と滞在後記
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up date | 2006年6月2日 | (校正2011年7月5日、2015年1月11日、2017年12月12日、2022年2月5日) |
シベリヤの中心クラスノヤルスク(後編) 2003年4月記 |
前編 |
1.未知の町クラスノヤルスク | |
2.クラスノヤルスクの始まり | ||
3.クラスノヤルスクの発展 | ||
4.クラスノヤルスクの名所 | ||
後編 |
5.偶然のクラスノヤルスク | |
6.クラスノヤルスクの四季 | ||
7.クラスノヤルスクに生活していると | ||
追記 | 8.クラスノヤルスク観光 | |
追記2 | 9. クラスノヤルスク観光 | クラスノヤルスク滞在中3つ目の アパート(4階)の窓から見たエニセイ |
追記3 | 10. クラスノヤルスク観光 |
5.偶然のクラスノヤルスク | ||||||||||||||
私がここに初めてきたのは10年以上前でした(2003年現在)。クラスノヤルスクと決めて来たわけではなく、知人を通していくつか当たったうち、クラスノヤルスクからの返事が一番早かったからです。1992 年から1994年まで私がいたのは、ペレストロイカの後のクラスノヤルスク45市(今はゼレノゴルスク市)でした。その頃、ソ連崩壊後の混乱期だったためなのかどうか、ゼレノゴルスク市のような閉鎖都市に外国人が入れただけではなく住むことまでできたのです。
そんな閉鎖都市の中にあるクラスノヤルスク大学付属『宇宙航空学校』というところへ行くとは、その場所につくまで、知りませんでした(なぜそんなかっこいい名前がついているのか。しかし、その学校の内容は宇宙航空とはあまり関係がない)。イルクーツク空港に迎えにきた人に連れていかれたのが、クラスノヤルスクとはちょっと違う小さな町のようでした。当時、日本語熱が高まっていて、そこの校長の意向で日本語の授業をすることになり、講師を捜していたのだそうです。この45市のことやこの学校のことは別の機会に述べたいと思います。 その後204年には、日本へ帰り、以前からの仕事に戻ったのですが、2年後、退職して本格的にクラスノヤルスクへ行くことにしました。1996年から1997年まで元のクラスノヤルスク45市(ゼレノゴルスク市)にいましたが、1997年の夏から事情があって(閉鎖都市に私と言う外国人が住むことの不都合性か)、クラスノヤルスク市に移りました。 そのクラスノヤルスク市での最初の1年間は、外国人登録課からの規制も少なく、かなり自由に生活しました。自分でアパートを捜し、自分で仕事を捜しました。市教育委員会などにあたって、(普通の)学校で日本語を教えたり、金属大学で有料の日本語講座を開いたり、「ピオネール宮殿」で教えたり、個人で通訳をやったりしていました。当時、円から両替して持ってきたドルが、たった6ルーブルのルートという厳しい状況だった(現在2006年は32ルーブルもする)ので、せっせと、現地でルーブルを稼ぎました。また、クラスノヤルスク市は閉鎖都市45市と比べて自由な大都市だったので、毎日、車で地図に載っている道という道をくまなく探検し、村という村の全部へも行ってみました。もちろん日帰りで行ける範囲です。道路状況が悪く、ついに日本からコンテナで持ってきた車は壊れて、修理場を捜すのに苦労しました。その頃はもう、日本車は多かったのですが、部品があまり入ってきていなかったのです。 1998年夏、夏休みに日本へ帰国するにあたって、秋にまた戻ってくるためには招待状が必要です。金属大からも招待状をもらいましたが、念のため、外国語学部のある総合大学からももらっておこうと思って、そこの学部長(女性)に電話で頼みました。あっさり採用されましたが、必ず、総合大学の招待状を使ってビザを作ること、戻ってきた時には総合大学を最優先(そこだけで)で日本語講師をすると言う条件でした。給料は200ドルと言われましたが、1998年のロシア恐慌でドルが高騰し、実際は80ドルくらいしかもらえませんでした。 |
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6.クラスノヤルスクの四季 | ||||||||||||||
