クラスノヤルスク滞在記と滞在後記
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up date  16 October, 2006  (校正,追記 : 2010年12月27日、2019年11月23日、2021年3月2日、2022年5月1日)
20-(3)  夏至の頃クラスノヤルスク地方(下)
北極圏のイガルカ市、閉鎖都市ゼレノゴルスク、ドラッグ・レース
    2006年6月15日から7月4日(のうちの6月27日から7月4日)

     Летом в Красноярском крае, в северной Ж/Д

(上)ロシア19日間始まり
(中)北極圏の町イガルカ市へ
(下)
  新同居人
 ハンタイスカヤとクレイカ発電所
 『北方』ふうに騒いで陽気に
 『非』北方ふうに退屈する
 展示ホールとか
 イガルカ復興プロジェクト イガルカ空港から飛ぶ、エニセイ上空
 イガルカ脱出
 『居住許可証』申請手続きの準備 
 やっと申請書提出。しかし、、、
 閉鎖都市ゼレノゴルスク市へ潜入
 ドラッグ・レース
 クラスノヤルスク近郊ドライブ
 復路、またイル市からウラジオへ
 ウラジオストク
ドラッグレース

 新同居人  ウスチ・ハンタイスカヤ発電所とクレイカ発電所
  26日(月)、私たちは、この日、昼過ぎまで寝ていましたが、仕事のあるエゴールは、モーターボートを片付けて、そのまま仕事に出たのでしょうか。遅く起きた私たちは、いつも食べるカフェでいつものメニューの昼食を食べると、エゴールの事務所へ行って、彼はいなくても、秘書の人に頼んでずっとパソコンをしていました。夜の10時頃(と慣習的に言うのですが、ロシア語では暗くても明るくても10時頃は夕方というようだ) 帰ってくると、アパートがにぎやかです。
 これは、前の同居者のスネジノゴルスク町からの親子3人が去った後、また旅行者が到着したからです。
 新宿泊客は5人もいるので、ディーマの部屋の空きベッドにも一人、わたしの部屋の空きベッドにも一人入ります。このアパートは3部屋でベッドが7台ですから、ちょうど満杯になったわけです。
 彼ら男女5人は、私たちが帰って来た時は、すっかりくつろいで台所のテーブルでウォッカを開け、陽気に騒いでいます。スヴェトロゴルスク町のクレイカ発電所の職員で、クラスノヤルスクへ出張に行き、帰るところだそうです。クラスノヤルスクからスヴェトロゴルスク町まで直通便はないので、一度イガルカへ飛んで、そこから、週1回のヘリコプターで帰ります。ヘリコプター待ちのため、イガルカに宿泊しなければならないのです。
 前のスネジノゴルスクからの親子といい、今回のスヴェトロゴルスクからの出張職員と言い、みんな水力発電所関係者です。そういえば、私たちをこのアパートに泊めたエゴールは、電力会社『タイムィール・エネルギー』社のイガルカ支社のトップのようです。つまり、このアパートは『タイムィール・エネルギー』社の持ち物で、社の関係者だけが泊るアパートらしいです。

 世界でも最も北にあるというウスチ・ハンタイスカヤ水力発電所はプトラナ高原のふもとのハンタイスコエ湖をせき止めて、1963年着工、1972年後に完成しました。発電所建設のためにできたのがスネジノゴルスク(雪の町)で、そこへ行くにも、一旦イガルカに滞在して週1回のヘリコプターを待たなくてはなりません。(地図は前ページ)
 クレイカ発電所はウスチ・ハンタイスカヤより大きく、クレイカ川をせき止めて、1975年着工、2002年完成です。
 こうした発電所は、北のニッケル鉱山ノリリスクに電力を供給するために作られたのですが、イガルカにも電力の何パーセントかを供給しています。また、これら発電所と発電所町の建設や維持を、イガルカ市が受け持ってきました。
 『北方』風に騒いで陽気に

