と滞在後記
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up date | 2006年9月20日 | (校正・追記:2007年2月23日、2008年6月19日、2011年6月26日、2018年10月10日、2019年11月22日、2020年12月26日、2022年4月22日) |
20-(1) 夏至の頃クラスノヤルスク(1) 2006年6月15日から7月4日 |
Летом в Красноярском крае, в северной Ж/Д (с 15 июня по 4 июля 2006)
日本(新潟)⇔ウラジオストック⇔イルクーツク ⇔クラスノヤルスクのコース |
ロシア19日間 | ||||
今回のロシア19日間は、前回2回(2005年)のようにモスクワにも寄るという計画はたてませんでした。モスクワでの用事が不確定でしたし、クラスノヤルスクに頼もしい受け入れ先ができたので、そこを中心に、エヴェンキ(エヴェンキア)自治管区庁所在地(*)のトゥーラ町を訪れ、エヴェンキの自然に親しみ、現地の人たちと知り合いになるという計画と、クラスノヤルスクの知り合いディーマ(これが私の受け入れ先)の車でトゥヴァを回るという2つのわくわくするようなツアーが計画されていたのです(*)エヴェンキ(エヴェンキア)自治管区という自治体は、2007年1月にクラスノヤルスク地方に統合され、同地方の一部となった。ソ連崩壊(1991年)以前、エヴェンキ自治管区は自治管区としてクラスノヤルスク地方に属していたが、1991年から2007年まではロシア連邦構成主体だったわけだ。今はクラスノヤルスク地方エヴェンキア区という。2007年頃連邦内の行政区の再平成があった。さらに、『外国人用ロシア居住許可証』を延長するという目的もありました。2001年に発行され2006年2月まで有効だった私の『ロシア居住許可証』でしたが、昨年2005年の冬に行った時、延長手続きが最後までできなかったので、今回は新たに『外国人用ロシア臨時居住許可証』とか言うのを申請することになります。 これはディーマたちの知り合いで、その筋にルートがあるというエレーナ・ザハーロヴナを通じて、工作を行っていました。今年のはじめの時点では、私がロシアに行かなくても、もう申請書は出来上がっているから、パスポートを郵便で送ってもらえばできる、とか言う話でしたが、春の時点では、いや、やはり本人が出頭しないとだめ、出頭さえすれば1週間でできるとなり、その少し後では『1週間でできる』から10日と訂正がありました。前回、クラスノヤルスクで取り組んだ経験から、このルート(つまりコネ)で手続きするのはあまり当てにならない、と気が付いていましたが、他にあてもなかったこと、『だめもと』という余裕、プロセスそのものに対する好奇心から、今回も続けて申請する予定でした。 クラスノヤルスクまでの行き方ですが、初めはいつものように新潟からハバロフスク経由でクラスノヤルスクに行くコースを考えていました。ハバロフスクに知り合いがいますから、ロシア国内便のチケットを、その人に頼もうと思っていたのです。 念のため、インターネットで調べた旅行会社にいろいろ問い合わせてみると、新潟からウラジオストック経由イルクーツクという便が日本にいながら乗り換えチケットが入手でき、ウラジオストックでは行きも帰りもその日のうちに乗り換え飛行機が出て、往復8万8千円というのがあったので、すぐそれに決めました。その旅行代理店(ミーラス・ツアーと言う)はビザ代行(有料だが、他の代理店よりちょっと安い)もやっていると言います。 その会社の人の言うには、ビザは申請して2週間後発給されるのだそうです。今からでは、6月15日出発に間に合うように確実にビザを手に入れるのは難しそうだ、とも言います。これ以上早い時期にビザ発給希望なら特急料金(7千円から2万5千円)がかかるそうです。 ビザの申請なんて自分でできるではありませんか。新潟領事館に電話すると、「業務ビザは1週間です」と言われました。この新潟領事館にはいろいろ助けられています。(ロシア居住許可証の申請に必要なパスポートのロシア語訳の認証も、東京の大使館は郵便では受け付けないと言うことなのに、新潟は受け付けてくれた。)同じロシア外務省機関でありながら、東京と新潟では、なぜか、サービスの受け付け方が違うというのも腑に落ちないことですが。(ロシア大使館ホームページにはビザ発給は3週間後なら特急料金なしでできると書いてある、1週間後なら7000円だそうだ)。 新潟は、きっかり1週間後に、手数料無料のビザを郵便で発送してくれました。 仕事を19日間も休むのですが、電話とパソコンがあれば会社に居なくても仕事はできることにして、その間の書類などの作り方は会社の代理の人によく説明して出かけたのです。確かに電話が通じて、パソコン(行き先にたぶんあるでしょう)が開けるところにいれば、どこにいても仕事の大部分はできます。 出発前、新潟の空港にいるときから電話はかかってきました。 |
