クラスノヤルスク滞在記と滞在後記
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up date 2007年2月5日  (校正:2008年6月19日、2011年11月6日、2012年4月24日、2018年9月26日、2019年11月23日、2021年3月8日、2022年5月6日)

21−(3) 冬至の頃クラスノヤルスク、アンガラ下流とイガルカ、ゼレノゴルスク(その3)
             2006年12月11日から12月25日

     Зимой на Ангаре и в Игарке (11 декабря по 25 декабря 2006 года) 

(1) (2) (3)
申し分のない日程をたてる イガルカへ出発するはずの日 やっとイガルカ市へ
ハバロフスク市からクラスノヤルスク市へ アンガラ川のモティギノ町へ 旧イガルカ
アンガラ川の奥地コーディンスク市へ 由緒あるタセエフスキー街道 イガルカ常連客
シベリアの冬道 シベリア風のおもてなし ゼレノゴルスク潜入
バグチャンスカヤ発電所町コーディンスク キーロフスキー村と『ゴールドラッシュ』 帰途のハバロフスク市
 やっとイガルカ市へ 
空港待合室。目の前でするするとはがれてきた
パネル(青色)、いつまでもぶら下がっていた

テーブルがないので膝の上に乗せて食べる機内食

google地図からイガルカ市
(点線はそりのルート)
エニセイ川本流が空港のある中州とイガルカ市の
間を流れるのが分流路イガルスカヤ

 18日(月)、この日、2時発のイガルカ行き飛行機にキャンセル待ちで搭乗する予定で、早めに飛行場に着きました。各便には必ず航空会社の専用の席がいくつかはあるはずなので、『知り合い』を通じて私の分の席は確保できたが、ディーマとアリョーシャの席は搭乗手続きが終わる40分前までは、わからないと言うことです。もし、乗れなかったら、私一人で行ってもらうしかない、と言われました。
 飛行機は出発が遅れています。イガルカの空港が吹雪いているからだそうです。よくあることです。この日、イガルカの少し北にあるノリリスク行きの飛行機便は、明日に延期になりました。イガルカ行きのほうは、1時間ほどの遅れですみました。ちなみに、ニッケル産地の工業都市ノリリスクはイガルカよりずっと重要都市ですが、空港の立地条件が悪く、定刻に離着陸できれば幸運というところです。
 イガルカ行きの便が出発40分前になり、キャンセル待ち1番(?)のディーマとアリョーシャも搭乗できました。夏に乗ったのと同じ古いAN24機の44人乗り飛行機で、タラップを3段くらい上ると機内で、荷物も自分で運びます。 テーブルがないので膝の上にお盆をおいて機内食を食べ、トイレの洗面所では水が出ません。6ヶ月前と同じです。と言うことは、古い飛行機がさらに6ヶ月分古くなっても現役で、旅客を運んでいるわけです。
 外がもう暗いうえ、曇っていたので、すばらしいシベリアの自然を空から眺めることができなかったのが、残念です。冬至の頃ですからね。
 クラスノヤルスクからエニセイ川の上空を北へ向かって1,700キロほど飛び、エニセイ川があと1,000キロでカラ海(北極海の一部)に注ぎこむというところに中州があって、そこがイガルカ空港です。空港に15時ごろ着くと、私たちは迎えのロシア製ジープに乗って、すぐに市内へ向かいました。夏に来た時はヘリコプターを待ちましたが、今エニセイは凍っているので、中洲にある空港からエニセイ右岸のイガルカ市へ車で簡単に行けます。

 今回、私は一人でホテルに泊まるようでした。ホテルに着いてみると、フロントに大勢の人が並んでいます。この日、イガルカ空港へほとんど同時に2機の飛行機が、クラスノヤルスクから到着しているのです。先着の飛行機はイガルカ市から130キロほど北西にあるヴァンコール油田行きです。これは、数年前に開発が始まり、最近は特に急ピッチで進んでいる新油田で、有限会社『ヴァンコール石油』(『ロシア石油』の子会社)が採掘権をもっているそうです。(この地に遊牧していた原住民のネネツ人にわずかの補償金を支払って、移住させ採掘しているとか)
 その飛行機にはロシア人案内人が同行する外国人グループも乗っていました。ヴァンコール油田に出張に行くのでしょうか。彼らはイガルカ空港に到着した後、すぐヘリコプターでヴァンコールへ行くはずですが、飛行機の到着が遅れたのか、天候のせいかで、イガルカに1泊するため、町で唯一のこのホテル『北極圏』に来ているのです。泊れる部屋は10部屋くらいしかないので、彼らでもう満員になり、もし、空室がないといわれても、この町に知り合いの多いアリョーシャがついていることですから、誰かのアパートに泊ればいいのです。でも、トイレや風呂場が清潔なところだといいな、と前回のことを思いだしていました。
 ホテルのカウンターで、荷物をたくさん持って着込んだ外国人やロシア人の後ろに並んでいると、受付の女性から無言でキーを渡されました。宿泊カードもまだ書いてないのに何か間違いでしょうと言うと、
「いいえ、あなたにです。今、部屋に案内しますよ」ということです。アリョーシャの知り合いが予約しておいたようです。それにしても、何も言わないのに、その予約室の女性が私だとすぐにわかるのは、私がよほど周りと違うからでしょう。