 スヴェトロゴルスクからの男女は、すっかりいい気分で、ソーセージやジャガイモ、パン、チーズなどの皿やヴォッカを注いだグラスが所狭しと並んでいるテーブルに座って、私たちに一緒にいっぱいやろうと勧めています。彼らはイガルカやスヴェトロゴルスクをはじめ、ソ連時代に計画経済の一環として(人の住めないようなところに無理やり何かの目的で)作った町で、歴史も浅く、余暇を過ごす設備も十分ないところに住んでいるので、私たちのように退屈しないで、自分流に『楽しく』生活する方法を知っているわけです。彼らの娯楽は仲間が集まって(無限に)ウォッカを飲んで騒ぐということなので、どこへ行ってもウォッカの他はコップさえあれば退屈しません。
「スヴェトロゴルスクはいいところだよ。客をもてなすからね。一度来てみたらいいよ」と口をそろえて言っています。
 私はあまり同調する気にはなりませんでした(ウォッカが飲めなかったからと言うだけではなく)。彼ら、こうやって一晩中騒いで、私たちに絡んでくるでしょう。同室で知らない人と寝るのも気が進みません。実は何よりもゴキブリがいて、トイレが狭く、浴室が不潔なこのアパートがいやになっていました。それで、そっとディーマに、このアパートを出てホテルに移りたいと訴えたのです。
静かなホテルのツインルーム

 ホテルにはツイン・ルームが二つ空いていました。クラスノヤルスクからの飛行機のダイヤからして、ヘリコプター待ちの客は今日はもう来ないから、ツイン・ルームで相部屋にならないだろうということです。1泊1600円でした。『タイムィール・エネルギー』社のアパートは800円です。
 ご機嫌の5人の気を悪くしないよう、口実を設けて静かなホテルに引っ越しました。今考えると、せっかく北方へいったのですから『北方』風に騒いで陽気に、明るい夜を過ごせばよかったです。(でも、日本を離れて12日、私もちょっと気持ちの余裕をなくしたのかもしれません。)
 『非』北方風に退屈する

 次の日27日(火)も『非』北方風に、私たちは退屈していましたから。
しなびたきゅうりとトマト

 ハータンガ村やヴァナヴァラ村へ行ったときは、学校や病院、孤児院、図書館などの見学をしていました。でも、ディーマはそんなところへ行こうとはしないでしょう。彼はDVDでも見て、帰りのチケットの29日までの時間を潰そうと、町中の店を回ってDVDを探していました。しかし、1枚もなかったのです。この町ではパソコンはまだ普及していないのでしょう。(パソコンが普及すればアル中が減るかもしれないのに。)
 食料品店で、しなびて茶色くなったきゅうりが『1キロ25ルーブル(100円)』とかいてあったので、思わず写真に撮ってしまいました。店員が
「まあ、何をするの。一人(ディーマのこと)が私の注意を引いて(買い物して)いる間にもう一人(私のこと)が写真を撮るなんて、スパイみたいだわ」と言います。
「写真を撮ったらだめなの?」と言うと、しばらくして
「あなたは、日本人でしょう」と言います。
「そうだけど、どうしてわかったの?」
「永久凍土博物館に行ったでしょう。そこの職員が、日本人が来た、と言ってたから」。
というぐあいに、小さな町ですし、話題が乏しいので噂の伝わり方が早いのです。
 展示ホール

 この日、児童美術館もあるというので、出かけました。1時間に1本のバスは出たばかりだったので、埃っぽい道を、町のでき初めのころはなかったのに建物の出す熱でできたという沼地や、骨組みだけが残っている建物の横を歩いてみました。通行人に美術館のある場所を聞いても知らないと言います。住民でも知らないような地味な美術館なのでしょう。ディーマは私と孤児院や学校、図書館見物は行きたくなくても、児童美術館なら同意しました。やっと見つけて入ってみると、修理中だと言われました。修理中でも、見学してもいいと作業着姿の館員が言ってくれ、案内もしてくれました。   
無人のアパート

 永久凍土博物館で外国人料金を払って以来、きっと、イガルカの関係者は、今度来た外国人はどんな風にロシア語を話すのだろうと、私を試しているのでしょう。
 後でわかったことですが、この作業着姿の館員と言うのは、永久凍土博物館出版社(この世界的に有名だと言う博物館は、イガルカ市の文化的代表の役割も果たしているのだと思う)からの著作も多いそうです。かれは、ウスチ・ハンタイスカヤ発電所やクレイカ発電所は如何に自然破壊をしているかということを話してくれました。ダムができたため魚も大量に死んでいます。
 イガルカ復興プロジェクト.

