クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
              Welcome to my homepage

home up date 05 September, 2010 (校正11年1月2日)
『冬道』のクラスノヤルスク地方、氷のエニセイ川とアンガラ川
(1)アンガラ川下流域へ
           2010年2月15日から3月5日(のうちの2月15日から17日

На зимнике в глушь Ангары и Енисея( 15.02.2010-05.03.2010 )

アンガラ川へ エニセイ川へ
(1) ハバロフスクからクラスノヤルスク (4) エニセイ街道を北上、レソシビリスク市
アンガラ川へ出発 新ナジーモヴォ村泊
アンガラ松のグレムーチィ村 悲劇のオビ・エニセイ運河
(2) アンガラ川中流、水没のケジマ区 運河跡のアレクサンドル・シュルーズ村
アンガラの支流チャドベツ川の密漁 運河跡の『名無し』村
アンガラ北岸の僻地、古い歴史のヤルキノ村 (5) 1605年からのヤールツェヴォ村
(3) アンガラ下流の先住民、バグチャニ区のバグチャニ村 スィム川の新しい村マイスコエ
アンガラ針葉樹林帯を下流へ リョーハの銃
『憂愁』村と呼ばれていたオルジョニキーゼ村 (6) この旅の目的地ヴォーログヴォ村
モティギノ町、郷土博物館その2 旧儀式・礼拝堂派の中心サンダクチェス村
エニセイを渡ってクラスノヤルスクへ (7) ヴォーログヴォ『多島海』の漁業基地
クラスノヤルスクで 帰りの冬道、オーロラは見えなかったが
地図 アンガラ川下流 ロシア帝国のシベリア『開拓』地図
ヴォーログヴォ『多島海』地図 エニセイ中流地図
シベリアの町々の父エニセイスク市
帰国


 「アンガラ川で木材伐採場をやっている友達が、一度遊びに来ないかと呼んでくれているのだが」とクラスノヤルスクのディーマさんが1年も前から言っていた。アンガラ川の左岸なのか右岸なのかディーマは知らない。
  凍りついた川と深く積もった雪、暗い針葉樹林のシベリアの自然をまた見たいものだ。
 冬のシベリアを空から眺めたことはあっても、地上を進んだことはあまりない。2006年12月の冬至の頃、太陽の出ない昼を見ようと北緯69度のイガルカ市に飛んだことはあるが、そのときはただ凍りついた川や雪のタイガ(針葉樹林)を上空から眺めただけだった。
エニセイ川全流域

  全長1779キロのアンガラ川はバイカル湖から流れ出ると、イルクーツク州内は北上し(だから、この北上中はアンガラ川の上流と言える)、イリム川の合流点(ウスチ・イリムスク発電所)を過ぎて西に曲がり、クラスノヤルスク地方に入ると北緯58度くらいを740キロほど流れてエニセイ川に注ぐ。だから、クラスノヤルスク地方を流れるアンガラ川は下流と言え、ロシア連邦内でも人口密度の少ないところのひとつだ。
 このアンガラ流域に、ボグチャンスカヤ水力発電所建設基地として1997年できたコーディンスク市は、アンガラ河口地点より445キロ上流にあり、発電所ダムの名前となったボグチャニ村より123キロも上流にある。クラスノヤルスクから航路で来ないとすると、国道53号線を東に147キロのカンスク市まで行き、そこから北上し、発電所建設のために作った新道(だから森林地帯を切り開いたばかりの荒い道)を進んで、コーディンスク市まで735キロを1日かかって行くこともできる。
 ボグチャニ村よりさらに下流で、河口まであと120キロ(だから全長1179キロのアンガラ川としては全くの下流)にクラスノヤルスク地方ではアンガラ流域第2の町、モティギノがある。アンガラ川下流域は、17、18世紀のシベリア『開拓時代』、東シベリアへの交通路だったが、陸路のシベリア街道ができてからは、特に下流域は、ロシア帝国やソ連の発展からも取り残された超過疎地だった。が、そのモティギノ町は19世紀前半、アンガラの右岸、つまり北側で金が取れた時期は、ゴールドラッシュでにぎわっていた。今でも、採掘している。
 シベリアには人の気配のない広い自然の中に、由来がさまざまな小さな集落がぽつんぽつんとあったりする。深く入って行くほど、自然は厳しく美しくなる。

 アンガラ川のモティギノ区やその上流のボグチャニ区、ケジマ区は上質な(と『アンガラ森林』社のホームページには載っている)カラマツや、アカマツ、ベニマツ(ケードルというのでシベリア松のことか)などの宝庫だ。その森の中を行くのはきっと素晴らしいに違いない。白一色の氷原になった冬のアンガラ川や、重く雪の積もった暗い針葉樹林に囲まれて数日過ごすのも悪くない。ディーマの友達の招待をお受けしよう。
 ディーマの友達のやっているアンガラの森林伐採場へはクラスノヤルスク市から4、5日で行って帰って来られるということだった。いつも旅行期間は2、3週間なので、アンガラ川のカラマツやベニマツだけでなく、エニセイ川の奥地へも行くことにした。そこへは夏なら通れる道どころか、冬道すらないので氷原や森の中をスノーモビールで行かなければならないそうだ。これも、冬の間シベリア中の沼や川が凍っているから通行できるのだ。クラスノヤルスク市のディーマたちは『簡単にはたどり着けないようなところに行きたい』という私の希望を実現してくれようというのだ。