零下20度程度で、適当に雪が積もり、余り風の吹かない日ですと、「今日は、いい日和ですね」と人々は挨拶します。 雪がないと、大地が直に冷えて、動植物にとって厳しい冬となります。雪は、みんなを寒さから守ってくれるそうです。また、風が強いと、零下10度でも、外出は辛いです。 4月後半からは雪解けの季節です。前の年の秋から積もった雪が解けるのですが、雪と一緒に凍り付いていたゴミや塵が、雪解けとともにどっと現れてきます。道路の端に側溝がなく、水はけが悪いので大きな水たまりができます。大海原のように道幅いっぱい何メートルも続いて、通り抜け不可の所もあります。車なら泥をはねながら抜けられます。つまり、この時期、洗車はむなしいのです。 5月中旬には、冬の間トラックが通れる程厚く張っていた河川の氷が融け、下流へ下流へと流れ出します。シベリアの川はたいてい南の山岳地帯からシベリア平原を北上し、北極海に注ぎます。季節の変わり目にはよくあることですが、気温の上昇が急激だったりすると、大洪水が起こります。 |
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7.クラスノヤルスクに生活していると | ||||||||||||||
こうして、クラスノヤルスク市で(当時)唯一の日本人として生活していると、日本と関係を持ちたいと言う人からの、連絡が時々あります。できる限り、それらの人たちの希望を叶えるようにしています。その人たちは、大学などを通じて私のことを知るようです。
たとえば、2000年の夏休みの前、私に電話をかけてきたレザーノフ・フォンドのバヴラ氏(本職は外科医)も、その一人でした。彼は、レザノフに関する資料などをクラスノヤルスクのジャーナリスト達4人が編集した『コマンドール』と言う本を2冊と、『レザノフがナジェジダ号で世界一周した記念チョコレート』と言う3段重ねのチェコレートの箱と、『レザノフ記念ヴォッカ』を一本持って、私に会いにきました。「自分達は、アメリカのレザノフ研究者とは交流がある、日本の研究者とも交流したい」と言うことでした。日本のレザノフ・フォンド(または研究者)にこれらの本、チョコレート、ヴォッカを贈りたいと言うのです。 でも、ハバロフクスで飛行機に乗り換えたりする長い帰国の旅を考え、荷物を軽くするため、ヴォッカは自分で飲んでしまい、チョコレートも美味しくいただいて、本は一冊だけ持ち帰ることにしました。ヴォッカのラベルはレザノフの肖像画や紋章、船など印刷してありましたが、お味は、普通のヴォッカでした。チョコも同じです。 帰国後、『コマンドール』に編集されているレザノフの『日本滞在日記』を翻訳された方と連絡ができ、バヴラ氏の意思を伝えました。バヴラ氏は、日本では、あまりレザノフのことは知られていないのではないか、まして『コマンドール』と言う本のことも知られていないのではないかと考えていたようですが、日本には江戸時代のロシアへの漂流人に関する文献や研究が多くあります。出版された本も少なくはありません。そのことは、それまで、私もあまり知りませんでした。 秋に、クラスノヤルスクに戻り、さっそくバヴラ氏に連絡し、預かってきた翻訳書を手渡し、連絡先を教えました。これで一応連絡係の役は果たしたわけです。 でも、その後も、バヴラ氏を通じて「コマンドール」の主要編集者でジャーナリストのアヴジュコフ氏と会い、日本側の提案を伝えたり、アヴジュコフ氏やバヴラ氏のロシア側の提案を翻訳者の方に伝えたりしていました。 バヴラ氏を通じて、『コマンドール』の言語面での編集者であるロシア語学のアンナ・スルニック先生(女性)とも知り合いになり、どのようにして、『日本滞在記』をレザノフの手記から印刷物までに仕上げたか、という苦労談も伺いました。スルニック先生を通じて、レザノフが日本から持ち帰ったかも知れない遺品が保管されている クラスノヤルスク郷土史博物館の館長(女性)とも知り合いました。
レザノフは、ヴォスクレセンスカヤ寺院に葬られましたが、スターリン時代の1930年代、その寺院は爆破されて、ソ連式の大コンサートホールが建てられました。レザノフのお墓のオリジナルは、行方不明になってしまったのですが、数年前、大コンサート・ホールの横に、小さな記念墓がたてられて、旅行案内書にも載っています。 2002年の秋、まだ50代のアヴジュコフ氏が、心臓病でなくなりました。残念なことです。ロシアの男性の平均寿命はヨーロッパでも一番短いといわれていて、50台後半だそうです。 |