 その彼によると、イガルカ市は木材集散地、製材工場としての重要性だけでなく、海上、河川交通の要路としての意味もなくなっている。なぜなら、ペレストロイカ以前のように砕氷船を含む北氷洋航路は、経済的政治的原因から運行されていない。この先も以前のような規模に復活する見込みがない。キューバやアフリカ諸国、一部アラブ諸国のような以前の輸出相手国は政治体制が変わっている。材木はクラスノヤルスクから、鉄道で中国やアジア諸国に積み出されることが多く、その方が安価である。
 さらに、ウスチ・ハンタイスカヤとクレイカの両発電所と発電所町の建設や維持をイガルカ市が受け持つという状況はもうとっくに終わっている。両発電所の管理はノリリスク市に本社のある『タイムィール・エネルギー』社が行い、両発電所町はそのシステム内で発展している。イガルカから週1回のヘリコプター便があるにしても、スネジノゴルスクはノリリスク市の方へ向き、スヴェトロゴルスクは自分達の飛行場を整備中である。だから、両発電所町はイガルカの傘下にあるとはもういえない。
 だから、イガルカは交通の要所やエネルギーの拠点として発展する方向ではなく、文化と科学の町として発展できるのではないか。永久凍土研究、それと関係して凍土帯建築の研究、エコロジー,歴史遺産(北極圏鉄道跡、強制移住者集落跡、強制労働収容所跡)、考古学(石器時代遺跡がある)、未確認飛行物体(の情報がここ50年間で70以上もあるとか)研究、旅行産業などを発展させたい、のだそうです。
 児童美術館でイガルカの勉強をした後、その日はディーマと二人また、埃っぽいイガルカの町をさまよっていました。
 イガルカ脱出

 「もうこの町はうんざりだ。飛行機のチケットはないが、明日イガルカ出発を試みよう」ということになりました。あさっての29日のチケットは購入済ですから、それで、28日の飛行機のキャンセル待ちを空港に行ってするわけです。
 当初の予定では、22日から26日までイガルカ、27日から30日までトゥヴァ旅行のはずでした。もうトゥヴァ旅行はできませんが、イガルカにいるより、1日でも早くクラスノヤルスクに戻った方が、次の予定もたてられ、『外国人用ロシア居住許可証』手続きも進むかもしれません。
 28日(水)、12時ごろホテルを出て、1時間に1本のバスに乗り、フェリー乗り場へ向かいました。市内バスは、私たちの住んでいる西の第1団地から東の船着場まで市内をぐるぐる回って行くコース1つしかないようです。エゴールを当てにしていたのですが、エルマコーヴァ探検以来、彼への電話が通じません(もう、私たちに飽きて関わりたくなくなったのか)。自力で空港まで行くことにしました。
船着場に近づいてくるフェリー

 船着場で待っていると、向こう岸、と言うより空港のある中州の岸からフェリーがゆっくり近づいてきます。日に4往復しかないのではないでしょうか。それでも、一人200円のフェリーが動いてくれると、2800円の連絡ヘリコプターに乗るより安いです。イガルカからクラスノヤルスクへ行く飛行機のチケットがあれば、ヘリコプターは400円に割引されますが、私たちには、この日のチケットはありません。もし、キャンセル待ちで乗れなかったら、また、このフェリーに乗り、イガルカに戻ることになります。
 中洲の飛行場に着いたのは1時半頃でした。偶然、永久博物館館長も同じ飛行機のようでした。この館長の口添えで、私たちの29日のチケットが28日に書き換えられました。ディーマによると、彼女が、
「日本人観光客が急いでクラスノヤルスクに戻らなくてはならないから」と窓口で言ってくれたそうです。もし、空席が一つしかなければ、先に私を乗せて、次の日にディーマが乗る予定でした。クラスノヤルスクの空港にはディーマの会社のワジムが私を迎えに来ます。親切なディーマです。
 飛行機は5日前来た時と同じA24機で、スチュワーデスも同じでした。44人乗りのはずですが、乗客が30人以下なのには驚きました。博物館館長が説明するには、荷物の重さもあるからだそうです。きっと飛行機が古くて定員いっぱいは乗せられないのでしょう。それともVIPのための保留してあるのでしょうか。
 飛行機の中では博物館館長とすっかり親しくなりました。ディーマを一人置いて、博物館長の横に座ったからです。博物館長の同行者でスヴェトロゴルスクから来たという女性とも親しくなり、『北の川(クレイカのこと)は私たちを魅惑した』と言うクレイカ発電所関係の本と『驚くべきイガルカ』と言う本をプレゼントされました。やはり、スヴェトロゴルスクの住民はいい人たちです。
 『外国人用ロシア居住許可証』申請手続き準備