 日本からロシアへの航空券も、割安な2月のシーズンオフに行くことにした。シベリアは冬に限る。

 ハバロフスクからクラスノヤルスク
 2月15日、20時50分、ハバロフスク着。いつものゲーナさんが空港まで迎えに来てくれて、いつものヴァストーク・ホテルへ向かう。満室なので、ツーリスト・ホテルへいくが、値段の高い部屋しか空いていないと言われる。予約しておけばよかったのにとゲーナさんに言われるが、ハバロフスクではどのホテルも予約料金が室料の20%上乗せされるのだ。もちろん一人で旅するなら予約しておくが、ゲーナさんという地元の人が迎えてくれるから、適当なホテルが見つかるまで回ればいい、などと思っている。
 3軒目は、また前回のようにザリャー・ホテルへ。シングル・ルームは空いていなくてツインルームで、しかも、次の日の出発が17時なのでチェックアウトが12時のこのホテルでは5時間の超過料金が必要だ。レセプションの女性が、細かく時間計算して1泊分2900ルーブルと5時間分の合計で3504ルーブル17カペイカ(1万円余)と出してくれた。ハバロフスクのような地方都市でも国際線が入ってくるからか、それほどではないホテルが意外に高いのだ。


 ハバロフスクからクラスノヤルスクまで翌日の2月16日は、16時45分発のウラジオストック航空の便はあるが、それはイルクーツク経由なので7時間もかかる。7時間で行けばまだいいが、イルクーツク空港は、私の経験では、時刻どおりに飛べば幸運だというような空港なのでその便は見送り、その日に直通便を飛ばしているロシア航空のチケットを予約した。新潟からハバロフスク経由クラスノヤルスクまでの往復チケット代が総額140,690円だった。
   ウラジオストック航空では…16時45分ハバロフスク発、イルクーツク経由、クラスノヤルスク20時35分着
   ロシア航空では…     19時50分ハバロフスク発、 21時15分クラスノヤルスク着(時差3時間)

 この日のウラジオストック便が定刻に運行したかどうかは知らないが、ロシア航空便を選んだ以上は、16日は夕方までハバロフスクで時間を過ごさなくてはならないことになる。
 それもいいかもしれないと、もう10回以上は訪れた郷土博物館に行く。ハバロフスクの観光施設は外国人だと入場料が400ルーブルと、ロシア人入場者の150ルーブル(450円)より2倍以上も高い(以前はもっと差があった)。アジア系ロシア人に街角ではみられる私も、ここだけはそう見えないらしく料金窓口で、
「どちらから?」とロシア語で聞かれる。外国人からは高い入場料を取るというソ連時代からの習慣はもう止めてほしいものだ。
「私はロシア居住許可証を持っているから、この場合ロシア国籍を持っているも同様なのですが」と窓口で小さな声でぼそぼそと言った。なぜなら、そのロシア居住許可証は4年も前に無効になっていたからだ。しかし、窓口の女性はそんな手帳とかかわり合いになりたくないらしく、私の差し出した手帳の表紙を意外そうに見て、ちらっと中を開けてすぐに返してくれた。出入国管理窓口のようにはしつこくないのだ。無効になって以来も、この手帳はこんなとき役に立ってくれる。もっとも、ロシア人でも大人450円とは安くはない。


郷土博物館の『大祖国戦争』大パノラマ図
考古学博物館前の1万年前の石画
 郷土博物館は数年前(5年以上前)新装してからは、大幅な展示物の入れ替えはないので同じものを何度も見ることにはなるが、一応ハバロフスク地方に棲む動物の剥製、民族衣装を着た少数民族の人形や彼らの道具類、大祖国戦争と彼らの言う第2次世界大戦の愛国的大パノラマ図などを、たっぷり時間もあったので丁寧に見て、丁寧に写真を撮っていった。ハバロフスク地方へ移ってきたロシア農民の衣装や道具類が展示してあった。シベリアのどの郷土博物館にもある『開拓者(先住民からすればそうではない)』コーナーだ。その衣装を試着できるというのが新しいサービスだった。料金は100ルーブル。ちなみに石川県立歴史博物館の入場料は250円(弥生時代などの衣装があって、無料で試着できた)。
 郷土博物館に2時間もいたが、それでも、まだ時間があまったので、近くの考古学博物館へ行く。入場料が70ルーブル、写真撮影料が100ルーブル。アムール流域の先史時代も興味深い。建物の前には1万年前という早期新石器時代の石画が刻まれた大きな石塊がいくつも置いてあった。考古学博物館から出てもままだ時間があったのでアムール川岸通りを歩いても良かったが、厳しい寒さなのであきらめてホテルに戻った。

