クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 22 Feb, 2012  (校正・追記: 2012年3月13日、2014年2月6日、2018年10月27日、2019年1月3日、2019年12月4日、2021年9月23日、2022年10月9日)
29-2(6)  2011年、黄金の秋、新シベリア街道の旅  
クラスノヤルスクからノヴォシビリスク経由オムスク市へ   (6)復路ノヴォシビリスク
           2011年10月4日から10月10日(のうちの10月9日から10月10日

Осенью по Сибирском тракте из Красноярска через Новосибирск в Омск( 4.10.2011-10.10.2011)

1 クラスノヤルスクからシベリア街道を西へ 『13戦士の記念』町 カズリカ『退避線』駅村 榎本武揚も休憩したアーチンスク市 宿場町バガトール市
2 マーガレット畑 后妃マリアのマリインスク市 ケーメロヴォ州北部を走り抜ける ノヴォシビリスク市のルィヒン宅(往路) ノヴォシビリスク発電所ダムを通って西へ
3 西シベリア平原バラビンスカヤ低地 西シベリア最大のチャニ湖 バラビンスキー・タタールのウビンスコエ湖 空が広いバラビンスカヤ低地を行く オムスク州
4 オムスク市イルティッシュ・ホテル オムスクの印象 オムスク中心、プーシキン広場からレーニン通り オムスク砦 オムスク砦周辺を歩く
5 オミ川左岸、レーニン広場・郷土博物館 オムスクが緑の町になったのは カザフスタンに近いオムスク、旧シベリア総督宮殿 オムスクからノヴォシビリスク市、ベルツコエ街道
6 ノヴォシビリスク市の名所 ノヴォシビリスク植物園 鉄道博物館 レーニン広場 交通機関の公安を守る。ルィヒン家 『ほろ酔い』丘陵群
黄金の秋クラスノヤルスク市 ハカシア盆地の遺跡 アンガラ川河口のウスチ・トゥングースカ村

 ノヴォシビリスク市の名所
 140万人の大都市ノヴォシビリスクは、19世紀末シベリア幹線鉄道がオビ川を渡る所にできたアレクサンドロフスキー村が、1895年からノヴォ・ニコラエフスキー村になり(『ノヴォ』は『新しい』の意、ニコラエフスキーはニコライ2世から名づけられた)、1903年からノヴォ・ニコラエフスク市、1917年からノヴォニコラエフスク市、1926年からノヴォシビリスク市と複雑に改名している。当然、20世紀以前の名所はない。
 ちなみにサイトに載っているノヴォシビリスク市の現在の名所は、
・オベラ・バレー劇場、1945年初演、国内で最も巨大な建造物の一つで、連邦指定記念物。
・ノヴォシビリスク駅、1939年建造、東へ向かって走る機関車の形をしている。
・アレクサンドル・ネフスキー寺院。初めの石造りの建物。町ができて6年後と言う早い時期に建造。
1 植物園 2 アカデムガラドク 
3 鉄道博物館 4インスカヤ駅
5 レーニン広場 6 ノヴォシビリスク駅 
7 水力発電所とモザイク
ノヴォシビリスク市
・ノヴォシビリスク州博物館、建物は1911年に建てられた市商業センターで、連邦指定建築記念物。
・100戸マンション、1937年パリ技術国際展で1位になり、連邦指定建築記念物。党幹部用に建てられた。
