クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 2009年3月20日  (校正2012年5月24日、7月27日、2013年4月29日、2014年4月9日、2016年2月24日、2022年2月20日)
ダーチャ(下賜されたもの)またはロシア風別荘(1)
             2008年8月16日まで
           Дача

(1) ニーナさんの甥のダーチャ
クラスノヤルスク市とその近郊
@ウダーチニィ Aエメリヤーノヴォ村
Bドロキノ村 Cヴェトルジャンカ
D第2次大戦中ヨーロッパ・ロシアから疎開して来た工場群
   Eプガチョーヴォ Fアルミ工場
Gベリョーゾフカ村 Hクズネツォヴォ台地
  
ニーナさんのサローキナ村のダーチャ
収穫物の保存
ダーチャ恩赦法
(2) ダーチャの国ロシア
ダーチャの歴史
クラスノヤルスクの不動産業
ゼレノゴルスク市のダーチャ
リョーバのダーチャ
ウダーチニィ地区
ドロキナ村のフェージャの家
今、ダーチャ
(3) 2010年追記、シーズンオフだがダーチャ
(4) 2011年追記、リューダさんのダーチャ
(5) 2017年追記、コミ共和国のダーチャ
(6) 2018年追記、リューダさんのダーチャ

 2008年8月9日クラスノヤルスク市へ到着。8月11日から15日までトゥヴァ共和国へ回り、8月18日から22日までエニセイ川とパドカーメンナヤ・トゥングースカ川を航行した.そのときの紀行文はクラスノヤルスクからトゥヴァ共和国へ、2008年8月クラスノヤルスクから神秘のポドカーメンナヤ・トゥングースカ川へ2008年8月に掲げてある。その紀行の間の8月16日に、クラスノヤルスク市滞在中にホームスティさせてもらっていたニーナさんのダーチャを訪れる機会があった。
 ニーナさんの甥のダーチャ(トルガシーノ)
  8月16日は『別荘(ダーチャ)』訪問の日だった。
 ニーナさんのところに夏期にホームスティしていると、時々甥のアンドレイがダーチャでの収穫物を持ってきてくれる。ニーナさんがアンドレイ宅に電話しても、留守番の息子さんから
「今日、パパはダーチャで泊まりだ」
と言われたりする。夏場はみんなダーチャで過ごしているのだ。昔、クラスノヤルスクに住んでいた頃(2004年まで)はダーチャ訪問と言うのは少し苦手だったが、今となっては、また訪れてみたい。
 それで、ニーナさんに頼んだのだ。すると、約束の日のお昼ごろ、ニーナさんの甥のアンドレイが自分の車『ニーヴァ』(小型ロシア製ジープ)で迎えに来てくれた。私たちが荷物を積んでいる間、アンドレイはボンネットを開けて車の点検だ。ロシア車は高年式車に限らず新車でも、暇さえあれば点検をしておかなくてはならない。
ニーナさんのアパートの前、
荷物を積んで今から出発
 
出発前の点検,ボンネットは後ろから前に開く 
ダーチャの木戸(入り口)の前
 
 ダーチャ、ドラム缶、温室
塀の木戸(入り口)からベランダを見る
ベランダから入り口を見下ろす。
カメラを構えるニーナさん。車は塀の内側に
 
 ベランダに座るヴェーラ、アンドレイ、
ヴァーリャ
屋根などにたまった雨水を集めて溜める水槽
『アブレピーハ』、意訳は『へばりつく』
日光浴しながら耕す隣家の夫婦
長い金属串にバーベキュー用の
肉をさしていくアンドレイさん
 屋内の居間、焼きあがったバーベキューを

