クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 2008年12月24日(2009年1月24日,12年4月24日)
クラスノヤルスクからトゥヴァ共和国へ(1)
           2008年8月7日から8月24日(のうちの15日まで)

Из Красноярска в Тыву- 1 (с 7 августа по 15 августа 2008 года)

(1)ラジオストック空港 (2) (3)
イルクーツク空港のお勧め度? 数百基のスキタイ古墳群 チャダンのホテルと駐車場
シベリア鉄道『わずか』18時間 黄金の『アルジャン2』古墳 トゥヴァらしい風景
1日目、滞在予定を決める 『赤い』首都クィジール 未調査古墳に出会う
アパート修理事情、ネットカフェ アジアの中心碑、ミュージシャンと仏教寺院 ミルクの湖スト・ホリ
動物園と街中散策 遺跡の宝庫トゥヴァ盆地縦断 アスベクトの町を通って
交通警察官、草原の中の高層建築群 トゥヴァ人の町チャダン 再び西サヤンを越えリングの輪を閉じる
私たちのハカシア基地、道の駅 上チャダン仏教寺院 ダーチャ(ロシア風別荘)訪問
ロシアからロシア領トゥヴァへの道
クラスノヤルスクからポドカーメンナヤ・トゥングースカ川へ

 ウラジオストック空港

 いつもは、夏至のころクラスノヤルスクの北の北極圏内で、寒さに震えながら深夜の日光を浴びて満足していたものだが、今回、6月末の予定が立てられず8月に訪れることになった。今まで6月中に日本出発していたのは、飛行機代に夏場のシーズン料金がかからないということもあるからだが。
 昔からクラスノヤルスクを往復するときは金曜日の新潟からハバロフスク経由が最も安く、その先の乗り継ぎもうまくいった。しかし、この数年はインターネットで時刻表を調べても、ハバロフスクから先のクラスノヤルスク乗り継ぎ便が当てにならないことが多いので、ウラジオストック経由を使ったりしている。
 ウラジオストックからクラスノヤルスク便は毎日飛んでいるが、これが、ロシア国内で買っても往復890ドルもするのだ(去年は815ドルだったのに)。ウラジオストック経由の場合は必ず1泊しなければならない(空港向かいのホテルで90ドル)。
 今回もウラジオストック経由を考えた。国際便は日本で買ったほうが安いのだが、7月、8月の夏場だとシーズン割り増し料金の上、2週間以上の往復はさらに高くなり9万円と料金表に載っている。そこで新潟・ウラジオストック・イルクーツクという、乗り換えはあっても同じウラジオストック航空だけを使うので格安のコースにしたのだ。これだとウラジオストックその日の乗換えでイルクーツクまで12万3千円で行ける(往復)。2年前もこのコースで行ったがその時は8万8千円だったのに、今は燃油サーチャージ140ユーロも入れて14万7千円と劇高。

北極圏は北緯66度33分より北から

  イルクーツクからクラスノヤルスクは列車で18時間かかるが、シベリア鉄道にしては短時間の乗車で、寝たり起きたりして、やや不透明な窓ガラス(不均一な質らしく光線が直進しない上、内や外に汚れがついている)越しにシベリアの草原を眺めているのもいいものだ。(2008年秋、ロシアには珍しくもない地方航空会社の大再編があり、料金や時刻表も改悪された)

 新潟からウラジオストック行きの国際便は15時50分発、19時30分着。
 ウラジオストック国際空港に到着したすぐ隣の国内便用空港からイルクーツクへの出発が21時30分で、2時間しか乗り換え時間はないが、これで入国手続きも次の便の搭乗手続きも入れてうまくいくのが、『ウラジオストックの奇跡』だと思っている。2年前は2時間半の乗り換え時間だったが余裕で間に合った。
 今回も、乗換えはうまくいくと思っていたが、新潟空港でウラジオストック行きの便が遅れると放送があって、少しあわてた。でも、同じ空港会社の便だし、このコースでイルクーツクまで行く乗客は何人もいるに違いないから、間にあうはずだ。実際、1時間も遅れて16時50分に離陸したが、私のように乗り継ぎ客は機内の出やすい席で、荷物も先に出してもらった。ちなみに、隣の席に座っていた母娘(ロシア女性とハーフの小学生)はハバロフスクへ行くと言っていた。新潟ハバロフスク便が早くに売り切れになってしまったので、やむなくウラジオストック経由にしたところ、延着がなければその日のうちに乗り換えできるはずだったそうだ。彼女も、新潟で搭乗手続きをする時、荷物を早く出してもらえるよう頼んでおけばよかったのに。

