クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 26 January, 2018 (追記:6月25日)
2016年 北カフカス(コーカサス)からモスクワ (3)
    カバルダ・バルカル共和国
        2017年7月9日から7月27日(のうちの7月14日)

Путешествие по Северному Кавказу и москве, 2017 года (9.7.2017−27.7.2017)
   ロシア語のカフカスКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スとも聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus

  6/25-7/9       モスクワから北ロシアのコミ共和国
1 7/9−7/11 ウラジカフカス(地図) 山岳サニバ村 サニバの社 ギゼリドン峡谷 フェアグドン峡谷
2 7/12-7/13 バトラス ルーテル教会 トランスカム アルホン村 失われたオセチア
7/14 カバルド・バルカル共和国に向かう アディゲ人の地(地図) チュゲム峡谷 カルマコフさん
7/15−7/16 ディゴーラ地方へ(地図) ストゥル(大)ディゴーラ カムンタ村 ウアラグコム(上の峡谷)
7/17 グローズヌィ市に向かう 国立図書館 チェチェン地理 アングーン峡谷へ シャトイ村 ハッコイ氏族
7/17 サッティの塔 ハルセノイ村 ニハロイ滝群 ウシュカロイ塔 チェチェンの心 グローズヌィ・ホテル
7/18 アルグン市をぬけて ヴェデノ村 ハラチョイ村からハラミ峠 カゼノイ湖 ホイ村 ザクリエフさん
7/19-7/21 ゼムフィラさん アナトリア半島のスミュルナ カルツァ滝 ウラジカフカス駅発
7/22-7/27 モスクワ州のアパリーハ団地(地図) モスクワの大モスク トレチャコフ美術館 はとバスとクレムリン壁 ツァリーツィノ公園 プーシキン美術館
 カバルダ・バルカル共和国に向かう
 7月14日(金)去年知り合った人形作家のゼムフィラさんともこの1年文通をしていた。彼女の作ったオセチア民族人形が素晴らしかったので、参考にしてくださいと日本人形を送る約束したくらいだ。船便で送ったが意外と早く着き、破損もなかったそうだ。今回、アスランと一緒にタクシーでカバルダ・バルカル共和国首都のナリチク市へ行こうと約束してくれた。しかし、アスランは、至急南オセチア共和国へ行く用事ができた。どんな用事なのかは誰にも内緒で、長男のヘータ君(17歳)も知らない。
 日帰りするために、アスランはルスランの車で朝4時には出かけた。ウラジカフカス市から南オセチアのツヒンヴァル市までは、カフカス山脈をルッカ・トンネルで通って167キロ。ルスランの車では3時間はかかるだろう。後のことになるがアスランは日付が変わった頃に帰ってきた。
 アスランが南オセチアへ行ってしまったので、私は9時過ぎ、一人でゼムフィラさんが差し向けてくれたタクシーに乗って、彼女宅の近くまで行く。そのタクシーはいつもゼムフィラさんが利用しているので無理もきき、割安だとのこと。
 ゼムフィラさんを乗せると、半分はアルメニア人だと言うその運転手は、ゼムフィラさんに
 「あなたの兄弟は乗せないのか」と聞く。ゼムフィラさんとアスランは苗字が同じ、つまり親せきだ。親せきで同年配だと、いとことなる、いとことは、つまり、兄弟と言っていい。
ここからカバルダ・バルカル共和国へ