 29日(木)、クラスノヤルスク在。イガルカに行っていた5日間に私の『外国人用ロシア居住許可証』手続きはどのくらい進んだのでしょう。副社長のワジムが私の『外国人用ロシア居住許可証手続き』係りです。健康診断書が必要だとのことです。そんなものが今さらと思いました。必要なら、なぜ、イガルカ出発前の暇な時間にとっておかなかったのでしょうか。全く手順の悪いワジムです。
ワジム

 朝7時40分、ワジムの車で市の精神神経診療所へ行くと、入り口の前の道路にはもう何人もの順番ができていました。(日本なら診察時間が始まるまでは待合室で待ちますが。)8時に入り口が開いて、受付を済ますとすぐ診察です。わたしの精神と神経に異常がないか見てもらうわけです。(ロシアでは、毎朝、公共機関の運転手は酔っ払っていないかも含めて診てもらってから仕事を始める、と聞いたことがあります)
 医師は姓名や生年月日や出生地などを聞いた後、2,3の質問をしましたが、きっと私が日本人なので珍しがってロシア語会話力のテストでもしたのでしょう。これが精神神経科の問診でした。異常なしと言う書類をくれました。
 次に車で向かったのは『エイズ・センター』です。ここは流れ作業的に採血され、結果は1週間後に出るそうです。採血の時、看護師が『空気手洗い機』に1秒半ほど手を突っ込んでいましたが、その器機は中古日本製のようでした。
 次は、皮膚科性病科診療所です。どんな伝染病にもかかっていないと言う証明を出して貰いました。実は、エイズの結果はまだ出ていないのですが、その場で医師に追加の400円を払えば証明書を出して貰えると言うことで、ワジムが払っていました。ちなみに、ロシアは医療サービスは無料ですが、有料コースもあって、金額に見合ったサービスをしてくれます。今回、諸診療所での証明書発行は、全部有料コースで、一応ワジムが支払いました(クラスノヤルスクの私の滞在費はイガルカへの飛行機代を除いて、全額彼らが支払った)。
 最後に行ったのは麻薬中毒診療所です。入り口には警察の車も止まっています。ここで、かんたんな問診で、私が麻薬中毒ではないと言う証明を貰いました。4箇所の診療所の付き添いをしてくれたワジムは、大変でした。有料コースをとったせいか、お昼前に全部終わりました。でも、昼食後は『外国人用ロシア居住許可証』手続きの進展はなく、ディーマの事務所でパソコンで仕事をしているのも飽きたので、別の友達の家を訪問して旧交を暖めていました。
 やっと申請書提出。しかし、、、

 30日(金)。やっと『外国人用パスポートとビザ・センター』に、書類を持っていく日がきました。ワジムたちの知り合いで、その筋にルートがあるというエレーナ・ザハーロヴナから言われた書類はすべてそろっています。9時半と言われていってみると、入り口の前は中央アジアやコーカサス系の顔立ちの人でいっぱいです。中の待合室にも入れません。順番待ち表によると70人以上はいます。エレーナ・ザハーロヴナが受付(とその奥にいる係官)に話をつけておいたそうなので、順番抜かしで入れることになっています。それでも、名前を呼ばれるまで、外で待っていなければなりません。ポプラの綿毛が舞う凸凹の舗装歩道で写真でも撮りながら待っていました。
外国人用パスポートとビザ・センター入り口の前