 やがて、50分ほどかけて市の南にあるトルガシーノ・ダーチャ地区へ行く。クラスノヤルスク(だけではなく極北以外のすべての都市の)郊外にはこうしたダーチャ地区がいくつもある。ダーチャ地区の価値はそこまで行き着く道路の状態によっても、かなりの程度決まるそうだ。
 道と言えば、悩みの種で、都心の繁華街は建物も道路もかなり良くなっているが、中心部を出ると相変わらず状態の悪い道路が続く。小さな市では道路状態は悪いが、それでもアスファルト舗装の『痕』がある。村では道路は踏み固められているが舗装はされていない。だが、道らしく広くてほぼまっすぐだ。私が訪れた限りのクラスノヤルスク地方の村々では、状態こそ天候によって左右されるが(つまり、雨天ではぬかるむ)、集落を貫くかなり大きな通りが2,3本はあるのだ。(人口百人以下では1本だけのこともある)
 しかし、都市郊外にあるダーチャ地区は、もとは未開墾地で、森林や荒野や沼地の原野だった。すべての土地が国有だったソ連時代、企業ごとに組合労働者用(つまり全職員用)の畑にするようにと、そうした未開墾地が与えられた。それを企業組合は労働者に、当時は6アールずつ分譲したのが始まりなので、ダーチャ地区内には、ただその場限りのような曲がりくねった通路(農道)が通っていることが多い。
 まず、ダーチャ地区まで行き着くのも容易ではない。まだアスファルト舗装の跡が残っている市街地を過ぎると、もう荒い砂利道だったり、低地の場合は、雨が降るとすぐぬかるんで通行できなかったりする。さらに、町から通じる道すらないダーチャ地区もあって、シベリア鉄道の小さな駅で降りてひたすら歩く。自家用車のなかった時代は、往復が大変だった。だが、家族のためにジャガイモや野菜を作らなければならない。だから、町から近いところにあるダーチャ地区ほど人気があった。(当時、店にはものが少なかった、ソ連時代末期と崩壊後の混乱期は深刻な品不足だった)。
 ニーナさん(77歳)や彼女の妹の長男アンドレイ(50歳)一家は特に裕福でも貧困でもない。生活に困ってはいないが、豊かとは言えない。アンドレイは工業系大学を出てクラスノヤルスク市で最も大きい企業の1つ『クラスノヤルスク重機』で長い間エンジニアとして働いたという典型的なソ連人だ。だから、外車(日本製中古車)も未だに買えない。でも、中古ロシア車『ニーヴァ』があるだけ数年前より生活は良くなったのだ。ダーチャへバスで行かず自家用車で行くなんて、ほんの15年前まではエリート官僚だけができた。自家用車と言っても、故障中のことが多いロシア製中古車だった(だから、一昔前まではドライバーとは修理のできる男性のみだった)。今、アンドレイの車『ニーヴァ』に乗っていれば、乗り心地はともかく、労せず目的地にいける。ありがたいことだ。そうでなければ、バスや郊外電車を乗り継いでいかなければならない。
 ニーヴァは埃をあげ、路傍の雑草を踏みながらダーチャへたどり着いた。そこでは、アンドレイの妻と、もう兵役の終わった二人の息子が畑仕事をしていた。

