クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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極寒のクラスノヤルスクとバイカル(2)
        2018年1月28日から2月13日(のうちの1月30日から1月31日)

Путешествие в Красноярске и на Байкале эимой 2018 года (28.01.2018−13.02.2018)

 極寒のクラスノヤルスクとモティギノ
1 1/28-1/29 クラスノヤルスク着 アリョーシャ エニセイ街道 モティギノ着
2 1/30-1/31 飛行場から始める パルチザン金鉱 南エニセイスク。ラズドリンスク モティギノ博物館
3 2/1-2/2 モティギノの病院 ドラマ劇場、ルィブノエ村 カンスク経由 バライ村村長、クラスノヤルスク市へ
4 2/3-2/4 見張り塔(礼拝堂) ファン・パーク ダーチャ イルクーツクへ
 氷のバイカル
5 2/5 ヤクーチア郵便街道を バイカルの娘たち 『バイカルのさすらい人』 『ニキータの館』
6 2/6-2/7 フジール村再会 オリホン島南観光 氷上バレー ドイツ人メルツ校長
7 2/8-2/20 フジール村学校 ハランツィ湾の氷 北コース観光 氷上の長い割れ目
8 2/22-2/13 イルクーツクへ戻る ポーランド・カトリック教会 コルチャーク像 ハバロフスクのタクシー
 飛行場見物から始める
モティギノ飛行場ターミナルビル前
ホテル『ウユート』前
4省の支社が入っている
製材工場
第2学校校長室
学校のホールにある掲示板
地理の授業
学校博物館にあった赤旗とガスマスク、区の小旗
2年生教室
スポーツ・クラブで。
『チェハロフ』記念試合優勝者とコーチ
冬季休業中の小型貨物船『ピューマ』
 1月30日(火)、この日のモティギノ観光はまずモティギノ飛行場から始まった。モティギノ町の雪道を10分も行ったところに新しい建てものがあり、それがターミナルビルだった。中に入ると、この日は無人。待合室には20脚ばかりの椅子。チケットを売る窓口(搭乗窓口だったかも)。モティギノからクラスノヤルスク(エメリヤーノヴォ国際空港ではなく、その近くにあるチェレムシャンカ空港と言う小さな空港)へ運航するのは月曜日と木曜日だけだからだ。運航表によるとチェレムシャンカ空港を10時に出たクラスアエロ航空のL-410と言う17人乗り、または1430キロの荷物を運ぶ小型飛行機は11時10分にモティギノ飛行場に着く、復路は12時発、13時10分着だ。だから週2回の朝と昼のみ乗客や飛行機が見えるわけだ。ホールは無人だったが、すぐに女性が現れた。あとでわかったが、オリガ・デミシェケビッチОльга Демишкевичさんと言って、エリザヴェートさんの親戚だそうだ。すぐに男性が現れた。彼がクラスノヤルスク空港モティギノ支社のディレクターだそうだ。エリザヴェートさんが私の由来を説明すると、お茶でもどうぞと言われる。私は賛成。ディレクター室で、私だけお茶を飲む。ほかの人は遠慮したのか断ったので、ただ座っていただけ。ディレクターのアレクサンドル・ミハリョーフАлександр Петрович Михалёвさんが私に名刺をくれる。
 空港は郊外にある。村の郊外にあるものと言えば、墓地もだ。一応そこも訪れるが、雪が深い。エリザヴェートさんは前もって私たちが訪れることを知っていたから案内する場所と順番も考えていたにちがいない。空港から近い郊外に墓地があり、また町に戻ったところに『ウユート(快適の意)』と言うホテルがある。ソ連時代は、人口の割合で作られた劇場も映画館もホテルも福祉施設も国営で、モティギノのような田舎のホテルには各部屋に、トイレ・シャワーなどは決してなかった。ソ連崩壊後数年は半国営(のような)だったが、今はすっかり私営で、このホテルのオーナーは、他に商店などを持ったモティギノ区の前区長の若い男性だった。モティギノ区は人口5000人の行政中心地モティギノ町のほか20個の集落がある。
 2階建て木造だが、レトロな街灯もある前庭のミニ・ホテルは感じがよい。エリザヴェートさんが、入ってみようと進めてくれる。受付の女性は、また彼女の親せきで、部屋のプライスリストも教えてくれる。一番高いのはキッチン付きデラックスルームで3000ルーブル、安価なのは幅80センチのベッドが3台ある部屋の一人分800ルーブル、シティホテル並みのベッドの幅120センチのスタンダードは1800ルーブルだ。今は満室だが、留守になっている部屋のドアを開けて中を見せてくれた。