 名前を呼ばれ、ワジムと一緒に順番抜かしをして入ったのはいいのですが、わたしの書類をつらつらと眺めた係官が、わたしの『無犯罪証明書(日本の県警発行、各国語訳あり、クラスノヤルスクの公証人役場で認証されたロシア語訳添付)』と『銀行残高証明書(ロシアで生活するに当たって最低限の生活費は持っているという証明、原文英語にクラスノヤルスク公証人役場で認証されたロシア語訳添付)』に日本政府のアポスティレ証明がないから受理できません、とあっさり言います。私たちの書類の内容をあらかじめ知っていて、それを受理できない理由もあらかじめ用意されていたかのような印象でした。と言うより 、真っ先に見つけた書類の不備を言って、ひとまずこの場は追い返すというロシア風書類審査の第一関門職員のやりかたでしょう。
ディーマの会社の入り口

 会社のオフィスに戻った私たちは、不成功だったことをディーマにすると、では、ディーマの新しい知り合いで、クラスノヤルスク到着後、外国人登録課に私の入国証明(ウラジオストックから入国する時に作成)に裏づけ(クラスノヤルスクのこれこれの住所に確かに逗留している)を貰いに出かけた時、便宜を図ってくれた内務省職員に、頼んでみようと言うことになりました。
 すぐに電話で連絡して、午後出かけました。制服をきたその知り合いの案内で、今度は『外国人用パスポートとビザ・センター』に職員用入り口から入っていきました。出迎えたのは午前の係官と同じで、今朝同様けんもほろろな対応でした。
 ディーマの推測では、エレーナ・ザハーロヴナは以前その省庁で働いていたので、申請の近道を持っていると言っているが、昔の同僚は彼女に反発している(彼女に利用されたくないと思っている)のではないか、それで、こんな対応をするのではないか、と言うことです。ワジムは、もうエレーナ・ザハーロヴナを頼らないで、自分達できっちり必要書類をそろえて申請しようと言います。私は、心の中で、いくら書類をそろえても彼らは私のことを予想以上に知っているのかもしれないから、と思っていました。

 『外国人用ロシア居住許可証』手続きは、次回私がロシアにくる時まで延期と言うことになりました。クラスノヤルスク滞在予定はもう2日しかありません
 『閉鎖都市』ゼレノゴルスク市へ潜入

 その日の夕方、急に土砂降りになり、ただでさえ状態の悪いクラスノヤルスクの道路はどろ水があふれました。この日、クラスノヤルスクから140キロ離れたゼレノゴルスク市に住むミーシャが、仕事が終わってから私を車で迎えに来てくれることになっていました。1992年から2年間と1996年から約半年住んでいた閉鎖都市ゼレノゴルスクへ、もう一度ぜひとも行ってみたいと、前から、昔の教え子のミーシャ(30歳)に頼んであったのです。ただ、閉鎖都市なので、許可証がないと入れません。通行証検査所を避けて、回り道の林道と旧コルホーズの農道を通れば入れます。しかし、この雨では林道と農道を車では通れないだろうと言うことです。
 それでも、町へ入るには、林道の手前で車を止め、4キロほどの泥んこ道を歩き通し、その先に、ミーシャのお父さんにゼレノゴルスク側から車で迎えに来てもらって、誰にも見とがれずに、彼のアパートに入ると言う方法があります。泥んこ道を歩くため、ナースチャからゴム長靴を借りました。

 クラスノヤルスクからゼレノゴルスクまでは国道53号線を通れば2時間ほどでいけますが、私たちは不法入市をするわけで、国道の途中から林道の方へ曲がり、おまけに途中の4キロほどを歩くとすれば、夕方の8時半に出発した私たちが、いつ目的地へつけるかわからないくらいでした。それにもかかわらず、潜入を決行しようと私とミーシャは車を走らせました。
 途中、林道がどの程度通行不可かを、ゼレノゴルスク側から偵察に行ってくれた彼の両親から携帯電話がかかってきました。大雨と洪水は一時的で、もう、通行可能だそうです。停電だった町も電気がつきました。でも、温水がストップしているそうです。そんなこと平気です。
 11時ごろ町に着くと、ここはイガルカではないので(地平線に太陽が沈んでしまうものだから)もう薄暗くなっていました。そのまま車で6年ぶりの町を一周してから、ミーシャの家に入りました。人口7万の町ですから、車で30分も回れば、町中見たことになります。
9階のヴェランダから見た教会とカン川

