クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
              Welcome to my homepage

home up date 06 May, 2018 (追記:2018年5月9日、9月14日、2019年1月3日、12月26日、2022年1月10日)
36−(3)   2018年極寒のクラスノヤルスクとバイカル(3)
モティギノ町からクラスノヤルスク市へへ
        2018年1月28日から2月13日(のうちの2月1日から2月2日)

Путешествие в Красноярске и на Байкале эимой 2018 года (28.01.2018−13.02.2018)

 極寒のクラスノヤルスクとモティギノ (地図
1 1/28-1/29 クラスノヤルスク着 スラーヴァ・ルィヒン エニセイ街道 モティギノ着 (地図)
2 1/30-1/31 飛行場。学校 パルチザン金鉱 南エニセイスク。ラズドリンスク モティギノ博物館
3 2/1-2/2 モティギノの病院 ドラマ劇場、ルィブノエ村 遠回りのカンスク経由 バライ村村長、クラスノヤルスク市へ
4 2/3-2/4 見張り塔(礼拝堂) ファン・パーク ダーチャ イルクーツクへ
 氷のバイカル
5 2/5 ヤクーチア郵便街道を バイカルの娘たち 『バイカルのさすらい人』 『ニキータの館』
6 2/6-2/7 フジール村再会 オリホン島南観光 氷上バレー ドイツ人メルツ校長
7 2/8-2/20 学校 ハランツィ湾の氷 北コース観光 氷上の長い割れ目
8 2/22-2/13 イルクーツクへ戻る ポーランド・カトリック教会 コルチャーク像 ハバロフスクのタクシー
 モティギノの病院
ヴァルヴァーラさんのカルテを受付で受け取る
受付横にある病院の全医師表
廊下で待つ
外科の外来診察室に入れてもらった
病棟の3人部屋のベット
病棟のトイレ、左がビデ
病棟の医師と看護師
 2月1日(木)。当初から、クラスノヤルスクからモティギノまで行くのに1日、モティギノで2日くらい滞在、帰りに1日と言うような緩やかな予定だったが、モティギノに3日滞在と言うことにして、クラスノヤルスクに戻るのは2月2日に決めた。クラスノヤルスク発イルクーツク行の列車のチケットは4日だからだ。モティギノ滞在を1日伸ばしたのも、モティギノ・ドラマ劇場に訪れていないからだ。エリザヴェートさんが連絡をとり、午後1時半に行くことになった。午前中はモティギノの唯一の病院へ行く。モティギノには以前は、孤児院や、老人と身障者(両者は同じとみる)ホームなどがあったが、レソシビリスク市の施設に統合されてしまった。入所者は、それらの施設に送られた。高齢者施設はぜひとも見学したかったが、ここではかなわない。(2004年、エヴェンキヤのヴァナヴァーラ町で見せてもらったことがあった。)
 病院はエリザヴェートさんにも用事がある。母親のヴァルヴァーラさんのために処方箋を書いてもらうのだそうだ。10時ごろスラーヴァ運転の車で病院前に到着。病院は郊外にあって、かなり広い敷地内に、管理棟、外来棟、外科棟、小児外来棟、小児外科棟、伝染病棟、検査棟、病床棟などのいくつかの棟が、どれも木造2階建てで建っている。エリザヴェートさんと外来棟に入る。狭い廊下の両脇には、診療科名などを書いたドアが並んでいる。待合室や待合ホールはなくて、廊下の壁側に椅子が並んでいる。椅子に座りきらない患者は立っているので、廊下は人をよけながら通らなくてはならない。