・レーニンの家、1925年(レーニンの死は1924年)に6カ月という短期間で建った。それは建物(革命的ロマンチズム様式と言われた)をデザインした切手が、建設資金のため10コペイカで売り出され、多くの人が一斉に買ったからである。当時1個の煉瓦が10コペイカだった。労働者1日分の給料も建設資金として引き去られていたとか。現在は国立フィルハーモニーの建物となっている。レーニン死後、ノヴォニコラエフスク市は、レーニンの本名ウリヤーノフからウリヤノフスク市と改名しようという動きもあった。しかし、レーニンの生誕地ヴォルガ中流のシンビルスク市の方が1924年ウリヤノフスクと名付けられる。(改名したかった)ノヴォニコラエフスク市はノヴォシビリスク市の名を採用。
・商業会議所、20世紀初めの建造物、改築して現在『赤い松明』ドラマ劇場
・鉄道博物館
・地下鉄のオビ川に架かる橋、2145mで地下鉄としては世界最長
・ノヴォシビリスク・ダム湖
・動物園
・シベリア中央植物園
・児童鉄道公園
・太陽博物館、となっている。
 ノヴォシビリスク植物園
 10月9日は日曜日だが、アレクセイ・ルィヒンさんとディーマさんは仕事があるそうだ。スヴェータ・ルィヒナさんが自分の車ニッサン・ノートでこの日は町を案内してくれることになった。スヴェータさんは夫のアレクセイさんとクラスノヤルスクから引っ越して来たばかりで町を知らない。この機会にノヴォシビリスク人のレーナさんと一緒に町見学をするのも悪くないそうだ。
 9時半に待ち合わせで、まずは植物園に出かけることになった。これは、私が自然を見たいと言ったからだ。レーナさんはダーシャと言う美人の友達を連れてきていた。
入口にあったダニ注意の看板と説明
園内で研究する職員

 ノヴォシビリスク市は(極東を除く)シベリアの学問の中心、つまり、科学分野を統括している。そのために、1950年代、ノヴォシビリスク市から南へ20キロの森の中を切り開いて、最高学術機関と言うロシア科学アカデミーのシベリア支部や多数の研究機関・大学が集中するアカデムガラドク(アカデミー都市、学園都市)が築かれた。
 その南に、ロシア科学アカデミーのシベリア中央植物園もある。ロシアには主に大学付属の植物園・樹木園・薬草園(最古は1706年ピョートル1世時代)がサイトによれば、25ほどあるが、ここは広さではシベリアで1番だそうだ(古さではトムスク大学の植物園が1番だ。ちなみに、オムスク市では農業大学付属植物園も訪れた)。
 入口に不気味なダニの絵と『脳炎を媒介するダニに注意』と書いた表札があった。シベリアは特に春先にこのマダニが増え、毎年ダニ媒介による多くの脳炎犠牲者が出ている。ダニの活動が活発なシーズンには針葉樹林帯に入る時は気をつけなくてはならない。が、この10月ではダニも動きが鈍っているだろう。
 千ヘクタールと言う広い園内を4人で歩いた。白樺はもう葉が落ちて白い幹だけになったものが多かったが、ケードル(シベリア・マツ)、エゾマツ、トドマツやモミやトウヒと言ったシベリアに多い常緑針葉樹や、今バラが満開の花壇、水鳥の泳ぐ池、プーシキン橋、そして管理棟(研究所)の近くには温室、さらに日本庭園まであった。その入り口にはボンサイと書いてあってガイド同行のみ入園できるそうだ。この日は日曜日だったので、外から眺めただけにした。
 植物園内にはジリャンカ川と言う小さな川が流れていて、水鳥の泳いでいた池は、その川をせき止めてつくり、植物の灌漑にも使っているそうだ。ジリャンカと言うのは、コミ共和国(コミ・ジリャン人が主な先住民。ペルミ地方のコミ・ペルミャク管区の先住民コミ・ペルミャック人と近い言語を話す)からの移民の村の名前かもしれない。ジリャンカ村と言うのも昔、園の管理棟の辺りにあったそうだ。今は村人の墓地のみが残っている。ジリャンカ川そのものは12キロ程度の小さい川で、ノヴォシビリスク・ダム湖に注いでいるが、発電所のできる前まではベルチ川(364キロ、オビ川右岸支流、この河口に18世紀のベルツスキー柵があった)に注いでいた。川は、今は園内を静かに流れ、白い繊細な橋もかけられ、水草や生き物の豊かな池を作っている。私たちは長い間、池を泳ぐ雁を眺めていた。