 ミーシャのアパートは9階にあったので、朝、起きてベランダから外を見ると町中が見渡されました。
 旧称『クラスノヤルスク45』、今のゼレノゴルスク市はエニセイの右岸支流のカン川(625キロ)のほとりにあります。9階のベランダからミーシャたちと懐かしいカン川の流れや、最近できたと言う立派な教会の丸屋根を眺めていました。この教会は一部寄付で、大部分の経費は市が出して建設されたそうです(つまり公費で教会が建った)。昔は『なにびとであろうとロシア正教に帰依したものはロシア人』だったのですから、宗教と政治の関係は、いまでも密接のようです。
 ミーシャの家族はとても歓迎してくれましたし、朝食の後、ゆっくり『お忍び』町見物をしてもよかったのですが、この日、7月1日(土)は2時ごろにはクラスノヤルスクに戻っていたかったので、12時ごろに町を後にしました。町を出るときは、正規の検問所を通って堂々と出ます。検問所では入る車はとめて中を調べますが、出る車はチェックしないのです。ただおおっぴらに検問所の写真など撮らないで、普通の住民のような何食わぬ顔で後部座席に座っていれば、怪しまれません。(後記:この年の12月、再度ゼレノゴルスク市に入った)
 ドラッグ・レース

 7月1日はクラスノヤルスクで年に1度の全ロシア・ドラッグ・レースが行われるそうです。車関係のディーマの会社はこのレースの出場を狙っています。前年度はチューニングした三菱ランサーで、予選レースに出場したそうです。今年は出場しないが、来年はチューニングした日産スカイラインで本レース出場を目指しているそうです。
 会場はイガルカへ行った時、離着陸したチェレムシャンカ飛行場です。6月29日に到着したときは、もう滑走路の近くにひな壇の観客席ができていました。30日と1日はチェレムシャンカを離着陸する便はないので、ドラック・レースの主催者が借り切っているようです。
 レースは朝から始まっていて、ミーシャに送ってもらって2時過ぎ会場付近に着いたときは飛行場の駐車場は車や人でいっぱいでした。B席が8000円、A席が12000円(教員の給料の半分)とロシアにしては高価な(普通のロシア人に話すと皆びっくりする位)入場料なのに、よく集まったものです。
 携帯電話をかけてワジムを呼び、迎えに来てもらって入りました。飛行場ですから入場者を厳しくチェックすることができます。ディーマの会社の社員達がみんな来ていました。私とディーマやワジムたち4人はA席です。
レースの休憩時には軽食コーナーで
スタート
チア・ガールズ

