クラスノヤルスク滞在記と滞在後記
         Welcome to my homepage

up date 2007年2月5日   (校正.追記 : 07年2月23日、2010年3月16日、2018年9月26日、2019年11月23日、2021年3月4日、2022年5月4日)

21−(1) 冬至の頃、クラスノヤルス、 アンガラ下流とイガルカ(1)
2006年12月11日から12月25日
        Зимой на Ангаре и в Игарке (11 декабря по 25 декабря 2006 года)
(1) (2) (3)
申し分のない日程をたてる イガルカへ出発するはずの日 やっとイガルカ市へ
ハバロフスク市からクラスノヤルスク市へ アンガラ川のモティギノ町へ 旧イガルカ
アンガラ川の奥地コーディンスク市へ 由緒あるタセエフスキー街道 イガルカ常連客
シベリアの冬道 シベリア風のおもてなし ゼレノゴルスク潜入(再)
バグチャンスカヤ発電所町コーディンスク キーロフスキー村と『ゴールドラッシュ』 帰途のハバロフスク市

 申し分のない日程をたてる

 夏至の頃、北極圏の昼(太陽が沈まない季節のこと)を夜見た以上は、冬至の頃、北極圏の夜を昼間見たいと思いました。(北緯66度33分より北が北極圏)
 夏場ならシベリアでも旅行シーズンです。2002年、エニセイ川を豪華クルーズ船で下り、つまり北上して、北極圏内、北緯69度24分のタイムィール自治管区(当時)のドゥジンカ市まで行ったことがあり、初めて太陽の沈まない夜を体験しました。2004年、帰国の3ヶ月前、クラスノヤルスクから飛行機でドゥジンカ市とハータンガ村(北緯71度58分)までも行ったことがあり、夏の北極圏の自然を満喫したものでした。そして、2006年夏至の頃には、クラスノヤルスクから飛行機便が比較的便利で、外国人でも許可なしで旅行でき、知り合いの知り合いがいるイガルカ市(北緯67度28分)へ行ったことがあります。その時は、帰りの飛行機のチケットが取れなくて、その知り合いと二人、真昼のように明るいだけの夜な夜な、DVDなどで暇つぶしをしながら沈まない太陽を観賞していたものでした。
 冬場のシベリアは旅行シーズンではありません。でも、太陽が全く昇らない昼間とはどんなものか、見てみたいものです。寒く暗く陰鬱な感じでしょうか。数年前の冬、まだクラスノヤルスクに滞在していた頃、旅行会社を尋ねて、
「北極圏内へ個人旅行の旅程はたたないだろうか」と聞いたことがありますが、
「こんな時期そんな所は見るものがないでしょう」と言われて、断られたことがあります。友達に話すと、
「そんなところへ行くと帰って来られなくなる」ということでした。そういうわけで、『北極圏の(1日中太陽が上らないので夜のよう、と言うことで、昼夜のではない)を昼間見る』旅行は、長い間実現できなかったのです。
 でも、ようやく実現できそうな機会がやってきました。クラスノヤルスクの知り合いのディーマさんが私の希望に沿った計画を立ててくれそうです。それで、冬至に重なるような日程で、新潟からハバロフスクへの格安2週間限定往復チケットを取ることにしました。飛行機は月曜と金曜日しか飛んでいませんし、ハバロフスクからクラスノヤルスクまでの飛行機も毎日は飛んでいません。接続のよい日程を選ぶためインターネットで各航空会社の運行表を調べて、
12月11日、ダリアビア航空会社の新潟発、ハバロフスク着(往復で5万3000円)
12日、クラスエイル航空会社のハバロフスク発、クラスノヤルスク着(6990ルーブル=3万1500円)
24日、ミンヴォッド航空会社のクラスノヤルスク発、ハバロフスク着(7549ルーブル=3万4100円)
25日、ダリアビア航空会社のハバロフスク発、新潟着
という日程を立て、国際便は日本で買い、ロシア国内便の方はハバロフスクの知人ゲーナさんに買ってもらいました。