 ホテルの隣の、木造2階建ての建物は税務署、内務省(警察やパスポート課など)、財務省などのモティギノ支庁が入っていて、ここでもパスポート課の女性と写真を撮る(またも、エリザヴェートさんお親戚なのか)。数分のうちに窓口に順番ができてしまったので、仕事の邪魔をしないようにひき上げる。
 続いてスラーヴァが働いていたらしい材木工場。ここで運転手をしていたらしい。スラーヴァはそこの男性と立ち話を交わしていたが、私はだれとも話さずに角材ができるのを見ていただけだ。大きく暗い倉庫のような場所だった。スラーヴァはここで働くよりノヴォシビリスクで支店を任されていた方がいいだろう、とそっと思った。

 12時少し前には第2学校に着く。ロシアでは学校に固有名詞はなくすべて番号で呼ばれる。4年生までの初等学校と5年生から11年生までの中等学校が同じ敷地内にあるのが完全中学校と言い、初等学級までの学校や9年生までの義務教育だけの学校とは区別される。モティギノには完全学校が2校ある。
 その2校のうち第2学校に行ったのは校長が知り合いだったからかもしれない。校長室に通されて、ご質問は、と問われた。都市部とは異なった教育上の問題は聞かないことにする。ここには児童生徒は何人だろうか。1年生から11年生まで480人。教諭は39人そのうち男性は体育の教師が3人、物理、オーベージェОБЖの教師が各1人で計5人だ。オーベージェ―というのはОсновы безопасности жизнедеятельностиの略で 生命活動の安全の基礎教育とでも訳すか。内容は、「1.緊急医療 2.基本的な健康な生活  3.安全な生活  4.基礎的な軍事訓練 」となっている。教員は最低週18時間受け持って、給料は2万ルーブル程度。受け持ち時間数によって給料は異なり、24時間も受け持つと24000ルーブル以上くらいになり、若い教諭を誘致するため初任の3年間は20%の上乗せがある。
 校長室にはロシア連邦の紋章とプーチン、メドヴェージェフの肖像写真があった。8年前にオルジョニキーゼ村の学校で見たのと同じで二人並んで同じ方向を向いている。教室をいくつか見せてもらった。廊下にあるホールにも上の壁に『私たちはロシアに住んでいる』と言う文字がプーチンの肖像写真と共に、たなびくロシア国旗に重ねて書かれていて、その下にこの学校の名前や校長の写真などが掲示されている。構内の『栄光』コーナーとなっているのか、そこにはガラス棚もあって優勝カップが並んでいる。写真を撮ろうと言われて校長と並んで撮る。スラーヴァが、この子と撮ったらと言われて髪の長いすらりとした女の子とも撮る。後で知ったことだが、彼女はスラーヴァの長女で母親から会うことを拒否されているユリアだった。地理の授業にも5分間ほど同席する。各教室には(以前はレーニンの写真のあった場所に)プーチンの写真が掲示してあるようだ。(レーニンとプーチンの中間期間1990年代ははキリスト像だった)
 校長が学校博物館もあると言うので行く。つまり、古いもののコレクションだが、20世紀以前のものはない。ソ連時代の旗で『万国の労働者よ、団結せよ。マルクス・レーニンの旗の下、共産党の指導の下、共産主義の勝利に向かって前進』と言う赤旗もガスマスクと共に展示してある。モティギノ区の紋章と『モティギノ区1925−2015』と書いた小旗がたくさん保存されていたのでそれを1本贈呈された。モティギノ区と言う行政単位(1956年まではウデレイ区と言った)ができて90周年記念に作ったものだろうか。紋章は下が川で白チョウザメが泳ぎ、上は森の緑(マツ)でツルハシの上に黄金の貂(テン)が乗っている。 ロシアで紋章と言うのは象徴的だが、盛り沢山なものだ。
 同じ敷地内にある4年生までの初等学校にも行く。ロシアの教室では児童たちの授業初期スタイルと言うのがあり、まずは机の上の胸の前に重ねた両手を置く。教室では数人の子がこのスタイルで、この子たちの視線はこちらを向く。1クラス20人くらいだ。廊下に出ると、ほかの子供たちが寄ってきて一緒に写真を撮りたがった。

 食料品店に寄って、エリザヴェートさんが燻製の鮭を買ってから帰宅。ロシアで日常の食料品は、品質や包装はともかく日本より安い。お昼を食べて、またエリザヴェートさんのプランに従って各施設を訪問。