 ハバロフスク空港へは、ゲーナさんが送ってくれて、出発の2時間前に着いた。ロシアでは国内便なのに、出発の40分も前に登場手続きが終わるらしい。いつも、一応は出発の1時間以上前には着いて、遅延がたびたびの出発まで、長々と待っている。だから、日本語の文庫本を用意しておいた。空港の売店でロシア語の本を買うこともあるが、この日の売店は本も雑誌も売っていなかったので用意しておいて正解だった。

 遅延はなく、時刻通り出発して時刻どおりクラスノヤルスクに着いた。ただ、着陸してから空港の到着ロビーに出るまでに時間がかかった。ウイングはなくて地上に降りるとバスで運ばれるのだが、クラスノヤルスク到着客と、トランジットでサンクト・ペテルブルクまで行く乗客に分かれてバスに乗るのはもう慣れている。だから、外国人に見えないのか
「このバスはクラスノヤルスク止まりの乗客用ですか、それともサンクト・ペテルブルク行きの乗客用ですか」と、他のロシア人に尋ねられるくらいだ。フロント・ガラスにちゃんと貼ってあるではないか。
 2年ほど前までの空港は、検査をするための出発ロビーはさすがあるが、到着ロビーなどなく、到着客は飛行機のタラップを降りてバスに乗せられると、鉄柵まで運ばれて、ぽいと場外に出されるだけだった。だから、出迎え人は場外で、雨に打たれ、寒さ暑さに耐えながら待たなくてはならなかった。手荷物受け取り用のターンテーブル小屋へは、荷物が運ばれてきたときだけ鍵が開けられるので場外から入って自分の荷物を受け取る。ロシアでは地方空港は一昔前までは、こんなあっさり型だったが、ノヴォシビリスクをはじめイルクーツクやハバロフス、クウラジオストックなど州庁のような地方の行政中心地は順番に建て替えられたり建て増しされて、到着ロビーもあるようになった。地方の中心空港でないようなところ、例えば、イガルカやハータンガ、ミールニィ、ボルなどは、私の知っている限りみんな超あっさり型だった。

 到着ロビーで待っていてくれた迎えのディーマさんと、30キロほど離れたクラスノヤルスク市内に向かう途中、今回の予定を話した。急に、19日から日本へ行かなくてはならなくなったディーマさんに代わって、数年前からパドカーメンナヤ・トゥングースカ川やエニセイ川下流を行くときに、私たちを案内してくれたアリョーシャが、今回は全面的に私だけを案内してくれることになったそうだ。自然の厳しいところばかりを行くので、アリョーシャは助手を連れてくるそうだ。旅行者一人に二人のガイドがつくなんてぜいたくだなあ。だが、私を二人がかりで案内するというばかりでなく、エニセイ流域自然保護監視員のアリョーシャは、同時に仕事ができるのだ。アリョーシャの仕事に、私が付いていくのか、私の案内に仕事を合わせるのか、そこはアリョーシャの裁量でできることらしい。

 アンガラへ出発
 次の日、2月17日、アリョーシャ運転のランクル(ディーマ所有)の助手席に私が座り、後部席にはアリョーシャの助手のリョーハが乗り、予備タイヤ、防寒具、燃料用タンク、食糧、銃などを積み込んで出発したのは、お昼もかなり過ぎたころだった。ちなみに、アリョーシャもリョーハもアレクセイという名前の愛称だ。
アリョーシャの助手リョーハ、26歳

 途中のスーパーでさらに食料や軍手、ビニール袋(後で、獲物を入れるとわかる)なども買い足したのは4時過ぎ、クラスノヤルスクのエニセイ川貨物船停泊所で車の燃料をさらに補給し、2008年開通のクラスノヤルスク・バイパス用エニセイ川の『第4の』橋(名称は募集中。ナザロフ工場の資材を使ったと言うのでナザロフスキィ橋になると言う可能性大)を渡って、クラスノヤルスク市を出たのがすでに5時だった。だから、国道53号線を247キロ東のカンスク市まで来たのは8時も過ぎていて、もうとっくに暗くなっていた。夜道を進むのは全くおもしろくない。冬のシベリアの地上を進むことにしたのは、たとえ移動距離が長くなくても、自然を眺めるためだったからだ。夜は、道路を走っている車のライトと、道路標識と星空しか見えない。ただ、場所を移動するだけの飛行機と変わりない。

 カンスク市からアンガラ南岸のバグチャニ村までさらに400キロ以上あって、この道は途中までしか舗装されていない。目的地はアンガラ北岸、つまり川向うだからさらに遠い。今日中に行きつけるのだろうか、と思ってしまった。カンスクから石炭の露天掘りアバン町までの59キロは、夏でも通れる舗装道路だが、そこから、ドルギィ・モスト村やボズネセンカ村、ハンダリスク村、カラブラ村などを350キロも通り過ぎてたどり着くところがやっとボグチャニ村だ。
ロシア帝国のシベリア『開拓』(拡大図

