クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 05 September, 2010 (校正2012年4月9日,2015年6月21日)
冬道のクラスノヤルスク地方、氷のエニセイ川とアンガラ川
(3) アンガラ針葉樹林帯を河口へ
           2010年2月15日から3月5日(のうちの2月18

На зимнике в глушь Ангары и Енисея( 15.02.2010 - 05.03.2010 )

アンガラ川へ エニセイ川へ
(1) ハバロフスクからクラスノヤルスク (4) エニセイ街道を北上、レソシビリスク市
アンガラ川へ出発 新ナジーモヴォ村泊
アンガラ松のグレムーチィ村 悲劇のオビ・エニセイ運河
(2) アンガラ川中流、水没のケジマ区 運河跡のアレクサンドル・シュルーズ村
アンガラの支流チャドベツ川の密漁 運河跡の『名無し』村
アンガラ北岸の僻地、古い歴史のヤルキノ村 (5) 1605年からのヤールツェヴォ村
(3) アンガラ下流の先住民、バグチャニ区のバグチャニ村 スィム川の新しい村マイスコエ
アンガラ針葉樹林帯を下流へ リョーハの銃
『憂愁』村と呼ばれていたオルジョニキーゼ村 (6) この旅の目的地ヴォーログヴォ村
モティギノ町、郷土博物館その2 旧儀式・礼拝堂派の中心サンダクチェス村
エニセイを渡ってクラスノヤルスクへ (7) ヴォーログヴォ『多島海』の漁業基地
クラスノヤルスクで 帰りの冬道、オーロラは見えなかったが
地図 アンガラ川下流 ロシア帝国のシベリア『開拓』地図
ヴォーログヴォ『多島海』地図 エニセイ中流地図
シベリアの町々の父エニセイスク市
帰国

 アンガラ下流の先住民、バグチャニ区中心のバグチャニ村
 アンガラ河口から323キロ上流にあるバグチャニ村から、河口から120キロにあるモティギノ町までは、だから、203キロの航路になる。しかし、陸上の冬道を通るとその一倍半にはなる、があるだけでもいい。
クラスノヤルスク地方、アンガラ下流
 私に会いたいという女性がバグチャニにいるので、モティギノに向かう前に、彼女の家にしばらくお邪魔してからということになった。外国人の私がここに来ていることを知っているのはアリョーシャの同僚ぐらいだが、やはり、彼女もその一人の奥さんで、ドラム缶に絵を描いているので私に見せたいのだそうだ。
 それで、前日も、道案内人を乗せにバグチャニへ行ったが、この日もまたアンガラ川を渡ってバグチャニへ行く。というのも、モティギノ町はグレムーチィと同じ右岸にあるが、グレムーチィからモティギノまで右岸の冬道はないから、どちらにしてもバグチャニに寄らなければならなかったからだ。左岸バグチャニ村(この『村』は『セロ』の訳語、帝政時代は教会があった大村)からマンジャ村(この『村』は『デレブニャ』の訳語、教会のない小村)まで87キロはアンガラ左岸に沿った古い道を行き、マンジャ村で氷上路を渡ってまた右岸にわたり、針葉樹林の中を行かなくてはならない。
  バグチャニ村は、『泥炭湖のそばの高い川岸』という意味のエヴェンキヤ語(注)が由来と言うバグチャニ柵から始まり、バグチャニ『開墾地(ザイムカ)』から『村(デレブニャ)』になり、1885年にはバグチャニ郡の『村(セロ)』となった。だから、立派な教会が見えた。水力発電所とアルミ工場建設で景気が上向きなバグチャニがかつての教会を復興し、今、完成間近なのだ。
バグチャニ村の新しい教会
アンナさん宅の庭
マンジャ村氷上路
 ちなみに、バグチャニばかりか、エニセイ流域の地名はエニセイという地名も含めてエヴェンキヤ語起源が多い。

 (注)一人ならエヴェンクэвенк人で、複数ならエヴェンキэвенки人。2006年まではロシア連邦の自治管区автономный окург(つまり、連邦構成主体と言う最も高度の自治体)で、2007年からはクラスノヤルスク地方の自治区(つまり、連邦構成主体のクラスノヤルスク地方の一部と言う中程度の自治体)となっている。エヴェンクの形容詞を使ってエヴェンキィスキィ自治区эвенкийский муниципальный районとするが、普通はエヴェンキヤЭвенкияと呼ぶ。公式サイトも『エヴェンキヤ』と言い、その英語版もEvenkiaとなっている。言語は『エヴェンキィスキィク語』と、形容詞になるが、英語では、Evenki language。日本語では『エヴェンキ自治管区』、『エヴェンキ語』などと民族の複数形をつかっている。

