クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 26 January, 2018
2016年 北カフカス(コーカサス)からモスクワ (7)
    チェチェン(3)、ヴェデノ
        2017年7月9日から7月27日(のうちの7月18日)

Путешествие по Северному Кавказу и москве, 2017 года (9.7.2017−27.7.2017)
   ロシア語のカフカスКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スとも聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus

  6/25-7/9       モスクワから北ロシアのコミ共和国
1 7/9−7/11 ウラジカフカス(地図) 山岳サニバ村 サニバの社 ギゼリドン峡谷 フェアグドン峡谷
2 7/12-7/13 バトラス ルーテル教会 トランスカム アルホン村 失われたオセチア
7/14 カバルド・バルカル共和国に向かう アディゲ(チェルケス、カバルダ)人の地(地図) チュゲム峡谷 カルマコフさん
7/15−7/16 ディゴーラ地方へ(地図) ストゥル(大)ディゴーラ カムンタ村 ウアラグコム(上の峡谷)
7/17 グローズヌィ市に向かう 国立図書館 チェチェン地理 アングーン峡谷へ シャトイの戦い ハッコイ氏族
7/17 サッティの塔 ハルセノイ村 ニハロイ滝群 ウシュカロイ塔 チェチェンの心 グローズヌィ・ホテル
7/18 アルグン市をぬけて ヴェデノ村 ハラチョイ村からハラミ峠 カゼノイ湖 ホイ村 ザクリエフさん
7/19-7/21 ゼムフィラさん アナトリア半島のスミュルナ カルツァ滝 ウラジカフカス駅発
7/22-7/27 モスクワ州のアパリーハ団地(地図) モスクワの大モスク トレチャコフ美術館 はとバスとクレムリン壁 ツァリーツィノ公園 プーシキン美術館
 アルグーン市を抜けて
 7月18(火)。朝起きて、25階の窓から見えるチェチェンの町を何枚も写真に撮った。モスクは見えないが、スンジャ川が流れ、政府関係の建物や広場、並木道、そして近くにはグローズヌィ・シティの高層建築が見える。私は快適なホテルに一人宿泊したが、アスランはアトリエに泊まっている。彼は、昨日はもうバスがなくて帰れなかったので、今日、ウラジカフカス行の1日1本の朝バスに乗らなくてはならない。9時に出発するはずなので、マゴメドさんは、彼を乗せて8時半にホテルに迎えに行くと言う。

 その時間に荷物を持って1階ロビーで待っていた。マゴメドさんから、到着したから出てきてほしいと言う電話があったので、ホテル・カードをレセプションに戻す。昨夜もいた愛想のいい男性職員が「お気に入りましたか」と聞く。私も愛想よくうなずいた。事実、ビデ以外はとても気に入ったのだ。日本のようなウォッシュレットなどないものと思えばいいのだ。
 マゴメドさんの車の後部座席にはアスランの他にアリーと言うマゴメドさんの長男で8年生の少年が乗っていた。14歳くらいか。上に姉がいて、弟や妹もいる。チェチェンではたいていの家族は4,5人の子供がいて、おばあちゃんもいる。
 アスランをバス・ステーションに送る。そこは他所からの来客の通る中心街のスマートさとは異なり、ロシアやカフカスの庶民の場所なのか、柵や、待合場のトタン屋根も傾いていたし、遺骨のような建物もあった。人々も厳しい顔つきだった。アスランが『501・ウラジカフカス・グローズヌィ』と言うバスに乗り込むと、私達3人は東に向かう。この日は『遠いところの湖』に行く予定だ。
 市内を横断して、『連邦道R217=カフカス道』を通り東へ進む。グローズヌィ市を出たところに立派な門があった。右にはカディロフ、左にはプーチンの肖像写真が掲げてある。『2006年。グローズヌィ。ウェルカム』とあって、両脇にはヴァイナフ様式の塔が建っている。
 ここからアルグーン市までは10キロほどしかないが、途中に有名なハンカラХанкалаがある。軍事飛行場であり、1994年第1次チェチェン戦争で、今まで独立派軍に抑えられていた飛行場をロシア連邦軍が奪還したと言う『ハンカラの戦い』があった。かつてのハンカラ村、現在はグローズヌィ市ハンカラ地区には8500人のロシア人が住み、チェチェン人は数人しかいない。ロシア連邦軍の基地だ。