 レースは2台の車が400メートルを何秒で走り切るか、というもので、1回1回の試合はあっという間に終わります。スタートの前に何分間も車のウォーミングアップがあって、ゴールの後、次の車がスタートに来るまで、長い長い間待ちます。出場車の整備時間も長いのです。その待ち時間、観客が退屈しないよう、司会者がしゃべりまくり、大きなスクリーンに出場者のメッセージなどが映し出され、チア・ガールが飛び跳ね、お愛嬌のクラシックカー・レース、バイクの曲芸レースもあり、剣道のデモンストレーション、ストリップ・ショウまであって、12000円分は楽しめるのかもしれません。
 でも、炎天下、広い滑走路の一隅に設けられたひな壇観客席に長時間座っているのも、なかなか大変です。炎天下なのに途中で夕立になり、軽食コーナーのテントに逃げ込みました。
 A席の観客は、ビジネスマン風の男性と金髪へそ出しルック女性のカップルも含めて、みんな若くてお金に余裕がありそうで、ロシアではまだ安くはないデジタルカメラやムービーを手にしています。B席は出場車の出身地からの応援グループが多そうです。移動式トイレ(有料)が会場の横に設けてあり、長い長い列ができていました。
 本レースの出場車は10台余で、ノヴォシビリスクやウラジオストクからの車が強そうでした。特にウラジオストクからは3,4台の出場車があって、そのうちのスカイラインとRX-7の整備は日本のショップの技術者が来ていました。その日本人にディーマが会ってみないかと言うので、休憩時間に会いに行きました。出場者とそのオーナーやドライバー、整備関係者たちは特別に区切られて、テントまでもあるコーナーにいて、そこに入るにも許可が必要で、出入口には警備員が立っています。ディーマの会社はこの大会のスポンサーの一員だそうで、許可を出してもらって入りました。
 日本人の整備士さんは、私がわざわざクラスノヤルスク・ドラッグ・レースを見るために日本から来たのかと思ったようです。スカイラインには富山の会社から一人、RX-7には神奈川から二人来ていました。ちなみに、3日後の日本への飛行機でも偶然、神奈川県からの二人と一緒になり、日本側からの詳しい話を聞くこともできました。
 トーナメント戦のように2台ずつスタートしています。スタートでファールを2回して失格となったり、スタートの瞬間どこかの部品が飛んで数メートルで止まってしまったり、観客席の前を猛スピードで通り過ぎてから急に変な音がして徐行して止まってしまったりのハプニングが面白いらしく、ドライバーの腕と整備士の技術力とチューニングパーツの品質などが微妙に絡み合って勝負が決まるようです。『なんでもあり] で、ただ400メートルを早く行けばいいだけなんて、実は私にすれば退屈なレースでした。サーキットなんかの方が見ていて面白そうですが。
 この日、夕方9時も過ぎて優勝者が決まりました。400メートルを9秒台で走りきり1位になったのは、ウラジオストックのスカイラインのドライバーで、チューニングしたのは富山のショップだというグループです。この車のオーナーはウラジオストックの船舶会社で、コンテナで日本の富山へ送りチューニングしてもらい、整備士つきで日本からウラジオストック経由で、クラスノヤルスクに運んだそうです。優勝者の賞金は2万ドルと言う、かなりな金額ですが、スカイライン・グループはその10倍もお金をかけているでしょう。
 ディーマたちの会社の規模では来年出場しても優勝は難しそうです。ドラッグ・レースに地元クラスノヤルスクのグループは出場していないので自分達の会社のチューニング技術力を宣伝するため優勝しなくても出なければならないのだそうです。
 表彰式は見ずに帰りました。
 クラスノヤルスク近郊、田舎道のドライブ

 7月2日はクラスノヤルスク最後の日で、深夜の1時49分には列車でイルクーツクへ向けて出発します。トゥヴァへはいけませんでしたが、クラスノヤルスクの郊外でもドライブしたいと思いました。そこでまたディーマに頼んで車つき運転手になってもらったのです。昔、クラスノヤルスクにいた時、時間があると道という道を走ってみました。この道の先にあるのはどんな村で、さらにどこへ通じているのか、地図を助手席に乗せて、日帰りでいけるところはくまなく走り回った(『偵察』と冗談に言っていた)ものです。それで、お気に入りドライブ・コースというのがいくつかできたくらいです。そのいくつかを、もう一度たどりたかったのです。時間がありそうだったので北方面へ行くエニセイスク街道コースと決めました。

ヤナギランに止まる蝶
村の廃墟の教会の中には牛が
道端のこんなところに雑草の大麻が

 11時、ディーマは奥さんのリューダを乗せて私を迎えにきました。田舎道のドライブなら、免許取立て中の奥さんの運転練習も兼ねようというらしいです。クラスノヤルスクからエニセイスクへ向かう国道は交通量も多く交通警官も立っていますが、そこからわき道へ出て、小さな寂れた村々を回る道路は、車も少ないばかりか、舗装もない区間があります。
 こうした田舎道が好きです。道端に大麻やイラクサが自生していたり、ヤナギラン(シベリアのバラのジャルキのシーズンが過ぎるとこの花)の群生地があったりします。大麻も道端に生えています。ゴマのような香ばしい実がなるのは少し早い時期でしたが、日本へ持って帰らないようにと冗談に言ってディーマが摘んでくれました。イラクサのスープが美味しい、春先はスイバのスープも美味しいという話をリューダがしていました。でも、私たちがドライブから戻って食べに入ったのは中華レストランでした。
復路、またイルクーツクからウラジオストクへ

