クラスノヤルスク滞在記と滞在後記
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up date  2002年12月5日(校正06年5月31日、08年6月24日、12年12月14日)
エニセイ川クルーズ (上)
       2002年6月22日から7月4日

Круиз по Енисею на теплоходе "Антоне Чехове" (с 22 июня по4 июля 2002 года)


 シベリア(と極東)には、長さが4000キロ以上の大河が4つあります。東から順にアムール川、レナ川、エニセイ川、オビ川で、極東のアムール川を除いて、どの川も南から流れてきて北極海に注ぎます。シベリアには無数の川がありますが、多くがそれらの大河の支流か支支流と言えます。
ロシアの大河

 その大河の中で、エニセイ川は、上流を除いて(サヤン山脈を流れ出てからは)ほぼ、直線的に真南から真北に流れています。流れも、シベリアの川にしては早く、水量もロシアで一番多いです。『アントン・チェホフ』号でのエニセイ川クルーズでは、行きは川を下るので平均時速30キロ、帰りはさかのぼるので17キロ程でした。

 面白くてためになるクルーズでした。いつも『貧乏』旅行ばかりしているので、たまに、こんな『豪華』な旅も悪くないものです。といっても、12日間のクルーズで費用が1000ドル弱ですから、日本流に言えは『豪華』と言う程のこともありません。それに、何でも、見て聞いて体験した私には、1000ドルの値うちは十分ありました。

 『アントン・チェホフ』号は、エニセイ川の氷が完全に解ける6月末から初雪の降る前の8月末までの、5回のクルーズしか遂行しません。春や秋は船のメンテナンスをして、冬は乗務員を一旦解雇にして川岸の安全なところに繋いで、冬越しをするのだそうです。
 春の終わりに雪が解けると、ナビゲーション船が出て、川の水深を計り、航行コースの目印に白いブイを数キロ毎においていきます。

 クラスノヤルスク地方を南北に流れるエニセイ川の沿岸には、クラスノヤルスク市を除けば大きな都市はほとんどありません(上流のアバカン市16万人やクィジール市11万人もあるが)。橋などという贅沢なものも、クラスノヤルスク市をすぎるともうかかっていません。川岸の町々や村々では向こう岸へ行くには、フェリー船(つまり、渡し船)に乗ります。冬は、凍った川の上を車で走れます。トラックでも、もちろん、大丈夫です。特別に氷を固くしてあるらしく、春の終わりになっても氷が解けません。自然に解けるのを待っていては、河川運行の再開が遅れますし、さらに、南の上流から雪解け水が流れてくると、そこでせき止められて洪水になってしまします。それで、そのような堅くなってしまった氷の固まりは、爆破します。5月はじめ、材木集散地のエニセイ川右岸のストレルカ町へ行った時、そんな爆破の音がしていました。
 ちなみに、秋になって、川が凍り始めると、それらのブイは、回収して、陸にあげておきます。『エニセイ川・河川運行』会社も楽ではありません。
エニセイ川を北に下るアントン・チェホフ号,エニセイスクを過ぎたころ
 私の参加した6月22日発のこの年第1回目のクルーズは、乗客定員約200名のところ約50人、そのうち外国人は、私を入れて4人(片言ロシア語のオーストラリア人、それとロシア語を全く話さないイギリス人のおばあさんとアメリカ人男性)だけでしたが、乗務員は規格通り約60人、添乗員が6人(子供連れできている添乗員もいるので8人)乗っていました。添乗員の役割は、12日の船旅の間、乗客が退屈しないよう楽しませることなので、ピアニスト、ヴァイオリニスト、ロシアン・アコーデオニスト(バヤンという鍵盤なしでボタンのみの手風琴)、体操の指導をしたりゲームの司会をしたりするレクレーション係、エニセイ川や沿岸の村々や少数民族などについて説明する郷土史家でした。他にエニセイ・クルーズを企画している旅行会社の添乗員、エニセイ川・河川運行会社派遣の写真家、お土産屋テナントの店員もいました。
川岸の村
 50人余の乗客はほとんど、自分の勤める会社の費用で、家族連れできていました。このような形で、儲かっている会社は社員にボーナスを支払うようです。私のように自費で参加している乗客は、ほんの数人でした。確かに、一人1000ドルでエニセイ川クルーズをするより、400ドルくらいでトルコか、エジプト、キプロス島へ行った方がロシア人には楽しいかもしれません。ロシアのニュー・リッチは、地中海方面に出かけて体を焼いて、どっさり買い物をして来ます。国内旅行は地味ですから。