 チェチェンやイングーシを代表するスンジャ川は南のカフカス山脈からイングーシ共和国内を北へ流れ、チェチェン共和国内では西から東へ流れて低いスンジャ山地が切れたところでテレク川右岸に注ぎ込む278キロの川だ。歴史的なチェチェンはテレク右岸やスンジャ川の平地と、スンジャに南から流れ込む支流の作る峡谷にあった。
 テレク川に、あと39キロで注ぎ込むと言う地点のスンジャ川に、南東からのアルグーン川が注ぎ込む。そのアルグーン川の下流に人口3700人のアルグーン市がある。かつてはウスタルガルドンУстаргардон村と呼ばれていた。ウスタドホイустадхойなとのテイプ(氏族)が住んでいたからだ。第1次と第2次チェチェン戦争では物的人的に甚大な被害を受けたが、私たちが車で通りすぎた限りではそのあとかけらもなかった(表通りを通ったから)。むしろ、片側3車線の連邦道から街へ入ると、目立つのはアルグーン・シティ(グローズヌィ・シティのアナログか)の高層建築群だ。道路を挟んで6棟ある。アルグーン・シティの中央の3差路広場に三日月と星のイスラム風モニュメントがある。構成が美しいと思った。そのモニュメントはアイマニ・カディロヴァ名称モスクМечеть имени Аймани Кадыровой(2014年完成)の前にある。ロシアにあるモスクの中ではグローズヌィの『チェチェンの心』(2008年完成)に次いで4番目に大きく(収容人数が多く)ハイテクで建てられたと言う。アイマニ・カディロヴァとは前チェチェン(『ロシア連邦内のチェチェン』と必ず付く。独立のチェチェン・イチケリアと区別して)大統領アフマド・カディロフの妻で現チェチェン首長(大統領と言う称号は連邦内共和国では使わなくなった、彼の提案だ)の母。女性の名称の付いたモスクは珍しい。マゴメドさんに頼んで、車を止めてもらう。
 車にアリーを残してマゴメドさんと入口に向かう。この時間モスクの周りには誰もいなかった。入り口横にはパネルで囲まれて長衣やスカーフの置いてある棚があったので、自分で昨日のような長衣とスカーフをかぶって中に入る。入り口には警備の男性がいた。広いモスク内にはワイン色のじゅうたんが敷き詰めてあった。15000人が同時に祈りをささげることのできるというホールには今はだれもいない。床、側面、天井をくまなく占める幾何学模様は心地よい。8角形の星の連続模様にも見えた。1階は男性用だが、ホールの真ん中あたりまでマゴメドさんと進んで、写真を撮ってもらった。上を向くと2階には女の子が一人いた。頭をスカートにくるんだ可愛い子だった。丸天や手すりの幾何学模様の美しさに見とれ写真を撮っている私たちを見降ろしている。母親か姉妹が手すりの奥の2階にいるのかどうか見えなかった。アイマン・カディロヴァ・モスクは側面の多くがガラス張りと言うところも、ハイテクの一部なのだろうか。
 9時半ごろアリー君の待つ車に戻って出発。連邦道R217はチェチェン平野を横断している。黒海に面したクラスノダール地方からカフカス山麓と平行に東へ進み、グローズヌィからはアルグーンや、第2の都市グデルメスを通ってダゲスタンのハサヴュルト市、そしてダゲスタンの首都マハチカラへ出て、カスピ海の西岸を南に折れて、アゼルバイジャンとの国境まで進むのだが、私たちはアルグーンで連邦道を出て、南へ行く。アルグーン市の出入り口にもカディロフとプーチンの肖像写真のある立派な門があった。
 ヴェデノ
 南西から流れてくるアルグーン川に沿って南のカフカス山脈に向かって行くと、昨日のシャトイへ行くアルグーン峡谷になる。私達は、アルグーン川と並行して東側を流れてくるジャルカДжалка川に出る道に移る。ジャルカ川がチェチェン平野に出たところに、シャーリという人口5万3千人の市がある。チェチェンの国旗の上のカディロフ、ロシアの国旗の上にプーチンの肖像写真のある門柱を通ってシャーリ市に入り、ジャルカ川も越えて、今度はフンフラウХунхулау川(67キロ、スンジャ川の支流ベルカ川の支流)へ移り、山手の方へ進む。
 10時半ぐらいにはヴェデノВеденоと標識のでている村に入る。フンフライ川の作る峡谷はヴェデノ峡谷とも呼ばれている。古い地名ではイチケリアともいう。(1995-2000年は『チェチェン共和国イチケリア』と言う自称国名だった。)川や森が多く、住みやすいところで村は大きい。こちらの門柱にはウェルカムの文字の下にプーチンはいなくて、アフマド・カディロフとラズマン・カディロがいて、親子に見守られながら入った。