 ロシアでは一人旅だと、知らない客と相部屋になることもあるのですが、案内された部屋は一人部屋でトイレもシャワーもあり、電気ポットも食器もおいてありました。つまり、この部屋は一人用特別ルームで、値段も1泊2,044ルーブル94カペイカ(9,300円)もします(18%の消費税込み)。さらに予約料が20%かかるので、2泊の宿泊料金が4,089ルーブル88かペイカ(20,400円)と、一昔前では大都市一流ホテルのセミスイート並みの値段です。特別ルームと言っても、広いだけの部屋にベッドが1つだけあって、カラー・テレビがあって、やたら食器の数が多いと言うだけの特別ルームです。北極圏にあるので物の値段が高いことと、競争がないのでこんなに高いのでしょう。
 トイレット・ルームの浴槽に立ってシャワーを浴びるのですが、その浴槽は足洗い場くらいの深さで、おまけにそのお皿のような浴槽はぐらぐらします。立つ位置によっては傾くので、果たして配水管とうまくつながっているだろうかと思うくらいです。シャワー・カーテンもないお皿の上で浴びるので、配水管が外れているのかつながっているのかどちらにしても周り中、水だらけになりました。

 
 冷凍チールの身をサーシャが削る

 到着した日の夜はアリョーシャの知り合いの柔道整復師サーシャと奥さんのジナイーダさん(お母さんが北方少数民族ネネツ人)の家にお客に行きました。

 
冷凍チョウザメと右手にはウォッカ
 
風呂場で凍った脊髄を抜く
 
風呂場でチョウザメをさばく
 
冷凍チールをのこぎりで切る

サーシャ(白シャツ)宅で夜遅くまでデーブルを囲む

 御馳走はエニセイで取れた北方魚の刺身です。凍らせた魚(鮭の一種のチール чирなど)の身を削って食べます。ストルガノフと言う料理です。
 凍った丸ごとチョウザメも持ってきました。大きすぎて台所で捌けないので風呂場で解体します。チョウザメは水中で死んだ時は脊髄が有毒化して肉に溶け出し、刺身では食べられないそうです。だから、知らない漁師から買ってはいけません。陸上で冷凍にされたものは捌く時、ずるずると脊髄を取り去ればいいのだそうです。 チョウザメの漁獲は制限されていて許可を持った漁師が、許可された数しか漁獲できません。でも、自宅で食べるものは密漁ものです。ここで食べたことは誰にも喋ってはいけないと言われました。チョウザメについてはいつもこう言われているのに、私は皆に喋ってしまいます。が、だからと言って誰にも何事もありません。私から内緒話を聞くような人は皆そんなこと周知のことだからです。
 凍った肉を薄く削ったチョウザメはレモン汁をかけて食べ、大きめに切った肉はフライにして食べました。ヴォッカやワインも出ます。きゅうりやトマトのピクルス、サワー・キャベツ、自家製瓶詰めのスタッフドピーマン、ベリーのジャムなどロシアの田舎ではいつも振舞われるものもテーブルに並びます。
 チョウザメの頭やあらで魚スープを作ると美味しいぞ、と言う話になり、サーシャとジナイーダがエニセイの対岸のスタラヤ・イガルカ(旧イガルカ)に別荘を持っているので、明日そこへ行ってチョウザメ・スープを作ろうということになりました。できるだけ辺鄙なところへ行きたいと言う今回の私の目的もありますし。
 エニセイ下流のこの地域は、17,18世紀からロシア人コサックたちが毛皮用動物を求めて進出し、越冬用集落がいくつかできていました。エニセイ左岸のイガルカもその一つと地誌に書かれています。1929年右岸にあった越冬用仮泊地(当時無名)に今のイガルカ市ができてから、左岸のイガルカは旧イガルカ村と呼ばれています。(新村が名前を乗っ取ったことに)。エニセイ下流のこの極北地方も、スターリン時代には、バルト諸国やカルムィク、ヴォルガ沿岸などからの強制移住者たちで人口が急増しました。囚人を含めるとかなりの増加でした。ほとんど無人になっていた旧イガルカ村にもその頃、ヨーロッパ・ロシアからの強制移住者たちのコルホーズができ、人口も増え、500人くらいになったと地誌にあります。しかし、50年代後半、強制移住者達の帰郷が許されてからは人口が減り始め、65年にはそのコルホーズも閉鎖され、69年以降、住民はいません。イガルカ市民の夏場用畑地(別荘)、魚釣り用仮泊地として数軒の家が残っているようです。