 16世紀末からロシア帝国が毛皮(税)を求めて西から東へ、シベリアに進出してくる『開拓』時代、前哨隊のコサックたちは、川を伝って進んできた。だから、オビ川からエニセイ川アンガラ川レナ川などの畔にいくつもの開拓拠点(原住民からの税徴収拠点)の『柵』を作った。オビ川の右岸(西側)支流のイルティッシュ川トボリスクに柵を作ったのが1587年で、オビ川のスルグート柵は1594年、左岸支流のケッチ川河口にケットスク柵を作ったのが1602年、ケッチ川上流は、エニセイ右岸上流のケミ川上流と近く、オビとエニセイをつなぐ陸路(別の水域への川に渡るための陸路を『ヴォーロク』と言う)にマコーフスク柵ができたのが1617年、ついに、エニセイ川左岸のエニセイスクができたのが1619年、そこを拠点としたエニセイスク・コサックがエニセイ川の右岸支流アンガラ川下流に1628年作ったのがルィブノエ柵、そして、1630年代にはアンガラ川のさらに上流に到達しバグチャニ柵ができたのは1642年だった。
 その後も、18,19世紀に馬車の通れるシベリア街道ができるまでは、ロシア帝国の首都から清国や太平洋岸へ出るには、オビ川、エニセイ、アンガラ、セレンゲ川かレナ川と言うように川を伝っていった。シベリアの大河は南から北へ流れるので、東西へ行くには支流を伝っていったのだ。アンガラ川はエニセイ川からバイカル方面へ出るシベリア横断の主要道だった。
 シベリア横断の馬車道ができてからも、バグチャニ村(帝政時代、村の中でも教会のある村は『セロ』と言う、教会のない村『デレブニャ』と区別された、今でも伝統的に呼び方は残っている)はアンガラ川の河川運行の拠点だった。また、森林や鉱物資源の宝庫バグチャニ地区の行政中心地だ。しかし、ここからクラスノヤルスク市までは昔から河川運行に頼るほかなかった。1970年クラスノヤルスクからレシェトイ経由カラブラ駅(バグチャニから50キロ)までの鉄道支線ができても、まる1日以上かかった。ちなみに、その鉄道支線は電化されていない(カラブラ駅からバグチャニまでの鉄道敷設は2009年始まっている)。アンガラ下流域はソ連時代も開発の進まなかったところの一つだ。

アンガラ川下流域(赤太線は国道53号、黒は鉄道)
  国道53号線上のカンスクからボグチャニまでの道路建設は長い間、計画されてきたらしいが、1992年までは季節や天候によって通行不可になるという道路しかなかった。もっとも、シベリアの陸路の大部分は、一昔前まではそうだったが。
 もっとも、カンスクから、石炭露天掘りのアバン町までは季節と天候にかかわりなく年中通行の道は早くからできていた。しかし、アバンからバグチャニまでにはビリュサ川とチュナ川の間の森林地帯を通らなくてはならず、つい最近までは冬期間、川も沼も凍りついたときだけ通行できる『冬道』しかなかった。
 それが、チュノ川とビリュサ川に橋がかけられ、断片的にできていただけの、カンスクからボグチャニまでの夏でも通行可能な砂利道が貫通したのが2001年だった。2002年には、かなり痛むことを覚悟すれば、乗用車でも通行できるようになったそうだ。2006年、レガシーで通った時は冬場だったので、砂利道も凍って楽に走れた。
 道路計画によれば、カンスクからバグチャニまでの既成の道路をさらに伸ばして、アンガラを渡る橋を造り、さらに北上し、エヴェンキアの石油産地ユルブチェンとエヴェンキヤ南部の中心バイキット村まで通すそうだ。

 4年前の2006年に通った時は、できたばかりで原生林の中に車が通れるような幅の空間があるというだけの未整備道を、木材を積んだトラックが北から南へ、帰りの空荷のトラックが南から北へと走っていた。アバン町を通り過ぎてしばらく走ったところにある村が『ドールギィ(長い)・モスト(橋)』というのも不思議だった。わざわざ通行人に名前の由来を聞いてみたがわからなかった。今回サイトを探してみると、アバン町の学校の生徒が作ったブログ『アバン区の7不思議』というのがあって、『長い橋の不思議』も載っていた。アバンからバグチャニの途中にあるこの地は、一面の沼地だったため、20世紀初め長い橋、つまり、長いものは30メートルもあるという丸太で埋め立てた道ができた。それで、荷馬車が通れるようになり、集落の名前もそのまま『長い橋』となったそうだ。ドールギィ・モスト村はこの地方(アンガラ川の左岸支流タセエヴォ川の上流の長さ1012キロのビリュサ川下流一帯)の林業中心地だった。2008年、カンスクからアバン経由バグチャニ線(自動車道)がこの辺りまで舗装された。

 今、この新産業道路を通ってみてボグチャニまでの数百キロのうちどこまでが舗装されたのか、よくわからない。積もった雪が砂利の隙間を埋めて凍れば舗装されたようなものだ。しかし、その上に積もった粉雪が、大型車が通ると舞い上がり、大きな団子のしっぽをつけて走ることになる。昼間ならその粉雪のしっぽも半透明で先が見通せるが、夜はその雪煙の中に突っ込むと濃霧の中に入ったように視界が悪くなる。それでもアリョーシャは前を行く丸太を積み上げて速度の遅いトラックを追い抜かそうとして、しっぽの雪煙の中に入ってゆく。助手席の私が怖がっていても
「なあに、タカコさん、こんなの平気ですよ」と、視界のない雪団子の中に入っていく。
 ボズネセンカ村を出たところで、道路から飛び出て雪の中に突っ込んでしまった乗用車があって、運転手がロープを持って立っている。だが、私たちのランクルでは力が足りなくて雪の中から引っ張り出せなかった。もっと大型車が、10時近くの夜でも通ることは通るから、雪に埋まって凍え死ぬこともないだろう。

