クラスノヤルスク滞在記と滞在後記
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up date 2007年2月5日(校正2008年6月19日,2012年4月9日 )

冬至の頃、クラスノヤルスク地方またはアンガラ下流とイガルカ(2)
       2006年12月11日から12月25日

Зимой на Ангаре и в Игарке (11 декабря по 25 декабря 2006 года

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申し分のない日程をたてる イガルカへ出発するはずの日 やっとイガルカ市へ
ハバロフスク市からクラスノヤルスク市へ アンガラ川のモティギノ町へ 旧イガルカ
アンガラ川の奥地コーディンスク市へ 由緒あるタセエフスキー街道 イガルカ常連客
シベリアの冬道 シベリア風のおもてなし ゼレノゴルスク潜入
バグチャンスカヤ発電所町コーディンスク キーロフスキー村と『ゴールドラッシュ』 帰途のハバロフスク市

 イガルカへ出発するはずの日
 15日(金)午後2時の飛行機でイガルカに出発できるよう3人分の往復チケットがあらかじめ買ってありました。午前中は外国人登録課に出頭して、ハバロフスクから入国する時に作成した私のエミグレーション・カードを提示して、クラスノヤルスクの登録済みの住所に確かに逗留しているという証明を貰っておかなくてはなりません。招待ビザで入国した場合、土曜日曜を除く入国3日以内に出頭しなければならないと招待状に書いてあります。
 9時、ヴァジムと外国人登録課へ行き、半年前のように順番抜かしをして受付に入りました。ヴァジムたちが本当に書類のそろえ方を知らないのか、登録課が毎回違うことを言うのか、証明してもらうには、わたしのパスポートとエミグレーション・カードだけでは不足で、それらのコピー、わたしの逗留先のアパートの持ち主(形式的に彼らの知人宅に滞在することになっている)の公証人の証明付き同意書、さらに、実は入国して4日目だがクラスノヤルスクに到着してからは3日目であることを証明するハバロフスクからクラスノヤルスクへの航空券のコピーなどが必要だと言われました。それらを用意するために、ヴァジムたちのオフィスにまた戻ってきました。もう11時近くです。午後2時に飛行機が出発するなら12時にはオフィスを出なくてはなりません。間に合うのでしょうか。
 さらに、オフィスの机の上にあったはずの航空券も行方不明です。ディーマや、アリョーシャも必死で探しましたが、どうしても見つかりません。そのうち1時近くなり、航空券は3人の名前で購入したことは確かなのだから、もしかして、航空会社の管理部と交渉すればチケットなしでも乗せてくれるかもしれないと最後の望みを抱いて、ヴァジムの痛快な運転で市から30キロ離れた空港に向かいました。
 もちろんだめに決まっています。出発の2時間も前なら何とかなったかもしれませんが、出発40分を切れば搭乗しないとみなされて、キャンセル待ちの乗客を乗せることになっています。これで、15日から20日まで北極圏の夜を昼間見る計画もおじゃんです。ディーマが航空会社と交渉している間、一緒に待っていたアリョーシャに
「何か代案ないかしら」と聞いてみました。『最も辺鄙な田舎へいきたい』という今回のロシア旅行の目的もありますし。
「キーロフスキーというところがある。モティギンスキー地区だ。全く辺鄙なところで人もほとんど住んでいないくらいだ」ということです。
 結局15日は、空港から戻ると、何も予定が立たなくて、食事をするともう夕方になり、解散ということになりました。15日の搭乗はできなかったものの、帰りの20日便のチケットは有効です。次のイガルカ行きは18日(月)で、一応満席ですが、知り合いを通じて何とかなるかもしれません。18日に行き、20日に帰ってくることになりますが、2日間でも、北極圏の夜を昼間見ることはできるでしょう。運が良ければオーロラだって現れるかもしれません。
 とりあえず、16日と17日はアリョーシャの案内でキーロフスキーへ行くことにしました。