 受付を済ませたエリザヴェートさんは、厚さ5センチ以上の分厚い紙束を手にしている。これが82歳のヴァルヴァーラさんのカルテだ。昔の日本では紙のカルテは診察室の棚に並んでいた。患者が手に取って各課を回ることもなかったと思う。しかし、ここでは受付ですべての病歴を記入した自分のカルテをうけとり、それを手に持って回るわけだ(そのうちコンピュータに入れるようになれば、現物を手に持って回らなくても済む)。モティギノには病院はここしかないから、病歴はここだけに保存されている。都市では地区ごとにいくつかあるが、その地区の患者はその地区の病院だけに行くので、自分の病歴のカルテはそこだけにある。引っ越しなどするときは、カルテをもらっていく(窓口手続きは簡単ではないだろうが)。こうした国立の病院は、全住民が医療保険にはいているので無料だ。大都市などでは私立の医院も多いが、有料だ。当然、施設と医療水準が大きく違うだろう。田舎には無料の医院しかない。高額の医療費を払える田舎人は都会の病院へ行く。私立のクリニックは検査や治療毎に細かくプライスリストがある。
 受付を済ませた、つまり自分のカルテの束を受け取った患者は目当ての診療科の前の椅子で待つ。自分はだれの次かをよく覚えておかなくては、順番抜かしをされる。モティギノ区にはいくつかの町村があるが、診療所は6カ所しかなくて、それぞれ、医師が一人から数人いる。区全体では39人も医師が勤務している。モティギノ町の病院には30人ほど医師がいて、受け付けの近くにはその一覧表が掲げてある。何番のドアがどの科なのか、受付時間はいつか、医師が誰で、その医師は何級かも出ている(医師にはカテゴリーがある)。休暇中の医師や研修中の医師もいる。
 私の感じでは田舎では75%以上が肥満だと思う。看護師さんも患者さんも75%が肥満。エリザヴェートさんと整形外科前の椅子で長い間待っている間、狭い廊下を通り過ぎていく医療関係者を眺めていた。肥満の人は体をゆすってゆっくり歩く。
 観察している間に、思ったことだが、病気で苦しんでいる患者の苦痛の多い検査の時、言葉や態度で和らげてくれそうな看護師さんは、見た限りでは全員とは思えない(半数以下かも)。近くに胃カメラの検査室があって、そこから男性が出てきた。胃カメラを飲むとき、ここでは麻酔をかけない。(堕胎も麻酔はかけないこともある。麻酔は有料となる)
 長い間、廊下で立って待っていた。エリザヴェートさんは、モスクワなどの私立の医院では待たなくてもいい。予約制だから、と言う。私立の医院のサイトの写真を見たことはあるが、そこでは待合室はソファが置いてある。こちらの満員廊下の壁際長椅子と比較。
 エリザヴェートさんにはもちろんここでも知り合いがいる。だから、私を外科外来診察室に呼んでくれ、看護師さんや医師と少し話をさせてくれた。医師はウズベック人だと言う男性外科医だった。
 私はあまり質問を用意してこなかった、と言うより何か質問するのは悪いような気がしたので、彼の質問に答えただけだった。処方箋を書いてもらったエリザヴェートさんは帰ろうとするが、できたら病床も見たいものだと言ってみる。外部の者は入れないが、エリザヴェートさんが病床棟の看護師さんと知り合いなので、入れてもらえることになった。床を汚さないように長靴の上からビニールカバーをかける(空港の持ち物検査などでもおなじみのもの。)
 病床棟も木造2階建てであまり病室は多くはない。2階の3人用の病室が今空いているので見せてもらった。室内の設備はベッドの他、洗面所と各ベッド横の枕頭台の他は、ベッド周りのカーテンもなかった。緊急搬送患者用ベッドもあって酸素ボンベが横にあったが、カルディオスコープなどの医療器具はかなり古そうだった。患者用トイレも見せてもらった。便器には便座がないのが普通だ。(都市での家庭トイレにはある。別売りなのかな)。
 日本のような温水洗浄機はないだろうが、病院だから何かあるかもしれないと聞いてみると、案内してくれた女の子が、ビデがあると言う。便器の横にもう一つ低い便器があって、噴水のように水が出るようになっている。(グローズヌィ・ホテルのビデを思い出し)、でもこれでは目当ての場所に当たらないのではないかと言うと、ほらこうして調節するのですと、蛇口の部分を指で動かした。トイレは前向きで座り、ビデへ移動して後ろ向きでしゃがむのかなあ。