 ディーマさんには、12日から24日までの間、
「(1)できるだけ北へ行きたい。(2)最も辺鄙な田舎へ行きたい」という希望を伝えました。彼からは、
「15日から20日までイガルカ市への往復チケット3枚を予約した。前回もイガルカへ行ったのだが、今度は友人のアリョーシャがクラスノヤルスク地方内の、特にエニセイ川沿いの地理なら詳しく、各地に知り合いも多いから、一緒に行ってもらう。今回は、だから、天候さえよければハンタイスコエ湖まで行けるかもしれない」との返事です。そこにはウスチ・ハンタイスカヤ発電所町のスネジノゴルスク(北緯68度38分)があり、ハンタイスコエ湖といえば国立公園プトラナ高原の麓です。
 ここまでは調子よく進んだのですが、すべてのチケットの購入後、ハバロフスクの知人ゲーナさんから、
「24日のクラスノヤルスクから帰りのハバロフスク便が運行中止になったので、25日の帰国便に間に合わせるには、22日便に買い直さなくてはならない」と電話で知らせてきました。つまり、帰りのハバロフスクで3日間(無駄に)過ごさなくてはならなくなったのです。

 ハバロフスク市からクラスノヤルスク市へ

 12月11日(月)、ハバロフスクでの入国はいつもながら時間がかかります。 

 ヴァーリャさんと彼女の友達

 ハバロフスクに宿泊する時は『ヴァストーク』という二つ星のホテルを、日本から電話をかけて予約しておくのですが、今回は現地の知人ゲーナさんの娘さんのヴァーリァさんが空港に迎えてくれ、自宅に泊めてくれました。
 翌日、ヴァーリャさんに送ってもらってハバロフスク空港へ行った時、帰りのクラスノヤルスクからハバロフスクへのチケットを買い直しました。9000ルーブル(4万600円)と割高で1460ルーブル(6600円)も差額を払わなくてはなりません。本当に運行は取りやめになったのでしょうか。ロシア出発前に確認のためインターネットを開けてみると、ミンヴォド航空会社のホームページにも、ハバロフスク空港の運行表にもちゃんと24日便は載っています。プリントして持って来たのを窓口の女性に
「ほらね」と見せました。窓口の女性は
「古いのが訂正されないでそのまま載っているのでしょう。運行取りやめは、ちゃんと電報で来ているのですよ。ほらね」とその電報を見せてくれました。ロシアではインターネットの情報は当てにならないのだなあ。

 この日、ハバロフスクは零下20度の気温で、ウィングもサテライトもない空港で、出発ロビーから飛行機のタラップまでバスで運ばれ、ユージノ・サハリンスクから乗っているトランジット客が先に乗るからと、ハバロフスクからの乗客は、寒いタラップの下で待たされたのでした。

クラスエイル航空522便の行き先(黒)。私が夏至の頃には訪れたところ(赤)

 ちなみに、このクラスエイル(クラスノヤルスク地元航空会社)522便というのは、ユージノ・サハリンスクからハバロフスク経由でクラスノヤルスクへ飛び、そこで乗客は1、2時間の待ち合わせで接続の各飛行機に乗り換え、モスクワ、バルナウール、エカチェリンブルク、ノヴォシビリスク、クラスノダール、オムスク、サンクト・ペテルブルク、サマーラなどと各地へ向かいます。ですから、クラスノヤルスクの空港に着くと、
「クラスエイル航空の御利用ありがとうございました。この先、各方面へ乗り継ぎのお客様は、トランジット用バスに御乗車ください。クラスノヤルスクで降りる方は空港出口行きバスに御乗車ください」とアナウンスが流れます。
 空港出口ではちゃんとディーマさんとパートナーのヴァジムさんが出迎えてくれて、彼らのオフィスへ向かいます。深夜や早朝でないところが到着する方も出迎える方も楽です。

