クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
  Welcome to my homepage

home up date 2008年12月24日 (校正と追記:2009年1月22日、2013年4月3日、2014年3月11日、2018年10月2日、2019年11月27日、2021年7月25日、2022年5月28日)
24-1 -(3)  クラスノヤルスクからトゥヴァ共和国へ(3)
           2008年8月7日から8月24日(のうちの15日まで)

Из Красноярска в Тыву (с 7 по 15 августа 2008 года)

(1)ウラジオストック空港 (2) (3)
イルクーツク空港のお勧め度 数百基のスキタイ古墳群 チャダンのホテルと駐車場
シベリア鉄道(わずか)18時間 黄金の『アルジャン2』古墳 トゥヴァらしい風景
1日目、滞在予定を決める 『赤い』首都クィジール 未調査古墳に出会う
アパート修理事情、ネットカフェ アジアの中心碑、ミュージシャンと仏教寺院 ミルクの湖、スト・ホリ
動物園と街中散策 遺跡の宝庫トゥヴァ盆地縦断 アスベクトの町を通って
交通警察官、草原の中の高層建築群 トゥヴァ人の町チャダン 再び西サヤンを越え,、リングの輪を閉じる
私たちのハカシア基地、道の駅 上チャダン仏教寺院 帰りの『道の駅』と分水嶺
ロシアからかつてのロシア領トゥヴァへの道
ダーチャ(ロシア風別荘) 訪問

 チャダンのホテルと駐車場
警察署で駐車手続きをする

  チャダンのホテルに戻って、今晩の車の置き場所を決めなくてはならない。チャダンでは夜のうちに車がなくなるそうだ。ホテルの受付女性が、警察署の駐車場においてもらえばいいと言う。そこは公用車に交じって事故車や違反車が止めてあり、有料で部外車も止めてくれるそうだ。
 ホテルを探したり、駐車場を探して町中を動き回ったり、スト・ホリ湖の行き方を住民に聞いたりしてチャダン市を知ったと言うディーマによると、ここには私たちに対応してくれたホテルの受付の年配女性以外にロシア人はいないし、ここのトゥヴァ人はロシア語をほとんど知らないそうだ。
 トゥヴァとロシアの20世紀の歴史は微妙な点が多い。1911年にトゥヴァがロシア帝国の保護国になり、エニセイ県に併合されたいきさつも,当時の帝国らしい。トゥヴァは1922年独立国になり、ついで1944年トゥヴァ国民の『切望』によりソ連邦に併合されたいきさつも、じっくりと歴史の本を読んでみるとなかなか奥深い。ソ連崩壊後は反ロシア的雰囲気のトゥヴァから、ロシア人(植民者)の多くが引き上げていった。トゥヴァ在住のロシア人や、中国人商人が襲われることもあったからだ。これは当時、旧ソ連邦内の民族共和国ではどこでも珍しくもないことだった。
 1995年頃エリツィンはチェチェンに軍を進めたとき、トゥヴァをも、もう1つの候補に予定していたとか言う。

 ホテルには廊下の突き当たりにトイレがあり、受付の向かいに水道の蛇口が2本のほかは、宿泊用の部屋が5室ほどある。田舎のホテルにしては、せめても屋内にトイレがあり、蛇口をひねると水の出る施設があるだけ上等だ。
 私にあてがわれた部屋はベッドがぎっしり5台と、入り口の横に机が1台あるだけだったので自分の荷物は隣のベッドの上に置くことになった。結局、夜遅く女性の泊り客があって相部屋となってしまったが、翌朝7時半ごろ出発したので、同室の女性はまだ寝ていて、挨拶できなかった。彼女のベッドの近くのコンセントには携帯が充電されていた。
 ちなみに宿泊料は一人350ルーブル(1500円)だった。

 トゥヴァらしい風景
道端の雑草ヨモギの間に生える大麻
ほらこれが...
仏塔
ヘムチックの左岸支流のアク・スク
唯一すれ違った車。ロシア製の年代もので
トゥヴァ人が荷物と一緒にぎっしり乗っていた
 鉱泉『自然』保養所
(後ろ向きはスラーヴァとアルカージー)