 ウラジオストック空港では、入国手続きを済ませ、荷物を受け取り、隣の国内線空港に走って、搭乗手続きをとって機内着席までがすべて、たった1時間でできた。ロシアにしては奇跡の空港だ。
「定刻(21時30分)出発できます。定刻到着の予定です」と、機内からイルクーツクの知り合いに電話したくらいだ(機内でスチュワーデスに携帯電話の電源を切ってください、とは言われない。飛行機が飛び上がったら勝手に切れる)。定刻の23時45分に到着すると、知り合い(オリホン島のニキータの知り合い)のセルゲイが、イルクーツクからクラスノヤルスクの列車のチケットを持って空港に迎えてくれ、駅に送ってくれることになっている。2年前もそうだった。飛行機到着2時間後の0時53分にイルクーツクから西へ向かう列車があり、延着がないようならこれにしようと、前もってメールのやり取りで決めてあったのだ。

イルクーツク空港のお勧め度?

 感じのいい機内とそうでないのとがあるものだ。前の座席の男性は座席を倒しっぱなしだった。離着陸と食事の時ぐらいは垂直にしてほしいものだ。いすの背が壊れている場合もあるが。
 さらに悪かったのは、イルクーツクに近づいて着陸姿勢をとったのに、空港は霧のため状態が悪くて着陸できないとアナウンスがあって、また飛び上がったことだ。ぼっとしていたのでその後のアナウンスを聞き逃してしまったが、斜め前の乗客が、ブラーツクのような近いところで待機すればいいのに、とつぶやいているのが聞こえた。
 しばらくして隣の二人ずれの女性に、
「この先どういう予定なの?」と聞くと、
「フン、知るもんですか」と言う答。地上からの連絡待ちでイルクーツクの周りを飛び回っているのか、どこか他の空港へ向かっているのか、やたら長い間飛び続けているので、
「この飛行機はどこへ向かっているの」と、少しは愛想のよさそうなスチュワーデスさんに聞いて、
「アナウンスを聞き逃したのですね。アバカン空港です」と教えてもらった。
 イルクーツクから2時間も離れたアバカンで天候回復を待つくらいなら、1時間半のクラスノヤルスクへ飛んできてくれたほうがよかったのに。そこで希望者を降ろしてくれたらもっとよかったのに。しかし、ウラジオストック航空がシベリア方面に飛ばしているのは、イルクーツク、アバカン、ケーメロヴォ、ノヴォシビルスクなどで、クラスノヤルスク空港とはたぶん、契約していないから、天候回復のため一時着陸なんていうのは縄張り上、余ほど緊急でない限り、難しいのかもしれない。だが、アバカンでもいいから、ここで降ろしてくれたら、目的地のクラスノヤルスクまで400キロしかなくて、イルクーツクからの1100キロよりずっと近いのだ。
 私をイルクーツク空港で迎えてくれる知り合いもそう思ったらしく、アバカン空港の機内で待っている私に携帯をかけてくれた。もっともだ。ここから、いつ出発かわからないのにまた2時間かけてイルクーツクまで戻り、そこで列車のチケットを買い換えて18時間かけてクラスノヤルスクに行くという、シベリアでないとできないようなジグザグ行路も悪くはないが、出迎えを頼まれた人には気の毒だ。だから、一応スチュワーデスさんにアバカンで下りれるかどうか聞いてみた。しかし、
「この飛行機はウラジオストックからイルクーツク行きだから、どんな遠回りをしようとイルクーツクに乗客全員を運ばなくてはならない」という航空関係者のもっともな答えだった。
 アバカン空港で飛行機に缶詰にされていたのは以外に短く、1時間程度で再出発をしてくれたので、機内はほっとした雰囲気だった。アバカンからイルクーツクへは何だか超スピードで飛んで(東回りだから早かったのかも)1時間20分位でイルクーツクに着いた。こんなに早く戻ってくるとは思わなかった出迎えのセルゲイは、家に帰って一休みしていたらしい。
 だから、イルクーツク空港で1時間も待っていると、朝の5時過ぎになって彼が現れた。まずは駅に行き、チケットを買い換える。今から一番早くて空席があるのは、4時間後の9時35分に出る黒海沿岸のアナパ行き列車でイルクーツク始発だそうだ。セルゲイは、私のウラジオストックからの電話通りに買っておいたチケットを払い戻して(未使用なので半額戻ってくる)新しく2404ルーブルで買いなおしてくれた。実は出発前に調べておいたネットでの情報ではウラジオストックからモスクワへ行く列車がイルクーツクを6時32分に発車するはずなのだが、これは空席がもうなかったのだろうか。
 イルクーツク空港は本当に当てにならない空港だ。この空港を通る飛行機を利用するロシア人たちを新潟で見送ったり出迎えたりしたが、4時間以上遅れることもよくあった。イルクーツク・新潟便が飛んでいた頃、私自身も利用したが延着もたびたびで、丸1日待ったこともあった。私を迎えるためオリホン島からイルクーツクに来て、空港へ行ったり来たりしなければならなくなったセルゲイによると、例年秋は雨が多く霧がかかりやすいとのこと、しかし今年は夏の終わりからもう雨模様だったそうだ。(おかげで、この時期、枯れ野原になるオリホン島も緑になっているそうだ)