 ディーマとヴァジムの会社のオフィス

 オフィスで、今回の滞在のプランを作ってしまいました。10日間しか滞在できないので、前回の夏のように終日オフィスのパソコンのインターネットで日本と連絡を取ったり、電話して仕事の話をしたりするというような旅人らしくない時間の過ごし方はしたくなかったからです。計画は;
 13日(水)と14日(木)はヴァジムの車でディーマと3人、アンガラ川のバグチャンスカヤ発電所を見に行く。
 15日(金)午前中、ハバロフスクから入国した時作成したエミグレーション・カードを外国人課ОВИРに持っていって、クラスノヤルスクの登録済みの住所に確かに逗留していると言う証明を貰っておく。招待ビザで入国した場合、土日を除く入国3日以内にこれが必要。(しかし15日は4日目になるが)
 15日午後の便でディーマとイガルカに飛ぶ。イガルカに知り合いが多く、土地勘もあるアリョーシャも同行。天候が良ければスネジノゴルスクへも行く。
 20日(水)午後の便でクラスノヤルスクへもどる。
 21日(木)クラスノヤルスク最後の日はゼレノゴルスク市へ(クラスノヤルスクから140km)ヴァジムの車で行く。
という申し分のない予定ができました。
 その後、私たちの共通の知り合いのコーガン氏と食事し、旧交を温め、大げさに言えば、一連のセレモニーが終わったところで、クラスノヤルスクではいつも泊めてもらっているナースチャのアパートに送ってもらいました。

 アンガラ川の奥地コーディンスク市へ

 13日(水)、バグチャンスカヤ発電所町コーディンスクへ行きました。まず、クラスノヤルスクから国道53号線を東に247kmのカンスク市(人口10万人)へ行き、そこから北東方面の炭鉱地(露天掘り)アバン町を通り、さらに北東に進路をとり、アンガラ川左岸支流のタセエヴァ川の左岸源流のビリュサ川を渡り、次は右岸上流のチュナ川を渡り、支線鉄道の終点駅カラブラ村を通り過ぎ、アンガラ川左岸のバグチャニ村の手前10キロのところを東に曲がり、アンガラ川に沿って上流に147キロ行ったところが目的地で、全行程735キロにも及びます。

ヴァジムの愛車レガシー

 ヴァジムの車スバル・レガシーで、ディーマと3人がクラスノヤルスクを出発したのはもう10時近くでした。長距離で悪路の走行なので、車の整備をしていたらしいのですが、そんなこと前日にしておけばいいのに、とも言えません。カンスクには彼らの会社の用事があったので、食事時間とあわせて2時間近く逗留しました。
 カンスクを出てアバンへ向かうと、携帯電話はもう使えなくなります。集落がまばらになるからです。たまにある集落に近づくと、携帯ディスプレーのアンテナ・マークが伸びていきます。
 ヴァジムの運転は痛快です。初めてクラスノヤルスク市内を彼の運転で走った時は、メリハリのありすぎる運転技術に驚嘆したものでした。今ではかなり落ち着いて横に座っていられます。シートベルトもしっかり締めましたし、エア・バックも開くはずです。
 カンスク市を過ぎて北へ曲がると、数百キロにわたってカンスク・アチンスク炭田地帯で、アバンも含めて各地で露天掘りをしています。アバンからさらに北へ延びる道は70キロほど行ったところでビリュサ川に出て終わります(2003年2月8日踏破済み)。バグチャンスカヤ発電所へ行くために、新しく東北に延びる広い産業道路が特別にできていて、私たちはそちらの方へ進みます。40キロほど行った2つ目の村は『ドルギィ・モスト(長い橋)』という名前です。なぜこんな名前なのか、車を止めて村人に聞きます。知らないと言われる。