 1階にはこざっぱりした食堂がある。動ける患者はここへきて食事するそうだ。
 帰りに薬局へ寄って、ヴァルヴァーラさんの薬を買う。薬局はコンピュータ化されていて、試しに日本でも売っている薬品名を言ってみると直ちにその効用と値段をいってくれる。日本で100%自費で買うより少し安い。在庫があるのかどうかまでは聞かなかった。
 モティギノのドラマ劇場、ルィブノエ村
劇場のロビーで
近々公開の舞台
劇場の衣裳部屋
劇場の支配人たちとお茶を飲む
ルィブノエの保育園。
子供の目の高さにあるプーチンの肖像写真
べリスク保育園の食堂
べリスク村の保育園で
 家で昼食後、約束の1時半にドラマ劇場に行く。こちらも木造2階建てだが、正面は劇場らしい作りだ。入っていくとクロークもある。1994年頃、劇団が結成されたそうだ。ホールも舞台も広くない。それでも賞状や感謝状がぎっしり飾られたロビーや(普通、劇団はロシア各地の大きくない都市で客演をして回る)、大道具室、衣装室などはなくてはならない。(劇場は、伝統的には昔の上流階級の社交場で、交わりの場は、観客席ではなく、幕間にお茶を飲んだりするロビーだ。) 衣装室には『JANOMEジャノメ』ミシンがあった。モティギノのような地方の小さな町が自前の劇場を持っているのはとても珍しい。俳優が11人、芸術家の8人は入れ替わりがある。私たちを迎えてくれたディレクター(支配人)のトゥカチュフ Ткачукさん、副演出のコゾデロヴァ Козодероваさん、副ディレクターのフヂャコヴァ Худякова さん、アドミニストレーター(管理人)のシャティルキノ Шатылкиноさんの4人の女性は常勤だ。彼ら4人は姉妹やいとこと言う関係。
パンフレットにあった劇場の
正面写真
 ひと通り劇場内を見せてもらった後、4人とエリザヴェートさんでお茶を飲む。この日は上演のない日だ。ときどき俳優さんが通っていった。チケットはいくらするのだろう。500円程度だ。もちろん、町から補助が出ている。入場料だけではやっていけない。話はいつの間にかエリザヴェートさんのクバーニ旅行の話になった。

 3時ごろには引き上げて、スラーヴァ運転の車に乗り、18キロ下流のルィブノエ村へ行く。
 シベリアは16,15世紀に数十人ずつのコザック隊によって、東へ東へと先住民の住む中に砦が築かれ、ロシア帝国領に汲み組まれていったのだが、彼らは水路を取って進んだ。17,18、19世紀、まだシベリア街道ができない頃まで物資の輸送は水路だった。19世紀半ばにモスクワからウラル山脈を越え、陸路でイルクーツク、その先のキャフタや ネルチンスクの清国との国境まで郵便馬車が通れるようなシベリア街道()ができるまでの輸送は、オビ川からエニセイへ渡り、アンガラからバイカルに出て、イルクーツクに至った。アンガラ川は当時シベリア侵略(後には通商路)のための重要通路だった。コサック隊は、アンガラ川にルィブヌィ川が合流してくる高台に、1628年ルィブヌィ柵を作り、ロシア東方進出の拠点とした。後に農民も移住し、砦の内外で耕作を行いコサックたちの食料を賄った。移住した農民は自由農民(つまり地主に属する農奴ではない)となり、スロボダ(地主屋敷のない自由農民の大村)ができた。1673年には29家族の農民が住み、船舶業や鍛冶業も発達してきたとある。
(*)主要シベリア郵便街道 Главный Сибирский почтовый тракт、 大シベリア街道 Большой Сибирский тракт、モスクワ・イルクーツク街道 Московско-Иркутский тракт, モスクワ・シベリア街道 Московско-Сибирский трактなどと呼ばれていた
