クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 26 January, 2018  (追記 2018年6月22日、8月18日))
2016年 北カフカス(コーカサス)からモスクワ (1)
    峡谷のオセチア・1
        2017年7月9日から7月27日(のうちの7月9日から7月11日)

Путешествие по Северному Кавказу и москве, 2017 года (9.7.2017−27.7.2017)

   ロシア語のカフカスКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スとも聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus

  6/25-7/9    (旅の前半)   モスクワから北ロシアのコミ共和国
1 7/9−7/11 ウラジカフカス市 (地図) 山岳サニバ村 サニバの社 ギゼリドン峡谷 フェアグドン峡谷
2 7/12-7/13 バトラス ルーテル教会 トランスカム アルホン村 失われたオセチア
7/14 カバルド・バルカル共和国に向かう アディゲ人の地(地図) チュゲム峡谷 カルマコフさん
7/15−7/16 ディゴーラ地方へ(地図) ストゥル(大)ディゴーラ カムンタ村 ウアラグコム(上の峡谷)
7/17 グローズヌィ市に向かう 国立図書館 チェチェン地理 アングーン峡谷へ シャトイ村 ハッコイ氏族
7/17 サッティの塔 ハルセノイ村 ニハロイ滝群 ウシュカロイ塔 チェチェンの心 グローズヌィ・ホテル
7/18 アルグン市をぬけて ヴェデノ村 ハラチョイ村からハラミ峠 カゼノイ湖 ホイ村 ザクリエフさん
7/19-7/21 ゼムフィラさん アナトリア半島のスミュルナ カルツァ滝 ウラジカフカス駅発
7/22-7/27 モスクワ州のアパリーハ団地(地図) モスクワの大モスク トレチャコフ美術館 はとバスとクレムリン壁 ツァリーツィノ公園 プーシキン美術館
 7月9日、5時10分にセルゲイさんの車で出発、5時20分にはスィクティフカル空港について、搭乗手続きの窓口にいた。
 スィクティフカルを発って2時間後の8時20分には、モスクワのヴヌコヴォ空港に着く。ここで私は8時間待たなければならない。
 16時40分ウラジカフカス向けて飛び立つ。ヴヌコヴォからウラジカフカスまでの3時間の飛行機も、今朝がた乗ったUT エアーの飛行機と同じタイプ、同じ広さで、私は同じ座席(後部から2列目通路側をネットで予約済み)に座った。
 ウラジカフカス
 7月9日(日)、19時にウラジカフカスのベスラン空港に到着。電話で何度か連絡済みのアスランが出迎えてくれ、スーツケースを空港の駐車場まで運んでくれる。車の横ではルスランが次女のサーシャと待っている。アスランやルスランと無事再会できてうれしい。
 今年のルスランは、去年故障で困ったウァズではなく、チェヴロレット・ニヴァChevrolet Niva(シボレーと、ロシアでおなじみの軽ジープの二―ヴァとの連名)だった。金色の空を見ながらウラジカフカス市への連邦道を走る。去年と同じアスラン宅に着き、両親のクララさんとルスランさんに挨拶。カフカスではアスランとかルスランとかソスランとかバトラスとか言った英雄叙事詩に登場する人物の名前が多い。去年と同じアスランの長男のヘータ君(18歳)の部屋を使わせてもらう。今年は、彼の古いウインドウのパソコンを使わなくてもいい。モバイルWi-Fiルータをつけたそうだから。しかし、その無線LANを利用したインターネット接続サービスは料金不足で停止中。翌日、1000ルーブルをヘータ君に渡して(郵便局の窓口に)支払ってきてもらった(釣銭あり)。これで通じるので、去年のように3階のエルザロフЕлизаровxさん宅にお邪魔しなくてもよくなった。