 豪華クルーズ船『アントン・チェホフ』号は、25年程前にオーストリアで建造され、しばらくはスイスの旅行会社がチャーターして、ヨーロッパから旅行客を集めていたそうです。今年、久しぶりに『エニセイ川・河川運行』会社経営に戻りましたが、船主は『ノリリスク・ニッケル鉱山』会社というソ連時代からの大会社です。クルーズを企画している旅行会社は『デューラ・ツール』です。そうした諸会社と関係している諸会社・諸企業が、自分達の社員にクルーズと言うボーナスを出しているようです。

 シベリアには、『アントン・チェホフ』号のような、長さが115メートル、広さが16.4メートル、4階建てで、1階客室の下には船員達の部屋、さらに、バー、喫茶店、ホール、映画室、プール、サウナなどがあり、吃水2.8メートルで、2700馬力の川船は他にありません。ヨーロッパ・ロシアのヴォルガ川や、サンクト・ペテルブルク、ラドガ湖方面クルーズには『レフ・トルストイ』号や『ショロホフ』号、『セルゲイ・キーロフ』号などと言う豪華クルーズ船が運航しているらしいです。
 河川用の船と海洋用の船は構造が違います。これら、豪華客船は、河川用です。河川では波もないので全く揺れません。水上を滑るホテルのようです。
  
 クラスノヤルスクを6月22日に出発して、毎日一ケ所には上陸しました。23日は、18世紀に毛皮の大集散地で、近くに金もとれたと言うエニセイスク市で、古い教会や鐘楼を見物しました。24日は古い河川港のヴォロゴヴォ村などです。
 途中上陸したエニセイ川沿いにあるシベリアの村は、救いようもないくらい寂れていて、水上を滑るように移動する4階建ての真っ白いホテルとは、余りにも大きな差がありました。材木や漁業コルホーズで成り立っていた村々が、ソ連崩壊後、村経済も破産したようです。こんな緯度の高いところでそれなりの水準の生活をするには、インフラの整備と維持に多額の予算が必要なのでしょう。ロシア人が来るまでのシベリアのツンドラ地帯(とその南の針葉樹林地帯)は、原住民が放牧や漁業の自給自足の自然の生活をしていました。
 17、18世紀のコサック隊によるシベリア『開拓時代』の集落でも、先住民とあまり変わらない生活をしていました。19世紀でも、シベリア街道沿いの農産物などの集散地や鉱業の基地以外は、昔と変わらない状態だったでしょう。
 それが、スターリン時代に、矯正収容所を前線にして、ロシア人が住む近代的な町が次々とできていったそうです。でも『社会主義』経済が破たんして、それらシベリアの町も、自分たちの産業を失い、町全体が失業状態で、利益の上がる産業のあるほかの町(例えば、アルミニウム関連産業アーチンスク市やクラスノヤルスク市など)からの『補助金』で生活しているそうです。もちろん、地下資源は、シベリアの各地に豊富に埋蔵され、今のところは眠らせてあります。その地下資源採掘が採算の合うような時期が来ると、今は、寂れてしまった村落が基地になるので、『補助金』で存在させておくと言う目的もあるのだそうです。

 出発して4日目には、一番大きな支流ニジナヤ・トゥングースカ川(1300キロ)がエニセイ川に合流する地点にあるトゥルハンスク村に上陸しました。クラスノヤルスクから1100キロ北にあるトゥルハンスクは、クラスノヤルスク地方で最も古い町です。クラスノヤルスクは1628年、その10年先にエニセイスクができていますが、トゥルハンスクは1607年と、それよりさらに古い町です。シベリアの古い集落は、ヨーロッパ・ロシアから、毛皮になる動物を追って、根拠地を、東へ東へと作っていったところからできた町なので、比較的、北方にあります。高価な毛皮になる動物(イタチ類)は、ちょうどこれくらいの緯度にいます。当時、広いツンドラ地帯には先住民のエヴェンキ人やケト人、ヌガンサン人などがところどころで放牧していた程度なので、ロシア人進出はあまり抵抗にあいませんでした。シベリア南部の比較的住みやすいところには、比較的強固な先住民のチュルク語系やモンゴル語系の国がありましたから、そちらの方にロシア人が進出して要塞を作っていったのは、すこし後の18世紀になります。
高い河岸段丘上にあるトゥルハンスク村から
エニセイを見下ろす
船着場から見るトゥルハンスク村(パリーナと)
 添乗員の郷土史家によると、エニセイ川左岸のトゥルハン川の河口に1607年できたトゥルハンスク村ですが、その後、洪水で流れたので、右岸にあった修道院を中心に家々が集まって出来たのが、今のトゥルハンスクだそうです。シベリアで1番古いと言う教会(の跡)や、修道院(の跡に再建途中のもの)がありました。