 まずは教育委員会。エリザヴェートさんは退職前この関係機関の一部のトップであり彼女が言うには、教育関係の監督をしていた。それでなくとも小さな村は同じ方面ならお互いに知り合いだ。教育長は出張で留守だった。エリザヴェートさんは、残っていた職員に私を紹介して、なぜ私が彼女と一緒にここを訪れたかを説明する。
「私の長男のアリョーシャはクラスノヤルスクの会社(ディーマの会社のこと)のノヴォシビリスク支店を任されていた。しかし、あの都合で(彼が脳溢血で一部身体が不随になってしまったと言う話は彼女の仲間はみんな知っているらしい)その支店を辞めて、スラーヴァが後を引き継いだ。スラーヴァがそれを承知しなければ支店を閉鎖せざるを得ないところだったので感謝されている。スラーヴァはもう何度も日本へ仕事に行っている。日本へ行くには、ほら御存じでしょう。招待状なんかの書類がいる。日本側の身元引受をしているのが、タカコ・サンで、今回は彼女を招待したと言う訳よ」この文言は、1カ所は身内びいきであり、もう1カ所は正確ではない。しかし、私は訂正しなかったので、今後も行く先々で繰り返された。私が言語を解さないお土産品かのように、由来を説明するのだった。すると、地元の彼女の仲間の女性たちは納得し、私から目を離してお互いの世間話を始める。
 このパターンはこの先2日間様々な施設を訪れ、様々な課の人たちと話したが、毎回同じだった。ただ、相手の専門がわかりやすい時には、私も積極的に質問できた。また、後になるにつれて、世間話の中には前からのことが織り込まれていった。(後述)
 3時半ぐらいにはモティギノ区文化会館に行く。ここではニーナ・シュカペンコНина Шкапенкоさんと言う手芸家の個展があったからだ。ちなみにエリザヴェートさんも手芸に凝っている。彼女は今、色鮮やかな化学繊維などで造花を作っている。個展の作品にもそんな手芸品があった。エリザヴェートさんは案内してくれている女性と手芸について長く話している。

 ソ連時代に整備された町々、村々は似たようなプランになっていて、中央を貫く道に役所や文化設備がある。文化会館やスポーツ・クラブ、図書館などが隣り合っていたり同じ建物だったりする。
 放課後生徒が訪れるクラブと言うのはロシアでは昔から盛んだ。月謝が高額なピアノやスウィミングや学習塾などは、ロシアの田舎にはない。そうしたクラブはほとんど無料で、たいがいの児童生徒はどこかに入っているらしい。放課後の過ごし方は考えられている。専業主婦はほとんどいないからだ。エリザヴェートさんに案内されるままにスポーツ・クラブの事務所へ行く。そこにはきゃしゃでほっそりした女の子や真面目な顔つきの少年たちがいて、一方パソコンの前には、おなかの脂肪がつきすぎて、年齢のためか垂れ下がってすらいる中年男性がいた。モロゾフさんと言う名前だと後で知ったが、彼がコーチらしい。ВСК ≪Барс≫と言い、これは軍事スポーツ・クラブの略で『ユキヒョウ』と言う名称。クラブの目的は愛国心の育成。ほっそりした少女は、数日前に行われた15歳未満級の総合格闘技リーグ戦クラスノヤルスク地方試合で第1位を取り、りりしい顔の少年は3位を取った。試合はクラスノヤルスク地方スホブジムСухобузим区で行われた『エヴゲーニィ・チェハロフЕвгений Чухаров記念試合』と言う。賞状も見せてもらった。チュハロフと言うのはだれだろうか。モロゾフさんが素早くネットを調べて、2001年チェチェンで戦死したスホブジム区出身者だと教えてくれた。帰国後、私もネットで調べてみた。2016年に『北カフカス1994―2014年、戦没者記念』と言う本がクラスノヤルスクで出版されている。「自分の尊い命で、北カフカスにおける国際テロリズムの脅威から国を守ったシベリア人の記録」だそうだ。189人のクラスノヤルスク地方出身者が戦死したらしい。チュハロフは23歳の優秀な(とある)工兵だったが、2001年、グローズヌィで地雷にあって死亡した。出身地のスホブジムには記念碑が建っている。
 軍事スポーツと言うのはどんなスポーツなのか。コーチのモロゾフさんが数日前行われた試合のビデオを見せてくれた。軍事訓練のようなものがスポーツとして行われ、年少者も参加する。先ほどの華奢な女の子も銃を担いて走ったり飛んだりしている。格闘もする。目の下を青くした少年も私たちの話を聞いていた。