 17世紀半ばには救世主教会 Спасская церковь、18世紀の初め頃にはルィブヌィ砦はコザックのプリスート присуд казачий(永遠にコザックのものとして神から宣言=プリスディーチされた土地。コサックの治める土地)の行政中心地であり、アンガラ航路の基地であった。19世紀には陸路のシベリア街道ができ始め、輸送路は南のクラスノヤルスクを通るようになり、行政の中心も北のエニセイスクから南のクラスノヤルスクに移った。こうして中国貿易路としてアンガラ航路はにぎわいを失ったのだが、1830年代南エニセイ針葉樹林帯に砂金が見つかり、一気に人が集まるようになった。つまりゴールドラッシュだ。砂金採集産業が発展すると、砂金場への入り口として、つまり、採集業の基地としてルィブノエやアンガラ下流の集落は活気づき、商館が建ち、商店や飲食店が建つようになった、と言うルィブノエ村だが、20世紀は行政中心地が南エニセイスク町に移り、その後はモティギノ町に移っている。現在は500人の寂しい村だ。ここにはアンガラ川を渡る航路と氷上路が通っているので、クラスノヤルスクなどから来る時は必ずこの町を通る。だから、この道を通るのは今回が2度目、明日の帰りにも通ることになる。しかし、ルィブノエの村に入るのは初めてだ。まず、砦が建っていたと言うアンガラ川岸の絶壁に行く。また、かつて教会があったが、崩壊した場所に建てられたと言う十字架の場所(の近く)へも行く。
 しかし、結局ルィブノエで見たのはエリザヴェートさんの知り合いの幼稚園だった。近くに住んでいてもなかなか会う機会も口実もなかった二人はこんな機会に会って話せてうれしそうだった。まずは、例の私の由来から始まり、ゴースト・タウンのパルチザンスク、そして時間があればクバーニの話にも及ぶ。職員の女性たちも勤務時間中に息抜きもできる。私は園内を見せてもらうため、園長室の彼らから離れる。小さなベッドが並ぶ部屋の壁にはおやすみなさいのくまさんの絵もあり、小さなテーブルの周りに小さな椅子が並ぶ食堂も愛らしい。幼児たちはもっと愛らしくて、年少組も年長組も人見知りしない。
 ルィブノエとモティギノの間にベリスクと言う小さな村があり、ここにも幼稚園がある。こちらは児童が減ってきている。たとえ、ベリスクに住んでいても親がモティギノで働いていればモティギノの幼稚園に入れるとか。
 遠回りのカンスク経由で帰る
 2月2日(金)。クラスノヤルスクへ帰るコースは来た時とは違うカンスク経由にしてもらった。10年前の12月、初めてクラスノヤルスクからモティギノに来たときは、アンガラ左岸の道路が通行可かどうかも、エニセイ川の渡し船がまだ運航しているのかどうかもわからなかったので、エニセイ川を通らないカンスク経由で来た。その時は林道の間にできた雪の深い狭い道を、すれ違う車もなく、暗闇の中を進んだものだ。村があっても今は無人だと言われた。当時クラスノヤルスク地方には通行できる交通路の情報が得にくかった。モティギノまで行って、エニセイ川の渡し船(フェリー)が運行していること、フェリーの乗り場までアンガラ左岸の陸路は通行できるとわかったものだ。だから、帰りはエニセイ川を渡って帰ってきたものだ。この方がずっと近道だ。
ウソルカ川辺
森の中にできた道路
道路の先から見える太陽
故障車の運転手に頼まれる
タセーエヴォ村、ジェルジンスキィ像

 今回は、その逆コースを行くことになる。4日前に来た時のようにエニセイ川氷上路経由だと402キロ、カンスク経由だと533キロだ。(この時期、もちろん渡し船は運航していない。渡し船が渡るような航路を氷上路で行く)。10年前、雪の深い寂しい林道だったカンスク経由の道を、もう一度通ってみたい。
