クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
              Welcome to my homepage

home up date 26 January, 2018
2016年 北カフカス(コーカサス)からモスクワ (6)
    チェチェン2
        2017年7月9日から7月27日(のうちの7月17日)

Путешествие по Северному Кавказу и москве, 2017 года (9.7.2017−27.7.2017)
   ロシア語のカフカスКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スとも聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus

  6/25-7/9       モスクワから北ロシアのコミ共和国
1 7/9−7/11 ウラジカフカス(地図) 山岳サニバ村 サニバの社 ギゼリドン峡谷 フェアグドン峡谷
2 7/12-7/13 バトラス ルーテル教会 トランスカム アルホン村 失われたオセチア
7/14 カバルド・バルカル共和国に向かう アディゲ(チェルケス、カバルダ)人の地(地図) チュゲム峡谷 カルマコフさん
7/15−7/16 ディゴーラ地方へ(地図) ストゥル(大)ディゴーラ カムンタ村 ウアラグコム(上の峡谷)
7/17 グローズヌィ市に向かう 国立図書館 チェチェン地理 アングーン峡谷へ シャトイの戦い ハッコイ氏族
7/17 サッティの塔 ハルセノイ村 ニハロイ滝群 ウシュカロイ塔 チェチェンの心 グローズヌィ・ホテル
7/18 アルグン市をぬけて ヴェデノ村 ハラチョイ村からハラミ峠 カゼノイ湖 ホイ村 ザクリエフさん
7/19-7/21 ゼムフィラさん アナトリア半島のスミュルナ カルツァ滝 ウラジカフカス駅発
7/22-7/27 モスクワ州のアパリーハ団地(地図) モスクワの大モスク トレチャコフ美術館 はとバスとクレムリン壁 ツァリーツィノ公園 プーシキン美術館
 サッティの塔
 シャトイ村で、アルグーン右岸支流に沿った道へ曲がりパーミャトイПамятойと言う小さな村を過ぎ、サッティСаттиと標識のでている村(700人)に入る。ここには3本の塔の丸屋根が緑色のイスラム礼拝所がある。この村の近くの原っぱに『サッティの塔』がある。ゴチカリン見張り塔Гочкалинская строжевая башняと昔ははよばれていたそうで、13−14世紀にこの場所に建てられた。現在の塔は最近復興されたものだ。ヴァイナフ様式で、チェチェンらしい。マゴメド・ザクリエフさんが車をつけると、先客もいた。家族で来ていたようだ。7,8歳くらいと5,6歳くらいの少年がいた。車のオーデオを大きくかけ、二人の少年がチェチェンのダンスを踊り、父親らしい男性が手拍子を取り、掛け声をかけていた。かなり激しい動きなので少年たちは交代で舞台(とした塔の前の空き地)に出て、上手に切れ目なく男性の手拍子と合いの手の掛け声、車から響いてくる曲に合わせて踊っている。年長の少年は身のこなしが巧みだった。
 しばらく眺めて、動画も撮った。アスランと塔に上る。復興されたと言う塔の内部はオセチアにあるものとあまり変わりなかった。木の床があり、登りにくい梯子段がついていて、各階には窓が開いていた。元の塔はずっと高く立派で、今は(カフカス戦争以来)すべてがなくなっているシャトイの塔と信号をやり取りしていたそうだ。
 サッティ村にはサッティ氏族が住んでいた。アルグーン峡谷は1988年に史跡自然公園(野外博物館)に指定されている。(チェチェン戦争の後の今はどうか知らないが)150基以上の塔と、20基の歴史的建造物、15基以上の地下または半地下納骨堂があるそうだ。かつては集落が一つ以上の氏族からなり、1基以上の塔を建てていたから、古い集落は最大、塔の数だけあった。
 ハルセノイ村