 アンガラ右岸からエニセイ右岸住んでいたトゥングース人(今はエヴェンキヤ人と呼ばれる)は、アンガラ川が本流で、南から流れてきたエニセイ川がアンガラ川に合流したと考えていた。(正式にはアンガラ川がエニセイの支流)。それで、アンガラ川とアンガラ合流より下流のエニセイ川を、エヴェンキヤ語で『大きな川(ィエネッシ)』と呼んでいた。アンガラ合流より下流のエニセイに住んでいたケット人がケット語で『川』の意味の『セス』をつけて『ィエネ・セス』となり、17世紀にやってきたロシアに『ィエニセイ』と定着されたのだ。(別説もある)。そのロシア人『開拓者』によって、右岸の大きな支流は、『ニジナヤ(下流の)・トゥングースカ』川、『パドカーメンナヤ(岩の難所より下流にある)・トゥングースカ』川、『ヴェルフナヤ(上流)・トゥングースカ』川と言われているようになったが、『上』トゥングースカ川と言うロシア『開拓者』のつけた名は定着せず、アンガラ(エヴェンキヤ語またはブリヤート語で獣類の口、転義で渓谷)と呼ばれるようになった。
 アンガラ左岸最大支流のタセエヴァ川も、18世紀一揆をおこしたエヴェンキヤの指導者タセヤから来たと、語源辞典には書いてある。
 アンガラ流域には当時、多くのエヴェンキヤ(トゥングース)人が住んでいたが20世紀初めまでにはいなくなった。天然痘で全滅したそうだ。今、この地ではロシア人かロシア系しか住んでいない。

 ちなみに、アンガラ右岸南方にはサモエード(サモディツィ)語派のカマシンツィ人なども住んでいたが、19世紀までに周りの民族に吸収されて言語は消滅した。ビリュサ(川)はカマシンツィ語。

 この町の、アンナさんというエニセイ自然保護アンガラ支部長の奥さんの家に3人で行く(彼女が私に会いたいと言ったそうだ)。1軒屋だった、ということは自分のペチカ(生活の場の中心なのでその周りは驚くほど雑然としている)、家畜小屋、菜園道具小屋、トイレ小屋がある。ペチカのある台所で、私たちはお茶をごちそうになった。彼女はここ数年、都市部では増えたが農村部ではまったく珍しい健康食品の販売員でもあって、カラー印刷の宣伝パンフレットを見せてくれた。体にいいハーブ茶やサプリメントの『普及者』であると名乗り、長々と効能を説明し、その製品も見せてくれたが、悪いけど、買わなかった。
 彼女の友達のアントニーナさんという女性も遊びに来た。日本人が来ているというので会いにきたそうだ。彼女はブリヤート共和国ウラン・ウデ市出身だそうだ。当時、学校を卒業すると、指定された就職先に行って何年か働かなければならなかった。(『社会主義』計画経済と言われた時代)、そのようにして全国の労働者を必要なところに必要な数を供給していたから若年失業者もなかったことになっている。中くらいの田舎に住んでいる人の出身地を尋ねると、90年以前に卒業したような人の多くは、『割り当て』でここへ来たと答える。
 アントニーナさんやアンナさんは、田舎は退屈なので遠いところからやってきた人と話したかったのかもしれない。そこにお邪魔していたのは1時間半ぐらいだが、お茶を飲んでから庭に出た。盛んに吠えたてる犬たちを隔離してから私たちを案内してくれた。庭や物置にはアンナさんが描いたドラム缶がいくつもおいてある。絵柄は人気絵本から取ったようなかわいいキノコや猫ちゃん、微笑む雲で、確かに半錆のドラム缶を眺めるよりずっと心地よい。保育園の園庭かと思いたくなるが、その横には牛小屋があった。

 やがて、12時頃には村を出てアンガラ左岸を下流(西)に向かっていた。カラブラ川の手前に『マンジャ林管区(営林場)」と書いた標識が立っている。クラスノヤルスク地方には、2007年まで自治管区として別の自治体だったタイムィールエヴェンキヤを除いて42の区があり、それぞれに林管区があるのだが、広い針葉樹林のあるところではさらに細かく林管区に分かれていて、例えばバグチャニ区は林業資源が豊かで、開発も整っているからか、5つの林管区があり、カラブラ川でバグチャニ林管区とマンゼヤ林管区に分かれている。アンガラの北にはグレムーチィ林管区などもある。
 