 未開墾の原野の1区画6アールを与えられた初期の頃のダーチャ人は家族総出の自力で、機械ではなく手で耕して、畝を作り肥料を与えて、野菜やジャガイモやベリー類のなる潅木を植えなくてはならなかった。そこが以前は森だと、木の根を掘り起こし、荒野なら肥料を与え、沼地なら客土しなくてはならない。大体の整地や、町からここまで何とか通じる道を作り、電気も引くというような大きなことはダーチャ組合でやった。水道は引かれていない。ましてや下水道もない。自分の水がほしいときは自分の地所に自分で井戸を掘ったそうだ。(共同井戸は農村では見かけるが、ダーチャ地区ではまれだ)。または雨水をためておく。
 畑はできたが、自分の地所に鋤や鍬などの農具を保存しておくための小屋があると便利だ。作業中に雨宿りができるような小屋があるとよけいに便利だ。不要になった車の車体を、休憩用小屋に代用している地所もある。この程度の設備、つまり畑ができる程度にまでなった土地と物置小屋程度の地所は『アガロードогород(畑、菜園)』という。
 さらに、夏場だけでも電気や水(雨水を溜めるドラム缶でも)があって、数日寝泊りできるような小屋を自分で建てれば、もう『ダーチャ』といえる。小屋の横に蒸し風呂用小屋があれば、『ダーチャ』としての条件がほぼ完備だが、ここまですべてを自力でやらなくてはならない。建売個人用住宅はもちろん、個人用注文住宅というものは、その頃はなかったのだ。(シベリアの冬はダーチャでは過ごせない)
 モスクワなどの政府エリートや何かの英雄ならば、市の近郊の1当地や黒海のリゾート地に国営ダーチャが支給されたし、今でも、官庁のボスなら自分の配下を動員できる。普通の人は、難しいところだけ誰かに手伝ってもらったりするが、主力は自分と家族だ。夏中かかってこつこつと自分で建てていった。冬は雪に覆われ、建設業も休止し、翌年また再開した。廃材を利用する部分もあるので出来上がりは素人風だ。
 しかし、そうやって出来上がったダーチャの中古を買う場合もある。アンドレイの妻ヴェーラの両親は20年ほど前、中古ダーチャを購入したそうだ。それがこのダーチャだ。その後ずっとヴェーラの両親がこの畑を利用し、アンドレイたちが手伝っていた。数年前、両親が亡くなってからは、アンドレイたちが運営している。
 アンドレイのダーチャが広さは6アールと平均的な広さなのも、ソ連時代からの普通の家庭らしい。このダーチャ地区は高さ600メートルほどのトルガシーノ丘陵の北斜面(エニセイ川の流域に向かっての斜面)に沿ってあるので、たいていの地所は斜面になっている。アンドレイの地所も、入り口から入ると、奥に向かって登るように畑があり、一番奥に夏場だけ宿泊できる2部屋の家(小屋)、その横に夏用台所、つまりベランダのようなところ、その横に蒸し風呂小屋がある。だからベランダに座ると下に向かって、花畑、野菜畑、温室、潅木畑、雑草畑などが木戸に向かって続いている。
 今、カボチャ、赤カブが旬だった。にんじんやキャベツも畑になっていた。パセリ、ねぎ、ウイキョウは夏中収穫できる。もうシートははずしてある温室にはトマトやきゅうりが残っていた。
 畝や草々のあいだには、古いドラム缶が10個ほどあって、これが灌漑用水だ。トルガシーノ地区には川がないので水がない。アンドレイのダーチャには井戸がない。夏場のダーチャ・シーズンには週に一度、給水車が回ってくるそうだが、雨水も主要な水源のようだ。ベランダにある台所と夏用宿泊小屋(つまり小さな家)の間には2メートル四方で深さ1メートルはありそうな水槽がある。この水槽に樋を伝って小屋の屋根に降った雨水が流れ込むようになっていて、この溜め水を汲んでトマトを洗ったり、顔や手を洗ったりしていた。灌漑用には畑の間にあるドラム缶の水をまくのだろう。飲用水は家からペットボトルで運ばなくてはならない。この水利事情も、平均的なダーチャと言える。
 畝の横や畑の隅には果実のなる潅木があって、この地方では自生しているグミ科のシーバックソーン(シーベリー、サジー、スナジグミ、ヒッポハエとも言う。ロシア語で『アブレピーハ』、訳すると『へばりつきまくる』)がぎっしりと成っていた。この橙色のグミはすっぱくてビタミンがたっぷりあり、なかなかの健康食品らしい。細かい実がとげのある小枝に、べったりとへばりついているので収穫が大変だ。このジュースは飲みすぎると下痢をする。果実には珍しく、種子や果実に油脂が多いそうで、アブレピーハ油は薬局でも火傷などの薬として売っている。つけたところが橙色になって効果のほども頼もしい(試し済み、だからお勧め)。アブレピーハ入りの化粧品も店ではよく売っていて、高くないので、ロシア滞在中はよく利用した。
 アブレピーハのすっぱい実を一粒ずつ採って食べてもよかったが、塀の近くにはもっと美味しい2種類のさくらんぼが盛りで、好きなだけ食べていいと言われた。洗って食べるようなことはしない。洗ってきれいになるような水もないからだ。あちらの枝こちらの枝からちょうど食べごろの粒をプチプチと採って次々と口に入れ、種をぺっぺっと吐き出すやり方が一番美味しい。ニーナさんは食べずに、バケツに集めていた。家に持ち帰ってジャムにできる。
 家(夏用宿泊小屋)の近くにはシベリアりんごの木もある。シベリアりんごの木は町中にも植わっている。この実はさくらんぼくらいの大きさしかないが、初夏の頃、目もさめるほど白い花が咲いて、この木の下を通るのが大好きだった。生食は小さすぎて面倒なのでジャムにする。
 畑には桃のような木もあるが、野生に近い品種なのか、あまり美味しくはない。それよりも、ざらんざらんと成っているスグリ類の実を小枝から手当たり次第につまんで口に入れると、シベリアのダーチャに来た実感がわく。赤い実のフサスグリ(レッドカラントкрасная смородина )や白スグリが食べごろだった。黒スグリ(カシスчерная смородина)は盛りが過ぎていた。これらのスグリ類がアブレピーハの横に雑然と植えられているのも平均的なダーチャらしい。
 ベランダに座ると、土地の高低があるので、自家の畑ばかりでなく塀越しに隣の別荘も見渡せる。水着姿の男女が畑を耕していた。農作業をしながら日光浴ができるから、ダーチャ地区ではみんな脱ぐ。ダーチャ地区ばかりではなく街中でも、短い太陽のシーズンにはできるだけ肌を露出したファッションを見かけるのだ。以前、まだクラスノヤルスクに住んでいた頃、私もやむなくそんな服を着ていたものだ。
 ちなみにロシアの女子用水着は必ずビキニだ。私はあいにく持っていなかったので、湖に水浴に行くような時はニーナばあさんから借りたものだ。