シベリア鉄道『わずか』18時間
ニージェネ・ウーディンスク駅
駅の2階『母と子と休憩室』の窓から
シベリア鉄道沿線の村、列車の窓から

 イルクーツク出発の9時35分まで、駅の有料『母と子の休憩室』で休ませてもらった。本当に母と子でないと入れてくれない駅や空港もあるが、誰でも150ルーブル(700円)で清潔なシーツ付で休ませてくれるところもある。トイレは無料だがシャワーは有料だ。どちらも長い順番だった。前の人に頼んで列を離れてシーツをセットしてからまた戻ってくると、ちょうど私の番だった。
 ここのベビー・ベッドつき2人用の部屋(だからベッドは大小4台)で、3時間ほどもぐっすり寝た。もうひとつのベッドでは誰が寝ていたのか知らない。起きてみると、もういなかったから。
 8日の朝9時35分にイルクーツクを出発すると、すぐ車掌さんが検札に来てくれ、同時にシーツのセットを置いていってくれた。数年前まではこれが17ルーブル(2001年ごろ)とか45ルーブルとかだったが、最近チケットが高くなっただけシーツ代はチケット料金に含まれるようになった。昔は車掌さんの勝手で(?)なかなかシーツを売りに来てもらえず、だから横にもなれなかったものだ。
 早くに落ち着けたので、クラスノヤルスクに私の到着時間を電話で知らせておいた。
 何時ものように、取ってつき柄に入れ込むガラスコップを借りるため、お茶を6ルーブルでもらう。50ルーブルで払おうとしたらお釣りがないと言われた。しばらくして23ルーブルのロシア製カップラーメンを買うと、まとめておつりがもらえた。その後、4人用コンパートメントで長い間一人ぼっちで、寝たり起きたり、やや不透明なガラス過ごしに、残念ながらもうあまり花の咲いていないシベリアの草原や白樺林、沿線の(本当に)ごみだらけの村々を眺めていた。そのうち、タイシェット駅で親子が乗ってきたのでおしゃべりして暇つぶしができた。最近、ロシア人は私に「どこから来たの」とは聞かない、と言うより、きっと貧しい身なりで一人旅の私が外国人には見えず、アジア系ロシア人に見えるからなのだ。
 乗車18時間ぐらいは平気と言ってもかなり飽きた頃、夜中の2時50分、クラスノヤルスク駅に到着した。
 8月9日、夜中なのにディーマが迎えてくれて、夜中なのに一応寝ないで待っていてくれたニーナさん宅へ送ってくれた。
「列車の中でたっぷり寝溜めしてあるから、明日(本当はもう今日だが)は朝から普通の時間に行動が開始できる」と受け入れ側のディーマに、これからのひとまずの予定を確認した。彼は「それなら10時に」私を迎えに来ると言って別れた。

1日目。滞在予定を決める

 しかし、翌朝(つまり到着したその日)、電話がかかってきたのは11時で、現れたのは11時半だった。まあ、いつものことだが。
 それで、お昼ごろディーマの会社に行った。インターネットも故障でつながらない(いまだに度々あることらしい)ので、ぶらぶらしてお昼を食べて、トゥングースカ行きの予定を立てただけだった。トゥングースカへは去年のようにアリョーシャが案内してくれるそうだ。だから、一足先に現地へ行くアリョーシャが、打ち合わせに(資金も受け取りに)来てくれるのを事務所で待っていた。
 8月18日クラスノヤルスクからエニセイ川を水中翼船でボル町まで下り、そこでアリョーシャと落ち合い、モーターボート2台でポドカーメンナヤ・トゥングースカ川を下るそうだ。モーターボートはガソリンが大量に必要だし、人口超希薄地帯を行くので、2台のほうが安全だろうとのこと。2台目はガソリンを運ぶのだそうだ。だからアリョーシャはディーマからあらかじめガソリン代15,000ルーブル(約7万円)を受け取った。ボル町からの帰りは、丸1日かかる水中翼船では22日イルクーツク発の帰りの便に間に合わないので、飛行機にしなければならない。その場でディーマが空港のチケット売り場に電話すると売り切れと言われたが、ちっともあわてない。すぐ、アリョーシャがボルの飛行場の『知り合い』に電話して
「実は、日本からの客が来ているんだ、チケット都合してくれないかな」と言うと、これは簡単に取れた。これで8月18日から22日の滞在後半の予定が決まった。22日の夜はクラスノヤルスクからイルクーツクへ向かわないと24日に日本へ帰れない。