 運転手は、乗客が2人だけなら自分の妻も乗せていいかとゼムフィラさんに聞く。乗客が観光している間、車で一人で待っているのは退屈だからとのこと。ゼムフィラさんは快諾したが、私はタクシー料金をもらって夫婦でドライブするのかと、いじわるに考えてしまい、この1日好意は持てなかった(今から思うと、もっと友好的な気持ちになり、彼女とも知り合いになればよかった。その時はカバルダ・バルカルをできるだけ多く見ようとしか考えていなかったのだ)。
 まず、ウラジカフカス郊外の運転手宅に寄って奥さんが準備して出てくるのを下で待っていた。ちなみに、この日のタクシー代は私が払い、出発前に決めたように4000ルーブル(約8000円)だった。ナリチクまでは3000ルーブルだが、ゼムフィラさんは『滝』まで(ナリチクからさらに45キロ)行くと言ったので1000ルーブルが追加されたのだ。
 ウラジカフカスからナリチクまでの距離は118キロで快適な連邦道を飛ばせる。途中のウラジカフカスから90キロ行ったところにエリホトヴォ門があり、すぐ北オセチアとカバルダ・バルカルの国境がある。去年は全員のパスポートが調べられたが、今年は、乗客は乗ったまま通過。
 アディゲ人(チェルケス人、カバルダ人)の地
 カバルダ・バルカルはカフカス山脈北麓で北オセチアの西に続いてあるが、面積はやや広く南北の最長が167キロ、東西の最長が123キロで、南西から北東への楕円型をしている。南東ではオセチアのディゴーラ地方と接する。南のグルジアとの境とカラチャイ・チェルケス共和国との南西の境はカフカス山脈でもヨーロッパ最高峰のエルブルス山(5642メートル)はじめ、5000メートル級の高山が7峰もある。だからカバルダ・バルカルの西(南)半分は山岳地帯(1000メートルから5000メートル以上)だ。東(北)にカバルダ平地があり、首都ナリチクは山岳地帯と平地の境目くらいにある。
 黒海からカスピ海に北西から南東に延びる長さ1100キロのカフカス山脈の北斜面には200キロの幅で、低い山脈も含めてカフカス山麓平原が広がっている。カバルダ平地はその中ほどの最も山際にあり東のエリホトヴォ門を超えるとオセチア斜面平原、北はスタヴローポリ地方のピャチゴールスカヤ小山群(地名は5つの小山の意)などにつらなっている。

 19世紀の近代まで、西は現在クラスノダール地方になっている黒海東岸やアゾフ海沿岸まで、北はスタヴリポリ地方南部、東は現在のチェチェンのスンジャ川のあたりまでの北西カフカス一帯は、主にアディゲ人(西に住むチェルケス人、東に住むカバルダ人の自称)が住んでいた。アディゲ人の勢力圏は、最大は現在のダゲスタン共和国の北部草原地帯まで、一時はカスピ海西岸までだったそう。これらの地方の地名の多くがアディゲ語だと言う。現在の北西カフカスのアブハズ・アディゲ語族は19世紀までは大勢力だった。アバジン人、カラチャエフ人、バルカル人、オセチア人、イングーシ人、チェチェン人たちはカバルドの諸侯(東チェルケスとも)の支配下にあった、と言う。

 アブハズ・アディゲ語族には
 ・ アブハズ・アバザ語系(アブハズ語はアブハズ共和国で、ウブィス系(言語としては死語、しかしウブィス人はトルコに1万人)。
 ・ アディゲ語系(アディゲ、チェルケス、カバルダの3言語は同じとみなされる、というのは、アディゲ語を話すグループは、自分たちをアゲィゲ人と呼んでいるが、ロシア人はチェルケス人と呼び、東の方言を話すアディゲ人をカバルダ人、西の黒海沿岸に住んでいたアゲィゲ人をシャプスーギ人шапсугиと呼んでいる。19,20世紀には多くのアブハズ・アディゲを話す人たちは中東に移住した。彼ら全体を中東ではチェルケス人と呼ぶ。