 アンガラ川針葉樹林帯を下流に向けて行く
 雪で真っ白いプンチューガ村はアンガラ川の間近にある。プンチューガ川道端で子供が4人遊んでいた。その横にはパラボラ・アンテナのある平屋建てがある。村の建物といえば木造平屋建てで、これはアンテナがあるところからして学校だろう。
 バグチャニからマンジャまでは、左下にアンガラ川を見下ろし、右側はアンガラ川に突き出している丘陵の下の比較的良い道を2時間ほど順調に走って行った。しかし、暖房の効いているはずの車内も突っ切って走る風が吹きこんで、私が座っている助手席はやたら寒かった。きっと、この古いランクルの車体にすきまがあいているのだろう。使い捨てカイロを外套の裏側にペタペタ貼って、ディーマがクラスノヤルスク出発の時貸してくれた膝までのフェルトブーツに履き替えた。
 寒いことを除けば、白いアンガラは美しい。白一色では単純だ、水の色や木々の色もある夏の方がいい、とロシア人は言うが、氷原になった大河は、これこそシベリアの絵だと思う。
 マンジャ村まで来ると、川へ下りる道があって、速度30キロ記号と重量25トンと言う氷上路にはお決まりの標識があった。つまり氷の厚さは60チンチ以上なのだ。ここは立派な標識が立っていて、37箇所あると言うクラスノヤルスク地方庁交通課の管理する氷上路の1本だ。
カメンカ川の氷上路から上がる
カメンカ村の『大祖国戦争』戦没者慰霊碑
カメンカ村の通り
リャブチック(えぞやまどり)
しとめた獲物

 ここに氷上路があるのも対岸にニジネテリャンスクというテリャンスク林間区の集散地があるからだ。ここにも高く積まれた丸太の山が延々と続いていた。冬、陸上の道が通れる時に奥深くの森林資源をこうやって川岸に集めておき、夏、氷が解けて水上交通ができるようになると、平底のはしけ(艀・バージ)で運ぶのだ。夏は陸上の交通が不可能になるので伐採従業者は夏休みで、冬は航路がないので水上交通従事者は冬休みか。
 このニジネテリャンスクにも丸太が人の背の3倍以上も積み上げてあった。まだ3カ月間は冬場の仕事ができそうだから、もっと高くなるのかもしれない。
 ニジネテリャンスクから先はかなり厳しい冬道しかなくなる。地図で見ると点線が奥地の方へ伸びている(もちろん太い線ほど整備された道だ。この2007年刊の50万分の1の地図帳では赤線なら舗装道路だと出ている。黒の点線は野原の小道か林道と書いてある、しかし、あまり信用できない。通行可かどうかはその都度、現地の人に確かめる)。
 狭かったり広かったり、針葉樹が迫っていたり開けていたり、登ったり降りたりする雪道を通って私たちのランクルは進んだ。『テリャンスク林管理区』と書いた立て札があって、近くに『モティギノ』と書いた矢印があった。距離も書いてないが、一応、この道はモティギノに通じますよ、と教えてくれているのだ。

 幾つ目かの丘陵をこえたところで氷原が見えてきた。右岸支流のカメンカ川(313キロ)だと、アリョーシャが教えてくれた。この支流を渡らないとアンガラの下流にあるモティギノにはいけない。氷上路に平行に棒が2列に細々と立っていて、その間が氷上路らしい。冬場の陸上の雪道は、アンガラ川やカメンカ川のような地図にも載っている大きな川や、地図に記入されているが名前までは書き込まれていないというような川を何本も渡らなくてはならない。そうした『公式』冬道が渡る小川には、幅2メートルくらいの小さいものもあって、たいていこのような棒が立っていた。2メートルくらいだったら入口と出口の2本ずつ4本だが、カメンカ川は半端な川ではないので、いくら交通量が少ないと言っても、道を踏み外さないように何本かの棒が立っていた。アンガラ川を渡った時のような標識も注意書きもないが、ちゃんと車が通った跡がある。
 カメンカ川を渡るとカメンカ村だった。カメンカ村には何軒ぐらい家があるのか、ここには『村ソヴィエト』もないらしい。ボグチャニ区には18の『村ソヴィエト』があるが、カメンカ村とそのほか2村の、合わせて124人はそのどこにも入っていない村と村との間にある集落らしい(村間地域)。ロシア連邦の自治体法では、人口の希薄なところにそんな半端な村ができるそうだ。極北や極東には全体がそんな村のこともある、と出ている。カメンカ村にはいっぱしに『クラブ』と大きな看板の出ている平屋や、『大祖国戦争戦没者記念碑』と言ったどんなひなびた村にも必ずあるものもちゃんとそろってはいる。家々(と言っも人の気配のするのは数軒)の軒下には、どこの農村の家々にもあるような薪の山が積んであり、道の隅にはこれから薪にする太い丸太がちょうどよい高さの丸椅子のように並んでいる。