 私達はシャトイ村に戻りアルグーン川に沿って上流への道を行く。出たところで分かれ道があり、『直進イトゥ・カリИтум-Кали20キロ(*)、右折ヴァランディВаранды7キロ、ハルセノイХарсеной21キロ』と書いた標識があった。ヴァランディ村もシャトイ盆地の北西の端にある。1944年から1956年のチェチェン人強制退去でチェチェン・イングーシ自治州が廃止されていたころは、ここにダゲスタンからアヴァール人(*ダゲスタンにはチュルク系のクムィキ15、アゼルバイジャン4.5%、ノガイ人1.4%やカフカス系のアヴァール人29、ダルギン17、レズギン13と多くの民族がすむ。)が移住して来て、村名もアヴァール村となった。
 ハルセノイ村の方は、アルグーン川ほとりのシャトイ盆地から遠く、マルタン川上流辺の小さな盆地(ヒオルサナ川と言う小さな支流の合流点、この川から村の名前ができた)にあり、ダリニィ(遠隔地)と村名が変えられていた。
 (前記のように強制移住で自治共和国が廃止され空白となった土地にダゲスタン人、ロシア人、オセチア人、グルジア人などが移住してきて、地名はすべて替えられた。フルシチョフ時代、自治州が復活するとそれらはすべて元のチェチェンの名前に戻った)
 ハルセノイ村は現在200人足らずの山岳遠隔地村だが、20世紀初めごろは500軒もあるような豊かな村だった。ネットにこの村で生まれた老人のインタビュー記事が載っていた。
<第2次大戦のときは40人ほどの男性が徴収され前線に送られたが、ほとんどの者は戻らなかった。ただ2名だけ生きて戻ってきたが、その故郷への帰還がどんな意味を持つというのか。1944年2月23日の未明に予告なしに全村人が一カ所に集められ、家畜のように追い立てられて、徒歩でヴァランディ村へ移動した。そこで初めの死者が出たが、弔うこともできず道端に置き去りにした。サマシキСамашки駅で家畜車両に乗せられ2日間は食料も水も与えられなかった。3週間後カザフスタンのアルマ・アタに着いたが途中の死者も多かった。皆雪の中に残してきた。アルマ・アタ駅で自分たちが座っているところへロシア女性が近づいてきて「あなたたちは何人か」と聞いた。「私たちはチェチェン人です」「まあ、ここへ人食い人種がやってくるから、近づかないようにと言われていたのですが、あなた方は私たちと同じ人間ではありませんか」。20年後チェチェンに戻ったその老人は今グローズヌィ郊外に住んでいる。>

 チェチェン独立派の野戦指揮官で、国際的に未承認のカフカス首長国の初代アミール(首長)(2007−2013)であり、チェチェン・イチケリア共和国の第5代大統領(2006−2007)でもあったドク・ハマトヴィチ・ウマロフДокка(Доку) Хаматович Умаровは1964年、この村で生まれている。
 第2次チェチェン戦争中2000年2月に『ハルセノイの戦い』と言うのがあった。それはロシア連邦軍の特殊任務部隊スペツナズподразделения специального назначенияが、待ち伏せていた独立派軍に壊滅させられたと言うものだ(戦死した将校たちはロシア連邦英雄に叙されている。平地にある首都グローズヌィを占領された独立派軍は山間部に退いたが、彼らと平地、または山間部同士の連絡網を断とうとするロシア連邦軍は、苦戦したらしい。
 ニハロイ大滝群
 私たちはハルセノイ方面の山岳地方への道へは曲がらない。アスファルト舗装の直進イトゥム・カリとある方へ行く。アルグーン川に沿った高い道路が絶壁の下に続いている。しばらく行った頃『ニハロイНихалой』と言う標識が見えてきた。ニハロイ村は道路に沿って300人くらいの村だ。私達は村を過ぎて道路から出る坂道を下る。坂道の道端に車を駐車させるところがあり、マゴメドさんは苦労してバックで留める。あご髭やほお髭を生やしたチェチェン青年や頭をヴェールで覆った若い女性たちが大勢歩いていた。ここはニハロイ大滝群と言う新観光名所だった。アルグーン川は細く深くなり、何本もの支流は滝となって深いアルグーン川に流れ落ちる。狭くなった両岸には頑丈そうな橋が架かっていた。橋の上か絶景のキャニオンが見下せる。橋を渡った向こう岸に売店もある。コッテージが何軒かあって宿泊できる。チェチェンらしい新観光地だった。景観はチェチェンらしく観光客もチェチェン人だが、施設はどこの観光地にでもあるようなものだった。もちろん宿泊施設や売店、峡谷を渡る安全な橋がないと人は集まらない。
