クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 26 January, 2018 (追記:2018年7月18日)
2016年 北カフカス(コーカサス)からモスクワ (9)
    再びモスクワ
        2017年7月9日から7月27日(のうちの7月22日から7月27日)

Путешествие по Северному Кавказу и москве, 2017 года (9.7.2017−27.7.2017)
   ロシア語のカフカスКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スとも聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus

  6/25-7/9       モスクワから北ロシアのコミ共和国
1 7/9−7/11 ウラジカフカス(地図) 山岳サニバ村 サニバの社 ギゼリドン峡谷 フェアグドン峡谷
2 7/12-7/13 バトラス ルーテル教会 トランスカム アルホン村 失われたオセチア
7/14 カバルド・バルカル共和国に向かう アディゲ(チェルケス、カバルダ)人の地(地図) チュゲム峡谷 カルマコフさん
7/15−7/16 ディゴーラ地方へ(地図) ストゥル(大)ディゴーラ カムンタ村 ウアラグコム(上の峡谷)
7/17 グローズヌィ市に向かう 国立図書館 チェチェン地理 アングーン峡谷へ シャトイの戦い ハッコイ氏族
7/17 サッティの塔 ハルセノイ村 ニハロイ滝群 ウシュカロイ塔 チェチェンの心 グローズヌィ・ホテル
7/18 アルグン市をぬけて ヴェデノ村 ハラチョイ村からハラミ峠 カゼノイ湖 ホイ村 ザクリエフさん
7/19-7/21 ゼムフィラさん アナトリア半島のスミュルナ カルツァ滝 ウラジカフカス駅発
7/22-7/27 モスクワ州のアパリーハ団地(地図) モスクワの大モスク トレチャコフ美術館 はとバスとクレムリン壁 ツァリーツィノ公園 プーシキン美術館
 モスクワ州クラスノゴルスク市アパリーハ団地
 7月22日(土)。早朝モスクワのカザン駅に着いた。ジェーニャ・パヴレンコさんとヤミーリャさんが迎えてくれる。駅を出て、歩いて地下鉄の駅まで行き、地下鉄は乗り換えて、シューキンスカヤШукинскаяと言う地下鉄駅まで来ると、クラスノゴルスク方面へ行くため、トゥシノТушиноという校外電車駅にまた段差のある道を歩いてたどり着き、この郊外電車を20分ほど乗ってアパリーハОпалиха駅で降りる。そこから歩いて10分ほどで彼らのマンションに着く。
 モスクワ方面のどこへ行くにも帰るにも、シューシンスカヤからアパリーハまでは同じコースだ。前回と同じ部屋に落ち着いて夕方4時ごろまでマンションで休憩する。それからアパリーハ村の散歩。
 ちなみに地下鉄は何度乗り継ぎをしても入ってから出るまで35ルーブルだそうだ。次の日、ヤミーリャさんとモスクワ見物に出かけた時、最初に、トロイカと言うカードを買う。500ルーブリ分をモスクワ公共交通機関共通で乗れるそうだ。地下鉄1回乗車は普通の切符(メダル)では55ルーブル、このプリペイト・カードでは35ルーブルですむ。
パヴレンコさんのマンションの窓から
マンション住民用ごみコンテナ小屋の前

 アパリーハはクラスノゴルスク市に属する住宅団地の一つだ。クラスノゴルスク市はモスクワ市の北西の境界に接しており、モスクワ市との間にはモスクワ環状道路(MKAD)が走っている。モスクワ市中心部からは25キロメートルほどで、人口は15万人。2007年から、モスクワ州の行政中心地モスクワ市から行政機関の一部が移されている。だから、モスクワ市はロシア連邦の首都であることは変わりないが、モスクワ州の州庁所在地ではなくなりつつある。
 アパリーハは古くは貴族の邸宅が建っていた。つまり、地主の屋敷のある村だった。地主が農奴や家畜、池など一切の所有者だった。ソ連時代は、地主の邸宅が『休息の家』(保養施設・郊外ペンション)になり、また、モスクワ市に近いことや、周囲に有害な工場もなく森に囲まれていることで、別荘地として発展した。モスクワからリガに行く鉄道のアパリーハ駅がある。2004年からはアパリーハ村などいくつかがクラスノゴルスク市の一部となり、住宅団地として高層住宅が建つようになった。
団地内の公園のパヴレンコさん夫婦