(*)ヴェデノ付近には紀元前7世紀のスキタイの古墳が多い。スキタイは黒海北岸からカフカスへ進み、カスピ海のでるベントから中東に出て、アッシリアの首都ニネヴァを落とした。ヴェデノよりやや西の山中のゴウティ村には直径55メートル、高さ5.1メートルの紀元前5世紀の古墳がある。

 ヴェデノ区の行政中心地ヴェデノ村は10世紀からその名が知られ、現在人口5000人余の歴史的にも有名な村だ。カフカス戦争中の1829−1856年ダゲスタンとチェチェンでロシア帝国軍と戦ったシャミーリ指導の北カフカス・イスラム・イマム国の2度目で最後の首都でもあった。ヴェデノがロシア帝国軍に落ちてから、村の周囲には多くのロシア軍の砦が立った。現在でも残っているそうだ。また、革命の内戦期の1919‐1920年の短期間、北カフカス首長国Северо-Кавказский эмиратの首都でもあった。北カフカス首長国と言うのは1919年白軍の後押しで建てられたが、1920年山岳自治ソヴィエト社会主義共和国の一部となった短命な国家だ。2007-2016のドク・ウマロフの自称したカフカス首長国(コーカサス・イスラム首長国)と異なる。
 第1次と第2次のチェチェン戦争のときは激戦地で、ロシア連邦軍が占領したり独立派が奪還したりした。1999年11月、連邦軍が最初の大敗北をきたしたのもここだった。連邦軍が全チェチェン平定後の2001年や2006年にも武装衝突が起きている。
 マゴメドさんはここの中央広場にある店で私たちの食料を購入。その隣の大きな店には『イスラム店』と言う看板があった。パトカーも止まっている。広場にはカディロフ父息子の大きな肖像写真もある。
 ハラチョイ村からハラミ峠
 ヴェデノを出ると両側の山々が近くなる。20分ほど行ったところにハラチョイХарачой(Хорочой)検問所があった。遮断機が下りているのでマゴメドさんは検問小屋に自分の書類を見せに入る。ハラチョイ村はカフカス山脈の支脈アンディАндийские山脈(南西から北東に60キロ、最高峰は2736m)の麓にあり、ハラチョイ村を過ぎて東へ行くとハラミХарами峠(2177メートル)を越えてダゲスタンに出る。
(*)アンディ山脈はチェチェンとダゲスタンの境界になっている。だから峠の3差路から西へ下りるとチェチェン、東へ下りるとダゲスタンだ(峠はダゲスタン領)。ダゲスタン側のアンディ山麓にはアンディ人(アヴァール人のサブ・エスニック・グループ)が住み、中心はボトリフ人(アンディ人のひとつ)の村ボトリフБотлих(標高955m人口1万人以上)だ。そこはアンディ山脈を越えて、つまりハラミ峠を東に行って、アンディ・コイスーと言う川に出た要所なので、19世紀のカフカス戦争時にもロシア軍の要塞が造られた。現在はその廃墟が残っているそうだ。第1次チェチェン戦争後のハサヴュルト条約(停戦)を破って(とロシア側が言う) シャミール・バサエフ、アミール・ハッターブのチェチェン軍(イスラム国際隊)がダゲスタンに侵攻してきたのは、ここだった。アンディ・コイスー川沿いにはアンディ人を含みアヴァール人の様々なサブ・エスニック・グループ村々がある。チェチェン軍は撃退されたが、これがきっかけとなって第2次チェチェン戦争が始まった。チェチェンからダゲスタンに出るにはもっと北のチェチェン平野や山麓の道が主要道で、ハラチョイ村とハラミ峠経由は険道だった。
 2007年プーチンはそのボトリフ村にロシア連邦軍の軍事基地を作ったが、2011年軍事基地はアディゲ共和国のマイコップ市に移り、その施設は現在、特殊任務教練所になっているそうだ。

 標高967メートルにある人口800人のハラチョイ村は、アンディ山脈のチェチェン側麓にある僻村だが、行政上の要所でもあるようだ。また、古くは氏族ハラチョイの故郷村でもある。村はずれには細くて高いヴァイナフ様式の塔が建っていた。ハラチョイ氏族は現在チェチェンに広く住み、3-4万人と言われている有力な氏族だ。1991‐1993年にロシア最高会議長だったルスラン・ハズブラートフРуслан Хасбулатовはグローズヌィで生まれているが、このハラチョイ氏族出身だ。(*1991年ソ連8月クーデターではエリツィンらとともにロシア最高会議ビル(ホワイトハウス)に建てこもりクーデター側と対峙したが、のちに反エリツィン)