 その日は夜遅くまで、その柔道整復師のサーシャとジナイーダの家で御馳走になっていました。ホテルへの帰り、空を見上げてみましたが、オーロラは見えません。気温は零下10度程度ですし、曇り空だったからです。晴れていると気温が下がり、オーロラも見えるそうです。ここは北極圏ライン(北緯66度33分)よりさらに163キロ北の、北緯67度28分ですから、気候条件さえよければ、極彩色のオーロラだって現れるでしょう。

 旧イガルカへ、エニセイをそりで渡る
朝11時半、ホテルの向こうはエニセイ、
明かりのついている窓

ホテルの窓から。13時 
今からエニセイを渡る
スノーモビールにひかれたそりでエニセイを渡る
たびたび雪にはまっていた
外はかなり白い。冬は無人の旧イガルカの家

小屋の中(フラッシュで撮る)

 次の日の朝、11時を過ぎた頃、空が白々としていました。太陽は昇らないので、暗い『北極圏の夜』が終日続くと思っていたのに意外でした。1日中、日本の真夜中のように、真っ暗かと思っていたのです。12時近くなると空はもっと白くなり、地平線近くは、朝焼けがうっすらと赤く見えるくらいでした。でも屋内は暗く、明かりのついた窓が目立ちます。終日太陽は顔を見せませんが、地平線の下近くまで来てくれるので、白夜のように薄明るくなるのです。
 ディーマたちは12時も過ぎてからやっと行動を開始してくれました

 旧イガルカ村はエニセイ川の向こう岸にあるので、川を渡らなければなりません。飛行場のある中州までは500メートルほどで、川の上の氷を固めて特別の自動車道ができていますが、対岸にある旧イガルカ村までは氷上の自動車道がありません。そりで渡ります。そりをひくのは犬ではなくロシア製スノーモビールです。1台で渡るのは危険とかで2台集めます。イガルカの街から、川越に最も適したところまでは、ジープで行きます。乗り物の手配はアリョーシャがしてくれたのですが、なかなかすぐには集まりません(ジープ1台、スノーモビール2台)。出発したのは1時ごろでした。
 エニセイ川の上をスノーモビールにひかれたそりで渡るのは、さぞ寒いことでしょう。途中、川の水が出ているところがあるかもしれません。厚さ1センチも有りそうな分厚くて長い靴下をはき、水中でも歩けそうな腿まである長靴をはき、ダウンのオーバーを2枚重ねて着、ヤギの毛を編んだと言う痒いマフラーをしめ、ふさふさ毛がわのぼうしの上からフードをかぶり、ふかふかミトンをはめて、毛布を敷いたそりに乗りました。
 川幅が2キロ半ほどしかない狭くなったところのエニセイを渡ります。柔道整復師のサーシャの乗った1台目のそりは雪にはまってエンストしていました。スノーモビールがスピードを上げると、息もできないくらいの寒さです。

 
 エニセイの氷を斧で割る
 
 ヘットライトの明かりでジャガイモ
の皮をむくディーマ。
写真はフラッシュで撮る

 2時前のわずかに明るい頃、サーシャの別荘小屋に着きました。すぐ薪で暖炉を炊き始め、途中のエニセイで拾ってきた氷の大きなかけらを斧で割って鍋に入れ、お湯を沸かします。スノーモビールで私たちを運んでくれたイガルカ市の緊急救助隊員たち(勤務中ではない)が外でタバコをすったりしている間に、ディーマとサーシャはチョウザメ・スープの準備をしています。私はといえば、外で夕焼けが淡く見える地平線をバックに旧イガルカ村の無人の家がぽつんぽつんと建っている風景を写真に撮ったり、暗い小屋の中で炭坑夫のようにヘッド・ライトをかぶってジャガイモの皮をむいているディーマを手伝ったりしていました。こんなヘッド・ライトがあれば両手が使えて便利です。
 小屋はワン・ルームで、大きな煙突の付いたかまど兼暖炉のある台所コーナーには薪の束が積み上げられ、様々な容器が並ぶ棚があり、何だかいろいろなものが上からぶら下がっています。寝室のコーナーではカーテンも下がっていますから慣れれば安眠できるでしょう。スターリン時代ですと、こんな豪華な小屋に住めるのはよほどラッキーな強制移住者だったかもしれません。