 カンスク経由は大周りで時間もかかるので、朝7時過ぎのまだ暗い時間に出発した。ルィブノエ村でアンガラを渡るときも真っ暗だった。アンガラ左岸のマシュコーフカ村 Машуковка(モティギノから76キロ)でタセーエヴァ川を渡る頃、朝焼けが見えた。タセーエヴァを渡るとその左岸を行く(遡る)。タセーエヴァ川の雪原が見える。左岸支流ウソルカ川(356キロ)の合流点近くで、今度はウソルカ川の左岸を行く(遡る)。森の中に広い道ができ、除雪もされていて、快適な雪道だった。10年前は、マシュコーフスカ村からトロイツク村までのこの辺(約67キロ)が一番暗くて不安だった。今、道路の先から輝いている朝日が見える。道はほぼ南へ向かっているが、冬なので太陽は南の空低くを短距離移動するだけだ。トロイツク村まで来れば、ここからタセーエヴァ街道に入り、昔でも難なくカンスクまで行けた。カンスクからクラスノヤルスクまで連邦道R255(旧M53)が通っている。かつてのタセーエヴァ街道、今は地方道R410のカンスクからトロイツクまで(私たちの今回のコースとしてはトロイツクからカンスク)の159キロの道は17世紀後半からあった古いものだ。(当時はくねくねして159キロ以上あったかも)
 古くから道があったということは、トロイツク村はシベリアのロシア人村としては古いからだ。現在のトロイツクに、17世紀半ばエニセイスクの商人がウソリエ(塩釜)を作った。ウソリエ Усольеと言うのはもともと『ソリ сольの近く』の意味で、採塩所・製塩所をさす普通名詞。ウソリエのちかく流れる川はウソルカ Усолка川と名付けられた。(ウソルカ川の右岸にウソリエができた)。1676年、塩釜とその周囲の村を、エニセイ岸にある由緒あるトゥルハンスク(*)のトロイツク修道院が買い上げた。つまり修道院領となり、トロイツク・ウソリエとなった(**)。トロイツク修道院領の製塩所はシベリアで有数の製塩所となり、修道院は大いに富んだ。製塩技術者の他、数十人の修道院領の農奴も働いていた。しかし、1764年教会・修道院領の国有化が行われ、トロイツク製塩所も国庫のものとなった。トロイツク修道院領ではなくなったが、トロイツクの地名は残ったのだ。19世紀半ばには年間15万プード(2500トン)を産する大産地だったと言う。
(*)エニセイ川岸では最も古いコサック前哨兵基地が現在のトゥルハンスクにあった。シベリアは、ほぼ北からロシアの支配地が膨張していった。シベリアでは1600年にできた西シベリアのタス川岸の北極海交易拠点のマンガゼヤが最も早い基地の一つ。1607年、新マンガゼヤとしてエニセイ川左岸にトゥルハンスク(のちに旧トゥルハンスクとなる)ができる。1662年エニセイ川右岸にトゥルハンスク(初めは新トゥルハンスク、今はここのみトゥルハンスクと言う)ができ当時の交易の中心点となる。ちなみに、1619年エニセイのトゥルハンスクより下流(南)にトゥングーススキィ砦ができ、それがエニセイスク砦となり、1676年当時の東シベリアの行政中心地エニセイスク市となり、毛皮の集散地として栄えた。
(**)シベリアには岩塩が採れるところが多く、たいてい地名は何々ソリ何々とか『ソリ・塩』が入る。(ウソーリエ・シビリスク、ソリカムスクなど)
 10時ごろ、トロイツク村近くの自動車道を通り過ぎたのだが、トロイツクでは、製塩業はもう行ってはいない。19世紀末から生産量が落ち、2003年に操業は停止された。ウソルカ川と言う地名は残っている。道路はウソルカ川に注ぐ小さな支流をいくつか渡る。ヴァルニチヌィ(塩釜の)とかメリニチヌィ(水車の)と名前が表示されていて、往時の製塩業がうかがえる。
 道路には対向車もほとんどないが、1台の大型車が止まって運転手が外に出ていた。人里離れた場所で故障した車は、通りすぎる車に助けを求めるものだ。もし、通ればだが。しかし、材木運搬の大型車を、いくらランクルでもけん引はできないし、修理の手伝いもできない。運転手が手を挙げているのでスラーヴァは止まる。寄ってきた運転手の頼みとは、会社に電話をかけて、修理する車をよこしてもらうことだった。人里離れたこの場所では携帯が通じない。電話番号をメモしたスラーヴァはルジキ村 Лужкиまでくると、電話をかけてあげていた。