 現代、東のカバルダ平原にすんでいたアディゲ人は(カバルダ人、東アディゲ人、東チェルケス人とも)南の山岳地に住んでいるチュルク系のバルカル人とカバルダ・バルカル共和国をつくっている。革命後にできた山岳自治ソヴィエト社会主義共和国のカバルダ自治州とバルカル自治管区が合体させられて1924年カバルダ・バルカル自治州ができたのが初めだ。
 その西は歴史的にクバーニと呼ばれていた地だったが、ここに住んでいたアディゲ人は、同じく南の山岳地帯に住んでいたチュルク系のカラチャイ人と1922年カラチャイ・チェルケス自治州を作ることになった。
 1926年にはカラチャイ自治州とチェルケス民族管区(1928年自治州に昇格)に分かれた。1943年、カラチャイ人が中央アジアに強制移住させられ、カラチャイ自治州は廃止されたが、1957年強制移住のカラチャイ人が戻ってきてからは再びカラチャイ・チェルケス自治州になった。ソ連崩壊の1992年には分離の提案もなされたが、それは否決され、現在は、カラチャイ・チェルケス共和国になっている。(現在の同共和国はクバーニ川上流のみにあるが、元々チェルケス人はクバーニ川一帯に住んでいた。歴史的なクバーニ地方の大部分は現在クラスノダール地方となっている)
 最も西に住んでいたアディゲ人は1922年『アゲィゲ(チェルケス)自治州』を作った(後にかっこの『チェルケス』が取られたて『アディゲ自治州』となった)。周りをクラスノダール地方に囲まれたこのアディゲ自治州も、上記2州と同様、ソ連崩壊後、ロシア連邦内のアゲィゲ共和国となる。
 カフカス山脈南麓の黒海沿岸の現在のソチ市やトゥアプセтуапсе市に住んでいて、アゲィゲ語の中でも最も大きなグループだったシャプスーギ方言を話すシャプスーギ人は、現在はクラスノダール地方のいくつかの村に住んでいるのみだ。大部分のシャプスーギ人は当時のオスマン帝国内に移住させられた。
 同じくカフカス山脈南麓の黒海沿岸に住んでいたウブィヒУбыхи人は1864年のカフカス戦争の後、上記のアディゲ語系と同様大部分はオスマン・トルコに移住させられた。残ったウブィヒ人はロシア人としてクバン草原に移され、現代ウブィフ語は死語(1992年トルコ国籍の最後のウブィフ語話し手が死亡)

 アディゲ人(チェルケス人、カバルダ人)は世界中で350万人以上と言われている。アディゲ人集団のある国は50か国になる。そのうち150万人はトルコに(*)、16万人はヨルダン(**)、6−10万人はシリアに、さらに、イラク、リビア、エジプト(***)サウジアラビアなどに3万人。そのほか、イスラエルなど中東に30万人以上がいる。
(*)300万と言う統計もある、北カフカスからの移民をトルコではすべてチェルケス人と言う。現在トルコの人口の2.7‐3.7%
(**)チェルケス人はヨルダン国内で指導的役割も果たしている。2011年年ソチ冬季オリンピックに対して、ヨルダン・チェルケス人は、アディゲ(チェルケス)人を大虐殺した場所での開催反対を組織した。「アウシュヴィッツでオリンピック祭典を開くようなものだ」
(***)北アフリカのアディゲ人は14世紀からの移民のマムルークの子孫たち。現地人にほぼ同化してアラビア語を話す。ちなみに14世紀エジプト・シリアのマムルーク朝はチェルケス人がスルタンだった。マムルーク朝が16世紀オスマン・トルコにとってかわられた後も、19世紀までエジプトの支配階級の多くがチェルケス人だった。
 全ロシア連邦内には70万人しかいない。カバルダ・バルカル共和国(ここではアディゲ人はカバルダ人と言われる)に50万、アディゲ共和国に10万、カラチャイ・チェルケス共和国(ここでアディゲ人はチェルケス人と言われる)に6万、クラスノダール地方に2万(ここでアディゲ人はシャプスーグ人と呼ばれる)、スタヴォロポリ地方に1万人などだ。
 これは、ロシア・チェルケス戦争(1763-1864、そのうち最も激しかったカフカス戦争は1817-1864*)で、ロシア帝国はカフカスに住んでいたアディゲ人を殺害・追放したからだ。アディゲ人は自分たちの歴史的地方から離れて、当時のオスマン帝国(当時スルタンの母系はチェルケス人だった)内に難民となって移住させられたからだ。ロシア帝国支配とロシア正教から逃れ、イスラムのオスマン帝国内に移住した宗教難民の子孫たちが、旧オスマン帝国内のトルコや中東のチェルケス人居住地に住んでいる。