 暗い夜道を、雪煙を立てて走るトラックを何台か追い越して、さらに何十キロも走ってアンガラ川にぶつかったところにあるのがボグチャニ村で、私たちの知り合いの林業経営のキースティン氏がそこまで迎えに来てくれた。キースティン氏の家はボグチャンニ村の向かい岸、グレムーチィ村にあるのだ。
 アンガラ川はもちろん凍りついて氷上路ができていた。アンガラ川には冬、こうした氷上路が主要な河川港の場所、たとえば人口約一万人のバグチャニ村とその対岸、人口六千人のモティギノ町付近とその対岸などにできる。もちろん川は凍ってしまえば、どこを通っても対岸には行けるのだが、川の上に積もった雪が深かったり、氷に波ができて(波が凍って)車輪で通行するには困難だったりするが、こうした決まった場所なら途中まで行ってみてダメだったということはなく確実に向こう岸まで行きつける。監視人もいるこうした『氷上路』のほうが便利で安心だ。第一、川まで降りられる雪道もある、これがなければ向こう岸についても上まで上がれない。ちなみに、トラックは通行料75ルーブルがとられるそうだ。

 アンガラ松のグレムーチィ村
 グレムーチィ(とどろく、響く)村はバグチャニの対岸にできた材木集散用の新しい村だ。
 アンガラの両岸に広がる針葉樹林は良質な材木供給地として、ソ連時代には林業コンビナートが急速に発展したのだが、今は400社もの大小の林業関係の企業がある。ノヴォエニセイスク化学林業株式会社(レソシビルスク市に本部)というのが最も大きいらしい。
プロボクサーだったころのキースチン氏
キースティン宅、正面が住宅、右が蒸し風呂小屋、
左が物置
道ですれ違う丸太運搬車

 キースティン氏は個人営業の材木伐採業をやっていて、年間1万立方メートルまでの伐採量だそうだ。若いころはクラスノヤルスクのプロ・ボクサーだったが、10年ほど前、トラックや機材を買って、伐採業を始めたそうだ。専用の伐採林も何箇所か持っていると言うので、私の持っていた50万分の1の地図に印をつけてもらおうとしたが、分かりづらそうだった。地図には目印になるような集落もなく、ただ一面の針葉樹林でその中をたくさんの川が蛇行し、湿地と沼地の記号が地図には載っているだけだから。それでも、この辺に30ヘクタール、この川の中流の湿地帯に20ヘクタールと、3か所ほど印をつけてくれた。明日、そこへ行ってみよう。
 キースティン氏の有限会社『ディアレン』は20人くらいの社員がいて、トラックも5台所有しているそうだ。伐採する丸太は6メートルにそろえて切らなくてはならない。なるほど、道ですれ違った運搬車の荷台には太さはまちまちでも、長さの一定な丸太が整然と積み重ねられていた。これがみんな6メートルだったのだ。『デイアレン』社の持っている伐採林では、最も高く売れるのはカラマツで、次はマツだそうだ。トウヒ属(エリ)は枝が出すぎて高く売れないと言う。ベニマツ(ケードル、シベリアスギマツ)は高く売れるが、量が少ない。シベリアの森林の中で松が最も多い。ちなみに、カラマツは重く、1立方メートルが1トンになるが、松は750kgだそうだ。

 10年ほど前からこの地方で事業を始めたキーティン氏は、初めは自宅のあるクラスノヤルスクを往復していたが、数年前自分の伐採林のあるアンガラ右岸のグレムーチィに家を建て、家族と暮らすようになった。その家に私たち旅行者3人が泊めてもらったのだが、クラスノヤルスクから588キロも離れたバグチャニ村のさらに橋もかかっていない川向うにある材業のためだけにできた集落にあるにしては、トイレもバスも屋内にある都会的な一軒家だった。1軒屋と言っても、敷地に住宅、蒸し風呂小屋、ガレージ兼物置の3つの建物がある。
 田舎の一軒家と言うのは、普通このように何棟かあって、その一つがトイレ小屋なのだ。田舎の長屋のような集合住宅でも同様だ。トイレは必ず戸外にあって、決して水洗ではないが、キースキン氏の新しい一軒家は水の流れは良くないとはいえ屋内に水洗トイレがあり、お湯の出はよくないとはいえバスルームがあった。
 ただ、北方の家によくあるように外から入るには玄関の戸を3枚も開けなくてはならない。外は零下40度でも、ドアを1枚開けて入ったところは零下18度の冷凍庫くらいの温度で、2枚目でチルドくらいの温度になり(だから食料も保存できるが、この家ではそんなことはしていなかった)、3枚目でやっと室温になる。そこは、まず、廊下で、くつろぐには肌寒い。この廊下に向かって夫婦の部屋と5歳の坊やの子供部屋、広い居間とダイニングキッチンのほかバスルームとトイレが面している。5歳の坊やは両親と寝ることにしてくれて、その子のベッドで私が寝て、アリョーシャとアリョーハは居間の大型長椅子で寝ることになった。
 居間にはキースティン氏がボクサーだったころの写真が飾ってある。また夫婦の寝室にはパソコンもあってインターネットにつながっていた。