 チャダン市を出て、国道162号線をしばらく行ったところで右折し、トゥヴァ盆地の北側を囲む西サヤン山麓に向かう。チャダン川ヘムチック川に合流するところまでは道の両側に果てしない草原が続いている。私の思い描くトゥヴァらしい風景だと思っていると、ディーマも
「トゥヴァらしい風景だ」
と言う。ディーマの『トゥヴァらしい』の意味は道端に大麻が雑草のように生えていると言うことだと知って、急いで車を止めてもらって助手席から這い出した。
「どれが? どれが大麻なの?」
と叫ぶと、一緒に出てきたスラーヴァが教えてくれる。スラーヴァとアルカージーは機会があるごとに車から出てきて喫煙する。車内は禁煙だから。
 道端のヨモギのような雑草に交じって生えているのが大麻だと言う。ちぎって匂いをかぐと、いい匂いだ。この大麻の花粉から麻薬が作られるそうだ。昔、ゼレノゴルスクに住んでいた頃、近くの荒野に生えていた背の高い大麻(と、地元の人に教えてもらった)の実をフライパンで炒って食べたものだ。香ばしくておいしかった。その後、おいしい実のなる大麻を見つける機会がなかった。
 ディーマの言うところの『トゥヴァらしい』風景の写真を何枚も撮って、また出発した。5分も走ったところには、道端の雑草どころか、立派な大麻畑が広がっていた。
「これはもうプランテーションといってもいい。肥料や水もやっているに違いない」とスラーヴァ。
「そうだ、肥料やりや水やり、雑草取りは雇い人に任せてオーナーはオランダなんかで優雅に暮らしているのだろう。あそこは許可されているからな」とディーマ。
「クラスノヤルスクにも大麻は生えてるよね」と私。
「クラスノヤルスクの大麻は花粉もならない。ここのは質がいいのだ。良質の麻薬が製造できる」とスラーヴァ。
 トゥヴァからたくさんの大麻がクラスノヤルスクの市場に運ばれてくるそうだ。『関所』の多い国道を堂々と通ってきて、途中のたまたまの事故で露見することもある。森の中『大麻ロード』を通って運ばれることもあるそうだ。
 
 私の持っている地図を頼りに、ヘムチック川を渡り、ボラ・タイガ村の方へやってきた。草原の中にはトゥヴァでよく見かける石の仏塔がぽつんぽつんぼつんと立っている。仏塔の横には必ずチャラマと言う布切れを結ぶロープが張ってある。『ボラ・タイガ』と刻んだ道標も動物のレリーフや台座の模様がトゥヴァらしい。
 ボラ・タイガ村の後ろにはヘムチックの左岸支流のアク・スクが北東から流れてきて、ここでトゥヴァ盆地は終わり、川向こうからはサヤン山脈(の支脈のボラ・タイガ山脈)が始まっていて、地図ではここから直線距離で10キロのところに目的のスト・ホリがあるのだ。しかし、どこに登る道があるのか、村の住民に聞くことにした。これはいつもアルカージーの役目だ。彼ら住民は用もないのに山の中の湖まで行ったことがないらしく、何人もの人に尋ねたが、あまりよくわからない。道らしいのが村を越えて続いているので、ひとまず進む。
 アク・スク川に沿った道を30分ばかり、渓谷を流れる川のすぐ横を走ったり、木製の橋を渡ったり、川をはるか下に見て走ったりしている間に、すれ違った車は1台だけだ。ロシア製の年代ものの小さなジープでトゥヴァ人が荷物と一緒にぎっしり乗っていた。と言うことはこの先の道に何かあるということだ。
 しばらく行くと確かに、曲がり角の道路わきに『スグルク・チャルィク』と言うミネラル・ウォーター『アルジャン(効き目のある湧き水)』があるという立て札が立っていて、その道を少し入ったところに2張りほどテントを張って療養している家族がいた。湧き水の出るところはもっと登ったところだったので、ペットボトルを持って急斜面を登り、汲んできた。そこにも2張りほどのテントがあってトゥヴァ人が療養していた。ミネラル・ウォーター、アルジャンの湧き出るところはクラスノヤルスク地方にもあって、クラスノヤルスク・ザゴリエといい、近辺では有名な湯治場で、療養施設つきホテルがある。アルタイ地方にもベロクリハと言う湯治場が会って、もっと大規模だ。カフカス方面ならロシア中から湯治客を受け入れる大施設がある。しかしトゥヴァには施設といっても、湧き水を流すための木製の樋と、水を浴びれるよう目隠しの板囲い(半崩れ)と、少しはなれたところのトイレ小屋ぐらいで、みんな自力で湯治(冷たい鉱水が多い)する。トゥヴァには成分調査済みのアルジャンが66個あるとネットに出ていた。ほかに『効き目のある』湖が14あるそうだ。