 このかつては北西カフカスで大勢力だったチェルケス(アディゲ)人は、16世紀ごろには黒海北岸のクリミア・ハン国(*)と戦っていた。同じくクリミア・ハン国と戦っていたロシア・ツァーリ国のイワン雷帝も、チェルケス人の援助を得ようと、当時カバルタの候の娘マリア・テムリュコヴナ(1545−1569)と結婚した。(下記のように、マリアは早死にし、幼い皇子も謎の死)
(*)クリミア・ハン国はモンゴルのジュチ・ウルス(キプチャック・ハン)の後継国家。15世紀前半 - 1783年ロシア帝国に併合される。ジュチ・ウルスの後継国家としては、ヴォルガ中域のカザン・ハン国(15世紀-1552年モスクワ大公国によって征服される)、ヴォルガ下流からカスピ海北岸のアストラ・ハン国(15世紀―1556年モスクワ大公国に併合される)、西シベリアのイルテッシ川下流のシビル・ハン国(15世紀―1598年ロシア・ツァーリ国により滅亡)があった。

 中世から近世、西カフカスはオスマン・トルコの勢力圏、東カフカスはガージャール朝ペルシャの勢力圏だと、オスマン・トルコやペルシャはみなしていた。一方、1557年カバルダは自主的にロシア・ツァーリ国の保護下に入ったと、ソ連時代の歴史では見なされていたるようだ。それはナリチク市の中央に『ロシアとともに永遠に』と言う碑がカバルダ・バルカル併合400年記念として、1957年に建てられたことでわかるのだが。

 19世紀初頭のゴレスターン条約でグルジア(やアゼルバイジャン)の一部を保護国としたロシア帝国が、カフカス山脈をダリヤル峡谷で越えてカフカス南麓に出るグルジア軍事道を、カフカス山岳民族の攻撃から守るためにテレク中流、現在の北オセチアのマズドクに1763年砦を作ろうとしたことから、ロシア・チェルケス戦争は始まったとされる。当時北オセチアの平原はカバルダ候の領土だった。1780年代にはマズドクからトビリシへのグルジア軍事道路が開通したのだ。
 それに抵抗したカバルダ勢力と101年にわたるロシア・カバルダ戦争が始まった、と言うから1557年の自主的併合と言うのは、カバルダ候からのロシア・ツァーリに対して臣下になるという形式的な申し出を根拠としているのだろう。関係を強固にするため上記のような婚姻があったが、イヴァン雷帝妃マリア・テムリュコヴナは早くに死亡した(前記)。
 ロシアの歴史ではカフカス戦争は1817年に始まったとされているが、1763年(マズドクに砦を建てようとした時)から19世紀の初めまでに、すでにロシアは東チェルケスのカバルダの方は征服していたと言える(西チェルケス・アゲィゲとチェチェン、山岳ダゲスタンなどはがロシアに屈するのは1864年)。200以上の村を焼かれ、疫病の流行で空白となったカバルダの平地へ、親ロシア的なオセチア人を山岳から移住させ食料生産させた。その産物のおかげでロシア軍はカフカスで戦争ができたとも言われている。(*山岳オセチア人の平地への移住)

 ロシアの歴史では1817年から始まったと言うカフカス戦争だが、ネーミングが不正確だ。これでは誰が誰と戦ったのか明白ではない。カフカスの民族同士が戦ったかのようだ。ロシア・カフカス戦争は1763−1864とするべきだ、と言う歴史家もいるが、これでも正しくはない。ロシアは国家名であるし、カフカスは地理的な地方名であるからだ。これではロシアがカフカス山脈と戦ったようなものだ。チェルケス側から言えばチェルケス・ロシア戦争1763−1864とする。が、これではチェチェンと山岳ダゲスタンが無視されたことになる。しかも、チェルケスはロシアの侵略に対して戦い、チェチェン・ダゲスタンの宗教的なミュリリズムのイマーム国と共同戦線を張ったことはない。イマーム国は宗教のために戦ったが、チェルケスは自分たちの主権のために戦ったのだ、とカバルダの歴史家は言う。
 1763年、モズドクの砦建設から始まったと言うロシア・カバルダ戦争では、カフカス東のダゲスタン・チェチェンのイマーム国シャミーリが降伏した(1856年)のちも、アディゲ(チェルケス)人は頑強に抵抗をつづけ、ロシア帝国軍はカフカスを征服するにはアゲィゲ(チェルケス)民族抹消しかないとして、90%のチェルケス(アディゲ人)をオスマ・トルコへ追放するか、1864年のクラースナヤ・ポリャンカ事件のように虐殺した。
 当時東チェルケス人(カバルダ)人は40−50万人、西チェルケス人は資料によって異なるが200−400万人とされる。カフカス戦争の後、カフカスに残っていたアディゲ人(ロシアの主権を認めて指定の場所に移住させられた)はその10%にも満たなかった。