 団地内を散歩してみると、よく整備された公園がある。『フロワード岬(チリ、南アメリカ最南端)15 562キロ』とか、『喜望峰10 212キロ』とか、『ロッカ岬(ボルトガルのユーラシア大陸最西端)3901キロ)』とか、『バイロン岬(オーストラリア大陸最東端)14 233キロ』、『デジニョーバ岬(ユーラシア大陸最東端)6272キロ』とか、『チェリューシキン岬(ユーラシア大陸最北端)3472キロ』などと書かれた板が四方八方に向けられて貼りつけられたポールもあって、地理の勉強になる。ポールのある広場は3方が森で囲まれ、一方は『アパリーハO2』と言うウルバン・グループ(建築業もやっているのか)の建てたたマンション群がある。なぜ『O2』なのか。酸素と環境の良さを連想させるからだそうだ。さらに『アパリーハO3』と言うマンション群も建設中だ。こちらはオゾンを連想させるのだろうか。マンション群だけではなく、アパリーハ団地はソ連時代の別荘地だったのでソ連邦功労者に支給されたような古い別荘もある。一軒家の金持ち邸宅もある。庭園付き宮殿と言っていいような豪宅の地所は並んで数カ所あるようだ。監視カメラの付いた高い塀が連なっている。そこの場所だけは道路が整っていて道端に花壇まであるが、そのほかの場所、特に駅の近くなどは穴ぼこ道路で、歩道は水たまりとごみ。車は歩行者を蹴散らして走る。
 歩道にごみは多いが、パヴレンコさん達のマンションには住人専用のごみ置き場小屋があり、鍵のかかる柵の中に大きなコンテナが5個ほどに置かれている。住民だけがその鍵を持っているわけだ。ゴミの分別は行ってはいない。数日後のことになるが、ヤミーリャさんとプーシキン美術館へ行こうと朝出かける時、ついでに彼女は家からごみ袋を持って出た。ゴミ置き場小屋に行くと、鍵が開いていて中にごみ収集人らしい男性がいた。もう少しすると収集トラックが回ってくるのだろう。どんなトラックで、どうやって収集しているのか、なぜ彼はトラックがまだ来ないのにそこにいるのか、確かめてみたいと切望したが、ヤミーリャさんから「プーシキン美術館へ行くの?いかないの?」と怒られて断念した。その男性はゴミ設置場所からペットボトルなどを集めていた。市のリサイクル課の職員のようにも思えないので、小遣い稼ぎでもしていたのだろうか。

 パヴレンコさんとは1か月前のロシア到着の時以来久しぶりだ。あれからコミ共和国と、カフカスを回った。チェチェンにも行って、5つ星ホテルと言うグローズヌィシティ・ホテルにも泊まった。そこではビデと言うボタンはあったがどうしても命中できず、周り中水だらけになったと言う話をすると、彼は「ふん、チェチェンはまだそこまで行ってないのだ」と差別的な発言。ウクライナ人の彼もチェチェンは遅れていると見下しているようだ。ロシア人がチェチェンのことをいうとき、そこには何か好意的でないものがある。わずかに蔑みと恐れが混ざったような。私も長い間クラスノヤルスクでロシア人と一緒に暮らしていて、その気持ちが移っていたが、北カフカスへ2度行ってみると、彼らの蔑みと恐れの源がわかったような気がする。(追記:後にサハ(ヤクチア)人が言っていたことだが「チェチェン人を打ち負かすことはできない」。ロシア人はロシア連邦内の非ロシア人を蔑む傾向がある、サハ人をも含めて)
 モスクワのイスラム大モスク
 7月23日(日)。パヴレンコさん宅に5泊6日間お世話になることになる。4日間は終日モスクワ観光できる。ロシア旅行前、メールでパヴレンコさんが強く勧めてくれたような気がして、6日間も逗留することにしてしまったが、モスクワは実は興味がない。特に見たいところはない。日本からコミとカフカスへ行く途中でどうしても乗り継がなくてはならないので寄ったと、パヴレンコさんに思われたくないので、モスクワには見どころが多いと相槌は打った。何度も来ているモスクワの観光名所はほぼ回ったので、あとはその変化を見ることぐらいだった。美術館や博物館には一流品のオリジナルがあるが、去年のエルミタージュと比べて、今、あまり興味は惹かれない。ただ、ロシアばかりかヨーロッパで最も大きいと言うイスラム教のモスクを見たいものだ。ヤミーリャさんはバシュキール人でイスラム教徒だ。
モスクワ川に面した救世主ハリストフ大聖堂
後日のモスクワ川遊覧の時に撮る
2015年モスク大修理後の落成式
(ウイキペディアから)
モスク近くの路上
モスクの2階の女性用祈りの場