 植物園を出ると、対岸が見えないような広いノヴォシビリスク・ダム湖(オビ海ともいう)に出た。最深25メートルと浅くて、水量8.8立方キロと多くはないが、表面積が1000平方キロでロシア18位と広いのだ。何せ、西シベリア平原にできたダム湖だから、峡谷にできたバイカル湖北のブラーツク・ダム湖(水量169立方キロとロシア第一)や西サヤン山中のサヤノ・シューシェンスカヤ・ダム湖(最深220メートルとロシア第一)とは違う。島は幾つもあるそうだ。
 ノヴォシビリスク鉄道博物館
 ベルツコエ街道を町の方に戻るとセヤーテリと言う小さな駅があってそこに鉄道博物館がある。ベルツコエ街道はノヴォシビリスクからオビ右岸に沿って学園都市アカデムガラドクの側を通りベルツク市へ延びる街道(連邦道M52でもある)だが、ほぼ並行にアルタイへ向けて鉄道も伸びているのだ。これは、アルタイ地方のさらに南の19世紀後半ロシア帝国領となった中央アジアとシベリア幹線鉄道を結ぶトルキスタン・シベリア鉄道(注)で、ノヴォシビリスクとセミパラチンスク間はすでに20世紀初めの帝政時代に開通しているのだ(旧アルタイ鉄道、終点はセミパラチンスク)。
(注)トルキスタン・シベリア鉄道  ロシア帝国のシベリア・ライン(18-19世紀、南西シベリア進出と統治のための軍事システム)の一翼として、18世紀初め、当時のロシア・ツァーリ国の南限イルティッシュ川中流に築かれたセミパラチンスク砦は、カザフスタンへの出口となり、19世紀には中央アジア(トルキスタン)や西中国への交通の要となった。中央アジアに延びる『幹線』がノヴォシビリスクでシベリア幹線鉄道と結ばれていることが、その後の市の大発展に影響した、といわれる。
 現カザフスタン領のセミパラチンスクは前記のように、2007年セメイと改名している。セミパラチンスクなど東北カザフは19世紀は中央アジア・トルキスタンではなく、シベリアに含まれていた。

鉄道博物館
囚人輸送車
 セヤーテリ駅を利用した鉄道博物館は長さ3キロもあって、コレクションではロシアで有数だそうだ。線路6列に、蒸気機関車、ディーゼル機関車、電気機関車、除雪車や緊急修理車から、1等車や囚人輸送車など展示してある。1833年ロシアで初めて作られたと言う機関車の模型(全ロシアに4台)も特別に展示してあった。30年代製作の機関車もある。トロツキーの個人車両(装甲列車、これに乗ってロシア各地の赤軍を指導していたのか)と言うのもある。軍用病院列車もある。
 ノヴォシビリスクはシベリア幹線鉄道の拠点駅として発展し、現在、ロシア鉄道会社傘下の西シベリア鉄道局本部がある。(広い意味のシベリアには、西シベリア鉄道局の他、クラスノヤルスク鉄道局、東シベリア鉄道局、ザバイカリスク鉄道局、極東鉄道局、サハリン鉄道局がある)

 植物園も鉄道博物館もノヴォシビリスクらしいが、もっとノヴォシビリスクの中心地へ行って、『これぞノヴォシビリスクだ』と言うのを見たいと思った。ので、レーニン広場へ行く。この名前がつけば間違いなく中心だ。