未調査古墳に出会う
アク・スク川の河岸段丘にある古墳群
注意深く観察するスラーヴァ
苔の生えた石、古代人の骨か
もっと近寄ると
とうとう家にまで持ち帰った
発見物(骨と白樺の皮)
家畜を連れた牧夫にアルカージーが
道を聞いたが、よくわからない
さらに30分も行った所にある古墳群
最近の遊牧民はトラックで遊牧する
 ユルタではなく木造の小屋(遊牧基点か)を
建てているトゥヴァ人3人に出会ったので

 さらにアク・スク川に沿って30分も行った頃スラーヴァが、
「あれは古墳らしい」と言う。あっ、高くなった河岸段丘の草原に丸く石を集めた古墳のようなものがいくつもある!確かにこの石の集まりようは人工的だ。中心に大きな石が立てて置いてあるのも古代人の墓地らしい。広めの河岸段丘いっぱいにいくつも石の集まりがある。川も近く、山で囲まれた穏やかなところで、牧草もよく生えているから、きっと古代人は一族でこの辺に住んでいたのだろう。遺跡の宝庫トゥヴァのことだからこんな地味な古墳は未調査に違いない。
 次々と古墳を見ていたスラーヴァが、
「ここは最近盗掘されたらしい」と言う。急いでそちらに行ってみると、石の間に骨がある。盗掘者は価値のある副葬品は取るが骨などは捨てていったのだろうと言う。遊牧民は愛馬も一緒に葬ることがあったから馬の骨かもしれない。スラーヴァは人間のだと言う。スキタイ時代かもしれない哺乳類(人間かもしれない)の骨を、袋に入れてそっと持って帰ることにした。白樺の皮も近くに落ちていた。これは古代人の遺体を包むものだった。この広めの河岸段丘には草のほか白樺どころかどんな木も生えていないから、偶然落ちてきたものではないだろう。それも持って帰った。やはり、スラーヴァのような考古学者と旅行すると、楽しくて有益だ。

 アク・スク川沿いの悪路はどこまでも続いて、このまま行けば遊牧用冬営地のような小さな集落に通じるかもしれないが、目的の湖はアク・スク川から離れた北側の山の中にあるのだ。だから、右折しなければならない、とナビゲーターの私は主張した。それで私たちは渓流アク・スク川に北斜面から流れ込んでいるもっと渓流の小さな支流に沿った超悪路を登っていくことにした。
 途中で家畜を連れた牧夫に会ったので道を聞いたが、よくわからない。

 また30分ほど行ったところでかなり広々とした野原に出た。スラーヴァが古墳だと言う。すぐ車を止めてもらって出てみると、草の生えた原っぱに石を丸く積み重ねた古墳が、今度は一列のように並んでいた。石のほかに何もなかったが、古代スキタイ人に敬意を表して写真を何枚か撮った。
 GPS(全地球測位システム)を持って、いつも計っていたスラーヴァから、この位置を教えてもらったので、日本へ帰ってから、ネットでトゥヴァ全土詳細地形図(20万分の1と10万分の1)を19ドルで買って調べた結果、私たちはずいぶん遠回りをしていたということがわかった。だが、そのときは、ただ必死で、かわいそうなランクルを鞭打ちながら、山道を登っていたのだ。

 こんなところで、たまに会うのは牧童だけだった。古墳からしばらく行ったところで、ユルタではなく木造の小屋(遊牧拠点か)を建てているトゥヴァ人3人に出会ったのでスト・ホリ湖の場所を聞いた。今まで上ってきたところに分かれ道があったが、私たちはそこで違う方向へ来たのだという。あっ、そうだ。あったが、私たちは状態の少しでもよさそうな西へ向かう道を選んでしまったのだ。でも、おかげで2つ目の未調査古墳を見られてよかった。

 昔はユルタや家財道具は馬に牽かせて移動したが、今ではトラックだ。トラックの荷台に折りたたんだユルタなどを乗せているトゥヴァ人に出会ったので、また道を聞く。これらはアルカージーの役目。

 8時前に出発したのに、途中食事休憩や古墳見物はしたが、もう12 時半になった頃、見晴らしのよい高原に着いた。スラーヴァのGPSによると標高2014メートルだ。トゥヴァではこのような神聖な場所には必ずチャラマが立っている。素晴らしい眺めだ。眼下に峰が重なり合って、谷間の底まで見えるから、きっとここが最も高いところだ。木が生えていなくて、草か岩だけの斜面もある。遠くの青く見える高い山々からは、もうサヤン山脈が始まっているのだろう。