 ウラジカフカス到着翌日の7月10日(月)、この日はアスランの都合の悪い日だった。彼は自分のアトリエの大修理をして、住みやすくするのだ。芸術家同盟員にはアトリエ(つまり別宅)が支給される。そのアトリエには、仕事ばかりか仮住まいも(本住まいも)できる。はじめから水道、電気、トイレ・バスがついているが、やっと使用に耐える程度。自費でリフォームして快適な仕事場マンションにするのだ。アスランも両親の家に住むのは窮屈だろう。アスランはすでに、トイレや浴室は修理してホテル並みの快適さになっている。キッチンも自分好みに飾っている。7、8メートル四方はあるかなり広い空間は仕事場・アトリエで、片隅にベッドや自己流のテーブルを置いている。60平方メートルほどあるそうだ。木の古い窓枠や傷んだ床を修理すれば新居となるくらいだ。今回は古い窓を取り払って大きな窓をつけると言う。そうした工事はここでは窓の取り付けの他は自分でやらなくてはならない。持ってきた新し窓が取り付けられるよう古い窓も取り払い、新しい窓のサイズに合わせて壁などを削って、または足しておかなくてはならない。取り付けの日時は決まっていない。突然、明日といわれることもある。取り付け工事の時は助手も努めなくてはならない。工務店にすべてお任せと言うわけにはいかない。
窓から中庭を見る
ボスの一人の豪宅
ソスランとアランでボートに乗る
ロープが張られた水浴ゾーン
ソヴィエト様式大パネル前のスターリン胸像

 その下工事を早く済ませて、新しい窓枠の搬入をいつでもオーケーにしておかないといけないので、この日は私とは付き合えない、申し訳ないと言われる。(7月19日、出発の前々日には完成していた)。私は朝起きると窓から中庭を眺める。去年のように、ベンチには顔なじみが座っている。ずっと座りっぱなしの半盲半聾のおばあさん。去年は赤ちゃんだったが今年はもう歩いているような女の子。3階のゼーマさんは絨毯を広げて洗っている。
 12時くらいにクララさんと散歩に出かける。去年のように近所の豪宅でも眺めるためだ。クララさんによると彼らはヴォッカの販売で儲けたとか。ゴルバチョフ時代、反アルコール・キャンペーンのため、ヴォッカやワインなどの製造工場は廃止するかジュース工場になり、ワイン用ブドウの木は伐採された。1992年エリツィンがアルコール類の国家独占法を廃止してみると、全ロシアにはオセチア産ヴォッカしかなかったそうだ。なぜなら、反アルコール・キャンペーンで全ロシアのヴォッカ・ワインの製造が停止されていた時、うまくアルコール産業を温存していたとか。ソ連崩壊で、ブドウ栽培やワインの大産地アルメニアやグルジアが外国となったのも、アルコール引用不足の原因だ。また、グルジア経由でトルコからの安価なエタノール(酒精)輸入を地の利でオセチアが独占できたからとか。グルジア・マフィアとの結びつきが緊密だったからとか。大量の安価な密輸エタノールに、地元の水(これは上質なものだ)を混ぜてヴォッカを瓶詰めしてラベルも張って、ロシア全国に販売していたとか。大した技術や大規模な施設は不要で、オセチアのどの村でも製造していたとか。売れすぎて人手不足だったので、オセチアへ行くと誰でも瓶洗いぐらいには雇われたとか。1990年代前半、オセチア産のヴォッカのみが全ロシアで売られることになったそうだ。
 それで儲けたボスたちの屋敷だと言う。
 クララさんとぶらぶら歩いて、ある装飾タイル屋さんに入る。ここでは売店の女の子と知り合いとかで、長く話していた。
 道を歩くと、スモモやブドウの熟れた実が落ちてつぶれている。
 