バイカルから流れ出てエニセイ川に注ぐアンガラ川

「知らないわ。昔、そんな橋があったのでしょう」という答えです。アバン郡には『きゅうり』とか『デニス君たちの村』とか『プーシキン』とか、『水浸し』とか、『アレクセイ君たちの村』、『ニコライさんの村』、『イヴァン君たちの村』、『松村』、『湖村』、『温かい泉』とかの意味のロシア語の集落がたくさんあります。また、クラスノヤルスク地方の先住民のチュルク語系(エニセイ・クィルギス)、ケット系(死語となったエニセイ語族の唯一の母語話し手)などからの地名も多いのです。
 『長い橋』村をでると、もう道路は舗装してありません。30km行ったところのビリュサ川を渡る橋の前後と、さらに75km行ったところのチュナ川を渡る橋の前後だけ舗装してあります。ビリュサ川(1020キロ)もチュナ川(1203キロ)も東サヤン山脈から流れ出てずっとイルクーツク州を流れ、クラスノヤルスク地方に入ってしばらく流れたところで合流して、タセエヴォ川になり、116キロ流れてアンガラ川に注ぎます。
 チュナ川が上流のイルクーツク州を流れる時はウダ Уда川と呼ばれます。この川をシベリア幹線鉄道が渡るところにあるのがニジネウーデンスク(下流のウダの意)町です。ちなみに『上流のウダ町』はウラン・ウデの旧称です。ウダ УДАと言う名前の川は各地に数本あって、イルクーツクには2本あります。(1)タセエヴァ川の源流チューナ川の上流のウダ川(1203キロ)、(2)セレンガ川の右岸支流のウダ川(467キロ)、さらに(3)ハバロフスクや(4)アルタイにもあります。セレンガ川とバイカル湖とアンガラ川を一続きの水系とすると、ウラン・ウデのあるウダ川はその水系では上流のセレンガ川に、ニジネウーデンスクのあるウダ川はより下流と言えるアンガラに注ぎます。(Удаの力点は違うかもしれない)
 アンガラ川といえば、バイカルから流れ出るイルクーツク州の川と思われがちですが、全長1840kmのうち下流の740kmほどはクラスノヤルスク地方を流れてエニセイ川に注ぎます。エニセイに注ぐ支流の中では最も水量が多いため、この地方の原住民はエニセイのほうがアンガラの支流だとしていたくらいです。この話をクラスノヤルスク人に話すと憤慨し、イルクーツク人は納得します。
 (父親のバイカル湖がとどめるのを振り切って、娘のアンガラ川は青年エニセイ川へ向かったと言う伝説もあります。ちなみに類似の民話で、父親アルタイ山脈がとどめるのを振り切って、娘のカトゥニ川が青年ビイ川と結ばれて生まれたのがオビ川だというのもあります)
 エニセイ川から見ると、右岸へ大きな3つの支流が注ぎます。15,16世紀、ウラル山脈を越えて西からやってきたロシア人がこの辺の原住民をツングース(トゥングース)と呼んだので(今はエヴェンキと呼ぶ)、その3大支流も順に、『下流ツングースカ』、『中流ツングースカ』、『上流ツングースカ』と名づけたそうです。今では『下(ニジナヤ)ツングースカ』の名だけが残り、『中ツングースカ』は『石の下の・浅瀬の下流の(ポドカーメンナヤ)ツングースカ』に、『上ツングースカ』はバイカル地方で通用していた『アンガラ』になりました。

 シベリア道

 バグチャンスカヤ発電所は1970年代後半から作りはじめ、1988年には稼動開始、92年には完成するはずでした。しかし、ソ連崩壊の財政難の時期、工事は進まず、94年から05年までは事実上中止されていました。それが、最近のロシア好景気で2006年から再開され、今、急速に建設が進んでいます。
 シベリア奥地に大建設事業を遂行するには、まずは道路と建設従事者のための新しい町が必要です。コーディンスクは1977年、コダ川がアンガラ川に注ぐ地点にあったコダ開墾地からできました。ちなみに、コダ開墾地は1930年代のスターリン時代、強制移住者(特別開拓者と公式には言われていた)が作ったと資料にあります。
 一方、道路ももともとあった悪路を整備したり、森林を切り開いて広く新しい道を作ったりしました。シベリアでは、たとえ悪路でも大型車・高駆動車なら通れる道と、春の終わりに氷が解けると全くの沼地になってどんな車でも通行できなくなるという道があります。だから、シベリアでは夏場は空路でしかいけないところでも道が凍っている冬季は、陸路でいけるところがたくさんあります。
 条件があまりよくないところでも、砂利を引いたりして地面を硬くすれば、通年は通れる道ができます。荒い砂利のほうが硬くなるでしょうが、そんな道を乗用車が通るのは厳しいです。予備タイヤも1個では足りないかもしれません。でも、冬で氷が張り、雪が少し積もっていると、粗すぎる砂利道も平坦になりますし、砂利なしのぬかるみ道路も凍りついて、通行ができるようになります。川があっても凍っているので渡れます。