ミルクの湖スト・ホリ
ロシア語が通じないトゥヴァ奥地
標高2014メートル。
神聖な場所には必ずチャラーマ
やっと見えてきたスト・ホリ
無人のスト・ホリ
スト・ホリ岸に立つスラーヴァ
遠く斜面にに馬に乗った少年が
やがて現れたトゥヴァ人牧夫
似合いの年齢のトゥヴァ男性と
『中国人』女性
馬に乗った少年
ランクル1台分の半分の羊か

 ここから道は下って、草原を5分も行ったところから水面が見えてきた。やっとスト・ホリ(ホリはトゥヴァ語で水場の意)に着いたのだ。誰もいない。

 静寂の中に広がる湖面を、これまた無言の山々が囲んでいる。スラーヴァのGPGによれば、私たちがたどり着いた地点は、標高1818メートル、北緯51度31分01.2秒、東経91度07分28.6秒だそうだ。車から出たスラーヴァは湖の水を舐め「淡水だ」と言った。対岸はすぐ山だが、この辺はなだらかで遠くの方にユルタも見える。
 スト・ホリは『牛乳の湖』と言う意味で、伝説によると、昔、この岸辺に住んでいた魔法使いの老婆が、ある夕方、おまじないをして牛乳の入った大きなたるを湖に投げ込んだそうだ。朝、人々が目を覚まして湖の方を見ると一面が牛乳のように白くなっていた。近寄ってみると、それは牛乳ではなく白いシーツのような霧が湖上に立ち込めているのだった。それ以来、湖岸の牧草を食べて育った乳牛はクリームのような濃い乳をたっぷり出すようになったそうだ。
 スト・ホリは聖なる湖の1つでシャマーンの交霊儀式の行われるところだそうだ。首都クィジールにはシャマーン・クリニックはあるが、そこは単に事務所であって、本当の儀式は、聖山ハイイラカンとか、聖泉ウルガイリクとか、聖湖カラ・ホリやスト・ホリなどという昔からエネルギーに満ちている聖なる場所に行かなくてはならない。
 日本に帰ってからサイトで調べてわかったことだが、私たちの訪れる少し前、7月末、毎年行われているチャダンの『ウスツ(上の)・フレ(寺院)』国際音楽祭のあと、参加者の数十人が、スト・ホリまで足を伸ばしたそうだ。載っていた写真によると彼らはチベットの国旗をスト・ホリ湖や、それを囲む山に打ち立てている。もっとも、チャダンの『ウスツ・フレ』はチベット仏教寺院で、ダライ・ラマも「認可(肝いりで)」して建てられはじめたそうだから。