 現代のカバルダ・バルカル共和国にはカバルダ人57%、ロシア人22%、バルカル人(テェルク系)13%他の86万人が住む。西のカバルダ・バルカル低地と山麓はカバルダ人が住み、東と南東の山岳地帯、チェレク川(131キロкм)、チェゲム川(103 км)、バクサン川(173 км)、マルカ川(216 км)などの上流にはバルカル人が住んでいる。これらの川はすべて、西、または南西の大カフカス山脈から流れテレク(623 км)に注ぐ。またはマルカ川の下流近くに合流してからテレクに注ぐ。
  チェゲム峡谷
↑カバルト低地のひまわり畑↓。
ヤニコイ村(?)付近で。カルマコフさん
チェゲム峡谷を遡る
チェゲム大滝群の物売り群と駐車場
ゼムフィラさんが袖なしを買う
チェゲム大滝の一つを上から
50ルーブルの階段を降りるゼムフィラさん
チェゲム川さらに上流へ通じる道
 私たち4人はウラジカフカスのオセチア斜面平野から、狭いエリホトヴォ門を通り、国境(ソ連邦内)を越えカバルド低地に出る。ここには見事なトウモロコシ畑とひまわり畑が広がっている。帰りは暗くなって写真が撮れないと思うので、無理を言って車を止めてもらって、ひまわり畑を撮る。
 『ナリチク』と立派な道標が立っている待ち合わせ場所に着いたのは11時過ぎ。ここでゼムフィラさんはカバルダ人の友達のカルマコフкармоковさんと落ち合う約束のようだ。やがて、その同級生の画家カルマコフさんがフォードで現れて、私達を滝のある方に案内すると言う。2台の車になったので私はカルマコフさんの方に乗る。車のパネルにはミニチュアの日本刀が飾ってあった。彼はすぐにカバルダ人について説明を始める。私はカバルダ人もチェルケス人もアディゲ人も同じ民族で政治的に3共和国に分かれているのですね、北西カフカスでは支配的な民族でした、と答える。彼は歴史にも詳しく独自のカバルダ(チェルケス・アディゲ)史観を持っているらしく、私はぜひ聞きたかった。が、彼は昼間は緊急の用事が入ったので、夕方に自分のアトリエに寄ってほしいと言う。
 カルマコフさんはナリチクから5,6キロメートルのヤニコイЯникой村かレチンカイЛечинкай村のあたりまで私たちを送ってくれた。
 彼が言うには、イングーシ共和国新首都をマガスと名付けたが、中世アラン国の首都マガスのあった場所は現在のカバルダにこそある。それは、ニージヌィ・ジュラトНижный Джулат村の近くの10−12世紀都市跡かもしれない。 (実は彼は場所の名を行ったのだが私は聞き取れなかった)