 次の日、2月18日、11時も過ぎてから、キースティン氏のランクルに乗って出発する。驚いたことにこのランクルは1年半前ディーマと一緒にトゥヴァを回った時のものだった。ディーマは日本で買ったばかりの1992年式ランクルをよく整備して、まず、私との5日間のトゥヴァ旅行で乗り回した。私のためにスト・ホリ湖のような悪路を、かわいそうなランクルを鞭打って走ったので、せっかく日本から買った車だが使い物にならなくなってしまったのではないか、私がスト・ホリ湖へ行きたいと言ったばかりに申し訳ないと思っていたが、ディーマはそれをさらに整備してキースティン氏に売ったのだ。いくらで売ったのかは知らないが、日本で、ディーマは30万円弱で買ったのだ。
アンガラ川の氷上路

 そのランクルに乗ってみると、この極寒の中、軽々と走っている。まずアンガラ川に降り、氷上路もびゅんびゅん走ってボグチャニの方へ行った。

 私の外国人短期滞在登録をロシア到着後3日以内にしなくてはいけないのに、クラスノヤルスクを立ってしまったので、せめて、パスポートのコピーをディーマのところに送って、登録しておいてもらわなくてはならない。今朝、キースティンのパソコンで送ろうとしたが、容量が大きいとかで送れなかったのだ。だから、バグチャニ村の役所のパソコンを使って送ることにしたのだ。また、バグチャニにあるエニセイ水産資源保護監視委員会アンガル支部、つまりアリョーシャの勤務先の一つへ行って仕事の話もあるらしい。そこの知り合いにアリョーシャは、アンガラ川上流のケジマ村への行き方と案内人を頼むそうだ。
 バグチャニ村から、またアンガラ川を渡って右岸のキースティン氏の伐採場見物に行くことになっている。

 実は、アンガラ下流域は最近の資金投下有力候補地に入っている。ネットで見ても、アンガラ下流域開発計画案がいくつも出ている。この地方はソ連時代から石油を含む資源が豊富であると知られているが、南エヴェンキヤ、つまり、パドカーメンナヤ・トゥングースカ南岸(左岸)とアンガラ北岸(右岸)の間は開発の遅れたところだった。つまり、人が入っていかない所、自然がそのまま残っている所だ。一方、西シベリヤのオビ川流域のチュメニ地区はソ連時代から石油の大産地だ、ということは、昔は人の住まなかった沼地や原始林に、近代的な人口都市ができあがり、だから、ロシアの中心からその新都市や産地を結ぶ地上交通路ができて、自然環境が激変してしまった所が多い。が、東シベリヤの石油の方は埋蔵量の豊富さは知られていたが、ソ連時代には予備とされていた。
 しかし、ここ数年、東シベリヤの石油ガス開発は進んでいる。例えば、1988年に調査されたエニセイ川左岸(西)イガルカ市の北西130キロのヴァンコール油田は、作業員のための臨時(ではあるが)集落ができて、大開発中である。
 南エヴェンキヤのパドカーメンナヤ・トゥングースカ川の左岸(南)からクラスノヤルスクのアンガラ川両岸地域は、1987年に着工しながら財政難のため工事が凍結されていたバグチャンスカヤ発電所建設が、2006年から再開され2011年に稼働開始されれば、ますます『開発』事業は進展しそうだ。バグチャニから50キロのカラブラ駅の近くにアルミ工場も建設されるという話だし。
  世界的にも人口密度の少ないこのエヴェンキヤ区(平方キロメートルに0.02人)も、ここ数年、目に見えて資本が投下されてきている(利権争いに決着がついたのか)。そのエヴェンキヤで最も有力視されているユルプチェン石油天然ガス産地は、パドカーメンナヤ・トゥングースカ川の左岸(南)とアンガラ川右岸(北)の間の、人口ではエヴェンキヤ第2のバイキット村(4070人)の南135キロにある。南部エヴェンキヤはペレストロイカの後2000年初めから本格的な開発準備が始まった。

(注)エヴェンキヤで人口第2のバイキット村(4000人)の南140キロのパドカーメンナヤ・トゥングースカ川の支流ユルプチェン川とトホモ川の流域に石油天然ガス大埋蔵地が調査され始めたのは1982年だった。20年ほどの間は開発の進歩は『緩やか』だったらしい。今、盛んに試掘され、地元に供給されはじめ、設備建設や、タイシェットまで600キロのパイプを引く計画などが検討されている、と『ロシア資本投下』サイトには載っている。
   http://www.rosinvest.com/news/561666/
アンガラへの橋を架ける準備のクレーンなど
氷上路の12キロ下流に建設準備中