 モスクワの中心モスクワ川に面した岸辺に救世主ハリストフ大聖堂がある。これは、たいがいの信者のロシア人にとって最も重要な宗教施設だそうで、ロシア正教の中心だ。1883年聖成された(聖成、つまり、ただの建立済みの建物から「聖なるものと成す」の意)聖堂だったが、1931年スターリンによって爆破。ソ連崩壊後、エリツィンによって2000年再建された。
 一方、プーチンは、ロシア連邦に2番目に多いイスラム教徒への配慮も欠かさなかった。モスクワには大モスクが1904年からあったそうだが、大修復後、2015年に1万人が同時に祈れる大モスク(総本山)が建立。建立記念日(落成式)にはトルコやダゲスタン、パレスチナからのトップや、イスラム教の代表と並んでプーチンが中央に立っている写真がある。左端にはモスクワ市長が写っている。
 ヤミーリャさんによれば、ロシア正教の総本山の再建の後、イスラムの総本山も再建したプーチンはさすが国民の心をつかんでいる、そうだ。
 アパリーハ駅からモスクワのトゥシノТушино駅までは40ルーブル。トゥシノ駅は、どこへ目を向けても憂鬱になる「ひび割れた(と私は形容する)」駅だ。人々の顔も険しく、私も心を閉ざしたくなる。ちなみに数日後の夜、この駅から帰りの電車に乗った時、プラットホームに上る階段には明かりがなかった。出口のホームは薄明るく、そこへ向かって用心深く割れた階段を上っていったものだ。同行のヤミーリャは慣れているのか、私を置いて上に上がっていった。早く順番をついて自動販売機で切符を買わなくてはならないからだ。
 イスラム大モスクへ行くにはトゥシノ駅から出て、地下鉄のシューキンスカヤШукинская駅で降り、そこから乗り換えてプロスペクト・ミーラПроспект мира(平和広場)駅で上に上がる。近くにロシア正教の『メシャンスカヤのフィリップ府主教教会Церковь Филиппа Митрополита в Мещанской слободе』の高い塔も見えるが、道行く人はイスラム的になる。スカーフを頭にまとった女性も見える。
モスクの入り口