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ウラジオストク乗り継ぎ、陰気な国内線空港 | ||||
新潟発15時55分で、ウラジオストク着19時30分、乗り換えのイルクーツク行きが22時00分発でしたから、ウラジオストク空港で荷物の受け取りと入国に(ロシアのことですから、やたら)時間がかかると、間に合わないかもしれないと心配していました。でも、新潟の搭乗窓口では、座席はすぐ出られるドアの近くで荷物も早めに出てくるように配慮してもらい、ウラジオストク航空の(日本人)職員からも大丈夫と言われて、乗り込みました。 今回の旅行では交通機関は時刻表きっかりで、出入国検査でも問題なしの冒険なし優良ツアーでした。 時刻表どおり19時30分(日本時間17時30分)にウラジオストクに着き、ドアの近くに座っていたのですぐ飛行機から出て、パスポート審査も、もちろん新潟領事館の作ってくれたビザで問題なく通過し、ターンテーブルに私の荷物はすぐ出てきてくれて、税関検査員もろくにレントゲン画面も見ずにOK、隣の国内便発着の空港建物にはすぐ着いて、結局、長々とそこでイルクーツク行きを待っていました。明るく清潔な国際便発着の地方空港(使用料がいる)は、たまにロシアで見かけますが、国内便発着の地方空港はどこも陰気で(当時)、この先の旅の快適さを約束しないと言っているようです。どの窓口で搭乗手続きをして、どこが搭乗口なのかもさっぱりわかりません。親切そうな人に聞いてやっとわかります。ここの乗客は皆、なぜか険しい顔をしていたので親切そうな人はまれでした。 ロシアの飛行機では冬は外套や帽子、ブーツを脱いで調べられますが、夏でも靴を脱いでレントゲンを通します。私は、時々「あんたはいいよ」と言われたりします。いつもだと助かるのですが。 |
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イルクーツク着、さらに列車でクラスノヤルスクへ向かう。 | ||||
4時間10分後イルクーツク空港に着きました。ここからさらにクラスノヤルスクへ列車で向かわなくてはなりません。でもイルクーツクには知り合いのニキータがいて、空港に迎えてくれ、列車のチケットを買っておいてくれ、駅まで送ってくれます。イルクーツクに少し滞在して、ニキータのオリホン島へ行ってもいいくらいです。でも、ロシア到着3日以内に私の招待者のいるクラスノヤルスクの外国人登録課でロシア滞在手続きをしなければならないことになっていますから、先を急ぎました。2時間後に発車する列車(ウラジオストック19時発、5日後12じ11分にノヴォクズネツク着の208号列車.列車時刻は常にモスクワ時間))に乗せてもらい、イルクーツクを出発しました(モスクワ時間21時13分)。ニキータの友達で卓球をやっていて、その後、バイカル湖のオリホン島のフジール村村長になったセルゲイにも会えました。息子さんが二人いるのに、奥さんがバイカル湖で溺死した人でした。16年前はルオーの絵にあるキリストのような容貌でしたが、今でも(ひげなし)パレスチナ人のようです。その後、彼はフジール村を離れましたが、また戻ってきて今はニキータの民宿で働いているそうです。
(後記:2017年、セルゲイは息子ディーマ(母親はセルゲイの何人目かの妻)とニキータの次男チーホンと4人で日本に来て、私が案内した。2018年2月私がオリホン島へ行き、すでに彼がオーナーとなっているペンションを見せてもらった。) |
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シベリアのバラ | ||||