 この日、アスランの弟のソスランが私のお相手をしてくれるということだった。しかし、それは何時からかはわからない。ソスランと時間を決めて約束するのは無駄だ。そのソスランが白のジャガーで現れたのは4時半ごろ。次男の9歳のアラン君が後部座席に乗っていた。どこへ行こうかと言われて、この時間なのでダリヤル峡谷Дарьяльское ущелье方面ということにした。ウラジカフカス市を南に向かう。この道にはナルト叙事詩の英雄たちの彫刻が並んでいる。連邦道A161に入りさらに南下。かつてのグルジア軍事道の通るダリヤル峡谷の税関までへは行かない。天候が悪くて見晴らしが効かないので、カフカスの山々が見られないからだそうだ。私はカフカスの山ではなくロシア側国境(から数十キロの税関と出入国審査地点)を見たかったのだが。
 連邦道A161から、ウラジカフカス市にもどる。最も長いコスタ通りに入ったところからが、ウラジカフカス市内だ。2キロほど行くと市電の終点『水源地』停留所がある。ここでテレク川の方に曲がると、小さなダム湖(水源地)があって、市民の憩いの場となっている。ソスランに誘われて、憩いの場を訪れる。
 水源地、つまりテレク川から水を引いてできた貯水池の傍にレストランや屋台が並ぶ。アランが屋台で菓子を買ってもらっている。ボートもあったので3人で20分借りる。池にはボートなどが入らないようにロープが張られた水浴ゾーンもある。水着の子供たちもいたが、冷たい水に入るのはためらっているようだ。
 この憩いの場はテレク川の左岸だが、イングーシ共和国に近いからか、こうした人の集まる場所はテロに狙われやすいからか、若者の多いところでは治安が良くないからか、警備員(警官)が池の周りを巡回していた。カフカスでは、こうした警備員が多い。モスクワもそうだった。ちなみに今回のコミ共和国では見かけなかった(コミには汚職はあるようだが、テロや暴動は聞いたことがない)。
 コスタ通りに戻り、少し町の方へ戻ると『栄光記念』公園がある。去年もアスランと訪れて、1751年オセチア大使ズラフ・マグカエフЗураб Магкаев (Елиханов)がサンクト・ペテルブルクまで出かけ、エリザヴェータ女帝に国書を手渡すと言う像を見て、オセチアの近代史の描き方に感心したものだが、今回は奥のソヴィエト様式大パネルもつぶさに見た。『スターリンのために』とか『故国のために』とか書かれた戦車が勇ましくドイツ軍に向かっている。騎兵や水兵も、負傷者を抱える『母』もいる。中央の前面にはスターリンの胸像が立っている。パネルが所々剥げ落ちている。この公園は2005年に完成したそうだ。
 山岳サニバ村
 7月11日(火)、この日はルスランが車を出してくれる約束だ。できるだけ早い時間、8時か8時半ごろにでも出発したかったが、こちらはみんな朝が遅い。夜遅くまで明るいせいだろうか。時間帯が太陽の動きとは、所によっては1時間以上はずれていて、正午に太陽は南中はしない。13時過ぎになる。(夏時間が実施されていた時は2時過ぎだった場所もあった。)
ゲナルドン峡谷にあったトンネル
ゲナルドン(直進)とカウリドン(左折)を分ける峠
カルマドン村の廃墟になったサナトリウム群
サニバ村の入り口
タマーラさん宅のヴェランダ