 湖岸を前にして車を止め、写真を数枚撮ったところで、することがなくなった。湖は泳ぐには寒そうだったし、私たちは釣り具も持ってきていなかったし、テントを張って焚き火をおこし、バーベキューをする用意もなかった。
 山の斜面を馬に乗った少年が通っていくのが見えたので、私は精一杯手を振った。トゥヴァ人と知り合いになろうと思ったのだ。牧童君は馬を止めて、ジープの横で手を振っている私を眺めているだけで、近づいてはこない。しばらく、私は手を振り続け、トゥヴァ人の少年は離れたところに立っているだけだったが、あちこち歩き回っていたアルカージーがその少年に近づいていくと、意外なことに少年は馬を駆って山陰に去ってしまった。まるで、警戒されているかのようだった。すぐ山陰から今度は別の馬に乗ったトゥヴァ人の年配男性が現れ、用心深く私たちに近づいてきた。ここは彼のテリトリーらしく、私たちは外国人だから、トゥヴァとロシアの20世紀の微妙な歴史も考えて、彼の用心深さは当然のことだ。
 友好的な私は愛想よく微笑んで挨拶する。彼から見て、私はロシア人でもトゥヴァ人でもないようなので、
「中国女性(キタイカ)か」と尋ねられた。2重の間違いのうち民族的な間違いは訂正しない方がいい。日本人などというここでは超珍しい人種より、ありふれた中国人のほうがわかりやすい。しかし、言語的な間違いは一応訂正しようと、
「そうよ、私は中国女性(キタヤンカ)なの」と答えておいた。先ほどの牧童君も近づいて、無言で私たちを見ている。彼が自分の父親を連れてきたのでもないそうだ。
 アルカージーがハカシア人だと知って
「ふん、ハカシア人か」と軽蔑したように言ったので、アルカージーは憮然としていた。何か私にはわからないような言葉で罵詈雑言も付け加えたのかもしれない。その種の語彙は豊富な国だから。
 ロシア人のディーマはあまり相手にしていなかった。活躍したのは前々世紀からのドイツ移民(つまりロシア人)のスラーヴァだった。何でも、アバカンに共通の知り合いがいるとかで、そのトゥヴァ人男性(自称40歳)は少年に馬の手綱を渡して、草原にしゃがみこんで二人は話していた。
 そのうち、やたら私に絡んできた。自分たちは似合いの年齢ではないかなどという。それを聞いていたスラーヴァにあとで、
「タカコさんはすっかり彼に気に入られましたね」とからかわれてしまった。
「うん、彼の第3夫人になってユルタで暮らすのも悪くはないわ」と答えたら受けた。(トゥヴァ人が一夫多妻ということはない)
 少年が無言なのはロシア語を知らないかららしい。男性のロシア語もひどいものだった。「贈り物をくれ」という。贈り物、贈り物と繰り返す。ディーマに何か適当なものがあるかと聞いたところ、アルカージーがタバコを1カートン出してくれた。1カートンでなくても、2、3箱でいいではないかとけちな私。しかし、ここは1カートンでなければならないそうだ。満足したトゥヴァ人男性は、私を抱きしめそうになったが容赦してもらう。代わりにポケットから古びた飴玉を1粒出して私にくれた。ディーマには、自分のユルタがこの丘の向こうのすぐ近くにあるから行こう、地酒を一杯ご馳走する、などと言っていた。ちなみに彼はこのランクルが気に入って、羊30頭と交換してくれと申し出たそうだ。ユルタや家財道具を運ぶにはランクルは小さいから、レジャー用かな。この人この場所ではミスマッチだが。
 あとでディーマに聞いたことだが、羊は1頭500ルーブルほどで、ランクルなら高年式でも30万はするから、500頭と交換しても割が合わないそうだ。羊が余って車の足りないトゥヴァ奥地ではバーター値はさらに上がるのではないか。そう計算したわけではないが、断ったところ、今度は馬1頭と言われたそうだ。私たちは4人だから、あとの3人は歩いてクラスノヤルスクまで帰るって言うこと? ディーマによると彼は酔っていた。そうかもしれない。彼らはしらふなんて耐えられないのだろう。

 チャダンから、ほとんど6時間もかけて来た聖なる湖スト・ホリだが、1時間ほどで引き上げた。
 丘をひとつ越えたところでトゥヴァ人女性が私たちの車に走り寄ってきて何か言っている。ディーマは車を止めたが、彼女が何を言っているかさっぱりわからない、トゥヴァ語らしい。すると、あとをつけてきたらしい先ほどのトゥヴァ人男性が、彼女に何か話している。たぶん女性は私たちに何か頼んだのではないか。でも、私たちロシア人一行は彼女の希望をかなえられない状態だと言うようなことを、男性は説明したのだろう。
 統計によると、ロシア連邦内の民族共和国内のその民族が自国民族語を母語として話す割合はトゥヴァが一番高いそうだ。たとえば、ブリヤート語を話せないブリヤート人も多いのに、トゥヴァのトゥヴァ人はロシア語を話したとしてもひどい訛りがある。ブリヤート人はブリヤート語学校へ行かず、ロシア語で生活し、ロシア化されている。もうブリヤート語を母語とするブリヤート人はわずかだ。ブリヤート人ばかりか多くの少数民族はロシアに完全同化寸前だ。しかし、ロシア人殖民が20世紀になってからの旧ソ連邦辺境のトゥヴァはトゥヴァ人人口も多くて、同化されていない。(18、19世紀にロシア帝国領に取り組まれたシベリア原住の各民族はアルコールと天然痘で人口を激減させた、と言われている)。
 ちなみに、ソ連邦時代の兵役は、出身地から遠いところで行われ、トゥヴァ人の若者もほかの民族共和国人やロシア人に交じってソ連邦各地で勤めていたので、それまでロシア語を知らなくても兵役中に習得したそうだ。最近、兵役は出身地の近くで行われ、トゥヴァ人はトゥヴァ国内に配属されるそうだ。だからロシア語を無理にでも習得する機会がなく、ロシア語を知らなくても一生生活できる。先ほどの男性は、ソ連時代に兵役に服したため多少はロシア語を話せるのだ、と南千島(国後か)で兵役したディーマが説明してくれた。