 隣の建物の図書館へ行く。エリザヴェートさんが読んだ本を返して新しいのを借りたかったからだ。ここは、今まで見た地方図書館の中で最も寂しいものだった。来館者はいなくて(私の質問では1日10人と言う答え)、本は古くて少なく、これではコンピュータ化しなくても一人半の職員でも十分だ。たとえば翻訳日本文学はあるだろうか。1冊もないと言われる。あるのはロシア古典の古い選集と、暇つぶしの読みもののみ。
 さらに銀行へ行く。ATMもある。エリザヴェートさんは画面を少し触っていたが、何も処理はしなかった。コンピュータ化されていることを見せたかったのか。奥の窓口へ行くが、その中の知り合いらしい女性に軽く私を紹介しただけ。人口5300人のモティギノで唯一のこの銀行窓口は、3年前に訪れたトゥヴァ共和国(ロシア連邦内)のムグール・アクスィ村(4400人)より近代的で明るかった。

 アンガラ川岸へ下りる。そこには1艘の貨物船が白い雪原の中にもやっている。近くの小屋にはガードマンが犬と住んでいるらしい。これは『ピューマ』と言うアリョーシャの小型貨物船だ。2008年にはこれで、泥酔の4人の船員とアリューシャ、ディーマ、アリーナとパドカーメンナヤ・トゥングースカ川を下ったものだ。見覚えのある船倉だ。
 5時になっていたが、この日の『観光』はもう一カ所あった。スラーヴァとエリザヴェートさんが、
「今でも湧いているだろうか」と話していた川岸近くの下村の湧水場だった。近くのアンガラ川をはじめ、すべての水が凍ってしまっている中、湧き水は出ているだろうか。湧き水場へ下りる雪道はちゃんとできていた。車から降りたスラーヴァが
「おおっ」と言って手にすくって飲んでいる。私もその冷たい水を一口飲んでみた。厚く凍り付いたエニセイ川のずっと北でもところどころ水の流れが見えるところがある。湧き水が出ているのだ。湧き水は地面の中を通り鉱物を溶解していると考えられているので、健康に良いと重宝される。
 パルチザン金鉱山
 1月31日(水)。モティギノ紀行のメインとしてパルチザン金鉱採掘場へ行く日だった。モティギノから100キロはあるので、朝8時には出発した。エリザヴェートさんは、「無人の地を通るから、万一車が故障して動けなくなったら凍死することもあるから、持っている限り暖かい服を着るように。ないなら貸してあげる」と言ってくれた。そして食糧も持って、出かけたのだ。いくら高年式でも整備されたランクルが故障と言うことはないと思ったが、素直にロシア的忠告に従う。
 40キロほど北(つまり、右岸でこの辺では東から西に流れるアンガラから遠ざかる)へ進むとラズドリンスク町に入る。この街を通り過ぎた頃、まばらな林の木々の幹の間から赤い太陽の日の出が見られた。この時間は零下30度。
 暗い緑と真っ白な森の間の広い雪道を快適に進む。ロシア製のジグリやウアズならあり得るが、よく整備されているディーマのランクルが故障するはずもない。アンガラ川から遠ざかると地形は起伏があり、道の下方にはアンガラの支流の支流、その支流の小川が流れているようだ。
10時、車中。雪の結晶の付いた
サイドガラス越しに見えた日の出
アンガラ北岸を奥へ進む。ウデレイ川上流へ
元の露天掘り鉱山の跡か
無人のパルチザンスク村
除雪もしてない(車窓から)
村の幼稚園だった
快晴の寒い日だった

 盆地状の雪原が見えた。露天掘りの採掘跡だと言う。
 モティギノ区はアンガラ川の最下流190キロの両岸を占めるが、北岸は南岸よりずっと奥深く、川岸から200キロはモティギノ区となっている。そこに有名なウデレイ川(113キロ、アンガラの右岸支流のカメンカ川の左岸支流)が流れる。19世紀からウデレイ川は砂金が大量に採集され、クラスノヤルスクのゴールドラッシュの中心地のひとつだった。
 エニセイ川から見ると、右岸支流のアンガラ川の北岸から、同じくエニセイの右岸支流パドカーメンナヤ・トゥングースカ川の南岸にいたる針葉樹林の生い茂る低いエニセイ山地の奥の中央シベリア高地は、金の産地だった。中央シベリア高地と言っても複雑な地形で、大小の川が流れ、連山や谷が多く、良質なアンガラマツ、落葉マツの茂る針葉樹林帯となっている。