原木を積み、雪煙を立てて進むトラック

 ビリュサ川を渡る頃はすっかり暗くなっていました。舗装はしてありませんが、広い道路が森を切り開いて通っています。時々、太い丸太を山のように積んだ長いトラックとすれ違います。この奥の森林から材木を伐採して製材工場に運んでいるのでしょうか。
「今、材木は中国によく売れるんだ」とディーマが言っています。自分たちの『緑』を切ってほかに売る、と言うと悲しく聞こえますが、もちろん、林業経営路線に基づいて伐採しているのでしょう。それにしてもたくさんの原木です。石油や鉱石なら売るのもいいけれど、緑を売るのは...と思ったので、ぼそっと口に出してみました。
 こんな時期、こんなところを走っているのは、原木運搬トラックか、伐採地へ帰っていく空のトラックばかりです。200キロほどは集落さえありません。闇夜(と言ってもまだ夕方の早い時間)、発電所建設のため広げられた元林道をひたすら走ります。スピードメーターを見ると120キロ前後の快適な走りです。すると突然車がスリップしました。多分右へ急回転し、私にはコマのように4回ほど回ったと思うところでやっと止まってくれました。道の両側にそびえる木々にぶつかって止まったのかと思いましたが、道路わきの雪の深みにはまって止まったようです。すぐに、ヴァジムとディーマが降りて被害を調べました。バンパーが欠けた程度で運行には差し障りないようです。エア・バックが開かなくてよかったと3人で言い合いました。何かにぶつかったのではなく深みにはまっただけかも知れません。単調な道で眠りかけていた私達もいっぺんに目が覚めました。
 さて出発といっても、どちらへ向かえばいいでしょうか。1本道ですが、何回転かしたので、方向がわからなくなってしまったのです。適当に走って、途中休憩している原木運搬車に
「バグチャンスカヤ発電所はどっちだ?」と聞きました。私たちは逆方向に走っていました。運転手にはさぞ不思議だったでしょう。1本道をバグチャンスカヤのほうから走ってきた乗用車(というだけで珍しい)がバグチャンスカヤはどちらの方か、と聞くのですから。もっとも、空のトラックが向かう方向と反対へ行けば間違いないようにも思えますが。

黒の細線は鉄道支線。今ケジマ地区の行政中心地はケジマ町ではなくコーディンスク市、その西がバグチャン地区(行政中心地はバグチャニ町)

 このあたり、中下流アンガラ流域は森林資源の宝庫のようです。中でも面積54千平方キロ(日本の総面積は377千平方キロだから、その6分の1)のバグチャンスキー地区の80から90%は針葉樹林におおわれています(Russian Wood Tradeによる)。昔はアンガラ川の河川運行以外は車の通れる道のなかったでしょうが、今、この地区の南の端、タヨージニィ村(その名も『針葉樹林の』という意味)のカラブラ駅まで、シベリア鉄道の支線が通っています。イルクーツク州境に近いレショトィ駅(クラスノヤルスクから355キロ東)から北に伸びる延長257キロの『レショトィ=カラブラ支線』で、1日に1本、朝の9時に、クラスノヤルスクから14時間半かけて到着する列車と、夕方4時にクラスノヤルスクに向かう列車があります。時速40キロで走るような超田舎の各駅停車の列車に一度乗ってみたいものです。
 カラブラ駅のタヨージニィは材木の村ですが、近々完成のバグチャンスカヤ発電所の電力を使った巨大アルミ工場の建設が計画されています。この『針葉樹林』村も何年か後には公害都市の一つになるのでしょうか。