 8月11日からの滞在前半はトゥヴァへ行く計画だ。そこへは前年に行く予定だったが、ガイドを見つけられないということで、次回になった、今年の春になってもガイドが探せないと言うことだった。それなら旅行会社のパックツアーで行けばいいではないかとディーマにクラスノヤルスク市内の旅行社を当たってもらったが、どのパックもトゥヴァ旅行は期間が10日以上で値段も高いと言うことだった。旅行会社に個人旅行でこちらの都合のいい日程でコースを組んでもらえばいいのにと思っていたが、そのうち、ガイドが見つかりそうだとディーマが言ってきた。前年ハカシアの古墳探検をしたときのガイドのスラーヴァだった。考古学出身でアバカンの学校でハカシア歴史の教師をしているスラーヴァだ。彼はハカシアのことならよく知っていてもトゥヴァは全く知らないが、トゥヴァを知っている知人がいるそうだ。

 さらに、ディーマにアンガラ川森林伐採工場に知り合いがいて、招待してくれているそうだ。この奥地作業場見物も魅力的なコースだ。トゥヴァとトゥングースカ旅行の間に行けるかもしれない。
 

アパート修理事情、ネットカフェ
大通りの裏、週日の昼間なのに
材料の散らかっている玄関と『専門家』
台所で出番を待つバスタブ
大通りの裏

 だが、社員約20人の有限会社を経営しているディーマは忙しいらしい。すこし前に引っ越したアパートも修理しなければならない。ロシアのアパートは毎年どこか修理しなければならないが、水廻りなどの大修理もロシア人は自分でやる。私がロシア生活をしていた頃(1996-2004)、その修理がとても自分ではやれないので『専門家』に来てもらった。その場合でも材料は自分で調達しなければならない。しかし、知り合いの男性に頼んでやり直してもらわなければならないような『専門家』だった。
 ディーマは、少しはましな『専門家』を雇ったようだが、洗面台、バスタブ、タイル、パイプ、栓などは店で買って家まで運ばなければならない。私もくっついて行くことにした。そういった現物を展示して売っている店がクラスノヤルスクには何軒もある。輸入品らしく安くはない。ディーマの家で修理中の『専門家』が「これが足りない」と言う水道の栓やパイプ類などを買ったらしく、私も一緒にディーマのアパートへ行ってみた。アパートはセメント袋などの転がっている玄関、半分タイルを張ったバスルーム、台所に横付けしてあるバスタブ、一時使用不能なトイレという状態だった。この取り込み中にもめげず、私たちはお茶を飲み、フルーツを食べ、しばらくして、ディーマの奥さんと9歳のアリーナと0歳のブラジックを残して引き上げた。
 というのも、18日のクラスノヤルスクからボル町への水中翼船のチケットを、売り切れになる前にアリーナの分も入れて3枚買わなくてはならないからだ。河川駅で大人2684ルーブルで買った。残り空席少ないといわれた8月18日便はこれが最終便で、この後は来年の夏まで運休だ。

 それから、ディーマの会社のインターネット回線がプロバイダーの不調でつながらなく、ディーマの家のパソコンも故障中、知り合いには使えるパソコンを持っている人が今いないと言うので、インターネット・カフェを探した。大通りの横丁にあるらしい。ロシアの大都市はきれいになったというのも都心の表通りだけのこと。一歩横道に入ると、表通りに面している美しい建物の裏側がどうなっているかわかる。中心街では美しく修復された革命前の重厚な建物の1階は商店で入り口は表通りだが、上の階の住民の入り口は裏側にあるのだ。その裏側には、通りに面していない建物もある。そこは、水溜りとごみと落書きの古い世界で、職のない若者たちがたむろしているところだ(と、たまには言い切ってもいい)。実はこれはクラスノヤルスク市(だけではないだろう)のおなじみの風景なのだ。
 そうした裏側にも店があり、私たちがやっと探し当てたインターネット・カフェもそのひとつだ。15台ほどのパソコンが並んでいて、数人の客が向かっている。私たちは9番と言われたが、そのパソコンが動かなかったので5番にまわされた。日本語サイトを読めるようにするにも、何だかインストールしなければならない。返事を日本語で書くのはロシア版普通のウインドウではできないと知っているので足掻(あが)かなかった。ローマ字で書けばいい。プリントしておこうと、数ページ頼んだがそれはもちろん別料金だった。出来上がったプリントには日本語の部分は出てこなかった。