 ナリチクからレチンカイ村まで行けばチェゲム川にそってカフカス山中にさかのぼる道に出られる。ここで、カルマコフさんと別れたので、元の車(ウラジカフカスからのタクシー)に乗り換え山道を行くことになった。40キロほど、チェゲム峡谷を行く。カバルダ・バルカル共和国の山岳地帯に入るとバルカル人の村となる。オセチアでも、カフカス山脈から流れる川に沿って、峡谷があり、その峡谷に住むオセチア人は他の峡谷に住むオセチア人とは別の共同体で別の方言があったように、バルカル人同士はそれぞれ独立した共同体を作っている。ここはチェゲム方言のバルカル人となる。
 峡谷の自然はオセチアとは違うように感じるが、本当は変わりない。しかし、村々は違っている。道路に沿って、ニジヌィ・チェゲムやフシト・スィルトХушто-Сыртと言う村を通り過ぎたが、道路に沿って塀をめぐらした家々が並んでいるなど、オセチアではディゴーラ地方のイスラムの村チコラに似ている。モスクもある。
 進むにつれ道の両脇の山々は険しくなり、道路は川すれすれの絶壁の下を走る。と、峡谷はまた広まって、山々は遠のく。フシトスルト村を過ぎると両側の絶壁はさらに迫ってきて空も狭まる。岩山が道路にかぶさるように突き出ているところでは、見晴らし台にもなっている。眼下のチェゲム川が怒涛をまいている。
 鋭い峡谷の間を流れる川に沿った絶壁の上を行く。チェゲム川は大きくて勢いの強い流れだが、まだ侵食しきれない岩を湾曲しながら流れているので、川上を見ると3方がふさがっているかのようだ。『喉からの水』と言われるのも納得。蛇行しながら進むと、前方にあった絶壁が横に来る。もうここまでくると、何台もの車が駐車し、岩下にテントを広げた物売りが並んでいる。私達も車から降る。ここがナリチクから50キロの共和国観光地の一つチェゲム大滝群だった。物売りはここから一番近い村フルト・スィルト村から来ているそうだ。羊毛製品を売っている。夏服できたゼムフィラさんは早速長い袖なしを購入する。平地は夏でも、ここは震え上がる。運転手夫婦と別れ、私とゼムフィラさんは歩いてさらに奥へ向かう。何本もの滝が見えて、壮大だった。バルカル人の物売り女性が絶えず声をかけるのも、きっとチェゲムらしいと思う。ゼムフィラさんと小さなカフェに入ってバルカル風パイを食べる。そのカフェには「Написано для друзей балкарцевバルカル人の友達のために書かれた」と言う詩がエリブルス山を背景にした花畑の写真を背景に書かれていた。「カフカスの山々を称え、そこに住む自分たちバルカル人は来客を迎えることが喜びだ。これら美しい出会いの後ではカフカスは夢となる。夢のかなう場所となる」と言うような意味の4行6連の押韻の効いた詩だった。
滝を下から見る
 この近くにチェゲム川の右岸支流カヤルティКаярты川(11キロ)が合流してくるのだが、合流点で幾本もの滝となって落ちる。50-60メートルの高さだそうだ。その高さ近くに見晴らし台があり、そこまで登る階段ができている。ゼムフィラさんと意を決して登ろうとすると、男性が現れる。階段の登り口近くで、登る観光客に入場料を徴収するようだ。そういえば看板があって7歳までと70歳以上は無料と書いてあった。それ以外は50ルーブルだった。
 足を滑らせそうな急で怖い階段だったが、これがないと翼でもない限り上まで行けない。もう少し、あと数ヶ月で階段昇降が無料となる私は、かなり必死で登ったのだ。登ったところに見晴らし台までの小路が続いている。部分的に板が渡したてあるが、ここも川床の一部らしく水が流れている。水は所かまわず少しでも低くなったところへと流れるのだ。
 見晴らし台からは滝の落ち始めがよく見える。また流れ下っていく先は見えないが、今来た道がはるか下に見える。雨が降って寒く、日差しもないので水滴の作る虹も見えなかった。ゼムフィラさんと写真を何枚も撮ってから、登るとき以上に怖い階段を降りる。
 下に降りたところで、この道をもっと先に行ってみることにした。大滝群とあるからもっと滝があるかもしれない。しかし、ラクダが1頭繋がれているだけだった。チェゲム川に沿ったこの道は滝で終わるのかと思ったが、さらに20キロ以上も状態の良い砂利道がバルングБалунгу村(バルカル人800人)に通じる。さらに上流には(多分ソ連時代からある)夏季だけのツーリスト基地(つまりペンジョン)が2軒あり、今の季節なら車での通行はできるだろう。チュゲム川は、エリブルス山(5642メートル)の東にある4000メートル級のカフカス山脈からカバルダ・バルカル共和国中央を南西から東北に流れてくる。チュゲム峡谷には石器時代からの遺跡がいくつもある。また古代・中世の住居跡もあるそうだ。
 しかし、私とゼムフィラさんはラクダのいるところまで歩いて引き返した。歩いては遠くへはいけないし、ゼムフィラさんにはほかの計画もあったからだ。
 私達は運転手夫婦を探して車に戻り、3時ごろチェゲム大滝群を後にした。同じ道を通ってナリチクへ向かう。バルカルの峡谷はオセチアの峡谷とは何かしら違う自然だ、と運転手に話す。そうかもしれない。しかしこの山の東側は、ディゴーラ地方だと言う。この峡谷からディゴーラ峡谷への昔の道もある、と言う。これは運転手が大げさに言っていると思う。確かにディゴーラ地方はオセチアの最も西で、バルカルへは峠を越えて行き来できるが、それはバルカルでもオセチアに最も近い東のチェレク川峡谷のバルカル人だろう。チェゲム峡谷からディゴーラ峡谷(ウルッフ川峡谷)への東西通行は途中にいくつもの高い峠や氷山がある。
 カルマコフさん
『永遠にロシアとともに』と書かれた凱旋門
ナリチク市の市場
民族刺繍工房で。座っているのは運転手の妻
アトリエのカルマコフさん
 1時間後ナリチク市へ戻り、ゼムフィラさんの友達の洋装店に行く。カバルダ民族結婚衣装を縫っているアトリエだった。町中には『永遠にロシアとともに』と書いた標識が目立つ。
公園にあるモニュメント
『…1762-1864…』
カルマコフさんが注文されて描いた
ディロフ像