 クラスノヤルスクを、モスクワ時間2日の21時49分に立ち、イルクーツクへは3日の16時19分に着きました。列車はモスクワ時で示されるので、18時間半乗っているということがすぐわかりますが、クラスノヤルスク時にするには4時間をたし、イルクーツク時にするには5時間たします。列車はヨーロッパロシアのヴォルガ川岸の町サラトフから3日半かけてバイカル湖の東岸ウラン・ウデ市まで行く45号列車でした。
 イルクーツクでは知り合いのナターシャが迎えてくれ、ウラジオストク行き飛行機出発までの4時間ほどの間、彼女の家でシャワーを浴びて食事ができました。

 ウラジオストクには4日の午前8時に着きました。ロシアの国内便では到着客はターミナルビルに入らないですぐ構外に出ます。そこには鉄柵があって、飛行機が着いて乗客が出てくると開けられます。外側に出迎えの人たちが待っています。今回、一旦開けられた鉄柵が、また急に閉められました。警備員によると、機内で盗難があり、犯人は乗客の中だとスチュワーデスから電話があったので、犯人が見つかるまで開けられないのだそうです。鉄柵の前で止められた何十人もの乗客はわいわい文句を言っています。そのうち、
「自分は鞄を持ってないから盗品を隠す場所もない、ほら、見てくれ」と言って、警備員に出してもらっている人もいます。「自分だってこんな小さな鞄しか持ってない、ほら見てくれ」と言って、鞄をあけて警備員に見せて通っていく乗客もいます。
「自分は急いでいるのに」と鉄格子越しに出迎え人と話す乗客もいて、こんな光景は日本では見られないと、私は成り行きを眺めていました。しばらくして、腹を立てている様子のスチュワーデスが、
「犯人はドアの近くに座っていて、人相は…」と鉄柵ドアの前の乗客をにらみながら近づいて来ました。そのスチュワーデスの私品でも盗まれたのでしょうか。
 ウラジオストク

  犯人は女性ではないので、私は出してもらい、もうどうでもいいくらい眠かったので、空港の有料待合室で、新潟行きの飛行機が出るまで休もうと思って国際空港ターミナルビルの方へ向かいました。工事中で、待合室はないと言われたので、空港前のホテルへ行ってみました。こぎれいなヴェニス・ホテルは3時間休憩でも1泊料金で15,000円もします。空港近くの別の宿泊所らしい建物に入ってみました。一昔前のロシア的な建物で、サナトリウムとかのようです。用件を言うと7階へ行ってくれと言われます。7階では白衣の準医師がいて、3時間でも1泊でも料金は1800円だといわれました。トイレもシャワーもついているので、そこに決めました。
 ところが料金の支払いは空港窓口でしなければならないと言うのです。航空会社付属のサナトリウムなのでしょうか。疲れた足取りでまた空港に戻り、チケットも売っている窓口で宿泊料金を払い、受け取りを持って、また7階まで上りました。途中の廊下にはパイロットらしい人も大勢いたところを見ると、ここは乗務員用の設備なのでしょう。
 私の部屋からは、空港のアナウンスも聞こえたので、寝過ごすこともないだろうと、安心して仮眠しました。
 ウラジオストク発は14時50分なのに、1時間半飛んで新潟に到着したのが14時20分というのは、東へ向けて飛んでいるのに納得のいかないことです。ウラジヴォストックは東経132度、新潟は139度です。ロシアは全土に11の時間帯があり、全体を太陽時より1時間進め、夏時間でさらに1時間進めているからこうなるのです。これは当時、農業国ロシアの農民をできるだけ夕方遅くまでコルホーズで働かせるためにレーニンが決めたという人もいます。確かに朝は薄暗くても、夕方遅くまで明るい方が戸外労働には向いています。夏に日本へ来るロシア人は、なぜこんなに早く日が暮れるのかと不思議がります。
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