クラスノヤルスク滞在記と滞在後記

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up date 2006年6月2日   (校正 2011年6月2日, 2012年4月20日, 2013年5月7日, 2014年1月8日, 2016年10月8日, 2017年12月3日、2022年2月4日
シベリヤの中心クラスノヤルスク(前編)
                        2003年4月記

Центр Сибири - Красноярск (в апреле 2003 года)

前編
1.未知の町クラスノヤルスク
2.クラスノヤルスク市の始まり
3.クラスノヤルスク市の発展
4.クラスノヤルスク市の名所
後編
5.偶然のクラスノヤルスク
6.クラスノヤルスクの四季
7.クラスノヤルスクに生活していると
追記  クラスノヤルスク観光(2010年)
追記2  クラスノヤルスク観光(2011年)
追記3    クラスノヤルスク観光(2018年)
5月になってやっと日当たりのよいエニセイ河岸に
咲き出すマツユキソウ
 
クラスノヤルスク滞在中の203年に書いたもの
 1. 未知の町クラスノヤルスク
 クラスノヤルスク市についてはあまり知られていません(1990年代前半のことです)。クラスノヤルスク市は、ロシア連邦のクラスノヤルスク地方(ロシア連邦構成主体、つまり地方自治体の一つ)の地方庁所在地です。日本には都道府県が47ありますが、ロシアでは21の共和国、6つの地方、49の州、10の自治管区など89の自治体があります。(その後、併合などによって自治体数の変動があって83の連邦構成主体になった)
ロシア「中学生の地図帳」を拡大する
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 そのなかでも、クラスノヤルスク地方は、ロシアで2番目に面積が大きく日本の約6倍もあり、南はモンゴルの近くから、北は北極海まで伸びていています。ロシアで4番目に長いエニセイ川(4,100km)が、ほぼ、南から北へ向かって同地方の中を流れていきます。このエニセイ川がシベリアを東西に分けていて、左岸が西シベリア、右岸が東シベリアと言われています(クラスノヤルスク地方は西シベリアと東シベリアの両方を含むように見えますが、慣習では東シベリアです。

 モスクワから東へシベリア鉄道(と、習慣上は呼ぶが)で出発すると、4,100キロも走ってエニセイ川と交わる所に、私達のクラスノヤルスク市があります。さらに東へ東へとシベリア鉄道は伸びていき、バイカル湖の近くでイルクーツク市を通り過ぎ、アムール川畔のハバロフスク市を通り過ぎてから、南に折れてウラジオストックで終点になります(クラスノヤルスクからウラジヴォストックまで自動車道では5008キロ、シベリア鉄道では5195キロ)。

 クラスノヤルスク市の緯度は北緯56度ですから、カムチャッカ半島のまん中くらいと同じなので、寒そうに聞こえます。(それは、ロシア人から見れば亜熱帯に住んでいる日本人からすると、寒いというわけです)でも、シベリアでは、ツンドラ(凍土帯)や亜凍土帯が多い中で、北緯56度の針葉樹林帯は気候帯では『温和』となっています。クラスノヤルスク地方の全人口は約300万人ですが(*)、大部分は南の『温和帯』のシベリア鉄道沿いの町々、村々に住んでいて、北部や中部は、ニッケル鉱山のあるノリリスク市とその衛星市町村を除いて、主要航路の川岸にまばらに集落がある程度です。ですから、全体の人口密度は1平方キロ当たり1人半以下と、地球上でも最も少ない地域のひとつです。この無人で気候の厳しい広大な面積に、地下資源だけは豊富だそうで、「メンデレエフの化学周期律表にある原子はすべて、我地方にある」と、ことあるごとにクラスノヤルスク人は自慢しています。土地が広ければ、地下資源も豊富なのは、当然のことでしょう。
   (*)2022年はクラスノヤルスク地方の人口は2 846 565 人口密度は平方キロに1.2人

 2. クラスノヤルスクの始まり
 地方庁所在地のクラスノヤルスク市の人口は87万人で、東シベリアで一番人口の多い工業都市です(後記:2012年百万人突破、しかし、2021年は1 092 851で減少気味 )。
中学2年生の地図から、『地理的探検とロシア帝国の発展』

 シベリアにあるロシア人の作った町は、ヨーロッパ・ロシアから近い順にできていったと言えるので、クラスノヤルスクはトムスク市より24年遅く、イルクーツク市より26年早くて、1628年創設とされています。(西から東へ、北から南へ)。
 それより前の1619年に、クラスノヤルスクより300キロ程エニセイ川に沿って北方に、エニセイスクという毛皮をはじめとするシベリア物資の集散地で、東シベリア『征服』へのロシア人(コサック屯田兵)基地ができています。その当時、チュルク語系(遊牧民)や、モンゴル語系(遊牧民)などの、(北部のサモディーツ語系先住民と比べて)比較的強大な侯国が南部にありました。彼等からエニセイクスを『守る』ために、カーチャ川がエニセイ川に合流するところに、コザックの頭目のドゥベンスキーが木造の要塞を建てたのが、クラスノヤルスク市の始まりです。
ステパン・トゥーロフ『クラスノヤルスク柵』