 ちなみに、15日、解散した後の夕方から深夜までの数時間の間に、私はバスに乗って2004年まで私が日本語を教えていたの大学へ行き、たまたま残っていた元同僚と少し話した後、大学の近くに住んでいる元の教え子に会い、更にエニセイの川向こうに住んでいる古くからの知り合いに会い、次にタクシーで町の中心部に戻り、現在クラスノヤルスク大学で日本語を教えている日本人女性に会うことができました。ディーマたちを当てにしないですむ行程ですと、こんなに多くのことが短時間でできる、と思ったものです。
 アンガラ川の下流モティギノ町へ
 エニセイ川はクラスノヤルスク地方をほぼ南北に北へ向かって流れていきますが、そこへ、ほほまっすぐ東から流れてきたアンガラ川が合流します。バイカル湖から出てイルクーツク州内を北方面へ流れるアンガラですが、クラスノヤルスク地方に入ったところで、東に折れ、ケジェムスキー地区(ここにバグチャンスカヤ発電所が建設中)を横切り、バグチャンスキー地区を通り抜け、モティギノ地区を横断し、エニセイスキー地区でエニセイ川に注ぎます。全長1840 キロのうちクラスノヤルスク地方を通るのは740キロほど(40%)のアンガラ川です。
アンガラ川下流(エニセイに流れ込むまでの740キロ)

 16日(土)10時30分、アリョーシャ運転のトヨタ・サーフに乗ってアンガラ『下流』のモティギノ町へ向けて出発しました。『下流』なのはあと120キロでエニセイの合流するからです。今度もアンガラ川方面です。それで、国道53号線を247キロ東に行ってカンスク市に入るまでは3日前と同じです。でも、シベリアの平原をドライブするのは私の大好きなこと。時々現れる道標に『ウヤール直進28キロ、カンスク142キロ。バライ右折2キロ』などと書いてあるのを、小さな声で読み上げるのも好きです。
 実は目的地のモティギノへ行くには、このクラスノヤルスクから東の方向のカンスクに行きそこから北へ270キロ行くというルートの他に、まず250キロほどエニセイ川に沿ってアンガラ川河口まで北上し、今度はアンガラ川に沿って東(上流)へ行くというルートもあります。なぜこのルートを取らなかったのかというと、エニセイ川を渡るフェリーの時刻表が不明(運行しているかどうかも不明)だったことと、アンガラ川に沿った道路が通行可能かどうか(そもそも道があるかどうかも)わからなかったからです。ロシアですさまじいのは道路とトイレと役所の窓口ですから。
カンスク郊外国道沿い食堂、アリョーシャ
ボルシチ、パン、(塩はテーブル常備)
 さて、カンスクに着くと、街中を食堂探し回って時間をつぶさないよう、ドライブ・インで昼食を済ませました。シベリアでは比較的大きな都市の郊外の国道沿いに、こうした(失礼ながら)不潔そうな小屋がかたまって建っていて、これがドライブ・インです。
 町の上下水道がここまで来ていないので、電話ボックスのようなトイレ小屋が少し離れたところにあり、ドアを閉めると中は真っ暗です。昼間ですと、トイレ小屋の板張りの隙間からの光で、ようやくどこに穴があるかわかります。暗がりに目が慣れるまで、においを我慢して立っています。氷でつるつるになっているトイレ小屋で、たとえ片足でも穴に落ちたらやばいです。夜ですと、板の隙間からの光もないので、ドアを少し開けておくことになります。誰かに見られる危険を冒すか、穴に落ちる危険を冒すかどちらかです。同伴者がいる時は、誰も近づかないよう番をしてもらえます。日本のハイテク(公衆)トイレに慣れている人はエキゾチックな体験ができます。
 厨房ではどうやって料理したり食器を洗ったりしているのかわかりませんが、洗面所で客が手を洗う時は、吊るしタンク式容器の上からに柄杓で水を入れてもらい、下から出して洗います。
 由緒あるシベリアの道、タセエフスキー街道
 カンスクを出ると、道は、3日前バグチャンスカヤ発電所へ行った北東への新設無舗装の産業道路とは違い、北西への由緒あるタセエフスキー街道を通ります。まず84キロ行ったところが、ジェルジンスキー地区の行政中心村ジェルジンスコエです。アンガラの左岸支流タセエヴァ川のそのまた支流ウソルカ川のほとりに、1730年、シベリアの他の土地と同様にコザック隊によって開拓された、と郷土地誌に載っています。1739年、木造の教会『ロジュデンストヴェンスキー(キリスト降誕祭)』が建てられたので、この村も『キリスト降誕祭』村と呼ばれました。19世紀末20世紀は、これもまたシベリアの多くの村々と同様、首都から多くの流刑者が送られてきました。有名な革命家で後にチェカー(KGBの前身)初代議長になったジェルジンスキーも1909年タセエヴォ村流刑地からカンスクへの逃亡の途中に寄ったと言います。それで、この村は1931年、宗教っぽい名前(キリスト降誕祭村)から革命っぽい名前(ジェルジンスコエ村)に改名しました。