 アカデムガラドク(学園都市)はノヴォシビリスク市の行政区の一つだが、ノヴォシビリスク市とは20キロほど離れている。植物園も鉄道博物館もアカデムガラドク近辺にあり、ルィヒンさんのマンションは、ノヴォシビリスク市とアカデムガラドクの間の新興団地インスカヤにある。ここも、1950年代アカデムガラドクを築く前は、ただインスカヤ貨物駅町外れのイーニャ川河岸段丘の荒野だった。インスカヤ駅の方は20世紀初めからあって、シベリア幹線鉄道と南部のクズネック炭田地帯やカザフスタンなど中央アジアを結ぶ貨物列車の編成駅として交通の要にある。一方、乗客用の駅はノヴォシビリスク市中央にある。ちなみに、この地区とインスカヤ駅名は1933年から38年までエイヒ地区、エイヒ駅と呼ばれていたのは、全ソ連邦共産党ノヴォシビリスク州書記長だったロベルト・エイヒ Роберт Индрикович Эйхе からとったのだ。しかし、エイヒがラトビアのスパイとして1938年粛清後はイーニャ川の名を取ってインスカヤ駅と改名された。エイヒはフルシチョフ時代に名誉回復。
 ノヴォシビリスク市中心はレーニン広場
 植物園や鉄道博物館のあるアカデムガラドクから、ベルツコエ街道をとおり、インスカヤ駅に入る鉄道の上を通り、市中心へ向かった 。
レーニン、3人の戦士と労働者農民像、
背後はオペラ・バレー劇場
レーナ、ダーシャ、スヴェータと
『労働者と農民像』
20世紀初め、ノヴォ・ニコラエフスク駅
(博物館の写真)
ノヴォシビリスク駅への大通り
 ノヴォシビリスクの町は鉄道駅から発展したので、レーニン広場やそれに続く『赤い大通り』も、ノヴォシビリスク中央駅近くにある。レーニン広場には、巨大なレーニンを中央に、右には赤軍風のいでたちで武器を持ち毅然と立つ3人と、左には輝くソ連型社会主義の未来に向かう男女の農民と労働者の巨大像があって、赤面しそうなほど目立つのだ。5人の巨人の背後には、周りを圧倒するようなオペラ・バレー劇場の列柱と丸屋根が見える。この劇場は、1945年初演でロシア第一の大きさと言う。レーニン広場付近には、市庁舎や、中央ホテル、中央銀行なども集中している。20世紀の初めは『新バザール』広場と言った。1924年にはレーニン広場になったが、スターリン時代はスターリン広場と言った。
 この広場に面して、20世紀初めは市商業センターだった重厚な建物があり、現在は郷土博物館になっている。正面には『この建物で1917年12月14日、市のソヴィエト政権が宣言された』という浮彫りが打ちつけてあった。国立ノヴォシビリスク郷土博物館は3か所あって、ここは歴史部門で、駅の近くにあるのが自然部門、さらに『シベリアのキーロフ』部門もあって、そこは当地に短期間滞在した革命家キーロフの住居だそうだ。
 エレーナさんたちと入ったのは、レーニン広場に面した郷土史博物館の方だ。石器時代から中世後期までの考古学部門、ウラルからエニセイまでの先住民族部門、ロシア帝国のシベリア進出部門、帝政時代のシベリア生活(流刑、懲役囚の生活も)やシベリア街道の交通部門、シベリア幹線鉄道建設とノヴォシビリスクの歴史部門などあって、なかなか見応えがあった。
 ノヴォシビリスクはニコライ2世の肝いりで大発展したと言う。シベリア幹線鉄道がオビ川を渡ったところにできたノヴォ・ニコラエフスク(ニコライの新しい町・ノヴォシビルスクの旧称。前述)に、コーカサス、バルト海ばかりか、シベリア、中央アジアを含んで広大になったロシア帝国の副首都を作ろうとしたとも言われている。18世紀初めサンクト・ペテルブルク(聖ペトロの町)を作ったのがピョートル(ペトロ)大帝なら、新ニコライスクを作ったのはニコライ2世だった。20世紀初めの帝政時代から急速に発展し、今ではロシアで人口第3位、シベリア管区の中心ノヴォシビリスク市の短い歴史は謎に満ちている、そうだ。