 アンドレイはバーベキュー用のまきを割っていた。ダーチャでは畑仕事が一番大切だが、バーベキューと蒸し風呂なしのダーチャ生活はロシア風ではない。アンドレイの二人の息子たちは、何か新しい苗を植えるとかで潅木と畝の間を耕していた。
 やがて、蒸し風呂が焚けたからどうぞと言われる。平均的ダーチャ(今では『古典的』ダーチャと言う、なぜなら、日本語で『別荘』と訳せるダーチャがミドル・アップクラスに普及してきたからだ。ダーチャはいつでも『別荘』と訳されてきたが、実は『古典的』ダーチャは『別荘』と言うイメージからは外れて、『菜園小屋』に近い)の蒸し風呂に入るのはちょっと勇気がいる。蒸気が逃げないように、窓は小さな穴程度だからドアを閉めると中は真っ暗に近い。弱々しい裸電灯をつけてもやっと見えるくらいだ。蒸気で温まって、いい気持ちだが、シャンプーなどした後にすすぐお湯が少ないので、石鹸をつけるのは体だけにしたほうがいい。蒸気部屋へ入ったり脱衣室で休んだり、また蒸したり休んだりと長いこと楽しめるが、それは、『古典的』ダーチャの蒸し風呂に「入るぞっ」とかなり覚悟を決めた時だけだ。今回は、ニーナさんに一緒に入ってもらい、短時間で上がった。私たちの後、ニーナさんの妹でアンドレイの母のヴァーリャさんが入った。アンドレイの二人の息子たちは家のお風呂がいいとパス。
 その間、アンドレイの妻のヴェーラはサラダを作り、男性たちはバーベキュー用の肉を長い金属性くしに刺し、私は部屋に入って一休みしていた。
 やがて、できあがったバーベキューとサラダを屋内のテーブルに並べ、蒸しあがったばかりで頭にタオルを巻いたヴァーリャさんも一緒に7人でテーブルを囲んだ。
 ダーチャの家は平均的(古典的)ダーチャでは外見はあまりよくない。粗末ともいえる。内部の造作も間に合わせ的で、家具は本宅で不要になったものを運んでくる。不要になったものがあるとは限らないので、2軒の家を維持するのは大変だっただろう。アンドレイのダーチャの室内はまずまずだった。ちょっと古めの常住の家に比べて遜色はない。