 クラスノヤルスクと言う名前は「赤い崖」と言う意味です。それは、この地方のエニセイ川の河岸段丘の土壌が赤色の石灰質だからです。1699年にはこの「赤い崖」要塞村の住人は656人に増えていたと、クラスノヤルスク地誌にあります。
 1740年頃にはモスクワ街道(つまり馬車が通れる官用道路、宿場や変え馬などのインフラあり)がモスクワからウラルを越えてクラスノヤルスクまで通じて、クラスノヤルスクは急激に発展し始めました。経済的重要性は先のエニセイスク市よりまだ低かったにもかかわらず、1822年にはエニセイスク県の県庁所在地になった、とも上記の地誌に書いてあります。(モスクワ街道はエニセイスクを通っていない)
 ちなみに、ロシア帝国を東西に横切る時は、江戸時代の漂流民も、初めて公式に江戸幕府と交渉しようとしたレザノフも、『サハリン紀行』を書いたチェホフも、明治政府の初代ロシア公使の榎本武揚も皆、必ず、クラスノヤルスクを通りました。広いシベリアですが、鉄道、自動車道を含めて東西交通陸路は今でも数少なく、クラスノヤルスクを通らないとシベリア横断はできないと言えます。南北交通路の方は、もっと乏しくて、必ず途中で切れ、河川運行路か航空路に頼るほかありません(現在でも)。
 3.クラスノヤルスク市の発展

 19世紀初めからのエニセイ県(中心クラスノヤルスク市)は革命後の1925年、県を合併してノヴォシビリスク中心のシベリア地方ができ、現在のクラスノヤルスク地方はその一部でした。その後、イルクーツク中心の東シベリア地方の一部だったり、地方区分はたびたび変わりました。もとのエニセイ県のほぼ全域が「クラスノヤルスク地方」という名前になったのは1934年のことです。

20世紀はじめのクラスノヤルスク(絵葉書)
遠景の『赭土の崖』の上には小礼拝堂

 第二次世界大戦中は、ヨーロッパ・ロシアから、多くの工場が疎開してきました。それ以来、クラスノヤルスク市は工業がいっそう発展しました。でも、「シベリアはモスクワの植民地だ」とも言われているくらいで、ペレストロイカの前も後も、富は、モスクワへ流れているのだそうです。その富の行方はともかく、1950年代、1960年代は、他のソ連の地方と同様、工業地帯クラスノヤルスクは大発展しました。(つまり、疎開してきた工場を含め、無害とはいえない産業廃棄物の多い工場が増えたわけです)

 当時世界一の発電力を誇るクラスノヤルスク発電所ができ、エネルギーと原材料産地と製造工場を結び付けたアルミ産業(ロシアのアルミ生産の50%)や、石炭(露天掘り)産業、金属工業、重機製造業、化学、材木、繊維などが発展して、クラスノヤルスク市は東シベリア一の大工業中心地になりました。人口も東シベリア第一位です。

 さらに、50年代60年代には、東西の国境からもっともはなれていると言う理由から、軍事産業も発展しました。もちろん当時の『計画経済』の計画が実行されたのです。
 『クラスノヤルスク26』市、『クラスノヤルスク45』市という地図には載っていない軍事秘密都市もできました。核弾頭用ウランやプルトニウム工場を作り、同時にそこで働く技術者や労働者のための住宅を作り、その人たちが生活するための店、学校、病院、コルホーズなどを作り、周りを鉄条網で囲み、出入り口を一つだけつけて閉鎖都市としたものです。ソ連時代は、誰もその町のことは知らないことになっているどころか、そもそも存在しない町で、外国人はもちろん、ロシア人でも許可がなければ入れませんでした。
 26市や45市だけではなく、1991年のソ連崩壊までは、クラスノヤルスク地方全体が、軍事的重要産業が集中しているため、外国人は入れないことになっていました。アルミも機械も電力も軍事利用が優先されていたわけです。
 戦後の日本人強制抑留者達の墓地もたくさんあるのですが、1991年までは、墓参団も普通の旅行者も入れなかったのです。今では、もちろん、自由に訪れることはできますが、ジェレズノゴルスク市(元の暗号名のようなクラスノヤルスク26市が、まともな固有名詞に改名した)と、ゼレノゴルスク市(元のクラスノヤルスク45市、実は、私はここにペレストロイカ後の『混乱』期1992年から94年まで住んでいた)は、今でも閉鎖都市で、出入りには、モスクワの関係省庁の許可がいります。(ノリリスク市もソ連崩壊後、閉鎖が解除されたり、再度閉鎖都市になったりしている)