 モスクはイスラム博物館でもある。入り口にはガードマンがいたし、女性用のガウンも置いてあった。スカーフを被るだけでいいとはガードマンに言われたが、頭からすっぽりとかぶる青色のガウンも入り口に下げてあったので私とヤミーリャはそれをつけて中に入った。
 モスクの幾何学模様は目をみはるばかりの美しさだ。チェチェンのモスクよりずっと大きくエレヴェーターもあって、6階建てのようだが、女性が祈るホールは2階の一部、男性は2階の一部から3階と4階の一部。1階には男女別に『動きの不自由な人』のための祈りのホールもある。入り口も洗い場も男女別で、観光客用入り口もある。イスラム博物館なので、服装に制限はあるが、だれでも入っていいのだ。そういえば、自転車でやってきた西欧人らしい一団が、門の前で自転車を降りていた。
 敷地内には売店もある。『アラジン』と言う名でイスラム関係、アラビア関係のものが売っていた。150ルーブルでアラビア語コーランのディスクを買う。コーラン朗誦者によって様々なディスクがある。『オーディオ・ブック預言者と功を共にした人たちの物語Диск аудиокнига Рассказы из жизни сподвижников』も220ルーブルで購入。ヤミーリャさんはアラビア香だか茶だかを買っていた。
 トレチャコフ美術館
 途中でマックがあったので、水を買う。86ルーブルだったが、触ってみるとぬるかったので、交換してもらう。それもぬるかった。
トレチャコフ美術館前の順番とトレチャコフ像
『…プスコフ包囲』を描いた大キャンバス
中央馬上の男性が十字架を右手に持つ
セローフ『桃を持った少女』とヤミーリャさん
セローフ『エウロパの誘拐』
 午後からはトレチャコフ美術館へ行く。長い列がついていた。しかし、20分くらいでチケット売り場までたどり着けた。ここに外国人用とロシア連邦人用の値段差はなく成人はだれも500ルーブルだったが、年金生活者は半額だった。私はロシアでは年金生活者の年齢になっている。ヤミーリャさんが言うには、年金手帳は忘れたが、自分は年金生活者だと言ったらどうか。しかし、私のロシア語ではすぐばれてしまう。
 「いや、ロシアにはあなたより訛りのあるロシア語を話す人たちが大勢いるから大丈夫」と言われる。それで、窓口で教えられたとおりに言ってみた。
「あなたはどこの国から来たのですか。ロシアの年金生活者だけですよ」とあっさり見破られてしまう。ちなみに、数年前、トゥヴァのクィジール市で国立博物館へ入るとき、何も言わなくても年金生活者の料金で入れてくれたものだった。
 『ポーランド王と大リトアニア候国のステファン・バートリによるプスコフの包囲1581年』と言う大きなキャンバスが印象深かった。これはポーランド・リトアニア共和国の勝利となったリヴォニア(1558‐1583)戦争の一場面で、カトリックのポーランド軍がどうしてもプスコフを占領できなかったというエピソードを描いたものだ。ロシア正教のプスコフ防衛軍は十字架と聖画を掲げて光の中を進撃し(画面の左と左上)、ポーランド軍は闇に半死で倒れかけている(画面の右と右下)。正義のロシア軍は凛として光り輝き、包囲しているポーランド軍は邪悪で闇に沈んでいる。その対比と、額縁の下に書かれた説明文が興味深く、トレチャコフでは写真撮影が自由なので何枚も撮った。ロシア史の一場面を描いた絵は、戦争かそのあとのものが多いが、すべてロシアの栄光にあふれていた。
レールモントフの像