 バグチャンスカヤ発電所町コーディンスク

 バグチャンスカヤ発電所のあるコーディンスクは、バグチャンスキー地区にはなくて、その奥(アンガラ川の上流方面)のケジェムスキー地区にあります。タヨージニイ村を通り過ぎて50キロも行くとアンガラ川に出て、さらに140キロも川に沿っていくと、建設中の発電所があって、しばらく行くと、ようやく目的地のコーディンスク市です。コーディンスク市は今まで通り過ぎてきた木造平屋建ての(自然発生的な)村々と違い、発電所の従業員のために1977年にできた人口の町ですから、高層集合住宅が建ち並んでいます。と言っても数十軒で、人口も1万5千人ですが、奥深いシベリアの針葉樹林の中に高層建築が建ち並んでいるのはここだけですから、すぐ、到着したとわかります。

「本当に君達が来てくれたのかい!」
イルクーツクからの女性は左のベッド。
窓に近づくと激しい寒さだった
寮の同居人と朝食(発電所について教えてくれた)
建設中のバグチャンスカヤ発電所
(建設会社のパンフから)
 この日気温が零下48度、水温との差で
蒸気が立ち込めて、何も見えなかった(10時)

 町に入ると、ディーマが携帯電話をかけます。彼らの友人アレクサンドルが発電所建設のため滞在しているそうです。彼は4部屋アパートの寮に住んでいるので、ひとまずそこを目指します。着いてみると、アレクサンドルは、私達が735キロの悪路をはるばる来たことが信じられないとばかり、
「本当に君達が着てくれたのかい?」とはしゃいだ声で私にまで念を押します。
 この4部屋アパート寮の1室は共同の居間で残りの3部屋にそれぞれ2台ずつベッドがあります。住人はアレクサンドルの他、ハバロフスクから来た男性の技師とイルクーツクから来た女性の会計士で、彼らは1週間ほどの出張で滞在しています。形はアパートですが、実際は台所つき長期滞在ホテル(つまり会社の寮)のようです。
 もう9時も過ぎていましたから、アレクサンドルは私達の泊るところを考えてくれました。発電所建設が再開されたばかりで人口が増え続けるコーディンスクではホテルは常に満員です。それで、私はイルクーツクから来た女性と同室のベッドで寝て、ヴァジムとディーマはハバロフスクからの技師の部屋から空のベッドを運んでアレクサンドルの部屋で寝ることにしました。寮なので会社の許可も要りますし、有料です。私たち4人はまた車に乗って、管理部の窓口を回り、手続きを済ませてから、町でまだ2軒しかない食料品店から飲み物(つまり、ウォッカ)や食べ物(つまり、肴)を買い、戻った時には、同居者はもう寝ていました。私はヴォッカは飲みませんし夜食も食べませんから、そっとイルクーツクから来た女性の部屋に入り、寝ている彼女を起さないよう懐中電灯の明かりで着替えていると、
「まあ、明かりをつけてください」と言う親切な声がイルクーツクからの女性のベッドから聞こえました。彼女を起こしたのかもしれません。ベッドとベッド脇の小さなテーブルしかない部屋は、窓に近づくと厳しい寒さです。寝具はさすが寒冷地仕様です。
 翌日、アレクサンドルは早く起きて7時の迎えの車で出勤したようです。ヴァジムとディーマがまだ寝ている間、台所で、同居人の男女と朝食を食べながら話しました。バグチャンスキー地区(行政中心村はバグチャニ村)ではなく、さらに上流で奥地のケジェムスキー地区にあるのに、なぜバグチャンスカヤ発電所というのか、彼らも知らないそうです。
 この発電所ダムが完成すると、膨大な面積の森林がダム湖に沈みます。泥炭沼が増え、魚類が減ります。川岸にあったケジマ村(元、ケジマ地区の行政中心地、今はコーディンスクが中心)も沈むので、高台に新ケジマ村を作って住民は移住しています。ケジム地区全体の人口は2万5千人足らずですが、そのうち半数が移住しなければなりません。つまり新設のコーディンスク市以外の古い村々はアンガラ川のほとりかその支流にできているので、水没します。石器時代や青銅器時代の未調査の遺跡も沈むそうです。実際にはどのくらい水没するか、完成してみないと正確にはわからないそうです。1994年から2005年まで建設が中止していたのは環境保護団体の反対もあったからだと言われているくらいです。
 「日本でもこのダム建設に反対してるの?」と聞かれました。そういえば、バイカルの近くに石油パイプラインをひく計画があったのに、世界中の環境保護団体が反対してルートを変えさせたという話を聞いたこともあります。また、アムール川水系のダム建設の話題は、ロシア極東貿易に関係している人なら知っているでしょう。でも、日本ではこのロシア第5番目の規模になるバグチャンスカヤ発電所建設についてはほとんど知られていないのではないでしょうか。ということも言えなかったので、
「でも、それは自分達の国のことではありませんし、反対はできないと思います」と答えておきました。今(2021年)にして思えば、何も知らずに外国からやってきた自分を弁護するような応えだったと思います。
 ちなみに、ロシア最大規模の水力発電所は、エニセイ上流のサヤノ・シューシンスカヤ発電所(最大能力6.40ギガワット)、2番目はクラスノヤルスカヤ発電所(6.00)、3番目も4番目も5番目もアンガラ川のブラーツカヤ(4.50)とウスチ・イリムスカヤ(4.32)とバグチャンスカヤで、6、7、9、10番目がヴォルガ川にあり、8,11番目が極東アムール川水系です(2007年現在)。