ジャルキをいっぱい摘んで花束を作ります。でもすぐ萎れてしまうのです。それを水につけるとすぐにしゃんとするので『水着(この花のロシア語の正式名はクパリニッツァ、水着の意)』と言う名前がついているのでしょうか。以前、クラスノヤルスクに住んでいたころ、この花が一斉に野原に咲きだすと、ようやく肌寒い春が終わって待望の夏が来たと思ったものです。友達の家に遊びに行ったりして、冷蔵庫の上などにコップに活けてあるジャルキの花束を見ると「あらっ、ジャルキね」と歓声を上げます。 充電料が200円 ニキータに送ってもらってイルクーツクから出発したのは夜中の2時13分、乗客が少ないので、すぐシーツがもらえて、寝て起きたのが7時ぐらい。景色をしばらく眺めてから、クラスノヤルスクのディーマに電話をかけて、到着時間と列車番号を知らせておきました。新潟で使ったせいか、携帯の電池が少なくなっています。去年の12月、日本からモスクワに飛んだ時、肝心のモスクワの空港で電池が切れてしまい、連絡ができなくなったことがあります。(他人のを借してもらってかけた)。列車の洗面所にはコンセントがありますが、携帯をおきっぱなしにはできません。車掌が「携帯の充電を(車掌室の電源で)50ルーブル(200円)でやります」と言います。こんなサービスはもちろんサービス・メニューには書いてありません。車掌の副収入でしょう。
夕方8時近くなってクラスノヤルスクに入り、エニセイ川の鉄橋も渡った頃、もう一度念のためにディーマに電話してみました。何号車に乗っているかも知らせておかなくてはなりません。ロシアの列車は長いので、車両番号を知らないと、目当て人になかなか会えません。 |
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ロシア到着3日目、今から滞在予定がたてられる | ||||
6月17日(クラスノヤルスク到着2日目)朝、約束の時間にディーマに迎えに来てもらって彼のオフィスに行き、ほとんど終日そこにいました。旅行者としての日程をこなしていきたいものです。でも、私のクラスノヤルスク滞在というのは、前回も、日本との電話連絡とパソコン通信、それに『ロシア居住許可証』手続き用電話待ちで1日が過ぎるといった調子だったのですが、今回もこうやって、どこへも行かずにクラスノヤルスク2日目(ロシア入国3日目)が終わりそうでした。 クラスノヤルスクを拠点にトゥーラ町へ行ったり、トゥヴァ共和国に行ったりする旅行計画でしたが、単独ではなく、トゥーラへはディーマの会社の社員のアレクセイの案内で行き、トゥヴァはディーマ(またはヴァジム)の車で行く予定なので、彼らの日程と合わせなくてはなりません。私の到着前にちゃんとお膳立てが整っていると言うわけには行かないのです。 それでも、この日の夕方にはミーシャという青年が来てトゥヴァ旅行の説明をしてくれました。6月27日と28日にトゥヴァのチャダン市で年に1度の国際民俗音楽祭が開かれるので、それに間に合うよう出発し、帰りにはサヤン山脈のエルガキ山に登山すると言う魅力的なものです。エルガキはクラスノヤルスクから南へ550キロほど、チャダンはそこから300キロほど離れているでしょう。途中の道々の自然を思い描くと、私の(南)シベリアへの郷愁感がきりきりとうずきます(当時)。 ミーシャたちはジャーナリストも含めて何人かのグループで2台の車で行きます。私たちは私たちの車で、彼らと一緒に行きます。私は「あなた達のお母さんよりもっと年をとっているくらい」だから、「エルガキ登山は難しそうだわ」と言ってみました。(平均的日本女性は平均的ロシア女性より数年から10年は実年齢より若いとか言う説もあります)
「旅費を出すから行かないか」と言ってくれましたが、クラスノヤルスクでバイトをしなければならないからだめなのだそうです。私を一人で出すわけには行かないからと、ディーマが同行することになりました。2年前までクラスノヤルスクにいて旅して回っていた時はいつも一人旅でしたが、でもだれか同行してくれるならその方がいいので黙って感謝のまなざしだけを捧げていました。 しかし、会社の経営者が何日も留守にしてもいいのでしょうか。その後のトゥヴァ旅行もあるし。それとも、ディーマの会社が一応、招聘人なので、私一人を放してはいけないと思っているのでしょうか。彼らが日本に来た時は、必ず誰かが付き添っていましたから、私がロシアに行った時も同様にしなければならないと思っているのでしょうか。 その日の夕方、ディーマと奥さんのリューダが私のロシア用携帯を買ってくれました。一番安い4500円のでよかったのに、12,000円のを買ってくれ、リューダの名前で新規契約もしてくれました。日本から持って来た携帯は通話がすべて日本経由なので高くつくのです。 17日と18日は土日で休日なので『ロシア居住許可証』の手続きはできません。 |