 トレチャコフは少なくとも3度目だが、何枚か、私の好きな絵がある。大きなオリジナルが見られて幸せだ。
 1時半から5時半までいた。日本からわざわざここまでくるのは大変なのでもっとゆっくり見たかったが、足が疲れてしまって、引き上げた。6時過ぎ、途中のカフェハウスでぬるいスープとカエサルと言う巻きサンドイッチを食べる。
 グム百貨店(かつては国営、1993年民営化)へも行った。初めて訪れた30年前と比べて、当然ながら大違い。12年前に訪れた時とも違い、高級そうなものが並び、出入り口には制服を着たガードマンが立っている。翌日に行く予定のバレー『くるみ割り人形』のチケットを2000ルーブルで買う。劇場の窓口ではないので、余分に手数料200ルーブルがいる。グムでは有料トイレが300ルーブル(600円)と言う値段だった。清潔ではあったし、一人が入るごとに掃除しているらしかった。無料トイレは鍵がかかっていた。
 はとバスでモスクワ中心を回る。クレムリン壁の無名戦士の墓
はとバスの前に立つのは添乗員兼会計
町中に工事が多いので常に渋滞
モスクワ大学の台地(右のボックスは自動有料トイレ)
有名なアルバート街(造花の桜)
アルバート街に限らずモスクワは警備が厳しい
かつてのロシア最高会議ビル、
1991年8月クーデターの舞台。
1993年10月政変の時,砲撃された。
クレムリンの壁、無名戦士の墓の前
 7月24日(月)。ヤミーリャさんと1時過ぎに赤の広場から発車する2階建てのはとバスに乗る。モスクワ川岸を通り、モスクワ大学の台地へ行き(自動有料トイレがあった。コインを入れるとドアが開くのか。利用はためらわれた)、アルバート街の入り口でしばらく停車し、クレムリンの壁に戻る。イヤホーンで各国語の説明が聞けるが、日本語はなかったのでロシア語を聞く。はとバスは、有名な建物をちらちらとみるのに便利だ。だけど印象に残らない。
 2時間ほどのドライブだった。降りてから、クレムリンの周りを歩いた。アレクサンドロフスキー庭園を見る。2012‐2015年の修復でみちがえるようになったらしい。ヤミーリャさんのお気に入りはロシアのお伽話の噴水のある池とそれらを渡る装飾的な橋だ。
 モスクワに住む彼女はバシュキールから上京した自分の両親や親せきたちを、名所に案内しているのだろう。無名戦士の墓も必ず参るようだ。30分毎に衛兵交代をやっているのは、30年前に初めて見た時から知っている。その時は数人の日本人ツアー・グループといっしょだった。ひざを曲げないで歩く衛兵の行進は、違和感があって不人気だった。ロシア国民なら厳かさを感じるのだろうか。30分間微動だにしてはいけないと言うのも見世物的、宣伝的だ。どんな僻地の村にでも戦没者記念碑はあるが、クレムリンはそれらの頂点だ。ソ連時代から愛国教育(党・政府賛歌)鼓吹を狙ってきたのはわかるが、その歩き方は、よく映画やテレビで見かけるナチスか北朝鮮のようだと、その時私は思った。戦没者は犠牲者であって英雄ではないと、多くの人は思っている。日本のある神社に祭られている英霊(幕末にできた言葉か)への公人の参拝については、意見が分かれている。と言うようなことを控えめにヤミーリャさんに言うと、猛反発を受けた。「自分がお客に来ている国のことをそんな風に言うものではない」と。

 ヤミーリャさんがそれとなく案内してくれた戦没者と無名戦士の墓だが、私も、ロシア人と政治的なことを話すときはよくよく気をつけなければならない。いくら控えめでも話題にしない方がいいこともある、と慌てて思い返して、ロシア人は歴史的に確かに偉大な民族だと、とってつけたように付け加えてしまった。ヤミーリャさんは曖昧にうなずいていた。すぐ後で気が付いたが、彼女はロシア人ではなくてバシュキール人だった。バシュキールとタタールはほぼ同じと思っていたが、南ウラル、歴史的なバシュキールの地はフィン・ウゴル人が住んでいた。マジャール人もいた。13世紀はモンゴル帝国のキプチャック・ハン国の領土となったが、その後、キプチャック・ハン国の後継勢力のカザン・ハン国やシビルハン国の一部、またノガイ・オルダ(部族連合)にも入っていたが、15世紀から徐々にモスクワ・ツァーリ国に取り入れられ5回の大きな蜂起は18世紀後半のプガチョーワの乱も含めてすべて弾圧・平定され、ほぼ完全にロシア帝国に組み込まれた。タタール人のカザン・ハン国の方は16世紀にイワン雷帝に絶滅させられた。ロシア人は征服民として偉大だったか。
 一応、ヤミーリャさん達が日本に来たときは、批判的に見てください、と付け加えておく。古い文化と伝統を大事にしているとか、どこへ行っても清潔だとか、人のために考えた住みやすい国だと、たいていのロシア人からそんなお世辞を言われているが。ロシアに比べるとお世辞ではなく事実かも。
赤の広場近くの『青年劇場』の入り口
劇場2階のロビー