 ハバロフスクからの技師もイルクーツクからの会計士も感じのいい人たちで、私と一緒の朝食のあと仕事に出て行きました。その後、ディーマやヴァジムたちも起きてきて、このアパート寮を引き払い、鍵も管理部に返しました。
 9時近く、私たち3人はレガシーに乗り込み、アレクサンドルの事務所に寄り、彼を乗せて、15キロ離れた発電所建設現場へ見物に出かけました。これまでの私の人生でこれほど寒かったことはありません。部分的にできているダム湖から水蒸気がもうもうと上がっていて実は何も見えませんでした。
「今立っているところも、完成後は水没するんだ」とアレクサンドルが教えてくれました。それはともかく、立っていられない位寒いのです。零下48度だそうです。すぐ車に戻り『貼るカイロ』を出して外套の裏側にぺたぺた張りました。ヴァジムがそれは何だと聞くので、
「使い捨て携帯用暖房よ、余分のがあるからあげようか」といいましたが、不要とのことです。零下48度ではそのカイロも気休めにすぎません。

12時50分、ちょうど南中の頃の太陽
 
 コーデンスク市、午前9時
町の建設日を記した凱旋門つき広場(10時半)

 10時過ぎには、勤務中のアレクサンドルを仕事場に戻し、昨夜は暗くて見えなかったコーディンスク市を一回りしました。といっても大通りが1本あるだけのコンパクトな町です。
 建設再開で、人口が急に増え、アパートの値段は大都市並みの高さだとのことです。町の建設年を記した凱旋門つき広場を作るのは、今のロシアで都市プランの流行らしいです。こんな新しい町なのにロシア正教の教会もちゃんと遠くに見えました。(古い集落には必ずあったが、スターリン時代に破壊。貧しい村だと再建ができない)
 11時にはコーディンスクを後にし、昨夜来た道をクラスノヤルスクに戻りました。雲ひとつなく快晴で、風もないらしく、途中アンガラ辺の村を通ると、煙突からの煙がまっすぐ上に上がっているのが見えました。森林を貫通してどこまでも道が続いています。真昼ごろには低い太陽が木々の幹の間から差し込んでいました。この辺は北緯58度なので、太陽がこれ以上は昇らないのです。原木運搬車を追い越したりすれ違ったりしながらカンスクへと南下していきました。道から外れて横転してしまったトラックもいます。山積みした丸太が重いからでしょうか。彼らは必ず何台かグループで運行して、お互いに助け合っているようです。


<ホーム> <ページのはじめ↑><next 次のページ→>