 2003年、まだクラスノヤルスクに住んでいた頃、ニーナさんと一緒にこのダーチャを訪れたことがある。その時は家の前にライラックの花が咲いていた。だから初夏の頃だったか。

 ニーナさんのサローキナ村のダーチャ
  ニーナさんには自分だけのダーチャはない。1931年生まれ、モスクワ国際関係大学中国科卒業のニーナさんは、1960-70年代、当時慢性的に品不足だった食料品、せめて、ジャガイモや野菜を収穫するための土地として、『古典的』なダーチャが都市住民に分け与えられた頃、多忙な英語の通訳として働いていて、取得しなかった。ちなみにその当時は、中ソ関係が冷えていたから中国語の需要はなかったのだそうだ。
 ニーナさんによると、自分たちはダーチャを特に持とうとは思わなかったが、80年代、夫をなくして失意にあった妹のヴァーリャさんがサローキナ・ダーチャ地区の中古のダーチャを4000ルーブルで買ったそうだ。その頃はもう、かなりダーチャは普及して希望者は誰でもが持っていたし、1980-90年代は必需品(ジャガイモや野菜)の品不足も激しかった時代だ。
 サローキナ村は、クラスノヤルスクからシベリア幹線鉄道で70キロ東にある(上の地図)。各駅停車の近距離用電車が日に6,7本出ていて、1時間半ほどで小さなサローキノ駅に着く。村は駅の近くだが、ダーチャ地区は未開墾地を分譲してできたものだから、村を通り過ぎて山を登った斜面にある。赤松などが生えていたところだった。
 シベリア幹線鉄道で東方面は何度も往復しているが、サローキナ駅では、もちろん、降りたことはない。クラスノヤルスクの次に急行列車が止まるのは166キロ東のザジョールニィ駅だから(250キロ東のカンスクまで止まらない列車もある)。

 また、クラスノヤルスク市から線路沿いの道を車で行けるのは、43キロ離れたマガンスク駅までで、その先は道路がない。実はこのマガンスクのルートは私のクラスノヤルスク滞在中(1997から2004年)のお気に入りのドライブ・コースだった。低い山が連なり、鉄道が見え隠れする道を行くと、途中3つほど小さな村がある。『蜂蜜売ります』の紙の張ってある農家に入ると、おばあさんが壷から蜂蜜をひしゃくですくって瓶に入れてくれた。瓶は持参しないとだめなので、ジャムやマヨネーズの空き瓶とペットボトル(搾り立て牛乳用)はいつも車の中に入れておいたものだ。マガンスクからはユーターンし,クズネツォヴォ台地を通ってクラスノヤルスクに戻るのだ。
 当時、「本当にこの道を行けば、この村に出られるのだろうか」と、ほとんどのクラスノヤルスク市近郊の村々を中古ビッグ・ホーンで訪れて地図の記載を確かめていた私は、サローキノ村のニーナさんの妹のダーチャもぜひ車で訪れてみたかった。
 マガンスク駅からサローキノ駅までの約30キロは、どうしても道がないから車は無理だと言われていた。だが、北側の国道53号線から林道を通れば、ジープでなら行き着けるかもしれないとアンドレイが言ったのだ。一人では、決して地図にも載っていない林道を通ったりはしないが、アンドレイが一緒なら大丈夫かと、ニーナさんやヴァーリャさんも乗せて、ある夏の日、でかけたのだ。ここ数日は雨が降ってないから地面は硬くなって林道や草原も通行可のはずだ。確かに固まってはいたが、深いわだちや、窪地までもあって、車をこの先どう通すかと,アンドレイと降りて、窪地を回り、車を回って考え込んだものだ。その間二人のおばあさんは後部座席で神妙に座っていた。
 その頃アンドレイには車がなかったから、ニーナさんもヴァーリャさんも郊外電車でしか行ったことはなかった。普通は、荷物をたくさん持って、夏だからダーチャ人で満員の電車をサローキノ駅で降りて、村を通り抜けて20,30分も斜面を登らなければ行きつけない。だから、車で行けるのでとても喜んでいた。
 サローキノ・ダーチャ地区は赤松林の丘陵だったところをクラスノヤルスク機械組立工場が貰い受け、自分たちの労働者に安い使用料で分譲して、今もずっと『ラシンカ(露滴)』と言う名前をつけたダーチャ組合で運営されている。ヴァーリャさんはその1次取得者の同工場の運転手から、付加価値のついた中古ダーチャ(畑も建物も出来上がっていたから)を4000ルーブルと、当時ではかなりの価格で買ったそうだ。ちなみに、第一次取得者は運転手だったので、工場の車を拝借して自分のダーチャ建設資材を運ぶことができたそうだとか。(工場の車を運転手が私用に使うのは普通のことだった。だから運転手という職はおいしい職業だった)。
 