 さて、スープができると、5人はテープルに座り、ヴォッカのビンを開け、チョウザメのスープを深皿によそい、パンを切って並べ、ソーセージとチーズも広げました。その時、私の携帯がなり、日本とブラゴベーシェンスク市のバイヤーとの通訳という興ざめなことに時間がとられ、私のせっかくのチョウザメ・スープも冷めかかりました。日本からローミングされてきたイガルカ市への携帯電話が、イガルカ市の対岸の旧イガルカ村までも通じるのですから、スターリン時代とは大違いです。
 チョウザメは軟骨をかじるのが美味しいのだそうです。でも、私は、身だけスプーンで剥いで食べました。チョウザメは、見た目が似ているだけの軟骨魚網のサメとは違い、硬骨魚綱(条鰭網と肉鰭網)の中でも原始的な軟質亜網に属している現代までの生き残りだと、ウィキペディアにあります。「より系統の古い軟骨魚類との最大の違いは骨格の硬骨化であるが、軟質亜綱では硬骨化は部分的なものにとどまり、骨格の大半は軟骨で構成される」

 この小屋の横には自家発電小屋もありますが、私たちは短期間の滞在なので、明かりは天井からぶら下げたいくつかの懐中電灯で間に合わせました。外は空もすっかり暗いのですが、地平線近くにだけは夕焼けか朝焼けかの残り色がいつまでも見えます。

 6時くらいに引き上げて、男性達は別のところで、多分、ヴォッカを飲みなおしたようですが、私はホテルの一人用特別ルームに戻りました。早めに寝て、目覚ましをかけ2時間毎に起きて、外套を着、外に出てオーロラのかけらでも見えないかと空を探しました。12時ごろは雲の隙間から星空も見えていたので、もっと晴れて、オーロラが現れるかと、2時間後に外に出ました。雲が増えたのか星もみえなくなっていました。
 さらに2時間後、もしかしたら晴れたかもしれないと外に出てみようとしましたが、ホテルの玄関にはかんぬきがかかっていました。受付(夜番)の女性を起さないようそっとはずして、外に出て、見晴らしのよいところまで行って、くまなく全天を見回しましたが、星すら見えません。受付の女性が気づいてかんぬきをかけないうちにホテルに戻りました。次に出た時は粉雪がちらほら舞う天候で、オーロラはついにお預けと言うことになりました。

 イガルカ常連客(と言うことになった)

 20日(水)はもう帰りの飛行機に乗る日ですが、夕方出発ですから、朝明るくなるのを待たずに行動を始めれば、たとえば10時にホテルを出発したとしても8時間は回れるわけです。でも、アリョーシャは自分の用事で出回っていたようですし、ディーマの携帯にはなぜか通じなくて、すっかり明るくなった11時過ぎにやっと通じました。
 「1時間後に迎えに行く」と言われて、がっかりした私は、退屈そうに一人でイガルカの町を歩いていました。ちょうどいい具合に、来る時の飛行機で知り合った、アリョーシャの知り合いのユーラが歩いてきます。
「どこへ行くんだい?」と聞いてくれるものですから
「どこへも行かないの。退屈しているところよ」と言うと、お昼ご飯を一緒に食べようと誘われたので、いそいそと付いていきました。この町ではホテルのレストランと『テレプーシカ』と呼ばれているカフェがあるだけで、私たちはその『テレプーシカ』へ向かいました。名前が面白いのですぐ覚えます。
 ユーラは漁師でクラスノヤルスクとイガルカに住んでいるようです。イガルカで捕った鮭やチョウザメをクラスノヤルスクに運んでいるそうです。冬、河川運行はないので飛行機で運びます。貨物用飛行機に、彼自身も乗って運ぶのだそうです。そのときの人間用運賃は旅客機運賃より安いそうです。そんな飛行機に一度は乗ってみたいものです。
 ユーラの年収は300万円くらいだそうです。ロシアにしては悪くない額かもしれません。『テレプーシカ』で食事が終わって出てきた頃、アリョーシャ運転のジープにディーマが乗って私を迎えにホテルに向かっているのに出会いました。12時も過ぎています。