 さらに白い山道を登ったり降りたりする。道の両側はさすがまばらな林だ。まるで手頃なところから伐採していったみたいだ、または伐採していったところに雪道ができたのか。もちろん、伐採は去年や一昨年ではない。なぜなら細い白樺や陽木の松がちょろちょろと生えているから。
 そんなところも通り過ぎたころ、アリョーシャがランクルを静かに止めた。
「ほら」とアリョーシャがささやき声で木の枝を指さす。道路のすぐそばの枝に、まだら模様のちょっとした大きさの鳥が止まっている。
「ほぉ」と思って写真を撮った。窓を開けて撮ろうとすると
「ダメダメ」とアリョーシャが止める。突然、バアーンと大きな音が1度聞こえて、鳥は音もなく雪の上にすっと落ちた。はっと音のした方を見ると、忍び足で外に出たリョーハが銃を下したところだった。思わずしかめっ面をして男性たちをにらんでしまった。
 リョーハは雪の中に入って行って、そのリャブチック(エゾヤマドリかエゾライチョウの類)を掴んで、ポリ袋に入れる。アリョーシャは
「これは皇帝の肉と呼ばれて、淡白でおいしいのだ、モティギノに着いたらママに料理してもらおう」と言う。リャブチェックは警戒心のあまり強い鳥ではないので、近年減少しているのだそうだ。モティギノに着いたらリョーハが羽をむしり、アリョーシャのママが料理してくれるそうだ。もう死んでしまったから、仕方がない、お味見をしてみよう。
 『憂愁』村と呼ばれていたオルジョニキーゼ村
 そこから10分も走るともうオルジョニキーゼの村はずれの貯蔵燃料ダンクが見えてきた。人口1779人(2008年)のオルジョニキーゼ村はもうモティギノ区で、区の中心モティギノ町まで陸上では83キロ(航路では43キロ)しかない。
アンガラ川岸に集められた丸太の山
冬の終わりまでにはもっと高くなるのか、丸太の山
村はずれのガソリン・スタンド
ガソリンスタンドの事務室で。機会があったら
必ず広げるヴォッカと肴のテーブル
学校の横に新たに建てられた教会
教頭と校長とアクサーナ先生、その右上の
大統領と首相の写真↓
↑3人の頭上にある写真
 今回、アンガラの右岸(北岸)を走ると聞いて、ぜひオルジョニキーゼにも寄りたいとアリョーシャに頼んだのだ。オルジョニキーゼなどと言うスターリンの親友の名前が付いているが、その前は何と言う名前だったのだろう、と思っていた。クラスノヤルスクの私の知り合いの一人スヴェータはオルジョニキーゼ出身だった。たまに実家へ帰るが「すっごく遠いところだ、簡単にはいけないところだ」と言っていた。私は簡単にはいけないところに行ってみるのが好きだ。今回アリョーシャはそこに知り合いがいるから寄ってもいいと言う。 
 アリョーシャには至る所に知り合いがいる。どんな知り合いなのかはわからないが自然保護監査員関係だと思う。彼の知り合いのなかには、自然保護法が邪魔になっているという漁業関係者や狩猟関係者も少なくなさそうだから。
 オルジョニキーゼ村はモティギノ区の材木集散地の一つで、モティギノ林間区の材木の大部分が集まるのだろう。モティギノ区は林業資源で成っているというより、金採掘で始まったような区なのだ。オルジョニキーゼ村のあるところは、19世紀のゴールドラッシュの中心のウデレイ川流域の金採掘場からはやや離れていたが、金は採掘されていたそうだ。
 今、ここに集められている材木の山は5階建ての建物くらいはあって、アンガラ川に沿って延々と並んでいた。巨大なクレーンも備え付けられていて、今トラックで運んできた丸太の荷降ろしをやっている。トラックの運転手が宙づりの丸太の行方をも守り、ここからは見えないクレーンの運転手がつり上げている。今作業しているのはその二人だけのようだ。作業員が休む小屋もあって、煙突から煙が出ていた。材木置き場は低い川岸にあって白いアンガラを眺めているが、村は高台にあった。洪水のためだろう。
 村に入っていくと木造の家が立っている。屋根が破れて窓ガラスもない建物は物置かもしれない。ここでも道路に丸太が雪をかぶって横たわっていて、周りの雪の上に木くずが散らばっている。アリョーシャの知り合いは、まだ勤務中で留守だったようだ。その勤務先らしいところに行く。そこはガソリン・スタンドだった。ガソリン・スタンドは危険物があるので必ず村はずれにあり、たいていは荒涼とした中にスタンドが立っている。昔は国営、その後は地域の巨大産業(材木関係)が運営しているのだろう。知り合いは、そこの責任者らしい。
 スタンドの管理小屋には3人のオルジョニキーゼ人がいた。そのうちの二人の男性がアリョーシャの知り合いらしい。もう一人は窓口の女性だ。つまり購入者が必要量を言って代金(か、何か引換証のような紙切れ)を渡すと、その分量だけスタンドから出るようにするのだ。彼女は客が来ないので映りの悪いテレビをじっと見ていた。田舎の人はみんなこうやって時間を過ごすのだろうか。久しぶりに再会したらしい男性たちの方は、もちろんヴォッカの瓶を開け、出発のとき買ってきたソーセージの皮をむしっている。瓶詰のキュウリやトマト、キノコもちゃんと並べて、さあどうぞと言われる。礼儀上勧められただけだろうから遠慮する。
 こうして彼らの勤務時間の終わる(たぶん)少し前に、あとを窓口の女性に託して、スタンドの小屋を引き上げて村に戻った。
 私の希望で辺鄙な村に車を止めてくれるアリョーシャは、いつも、その村のどこへ行きたいかと聞く。村を見ると言っても一回りに数分しかかからないし、観光名所なんて絶対ない。だから一応、学校のようなところに行きたいと言ってみる。自分は元教師だったので、学校に興味があって、先生たちと話したいと言えば、アリョーシャもリョーハも納得してくれる。あれば、郷土博物館や図書館なども行ってみたい。昔、ハータンガ村に行った時は病院も見学させてくれた。オルジョニキーゼ村の学校の校長がアリョーシャの知り合いの知り合いの奥さんだった。こんな村だったら、一人でも村人に知り合いがいれば、村全員みんなが知り合いだ。
 そういうわけで、材木の山に驚いてから1時間半後には村の学校に来ていた。校長はガリーナ先生で、電話をかけて教頭を呼んでくれた。ガリーナ先生の仲良しのアクサーナ先生もわざわざきてくれた。
 学校は木造2階建てだった。近くに新築の教会の丸屋根が見える(教会を復元または新築している村は景気がいいということだ)。生徒数は230人という。村人1779人というから、そんなものだ。遠隔地の村といえば、年金生活者(となると女性が大部分)が未成年より多いものだ。義務教育の9年生までは各学年20人前後いるが、10,11年生は10人以下だ。この学校の教員の一人が全ロシア優秀教員コンクールで賞を取ったと教頭が強調していた。賞金は10万ルーブル(30万円強)と教えてくれた。校長室にはパソコンがある。数年前ロシアのどんな辺鄙なところでも各学校にはパソコンと衛星アンテナが支給されたのだ。だからインターネットを見られる、が教育関係以外のサイトはブロックされている。
 狭くてもホールのようなところには卓球台が2台置いてあって生徒が使っていた。壁には掲示板があって、時間割やたぶん教育目標などが貼ってあって、その上にはメドヴェージェフ大統領の大きな写真がかかっていた。さらにその横には真面目な顔で正面を向いたプーチン元大統領と、プーチンの方に斜めに傾いた現大統領の写真が額に入れて飾ってあった。確か、ソ連時代は教室の黒板の上などにはレーニンの写真があり、ソ連崩壊後はイコンのような聖画、そしてそのあとはプーチン、今はこうして元大統領に重きを置いたような写真だ。
 構内を一回りすると、図書館横の部屋に案内された。そこでは、もうアリョーシャやそのガソリン・スタンドの知り合い、校長の夫(スキーのインストラクター)たち男性たちがテーブルにヴォッカや肴を並べて騒いでいた。田舎は退屈でほかにおもしろいこともないのだろう。このオルジョニキーゼ村も1967年以前はパタスクイ村(タスカтоскаは憂愁、哀愁、憂悶、退屈)と言ったそうだ。またはパガリュイ(горюниться悲しむ)、パククイ(покуковатьカッコウが鳴く=寂しいこと)ともいった。道もない奥地にあった集落だからだ。パタスクイ(ちょっと憂悶せよ)となんと詩的な名前だったのだろう。1912年にシベリヤ流刑のセルゴ・オルジョニキーゼが通ったとかいうので『革命的に』改称して、ソ連っぽい名前になってしまった。
 パタスクイ村(オルジョニキーゼ村)は、初めはアスリャンカ川がアンガラに注ぐ河口近くにあったそうだ。なぜならアスリャンカ川は毎年大氾濫するが、肥えた泥を運んできてくれたからだ。しかし、今のオルジョニキーゼ村は20メートル以上の高台にあって、水位がかなり上がっても無事だ。これは、60年代、アンガラ下流域にダムを作ったり鉄道をひいたりする国家計画があったので、ダムができても水没しないようにとあらかじめ高台に移転したからだ。しかし、その後1974年、ダムは、オルジョニキーゼ村の250キロ上流のコーディンスクにバグチャンスカヤ発電所として建設されることになったが、移転された村はそのまま高台に残った。と、サイトにある。
http://www.memorial.krsk.ru/work/konkurs/5/SergienkoAR.htm
 モティギノ林管区には10の林業企業がはいっているが、その中でレソシビルスク材木化学とアルジョニキーゼ材木化学の規模が大きそうだ。アクサーナ先生の夫はここで働いて、教員の給料の何倍ももらっている。
 アリョーシャの携帯に何度も彼のママから電話があった。オルジョニキーゼ村はモティギノ町からの携帯電波が届くのだ。ママは蒸し風呂も焚いてご飯も作って待っているからと繰り返す。522キロも離れたクラスノヤルスクで暮らす長男が近くまで来ているのに、ヴォッカを飲んでぐずぐずしているなんて悪いではないか。2006年に初めてアンガラ川のモティギノに行った時、アリョーシャの母方の祖母さんの家に泊めてもらったものだ。
 アリョーシャを急がせて、学校の図書館のごちそうの並んだテーブルを引き上げさせる。アクサーナ先生のメールアドレスをもらい自分のを残してきた。グレムーチーでもバグチャニでもそうした。帰国後、オクサーナ先生と数回メールのやり取りをして、パタスクイ村についての載っているサイトを教えてもらった。