 そのなかのシャールガンШаарган川(ウデレイ川の支流)に、1837年はじめて砂金採集場ができたことから始まり、北へ北へとあらゆる川が採掘者・山師によって調査された。カメンカ川の支流や大ピット川の支流(415キロ)、パドカーメンナヤ・トゥングースカ川の南岸支流ヴェリモ川Вельмоなどは、それら分水嶺が込み入っている。金採掘場として開発された岸辺も多い。たとえば、ウデレイ川では1837年から50年間で310カ所の砂金採掘場ができ、89トンの金を採集したそうだ。川砂から金を採集する作業は、はじめはほとんど人力により、後に水力や馬力が導入されたが基本は手作業だった。蒸気で動く浚渫機(川を航行する砂金洗浄選別機)をイギリスから購入してウデレイ川の『カルフォルニア砂金場(という渇望を込めた地名)』で稼働始めたのは1900年だった。1906年にはウデレイ区ではすでに13台が稼働していた。ウデレイ砂金の採掘所の中心としてガダロフ砂金所Гадаровский прииск (現在のユージノ(南)・エニセイスキィ町) ができ、その下流(北)にその後キーロフスキー村や、上流(南)にパルチザンスク村となった採掘場集落ができた。これらの採掘場はかつて生産量も多かった。(*)
(*)これら極寒の地にある採掘場は、政治囚が働いていた。道路を作ったのも、電動ではなく蒸気で動く浚渫機のために薪を切ってきたのも、囚人や強制移住者だった。1930年代はインゲルマンディア人(イジョール人、レニングラード区の先住フィン人)、ポーランド人、第1次大戦後のトルコの民族ジェノサイドからロシアに逃れてきたポントス・ギリシャ人や、ヴォルガ流域、中央ロシア、クラスノヤルスク地方の各地から、送られてきた。
 10年前は、まだ数人の住民がいた。今は無人と言うことなのでキーロフスキーへ行く道路は除雪もされていない。つまり通行できない。しかし、当時収容所には3000人の囚人が働かされていた。70‐80年代には一家はキーロフスキィに住んでいた。
 ちなみに、アンガラからカメンカ川流域は南エニセイスク区と言った。大ピット川からヴェリモ流域は北エニセイスク区と言う。ヴェリモ右岸支流のテヤ川近くの金鉱脈採掘場から発展した町は北エニセイスキィ町と呼ばれる。南エニセイスク区の行政中心地はウデレイ川の南エニセイスク町だったが、砂金としての採集が衰えたため、1955年アンガラ川岸のモティギノに行政中心地が移り、1963年には区の名前もモティギノ区となったのだ。
 いくら浚渫機を使っても手工業的な砂金採集より、近代的な金鉱脈からの採掘に移ってきている。ウデレイ川には今でも浚渫機で砂金を採集しているが、20世紀終わりからヴァシリエフスキィ金鉱脈が調査されてきた。ヴァシリエフスキィ金鉱山はクレストヴォズドゥヴィジェンスクКрестовоздвиженск(聖十字架祭の意)と昔呼ばれていたパルチザンスク村のすぐ近くにある。(宗教的な地名から革命的な地名への改名の例)。すでに10年以上前から稼働準備を始めている。ここを、見物に行こうとスラーヴァは言う。もちろん許可なくては入れない。モティギノで許可を得ようとしたが、できなかった。現場、つまり鉱山敷地に入るための遮断機前まで行って、もう一度試みてみようと言うことになって、私たちは出かけてきたのだ。
 2時間ほどで遮断機前まで着き、スラーヴァは車を降りてガードマンと話している。遮断機と言うのはここではロープ。番小屋に入って、中の、つまり鉱山会社の知り合いに電話している。15分ほど私とエリザヴェートさんは車の中で待っていた。かなり頻繁に大型トラックが出入りしている。どの車も遮断機の前で止まるとガードマンに書類を見せている。
 やがてスラーヴァが出てきて許可されなかったからとUターンする。
 ヴァシリエフスキィ鉱山は、ほとんどパルチザンスク村にあり、村は2014年新たに発見された鉱脈の真上にあると調査された。鉱脈を掘り進むには(露天掘り)村が邪魔になる。それで、ここ数年、500人はいる村人(年金生活者が多い)を移住させているそうだ。近郊の村、または、クラスノヤルスク市近くのサスノヴォボルスク町などが受け入れているそうだ。かつての聖十字架祭村(上記)のパルチザンスク村は古くからある村ではないが、砂金採掘家族が住み始めて100年近くは経っているだろうし、両親や祖父母たちが葬られている村の墓地もある。それらすべてが掘り返されることに、村人は強く反対したが、2017年中には全員移動したようだ。鉱山会社(大コンツェルンのガスプロムが株主)が彼らの家をクラスノヤルスク市と同じ地価で買い取るとか(ネットにあった区長の公約)、引越し補償金1人について60万ルーブルを出す(エリザヴェートさんの情報)とか、ブルドーザーは、村のすぐ近くまでも入っているとか、言われている。