中洲の飛行場へ渡る氷上の道
『テレプーシカ』でユーラ

 今からでもできる限りイガルカ観光をしたいと思いましたが、事実見るところもなさそうです。ジープで街中を走ってみました。1929年にできた町で、スターリン時代は強制移住者や囚人たちでにぎわい(?)、80年代のペレストロイカまでは製材コンビナートが栄え、輸出港として北極航路とエニセイ河川航路の重要拠点だったのですが、材木をイガルカ港から積み出さなくなってから寂れる一方でした。イガルカ市建設時代からあった『古い町』はほとんど無人化しています。永久凍土帯に建てた建物が傾いてきたからです。『古い町』に隣接しエニセイに沿って『新しい町』ができましたが、そこの家々も今は無人です。やはり傾いたからです。今、人々が住んでいるのは、『新しい町』の隣にできている『団地』の数十軒の集合住宅です。
 市内見物と行っても、『新しい町』と『古い町』を通り、中州を一周すると、もう、どこも見るところがなくなったので、前にも行ったことのある『永久凍土博物館』へまた行ってみることにしました。『永久凍土博物館』と言えばイガルカで、世界中から見学にやってくる、と言いますが、それほど来館者が多いわけではありません。もしかしたら年間で外国人は数十人かもしれません。
 私が入っていくと、出迎えた館員がすぐ半年前の日本人だと思い出しました。館長に会ったら喜ぶだろうが、あいにく今日、彼女はもう帰ってしまったのだと言います。半年前、帰りの空港で館長と知り合ったことも、皆が知っているようです。やがて館内の説明をしてくれる館員が現れました。6ヶ月前と同じ館員でした。お互いによく覚えています。説明は6ヶ月前と同じだけど、と言われました。でも、また、聞いてもいいではありませんか。私はロシアの博物館でガイドの説明を聞くのが大好きなのです。本当は、続けて3回は聞きたいくらいです。ガイドの説明のない博物館は見物したような気がしません。ディーマは1度見物していますから、私をおいて、アリョーシャと食事に行ってしまいました。
 この冬場、この人里離れた町に旅行客なんてやってきません。ヴァンコール油田を視察に来た外国人も、博物館のような地味な名所をわざわざ日程に入れないでしょう。そんな訳か、私は丁寧に接待され、その上、
「館長から今電話がかかっています。今回、直接会えませんでしたが、電話で話したらいかがですか」と、受話器を渡されました。と言うわけで、館長に御挨拶ぐらいはできました。ちなみに、帰国後、電子メールで文通しています。
 博物館でゆっくりしていたので、ディーマが迎えに来た頃はちょうど空港へ行く時間になっていました。
 ホテルに戻って、受付に部屋の鍵を戻して「さようなら」と挨拶すると、
「今度はいつ来るの?」と愛想よく聞かれます。2回泊った位で常連客とみなしてくれるなんて。
 飛行機は18時20分発でしたが、また2時間ほど遅れて20時過ぎになったので、クラスノヤルスクについたのは24時を過ぎていました。

 セレノゴルスク潜入(と言うほど大げさではないが)

 21日(木)はクラスノヤルスク滞在の最後の日です。ヴァジムの車でゼレノゴルスクへ行く計画を前もって立てていました。6ヶ月前は、ゼレノゴルスクに住む私の元教え子のミーシャがクラスノヤルスクまで迎えに来てくれました。今回は、ヴァジムに車を出してもらいます。ヴァジムはゼレノゴルスク出身ですし、両親や妹もそこに住んでいます。家にはめったに帰らないと言いっていますが、この機会に家族に会いに行ってもいいわけです。
 閉鎖都市ゼレノゴルスク(旧クラスノヤルスク45市)へ入る道は1本だけで、そこには検問所があって、身分証明書(許可証付)を見せなければなりません。私にはもちろん許可証がありませんから、林道を通って不正潜入をします。昔はいつもこの道を通っていました。ロシア人に道案内ができるくらいです。ただ、天候によっては林道が通行できないことがあることと、林道の出口に検査員が待ち伏せしていてパスポートのチェックをすることがあることが不都合です。(この場合は公安警察ではなく交通警察官で、違反運転などを取り締まっているようですが)。潜入ルートは私の知っているだけでも3通りあります。1番近道で便利なのはプリルーカ村経由です。
 現在ロシア連邦には25市と17町村の計42個の閉鎖行政地域があるようです。人口は12万のセヴェルスク市(旧『トムスク7』市、原子力産業、核燃料製造)や、10万人のジェレズノゴルスク市(旧『クラスノヤルスク26』市、核燃料製造、人工衛星製造)から、6千人のシハニ市(旧『ヴォリスク17』市、サラトフ州、化学兵器)など、現在全市の人口を合わせると130万人くらいが住んでいます。(ロシア全人口の1%も)。大部分は冷戦期の1945年から60年ごろ作られましたが、サラトフ州ミハイロフスキー地区のように2003年に作られたものもあります。
 閉鎖行政地域はロシア全土に『群島』(ソルジェニーツィンの『収容所群島・列島』に勝手に類似させて)のように散らばっていますが、原子力関係はそのうち、ヴォルガ地区に2個(ロシア連邦核センターのあるサーロフ市も含めて)、ウラル山地に5個、トムスク州に1個、クラスノヤルスク地方に2個あります(それ以上はある)。そのうちの一つがソ連崩壊後の混乱期1992年から94年までと1996年から97年の3年間余、私が住んだゼレノゴルスク市です。