動物園と街中散策
辻公園のベンチで。ベンチの周りは
動物園内の日本庭園の前のマリーナ
クラスノ地方知事フロポーニンからの贈り物
観覧車はエニセイ右岸にある。左岸には中心街
動物園の入園者たちの中には
革命前の建物が残るレーニン通り

 10日(日)、この日はマリーナさんと会うことにした。彼女とは、サハ共和国ミールニィ市のアンナさん同様ロシア語版出会い系サイトで知り合い、長く文通が続いている2人のうちの一人だ。彼女の文は軽快で、機知に富んでいたので、200通以上もやり取りした。クラスノヤルスクの広告用新聞社の校正係で、出身はアンガラ川中流の超僻地、ケジマ村だそうだ。バクチャンスカヤ水力発電所のため水没した旧ケジマ村の近くだ。やがて廃村となるだろうから、その前にもう一度故郷を見たいと書いてあった。その時は私も一緒に行きたいと、(本気で)返事をしたものだ。
 マリーナさんとは、この機会に会うことにしたのだ。電話をかけて、
「今日会えます」とこちらの住所を言うと、すぐに待ち合わせ場所と時間を指定してくれた。何時もクラスノヤルスクに来るのにクラスノヤルスクの町を見る暇がない。今回、彼女と動物園『ローエフ・ルチェイ』や中心街など、久しぶりのクラスノヤルスク見物ができた。と言っても、2004年まで暮らしていたクラスノヤルスクと、値段がやたら高くなった以外は変わったところはあまりないのだが。
 郊外の動物園も動物の数が増えて、より充実したかもしれない。しかし、以前と同様、特にサルなどの屋内小屋は耐えられない臭気だった。鳥居に似たものがあって、日本庭園と書いてあった。最近できたらしい。また新しいものには、シロクマが立派な新築の檻に住んでいて、『クラスノヤルスク地方知事フロポーニンからの贈り物』と大きく書いてあった。
 この日は日曜日だったので入園者も多く、80ルーブル(350円)で乗った観覧車から眺めると下の駐車場の順番を待つ長い車の列が見えた。子供づれの入園者も多かったが兵士の一団も来ていた。こんなところなのに、ほぼ隊列を作って檻の中を覗き込んでいる。
 ちなみに帰りのバスの中でこの一団の中の一部と一緒だったので、そのうちの気のよさそうな一人に話しかけてみた。彼はオムスク市から来て、兵役についてまだ数ヶ月しか経っていないそうだ。兵役って給料が出るのだろうか。まあ、小遣い程度、つまり400ルーブル(2000円)ほどもらえるそうだ。
 マリーナさんと中心街に戻り、クワス(穀物から作る甘酸っぱい発酵性飲料)なんかを飲みながらぶらぶら歩いて、懐かしいナナカマドの赤くなった実や、19世紀末や,20世紀はじめに建てられたシベリア商人の大きな2階建ての木造家や、重厚なレンガ建てが並ぶレーニン通りに出て、噴水もある小公園『ピョートルの橋』で一休みした。ちなみにクラスノヤルスク市長は噴水市長と呼ばれているほど噴水が好きだそうで、ここ数年になって新たに出来たり化粧直しされたりした噴水は、10個以上はある。もちろんみんな目抜き通りにあるが、だからと言ってごみがないわけではない。ロシア人はよく歩きながら缶ビールや小瓶ビールを飲むが、空になった容器を(家で捨てるために)持ち歩くと言うことはしないのだ。(「ごみは家にもって帰ろう」とロシア人に言ったことがあるが笑われた。その標語は家にごみを溜めておこうと言う意味にとられたのかもしれない。)
 公園は、観光客が集まる目抜き通りでなくとも、市民のための小さな辻公園ならいくつもある。噴水はないがベンチがあって、年金生活者や恋人たちが休んでいる。その周りには空き瓶やペットボトル、プラスチックごみなどが散乱していてもロマンチックな雰囲気を壊さないらしいのだ。通り過ぎる私たちも、ごみより女性の身体を大胆に(と思うのは慣れてない人だけ)見せる夏のファッションのほうに目が行く。