 車に戻ってさらに先に進むと、道路はアルグーン川に沿って登っていく。ところどころ絶壁に川(支流)の水が滝となって流れ落ちている。15分ほど走ったところに検問所があった。『第51通行検問所КПП』とあって、マゴメドさんが、車から降りて書類を見せに、小屋へ入っていった。ちなみに帰国後ウィキマピアを見ると、ニハロイ村の近くのヴァルゾイВарзой村には『第42機械化師団』の司令部の一つがある。司令部はハンカラ(グローズヌィ郊外)とシャーリ村(チェチェン平野南のアルグーン峡谷入り口とХунхлау川の峡谷入り口の中間)と、このボルゾイにある。なるほど、チェチェンの村々は、今はチェチェン人住民が大部分なのに、ヴァルゾイ村だけはチェチェン人が20%、ロシア人49%となっている。『検問所51』はボルゾイに属してはいないかもしれないが、チェチェンの山道を走ると検問所は多い。
 アルグーン峡谷は、ウィキマップで見ると、多くの連邦軍基地がある。また、もっと多くの中世のチェチェン人の塔があり、廃墟村もある。
 ウシュカロイ塔
 検問所から5分も行ったところでマゴメドさんは車を止めた。急流のアルグーン川の対岸絶壁のわずかな段丘に石の塔が2基見えた。ウシュカロイ塔Ушкалойские Башняと言うそうだ。この場所がシャトイ共同体とチャンティ共同体(*)の境に当たるので、関税を取ったり、敵の襲来を告げたりするために建てられたのだと言う。南から行くにも北から行くにもどうしてもここを通らなくてはならないので、関税をとるのに最適であり、急流の絶壁にあるので守りが固く、守備塔としてもこの場所は最適だ。また、カフカスでは絶えず塔を建てていた、この場合は強力な氏族がこの場所で塔を建てたのだと言う説もある。
(*)アルグーン川上流をチャンティ・アルグーンというのも、9のТукхумのうちの一つЧанты部族が住んでいるからだ。チャンティの名は1621年の資料にも表れている、チャンティ部族は現在チェチェンを中心にグルジアなどに5万人、近縁氏族も含むと10万人が住む。

 ここは峡谷が最も狭くなった場所(36メートル)で両岸が絶壁になっているが、左岸には岩を削った自動車道がついている。私達はここから見たのだ。この道路は第1次チェチェン戦争と第2次チェチェン戦争の間に、アルグーン峡谷のさらに奥まで行くために独立派勢力が整備したものだそうだ。奥はカフカス山脈を越えてグルジアに通じる。
 4階建て12メートルのウシュカロイ塔は岩で囲まれた床の間のような狭い場所に、双子の塔のように立っている。11世紀に建てられたと言う。はじめから防御塔が2基あったのか、一基は住居用だったのか不明だ。当時の道は右岸にあった、アーチ型の橋もあったが、現在は断片しか残っていない。1944年北側の塔は完全に破壊され、南側の塔は2001年チェチェン戦争時、砲弾が直接当たって崩壊した。今、私たちが見ている塔は21世紀になって修復再建されたものだ。
 ウシュカロイ塔はシャトイ村から20キロほどだが、シャトイ区ではなく、すでに、イトゥム・カリ区に入ったところにある。同区はカフカス山中にあって、東のシャロイ区と並んでチェチェンの最も南、つまり奥にある。アルグーン川の峡谷はチェチェン人の故郷の一つだ。多くの塔がある。青銅器のコバン文化遺跡もある。イトゥム・カリ村は、チェンティ部族の中心だ。
 イトゥム・カリ区には現在31の集落があるが、そのうち半分以上は無人だ(登録された定住者はいない)。かつて、80ほどの集落があったが、そのうち50ほどは廃村となった。イトゥム・カリ区には事実上16村に約6500人が住んでいる。行政中心地のイトゥム・カリは1200人、10人以下の村もある。
 シャトイ区やイトゥム・カリ区はアルグーン峡谷にあり18−19世紀からロシア側にとっては統治しにくい場所の一つだっただろう。19−20世紀には蜂起も多かった。すべて残酷に制圧されたが。
 ウシュカロイ塔の対岸の道端に車を止めたのだが、周りはだれもいなかった。アルグーン川が音を立てて流れているだけで、道路の先にも後にも人影もなく、私たちのいる間は一台の車も通過しなかった。ただ、無人の作業車が泊まっていた。工事の途中なのか、事故や災害に備えておいてあるのかわからない。急流のアルグーン川の上を橋が架かっていて塔のある対岸に行けるようになっていたが、その橋は通行禁止のようだった。