クラスノヤルスクからゼレノゴルスクまで
正規の道のりでは140キロほど
黒線はシベリア鉄道(とそれに平行の連邦道)
詳細ロシア語地図はここをクリック

 旧クラスノヤルスク45市(今のゼレノゴルスク市)は、軍事用ウラン精製工場『エレクトロ・ケミカル・プラント』のために、エニセイの右岸支流カン川の左岸に1956年に建設されました。そこはカン川の左岸支流バルガ川(延長56キロ)がカン川に流れ込む合流点で、バルガ川は18世紀から地図に載っていたそうです。バルガの『バル』というのはエニセイ語族(ケット語がその生き残り)のオオカミの意味で、『ガ』サモディーツ語族のカマシン語(死語)で水・川の意味だそうです。合流点近くにバルガ雲母産地があって20世紀初め採掘されていたが現在は閉鎖。そのウスチ・バルガ村に1956年、将来ゼレノゴルスクになる町の基礎ができました。1959年には9200人。79年には48,700人、2,001年には69,500人と人口は増加しました。それ以後は減っていて2,020年は61,600人
 閉鎖行政地域ですから、かつては自給自足できるよう、インフラ設備、つまり、発電所、暖房工場、建設工場、コルホーズ村、別荘地(個人の畑地)、墓地、市内は無料の交通機関、文化施設などが完備(と言ってもいい、他の地方小都市に比べて)され、ソ連時代は他の普通の地域では慢性的に品不足だった嗜好食品から輸入贅沢品まで、特権的に供給されていました。工場には全国から集められた『えり抜き』たちが働いていて、街中は外部の者はいないので治安も抜群によかったそうです。
 ソ連にこのような町があることは、かつてはソ連人でさえ『噂』で知る程度で、地図にはもちろん載っていませんし、住民はこの町のことは他で口外しないと言う文書にサインして、パスポートの住所欄には、たとえば、モスクワと書かれ、また、国外旅行は(秘密保持のため)できないことになっていました。町へ入るには1本の道があるだけで、途中の検問所で、この町の住民である身分証明書か、または原子力省の許可を見せます。
 町は『通行不可』の森や草原に囲まれているので、孤立していますが、住民はその閉鎖行政地域内でそれなりに生活できるわけです。それも、他の町より、閉鎖されているということで、生活水準が高く保持されていたそうです。
 クラスノヤルスク・45市でしか売られていない『ソーセージ』(つまりソーセージというぜいたく品は他市町村では一般の店頭にはなかった時期のこと)を買いに他の町の住人が潜入しようとして見つかったと言う話は、逗留中、皆からよく聞かされました。検問所を通るときは、トランクの中まで調べられたそうです。また潜入ルートの要所や街角に公安員(?)が立っていて厳重チェックをしていたそうです。
 ソ連崩壊後は、軍需から民需部門(原子力発電所用の低濃縮ウランの生産?)の拡大へと転換に成功した(?)『エレクトロ・ケミカル・プラント』工場城下町ゼレノゴルスク市は、閉鎖されている、つまり誰でもが入れず、誰でもが住民となれるわけではないという以外は他の町と変わりません。市の規模が小さいため就職先を見つけられない若者達はクラスノヤルスクへ出て行きます。『エレクトロ・ケミカル・プラント』に就職するのはかなり難しいのです。

 以前、そこに私は住んでいましたが、住民ではなかったので、検問所の出入りは自由にできませんでした。許可申請を出して、審査されるのを何週間も待って、やっと許可が出て通行できます(普通は許可が出ない)。それで、天気がいいのでちょっと遠くへドライブでもしたくなった時は、抜け道の農道や林道を通ったものでした(公然の抜け道とも言われていますが)。でも、1997年、事情があって(不必要な外国人という理由もあって、追放された形か、だが真実は不明)ゼレノゴルスクを出て、クラスノヤルスク市に住むようになってからは、そうした『危険』を冒していません。出入りの時だけでなく、街中で見つかるのもやばいです。

ヴァジムの車、後部席の二人
プリルーカ村経由、この辺は普通の村道
エレクトロ・ケミカル・プラントの
『ライトアップ』された正面(ЭХЗの文字)