 クレムリンの近くに『レーニン勲章ロシア・アカデミー青年劇場Российский ордена Ленина академический молодёжный театр (РАМТ) 』があって、私たちは、7時に始まる『くるみ割り人形』を見るため、近くのクレムリン周辺にいたのだ。衛兵交代を敬意をもって見ていてもよかったが、それは止めて、1時間も前には劇場内に入る。しかし、ホールが開くまでまだ45分もそのための広い廊下で待たなくてはならなかった。終わったのは9時前だった。パヴレンコさんが私たちのためにタクシーを注文してくれていた。劇場近くの横通りで待っていると、そのタクシーが来てくれる。800ルーブルだった。タクシーはこの時間ではマンションまで1時間もかからない。マンション近くのスーパーで降りで、買い物をしてから帰宅。 
 ツァリーツィノ公園
地下鉄駅から公園まで
「大宮殿」
他の観光客とも
公園内の噴水のある池と端
 7月25日(火)。終日、モスクワ南部のツァリーツィノЦарицыно公園へ行く。パヴレンコさんたちのマンションは北西にあるから、モスクワ中央の地下を横切っていくことになる、地下鉄のツァリーツィノ駅で降りる。 歩いて数分だが、この数分が公園駅らしくなかった。狭い歩道でガード下を通り、安物っぽい小物がぎっしり並べてある店の横を車に注意しながら通り、駐車禁止の張り紙と歩道に置かれた有料トイレボックスの間を通って、公園入口までたどり着ける。
 2005年から2007年に大修理されたと言う帝国時代風公園を作るなら、なぜ観光客が必ず通る地下鉄駅から入り口まで整備しなかったのだろうと思う。

 ツァリーツィノ公園は入り口の門の前に立っただけでも、観光客に人気のあるサンクト・ペテルブルクのロマノフ朝風宮廷公園のモスクワ版を狙っていると分かるのだが、それは敷地内だけと言うことだ(場末のような地下鉄駅付近は含まない)。公園内は広く、どこから回るとよいのかわからない。100ルーブルの屋根付き電気自動車に乗って、まず一回りした。
 16世紀から大貴族の領地だったモスクワ郊外の地所に、18世紀後半にたまたま通りかかったエカチェリーナ2世が離宮を作ろうとしたが、18世紀末女帝の死によって中断され放置されていたそうだ。19世紀末には別荘地になっていた。ソ連時代は博物館などがあったが2005年には建物群が修復され、庭園が整備されツァリーツィノ(女帝の意)宮殿公園として開園した。
 モスクワに最後に来たのは20年以上も前だったから、もちろんここへは訪れなかった。(疑似)ゴシック様式建築物がいくつかあって、『ボリショイ・ドヴォレーツ(大宮殿)』と言うのが公園の中心の建物で最も立派だ。内部は博物館になっている。展示物は多くはなかった。3階の一部はカフェになっていた。
衣装貸し出し係りのおばさんが
気を遣ってくれる

 サンクト・ペテルブルクの宮殿で見かけるような広いホールがあって、200ルーブルで宮廷風衣装に着替え写真を撮ることができる。私も女帝かその侍女のような衣装を着てホール内を歩いてみた。衣装貸出係りのおばさんはとても親切だった。ヤミーリャさんは下着が見えるまで脱げないからと断った。

