、バロック様式を加味した古典主義様式で20世紀初めに建てられたと言うオムスク・アカデミー劇場の緑色の建物がある。先ほど上から屋根を眺めても美しかったが、建築家は通りから見て美しいように建てているのだ。劇場の横には大俳優ピョートル・ネクラソフの名前をとった短い通りがあって、そこにタチヤーナさんの会社があるのだ。 劇場はレーニン通りに面していて、向かい側には、やはり緑色のヴルーベル美術館(別館)がある。ミハイル・ヴルーベルはオムスク出身で19世紀から20世紀初めの象徴主義(サンボリズム)の芸術家だった。建物はやはり20世紀初め建造で以前は証券取引所だった。ソ連時代初期は市党コミテット(市役所)が置かれたりした。今回、この美術館に入る機会はなかった。後で、タチヤーナさんが何度も、時間がなくて回ろうと思っていたところの半分も回れなくて残念だったと繰り返していた。 タチヤーナさんは民間の語学学校に週2回通っている。スペイン語だそうだ。かなり熱中していて、その学校を見せたいと言う。そこには日本語コースもある。その学校はこの近くにあるそうだ。 (追記:タチヤーナさんはやがてスペイン語をものにした。そしてスペイン語文化圏を旅行している。2019年にはサンティアゴ・デ・コンポステーラにいったと、ロシア版SNSのアドナクラスニキОдноклассникиに載っていた。) ヴルーベル美術館の角を曲がり、趣のある街灯の並ぶ並木道を歩いて行くと、大きな噴水があってその向かいには市庁舎の4階建ての建物が見える。オムスクの顔と言うような中心地なのに、この通りをタチヤーナさんの学校の方へ2棟も行くと、何だかひどくごみごみしてきた。舗装もしていない雑草の生えている駐車場や、壊れかけた石段、倒れかけたトタン板で囲った空き地、ポスターがはがれた電柱、ゴミの吹き溜まりがあったりして、景気のいいロシア第7位の大都会の中心地とは思えない景観なので思わずカメラのシャッターを押してしまった。周囲の建物も、急に安っぽい今様崩れになり、建設中だか建設放棄したかのような建物とクレーンが野晒しだ。 後でサイトで調べてみると、2002年、市は破損状態にあるこの歩道の一帯を修理して1連のスタンド(キオスクの列)を建てることを条件に、ある会社に任せたそうだが、その会社は土台がないのでいつでも撤去できる一時的なキオスク列を建てる代わりに、巨大なショッピングセンターを建てようとしたそうだ。市の歴史的中心地にこのような建物はそぐわないと反対が多かったが、会社のトップは政治的大物で、建設は進んだ。が、新市長になって、裁判と強制執行によって止めたそうだ。しかし、それ以降、キオスク列も歩道の修理もショッピングセンターもなく、荒れ放題だ。利権がからんで、まだ解決はされていないのだろう。 この通りの奥にタチヤーナさんの語学学校があるのだ。ジェイ・アンド・エス(J&S)と言って、そのあえてごみごみさせたまま残してある地区の建物の3階に15か国語の教室があり、ここだけではなくオムスク市の他の地区やノヴォシビリスク市に10か所ほど分校があると言う。15か国語と言っても、真ん中に大きな机のあるこぎれいな教室の数は3部屋ほどで、時間制で使っているようだ。ここの経営をしている女性と、日本語のことを話す。この日もタチヤーナさんのスペイン語講座があるそうで、それは夜の9時だ。だからこの日は2度もこの建物に足を運んだ。実は次の日も行ったので2日間に3回も行ったことになる。おかげで、3回も『醜聞の建物跡地』を通ることになった。 ちなみに、翌日3回目に行ったのは、若いロシア女性の日本語の先生と会うためだった。ぜひ会ってくれとネイチィヴ好みの経営者に頼まれたのだ。そのスヴェータ先生の話すオムスク日本事情によると、日本製アニメが大評判なのだそうだ。それで、彼女もアニメの吹き出しのロシア語訳をして稼いでいる。アニメには擬音語が多くてロシア語に訳すのは大変でしょうと言うと、翻訳用リスト(カンニングペーパー)があると教えてくれた。 (後記:スヴェータ先生とはその後も文通をしていた。日本で私が頼まれたロシア語翻訳を彼女に譲ると感謝された。彼女は日本男性とも文通していて、後に彼と結婚して日本に住むことになった。20xx年、広島である会が開かれたとき、彼女と再会し、一緒に厳島神社をまわった) ここを出ると、郷土博物館に向かって歩きだした。この地区はよほど歴史的建造物が集まっているらしく、角を一つ曲がると19世紀末から20世紀初頭にたてられ、歴史的建造物に指定されている大きな緑色の屋根や風の窓や正面が美しく飾られた建物になった。ここはオムスクで初めに(石材は不足していたため)煉瓦と鉄でできた舗装道ができたそうだ。また、レーニン通りに戻ったのだが、この区画は特に『リュービンスキー大通り』と言うそうだ(前出)。と言うのは、19世紀半ばのシベリア総督夫人リューバが、当時オムスク砦下にあった、この林を散歩していたので、『リューバの茂み』と名付けらえれ、その後、大通りができたが、やはり『リューバの通り』と名付けられたとか。(レーニン通りとは1920年以後の名前)。だから、ここにはベンチに座るリューバ夫人の彫刻がある。手にしているのはプーシキンの詩集だそうだ。 『リュービンスキー通り』にはかつての大商人の邸宅も並んでいた。当時の通りの写真や大商人一家の写真なども展示してある町中の掲示板もあった。通りはオミ川最下流の橋ユビレイニィ(10月革命50周年記念橋なので『記念』ユビレイ橋と言う)に向かって延びている。 橋のたもとには、金色の丸屋根と赤いレンガにくっきりと白い十字の入った教会がある。土台もまっ白だから雪景色には生えるだろう。 「日露戦争の教会よ」とタチヤーナが言うので寄ってみた。正面には『セラフィモ・アレクセイ礼拝堂。1907年、アレクセイ皇太子(1904年生)生誕を祝って建造された。また、露日戦争犠牲者を悼んで募金がされた。1994年知事令により再建』と古めかしいロシア文字で書かれている。オムスクの多くの宗教施設と同様、ソ連時代(1928年)に解体されていたからだ。 ユビレイ橋を渡る。あと400メートルでイルティッシュ川に合流してしまうとは言え、1091キロのオミ川を始めて渡ったわけだ。秋だったからか、小さくて地味な川だった。 |
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