 2004年ゼレノゴルスクに住む知り合いの手引きで、潜入したことがあります。目立たないように、その人に作業着を貸してもらって着ていました。街中はヘルメットをかぶりロシア製バイクの後ろに乗って一回りしただけです。『公然の抜道』とはいえ、見つかると手引きした人が一番やばいですから。
 2度目2006年は『エレクトロ・ケミカル・プラント』に勤める私の元教え子のミーシャが車で、クラスノヤルスクまで迎えに来てくれて、プリルーカ村経由の農道を通って潜入し、その子の家に一泊し、次の日、検問所を通って帰りました。町から出る車はゼレノゴルスク市ナンバーだと、調べられないことが多いのです。でも、一応、私は後ろの席に、できるだけ何食わぬ顔をして座っていました。

 今回、ヴァジムの車で、やはりプリルーカ村経由の農道を通って潜入しました。ヴァジムはゼレノゴルスク生まれで両親もそこに住んでいるような準住人ですから、いつでも通行許可証で出入りできるので、潜入ルートについては詳しくありません。私が道案内をしたくらいです。午前中にクラスノヤルスクを出発したので、太陽の光を照り返している純白の雪道を通って、お昼過ぎにゼレノゴルスクに着きました。
 ヴァジムは両親の家へ向かい、私はミーシャ宅を訪れ、ミーシャの車で市内や、昔よく訪れた懐かしい場所を回ったり、1992年初めてここへ来た時からの古い知り合いのオレーグ・ルィバック宅を訪れたりしていました。次の日は朝早い飛行機でハバロフスクに立たなければならないので、その日のうちにクラスノヤルスクへ戻らなくてはなりません。夕方、8時にはヴァジムと合流してクラスノヤルスクへの帰途に着きます。帰り、ヴァジムは後ろの席に自分の妹とその友達も乗せていました。彼女たちはついでがあるならクラスノヤルスクへ行きたいと言ったのでしょう。
 ヴァジムの車はゼレノゴルスク市ナンバーではないので、帰りも、検問所経由の正規の道はとれません。しかし、暗いので、プリルーカ村経由の農道への出方がわからないのです。私にも暗くてわかりません。何度も農道らしい道に入ってみました。でも違うようです。冬だし、夜だし、間違えて入ってしまった森の中の雪道で迷うのはあまり愉快とはいえません。と言うわけで検問所の方へ来てしまいました。もしかして出る車はナンバーも調べないかもしれません。
 しかし、検問所の出口はバーが降りていました。制服を着た女性も座っています。私たちの車が近づくと、その女性は立ち上がって、車の方へやってきます。ヴァジムはバーから少し離れたところに車を止め、ドアから少し身をのり出して、
「251番のバスはもう通り過ぎましたか」と聞きます。
「ええ、通り過ぎましたよ」と制服は答えて、バーを上げてくれました。検問所を通り過ぎるまで、私はといえば、息を殺して座っていました。もうすっかり通り過ぎてからやっと
「251番のバスがどうしたの?」とヴァジムに聞きました。意味はなく、ただ恰好をつけるためにとっさに発音しただけです。ヴァジムってすごいな(抜けているところもあるけれど)。

 クラスノヤルスク出発ハバロフスクへ(余分な3日間)

 22日(金)朝早くヴァジムとディーマに送られてクラスノヤルスクの空港に着きました。8時40分発なのに7時に到着し、搭乗手続きはもう始まっていたので、中に入りましたが、飛行機が出発したのはまたも遅れて9時20分でした。4時間ほどの飛行時間で、時差3時間のハバロフスクへは午後4時ごろ到着しました。
 知り合いのゲーナさんが迎えてくれ、彼の車でホテルに向かいました。いつも泊る2つ星の『ヴァストーク』ホテルは、町の中心から離れているので、『ツーリスト』へ向かいました。私が『ヴァストーク』に泊るのは空港から近いのでタクシー代が安くつくからですが、今回は3日もハバロフスクに逗留するので市の中心のホテルの方が便利です。設備も宿泊料もあまり変わらないでしょう。予約はしてないので、もし空室がなければ、『ヴァストーク』へ行けばいいので、予約料が不要なだけイガルカのホテルより安いでしょう。
 事実、朝食つき1泊1,250ルーブル(5,700円)とイガルカの半分近い宿泊料です。部屋はちょっと狭いのですが、シャワーとトイレ、テレビに冷蔵庫までついています。ここのシャワーはお皿(その上でシャワーを浴びる。深さ5センチの浴槽と思えばいい)すらないのですが、でもプライバシーが守れる空間にいたほうが、人の家にお客に行って泊るより気が休まります。食器の数が少ないので、各階にいる鍵番の女性に頼んで余分に貰いました。電気ポットはないのですが、これは平気です。私はロシアを旅する時はいつもロシア製携帯湯沸しを持ち歩いています。旅行中はビスケットとよく沸かした湯でお茶を飲んでいれば、お腹も壊しませんし、飢え死にもしないからです。でも、その部屋の向かいの炊事室に大きな湯沸かし器があって、沸騰したお湯がいつでも好きなだけ、各部屋備え付けのコルクのふたつき魔法瓶に汲んでこられるのでした。昔、こんな魔法瓶を使ったことがありました。なつかしいなあ、コルクのところが欠けて黒くなっているところなんかも。中国風の花模様が側面についています。古そうなコルクですが、きっちりしめておくと保温状態はかなりよかったです。