 今ではダーチャの持ち主は転売で2次3次所得者になっているところもある。しかし、同じダーチャ組合では、元々同じ企業に勤めていたか、その関係の持ち主が多い。サローキノのラシンカ・ダーチャ組合は機械組立工場だったから1次所有者はみんなその組合員のはずだが、中にはもちろんコネで手に入れた1次所有者もいる。ヴァーリャさんのダーチャの隣人のタマーラさんもその一人だそうだ。タマーラさんの働いていた企業は、その頃ダーチャを分譲していなかったのか、それともその企業のダーチャは不便なところにあったのだろう。
 ダーチャ地区では人間関係は都会とも農村とも違う。都会のアパート生活では閉鎖的で隣人と顔をあわせるのはたまにということも多いが、ダーチャではお互いの農作業が見渡せる。共通の問題解決がある。たとえば、一人では道路を直せないし、電気も引けない。肥料を共同で運ぶと言うこともある。しかし、ダーチャ人は『都会人であるから他人との距離を保つのになれている』のだそうだ。つまり、『ダーチャの隣人』という特別な人間関係がある。タマーラさんとニーナさんたちもこのような関係らしい。

 ちなみに、クラスノヤルスク近郊には、ダーチャ地区のように建物はなくて、ただジャガイモや野菜を植える畑としてだけ都会人が利用している地所がいくつもある。国有地を貸し出された企業が耕地として畝を何本も作り、自分の組合員にジャガイモ用として分譲した土地で、ただ長い長い畝があって、どの畝のどこからどこまでが自分が受け持っている耕地かがわかる程度の目印(リボンをつけた杭など)があるだけだ。ジャガイモ収穫の頃の休日には、鍬などを持った水着姿の男女でいっぱいになる。畝の近くにはジャガイモ袋を運ぶための乗用車(たいていは埃だらけで高年式)が止まっている。この光景を見るとロシアの季節感を感じるのだ。