 しかし、ハラチョイで最も有名なのはアブレークабрекのゼリムハン・ハラチョエフスキー(グシマズカーエフ) Зелимхан Харачоевский (Гушмазукаев)1872‐1931だ。アブレークабрекと言うのは元々、何らかの犯罪、主に殺人(殺された自分の家族の復讐のためも)などのため家族や氏族から追われ(出身村にいては、復讐の復讐がなされる)、盗賊などになった人々のことだが、19世紀カフカス戦争のころから、対ロシア・パルチザン活動を行う人々を、ロシア側がアブレークと言うようになった。つまり、権力に逆らう人たち、法の外にいる人たちを呼ぶようになった。(以上は、のちにマーディナさんやマゴメドさんにSMSで質問した回答だ)。ゼリムハンは20世紀初頭にその名をとどろかせた。銀行を襲って略奪した金を貧しいものに分けたとか、グローズヌィ駅で市民が17人殺されたので、ロシア帝国軍の将校を17人殺したとか、カフカス総督府(ロシア帝国の機関)のチェチェンの人々を苦しめる役人を殺害したとか。帝国政府(カフカス総督府)から、生死にかかわらずゼリムハンを引き渡したものには、はじめは5000ルーブルの、次第に上がって1912年には18000ルーブル(当時乳牛は6ルーブル)の賞金が出ることになったが誰も彼を売らなかったとか、多くの逸話がある。ソ連時代には、本が書かれ、無声映画が造られ、その名のコルホーズもでき、カフカスのロビン・フットとも言われた。今、ハラチョイ村には記念碑があるとか。(寄らなかった)

 また、付近には紀元前12世紀から紀元前6世紀の後期青銅器カヤケント・ハラチョイ文化Каякентско-Хорочщевская культура遺跡でも有名だ。石棺のある50基以上の古墳が発掘調査された。ろくろなしで作られた土器はハラチョイ陶器と言われる。青銅製の装飾品も特徴的な形をしている。青銅製武器、首飾りの玉も発掘されている。担い手は東チェチェン人とダゲスタン人の祖先とされる。後期青銅器時代から初期鉄器時代にかけてアンディ山脈麓からダゲスタンに広く住んでいた。(ここまで*)

 そのようなハラチョイ村を過ぎるとアンディ山脈を登るヘヤピンカーブの道となる。最近アスファルト舗装された山道だと分かる。上に上っていくとフンフライ川の流れと通ってきたジグザグの白い道がよく見える。チェチェンは戦争で廃墟となった町や村の復興ばかりでなく新観光地を作りそのインフラも整備しているようだ。昔は、きっと、危険な馬道のようなものがあって、ハラミ峠の方に上っていったのだろう。峠はヴェデノ村から34キロキロのところにある。前記の、シャミーリ・バサエフとアミール・ハッターブのイスラム軍がこの峠を越えてダゲスタンに行ったのはちょうど18年前だ。馬道ではなかったかもしれないが、こんなアスファルト舗装はもちろんなかっただろう。(2012年のあるロシア人の旅行記事を読むと、彼が車で通ったこのヘアピンカーブの山道は5年前にできたと言う砂利道だった)。峠からダゲスタンのボトリフ村までは37キロだと道路標識にあった。ダゲスタン領の方の道路はあまりよくないらしい。峠の近くには泉があり、ヴェールの女性たちも水を飲んでいた。泉の周りには家畜が来ないよう細枝に編んだ柵がしてあり、ヴァイナフ様式の塔もあった。帰りもここを通ったのだが、トイレ小屋に入ってみた。20年前のモスクワのトイレのような惨状だった。
 泉の近くには数台の車が止まっていた。観光客を乗せたマイクロ・バスもあった。客は多分グローズヌィからだろう。ハラミ峠はダゲスタン領にある。マハチカラ市などからの観光客は、距離的には近くてもボトリフ村経由ではなく、道路の良いチェチェン側から来るとか。なぜなら、マハチカラからボトリフ村までかなりの酷道のうえ、ボトリフ村からハラミ峠までは、37キロもの山道悪路だ。だからボトリフ村人はダゲスタン平地に出るのにチェチェン側を通るとか。確かにハラミ峠からチェチェン側を見ると車が何台も見えるが、ダゲスタン側には一台も見えない。
 カゼノイ湖
 上記のように、ハラチョイ検問所を過ぎてヘヤピンカーブを登っていくといつの間にかダゲスタン領に入りハラミ峠に出る。峠には分かれ道があって、東のボトリフ村ではなく、『マカジョイ村18キロ』と書いた方へ行くといつの間にかチェチェン領に入る。するとすぐ、カゼノイアム(ケゼノイ湖)に出る。ケゼノイアムはチェチェンとダゲスタンの境にあって淡水の天然ダム湖で、標高1854メートル、長さ約2キロ半、幅700メートル、最深72メートルだ。チェチェンだけでなく北カフカスで最も大きい湖だと言う。山中のエメラルド色の湖は美しい。流れ込む小川や湧き出ている泉はあるが、湖面から流れ出す川はない。だから、水面は気候によって7mも上下する。カゼノイ・アムには美しい伝説がいくつもある。新しいのもではネッシーがいるとか、底でカスピ海とつながっているとか言うものだ。印をつけた魚を放したところ、数か月後にカスピ海で見つかったとか。