 遮断機から数分も行く『パルチザンスク』と案内板が出ている。村の中へ入る道は除雪されていた。これは、村人がいるからではなくて鉱山開発の車が通るためだ。だから村の通りが1本だけ除雪され、各戸への通りは全く除雪されてなく、1メートルもの新雪が積もったままだ。エリザヴェートさんには異様な光景だった。朽ちてもいない家々が立ち並び、屋根にも前庭にも雪がうずたかく積もっている。新しそうに見える家さえも沈黙のうちにただ建っている。「ここは学校だわ」とエリザヴェートさんが言う。木造2階建ての田舎よく見かける建物だ。幼稚園もある。園庭の明るい色をした遊具も少し残っている。郵便局も村役場もあって、看板が出ているが錠が下がっている。エリザヴェートさんの言うには昨日までにぎやかだった村から、突然全住民が火星かどこかに連れ去られたかのようだ。確かに真っ白い雪には埋もれたゴースト・タウンのようだった。
 それでも犬がいた。1,2軒の家にはまだ住人がいるのかもしれない。村は廃村になっているから一切のインフラがないだろう。
 エリザヴェートさんは写真をせっせと撮っていた。パルチザンスク村の全村民移住については数年前から議論が戦われたのだろう。村民の反対と企業側と政府側の説得と言う形だろう。モティギノの町民は身近な村のことなのでみんな関心を持っている。用もないのにパルチザンスクに今まで来なかったエリザヴェートさんにとってこの日見る異様な村の光景は印象深いものだっただろう。そして彼女の友達のモティギノの女性たちにとってもだ。だから、エリザヴェートさんはのちに、会う人会う人に「異世界の村」について語っていた。
 南エニセイスク、ラズドリンスク
南エニセイスク町の戦勝記念広場
南エニセイスク町の学校9年生
ウデレイ川の重機
ラズドリンスク保育園のお昼寝時間
ラズドリンスク町
 村から離れると、また白と暗緑色の森の中の広い道を通る。太陽が今の季節、最も高くまで登っている。と言っても木々の上には出ない。こずえの間から白昼の光で輝いている太陽が見える。空は真っ青だった。雪道も木々の影になって青白かった。日光の当たる樹冠だけが真っ白に輝いている。
 パルチザンスクからさらに北へのウデレイ川に沿った道を行く。この道はキーロフスキィ旧砂金場に通じているはずだ。その先にも旧砂金場はいくつもあった。(上記のように)キーロフスキィも廃村になって、除雪もしてない。パルチザンスクから、40キロばかりのところにかつての行政中心地、南エニセイスク町がある。現在は600人を切っているが1959年には2500人もいて、浚渫機(蒸気で稼働するものから電力に代った)などで働いていた。ロシア中どの大都市どの寒村にもあるが、第2次大戦戦没者のそれなりに立派な記念碑が建っている。教育関係では知り合いが多いエリザヴェートさんといっしょなので、学校へ行ってみる。9年生の地理の授業を見学させてもらった。図書室の机で行われていて、女生徒は2人、男生徒1人、そして先生。先生は学校のビデオを見せてくれようとしたが、うまく出てこなかった。3人の生徒に日本について知っていることを聞いてみたが、サムライとアニメの他はあまり知らない。記念の写真を撮って去る。
 ウデレイ川にはそれでも浚渫機が浮かんでいた、川も凍っているので雪の中に立っていて、ガードマンもいる。ウデレイ川に浮かぶ稼働できる最後の1艘なのかもしれない。
 来るときは通過しただけのラズドリンスク町へ寄る。ここには教会もあり、モティギノにはない5階建て建築もある。ラズドリンスクは菱苦土石(りょうくどせき、magnesite、マグネサイト)ペリクレースとも)の採掘精製工場町として発展した。その粉は有害なものだとか。
http://my.krskstate.ru/docs/raw_materials/ooo-razdolinskiy-periklazovyy-zavod/
 この町で寄ったのは幼稚園だった。エリザヴェートさんは園長とは古い知り合いらしい。久しぶりに会って懐かしそうだった。積もる話もありそうだった。エリザヴェートさんはなぜ日本人の私とここにいるかの例の説明をする。横で聞いていた私はいつものことだが、不正確さを正さない。彼女は今見て来たばかりのパルチザン村のゴースト・タウンぶりを物語る。そうして話が長くなりそうなので、私は園長室を出て保育室を見せてもらう。椅子も便器も小さくて愛らしい。幼児たちのロッカーやコップ棚も整然としている。今、お昼寝の時間らしく、広げた引き出しベッドの中でちびちゃんたちがぐっすり眠っている。そのなかの一人の女児が案内してくれた若い保育士さんの子供だそうだ。
 私とエリザヴェートさんが幼稚園などの施設の中に入るときは、運転のスラーヴァさんはいつも車の中で待っていた。スラーヴァさんは幼稚園に入りたいとは思っていないらしく、また、車を通りに置きっぱなしにするのは今でも危険だからかもしれない。