 博物館から外に出ると、乞食のおばあさんが立っていた。来た時は別の角に立っていたのを覚えている。見覚えのある眼鏡の乞食さんだった。この広場の、人通りはあるが景観から外れたところ、例えば地下道の出入り口、大きな建物の角など、しょんぼりと壁を背に手を前に出して何気なく立って、時々は場所を換えているようだ。
 博物館前の広場の向こう側には、先ほどの巨大なレーニンとその5人の仲間像が立っていて、その背後の辻公園の突き当たりには列柱のある丸屋根のオペラ・バレー劇場がまた目に入った。一応辻公園を通って近づいてみた。広告を見ると今晩の出し物は『眠れる森の美女』。観劇したいものだが、エレーナもダーシャもスヴェータも興味がないと言う。一人でも見たいと思ったが、チケットは売り切れだった。
 その後は、車の窓からノヴォシビリスク駅を見て、一応お土産店にも寄り、5時過ぎと言う早い時間にレーナさんたちと別れて、イーニャ川の畔インスカヤ新興団地のルィヒン夫妻のマンションに戻った。
 交通と公安を守る
 アレクセイ・ルィヒンさんやディーマたちは、もう戻ってきていた。家には、来客もいて、私たちが帰った頃は、もうかなりコニャックが入っていたようだ。テーブルの上にはコーヒー瓶くらいの容器に『コハク色の液体』が入っている。ここから各自の小さなコップに注ぎ分け、「えいっ」と喉に流し込み、サラダや肉魚のつまみをほおばっている。コニャックがなくなると、テーブルの下からジャム用3リットル瓶(越冬用の漬物びん)を持ち上げ、中身の『コハク色の液体』を空になったコーヒー瓶に注いでいる。普通、コニャックやヴォッカは専用のラベルを張った瓶があるものだが、こんな無印の大瓶に入っていると言うことは、製造元から直接入手したものか、自家製か。
ディーマ、スヴェータ、アレクセイ、来客二人

 来客の男性の一人はアンドレイ・チェトヴェルゴフさんと言って、シベリア連邦管区ロシア内務省交通庁公安局長で中佐なのだそうだ。つまり、公共交通機関の鉄道駅や空港などで公共の安全を担当する警察官の部署のトップらしい。モスクワの空港でのテロ事件の後に強化された部署だとか、もらった新聞に書いてあった(アンドレイ・チェトヴェルゴフ中佐はよく地元新聞からインタビューされるのだ)。シベリア連邦管区と言うからオムスク州からザバイカリエ地方まであって、ずいぶん広いではないか(それも新聞に書いてあった)。
 クラスノヤルスクから最近赴任してきて、自分はタタール人だと言う。盛んに私にコニャックを勧め、自分は1967生まれだが、
「あなたは本当に日本人なのか」と聞く。
「そうよ」と言って、面倒だからパスパートを見せてあげた。これで私の年齢もわかる。ついでに、
「どうぞ(私たちの)日本へおいでください」と言うと、行き方を詳しく聞いてきた。となりのディーマさんが補足説明してくれた。(自分の家に)招待すると言うのは深い意味があると、アンドレイ公安局長は盛んに暗示していたが、わからないふりをして聞き流しておいた。こうして2時間ほど酒豪さんたちにお付き合いしていたが、途中で太めのアレクセイ・ルィヒンさんが暖房パネルの上に座ろうとして壊してしまい、素面のスヴェータさんと夫婦喧嘩をしていた。

 テーブルの下の3リットル入りのジャム瓶(越冬用漬物瓶、実は自家製ヴォッカ)の中味が少なくなった頃、もうその頃は、アレクセイ・ルィヒンさんはダウンして別室で寝ていたが、アンドレイさんは立ち上がって帰る頃だと言った。車を運転して帰るのだ。自分の家はここから近いから平気だと言う。近いと言うのは半日も運転しなくてよい距離と言うことか。ロシアではどんな車が飛び込んでくるかもしれないから、歩道も用心して歩いた方がいい。ドアのところでディーマさんがアンドレイ公安局長とツーショットの写真を撮ってくれた。後で見ると、もちろんひどいピンボケだった。カメラをまともに支えられなかったディーマさんも泥酔していて、この後すぐ長椅子に倒れこんでしまった。