 エニセイ河を北へ下るにつれて集落は、ぽつんぽつんと稀になります。これら集落は、ほとんどスターリン時代の強制移住者達や、流刑者達の村だそうです。集落が出来るには、立地条件と言うのもあります。交通の要路エニセイ川に近く、しかも、水面から10メートル以上は高くなくてはなりません。そんな河岸段丘に村があり、船着き場があり、船着き場から村への急な階段があり、少し離れたところに、円柱形の大きな石油タンクがいくつか見えます。エニセイ河のような、流域面積の広い長い川は、その厖大な面積にあるほとんどの水分という水分は、最後にはすべてエニセイ川に流れ込むわけですから、下流に行く程、大量の水分が集まってきます。毎年、春には南の上流や、無数の支流から雪解け水が流れてきて、水かさがどっと増します。ですから、堤防を作るような難しいことはしないで、10メートル程度の水位の上昇にも安全なところに集落を作るのです。でも、たまに17メートルというような洪水があると、家が流れてしまい、別のところに新たに村を作ったりするそうです。

 エニセイ川クルーズですが、4時間のトゥルハンスク市見学を2時間で切り上げて、一番大きな支流ニージナヤ・トゥングースカ川クルーズを、予定外でやってくれました。トゥルハンスクはクラスノヤルスク地方で最も古い町(もちろんロシア人側からものを見て)と言っても、ほかのシベリアの町々同様寂れていて、舗装していない埃だらけの道と、蚊が喜ぶ雑草だらけの公園と、1938年創立の寂れた『政治的流刑者』博物館と、まだ復興途中の小さな修道院しかない町で、乗客たちは2時間で十分だと言っていました。私はそこの郵便局から、クラスノヤルスクへ「無事だよ」の電報を打ちました。電報なんて、懐かしいです。
 ニージナヤ・トゥングースカ川の川岸は、絵のように美しく、私は甲板を右舷へ行ったり左舷へ行ったりして写真をとっていました。この川をさらに奥へ奥へとさかのぼると、エヴェンキア自治管区の行政中心地トゥーラ町があります。(エヴェンキア自治管区はロシア連邦を構成する主体の一つだったが、2007年クラスノヤルスク地方のエヴェンキア区となった)
延長2989キロのニージナヤ・トゥングース川
 ニージナヤ・トゥングースカというのはエニセイ川の下流に注ぐ『下の』トゥングースカという意味で、上流に注ぐ『上の』トゥングースカ川はアンガラ川と呼ばれています。『中の』トゥングースカ川はポトカーメンナヤ(石の)・トゥングースカと呼ばれ、この川の上流に、20世紀はじめの有名な『トゥングースカの大隕石』の落下地点があります。隕石が落ちる様子の目撃者も多く、地球の反対側の地震計も振れたと言うのに、隕石そのものは発見されていません。20世紀の謎といわれています。

 トゥルハンスク市を過ぎて、しばらく行くと、右岸支流のクレイカ川がエニセイ川に合流する地点にクレイカ村があります。ここは革命前、スターリンが流刑にされていたところで、スターリン時代にはスターリンが住んでいた小屋をガラスで囲んだスターリン記念館ができ、巨大なスターリン像や、スターリン『神殿』が建造され、エニセイを通る人々は、必ずその神殿のお参りをしていたそうです。しかし、スターリン批判後、像はエニセイ川に捨てられ、神殿は焼かれたそうです。
『せっかく作られた建築物を、政治的に否定されたからといって、破壊してしまうのは、間違っているのではないか、歴史的な意味から、残しておくべきではないか』というテーマで、船内でシンポジウムが開かれました。ぜひ出席して、自分の意見は言えないまでも、ロシア人達の意見を聞こうと思っていたのですが、その時間、眠っていてしまい、聞きぞこねました。というのは、クルーズの2日目ぐらいから、夜は不寝番をするようになり、昼食の後、眠くて寝てしまうようになったからです。
出発して間もない頃の
まだ緯度が低い地点