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ロシア到着4日目 マナ川のほとりでバーベキュー | ||||
会社にはインターネットにつながっているパソコンは社長室の机に1台あるだけです。私がその会社にいる時はいつもその机の前に座っていました。日本からの連絡も多かったからです。パソコンをするためにクラスノヤルスクに来たみたいでした。その部屋に入ってくる社員や来客たちが、社長室の机に座ってパソコンを開けている私を、当たり前のことのように見てくれるのもロシアらしいです。 「ディーマはどこ?」と聞かれるので、 「今ちょっと出たところ、すぐ戻ってくるよ」などと、相手に合わせます。 やっと3時過ぎ、ディーマの会社の在庫管理のジェーニャ夫妻や常務のミーシャ夫妻などがそれぞれの車(皆スバルだ。彼ら、スバルの愛用者)で出発しました。途中、ヴァジムの車が車検切れで警察に停められたので、目的地のマン川畔についたのは5時過ぎでした。 4組の夫婦(みんな30歳前後)と一人ぼっちの私の9人が川岸でバーベキューをして、飲んで食べて帰るという、どちらかと言うと(期待がいっぱいな旅行者には)つまらないプログラムでした。クラスノヤルスクからの近場のマナ川の畔なんて私はいろいろな人と何度も来ていますから。でも、つまらなそうにしていると、皆に気を使わせることになるし、4組の夫婦と共通の話題もないし、雨は降ってくるし、ごみも落ちている川岸は絶景とはいえないし、でも、楽しそうに写真を撮りまくっていました。 マナ川は川くだりのグループが多く、筏やゴムボートで流れていきます。この川くだりほど退屈なレジャーはないと私は思うのですが、気のあった仲間とヴォッカを飲んで景色を見ながら歌でも歌っていると気持ちがいいのかもしれません。川岸から声をかけられて、大声で答えているうちに流れ過ぎるのもいいのでしょう。 |
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『ロシア居住許可証』と『入国証明裏付け』 | ||||
19日(ロシア入国5日目)は月曜日で、やっと『書類』に『取り組む』ことができました。『取り組む』と言うのは、つまり、エレーナ・ザハーロヴナの事務所に行って書類を貰います。去年12月の時点でできていた書類と、その後私が日本から郵送したもの、それに申請書の用紙を「あ、コピーをプリントしてあげるわ」とか言われて、プリントしてもらったことでした。いったい彼女はどういう役割を果たしているのでしょうか。書類の保管係でしょうか。彼女を通してどんな有利なことがあるのでしょう。
午後から、外国人登録課に私の入国証明(ウラジオストックから入国する時に作成)に裏づけ(クラスノヤルスクの登録済みの住所に確かに逗留している)を貰いに出かけました。招待ビザで入国した場合、入国3日以内(土日を除く)にこれが必要です(内務省認定のホテルに宿泊した場合はホテルでやってくれます)。 しかし、その日、外国人登録課の受付は午前中だけ、しかも、次の日は受け付けていない(隔日に受付日がある)と、入り口の紙に書いてあります。法定の期限までに手続きができないどころか、さらに2日間もクラスノヤルスクに釘付けです。 外国人登録課の受付時間を前もって調べておくことは難しくもないのに。それに、エレーナ・ザハーロヴナからの連絡電話待ちがまたもやいつまで続くのか。それで、会社に帰ると、ヴァジム(私の書類担当はディーマ社長でなくヴァジム副社長らしい)に、こちらから彼女に電話をかけてほしいと強く頼んだのです。 「向こうからかけるといっているのに、こちらからはかけられない」などと奥ゆかしいこと(無責任なこと)を言っています。 「でも、かけてみてください」と畳み込みました。 「さっきかけて、彼女から、こちらからかけると言われたから、またかけるわけにはいかない」と言います。 「それでも、かけてみてください。