 モティギノ町、郷土博物館その2
 出発したのはもう夜の9時頃で、アリョーシャはもちろん酔っぱらい運転だ。リョーハも飲んでいるが、この夜の冬道、手動ミッションのランクルを私が運転できるはずがない。この先もアリョーシャはたびたび酒飲み運転をしていた。ランクルよりもスノーモビールの酒酔い運転の方が怖かった。
 オルジョニキーゼからモティギノの83キロは、だから暗い冬道で写真も撮れない。モティギノへは無事11時近くについて、蒸し風呂に入り、アリョーシャのいとこでクラスノヤルスクで麻薬警察の少佐をしているというアンドレイ夫婦と知り合ったが、彼らをごちそうやヴォッカのテーブルに残して、私は12時ごろアリョーシャのママが用意してくれた寝室に入って寝た。
 モティギノと言えば2006年冬至のころに来た時トイレで苦労した。やはり冬で夜中の外のトイレは寒かった、と言うより怖かった。それでもおばあさんが室内でどうぞ、と用意してくれたバケツはどうしても使えなかった。その後、原理はバケツと同じだが、一応トイレの形をした室内用ポータブル・トイレが普及してくれた。ヤルキノ村のような奥地でもみかけたくらいだ。
部屋に用意してあったポータブル・トイレ