 アルグーン川に沿った道をさらに奥へ進むと国境検問所があり、さらに進むとグルジアに出る。この国境は一般には通過できない。私達は、ウシカロイ塔を見て引き返した。
 帰りも同じ道で、アルグーン川が岩を削り堆積物を残して蛇行して流れる地形の様子を高所の道から見ながら進んだ。斜面が緩やかになったところには家々が見えた。
 『チェチェンの心』モスク
 グローズヌィ市に戻った頃には、建物の間から日没に近い赤い太陽が見えた、まだ7時過ぎだったが。『チェチェンの心』モスク(イスラム教礼拝場)前の広場に車を止める。夕方の礼拝の少し前のようだった。もっと近くでモスクを見ようとアスランと道路を横切る。マゴメドは自分の車の傍で待っている。回廊で囲まれたモスク内の広場に入る。アスランはトイレに行くと言う。私はその間、正面玄関に近づいてみた。すぐに私は
「入りたいですか」とヴェールを被った若い女性に尋ねられる。
「入ってもいいのですか。」
「いいですよ、もうすぐ夕方の祈りが始まります。ヴェールをつけて長着を着て下さい」。すぐに彼女はつい立ての横から、首から足先まですっぽりと包む長着をもってきて私にかぶせてくれた。持ってきたヴェールが地味だからと言ってもっと明るい色のヴェールをとってきてかぶせてくれ、首のところでかっこよく結んでくれる
「かばんは持って入れません、ここにおいてください。私は警察のものです、ちゃんと番していますよ」と言われるままにカバンを預ける。たまたま手に持っていたスマホだけ持って、入り口に向かった。
「入ったら右へ行って階段を上ってください」と言われる。中に入って、右の階段はどこかなときょろきょろしていると、
「この階段を上ってください」と男性に声をかけられる。
 プーチンがロシアに協力的なカディロフ派のために援助して建てた(2006‐2008年)だけあって、内部は息をのむほどの美しさだった。仏教寺院にも誰の像も置かなくて、こうした幾何学的な美に囲まれて祈り、魂の救いについて思いをはせたら…。祭壇や聖人たちのイコン(聖画)が壁を覆うロシア正教の教会より、私は美しいと思った。
 言われたとおり、引きずるように長い裾を手にもって、2階へ上がると、そこは女性用の階で、手すりから1階の祈りのようすが見下せる。モスク内はどこも厚いじゅうたんが敷いてあって快かった。2階も1階もあまり人がいなかった。1日数回の祈りを、この場所まで来て祈る信徒は、毎回はそれほど多くないのだろう。何か特別な時には、このモスクには内部に1万人、回廊や広場にも1万人以上が同時に祈れるそうだが。2階には、女性のグループが2,3あって、輪になってコーラン(多分)を読んでいた。一人窓際に座って本を開いている女性がいた。きりりとした顔立ち(目鼻口しか見えないが)の若い知的な女性で、2階に上がって珍しそうにあたりを見回していた私をはじめから見ていた。好意的な視線だったので、
「ここで写真を撮ってもいいですか」と聞いてみる。
「いいですよ、あなたを撮ってあげましょうか」彼女は慣れた手つきでアイフォンで何枚か私を撮ってくれた。顔が暗いのでフラッシュモードにしてもいいですか、とも訪ねてくれる。
 祈りが始まると、下の階には駆け込んでくる男性が何人もいて、前から順番に座って、祈っている。低く頭を下げて祈ると、みんなのおしりが高く上がって見える。1階のじゅうたんには横1列の織模様があり、模様に沿って座っている。小さな少年も若者も老人の姿も見え、先頭の列には一人だけが座っている。指導者と言われるイマームなのかウラマーと呼ばれるのか…
 お祈りは数分で終わった。2階の手すりから見ていた。先ほどの女性が読んでいた本もコーランだった。モスク備え付けの書籍だそうだ。彼女の名前を知りたかったが、カバンを外に置いてきたのでスマホしかない。スマホののメモ・アプリに名前と連絡先を記入してもらった。職業は医師と言う。