 この開発のためには、まずは地上の通年通行が保障された道路が必要で、国道53号線上のカンスクからアバン町経由バグチャニ村までの産業道路を敷き、バグチャニからアンガラ川を渡ってさらに北に延ばせば、ユルプチェン油田に届く。このアンガラ川は、バイカル湖から流れでてイルクーツク州を北上し、ウスチ・イリム発電所ダムを過ぎて西に向きを変え、クラスノヤルスク地方に入り、西へと流れてエニセイ川に合流するのだが、クラスノヤルスク地方を流れるアンガラ川には1本も橋はない。(バグチャニから122キロ上流のコーディンスクは発電所ダムが完成すれば、堤防の上を渡る橋ができるが。)

 アンガラ川を渡るには、夏場はフェリーで、冬は氷上路だが、春と秋は通行不可になる時期がある。グレムーチィに住むキースティン氏もその時期はバグチャニやクラスノヤルスクから隔離されてしまう。橋があればフェリー船の時刻表も気にならず、氷が張るのを待つことなく、好きな時期に往復できるのだが、シベリヤの大河にはめったに橋はかかっていない。エニセイ川でもクラスノヤルスク市から北は橋が1本もない。しかし、アンガラ下流域の大開発のためには、南の国道53号線からバグチャニまで来た道路を、アンガラを超えてその先につなげなくてはならないと言うので、今、対岸のグレムーチィへ橋を架ける工事が進んでいる。キースティン氏が工事現場に案内してくれた。この橋で右岸にわたり、さらに北上してエヴェンキの油田ユルプチェンからバイキットまで自動車道路(つまり通年用陸上路)を敷設する準備中だ。
 グレムーチィからバイキットまで今でも冬道ならある。夏は沼地化する針葉樹林の中を通り、途中のいくつもの小さな川の氷上を横切り数百キロ(地図上で直線でも約400キロ)も行くとバイキットに出るそうだ。キースティン氏は自分の伐採場を案内してくれる時、途中までこのバイキットへの冬道を通ってくれた。まだユルプチェン油田が本格的に稼働しない先に、この冬道を通ってバイキットまで行って見たいものだ。アリョーシャは以前、クラスノヤルスクからエニセイ川を下り、パドカーメンナヤ・トゥングースカ川を546キロ上ってバイキッドへ行こうと勧めてくれたことはあるが、彼のピューマ号は船足が遅くて、いくら素晴らしいパドカーメンナヤ・トゥングースカの川岸でも、見飽きてしまうかもしれない。この針葉樹林の雪道を通る陸上の道なら、行ってみたいものだ。
イルキネエヴァ川に架かる通行禁止の橋
イルキネエヴァ川に落ちておなかを見せている
トラック

 キーティン氏は冬道がイルキネエヴァ川と交わっている所まで案内してくれた。そこには、数週間前に川に落ちたトラックがそのままひっくり返っていた。
 イルキネエヴァ川と言えばアンガラの右岸支流で長さ363キロ、この川がアンガラに流れ込む地点にイルキネエヴォ村があって、その少し北に新石器時代の遺跡があり、1980年代発掘調査され網櫛模様の土器や石製シムなどが見つかっているそうだ(エニセイ百科事典1999年)。
 ちなみに、アンガラ川の右岸支流は大きいもので、イルクーツク州のイリム川(589キロ)、クラスノヤルスク地方に入って、チャドベツ川(長さ647キロ、流域面積2万平方キロ)、イルキネエヴァ川(363キロ、1万4千平方キロ)、カメンカ川(313キロ、1万平方キロ)とあって、特にイルキネエヴァ川流域は木材調達量が大きいと上記百科事典にもある。
 そのせいか、この辺の林道は道幅も広く通りやすい。道幅が広げられたのは材木を運ぶだけでなく、将来ユルブチャン油田に繋がる予定の産業ルートだからかもしれない。
 林道(冬道)を通って、イルキネエヴァ川まで行ってみると、川には木造の橋までかかっている。しかし、その木造の橋の手前に立派な道路標識があり、『注意!この橋は修理を要する状態にある。通行禁止』などと書かれている。確かに丸太を山積みしたトラックがぞろぞろ通れば落ちそうだったが、見たところ、崩落しそうでもない。危ない橋でもかかっていれば向こう岸に行けるから、一応通行禁止と書いてあるのだろうと、勝手に思った。何せ、まだバグチャニからバイキットまでの(石油・天然ガス)産業道路は計画段階だから。
 私たちのランクルは、もちろん、橋を渡って向こう岸まで行ってみた。そして写真を撮って戻って来た。人っ子ひとりいない針葉樹林帯の白く凍った川を、危ないという橋の上から眺めるのも悪くない。トラックがこの白い凍った川に落ちたのは『壊れかかった』橋のせいではない。橋の直前の道路から川に落ちたスリップ跡があって、数メートル下の川岸に大きなトラックがおなかを見せて転がっていた。
 哀れなトラックだが、道路をふさいでいるわけでもなく、すぐに回収するほどではないのか放置されている。運転手はどうなったか、キースティン氏は知らないそうだ。
 このイルキネエヴァ川に架かる橋のすぐ下流には地図ではベドバ(河口から82キロ)という林業の集落があり、さらに上流にベリャキという住民40人ほどの集落があるそうだ。スターリン時代には収容所で、中国のスパイや越境者たちが働かされていたとか。そういえば、ここまで来る途中にも、収容所らしいバラック集団があった。
 エヴェンキヤの公式サイトで『1937年3月7日、トゥーラ町(当時エヴェンキヤ自治区の区庁所在地)からベドバ経由バグチャニまで馬と船での郵便道路が開通した』とある。
(http://www.evenkya.ru/rus/?id=obsh&sid=calend) 
イルキネエヴァ川がアンガラに合流するまでの82キロにあるベドバ村はアンガラ川北岸からトゥングースカ川へ向かう宿場町だったのだ。
この冬伐採した丸太
不良品だそうだ
試し撃ちするリョーハ
丸太が道をふさいでいたが