 タセエーエフ区の行政中心地タセーエヴォ村(人口8000人)はタセーエヴァ川辺ではなくウソルカ川辺にある。(『区』は районと男性名詞なのでタセーエフスキィとなる。川は女性名詞なので川の地名は女性名詞で語尾が『ア』となり『タセーエヴァ』。村は中性名詞なのでタセーエヴォとなる。地名となっているタセーエヴァ(川)やタセーエヴォ(村)はそのまま表記するが、形容詞のタセーエフスキィは語幹のタセーエフと、本稿では記する。以下同じ。例外もある)
 トロイツクからカンスクへの自動車道は村を迂回するバイパスがあるが、村の中へ入り、ゆっくり一回りすることにした。タセーエヴォは、ほかのシベリアの多くの村と同様、帝政時代、流刑地・懲役地だった。1909年フェリク・ジェルジンスキー()が流刑にされていたのだが、地元のボルシェヴィッキ(レーニンの党員)の助けにより逃走できたそうだ。だから、ジェルジンスキィが住んでいたとかいう木造1階建ての家は保存されている。その前に彼の胸像まである。
(*)ジェル人スキィ(1977-1926)1917年に「反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会 Всероссийская чрезвычайная комиссия по борьбе с контрреволюцией и саботажем(チェーカーつまり秘密警察を創設。1922年には再編成されGPU国家政治保安部、1954年ソ連国家保安委員会(KGB)の創設者「内務人民委員部附属国家政治局(GPU)」の初代長官
 しかし、ここから60キロほどウソルカ川岸を行ったところに、ジェルジンスコエと言う人口7000人の村があって、そこはジェルジンスキィ区の行政中心地だ。カンスクへの道の途中にあって、村を迂回する道路で通り過ぎた。ジェルジンスコエ村も18世紀前半にコサックが住み着きザイムカと呼ばれた。ザイムカとはシベリアによくある地名で『新開墾地』と言う意味の元々は普通名詞。住民が増え、木造のロジュデストヴェンスカヤ(『降誕祭」の意)教会が建てられ、村の名もロジュデストヴェンスコエと信心深い村名となったが、1931年には秘密警察創設者のフェリクス・ジェルジンスキィから、ジェルジンスコエと革命的な村名に変わったのだ。と言うのも1909年シベリア流刑から逃走途中のジェルジンスキーがしばらくかくまわれていたからだと言う。
 ジェルジンスコエ村からカンスク市までの80キロはカンスク盆地を通る。カンスクは9万人の都市でクラスノヤルスク地方では4番目に大きく(2位ノリリスク18万、3位アーチンスク10万)、クラスノヤルスク市と同様、17世紀に先住のエニセイ・クィルギス人たちの地に、ロシア帝国の領土拡大の基地として造られた砦から発展している。ここも市内を迂回するバイパスを通って、連邦道R255号線に出て、西のクラスノヤルスクに向かう。
 ここまでくると面白いところは何もない。ただ10年以上前(1990年代)によく通った道を懐かしく眺めるだけだ。カンスク市から出たところに連邦道に直接面して軍事基地がある。道路から直接、レーダーや人工の小山が見える。シベリアの真ん中(東西の国境から最も遠方)のクラスノヤルスク地方には多くの軍事基地があるが、カンスク連隊統制(КП Канского полка)は軍事空港もある物々しい外観が外からも見える。1990年代に通り過ぎた時はレーダーも錆びているのではないかと思ったくらいだが、今は、活気づいている。 
 バライ村村長。クラスノヤルスク市はニーナさん訪問
 スラーヴァとかつての兄嫁オーリャと
その娘ヴィーカ
(後に、スラーヴァが送ってくれた写真)