(*)帰国後、ワッツアップWhatsAppなどで挨拶を送った。彼女の氏族はШирдиだと言う。それは南東のイチケリア地方にある村の名前でもある。その後のSMSの文通でわかったことだが、マーディナ・アシエヴァさんは、29歳、独身で両親と共に、このモスクの近くに住んでいて、1日5回祈っているが、モスクで祈ることはまれである。女性は家で祈ることが好ましいとされている。両親はルスランとファーティマと言い、医師だ。妹が二人いて一人のАминаは法律家で結婚していて男の子が生まれた。下の妹はХаваと言い、医学部の学生だ。マーディナさんは医学部と法学部を卒業してサンクト・ペテルブルクでインターンをしていた。現在グローズヌィでメディカル・ソサイエティ鑑定委員会で、神経科医として働いている。
 モスクの外に出て、先ほどの愛想の良い自称女性警察官がカバンなど置いてある棚の前に座っているところへ行く。
「何度も携帯が鳴っていましたよ。きっとあなたを探しているのですね」と言う。何も言わずに別れたアスランや、車のところで待っているマゴメドさんが心配してかけたのだ。
「あなたはどこの国にからいらしたのですか」と聞かれる。日本からですと言って、好意的に驚いてもらう。預けたカバンの中にはルーブル紙幣もパスポートも電子辞書も最小限の身の回り品も入っていたのだ。
 車が待っている広場に戻ってみると、マゴメドさんとアスランが私に何度か目の携帯をかけているところだった。実物が現れてほっとしたようだ。モスクの中に入ることになって、夕方のお祈りをしてきた(その場にいただけだが)と伝える。空は薄暗くなって、モスクの明かりが冴えている。
 グローズヌィ・シティ・ホテル
 これからアトリエに戻ってお茶を飲もうと言う。私はモスクの背後にあるグローズヌィ・シティのグローズヌィ・ホテルでお茶を飲みたかった。マゴメドさんは、そこは血の場所だから絶対に行きたくないと言う。チェチェン戦争中その場所でも大勢が亡くなったに違いない。アスランはそういう意味ではないと言う。
 アトリエで、3人でお茶を飲む。ここでアスランと泊まれないことはないが、グローズヌィのホテルに泊まってもいいと思う。いっそ、5星と言うグローズヌィ・ホテルの高くない部屋に泊まったらどうだろうか。マゴメドさんやアスランに悪かったので、ただ、グローズヌィに来たと言う記念のためだけにそこに泊まってみたいのだと言い訳する。アスランは「お金があるのか」と聞く。お金はなくはないがカードの支払いを受け付けてくれるなら可能だと答える。もしびっくりするくらい高かったら、別の3星くらいのホテルにしよう。
 マゴメドさんの車で行ってみる。アスランが、『最も経済的な値段の部屋』を聞いてくれる。6500ルーブル(12297円)で、カードも使えると言う。もし、モスクの見える部屋に泊まりたいなら少し高くなる。横にいたマゴメドさんがそれは隣の部屋に行って見ればいいではないかと言ってくれる。受付の男女はとても愛想がよかった。私はいつものショルダー・バッグの他に、小さな不格好な袋を持っていたが、さすが5星ホテルでポーターさんがついたので、そちらを持ってもらった。2011年建立と言う。まだ、どこに目を向けても新しく、宿泊した有名人も多かったらしい。
 室内に入るとテレビがついていた。イスラムらしい男性が非ロシア語で、たぶん教えを説いていた。ロシア語なら聞いてもよかったが、チェチェン語かアラビア語ならイントネーションしかわからないので消した。備品は、ホテルにあるようなものが一応そろっていて、物はよさそうだった。風呂場のトイレには洗浄ボタンの他にビデと書いたボタンもあった。(翌朝試してみたのだが、残念ながらそのボタンを押しても必要なところに命中する代わり周り中、水だらけになった)。体重計もあった。
 ホテルは32階建てで私の部屋は25階で、モスクやミナレットは見えないにしてもチェチェンの夜景が見られた。最上階にはレストランがあって、夜景も見られますと、エレヴェーターで登るときポーターさんが言っていたので、ホテル内探検に行ってみた。のっぽビルの建物で全室303あり、たぶん26階以上はルックスになるのか。私の泊まったようなスタンダードは115室ある。丸屋根のある最上階のレストランに上がる前に31階を見たが、この辺りはスウィートなのだろう、ナンバーの付いた部屋のドアが2,3しかなかった。レストランは、ニューリッチと言った人たちが座っていた。
HOME  ホーム 2016年カフカス 2017年モスクワからコミ BACK 前のページ ページのはじめ NEXT 次のページ