 4. クラスノヤルスクの名所

 クラスノヤルスクだけではなくシベリアの町には、名所旧跡のようなところは少ないようです。革命前に建てられたロシア正教会などは、1930年代のスターリン時代に工場や倉庫などにリサイクルされたか、または、全く破壊されてしまいました。
 シベリアの町並みは、ソ連経済が破綻する前、計画経済で大量生産された建物が多く、どこも同じようで、観光地と言えるところは少ないのです。街中の古い地区にある革命前の大商人が住んでいた豪宅などは、図書館になったり、市役所分館になったりして、外観が保存されています。
  最近、経済的に豊かになった自治体では、古い建物が復旧されています。クラスノヤルスクのシンボルともなっているカラウリナヤ丘の元コザック兵の見張り塔(*)で、その後、小礼拝堂(Часовняチソブニア、10ルーブル紙幣)になったピャートニツァ堂も、そうです。

   (*)クラスノヤルスクに基地を作ったコサック兵が、先住民の『タタール人(ロシア人は先住のチュルク語系、モンゴル語系その他の民族をまとめてそう呼んだ)』が攻めて来ないか見張っていた)

エニセイ川にかかる橋とチソブニア(小礼拝堂)
(10ルーブル紙幣の表
)
クラスノヤルスク発電所とダム
(10ルーブル紙幣の裏
)

 モスクワ(正確にはウラル地方のチェリャービンスク)から建設が始まったシベリア幹線鉄道が、エニセイ川左岸(西)のクラスノヤルスク市まで通じたのは1895年です。そして1899年にはエニセイ川を渡る鉄橋が完成しました。これは、当時、技術の高さと美しさで、パリ万国博覧会の金メダルをとったそうです。さすが金メダルだけあって、つい最近まで、100年間もの年月、東から西へ、西から東へと列車が通っていました。でも、橋桁がもう寿命で取り壊し、横に新鉄橋を建てることになりました。そのような歴史的な橋を壊さないで、ユネスコの世界遺産記念物として残しておこうではないかと言う声もあったのですが、候補から外れてしまって、今は本当に壊しています。
 ソ連時代にできた名所と言えば、クラスノヤルスク発電所で、観光客用パンフレットには必ず載っています。事実、発電所そのものはともかく、その近辺の自然は、確かに雄大です。ダム湖は、クラスノヤルスク市からエニセイ川に沿った上流50キロ程のところにあります。

 シベリアの自然はどこも雄大ですが、本当に美しいところまで行くには(2003年のことです)馬かヘリコプター以外に交通手段がありません。その点、クラスノヤルスク発電所は、町から近いですし、発電所を作るために作った自動車道路もあるので、観光客は手軽に東サヤン山脈の自然美を満喫しに出かけられます。
 冬、クラスノヤルスクは零下20度を下がることも珍しくないのですが、エニセイ川は凍りません。エニセイに合流する川々や、ダム、その上流など、すべて水面は凍ってしまうのに、ダムの下流100キロから200キロくらいまでのエニセイ川だけは凍らずに水が流れています。これは、発電所ができたために、冬でもダム湖の下の凍らない水が流れてくるからです。まわりが厳寒でも100キロ以上も凍らず流れるとは、実は、ダム建設者たちは予想していなかったとか。

クラスノヤルスクの北約50キロにあるチャスト
オストロフ村の廃墟の教会
、2004年撮影

 クラスノヤルスク市内を流れる間はエニセイ川の水温は0度くらいで、マイナス20度とか30度とかの外気より高くなり、川面には湯気が上がります。冬の温度が昔のように下がらないので、水蒸気のため湿度も多くなりました。この気候の変化は、クラスノヤルスク周辺の従来の自然を破壊しています。ダムの影響はそれだけでなく、魚達の運行もダムの上流と下流で分断されてしまったそうです。ダムを造るのに反対した学者は多かったと言います。
 クラスノヤルスク発電所が運転を始動した1971年には、発電力ではロシア第一でした。その後、エニセイのさらに500キロ上流にサヤノ・シューシンスカヤ発電所ができたので、ロシアで2位になりました。ソ連時代は、何でも超巨大だったようです。

観光名所『岩山自然公園スタルビィ』
(フォトアルバムから)

 また、クラスノヤルスク市から車でたった30分ぐらいの所に、岩山自然公園があります。ロック・クライミングのできる切り立った岩が80個以上あり、「おじいさん」とか「鳥の羽」とか「スキタイ人」とか「さめ」とか愛称がついています、初心者用の岩のひとつに「孫」と言う数メートルくらいのがあります。これは、私も綱をつけて引っ張りあげてもらったことがあります。上るのはともかく降りるのが恐かったです。ベテランになると高さ何十メートルもの岩の頂上から隣の岩の頂上へ飛び移ったりします。落ちることもあるそうです。

 クラスノヤルスク市は、スモッグの厳しい町です。市の中にいたのでは美しい星空もみえません。
 でも、広いクラスノヤルスク地方の大自然は、狭い箱庭的な日本の規模ではありません。その美しさと厳しさに比べると、小規模な日本の自然はまた別の趣があるかも知れませんが。

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