 収穫物の保存
 
台所の床下にある農家の穴蔵
 
 穴倉には根菜類を埋めておく砂床もある
 
穴倉に 保存瓶詰めなどの一部
 
 穴倉の内側の壁はレンガなどで補強
この家はジャガイモのみ直接床に保存
 
 ダーチャの穴倉。ゼレノゴルスク市。1992年
 
 冬、上の写真の穴倉から
ひもで籠をつるし、貯蔵食糧を取り出す
 
 町のアパートの近く、
ニョキニョキと出ている穴倉の通気口
 
 穴倉への入り口とその横に出ている通気口
 ダーチャでできたジャガイモや野菜は冬中、または次の収穫まで家族で消費するのだが、栽培と同様に大切なのは保存だ。だから、農家や別荘には地下室がある。つまり年中チルドの温度の穴倉があって、ジャガイモや瓶詰めが保存できるのだ
 夏の間に取れた大量のきゅうりやトマト、ピーマンなどは瓶詰めのピクルスにして保存し、キャベツはサワーキャベツにし、ベリー類はジャムにする。別荘地近くの森で取れたキノコや野性のベリー類もピクルスやジャムにする。だから、近くに森があるとそのダーチャの価値が上がる。
 大量の瓶詰めを作るのはなまやさしい家族作業ではない。キャベツなどはトラック1台分を2家族で分けたと聞いたこともある。サワーキャベツは樽で保存する。
 ロシアの家庭では1リットルから5リットルの広口瓶は使用中か使用後かにかかわらず大量に保持されている。瓶は使うときには熱湯消毒する。秋の収穫物の瓶詰め作りのシーズンになると、市場では広口瓶を売る屋台も現れる。ダーチャ地区へ行く途中の道端でも売っているのを見かけると、これもロシアの季節感を感じる。
 さらに大切なのはふただ。タッパーウエアーのように何度も使えるポリエチレン製のふたも売っているが、本格的な密封瓶詰を作るにはそれなりのふたと、そのふたを閉める特別の器具も必要だ。これもシーズンになると売っている。
 台所は瓶詰め工場となり家族総出で働くのだ。普段は核家族でもこんなときは集まって大家族になったりもする。
 穴倉は、農家では普通玄関か台所の床下に掘ってある。入り口の板をどかすと3メートルほど下へ下りる階段があり、2、3メートル四方くらいの地下室には瓶詰めのぎっしり並んだ棚や、根菜類を埋めておく砂床などがある。ジャガイモは床一面においてあることが多く、穴倉に降りればジャガイモの海の上を歩くことになる(深い海も、だんだん減っていき次の収穫の前にはなくなる)。
 自分で建てるダーチャは、穴倉も自分で作る。普通のダーチャの穴倉は農家ほど本格的ではないが、入り口は頑丈な鉄製で、錠前も頼もしいものがついている。ダーチャには常住していないから盗まれる場合もあるのだ。二重のふた、二重の錠前がついている場合もある。鉄のふたを開け、狭いはしごを2,3メートル降りたところが、貯蔵穴倉で、夏場の労力の賜物が保管されている。秋に収穫物を家に持ち帰り瓶詰めにして、ダーチャへ持ってきて保存し、冬に必要になったときは、また雪のダーチャに取りに来なくてはならない。たいていは二人がかりで、一人が降りるともう一人が上からロープをつけたかごを下ろす(写真)。必要なジャガイモやキャベツや瓶詰めを持ち上げるまで、何度もかごを下ろしたりあげたりするのだ。作業が終わると、穴倉への入り口のふたはまた頼もしい錠前で閉められる。
 ちなみに、1990年代の混乱期には、特に別荘泥棒が横行した。市場に盗品の瓶詰めが売られていたそうだ。浮浪者が入り込んで寝泊りしているということもあった。入り口に鍵をかけても、窓を破って入ってくる。放火もあった。だから、ダーチャ組合で自警団を結成するか、ガードマンを雇ったそうだ。一番いい方法はまったく鍵をかけない、中に何も置かないことだと話してくれた知人もいる。しかし、穴倉の入り口だけは鉄板や鉄格子で二重三重に防御しなければならない。
 穴倉のないダーチャもある。そんな時、ダーチャでの収穫物はどうするか。町のアパートの横にも穴倉設備はあるのだ。アパート群の間の空き地にそうした穴倉群がある。アパートの住民はダーチャで作った野菜やアパートで作った瓶詰めを、住まいの近くの貯蔵穴倉に保存できる。野菜類は生きているので通気用穴が必要だ。だから地面からにょきにょきと煙突のようなものが出ている奇妙な光景がアパートの横にはある。穴倉への入り口の四角いマンホールのような丈夫な鉄製ふたが、各煙突の横についている。

 90年代半ば、ゼレノゴルスクで住んでいた頃、店にはジャガイモなど売っていなかった。ダーチャで取れるようなものは国営商店経由の流通には回らなかったらしい。その頃、なぜ集団農場でトマトやきゅうりを作らないのかと尋ねたものだ。トマトやきゅうりは丁寧に扱わないと傷むので集団農場では作れないと言う答えだった。当時、まだジャガイモも集団農場で作っていたらしいが、保存状態が悪くて半分以上だめになったという話も聞いたことがある。事実、たまたま店で売っていたにんじんを買ったが、萎びてカビが生えていた(それを、当時私は食べていた。だってそれしかなかったから)。
 知り合いが、時々ダーチャの産物を届けてくれたが、これは個人が自分の家族のためにきちんと保存したものなので、もちろん、痛んでいなかった。