 9時に10歳のサーシャを乗せたルスランがやってきた。去年から約束していたサニバ峡谷へ行く予定だ。サニバ村へは3通りの行き方がある。去年のようにフィアグドン峡谷を遡って行ってから東へ行くコース。ダリアリ峡谷の途中から西へ入るコース。ウラジカフカスの西の村ガゼリからギゼリドン峡谷を遡って、直接山岳のサニバ村に向かうコースだ。今回第3のコースをとる。ギゼリドン峡谷のギゼリドン川はコバン村を通ってダルガウス村へ向かうが、途中にゲナルドン峡谷への分かれ道がある。サニバへ行くにはこのゲナルドン峡谷の方に曲がらなくてはならない。しかし、こちらは2002年9月20日にゲナルドン川の上流にある(つまり水源の)コルカ氷河が、時速180キロ(だったと報道された)で土砂と岩と氷で流れ下ったため、長い間通行不可だった。氷河に襲われてゲナルドン川辺にあったヴェルフヌィ(上)・カルマドン村は全滅した。
 もう通行は可能になっているらしいので、私たちはギゼリドン峡谷からゲナルドン峡谷の方へ向かう。その曲がり角に一人の年配の女性が手を挙げている。ストップ、ストップと手を振っている。親切なルスランが車を止める。彼女はウラジカフカスからコバン行きのバスに乗ってこの分かれ道まで来た。バスは右へ行き、彼女の目的地のサニバは左だ。だから、無人の分かれ道でバスから降ろしてもらい、左へ行く車を待っていたそうだ。20分ほども待ったと言う。やっと私たちの車が通りかかった。こんな時は乗車を断らないものだ。ウラジカフカスからサニバ村へ行くバスは、ないか、とても本数が少ないのでオート・ストップしか行き方はないそうだ。
 ゲナルドン(カルマドンとも言う)峡谷はとても狭い。両側から高い山がゲナルドン川に向かって突き出ている。道路はゲナルドン川のすれすれのところを走る。ここを通ってカルマドン鉱泉場へ行くためにできた道だ。あまりにも狭いせいか、ところどころトンネルさえもある。しかし、道はこれらトンネルを避けて通じている。と言うのも、2002年のコルカ氷河がこの狭いゲナルドンを通って、周囲の崖を崩し、岩と土砂と氷が猛烈な勢いで流れ下って、トンネルも埋まってしまった。入り口は見える。しかし貫通はしていない。出口は岩の中。今の道は氷河が運んできて、峡谷に落としていった土砂を均した上を走っているのかもしれない。
 ゲナルドン峡谷の自然は素晴らしい。ゲナルドンには右岸支流カウリドンが合流する。(*つまり水の流れは、カウリドン⇒ゲナルドン⇒ギゼリドン⇒アルドン⇒テレク⇒カスピ海)。合流点近くはゲナルドンとカウリドンを分ける峠がある。峠の西がゲナルドン、東がカウリドンだ。コルカ氷河はゲナルドン川を下ってきた。氷河は、大なり小なり数年ごとに崩れ流れてくるので、ゲナルドン川辺に村を作るときは氷河の流れ道に作ってはならない。ヴェルフヌィ(上の)・ゲナルドンはその昔からの掟を守らず、ソヴィエト政府が造ったのだそうだ。
 2002年、氷河の運んできた土砂は、もちろんカウリドンへは逆流しなかったが、洪水になったそうだ。(カウリドンの水が土砂でふさがれて行き場を失ったからだ。ちなみにカウリドン川の水源・上流には大氷河はない。)
 ゲナルドン峡谷を進むとカウリドン峡谷(サニバ峡谷ともいう)との分かれ道になっている上記の峠の上に出る。峠から遠くカルマドン村が見える。廃墟になったサナトリウム群も見える(氷河のせいではなくソ連崩壊前後の資金不足で建設途中で放棄)。私達は、東のカウリドン川を遡ってサニバへ向かう。
 サニバは古い村だ。19世以前、オセチア人が暮らせるのはまだ険しい山岳地帯でしかなかった頃は大村だった。サニバ出身の苗字が、19世紀以後広くオセチア斜面平野に広がっている。
 サニバから現在のギゼリ村近くのギゼルドン中流に移動した村人はヴェルフヌィ(上)・サニバ村を作り、さらにその下流にノーヴィ(新)・サニバ村を作った。古いサニバは山岳サニバと今は呼ばれている。アスランの父もこの山岳サニバ出身だ。オート・ストップで私たちの車に乗ってきたタマーラ・クサーエヴァТамара Кусаеваさんの父もサニバ出身だそうだ。
 目的地の家の前まで送られたタマーラさんは、どうぞお茶でもと言う。では、ちょっとお邪魔しよう。タマーラさんが緊急にサニバの家に来たのは近所の人から水道が漏れていると緊急連絡があったからだ。一応近所の人が止めてくれた。一通り家とその周りを見終わったタマーラさんはベランダ(山岳地帯の家なので家の裏は斜面、そこに屋根を伸ばせば風通しの良いベランダになる)にテーブルと椅子を出し、家(普段はウラジカフカスに住む)から作って持ってきたと言うブルヌィ(クレープ)を出してくれる。ベランダから上の斜面は菜園として利用できるが、今は休耕。タマーラさんは現役時代、夫とヤク―チア・サハ共和国で働いていた。年金をもらう頃故郷のオセチアに戻ったが、今は、夫はいない。30代の息子さんも病気で最近なくしたとか。
 タマーラさんは父の代までサニバで暮らしていたが、1943年平地に移住した。しかし、父はサニバに帰りたがっていたが、果たせないうちに亡くなった。それで、自分たちがサニバに土地を買い、この家を建てた。確かに古い村にしては、タマーラさんの家は新しい。
 サニバの社
 伝統ある村のサニバには伝統ある社がある。タマーラさんと別れて私たち4人は、社に向かう。
サニバの社
見学のグループ
戦没者慰霊碑
食堂(ジキドウ)から教会を望む
アスランの先祖が住んでいた家
カウリドン川