タイヤのようなそり
冷蔵庫の上には魔法瓶もある
アムール川岸公園
ウスリー川へ滑り降りる『ゲレンデ』

 ハバロフスクに3日も滞在することになってしまって、きっと退屈するに決まっています。あんなにフライトの時刻表を研究して予約したチケットなのに悔しいことです。
 12月23日(土)午前中は知り合いのゲーナさんが付き合ってくれました。午後から、仕方ないのでアムール川岸公園を歩いてみました。日本から来る時も帰る時も、ウラジオストックを通ったのは2回だけ、あとはいつもハバロフスク経由でしたから、このアムール川岸公園は20年も前からおなじみです。最近整備されて見違えるようになりました。
 近くの郷土博物館ものぞいてみました。入場料は外国人だと、数倍は高くとられます。私は期限切れでもロシア居住許可証があったので、窓口で、
「これを持っているということは、選挙権がない以外はロシア連邦国民と同じなんだからね」と言って、安い料金で入りました。出入国検査ではありませんから、有効期限まで読み取りません。表紙と写真を見るだけです。
 ガイドが2、3人の小さなグループに説明をしています。案内が始まったばかりだから、そのグループについていけばいいですよ、と受付の女性に言われました。やはり博物館はガイドの説明がないと面白くありません。ホールを半周ほどしたところで、そのグループは急ぎの用事があるからと出て行きました。ガイドは困った顔をしています。私がにっこりして、
「興味深い説明だわ、続けてね」と言うと、そのまま最後まで付き合ってくれました。とても若いガイドで、ガイドの勉強中なのかもしれません。
 この『国立極東博物館』をたぶん10回くらいは訪れているでしょう。次回訪れる時は内容が少しは変わっていてほしいなあ。
 24日(日)、ゲーナさんの娘のヴァーリャが数時間付き合ってくれました。郊外の動物園へ行って、ウスリー・トラの親子とホッキョク・グマを見て一応感動し、クラスノヤルスクの動物園の方がずっと大きいということは口にしませんでした。また、
「ウスリー川とアムール川の合流地点からウスリー川のほうへ少し下ってみたい」という私の希望もかなえてくれました。ヴァーリャさんはお母さんが歯科医(医者よりずっと収入が多く、希望者も多い)で、お父さんは車のビジネスをやっているので、ロシアでは『新中産階級』、つまり、セキュリティーと暖房付き地下ガレージのあるマンションに住み、車が2台もあるようなお金持ちです。21歳のヴァーリャさんも左ハンドルのカムリを『ゆっくり』運転しています。
 ウスリー川はすっかり凍っていました。ハバロフスク郊外のウスリー川方面のクラスノレチェンスカヤ村近くにプレイ・ランドがあり、駐車場、宿泊設備、小動物園、スケートリンク、レストランなどがそろっています。そこの目玉は、何十メートルも高さのある岸壁の上から、そりに乗って凍ったウスリーに滑り降りるゲレンデです。そりはタイヤのように丸いので急坂を滑り落ちる途中で何度回転しても平気です。よく見ると中国製でした。登るためのリフトもあります。
 コーヒーの自動販売機で熱いコーヒーを、長い長い順番をついて買って飲みながら、そりタイヤで歓声を上げて滑るハバロフスク人を見て、自分も滑ったような楽しい気持ちになりました。実際に滑るのはすごく寒そうです。それに、そのプレイ・ランドは何でも高そうで、私にはその時ルーブルの持ち合わせがあまりなかったので、パス。
 その後ヴァーリャさんと別れて、夕方は、『ツーリスト』ホテルの近くにある新築の巨大スーパーでロシア製DVDを何枚も買いました。インターネットで無料ダウンロードできたかもしれませんが、1枚200ルーブル(911円)ですし、品質はともかく1枚に映画が12本入っているのもありますし、ダウンロードする手間も要りません。比較的新しい映画ですと1枚1本です。スーパーにはATMもあって、日本のカードで簡単にルーブルが出てくるので、ルーブルの持ち合わせを少し増やしました。
 こうして、翌日25日(月)、無事ハバロフスクから新潟に戻ってきました。

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