交通警察官、草原の中の高層建築群

 8月11日(月)、この日トゥヴァ出発前に、招待者側が前日と前々日(土日だった)にできなかった外国人到着登録をしておかなくてはならない。何度もやっているからどんな書類が必要かよくわかっているはずだし、毎回違う書類が要求されたとしてもすぐ対処できるはずで、パスポートさえあれば私が出向しなくてもできる。これは入国3日以内に、つまりトゥヴァ出発前に済まさなくてはならない。
 この程度の手続きは、いくらロシアでも30分でできると思ったが、2時間近くかかった。出発したのはもう10時だった。いつもの国道54号線を約400キロ南下してハカシア共和国(というロシア連邦の一自治体)の首都のアバカン市へ向かったが、途中どこへも寄らなかった。

草原の中、突然現れるプリゴルスク町
クラスノヤルスク地方とハカシア共和国の国境
交通警察官と交渉するディーマ

 ただ、250キロ行ったところのクラスノヤルスク地方とハカシアの『国境』でだけは、いつものように車を降りて、おなじみの道標の写真を撮った。反対側から通った回数も合わせて通算13回目くらいということになる。
 次に車を止めたのは、草原の中、パトカーで待ち伏せしていた交通警察官(ロシアの有名な『ガイー』)にストップマークを示されたときだ。街中ではうじゃうじゃ見かけるガイーを、時々はこんな人里はなれたところでも見かけるのだ。大きめの町では入り口(クラスノヤルスクくらい大きな町では4,5ヶ所)に駐在所を設けて、時には機関銃を手に出入りの車を見張っている。町と町を結ぶ国道でも分岐点のようなところに駐在所がある。その他、こんな原野の一本道でも、たまに常駐でないパトカーが隠れているのだ。交通違反を見張るだけでなく、車を止めて武器や禁制品(麻薬など)を調べるためだ。所々に立っている道路標識を守らない車を捕まえるために隠れていることもあるのは、わからないこともないが、市内のガイーにしろ、この原野の一本道のガイーにしろ、交通安全を守るというより罰金を取るため(それも国庫にだけではなく、自分用にも)立っているとみんなは思っている。だから、ガイーとはよくその都度『話し合って』お金の行き先と額を決めなくてはならない。もちろんディーマもそうした。

 ガソリン・スタンドでも止まった。ディーマといつもクラスノヤルスクからアバカンに往復するときに入れるプリゴルスクの近くのスタンドだ。
 草原の中、ところどころに古代の塚(土盛りはもうないのが多いが墳丘)や石柱の見えるハカシア草原の中を通っている国道54号線をひたすら走ると、まだアバカン市まで30キロだというところに、ぽつんと幾棟かの集合住宅が見え、それがプリゴルスクだ。人口3千人余とある。草原の中、突然現れるプリゴルスクがいつも私には謎だった。コロニアだといつも同行のロシア人が教えてくれる。コロニアの意味の一つが矯正(労働)施設、つまり監獄ではないか、と言うと、この辺は石炭も多く、比較的自由な矯正施設なのだと言う、よくわからない説明がされる。地元のロシア人だってよく知らないこともある。
 しかし、ウェブサイトで詳細に調べてみると、プリゴルスクから160メートル南に『ゾーン(地帯と訳せるが、口語では収容所)』がある。さらに、3.9キロ東の、国道にも面していないところにはウラン関係の工場がある(稼動しているかどうかは不明。しかし、グーグル・マップにはそれらしい建築群が見える)。つまり、このわざとらしいアパート群はこの工場で働く人のためにできたものなのか。
 クラスノヤルスクからアバカンへ出入りする時はいつもこのプリゴルスクのそばを通りぬける。

私たちのハカシア基地、道の駅
国道54号線は、クラスノヤルスクからモンゴルとの国境ツィガン・トゥゴイまで1053キロ
私たちのハカシア基地、ディーマの会社の支店
ディーマの兄宅の菜園、
向こうにあるのがトイレ小屋。手前には手洗い設備
『道の駅』の食堂、注文した料理を受け取る窓口。
並べてあるのは一応ソフトドリンク
地元の産物を売る