 ソ連時代、ここには競艇スポーツ基地があった。しかし、1990年代には独立派の戦力配置があった。また、数年前、ロシア、ダゲスタン、チェチェンの共同の地学調査があったが、それにはチェチェン側から政府関係者のほぼ全員が参加した。チェチェンが新観光保養地開拓に力を入れようとしていると言うことだ。ダゲスタンにはカスピ海があるがチェチェンには取り立てて保養地はない。
 湖の一辺に建物群が見えた。私達はそこへ下りてゆく、カゼノイアム・ホテル施設群だった。大きな三角の屋根の5階建て建物の他にいくつもの木造のバンガロウ風の小屋がある。チェチェン人でないグループもいた。スタヴローポリ辺りから来ているロシア人だろうか。このツーリスト村にはモスクもある。近くにカゼノイ村もある。湖の見えるあずまやにヴェールを被った女性の一団がいた。5,6人の若い女性達でみんな長いスカートだった。たいていは長衣とおそろいのヴェールを被るものだ。写真を撮らせてもらった。すると、女性たちがみんなで撮りたいと言う。私を真ん中にして湖をバックにマゴメドさんに撮ってもらう。その一人が、私と二人だけで撮ろうと言うので、また数枚撮ってもらった。彼女に名前と電話番号を書いてもらう。マッキンと言う。電話番号はワッツアップで後から連絡できるかもしれないからだ。メール・アドレスがあると言う連れの女性がいたので、それも書いてもらった。(後に、両方に便りを出してみた。ずっと遅れてマッキンからワッツアップで返事がきた。彼女は23歳でグローズヌィの学校でチェチェン語の先生をしているそうだ。ホイ氏族出身と言う(下記)。マッキンには教員の母親、警察官の父親、石油技術大学で学ぶ兄、9年生の弟、6年生と幼稚園の妹、それに祖母がいる。来年(2018年)の6月に結婚する。なぜ、ホイ村に住まないのか、それは、学校もないからと言う。ホイ村にはいつまで人々が住んでいたのか。それは自分は知らない。父親に聞いてみると言う)

 高台には別荘風の瀟洒な2階建て建物もあった。ラズマン・カディロフの別荘だと言う。今は無人で錠が下りていた。この別荘近くの見晴らし台からの眺めは抜群で、何枚も写真を撮った。
 この湖は古くからチェチェン人にとって神聖な場所だった。湖の近くにあるカゼノイ村には古い塔がある。
 ホイ村
 1時頃、ここを去る。マゴメドさんは、この奥に私に見せたいものがあると言う。数キロほど行ったところでわき道に入ると、カフカスでよく見かける廃墟の建物が目についた。車から出て廃墟村に入る。大きな村だった。ホイ氏族の故郷村で高く伸びた草の間に廃墟となった石造りの建てものが、延々と続いている。1944年のチェチェン・イングーシ人の強制退去前まではホイ氏族が住んでいたが、1957年チェチェン・イングーシ自治州が復活しても、故郷の山岳村への帰還は禁止されていた。
 チェチェンは山岳民族でもともとの故郷は険しい山岳、峡谷だった。1944年の強制退去前まで、チェチェンの山岳部には古くから多くの村があったが、そのうち最も山岳地方にあったガランチョジГаланчожский区とチェベルロイЧеберлоевский区は廃止されたまま、チェチェン・イングーシ自治州が復興されても、元の住民が先祖代々の土地へ戻ることが禁止された。ホイ村やカゼノイ村、マカジョイ村などをはじめ、チェベルロイ区は強制退去前までは1万7千人が平均標高1670メートルの山岳地の160の村に住んでいたが、1956年以降は無人だ。
 チェベルロイ区は15世紀ごろ西チェチェン(歴史的地方名ではナシュハНашхаから移住してきた氏族テイプの子孫たちが住んでいた(それ以前はカヤケント・ハラチョイ文化の担い手)。到達困難地にあって孤立していたため方言はチェチェン語の中でも古い形をとどめていると言われている。自治州の廃止中、チェベルロイ区はダゲスタン領となり、アヴァール人たちが住んでいた。復活の時、同区をダゲスタン領のままにしておこうと言う意見があったが、チェチェン人が頑強に反対したそうだ。チェベルロイ区にはチェチェンの中でも独特な塔が建てられ、現在にもその廃墟が残っている。かつてのチェベルロイ区の中心はシャーロ・アルグーン村(後にマカジョイ村)だった。ホイ(1944年人口244人)やマカジョイ村、ケゼノイ村などはマカジョイ盆地にある。マカジョイ盆地には石器時代から人が住んでいたという遺跡もあるそうだ。