 サニバ村は村中がカウリドン川へ向かう斜面にできていて、道はすべて登ったり下ったりだが、オセチアの古い村ではよく見かける納骨堂や塔が、村のすぐ近くと言うより、村中に見られる。土地が少なかったからか。納骨堂は半ば崩れてはいる。一方、古い村には似合わないような様式不明の新邸宅が高台に建っていた。
 私は、山岳サニバ村は寂れる一方の村かと思っていた。古い山岳の村々の中には住民が平地へ移住して、無人となり、その名前と納骨堂と塔だけが残っていることもある。廃墟とならなくても、寂れている村々が多い。しかし、サニバはそうではない。サニバ出身の成功者が資金を出している。それはマイルベク・クサーエフМаирбек КусаевというKGBの元大佐だったが、事業で大金を成したというグレーな人物だ。彼の母方がサニバ出身なのだそうだ。 

 サニバの社は新しく建っていて、オセチアの伝統の社とキリスト教の天使たちを合体したような、何か違和感のある様式だった。後に読んだサイトの記事によれは、オセチアのキリスト教は伝統宗教を取り入れたもので、伝統宗教にもキリスト教的なところがあるとしている。『伝統宗教』は、キリスト教からは『伝統宗教』とは決して呼ばれないで『異教』とさげすまれる。サニバの社はアラルディАлардыと言う神を祀っている。アラルディは人々、特に子供に天然痘や麻などを送り込む。だから、病気を下さないようにアラルディにお願いする。社の門はオセチア伝統の石垣だが、上に白衣で羽のある天使が立っていた。これは天使ではなくてアラルディだそうだ。マイルベク好みのこの社はアスランやルスランの気に入らない。だから、マイルベクの手が入るようになってからは、アスランは父の故郷サニバを訪れる気はなくなっていたそうだ。
 アスランは、自分はキリスト教徒であり、オセチアの伝統宗教も尊重しているが、これは矛盾していないと言っていた。が、彼はキリスト教の教会へは決して入らない。
 カウリドン川をはるか下に見下ろす高台には新しく立派な戦没者慰霊碑まである。息子か夫か兄弟か、愛しい人が着ていたカフカス風外套を抱く女性の像は、心を打つ。彫像の作者はロシアで有名なタヴァシエフСтанислав Тавасиевという。*彼は、ウラジカフカス中心街のДзауг Бугулов像, Михаил Булгаков像 Евгений Вахтангов像などの作者でもある。市内南部の ≪Памятник Победы≫公園のいくつかの彫像の作者でもあるそうだ。オセチアでは時々、田舎に著名な芸術家の素晴らしい彫像を見かける。それは祖国(と言うより大国ロシアで少数民族の上位に立つソ連邦中央政府モスクワ)のために戦って故郷に戻ってこなかった戦没者慰霊碑だが、ここには『反戦』しかなくて『愛国』を鼓吹する勇者はいなかった。
 新しい正教の教会『聖トロイツァ(聖三者) Свято-Троицкий храм』(*キリスト教における三位一体の神を表す正教会用語、至聖三者、父・子・聖神のこと)が見えた。1860年に建てられ、ソ連時代破壊されていた場所に新しく建ったのだとか。言い伝えによると、12世紀にさかのぼることができる。『異教』のアラルディの社もその時代からあったとか。崩壊していた教会を復興したのは、もちろん、マイルベクの財力(と政治)の力だ