 3時過ぎ、アバカンへ着き、ディーマの会社の支店に寄った。ここはディーマの親類がやっている。この支店と親類宅がいつも私たちのハカシア基点だ。
 やがてこの支店に、前年ハカシアの古墳見物のガイドをして今回のトゥヴァ旅行でも案内してくれるスラーヴァが知人のアルカージーを連れて挨拶に来た。アルカージーは私が外国人だというので、無理をして英語を話そうとしていたので、そんな無理をしなくていいと言ってあげた。アルカージーはトゥヴァを知っているわけではない。首都のクィジールにトゥヴァ人の知り合いが何人かいて、その知り合いの音楽家が、トゥヴァの見所を教えてくれるそうだ。スラーヴァは考古学出身で、学校でハカシア史を教えているが、アルカージーは音楽関係でコンサートなどのプロモーターだと言う。しかし、アルカージーの仕事についてはよくわからない。つまり定職がないのだろう。3日間の同行で少しわかったことは、アルカージーはスラーヴァが毎夏古墳発掘調査隊で働くとき一緒に発掘すること、彼らの離婚した妻たちが知り合いだと言うことだ。(後記・ 翌年、そのスラーヴァに16日間ガイドしてもらったときに、特に彼らの妻同士の親交はないとわかったのだが)。
 この日、ディーマの兄宅に泊まった。屋外トイレ小屋のある家だ。ディーマが姪たちのために日本で買ったナノ・ポッド・シャッフルが使えないから見てほしいと言われた。パソコンから音楽をコピペしただけではだめで、インターネットに繋いで何かインストールしなければならないようだったので、一度日本に持って帰って調べてみると預かった。
 次の日、9時に出発した。よく整備されているが古いランクルで、予備タイヤを3本も積んで出かける。少し走ったところで、アルカージーが飲みのもがほしいといった。ミネラル・ウォーターとかレモネードなら、ほらここにあるよ、とランクルのクール・ボックスを開けたが、そんなものではないと言う。道端の店に入って買ってきたのは1.5リットルのペットボトルに入ったビールだった。ラッパのみにしているアルカージーを見て、朝からビールとは、と思ったが、ロシアのことなので黙っていた。
 東サヤン山脈と、クズネック・アラタウの一部アバカン山脈に囲まれたミヌシンスク盆地を南下して西サヤン山脈に向かう。1時間も走ると草原は姿を消し、いくつも峠を越え山中に入っていく。最後の集落タンジベイ村を過ぎると、険しく危険なことで有名な1,400メートルのブイビ峠にさしかかる。その前のタンジベイ村で食事休憩を取った。
 2004年にアバカンからクィジールへ乗り合いタクシーで行った時も、ここで止まった。日本風に言えば高速道路のサービス・エリアと言ったところでガソリンも補給できる。食堂があり、周りには露天商が地元の産物(このときはゼンマイやきのこのジャム、ハーブ、ムミヨーといって鳥の糞が岩石のように黒く硬くなった軟膏など)を売っていて、離れたところにトイレ小屋がある。休憩施設と地域振興施設が一体となった道路施設『道の駅』ともいえる。シベリアは幹線道路といってもずいぶんと辺鄙なところを走るが、たとえばクラスノヤルスクからアバカンまでの408キロならこんな『サービス・エリア』『道の駅』が3、4箇所ある。アバカンからクィジールの436キロは、より辺鄙なところを通り、大部分は西サヤン山脈の山越えなので、集落も少なく、『サービス・エリア』も2、3箇所しかない。

ロシアから、ロシア領トゥヴァへの道
シビリク村の検問所
ウス街道の常連客は燃料運搬車
ブイバ川の橋
ウス川沿いを通るウス街道
山火事の跡、先客が残したボトル
トゥヴァとアバカンの国境
ノレフカ峠から見下ろしたトゥラン・ウユーク盆地