 スラーヴァがこの連邦道のバライБалай村に兄のアリョーシャの先妻の両親が住んでいると言う(今の妻はスヴェータと言って、ヴォ―ヴァと言う男の子がいる)。道々スラーヴァはアリョーシャの長女のヴィーカ(先妻からの娘)に電話していたのだ。スラーヴァの姪のヴィーカはもう成人で、近いうちに母方の祖父母の住むバライ村に遊びに行く予定だと言う。アリョーシャの先妻は、アリョーシャと別れた後、別の家庭を持っているだろうが、ヴィーカの母方の祖父母はかつての婿の弟と穏やかに親戚づきあいをしているのだろうか。少なくとも電話でスラーヴァはヴィーカと親しそうに話していた。ヴィーカが、近くを通るなら祖父母宅に寄ったらどうかと勧めてくれたようだ。祖母はバライ村の村長をしているそうだ。
 連邦道R255には、カフェばかりかドライブインも以前よりは多く、長距離運転手が宿泊もできるモテルもある。12時半ごろ、その一軒に入って昼食。屋内にあるトイレは有料と書いてあったが、料金を取る人がいなかった。
 連邦道を久しぶりに通ると、イルベイ Ирбей村やザジョールヌィ市、アギンスコエ村へ行く曲がり角の表示も懐かしい。バライ村の表示は、なかなか現れなかったが、クラスノヤルスク市まで54キロと言うところに『バライ左2キロ』と書いた標識が目に入った。村の入り口には「バライ1896‐1886」と書いた不思議なモニュメントが出ていた。スラーヴァは、ヴィーカに教わった通り、母方の祖父母宅へ行く。戸を叩いてみると、出てきたのは祖父で、祖母の村長は村役場で仕事中と言う。お茶を勧められたが、村長さんに会いに行くことにする。
バライ村村長室のアンガンゾロヴァ村長
村長室の写真の横でスラーヴァ
ニーナ・フョードロヴナさん

 リュドミラ・アンガンゾロヴァ Анганзорова Людмила Альфоновнаと言う年配の女性が村長らしくプーチンとメドヴェージェフの肖像写真の前の、国旗を建てた規格品の机の前で仕事をしていた。村長だけではなく、村役場には職員が5,6人いるが、みんなに挨拶して写真を撮り、帰国後メールに添付して送付した。バライ村が1896年できたのは、クラスノヤルスクまで敷設されてきたシベリア幹線鉄道をイルクーツクへ向けて延ばすためだ。1896年、その建設関係者が住むためにできた集落だ。現在は人口千人余。
 シベリア幹線鉄道(*)には小さな駅が多く、急行はバライ駅にもカマルチガ Камарчага駅にも止まらない。カンスクとクラスノヤルスク間の247キロは列車によってはノンストップ。止まってもザジョールヌィ駅とウヤル駅ぐらい。準急で10駅ほど止まる列車でもカマルチガには止まるが、バライは止まらない。バライに止まるのは近郊電車だけで、その時はバライからクラスノヤルスクまで76キロで30駅ほどの停車駅があり、3時間以上かかる。自動車道では54キロの道程で数十分で行きつけるが。 
(*)シベリア鉄道のノヴォシビルスク - クラスノヤルスク間は1898年に開通、クラスノヤルスク - イルクーツク間は当時アジア最長であったエニセイ川の鉄橋が開通後の翌1899年に開通した。
 村長によると、バライ村の名所は駅と駅の横にある貯水塔だと言われたので、その写真も撮る。
 クラスノヤルスクへの54キロの連邦道と言うのは曲がりくねり道幅が狭く交通量も多いと言う箇所がいくつもあって、運転には神経を使う。だから、スラーヴァはカンスク経由でクラスノヤルスクに戻るのはあまり好きではないと言っていた。 この危険な道は私の知っている限りの20年以上前から変わっていない。