 帰還してもチェチェン人は山岳村に住むことは禁止され、チェベルロイ区の160の集落はそれ以来無人のままだった。交通の不便な山岳地方は権力が統治しにくく、反政府勢力の温床にもなるとされたからだろうか。公式な理由は隣の区のソフォーズやコルホーズが高原の牧草地を利用するからと言うものだった。が、19世紀初めのカフカス戦争のころから山岳民の蜂起には手を焼いていたモスクワ政府だ。かつてのホイ村は大きく、古く歴史的な山岳村だった。アンディ山脈の奥深く、絶壁の淵にあるので守りは抜群だったに違いない。事実、村を歩いて端までくると目もくらむような深淵が見える。
 日本外務省の海外安全情報では、いくつかの地域や国の渡航危険度が4段階で示されている。中東はレヴェル4の『退避勧告』が多い。東ウクライナやクリミヤはレヴェル3の『渡航中止勧告』だ、グルジアのアブハジアや南オセチアはレヴェル4、グルジア全体はレヴェル1の『十分注意してください』だが、北のカフカス山岳はレヴェル3だ。ロシアではモスクワ市などはレヴェル1だが、北東カフカス(チェチェン。イングーシ、ダゲスタン、北オセチア)はレヴェル3。これはチェチェンやダゲスタン、北オセチア、グルジアの山岳地方にはチェチェン独立派の残党のようなカフカス首長国(前記、北カフカスの広域を領土とするコーカサス・イスラム首長国)勢力があるとされているからだ。このカゼノイ・アイやホイ村は、チェチェンやダゲスタンの国境付近だし、グルジアとの国境にも近い。しかし、もちろん、武装勢力の影さえ今は見えない。新観光保養地としてラズマン・カディロフも力を入れている。別段『渡航中止』することもない。

 1944年以降廃墟となり、地図上でも名前のなかったチェベロイ区だが、ソ連崩壊後は復興が試みられた。2012年、ラズマンがチェベルロイ区を正式にチェチェンの行政区としたが、北のヴェデノ区や西のシャーロ・アルグーン区(中心はХимой村285人、2013年)との境界ははっきりしていない。カゼノイ村(150人、2014年)も正式な自治体となったので、住民登録もできる。

 ホイ村には現在50人ほどが住んでいるそうだ。元の住民で、故郷の村に戻った人たちだ。
 ホイ村の廃墟には、私たちが訪れた時、廃墟の壁をライトアップして写真展が催されていた。と言っても数点の写真で参観者は私達だけだったが。新観光地カゼノイ・アムから近くて、ツーリストも足を延ばすのか。
 退去前までホイ村人が住んでいたと言う住居も、古くからの塔もすべて石でできている。接着剤なしで建てられていると言う。今は住民がいないとはいえ、1944年まで人が住んでいたとすれば、厳しい住居だ。塔の方は半壊とはいえ、建築様式は、突き出しハザマ(矢挟間)のある立派なものでアーチの上には文字(印)が刻んである。古代から太陽の印とされてきた卍もある。
 カゼノイ・アムからマカジョイへの道は『皇帝の道』と言われていたそうだ。なぜなら1871年アレクサンドル2世が、征服地カフカスを行幸した時、通ったからだとか。
 1975‐1983年作成で1985年出版と言う20万分の1の地図では『廃墟』と書かれた多くの集落跡が記入されている。ホイもその一つだ。現在の地図ではホイの文字が見える。21世紀になってようやく故郷に戻ってきた現在の村人は、石造りの廃墟にも住めないので近くに新たに家を建てて住んでいる。そうした村人の村にはモスクも建ち始めている。私達が廃墟村を回っているうちに車に残っていたアリー君がヴェデノで買ったトマトやキュウリ、パンなどを切ってトランクに並べてくれていた。
 マゴメド・ザクリエフさん
 ザクリエフさんの顧客が今日の夕方、イタリアからグローズヌィに来るそうだ。イタリア人ではない。イングーシ人でイタリアで成功して大きな家を建てている。そこに飾る大型の風景画を注文して、その代金を払いに来るそうだ。故郷の風景画とはカフカス山麓だろう。そこには必ず中世の塔が建っている。私も好きな風景画だ。
 マゴメドさんの言うには、絵をかく前にお金をもらうそうだ、なぜなら、絵が気に入られず、購入してもらえなかったら、そのような大型のカンヴァスはどこへも持っていけないからだと言う。
 だから早めにグローズヌィに戻らなくてはならないと言うので、2時ぐらいにはカゼノイ湖に戻り、もと来た道をヴェデノ村の方へ進んだ。

 チェチェンについてどうしたら、もっと知ることができるだろうか。車の後部席に座っているアリー君にわかりやすい質問を試みる。