 さてクラスノヤルスクからアバカンとクィジールを経由してモンゴルとの国境へと通じる国道54号線、通称『エニセイ』街道の全長1,053キロが開通したのは1960年代以降らしい。最後の地点でモンゴルへ抜ける税関ツァガン・トルゴイができたのは2002年だと、サイトにはある。
 その90年以前の20世紀はじめまで、トゥヴァは清国の領土で、その頃、険しい西サヤン山脈を抜けてロシアとトゥヴァを結ぶ街道はなかった。つまり、道なき道しかなかったのだ。
 辛亥革命後の1914年トゥヴァはロシアの保護領となり、後にベロツァールスカ(現クィジール市)というロシア帝国のトゥヴァ経営拠点ができ、1917年ごろにはロシアのアバカンとベロツァールスカを結ぶ(荷馬車が通れるくらいの)ウス街道が開通した。全長236キロのウス川はエニセイの右岸支流で、西サヤン山脈の中に狭い盆地を作って流れ、アバカンからクィジールの道も85キロほどはこの川に沿って南下しているので、通称『ウス街道』となったのだ。
 ロシア革命後の1921年から1944年ロシア併合までトゥヴァは、モンゴル人民共和国のような社会主義の独立国だったが、実際はモスクワの支配を受けていたし、独立国と認めたのはソ連とモンゴルだけだった。
 1932年にはウス街道も季節によっては車が通れる程度の状態にはなったが、アスファルトで舗装されたのは1990年代後半だった。それでも、危険箇所はいくつもある。今でもトゥヴァへ出入りできるのは、このウス街道とずっと後にできた北西のサヤン峠を越える自動車道だけ(1969年開通)で、鉄道はない。(計画ならある)
 ウス街道をはじめて通ったのは1998年だったが、ところどころアスファルトがなかったり、あっても割れていたりしていた。今では不備があまり目立たない。しかし、西サヤン山脈越えのこの辺りはよく事故のおきたところらしい。たとえば、2002年、霧のため当時の知事レーベジがヘリコプター事故で死んだところには十字架と記念碑が建っている。また、過去何度も雪崩事故のおきたブイビ峠の手前にはスノーシェッド(トンネル状防護施設、洞門工)が数メートルつくられている(シベリアでは珍しい)。ウス川の右岸支流ブイバ川にかかる橋は、事故死した運転手の名前がついている。この危険なブイビ峠で、アバカンからクィジールまで半分の道のりを来た事になる。
 ここはまた国道の右側にオヤ湖があり、左にはアルピニストには有名なエルガキ山脈(西サヤン山脈の一部)がみえる。この辺に近道の舗装新道ができたおかげで、道路からエルガキ山脈が別の角度から眺められるようになった。すると山の形が仰向けに横たわる巨人のシルエットに見えるようになったので『眠れるサヤン』と名づけられ、伝説の山の神となった。道路から見えると言っても、良く晴れてないと見えない。私は1回しか見たことがない。この時、ディーマもスラーヴァも、ましてやアルカージーもどの地点から『眠れるサヤン』が見えるか知らなかった。それどころか私以外はそんなシルエットがあることすらも知らなかった。さらに、私以外はオヤ湖という美しく冷たい湖のことも知らず、運転していたディーマといえばただひたすらに険しい峠を登ったり降りたり、ヘアピン・カーブを曲がったりしていた。もちろん、それだけでもサヤン山脈越え景色は十分満喫できるのだが。
 やっと、ディーマが車を止めたのは、何だか見晴らしのよい峠で、広い谷のはるか向こうには青色の高い山々が見えた。広い谷間に生えていた木々はすべて黒焦げになったまま立っている。シベリアでよくある山火事の後で、何年か前に燃えたらしい。だから、新しく生えてきている若木も見えた。山火事跡は珍しくない。
 私たちはランクルから這い出して、原野を眺めながら手足を伸ばした。後部座席のアルカージーは空になったビールのペットボトルを足で車外に蹴飛ばしている。私が、
「あっ、ボトルが」と言うと、
「いや、いや、もう空っぽさ」と言う答え。
「ごみは持ち帰らなくてはだめですよ」と言うとちょっと恐れ入った様子で、また車の中に戻している。ごみを車内に持ち込めとは、変なことを言う外国人だと思ったかもしれない。
 この見晴らしのよい場所で一休みするのは私たちだけでなかったらしく、先客が残していった空瓶も落ちていた。ここはトゥヴァとの国境のあるノレフカ峠まで後7分のところだった。
 国境ではトゥヴァ的な記念碑が立ち、きのこをバケツに入れて売っているトゥヴァ人が近くに座っていた。交通量のこんな少ないところでは売り上げも多くないだろう。ガソリン・スタンドも食堂もない自然発生『道の駅』だ。
 この峠からトゥラン盆地が見渡せる。西サヤン山脈から出たばかりのところに、思いがけず広がる乾いたトゥラン・ウユーク盆地は印象的だ。わずかな草木が苦しそうに生えているため、よりいっそう荒涼と感じられる山々に囲まれて、草原のほかは何もない広々とした空間と言うのは私には異国的だ。草原の中をウス街道が一本、山向こうにあるトゥヴァの首都クィジールに向かって走っているのが見える。
 国境になっているレフノカ峠を越えると道路は急激に降りる一方で、ほぼ降り切ったところに小さなシビリク村があって、そこに例の検問所がある。1944年トゥヴァのソ連への合併までは、あるいはその後も長い間国境警備隊が詰めていた所だろう。今でも、交通警察と言うより『関所』のような感じだ。ここではいつもパスポートを調べられる。1998年はじめて通った時は、ビザにトゥヴァと記載されていないからだめだと言われた。(言われただけで影響はない)。2度目の2004年は滞在期間とか目的をしつこく聞かれた。だからあまりかかわりたくなく、できたら、もうひとつの北西のサヤン峠のほうから入り(トゥヴァへの出入りの道はこの2本だけ、北西サヤン山脈越え街道のほうは1969年にやっとできた)、ここは出口にしたかったくらいだ。だが、今回その『関所』は通行人を調べることもなく、昼休み中だった。

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