アスベクトの町を通って
アク・ドヴラックの街角
ガソリンスタンドで外の客がお金を払い、
屋内の店員からおつりなどを受け取る。こんな
厳重な金銭のやりとりでは襲われることもない
トゥヴァ盆地のユルタ

 帰りは別の道を通りたかったが、今来た道が最も状態のよい道だそうなので、標高2014メートルのチャラマがセットしてある高原を通り、もう一度、眼下の峰や木が生えていなくて、草か岩だけの斜面も眺め、来るときの1つ目のクルガンは気もつかないうちに通り過ぎ、4時半ぐらいにはアク・スク川沿いのボラ・タイガ村まで降り、大麻のプランテーションでも車を止めず、5時には国道162号線に出て、トゥヴァ流『サービス・エリア』を見つけ、車にはガソリンを、私たちには肉饅頭などを補給した。
 トゥヴァ第2の町でトゥヴァ盆地のほとんど西の端アク・ドヴラック市まで、約80キロを私たちはほとんど無言で通り過ぎた。本当はこの近くに、1883年清朝支配に対して大蜂起したというアルダン・マーディル村や、野原の中に立っている8世紀チュルク時代の大きくて勇ましい表情で有名な『戦士』の石像や、青銅時代の300以上の石画(その中には70センチの鷲で羽が細密に描かれているのもある)や、1358年と言う石窟仏像などがあるはずなのだが、どこへも寄らずに通り過ぎた。ディーマはこの日のうちにアバカンまで戻りたかったのだ。(追記 2013年7月には訪れた)
 人口1万3千人のアク(白い)・ドヴラック(土地)市は、1950年代アスベスト(30年代調査では埋蔵量273百万トン)の露天掘り採掘工場ができるまでは小さな村だった。しかし、アスベストについては地元の住民は古くから知っていて、20世紀初頭からはロシア商人が目をつけていたらしい。
 アスベストの健康被害については聞いた事もないと同乗の3人は言っていた。国道162号線はここまでで、アク・ドヴラックから北のハカシア共和国へは国道161号線が延びてアバザ経由でアバカンとつながっている。だからアバカンから前々日の私たちのように、ウス街道を通って南下し、クィジールから162号線を西進し、アク・ドヴラックから161号線を北進してアバザ経由アバカンに戻るコースは、『サヤン・リング』と言って、これでハカシア、トゥヴァを無駄なく一回りできる。全行程、1140キロはあるが。
 161号線ができて、ハカシアのアバザ市まで通じたのは1969年だった。この国道は、アク・ドヴラックのアスベストをロシアに運搬するためだったし、アバザからは自動車道も鉄道もあるのは、やはり60年代アバザの鉄採掘工業が本格的に始まったからだ。道路は何のために作られるかよくわかる。ちなみに、乗用車でも通れるように舗装されたのは最近のことだ。
 アク・ドヴラック市にはアスベスト採掘歴史博物館があるそうだが、もちろんそこへは寄らなった。もう8時半だったからだけではなく、ロシアではどんな寂れた市にも郷土史関係の博物館はあるが、あらかじめ連絡をしておかなければ来館者がいないため閉まっているからだ。
 アク・ドヴラックでトゥヴァ盆地はほとんど終わっているから、さらに西進するとアルタイ山脈に入り、トゥヴァの最高山モングーン・タイガ(3970メートル)がある。モングレーン・タイガ南麓はモンゴルのウブス・ヌール盆地につながっているが、まだトゥヴァ領で、小さなクィジール・ハヤ Кызыл-Хая村がある。クィジールからは545キロ、チャダンからすら320キロ離れた寒村だが、こんなところにこそ行ってみたいものだ。近くの湖アク・ホリの岸辺にはスキタイ時代のクルガンが多くあるそうだ。(後記;2015年にはアク・ホリ湖まで行った)
 アク・ドヴラックではもう夕方になっているのたが、この日のうちに、ディーマは420キロ走破してアバカンに戻るつもりだ。アク・ドヴラック市内に入って国道161号線に乗れなくてしばらく迷った。こんなとき、車から降りて地元の人に道を聞くのはアルカージーの役目だ。
「ディーマ、10ルーブル出してくれ」とアルカージーが運転席のディーマに言う。そのトゥヴァ人は有料で道を教える、と言っているそうだ。10ルーブル札を渡すと、彼は大感謝して大仰にアルカージーを抱擁して『丁寧に』道を教えてくれた。後で、ディーマは酔っ払いだ、と言っていた。アク・ドヴラックの街角には、たむろしているだけの男性の群れをよく見かける。チャダンでもそうだった。