 ジェルジンスコエ村からさらに42キロ北へ行ったところが、タセエフスキー地区の行政中心地タセエヴォ村です。17世紀、コザックたちがアンガラ下流地方をロシア帝国に併合しようとした頃、原住民のエヴェンキ族の指導者タセエが抵抗してウソルカ川のほとりに砦を作りました(1640年)。その後、タセエ砦はロシア帝国の東北への拡大の足がかりになった、と郷土地誌に書いてあります。シベリアでも最も古い集落のひとつで人口も9千人と、村にしては大きいです。この地区には石器時代の遺跡も多く、タセエフスキー考古学地区とも呼ばれているそうです。また、革命後の内戦時代、赤軍(パルチザン)と白軍(コルチャック軍)が熾烈に戦ったところでもあるそうです。
タセエヴォ村の店、田舎の店には何でも売っている
アンガラを渡る氷上の道の始まり

   さらに33キロ北上したところが、1642年から岩塩の産地として知られているウソルカ川畔のトロイツク村です。1650年から20年間、エニセイ流域で最も古いトゥルハンスク村(1601年建設)のトロイツキィ(三位一体)修道院領となりました。その後、国領となったのですが、トロイツク(という修道院名)岩塩産地の名前は残りました。17,18世紀はロシアで最大の塩産地でした。今でもその産業は続いています。

 ここで、カンスクからの由緒あるタセエフスキー街道は終わります。後はひたすら狭い林道をタセエヴァ川の方へと北上します。雪は深く、すれ違う車もなく、あたりは暗闇です。途中、無人となったスレドニィ(中間)村も通り過ぎました。なぜ『中間』村というのかというと、タセエフスキー街道の終点トロイツク村からタセエヴァ川までの60キロほどのウソルカ川に沿った林道の中間にあるからだそうです。
 タセエヴァ川は凍っているので簡単に向こう岸へ渡れます。シベリアでは川が凍る冬でないと、空路以外では到達できないところがたくさんあるようです。(つまり、めったに人はそこを訪れることなく、そこの住民もめったにどこへも出ないということか)。タセエヴァ川を渡るとさらに北上してアンガラ川に向かいます。
 アンガラも凍っていますが、大河ですから、どこでも渡れるという訳ではありません。だいたいアンガラの右岸(つまり北側)にある主な村々はモティギンスキー地区の行政中心地のモティギノ町(1000人)と、ケジェムスキー地区の元行政中心地のケジマ村(以前は大村だった。バグチャニ発電所建設で水没予定、高台の新ケジマ村は200人)くらいで、あとは小さな集落があるだけです。橋は1本もかかっていません。シベリアでは川を挟んで町ができるということは大都市の他はありません。
 夏ですと、対岸の集落や村をむすぶ渡し舟がアンガラ川の4箇所で運行しています。その一番下流にあるのがリブノエ村の渡し舟場です。一方、冬は氷を硬くして車が安全に通れるよう標識を立て(写真参照)、両岸の小屋には番人もいます。リブノエ村まで来れば今晩の宿泊地モティギノ町まで18キロしかありません。
 モティギノ着、シベリア風おもてなし
3度目の夕食
廊下の床を開けるとチルドの貯蔵穴倉
おばあさんの部屋にあるバケツ
 モティギノ町にはアリョーシャのお祖母さんとお母さんが住んでいます。私たちが行くことは知らせてあったので、シベリアの田舎風大歓迎を受けました。こんなふうに歓迎されるのはとても気持ちのいいことです。