 さらにバルカル民族刺繍をやっている工房へも行く。アトリエも工房も市の中心の公園近くにある。公園には『アゲィゲ人へ、1762-1864年のカフカス戦争の犠牲者に捧げる』と言うモニュメントがあった。
 民族刺繍工房はゼムフィラさんの知り合いの女性2人が開いたばかりだったが、作業が見物できた。黒か赤のビロード地に金色か銀色の刺繍糸で縫う。帽子、バッグ、剣のさや、ガウンなどを手縫いで縫う。
 そしてやっと、薄暗くなった8時ごろ、約束のカルマコフさんのアトリエに着いた。広いアトリエで、プロパガンダ風の絵も見える。そのカフカス戦士の衣装で馬に乗ったカディロフ(チェチェンの初代大統領で現大統領の父、もっとも、今では大統領とは言わないで首長と言うが)の絵は注文されて描いたとか。古代、中世のカバルダ(またはアラン)戦士の絵が多い。静物画もあり、風景画もあった。
 カバルダ人の古代史を彼はカバルダ語で書かれた本を示しながら語ってくれた。メソポタミア文明はマイコップ文化の担い手やアブハズ・アディゲ語族の祖先ズィヒ人、メオト人たちのものだと言う。アブハズ・アディゲ語族の祖先の親戚はハッチ族Hattians(*)だと言う仮説がある。また、アブハズ・アディゲ語はミタンニ国(**)のフルリ語とも近い。現在北カフカスに住むアブハズ・アディゲ語族やナフ・ダゲスタン語族の話し手はカフカス南部のメソポタミア北辺にも住んでいた。エジプトを一時支配したヒクソスもフリル人と関係があるかもしれない。
エジプト、メソポタミアとカフカスの関係はとても興味深いではないか。もっと詳しく知りたいものだ。
(*)ハッチ族 紀元前2500-2000年、アナトリア中部南東部にハッチ国を建てる。2000−1700ヒッタイト(印欧語族)に征服される。文字はアッカド語を使っていた。
(**)ミタンニ国 フルリ人が紀元前16世紀ごろメソポタミア北部のハブル川上流往き中心に建国した王国。フルリ人は紀元前18世紀から活躍
 
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