 私が泊まることになった部屋にも用意されていた。アリョーシャのママも説明してくれて、前もって液体が入れてあるからにおいはしないと、ふたを開けて見せてくれた。本当に、底にはブルートイレから出た様な、すがすがしいにおいがしそうな液体が少したまっていた。しかし、その後はどうするのか、外のトイレまで持って行って捨ててこなければなるまい、大きいのは絶対だめだろう。などと、もんもんと考えながら寝たので明け方は悪夢に悩まされた。
 結局は、外套を着て外に出て、共同トイレ・ボックスの比較的穴が空いていそうな所に入った。排せつ物で穴が山盛りになっていると、どこへ落としたらいいのかわからないから。木造2階建ての共同住宅で20家族ほど住んでいるが、トイレ掃除当番とかあるのだろうか。こんなトイレはどうやって掃除したらいいのだろう。
 ぼっとんトイレにはペーパーは落としてはいけない所もある。横のブリキのバケツに入れなければならないと聞いたことがある。トイレにはいつもマッチ箱があった。バケツの中味のペーパーを後でそのマッチで燃やすそうだ。しかし、ここはアパートの共同トイレのせいか、ブリキのバケツはなかった。
 外へ出るたびに犬に吠えられる。田舎では飼い犬がいつも放し飼いにされていて、私はいつも噛みつかれるのではないかというほど吠えられるのだ。
 アリョーシャのママは保育園の園長だそうだが、今、保育園はインフルエンザのため休園で、見物はしないほうがよいそうだ。だから博物館だけに行くことにした。その日は日曜日で博物館は休みだが館長に頼んでみるということだった。