「チェチェンで歴史的な英雄とされているのはだれ?偉大な王とかはいた?」
「いや、チェチェンには王なんてものはいなかった」。チェチェンには強い王権のある統一国家はなかった。では、
「チェチェンで一番尊敬されている歴史的な人物は」、シェイフ・マンスルШайх Мансурだと言う。後でウィキペディアで調べてみようと、アリー君に私の手帳を渡してつづりを書いてもらった。『シャイハ・マンスル、国民的英雄Шайха Мансур, национальны герой』とあった。カフカス戦争以前のチェチェン人英雄だった。さらに、その下に、『バイサングル・ベノエフスキィ、国民的英雄Байсангур Беноевский, национальный геолй 』とも書いてくれた。
 スターリン時代シベリアへ送られた人の詳細な手記を何篇か読んだことがある。1944年、チェチェン人も家畜用車両にぎっしり詰められて何日も厳しい環境の中、カザフスタンのアルマ・アタなどに送られたのだろう。マゴメドさんに聞かなくても弱い人たち、老人や女性、子供が多く亡くなったと思う。マゴメドさんはトイレがなくて女性が苦しんだと言っている。そのためだけに死んだ女性も多かったと言う。
 前記のように、1957年チェチェン・イングーシ自治共和国が復活され、強制的に中央アジアに移住させられていたチェチェン人は故郷に戻ることが許された(自由にどこにでも住めるようになった)。自治共和国は、廃止中(1944‐1957)はチェチェン人が居なくなった空の村々には、周辺の非チェチェン・イングーシ人が移住してきた。南東の山岳地帯にダゲスタン領に、南の山岳地帯がグルジア領に、南西は北オセチア領に、平野部はスタヴローポリ地方(ロシア)のナウルスキィ区やシェルコーブスキィ区などを加えて新グローズネンスキィ州になっていた。スタヴローポリ地方から譲渡されたナウルスキィ区などはテレク左岸のかつてのグレーヴェンスキィ・コサックの居住地だった。(*)
(*)ナゴイ草原は荒野だ。砂漠と言ってもいい。そこには集落はほとんどない。テレク川北岸は帝政時代からコザック(*もともとロシア・ツァーリ国やポーランド・リトアニア共和国の辺境にいた独立の武装集団、軍事的共同体、のちにロシア帝国に組み込まれて帝国の膨張の先兵となり、国境防備や治安維持にあたった。)が住んでいて、山岳民と戦っていた(トルストイの『コザック』)。そのテレク北岸は、革命後、ロシア人の住むスタヴローポリ地方の一部となっていた。コサックの多くは粛清された。
 住民が強制退去させられて空白になった旧自治共和国の大部分を占めたグローズネンスキィ州には、ロシアからの移住が推奨され、鉄道料金が無料になった(とウィキペディアにはある)。
 だから、1957年にチェチェン・イングーシ自治共和国が復興したと言っても、まったく前のようではなかった。強制退去中の空になった村々には移住者が住み着いていたし、国境も廃止前とは異なっていた。
 1957年以後、移住者の再移住地も、帰還者の住居も保障されていなかった。日常的な民族紛争が多発したそうだ。マガメドさんが言うには、ダゲスタン人はしぶしぶ元のところに戻った。ロシア人はなかなか戻らなかったが自分たちが追い出した。グルジア人はとても親切だった。帰ってきたチェチェン人は飢えているだろうからと家畜を1頭残してくれた。チェチェン人は今でもグルジア人に感謝している。一方、オセチア人はいまだに、去ろうとはしない。これはテレク右岸のプリゴロド区のことをさしている。北オセチアが返還を拒否したので(*)、ソヴィエト政府は、再建チェチェン・イングーシ自治共和国がテレク右岸のプリゴロド区を北オセチアに譲る代償として、テレク北のナゴイ草原(低地)南部をスタヴローポリ地方から切り取って、チェチェ・イングーシ自治共和国に含めたそうだ。(*たいていの資料によると、住民の意見も全く聞かずにナウルスキィ区とシェルコフスキィ区をチェチェンに分譲したそうだ
(*ソ連崩壊後、チェチェン・イングーシ自治共和国から分離してイングーシ共和国となったが、自分たちの祖先からの地として返還を求めるイングーシ人と北オセチアとの武力紛争があった。1992年、ロシア連邦軍が出て、オセチアの言い分が通った。このことからも2003年のベスラン学校襲撃テロが起きた)。