再び西サヤンを越え、リングの輪を閉じる
サヤン峠から小さな谷間を見下ろす
再びアク・スク川
↑ 検問所 ↓
西サヤン山麓の草原。家畜とユルタ
標高2206mのサヤン峠が
ハカシアとトゥヴァの国境

 もう、どこへも寄らず夕方7時ごろには161号線を順調にハカシアに向けて走っていた。ヘムチックの左岸支流アラーシ川を越えると、1969年アスベストを運ぶためにできたこの道はアク・スク川渓谷に沿ってサヤン山脈を上っていく。アク・スク川といえば、この日の朝、ミルクの湖スト・ホリへ行くときにその下流渓谷を通った。と言うことは、この山川を、たとえば動力つきいかだ(ボートでも)とかで遡れば国道よりずっと近道できると言うことか。(不可能)
 アク・スク川渓谷に沿った161号線は川と同じ高さを走ったり、川を見下ろすように高く上ったりしながら続いていたが、走る車はほとんどなかったので、この渓谷の絶景は私たちだけのようなものだった。
 なのに、関所があった。ちゃんと通行止めまでしてあったので、ディーマはわざわざ自分から免許証などもって、壁が剥げ落ちている歩哨小屋へ入っていった。しばらくして、暇だからきっと一休みしていたのだろう若い兵士は、ディーマと一緒に出てきて、車の中を一応調べた。スラーヴァがこっそり、
「大麻や盗品を積んでないか調べているんですよ。ほら、タカコさん、さっきのプランテーションで大麻を一本摘んできたでしょう。スキタイのクルガンから骨をひとかけら取ってきたでしょう。」と冗談に脅かす。スラーヴァと一緒の旅は楽しい。
「この歩哨小屋にはきっと彼一人しかいないのだろうな、さびしいだろうな、犬と一緒だけでは」と、後でスラーヴァと話し合ったものだ。
 事実、アク・ドヴラックからアバザまで240キロの西サヤン越えの161号線には廃村が2、3個あるほか集落はない。アク・スク川渓谷の所々開けたところでは牧草地が広がっていて、そんなところには数軒のユルタが張ってあり、家畜が草を食べている。しかし、2206メートルのサヤン峠を越えてハカシア共和国に入り、今度はオン川やオナ川渓谷を走るところではユルタもない。伝統的なハカシア人(遊牧をする)はトゥヴァ人と比べてずっと少ないから。
 先を急ぐ私たちは、トゥヴァ領でユルタを訪ねることもしなかったし、スキタイ時代のクルガン群の密集地帯ハカシアのアスキースも素通りした。ただ、ハカシアとトゥヴァの国境サヤン峠だけは車を降りて写真を撮った。2206メートルの峠から谷底を見下ろすと一番低いところには水がたまっていた。つまり湖があった。
 サマータイムなので10時過ぎまでは明るいのだが、サヤン山脈からミヌシンスク・ハカシア盆地に降りた頃はもう真っ暗だった。だから国道からでも見わたせるクルガンの立石すら見えなかった。夜のドライブはだから面白くない。ランクルにはサンルーフもないから、すばらしいハカシアの星空も見えない。
 アバカンに戻ってアルカージーやスラーヴァを下ろして、ガイド料を支払った。後ろの席でただビールを飲んでいただけのアルカージーにも1000ルーブル謝礼した。そのビールもディーマが買い与えたものだが。
 トゥヴァは知らないと言っていたスラーヴァにも3000ルーブルの謝礼だった。本人は1日500ルーブルでいいと言ったのだが。気前のいいスポンサーのディーマだ。

帰りの道の駅と分水嶺

 アバカンではいつものようにディーマの兄宅に泊まり、8月15日、8時半ごろには4日前通った国道54号線をクラスノヤルスクへ向けて出発した。ディーマは早く自分の会社に戻らなくてはならない。しかし、近くのチェルノゴルスク市に寄って知り合いの父娘を乗せた。彼らはクラスノヤルスクに用事があるので便乗させてあげたそうだ。どんな用事かといえば、ディーマの会社から車を買ったので取りに行くのだと言う。クラスノヤルスクではディーマ宅に泊まるそうだ。バス・タブが台所に横付けになっていて、トイレの水が使えない修理中のアパートなのに、と思ったが、ディーマに言わせると、知り合いが自分たちの町にくれば、どんな状態だろうと、泊めてあげるのは当然のことだそうだ。
 こんなロシア的なところが好きだ。昔、クラスノヤルスクにいた2004年春先、私たち友達3人(若いロシア人女性二人に私)でトムスクの知り合いの小さな一部屋アパートに押しかけ、その知り合いの新婚夫婦は台所に布団を敷いて、私たち3人は部屋で雑魚寝をしたものだ。3日ほどもいたが快適だった。