 御馳走はもちろんとても美味しいですし、さらに、夏の間に準備してあった冬越し用食料が次々に出されます。瓶詰めのきゅうりやトマトのピクルス、サワー・キャベツ、シベリアの森のきのこの料理、木の実の自家製ジャムなどです。きのこや木の実はクラスノヤルスク人のディーマにも珍しいものでした。クラスノヤルスクは大都会ですから、きのこ狩りや木の実狩りをしようと思ったらかなり遠くまで行かなくてはなりません。それでも見つけられるとは限りません。でも、モティギノ人は自分の村のすぐ近くの勝手知った森で好きなだけきのこや木の実を摘めます。ディーマが感心して、きのこ料理や木の実ジャムをほめると、
「うちにはたくさんあるから持って行ってね」と言われます。どこにたくさんあるかというと、家の地下の穴倉(室ムロ)です。台所の床を開けると2メートルほど地下にチルドの貯蔵庫があり、そこに収穫されたジャガイモやにんじん、かぶ、冬中かかって食べる瓶詰め類がぎっしり保存してあります。
 ディーマにはきのこの瓶詰め数種類とナナカマドの大きなジャムの瓶、私にも、乾燥きのこを一袋と、ナナカマドの小さな(と彼らがみなした、実はかなり大きい)瓶詰めをプレゼントされました。なぜナナカマドかというと、ブルーベリーやクランベリー、グーズベリーなどのジャムなら食べたことはあるがナナカマドは初めてだと言ったからです。
 シベリア風おもてなしには、蒸し風呂もあります。蒸されて食べ(ヴォッカを)飲み、また蒸されて飲んで食べるというのがシベリアの楽しみらしいです。

 さて、夜もふけて寝る頃になり、私はお祖母さんの住居に案内されました。モティギノは田舎なので上下水道はありません。でも、お祖母さんの家には井戸水を水道のように蛇口から使えますが、トイレは外にある小屋へ行かなくてはなりません。お祖母さんですから、冬の寒い夜中にトイレに行かなくてもいいように部屋にバケツがおいてあります。ふたつきですが全く普通のバケツで、
「寒いから外に出ないでね。これにすればいいのよ」と言ってくれます。でも、私は、外套を着て懐中電灯を持って外に出ました。懐中電灯を持っていると両手が自由にならないということが不便です。今度シベリアに来る時には炭鉱で作業員がかぶっているようなヘルメット・ライトを持って来たほうが良さそうです。
 キーロフスキー村と『ゴールドラッシュ』
 17日(日)朝8時半にはアリョーシャの車でディーマと3人、モティギノ町からさらに北の奥地の針葉樹林にあるキーロフスキーへと出発しました。アリョーシャは後ろ座席で寝ています。
 18世紀頃まではシベリアの交通は水路を利用していました。つまり、ヴォルガ川からヴォルガの支流カマ川を上ってウラルへ、トボル川を下ってイルティッシュ川からオビ川へ、オビ川の支流を通じてエニセイ川へ、エニセイの支流アンガラをさかのぼってバイカル湖へ、そこからセレンガ川をさかのぼって南のモンゴルへ、さらにその先の中国へも行き着くことができました。また、バイカルから北のレナ川やその支流を通じて東進して太平洋岸(オホーツク海)に出ます。ロシア人のシベリア『拡張』もこのルートをたどり、トボル川柵からレナ川のヤクーツク柵まで50年で進出しています。アンガラ川は当時の中国貿易用通行路や東進用通路の大動脈だったのです。前述のリブノエ村やケジマ村も古くから交通の要所として栄えました。
雪原に見えてきた南エニセイスク町
南エニセイスク町の店、窓口を通して外から買う
キーロフスキー村の井戸

 しかし、18世紀後半、モスクワから東へ延びる陸路『(馬車が通れる)モスクワ・シベリア街道』が南のクラスノヤルスク柵を通ってバイカル方面へ通じるようになると、アンガラ川とその沿岸の村々は寂れていきました。ところが19世紀、アンガラ右岸の支流ウデレイ川の針葉樹林帯に金が発見されると、また活気を帯びてきたのです。
 1850年代には310の金採掘場があり、89トンの金が採掘されたとモティギノ地区地誌に書いてあります。モティギノ町からアンガラ右岸の針葉樹林の中に、採掘場をつなぐ陸路もできました。今でも、金の採掘は行われています。浚渫機(しゅんせつき、ドレッジャー、ロシア語でドラーガ)という船のような形をした機械で川底の土砂や岩石を掘りすくい、砂金を採取するそうです。前述のモティギノ地誌には、20世紀はじめに英国製浚渫機1号を買い、1906年にはすでに13機も稼動していたと書いてあります。1917年には16機が稼動、1930年代には新たに7台を建設(そのうち1台はロシア初の電動式)、30年代末にはソ連邦では有数な金の採掘地の一つでした(これも囚人労働らしい)。今も、浚渫機はあるそうですが、本格的な金の採掘は川の砂金をさらう方法ではなく、鉱山で採鉱企業が近代的な方法で行っています(ロシア経済が回復してからパルチザンスク村で『アンガラ鉱山有限会社』と言うのが採掘権を持って操業している)。そこへは部外者は近づけません。