 橋をわたった向こうにキースティン氏の30ヘクタールの伐採林があるそうだが、そこへは行かず、現在伐採中の近い方の場所へ戻った。
 アンガラ北岸の林道を走ること、これは今回の旅でやりたかったことだ。この先もずっとアンガラ北岸やエニセイ西岸の冬道を走り続けたのだ。深く積もった雪と白いアンガラ(またはその支流)、暗い針葉樹林の中を走ると思っていたが、シベリヤの冬は毎日晴天で、深く積もった雪の針葉樹林は明るかった。高緯度のため、長く続く夕日が美しかった。材木を積んだ大型トラックが通る道なので、ランクルも軽く通行できる。途中で、ロシア製乗用車にすれ違ったが、これで自分の伐採地を回っているのだろうか、それともバイキットへの冬道を行くのだろうか。道は曲がりくねり上下していた。夏場は沼地になるというところにも木は生えている。沼地に木が生えるとは意外だったが、カラマツなどこんなところにもよく成長するそうだ。
 キースティン氏の3か所ほどの材木調達地のうち、だから、私たちが案内されたところは家から比較的近い方の20ヘクタールほどの伐採地だった。森の中の、少し開けたところに、小型のコンテナがあって、伐採従事者の休憩所や臨時の寝泊まり所になっているらしい。犬が何匹か迎えてくれた。太いタイヤの跡が雪の上に縦横についていた。切ったばかりらしい丸太が何本も横に積み重なっていた。6メートルにそろえたものや、もっと長い材木の横には、2メートルくらいの半端な丸太も雪をかぶって積み重ねられていた。シベリヤは寒いから木は太らないと思っていたが、太さが1メートル近くある丸太もあった。中には大きくバツ印が描かれたものもあって、これは太くて立派な木なのに年輪の途切れているところがあり、材木としては不良品なのだそうだ。異物が入ったような幹を囲んで、がんばって年輪を発達させたのに、切られてからおなかの中を見られて、不良品だと言われるなんてかわいそうな木だ。
 私が丸太の山に登ったり、切り口の写真を撮ったりしていると、リョーハが銃を組み立てていた。枝に止まっているカラスを撃つそうだ。何のためにカラスを、と思う。遠すぎたせいか当たらなかった。せっかく愛用の銃を持ってきたから腕慣らしでもしたかったのだろうか。カラスにとっては遠くに止まっていて幸運だった。
 帰り道、丸太が道をふさいでいた。切り方によって、道に倒れたのだろうか。切ったばかりらしい。電気のこぎりを持った男性がいて、そばにクレーン車もいる。キースティン氏がランクルから降りてその人と話していた。彼は、キースティン氏の伐採場で働いているらしい。やがて、クレーンで丸太をどかしてくれ、クレーンもわきによけて道を開けてくれた。
 キースティン氏の家に戻ったのは4時頃だった。荷台に高々と丸太を横積みした大型車を何台も追い越した。材木運搬車と言えば泥の中から出てきたようなトラックしか今まで見たことはないが、この辺の林業は景気が良くなったのだろうか、資本が豊かな会社も経営に乗り出したのだろうか、たまには黄色く塗ったばかりのぴかぴかのおそろいトラック群ともすれ違った。

 家に帰ると蒸し風呂小屋を開けて準備にかかってくれた。キースティン氏の敷地には、住宅、蒸し風呂小屋、ガレージ兼物置の3つの建物がある。実は、蒸し風呂というのはすごく苦手だ。シャンプーやリンスがよく洗い流せるようにたっぷりお湯の出るシャワーと、水はけのよい洗い場があれば旅行中の私は大満足なのだが。
 キースティン氏の蒸し風呂は、もちろん、お湯や水は使い放題ではなく、水は200リットルのタンクにためてあって、そこから柄杓で組んで焼け石にぶっかけるのだ。焼け石の上の大釜には熱湯が煮えたぎっているから、かけ湯にするにはタンクの水で薄めて使う。そのタンクの水はかちかちに凍っていた。これが解けて水になるまで長い間かかった。零下40度以下にもなるこの地では、もてなしと言えば蒸し風呂とウォッカだ。
 この日、また、キースティン氏の5歳の息子は私に自分の部屋とベッドを明け渡してくれて、両親と一緒に寝ることになった。
ホーム ページのはじめ 次のページ