 公園内に宮殿風建物はいくつかあるが、そのうちに5軒だけが入場できる。が、私たちのいた時はそのうち2軒は休館だった。全館入場は800ルーブルだが、大宮殿と『穀物(パン)の家』だけなら350ルーブルだ。
 広い圏内には遊歩道や川、そこにかかる装飾的な橋、噴水の池などがあり、観光客も少なく、ややロシア的雰囲気のところで、時間が過ごせる。
 プーシキン美術館とモスクワ川遊覧
レプリカも見事だ
オリジナルと思う
遊覧船で購入したプレート
ドモジェドヴォ空港までのタクシーと運転手
 7月26日(水)。成田行きの飛行機が出るのは27日の夕方遅くなので、27日の昼間までは観光ができそうっだと、思ったが、パヴレンコさんは、27日は出発以外の予定は組まないと言った。今のマンションからはドモジェドヴォ空港は遠く何度も乗り換えがあって不便なので、前日にモスクワの彼らの古いアパートに移り、そこから出発するという「モスクワのもう一つの名所(彼らのアパート)を見ることができます」とパヴレンコさんは言ってくれた。それもよかったかもしれないが、私は単独で27日、マンションから直接空港へタクシーで行こうと考えた。「その方が私たちは助かります」とヤミーリャさんに言われた。確かにその方が、これ以上パヴレンコさん達にお世話をかけなくて済む。何よりも、タクシーで朝早めに出れば、途中でモスクワ見物できるところもあるかもしれないと思ったが、それはパヴレンコさんに厳しく否定された。(それなら、早朝に出ることもないが)。
 ともかく、26日は、夕方モスクワへ移動しない以上、終日観光ができる。それで、また、朝からヤミーリャさんと、モスクワ川遊覧とプーシキン美術館観覧に出かけたのだ。
 1912年、アレクサンドル3世芸術博物館として開館したと言う国立プーシキン造形美術館はヨーロッパ最大の一つだ。ギリシャ・ローマの有名な彫刻のレプリカも多いが、古代オリエントの発掘物もある。美術全集に載っているような絵画のオリジナルが見られる。ビュッフェでの昼食を含め6時間以上もいたが、もちろん駆け足だ。収集品ではエルミタージュに次ぐと言われているが、知名度がエルミタージュほどではないのか(サンクト・ペテルブルクへ来た観光客は必ずエルミタージュに行くが、モスクワに来た観光客はまずクレムリンへ行く)外国人観光客は多くない。
 近代美術の展示室に入った時、私は思わず小さく「あっ、シャガールだわ」とうれしそうな声を上げたのだが、近くにいた見知らぬ女性が振り返り、愛想よく「そうよ、シャガールよ」と相槌を打ってくれた。シャガールが好きな東洋人が喜んでいるのが快かったのか、彼女がシャガール好きだったのか。私がうれしかったのは、何よりも画集で見るような有名な絵のオリジナルがあったからだが。
 夕方は1時間ほどのモスクワ川遊覧のチケットを買った。こうして、下から眺めるモスクワ河岸通りも興味深いものだ。アナウンスの観光案内もわかりやすかった。途中でカメラを持った乗務員が私たちを撮って回っていた。これは、観光終了までにできた写真を張ったマグネット・プレートを300ルーブルで売るためだった。ロシアではこんなプレートを冷蔵庫などに張る。記念に、ヤミーリャさんと並んだのを買う(600円とは高いな)。
『赤の広場』近くの花壇

 帰りはまた、赤の広場近くを通った。見事な花壇があったので、写真を撮ろうと構えると「私たちが撮ろうとしているのだから退いて」とお上りさん風の中年女性に邪険に言われた。「ごめんなさい」と言って退いたが、ここは公道ではないか。撮影スポットに誰かが立っていれば、退くまで待つか、または丁寧に頼むものだ、と思って不快だった。プーシキン美術館の見知らぬ女性は感じよかったのに。
 そのことをヤミーリャさんに言うと、クレムリン見物の女性とプーシキン美術館の女性とは層が違うのだとのこと。納得。

 7月27日(木)。9時30分アパリーハ発、ドモジェドヴォ空港11時20着 タクシー代は1510ルーブル。驚いたことにメーターがあった。話してみると運転所はユダヤ人だとのこと。乗るときにパヴレンコさんが運転手に頼んでくれたので、空港に着くと、車を駐車場に止め、彼は私のトランクを搭乗手続きホールまで運んでくれた。駐車台とチップで2000ルーブル払う。しかし、ここで3時間も待った。トランクの重さに制限がある、本など取り出して手荷物の中に入れなくてはならない。この空港に秤はあるだろうか。預ける荷物のパッケージを有料でしている男性に聞いてみた。空いているカウンターの秤を使えばいい、とのこと。そんなことをして搭乗窓口の係員に注意されないだろうか。受付をしていないカウンターに行って量る。私以外にも秤を借用している乗客がいる。
 2時15分やっと搭乗手続きはじまる。17時15分、ドモジェドヴォ空港発
 7月28日(金)成田着
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