 クラスノヤルスク市内へは迂回路を通って入った方が便利だ。だが、17世紀からあるというエニセイ川の右岸に沿った14キロの長い道(現在はクラスノヤルスク・ラボーチィ大通りと言う、かつてはモスクワから中国へ行くシベリア街道の一部)を通るようスラーヴァに頼んだ。この大通りは市の端にあるごみごみしてやたら路上駐車の多い青空マーケット(クラスノヤルスク市で一番大きい市場・ソ連風)から、市の中心のコムナリ橋に一直線に走っている。交通量が多く、道路状態も悪く、以前クラスノヤルスクに住んでいた時は通りたくない道だった。が、仕事場(日本語を教えていた学校)があったのでやむなく通ったものだ。今、迂回路ができたのかこの大通りは、それほどごたごたしていないし、市場も屋内に入り、駐車場ができたのか路上駐車も多くない。クラスノヤルスク・ラボーチィを通ってもらったのは、橋の近くにあるニーナ・フョードロヴナ宅へ寄るためだ。
 今は老齢のニーナ・フョードロヴナさんに初めて会ったのは1992年ゼレノゴルスク市でだ。2003年の2か月間ほども、進退に困った私を居候させてくれたこともある。帰国後、クラスノヤルスクに来た時も泊めてもらったことがある。クラスノヤルスクに来た時は必ず挨拶に寄ることにしているが、最近は夜、空港に着いて、朝出発するようなトランジットだったので寄る機会がなかった。今回は、時間を見つけて寄ろうと思っていた。カンスクからの帰り道の今がちょうどいい。だからバライを出発すると、彼女に電話をかけた。
 ニーナ・フォードロヴナのアパートに着いたのは夕方5時半ごろ。2時間後に迎えに来てもらうことにして、スラーヴァと別れる。スラーヴァもご苦労様。私のスーツケースを乗せて彼は去る。たぶんディーマがその車(ランクル、自分の車)で私を2時間後迎えてくれるだろう。
 ニーナ・フョードロヴナは1931年生まれで87歳。数年前、彼女は自伝を書いた。私は読んでいない。彼女は秀才だったらしくモスクワの国際関係大学を卒業したことは知っている。英語と中国語科だった。卒業生は外交官になり、彼女の同級生は中国大使になったそうだ。卒業後、クラスノヤルスク空港の通訳として働いた。当時、中国との関係が良好で代表団が訪れていた。と言うことはKGBにも関係していたことになる。その後、クラスノヤルスクの大学で英語を教えていて、私と会った頃は、もう退職した彼女は中国語と英語の個人教師をしていた。妹と弟がいたが、私がゼレノゴルスクからクラスノヤルスクに引っ越した時、家具の移動を手伝ってくれた弟は亡くなり、妹の二人の息子の家族とはよい関係にあるが、妹とは疎遠だそうだ。3回結婚して、3人とも死んでしまった。彼女の部屋には、幼い時の家族写真、3人の夫の写真、最近の自分の写真などがバランスよく飾られている。
 ニーナ・フョードロヴナは私に夕食やお茶を出してくれて、会話を保とうとしてくれた。アルバムを見せてくれ、人物と状況の説明をしてくれたが、私にはこれは苦手。自伝の草稿を私宛のメールに入れてもらった。彼女はスカイプで友達と定期的に交流している。ドイツに移住した友達、モスクワの友達などと、時間を決めておしゃべりをしているらしい。パソコンは、ワードとメールとスカイプーが使える。数年前、訪れた時、メールに写真を添付する方法(簡単)を教えてあげた。今回、携帯があったのでショートメールを教えてあげようとしたが、ほとんど使わないそうだし、ネットにもつながっていないので、ワッツアップなどでは写真は送れない。
 2時間後にディーマが迎えに来てくれて、前回のホテルに案内される。スラーヴァはディ・アパートを借りて、せっかくノヴォシビリスクから来たのだから、私の案内ばかりではなく、まだ数日クラスノヤルスクで仕事をするそうだ。
(後記:スラーヴァとは挨拶することなく私は去った。だが2019年1月2日に、彼が日本滞在中は住んでいる滑川市のマンションに用事があって出かけ、会うことができた。その時にもらった写真の何枚かを本サイトに添付した。)
(後記:2019年10月21日 午前8時にニーナ伯母さんが亡くなったと、彼女の甥のアンドレイからその日にメールが来た。88歳だった。病院へ行くことは断固拒否して自宅でアンドレイさんの看護の許、亡くなったそうだ。)
HOME  ホーム 前のページ ページのはじめ NEXT 次のページ