 後記:ルィヒンさんはその後、脳溢血で倒れて、実家のモティギノに戻ってきた。リハビリの結果、モティギノで仕事をしているそうだ。当時妊娠中だったスヴェータにはヴォーヴァと言う男の子が生まれた。(左写真)
 南周りで『ほろ酔い』丘陵群を通りケーメロフ市へ出て、クラスノヤルスク市『帰宅』
 10月10日(月)。昨日の今日と言うのに、アレクセイさんもディーマさんも平気そうで、10時半には2台のランクルでマンションを出発した。アレクセイさんも自分のランクルでクラスノヤルスクに行くそうだ。この旅の主要目的なので仕方ないが、ベルツコエ街道のルィヒンさんの店に寄って彼らは仕事をしていたので、ノヴォシビリスク出発はお昼の1時に近かった。
近道(暖房用パイプなどが道路を横切っている)

 市内の慢性的な渋滞を避けて、迂回路の穴場だと言う工場の裏手のような非舗装道を20分も走り、市外へ出て東へ向かうが、6日前に来た時のようにM53号線に出ないで、南のR384号線に出る。こちらの方が北のM53号線より交通量も少なく、最近修理したばかりで舗装の状態がいいと言う。
 R384号線は、ノヴォシビリスクから南東のレーニンスク・クズネツキー(*)を回りケーメロフに出て、そこからはM53号線と重なり、トムスクへの起点ユルガまで行く全長458キロの南へ大回りの地方道だ。(ノヴォシビリスクからユルガまでM53号線なら168キロで行く)。私たちはP384号線でケーメロフまで行ったわけだが、レーニンスク・クズネツキーまでも行くと遠回りになるので、途中で北上した。それで、270キロほど走ったことになる。M53号線を走ってもほぼ同様の距離になるので、この南周りでケーメロフに出る方がずっといい。
(*) レーニンス・クーズネツキー 18世紀後半はカリヴァニ県の小さな荘園だったカリチュギーノ村が、19世紀後半には炭坑村として発展し、1922年『レーニノ』と改名した。レーニンの生前に、この名をつけた町はまだ珍しかったそうだ(レーニンは1924年1月21日死)。ケーメロフ州では第5位の人口10万人余。南のアルタイ地方や西のノヴォシビリスク方面、東のクラスノヤルスク方面、北のトムスクへなど、『7つの道』がここから分かれると言う交通の要所にもなっている。
 1.ノヴォシビリスク 2.ベルツク 
3.ブゴタクスキエ丘 4.ジェラヴリョーヴォ 
5.レーニンスク・クズネツキー 
6.プロミシュレンニー 7.ケーメロヴォ
8.ユルガ  9.タイガ 10.トムスク 
12ノヴォシビリスク・ダム湖
ブゴタクスキエ・ソプキ
http://www.balatsky.ru/NSO/BugSopki.htm

 と言うのも、P384号線はノヴォシビリスクからしばらく走ったところで、広大な西シベリア平原の中でもユニークと言われるブゴタクスキエ(ブゴタグ)丘陵群の中を通るからだ。チュルク語で、『ブガ』は雄牛、『タッグ』は山を意味するそうだ。円形の小山が周囲よりわずか60メートル程度高い旧火山の丘が12個ほど散らばっている。
 ここは南の険しいアルタイ・サヤン山脈系からまだずっと遠く、アルタイ・サヤン山系の北の端に細く低く伸びているサライルスキエ山地からも離れている。この丘陵地帯は『ロマンチックな大山塊と大草原のほろ酔い加減の余波』などとも形容されているブゴタクスキエ・ソプキ(ソプカは円形の小山、丘、小火山、その複数がソプキ)と言う地帯だ。周囲とわずかに異なるこの一帯には、他では見られない動植物に出会えるそうだ。