 2月21日、日曜日、12時ごろアリョーシャのママの集合住宅の別のアパートに住むと言う博物館のガイドの女性を乗せてアリョーシャの弟が運転するランクルで、すぐ近くにある(何せ大きくない村だから)郷土博物館に向かった。
昔は大商人の家、今は博物館
『大祖国戦争』コーナー
水の運び方を実演してくれるガイド
今回の旅ではハバロフスクに次いで2度目の郷土博物館だ。
 アンガラ川流域のクラスノヤルスク自治体の区の中でもモティギノ区は最も下流でエニセイの合流点近くまで含む。中心のモティギノ町は合流点から120キロのところにあり、モティギノ町からクラスノヤルスクまでは522キロと、上流のバグチャニ地区やさらに上流のケジマ地区よりずっと地方庁所在地(ひいてはモスクワ)に近い。コサック前哨隊(『開拓隊』『侵略隊』)がウラルを超えてトボル川、オビ川、エニセイ川と進み、アンガラ川ルートに入ったところの初めに当たる。だから、モティギノ町の横にあるルィブノエ柵ができたのは1628年と、バグチャニ柵やよりわずかだが早い(前々ページの『アンガラへ出発』の地図参照)。そしてここは(ここだけではないが)長い間、ヤクーチアや極東への進出の足がかりだった。中国へ赴任する大使、たとえば、1689年清国との間にネルチンスク条約を結んだゴローヴィン大使も、ここで越冬した。極東方面探検家もすべてここを通った。18世紀前半のアンガラ流域発展期では、ルィブノエ村が郡の中心で石造りの教会も建てられた。その後、18世紀後半、陸上のシベリヤ街道がイルクーツクまで開通し、アンガラ川ルートはすたれて、発展からは取り残された。たが、1837年に今のモティギノ区の北、アンガラの右岸支流のウデレイ川流域、つまりエニセイ川右岸のエニセイ丘陵の東側に金が発見されると、ゴールドラッシュでまたにぎわったのだ。ウデレイ川流域や支流に多くの金洗鉱基地ができ、のちにウデレイ・モティギノ道となる427キロの陸上の道路もできた。集落に食料品を運びこみ、金を運び出すためだ。(その途中の越冬小屋ラズドリンスク村には教会も建ち、のちには町になった)。1850年代世界の金の40%はロシアが産出し、その90%は当時のエニセイ県だったそうだ。革命後、旧アレクサンドル・イヴァノフスキー金採掘場で、元はガダロフスキー村と、大商人の名をとって呼ばれていたユージノ・エニセイスクが行政中心町となってウデレイ区ができた。戦前までは浚渫機(ドレッジ)などでかなりの金を採掘していたが、1950年代には減少、区の行政中心地もモティギノ町に移り、区の名前もモティギノ区となった。今ユージノ・エニセイスク『町』には700人余の住民しかいない。
http://library.kspu.ru/files/kzd2010/192.pdf
 古くて立派な建物にモティギノ郷土博物館があった。元の大商人の家だったという。アンガラ川を見下ろす高台にあり、船の出入りがいち早くわかったそうだ。この高台には、町役所や銀行も並んでいて町の中心だ。博物館はモティギノ学校付属として1968年にできたそうだ。つまりこの建物は、モティギノの学校として使われたようだ。館内に入る前に外観、とくに窓飾りに目を向けてくださいとガイドに言われる。古い建物で何度も修理されているようだが、当時の透かし彫りの窓枠が残され、古びた丸太外壁に展示してあった。一方、2階のベランダは木が新しい。
 館内には展示ホールが2つだけある。1つ目は郷土の歴史と地理で、マンモスの骨から石器時代の石器(学校教育のために博物館に贈呈されたものでモティギノ区発掘物ではない)から、青銅器時代の石画、石刻画(モティギノ区のタセエヴォ川流域に多く発見された。展示物は写真)、初期『開拓者』の家の模型や、ルィブノエ村にあった教会の絵、70年代の地質調査隊の使った道具類、モティギノ区で見つかっている鉱石の見本、原住のエヴェンキヤ人の生活用品、さらに現代史は、『大祖国戦争』で表彰された勲章の束、今兵役に行っている若者たちの写真まである。ここを授業中訪れる学童に『国を守る』とかの愛国教育をするのかな。 
 2つ目のホールはアンガラ下流の民俗学に関するもので、少し前までのアンガラ川農村地帯の道具が展示してあり、パンの焼き方や水の運び方、サモワールの沸かし方や、当時の農家のイコン(聖画)の飾り方などが、見てわかるようになっている。他に集会室もあった。
 1時間半はたっぷりかけてゆっくり見て説明を聞き、写真もたっぷり撮って博物館から出てみると、アリョーシャの弟がランクルの中で辛抱強く私たちを待ってくれていた。閉鎖中だが幼稚園の前を通り、学校の前を通り、アンガラ川を見下ろす町一番の勝景地に立つ戦勝記念碑(戦没者記念碑)の前をゆっくり通り過ぎ、教会の屋根も写真に撮って、アリョーシャのママの家に戻った。

 エニセイを渡って帰る
  2006年12月、モティギノに来た時、行きのクラスノヤルスクからは、タセエフ街道を北上し(途中のトロイツクまでで街道は終わるのだが)、帰りはエニセイ川経由だった。その時は、12月末でエニセイ川はかろうじてまだ凍っておらず、最後のフェリーで向こう岸に渡ったものだ。
村の店にある冬のトマトときゅうり
スーパーでない店は町でも田舎でも
商品には触れられない