 ラズドリンスクの園長さんはエリザヴェートさんと前々からの知り合いで、小さい時からスラーヴァを知っているのだろう。私たちが園から出ようとしたとき、彼女もスラーヴァに挨拶するために出てきたくらいだ。彼女には「この間までは、少年だったスラーヴァが、こんなに」と思ったことだろう。 
 モティギノ博物館
 モティギノに戻ってもまだ3時半だった。では博物館に寄ろう。前回の2008年に来た時、丁寧に説明されたが、もう10年もたっているから展示品の入れ替えもあるかもしれない。入ってみると、5時まで開館ですと言うことで、50ルーブルで入場券を購入。展示品はほぼ変わってはいなかった。前回とは別のガイドだった。ガイドは郷土史家であるはずなので、20世紀の村での生活用品の説明ではなく、ロシア人の来る前のモティギノについて説明してくれるかもしれないと思ったが、私以上には知らない。タセーエヴァ遺跡(スキタイ)についても数枚の写真があるだけだった。新石器時代の石器も数点展示してあったが、彼女はそれについても知らない。
博物館、『ロシア農民の生活』
スヴェータさんの法律兼会計事務所
スヴェータさん

 シベリアの歴史はロシア人がやってきた16‐17世紀からでないと始まらない。(考古学的にはある程度、調査されている場所もあるが)。ロシア人と言うのは、はじめは銃と剣を携えたコサック・屯田兵のようなグループで、次いで『偶像崇拝の異教徒』の先住民を『教化』するためのロシア正教の神父たちや農民たちが『ほとんど無人のアンガラ地方』にやってきた。その頃のシベリアの先住民はチュルク系の部族やトゥングース系のエヴェンキ人やエニセイ語族系のケット人だった。彼らはどこへ行ったのか。ロシア人に追われ、さらに北や東に行ったのか、ロシア人に同化したのだろうか。
 帰国後、モティギノ区役所の公式サイトを調べたのだが、それによると、
『モティギノ区には、39カ所の紀元前3000年の新石器時代から紀元後1000年紀の中世までの先史時代の住居跡が発見されている。有名なものではアンガラ川絶壁の岩画がある。それは新石器時代から鉄器時代初期にかけて描かれ、打刻されたものだ。またタセーエヴァの偶像なども有名である。その偶像とされる石像は頭部だけだが、タセーエヴァ川下流左岸の低い山の頂上にあって、高さが152センチ、幅が35センチから45センチで、1970年代に調査された。付近に武器、矢じり、青銅製装身具など1000点以上の紀元前6−2世紀のスキタイ文化の特徴あるものが発掘されている。アジアでは最北のスキタイ遺跡である。
 モティギノと言う地名はここに始めて住んだコサック(または農民)の苗字から来ている、とガイドが説明してくれた。シベリアの村々は、先住民の地名のロシア訛りの発音でなければ(たとえばターエヴァは17世紀の当地のトゥングースの支配者タセヤから。また、クラスノヤルスク市のエニセイ川の中州タートィシェフТатышевは17世紀当地のエニセイ語族のアリン人の支配者タトゥシТатушまたはサトムィシсатмышまたはチャヌィシЧанышから)、初めてそこに住み着いた家族の苗字(たとえばイヴァノフカ)から来ている。だからロシアによくある苗字由来の村名が多い。(ちなみに昔は宗教的な地名も多かったが、1920年代以後は革命的な地名に代っている)
カラリ氏

 閉館時間の5時にはスラーヴァが迎えに来てくれた。すぐに帰宅しないで、自分の知り合いの法律家に会ってみたくないかと聞く。機会があれば多方面の人物と会いたいものだ。スラーヴァが車を止めた建物を入っていくとドアの前に赤地で金文字の『モティギノ区庁、発注課Муниципально казенное учреждение、 Служба единого заказа Мотыгинского района』と言う表札が出ていた。これはモティギノ区に必要な物品・サーヴビスの買いそろえを組織するという課らしい。人口15000人弱のモティギノ区の行政府には20ほどの課があり、一人半から数人の職員が従事している。
 ドアを開けて入ると明るい部屋に若い男性が机に向かっていた。後でネットから知ったことだが、彼はヴィチェスラフ・ヴァレリエヴィッチ・カラリКарарь Вячеслав Валерьевичと言う。ヴィチェスラフさん(愛称はスラーヴァ)はスラーヴァの同級生だった。町全体に学校は2校しかなく、1年生から11年生(または9年生)まで通うので、多分地元出身者はみんな知り合いだ。ヴィチェスラヴさんは妻のスヴェータの事務所にも寄るよう勧めてくれた。