 マゴメドさんのおじさん、つまり、祖父の長男で相続者の一家がグローズヌィの自分たち家に戻ってみるとロシア人が住んでいた。なかなか家を空けてはくれなかった。一家は仕方なく庭にテントを張って住んでいた。「自分の家の庭にだ」と、マゴメドさんは強調する。なかなか出て行かないので小さな手りゅう弾を投げ込んだそうだ。すると翌日には出て行った。ここで後部座席のアリー君がくすくすと笑う。ロシア人を追い出した『痛快な』顛末は家族で何度も話されたようだ。1960年前後、日常的な民族紛争が多く見られた。

 1959年、チェチェン・イングーシ自治州では全人口が71万、ロシア人は35万、チェチェン人が24万、イングーシ人が5万だった。ちなみに1989年は自治州の全人口127万のうち、ロシア人は30万、イングーシ人は16万(現在のチェチェン共和国だけでは2.5万人)、チェチェン人は73万人だ。2010年にはチェチェン人が95%以上、ロシア人は2%未満だ。
 マゴメドさんはアスランの同級生でウラジカフカスの芸術大学を卒業している(グローズヌィには芸術関係の高等教育機関は当時なかった)。彼は、現在は画家だが、以前はビジネスをやっていた。市の中央に店を構え、繁盛していたらしい。しかし、第1次チェチェン戦争で焼けてしまった。その後借金をして再興したが、また焼けた。もう一度ゼロから再興したが第2次チェチェン戦争で焼けてしまった。3度も破壊されてしまったと言うのは、アラーが自分にビジネスは止めるよう言っていると言うことなので、もうやらない。画家に戻った。「ビジネス?」「食糧店だ。」
 別の会話の後に彼は言った。「アラーの神の教えの通りにすれば、世界は平和で、みんなが幸せになれる」。

 ヴェデノ村の出口の門はカディロフとプーチンの肖像写真で「道中御無事で」とロシア語で書いてある。途中何度もカディロフの写真を見ながらグローズヌィに着いたのは4時すぎ。国立図書館の館長のイスライロヴァ・サツィダさんからマゴメドさんに、私が欲しがっていたチェチェン古代史の本が手に入ったからと電話があったそうだ。だから。図書館に行く。もう一度、彼女にあって、800ルーブルで購入。マゴメドさんは300ルーブルで『ヴェノイВеной』と言う本を購入していた。
 グローズヌィのタクシー乗り場まで送ってくれる。ここで一人でウラジカフカスまで帰る私にアスランのマンションまで送ってくれる善良なタクシー運転手を見つけなければならない。普通、長距離タクシーは郊外バス・ステーションから、目的地のバス・ステーションまでと言うことになっているらしい。ちなみに流しのタクシーはなくて、手を挙げて止まってくれた普通の車との個人交渉で値段が決まる。普通は配車組合(?)に電話してタクシーを回してもらう。こちらの方が幾分か安全で安いからだ。
 ザクリエフさんは客待ちタクシーの運転手と交渉してくれたらしいが、折り合わなかったらしく、知り合いの運転手を呼ぼうと言う。ハムザットと言う知り合いの運転手は確実に私をアスラン(住所あり)の家まで届けてくれ、値段は2000ルーブル(と言う安さ)と言う。その車が来るまでのしばらくの間、車の中でアリー君と待っていた。マゴメドさんの買った『ヴェノイ』と言う本を見せてもらった。厚さは私の買った古代史と変わりないが、写真用の紙で製本されているせいかずっしりと重い。目次を見みると、なかなか興味深いので、数ページ、写真に撮った。ヴェノイ村人はチェチェン人の中でも特に独立精神が旺盛でロシア政府やソ連政府に支配されることを好まないのか、何度も蜂起している。そして鎮圧されている。ページをめくって写真を撮っている私を見て、マゴメドさんは、その本を贈呈すると言う。トランクが重くなるが、断るのも悪いので感謝して納めた。帰国後読んでみると、別の面からの情報も豊富で重宝した。もう一度マゴメドさんに感謝。
 やがて、知り合いのタクシーが来てくれる。グローズヌィからウラジカフカスまでは2時間ほどだ。運転手のハムザットさんはとても好意的だった。来るとき写真に撮れなかったアルハン・カラ村のモスクの写真を撮るときは、特にゆっくり走ってくれた。車のCDから低い音が流れている。運転手が珠々をまさぐっている。聞いてみると、今は夕べの祈りの時間だが、仕事中なので、このような形で祈っていると言う。CDから聞こえてくるのはアラビア語のコーランだった。このコーランの声が邪魔ならば、消しますと言う。いやいや、人の信仰は敬意をもって接せねばならない。どうぞ、続けてください。
 ウラジカフカスに着く、アスランの家を探す。何度も来ているので、私の方が曲がり角の見当がついた。
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