 今回、帰りのランクルに、ちょうどクラスノヤルスクへ行くというアリョーシャの弟の奥さんも乗せる。彼女は上唇の上に銀色のピアスをしていて、後部座席で編み物を始めた。私たちはまずルィブノエ村まで行ってアンガラの左岸にわたる。左岸を下流に向かうとタセエヴァ川と言う一番大きな支流を渡らなければならないのだが、この部分のアンガラ右岸には道も集落もないのだ。タセエヴァ川を10キロほど登ったところのピエロヴォマイスコエ村(周辺村人も入れて千人余)で、この左岸支流を渡る。2006年12月は行きも帰りもここで川を渡った。今回、渡る前に村の店で道中の食料を買った。村の店は何でも売っているので、その光景を眺めて写真に撮るために私は必ず入る。それほど萎びてはいないきゅうりやトマトが1キロ190ルーブル(約600円)で売っていた。
 ピエロヴォマイスコエ村の氷上路は交通量もそこそこあるらしく、監視員小屋もあって、ユーターン禁止、車間距離70メートルという標識もあった。この先はタセエヴァ川に沿って下り、元のアンガラ川に戻り、今度は左岸をノヴォアンガルスクまでは新しくできたらしい通年道路(年中通行可能道路)を進む。2006年に通った時、工事をしていて、ショベルカーなどの大型車の隙間を通りぬけたものだ。

 ノヴォアンガルスクはモティギノから陸路105キロ、航路80キロで、アンガラ河口から41キロにあって、ここまではエニセイから産業道が昔からあった。というのも、ここで鉛、亜鉛の露天掘りのゴレフスカヤ選鉱コンビナートがあるからだ。ロシアの鉛亜鉛の40%近くの埋蔵量だとか。
 2000年4月末、クラスノヤルスに住んでいたころ、その近くのストレルカ町に住む知り合い宅(教え子)に遊びに行った時は、露天掘りのすり鉢状巨大穴を見下ろせる場所まで近付けたものだ。
2000年4月30日、ゴレフスカヤ露天掘り

やがて、アンガラのエニセイへの合流点にあるストレルカ町(人口5364人、2007年に着く。川の合流点には細長い砂州や岬があるせいかどこでもストレルカ(矢、時計の針、矢印)と呼ばれている。その一般名詞が地名になったのが、この人口約五千人のストレルカ町だ(ロシア中にこの地名を持つ水辺の地は多い)。アンガラ川もこの地点で斜めにエニセイに合流して、そこが矢印のようにもなっている。ストレルカ町はこうして2大河川の合流点にあるので17世紀にはロシア人の集落ができていた。
 1950年代対岸の矢印(ストレルカ町)の外側にはスターリンの収容所があってウランを掘っていたとか。
 
エニセイ川の氷上路の注意書
エニセイ川氷上路。片側通行

 ここで、2006年12月には(その年にはまだ氷が張らなかったので)渡れなかったエニセイ川氷上路を渡る。アンガラ下流域の産物は、空路か河川路でなければすべてこのストレルカ村の氷上路を渡るか、夏場ならフェリーでエニセイ左岸にわたるのだ。交通量もアンガラやタセエヴァ川より多く、『運転手の皆さん、ここで乗客を降ろしてください。シートベルトは外して、車間距離を70メートル以上とって20キロ以内のスピードで、途中停車することなく渡ってください。追い越し禁止』と書かれた立て札があった。私たち乗客は降りなかった。車の重みで氷が割れるわけでもないのに、歩いて渡るなんて寒いではないか。もちろん、誰も歩いて渡っていない。アリョーシャはもともとシートベルトは締めない。
 さすがエニセイの氷上路だけあって、杭が平行に何本も打ってあって、私たちはその間を神妙に渡った。向こう岸の左岸に着いたのは5時半ぐらいで、ここから250キロのアスファルトのエニセイ街道を行けばクラスノヤルスクだ。ちなみにエニセイ右岸には集落がないわけではないが、一つの村からとなり村までの切れ切れの冬道しかないようだ。左岸のこのエニセイ街道は17,18世紀からシベリヤの商業中心地(毛皮の集散地)だったエニセイスクと1822年にできたエニセイ県の中心クラスノヤルスク市を結ぶ主要道だった。
 この道なら、クラスノヤルスクに一人住んでいた1997年から2004年、ドライブコースの一つだった。

 クラスノヤルスクで
  2月22日はアリョーシャの休憩の日だった。車の点検もしなければならないそうだ。私はゼレノゴルスクに住む旧友と会っていた。彼らがクラスノヤルスクに会いに来てくれたのだ。
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