チェルノゴルスクから乗せた知り合いの父娘
道の駅(道端に座って売る)
今が旬のキノコ
新ジャガなのでバケツ一杯600円くらい。
売り手はこの車で運んできて、中で待つ
 ここが『分水嶺』だと言う碑。北から南を見る
左がエニセイ川水域で右がオビ川。
シベリア鉄道のクラスノヤルスクから西60キロの
ところに立つ。(ロシア鉄道写真から)

 チェルノゴルスクの知り合いは、もしかしてディーマ宅の修理も手伝うのかもしれない。何せ、ロシア田舎の自分の家は、つまり集合住宅ではなく個別建ての場合は、自分で建てるくらいだから。その方面の腕はあるだろう。
 チェルノゴルスクで知り合いの父娘を乗せてからクラスノヤルスクまでは、ほとんどノン・ストップだった。このよい天気のドライブをそれではもったいないので、2箇所だけは止まってもらった。はじめは国道54号線と地方道412号線が合流する交差点近くだ。
 合流地点といっても54号線も412号線もごくたまにしか集落のない草原、森林地帯を走るので、自然発生的な市が立つほど通行量は多くはないが、それでも、天気のよい日は近くの住民がバケツに入れて収穫物などを売っている。今の季節は住民が近くの森で取ってきたキノコや木の実などが売っている。
 道端でバケツに入れて自分のところで取れたものを売っているこの(休憩設備はないが)『道の駅』の写真を撮りたかったのだ。その機会に、ディーマも今が旬のリシーチカ(アンズタケと辞書にある)をバケツ1杯170ルーブルで、ついでに新ジャガも150ルーブルで買っていた。
 2つ目の停車点はクラスノヤルスクまで後150キロほどの最後から2つ目の『サービス・エリア』で、大ケムチック川の上流近くにある。大ケムチックも小ケムチックもチュリム川の左岸支流で、チュリム川はオビ川の右岸支流だから、この辺はシベリアの大河オビとエニセイの分水嶺に当たる。エニセイ川(この辺はクラスノヤルスク・ダム湖)から5キロほどの672メートルの低い丘陵が両大河(つまりオビ川とエニセイ川)へ行く水分を分けているのだ。ちなみにシベリア鉄道のクラスノヤルスクから西へたったの60キロのところには、ここが『分水嶺』だと言う記念碑が建っている。

 ケムチック『サービス・エリア』には熊が1匹だけ檻で生活している。たまたま生け捕りされた孤児の熊が地元猟師手製の檻で住み、通行人(車)からえさをもらって大きくなったのだそうだ。

 終点のクラスノヤルスクまで数十キロのところにある黒い白樺も見たかった。神聖だと言うのでリボン(チャラマ、リボン製しめ縄)が巻いてあったのだ。でも、ディーマによると近頃伐採されてしまったとか。
 2時頃にはクラスノヤルスクのディーマの会社に着いていた。ここでは、社長室のパソコンを借りてデジタル・カメラの内容をUSBメモリに落とそうとしたが、このパソコンはウィルス防御が強すぎるのかうまくいかず、2時間もかかった。

 サヤンリングを回ったのはたった2泊3日間だった。綿密な計画はなく、かなり行き当たりばったりで、だから見て回ったところは多くないが、旅行会社プランでないところを回れたのがすばらしかった。途中いくつもの遺跡を見逃してしまったし、草原のユルタを訪れてトゥヴァ人と知り合いになれなかったし、ランクルと羊の交換もしなかったが、チャダンの相部屋ホテル1500円というのも、大麻のプランテーションも、ランクルに鞭打って登ったミルクの湖スト・ホリも、何よりも未調査古墳で、2700年前と私が信じるスキタイ人の骨を拾ってきたことがよかった。(実は最近の犬の骨かもしれない)。どうしたら確かめられるだろうか。

<ホーム> ←前の前のページ ←前のページ ↑ページのはじめ 次のページ(パド・カーメンナヤトゥングースカ川)