(http://www.balatsky.ru/NSO/BugSopki.htm)
 ところが、かつて火山だったブゴタフスキエ丘陵にはよい石材が採集されるため、1950年代にこの唯一無二の美しい自然の中に石材採掘場やそのための採掘場町ができた。当時建設の始まっていたノヴォシビリスク発電所用の建築資材のためだ。運搬用の道路もできてしまった。一応、1998年には自然保護区になったが採石場は稼働している。
 R384号線は採掘場傍も採掘場村も、自然保護区の中も直接通らないが、ノヴォシビリスクから西へ西へと穏やかな自然の中、単調な大平原・大低地ばかりを通っていると、道がなだらかに登ったり、まばらな林の中を通ったりする丘陵地帯に出る。気持ちがいい。交通量もずっと少なく、走っているのは前を行くルィヒンさんのランクルだけだった。この日は晴天だった。この地方はこんな日が多いのかもしれない。『直進、レーニンスク・クズネツキー117キロ、ケーメロヴォ234』とか書いた道路標識を見ながら進む。
 タナエフという湖のほとりのジュラヴリョーヴォ(鶴の意)村でR384号線から出て近道でケーメロヴォに向かうので、レーニンスク・クズネツキーは通らない。
 ジュラヴリョーヴォ村はケーメロフ州の入り口で、ここから140キロほど走るとケーメロフ市に出る。中ほどにプロミシュレンニー(『工業の』と訳せる)と言う名前の町があって、ここでイーニャ川を渡る。アレクセイ・ルィヒンさんのマンションはイーニャ川がオビ川に注ぐところにあったから、つまり今まではイーニャ川の左岸を遡ってきたことになる。プロミシュレンニー町は、ケーメロヴォ州で人口20番目の2万人弱で、町の面積は21平方キロだが、そのうちの工業地帯は0.62%だそうだ。
 イーニャ川は長さが663キロもあるが、オビ川支流ではイルティッシュ川を除いても20番目くらいの長さだ。レーニンスク・クズネルキー市もイーニャ川の畔にあり、さらに上流には多くの炭坑町がある。アレクセイ・ルィヒンさんは夏には横のイーニャ川で水浴もできると言っていた(が、私なら気が進まない)。
 ケーメロフ市に近づくと交通量も増え、遠くに町のスモッグが見えた。市と周辺の集落を通りぬけるのに30分ですんだ。何せ、ケーメロフ市は州都だがたった50万余の同州第2の都市だから。
 ここからからクラスノヤルスクまでは来た時のようにM53号線だった。5時過ぎにドライブインで昼食を食べ、6時半を過ぎると薄暗くなり、もう走る車の窓越しに撮った写真はピンボケになってしまった。辺りがもうすっかり暗くなった頃、燃えている野原の横を通ったが、走っている車の窓から撮った写真なのでピンボケだった。
 帰りには、もっと奥深く入ってみたいと思っていたマーガレット畑も、この暗さではどこにあるのかちっともわからない。
 クラスノヤルスクのディーマさんのマンションに戻ったのは夜中の12時ごろで、1週間近い西シベリアの旅に大満足してすぐ寝た。次の日はクラスノヤルスクの郷土研究者のネルリさんとゆっくり会うことになっていた。翌々日はいつものハカシアへ向けて出発する。
 今回も、クラスノヤルスクを中心に西や北や南へと足が伸ばせた。最近は、あと1回ぐらいで、もうクラスノヤルスクへ行くのをやめようと思うのだが、毎回のように、この旅が最後から2番目と思って帰国するのだ。そしてまたクラスノヤルスクを訪れる。
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