 私たちはアンガラ畔のモティギノ町から右岸(北)の針葉樹林の中へ、昔の(砂金)採掘場をつなぐ陸路(囚人が作ったらしい)を奥へ奥へと進みました。80キロほど行ったところが、モティギノ地区の元の行政中心地で金採掘の中心地でもあった南エニセイスク町(人口は1996年で千人)、さらに30キロほど行くと、目的地のキーロフスキー村に出ます。それ以上は道があっても通行する車がなく雪に埋まっていて進めません。その先の集落は無人化しているからです。このキーロスキー村でアリョーシャが生まれ、その後、家族はモティギノ町に引っ越してきました。
 村には数件の家がまだまっすぐに立ち(つまり住人がいて手入れされている)、井戸もあり、規模の大小はあってもどんな辺鄙なところにもある戦没者記念碑が建っていました。通りに人影はありません。アリョーシャの生まれた家も確認しました。今では数家族しか住んでいないようなキーロフスキー村も、アリョーシャの生まれた頃には浚渫船による金採掘でまだにぎわっていたのでしょうか。
「ドラーガ(浚渫機)ってどんなものだろう、見たことない」と言ったので、土地勘のあるアリョーシャが浚渫船のまだ浮かんでいる採掘場、つまり川を回ってくれました。川が凍っているので操業はしていませんが、一応救命用浮き輪も甲板には置いてありました。浚渫船はいかにも旧式で古そうです。もしかして戦前からのものか、それ以前のものかもしれません。
凍った川に浮かぶ休止中の砂金採集用の浚渫機
 『アンガラ鉱山有限会社』の作ったらしい広い道(これはもう囚人が人海作戦で作ったものではない)を通って、私たちはモティギノ町へ戻りました。途中、ラズドリンスク村(『分かれ道』村、ここで北のキーロフスキーへの道と西のパルチザンスキー村に道が分かれる)を通ってみると、教会もありました。アリョーシャによると19世紀にできた村で、アンチモンの産地とか。

 モティギノ町からクラスノヤルスクへの帰途は、来た時のようにカンスクを通らずに、アンガラに沿って下流へ進み(この道が冬季間だけ通れるらしいという情報をモティギノ町で得たので)、アンガラ川がエニセイに合流するところで、フェリーでエニセイを渡り(1日数本の運行、最終便は8時と知る)、エニセイ街道を250キロほど南下してクラスノヤルスクに戻るというコースにしました。
 1990年代発行の地誌ではアンガラ川岸のモティギノ町へは陸路はないと記されています。今、冬季間だけの陸路があるようです。
 実際に通ってみると、アンガラ沿岸の冬季間だけの『超悪路』も、最近のロシア経済の好転で、モティギノ地区の地下資源(金やアンチモン、特にゴレフスキー鉱山の鉛、亜鉛など)を運搬するためにどんどん整備整備拡張工事が進んでいるのでした。私たちは、文字通り、拡張工事をしている巨大ブルドーザーの間を縫って先へ進みました。
 こちらのコースの方が昨日のタセエフ街道コースより、実際の距離も短いですし、道路拡張整備工事が完成すれば、短時間でいけます。ただ、エニセイ川を渡らなければならないので、フェリーの待ち時間が長ければ、それだけ時間がかかります。この時期、アンガラ川を始めほとんどの川は凍りますが、この部分のエニセイがまだ凍らなくて、フェリーが運行していることもあるのです。
 最終便の8時より前に、フェリー乗り場に到着しました。まだ時間があったので真っ暗で寒いフェリー乗り場近くで待っていると、若い女性が私達の車に乗せてほしいと近寄ってきました。向こう岸のレソシビリスク市へ行くのだそうです。私たちは反対のクラスノヤルスク市なので断りました。この暗い夜、寒い中、大きな荷物をもって、女性一人を川岸に立たせるのも気の毒だと思いましたが。
 やがてフェリー船が接岸し、私たちは乗り込みました。運賃を集めに来た人に、車の窓から70ルーブルほど支払いました。5分ほどでエニセイ左岸につくと、シベリアにしては状態のよいエニセイ街道を250キロほどはただひたすら走って帰宅するだけです。(日本の6倍の面積のクラスノヤルスク地方に、舗装されている道路は何本でしょう)

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