 何の番かと言うと、もちろん、太陽の番です。はたして太陽が本当に一晩中沈まないのか、この目で確かめていたのです。
 クレイカ村が有名なのは、ちょうどこの地点が北緯66度33分で、これより北が北極圏になります。それで、ここを通過する時は、船は汽笛を鳴らし、ちょうど赤道通過祭のような『北極圏突入祭』をします。乗客は、エニセイ河の神様や人魚姫などに仮装して愉快に騒ぎ、船長から振舞われたシャンパン酒を飲んで祝い明かします。芸達者なロシア人達はみんな一芸を披露します。私にも、何か日本的なことをやってほしいと言われました。私はどこへ行っても芸達者ではないのでお断りしていましたが。

 クルーズは夏場だけなので、レストランのウェイトレスなどは、みなアルバイトです。豪華客船『アントン・チェホフ』号ともなると、無料どころか稼ぎながらクルーズができると言うので、アルバイト希望者が殺到します。しかし『豪華』客船ですから、外国人も多かろうと言うので外国語のできる女子学生が採用されます。7人のウェイトレスのうち一人は、私の学生のポリーナ(3年生)でした。私は、もちろん、ポリーナの受け持ちのテーブルに座り、彼女になんでも気軽に頼むことができました。彼女が仕事の暇な時、一緒に甲板を散歩したりしました。他の乗客と親しくなるまでのはじめの一日二日は、彼女のおかげで、『ひとりぼっち感』が少なくてすみました。私が『アントン・チェホフ』号の予約をすることは早くから、学生達に言っていましたし、ポリーナもニコニコして、アルバイトに採用されたと報告してくれました。第一回航海より一足先に仕事をはじめたポリーナは、船の様子を前もって私に教えてくれていました。

北極圏突入祭
 『北極圏突入祭』のこともあらかじめ知っていたポリーナは、ちゃんと準備をしていました。以前ポリーナ達のクラスに、日本の歌を教えたことがあります。『小学生用、みんなの歌』という歌集の中の『村祭り』というのも教えました。それをポリーナが覚えていて、アコーディオン伴奏で二人で歌おうと言うことになりました。楽譜がある訳でもないので、添乗員のアコーディオニストと、何度もそらで歌って練習して、本番に備えました。おかげで、その感じのいい愉快なアコーディオニストのジェーニャとすっかり仲良しになりました。
 クレイカ村通過は、夕方で、『突入祭』もそのころあったのですが、その日の夜も、もちろん不寝番をしました。ちょうど夏至の頃、北緯56度のクラスノヤルスク市から、北緯66度33分の北極圏を通過して、70度のドゥジンカ市まで、2000キロを、まっすぐ北へ北へと進んだので、『普通の暗い夜』、『白夜』、『昼間のように明るい夜』となっていく様子がよく分かります。『昼間のように明るい夜』は太陽が全く地平線に沈まないので、一晩中昼のように明るいのです。ロシア語ではその夜のことを『北極圏の昼』といいます。毎夜(ロシア語風に毎『昼』と言ったらいいのか)の不寝番のおかげで、地軸が23.67度傾いているということをこの目で確かめることが出来ました。

 クラスノヤルスク(モスクワも同じ緯度)では、夜の11時ごろまで明るいですが、1時、2時は真っ暗になります(サマータイムなので、太陽が最も低くなるのは、夜中の2時なのです)が、北西の空だけは真っ黒ではなく、一晩中赤黒い夕焼けが残っています。でも、白夜とは言いません。北緯60度くらいから白夜が見られます。
夜中の3時
 白夜と言うのは、太陽が完全に沈んでも、沈み方が浅いので、一晩中、うす明るいことですが、北緯66度33分の北極圏を過ぎると、太陽は、全く沈まなくて、夜中の1時になっても2時になっても、さんさんと輝いています。夕方9時から後は、日本での午後3時という感じで朝まで続きます。つまり、太陽は沈まず、多少高度を変えながら天空を1日一周しているのです。
 クレイカ村から後は、夜は明るくて眠れず、昼間は明るくても眠れるようになりました。

 
       
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