 後でスラーヴァが言ったことだが、そのスヴェータさんも同級生だと言う。幼馴染だったのか。若い時に(若気の至りで)結婚したカップルはたいていうまくいかず別れてしまうものだが、彼らは続いている。珍しいカップルだと言う(自分は早婚の相手と別れている)。
 スヴェータさんは法律兼会計事務所を開いている。肩書は法律家だ。法律家とは、法曹3者だけではなく司法書士や税理士、社労士、弁理士など法律にかかわることは、刑事事件の弁護の他は何でもやる。スヴェータさんは法律家が弁護士以上に住民の側に立っていると説明する。彼女は区会議員でもあった。
 家に戻ったのは7時過ぎ。エリザヴェートさんが8時以降に蒸し風呂に入れると言う。古い田舎の家は個建てでも集合住宅(木造2階建て)でもインフラが整っていない。上下水道も自前で後付けだし、それも台所だけで、温水は自家の温水器で作る。トイレもシャワーもないことは前述の通り。トイレ小屋は家の隣にあって、年配女性のいる家ではバケツかバイオ・トイレが室内にある。シャワーの代わりに、台所に盥を置きそのうえで水差しから温水を注ぐと言う簡単な方法もある(前日試してみた)が、この日はスラーヴァたちが建てたと言う蒸し風呂小屋で暖まってくださいと言われる。蒸し風呂を焚くことは田舎では大切なご接待の一つ。焚き上がるまで薪をくべなければならず、水も運ばなくてはならない。実は前前々日隣家の蒸し風呂に誘われた。一度焚けば長い間暖かいので、おまけの人も入れる。しかし、蒸し風呂小屋は離れているので長靴をはき、外套を着てタオルと着替えを持って出かけなければならないのでお断りした。お風呂に入らなくても死ぬようなことはない。
 エリザヴェートさんはたびたびクバーニ旅行の話をする。モティギノのような極寒と違い、クバーニのあるコーカサス北麓地方(『新ロシア』と18、19世紀には呼ばれた。なぜなら、エカチェリーナ2世の時代にロシア帝国の領土になったからだ)は南国だ。エリザヴェータさんの母のヴァルヴァーラさんはチェルケッス出身だから、そこには親戚もいるそうだ。
 またエリザヴェートさんは外国へ行ったことも1度ある。チェコのプラハと温泉町のたぶんカルロフ・ヴァールだ。それは、1980年代で国外旅行は制限の多かった時期だ。夫は砂金場で働いていたので、国外旅行の許可は出なかった。出発前、グループはモスクワに集合して(各地からえり抜かれたツーリストはモスクワから出発する)、チェコでしていいこと悪いことなどの講習を受ける。ホテルでの振る舞い、店での買い物の仕方など、説明を受ける。旅行先での単独行動は禁止だ。持ち出せる外貨はわずかなので、どんなお土産を考えて買ったか、など、話してくれた。
 昔、社会主義を標榜していた時代、社会保障がそれなりに行き届いていたかと言うと、必ずしもそうではない。モティギノに、ある収入の少ない母子家庭があり、その母親は手当てが出るよう、役所に請願した。役所ではたらいまわしにされ、挙句の果てには嘲笑さえされた。絶望した彼女は役所前で自分にガソリンをかけ火をつけた。抗議の焼身自死だった。役所は、母親の親せきに、実は彼女は気が狂っていたのだと言う署名をさせた。
 プーチンの人気は絶大だ。大概の人は支持している、ように見える。しかし、実はそれほど支持しているわけではない。「メドヴェージェフ首相が豪華な自宅、つまり自分用宮殿を建てたって、ヤフーのニュースに載っていたよ」と言う。首相だけではなく、プーチン政権下で汚職が横行しているとか。プーチンだって蓄財しているだろう。しかし、彼に大切なのはお金でではなく権力だろう。云々。しかし、プーチンは必ず当選してさらに6年間権力の座にいる。そのあとは、メドヴェージェフはもう御用済みで、別の大統領をたててタンデム体制を続けることだろう。長期政権ほど腐敗していく。
「なぜ、プーチンを支持してるの。」
「いや、支持はしていない。しかし、そういうことを公然と言った多くの政治家やジャーナリストは何かの口実で処分されたか殺されたではないか。自分たちが言ったとしたら、そのことでは逮捕されるようなことはないが、別件で逮捕されるかもしれない。かばんの中に麻薬を入れられるとか。」
 そんな話はよく聞いた。昔から、こんな話はされていたようだな。変わっていないところも多いな。
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