 家族のための保存食作りはダーチャの収穫物や自分で集めた森の幸ばかりではない。夏の終わり北方に行くことがあれば、バケツ数杯のツルコケモモ(クランベリーклюква)を買ってくる。クラスノヤルスク地方北方の沼地や原野はベリー類の宝庫だ。また、クラスノヤルスク駅に中央アジアからの列車が到着するような時間に行けば、産地直送果物がプラットホームで買える。


 ダーチャ恩赦法
  2006年『不動産登録手続き簡易化に関する法』別名『ダーチャ恩赦法』が施行された。これは、30年とか40年前企業から分譲され、小屋を建て畑を作り自分のもののように使っていたダーチャ用の土地を、登録して私有化する手続きを簡素化するというものらしい。(ソ連時代土地は私有できなかったが、ソ連崩壊後、部分的に可能になった)。土地の使用者は一定の登録料で自分のものにでき、売買したり、抵当に入れたり、遺産として移譲したりできるようになった。しかし、固定資産税を払わなくてはならなくなったので、反対も多かったと言う。登録しなければ税金も払わなくていいわけだ。政府の目的とするところは、実は課税するということだから、登録しないでおこうと言う運動もあった。ネットで調べてみると、税は路線価格(不動産台帳)の0.3%だとか。しかし、通年住むことができる本格的建物がある(つまり、ここを自分の住所とする、住民登録をする)と、1.5%だとか(住民登録が無ければ、国内用パスポートも作れない。普通は町の集合住宅がその人の住所だ.下記)。
 今(2009年前半)、たとえば、サローキノのダーチャはいくらぐらいで売り出されているか、不動産ネットで調べてみると、『3年間放置で地所8アール、20平米の家が建ち、蒸し風呂小屋つき、電気は隣の家から50メートルほど引けばあり。水道は夏場だけタンク車で供給がある。眺め良。2000ドル』とあった。電話番号も書いてあったので、かけてみると、ちゃんと通じた。電話口の女性と話して、2000ドルと確認できた。(ロシアでは自分たちのルーブルではなくドルやユーロで値段がついていることもある。インフレが激しかったことの後遺症だ)。もちろん、自分が日本から掛けているとは言わなかった。

 また、もっと環境の良いプガチョーヴォ地区は、『地所5アールで40平米の2階建ての家(左の写真)が建ち、蒸し風呂小屋付き、電気あり、掘りぬき井戸付き、冬でも道あり、50万ルーブル』とある。
 同じく環境は悪くないエメリヤノヴォ地区には、『地所8.7アールで40平米の家、井戸あり、未完の蒸し風呂小屋、菜園にはザイフリボク(バラ科の果実)、プラム、シベリアりんご、蝦夷イチゴ、スグリ、グーズべりーなどあり。道よし。45万ルーブル』とある
 さらに、エニセイ右岸でバザイハの方面には『地所4アールで33平米の2階建て家、ロシア風ペチカあり、電気あり、夏場だけ水道あり、周りに森があって、冬でも道あり。6百万ルーブル』だそうだ。(2009年3月末、1ルーブル約3円)
  ちなみに、以前は、ダーチャ地区は都市でも農村でもなく、つまり居住地ではなかったので住民登録ができなかった。今では冬季厳寒に耐えられるような本格的建物(夏場用のみの小屋とは大違い)を建てれば通年住むことができるようになり、ダーチャ地区によっては、ここを住所として登録できるようになったのだ。だから、主に旧ソ連邦の中央アジアからの出稼ぎ外国人は、高価な街中のアパートを買わなくても、ダーチャ地区の通年住める建物を(グループで)購入すれば、ロシアの居住ビザを申請する条件が整う。それで、各地にそうした永住者が増えてきたとか。
 また、住宅難の都市のアパート(こちらは都市インフラが整っている)を子供たちに譲り、自分たちはダーチャ(インフラ不整備)に住んでいる年金生活者もかなりいるそうだ。この場合は必ずしもダーチャに住民登録をしなくてもいいのかも。

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