何度かけたっていいではありませんか、いったい彼女にいくら(手数料・コネ代)を払ったのですか」 この辺から、彼女に頼んでも進展はない、彼女はいったい何をしてくれているのか、前回の時も電話待ちで終わったではないか、彼女が必要といったものを用意すれば本当に発給されるのか、必要だと言うものが毎回違うではないか、彼女に言われて至急にたくさんの書類を準備したが、それらはいつ提出するのか、いつかかってくるかわからない電話をここで帰国まで待たなければならないのか、また、入国証明の裏づけに関しては、なぜ、前もって、外国人登録課の受付時間を調べておかなかったのか、毎日事務所で電話を待ったりパソコンをやったりするためにクラスノヤルスクに来たのではない、と不満をぶつけることになったのです。
でも、『ロシア居住許可証』に関して、私は暗闇にいるようなもので、相手(ザハーロヴナ)の言うがままであり、どの程度事態が進行していて、どんな障害があるのか、全く説明を聞いていません。彼らも好意で引き受けたことですが、やり方があまりにも散漫です。「こちらからの電話を待て」というのはここでは日本とは違う意味のようです。これでは解決できません。 もちろん私とヴァジムは和解しました。ディーマは自分の知り合いにも、できないかどうか当たってみるということです。(好意から取り組んでくれている彼らにきついことを言ったと、反省) 夕方ディーマとリューダの3人でオペラ劇場前の広場や、川岸を散歩しました。ここはクラスノヤルスク観光のメインなのでエニセイ川の支流やクラスノヤルスク地方を流れる川を模した彫刻(川の女神)や噴水で、最近整備されたようです。チェホフの像は古くから(2004年までの私の滞在中の以前から)ありました。 |
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クラスノヤルスク到着5日目もまた... | ||||
6月20日(ロシア到着6日目)もパソコンに向かっているという日本と変わりない時間を過ごしていました。ロシアにいても電話とパソコンで仕事ができるからという約束で19日間も日本の会社を休んでいるのです。 まだ『ロシア居住許可証』が延長できるなら面白いのに、エレーナ・ザハーロヴナが今回提案している『臨時居住許可証』など、実はあまり興味がありません。『臨時』なんて、まるで出稼ぎに来ているようです。2001年に取得した『ロシア居住許可証』を無駄にしたくはないのですが。
トゥーラ町への飛行機はどうしても空席がないようです。私に促されて、ディーマは代案がないか知り合いに電話をかけ始めました。夏至にクラスノヤルスクに来たのは北極圏の夜中の太陽を見るためだと言ってあります。それで、ディーマが見つけたのはイガルカ市にいるエゴールと言う知り合いの知り合いでした。エヴェンキ自治管区庁所在地のトゥーラ町は北緯64度でまだ北極圏内ではありませんが、イガルカ市は北緯67度28分、完全に北極圏内です。永久凍土博物館もあります。 イガルカ市へは4年前、エニセイ川クルーズでドゥジンカまで行く途中で、3時間ほど上陸しました。イガルカ見物は3時間で十分かもしれませんが、夜中の太陽見物にもう一度、今度は飛行機で行くというのは悪くない代案です。イガルカ市はクラスノヤルスク地方(2007年以来クラスノヤルスク地方は極北のかつてのタイムィール自治管区などは含まない)では最も北で、イガルカより北のドゥジンカ市やノリリスク市のあるタイムィール(旧)自治管区へ行くには、たぶん、別の『許可証』が必要です。 飛行機の空席状態を調べると、行きはあるが帰りは満席と言うことです。エゴールによるとイガルカで帰りのチケットなんて問題なく買えるということです。ディーマと私は喜んで2日後出発のチケットを買いに走りました。片道5100ルーブル(約2万2千円)です。往復割引はありません。週に5便飛んでいます。こういう地方便は一社が独占しているので運賃が高いのです。 |
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地質研究所の人と会う。エニセイ川岸散歩 | ||||
ホームスティしてくれたナースチャとはクラスノヤルスク市を散歩しました。いつもの川岸通や、最近市長の好みでたくさんできたという噴水(数日前のオペラ劇場前広場)や、整備された小公園、由来のわからない彫刻が突然現われる歩道などを見て回りました <HOMEホーム> <ページのはじめ↑> <NEXT次のページ→> |