 サニバと言うのはタガウルス共同体やアラギール共同体のオセチア人(サブ・エトノスではイロン人)が崇拝している豊穣のдух霊魂のことで、サニバを崇め、豊穣を祈って『犠牲動物を捧げ』宴を催す。だからこの意味のサニバと言う地名は、本当は各地にある。また別説では、元々はグルジア語のサメバ、つまり聖三者から来た言葉だとも。
 新しい『聖三者・トロイツァ』教会から降りてきた道は食堂(仏教でもジキドウと言うが、正教でもトラペザтрапезаと言う)に通じる。これも新しい。トラペザには長いテーブルもあり、大きく開いた窓からは教会や庭が見える。この庭は古代ローマ風に見せかけようとしているが、まったく中途半端なもので、アスランもルスランも苦笑している。マイルベクは知識も趣味もないと言っている。見事な青いトウヒもあったが。
 教会と社は向きを違えているそうだ。つまり、出入り口は互いに別の方向にあるように建てたそうだ。
 歩道もついている舗装された道路を下ると小さな公園や動物園、と言っても鳥類だけだが、孔雀や鶴を始めここでは珍しい鳥のいる小動物園だった。聖トロイツァ寺院に各地から子供連れでお参りにやってくるからと言うのか、児童公園まである。事実、少年少女の団体が歩いていた。近くの村からマイクロ・バスにでも乗って指導員とやってきたのか。
 カウリドン川辺まで下りるともう人の住まない空き家がある。石造りの廃墟で、ルスランの好みらしい。
 サニバ村は小川のカウリドンの両岸の斜面にある。
 アスランの父がウラジカフカスへ出るまで先祖代々住んでいた家がある。崩れかけていたが、玄関の紋章は残っている。隣にはディオフ家の分家で、ゼムフィラさんの父の出身家がある。

 午後1時前にはサニバを去る。村の出入り口にはアーチ付きの門まであるのだ。1年前とは逆のコースで、今回はフィアグドンの方へ向かう。途中にカルマドンの峠から遠くトメミカウТменикау村が見える。ギゼリドンやゲナルドン峡谷では最も標高の高い村で(標高1592メートル)今は、10人も住んでいない。その村にブグロフ家のザウグ・ブグロフДзауг Бугуловと書かれた納骨堂があるそうだ。その一家のザウグ・ブグロフは18世紀中ごろ、村から出て平地にザウジカウ村Дзауджикау(ザウグДзаугの村Кау)を作った。ダリヤル峡谷を流れ下ったテレク川がちょうどオセチア斜面平野に出たところと言う有利なロケーションだったので、のちにその村にロシア帝国が砦を作ったのだ。今のウラジカフカスだ。だからザウグ・ブグロフはオセチアの首都の創立者とされていて、前記、タヴァシエフ作のザウグ像も、ウラジカフカスの砦のあったと言う場所に立っている。トメニカウ村はカルマドン村から3キロほどの道のりらしい。途中に防御用の塔が2基立っている。トゥメニカウ村は背後には氷河の高山、前面には塔があり、よほど安全な村だったのか。だが耕地は少なく気候も厳しく、その土地が養える村人の数(環境収容力)には限りがある。そんな、今は半廃墟村にもぜひ寄ってみたいが、今回は、遠くから眺めただけだ。
 ギセリドン峡谷
 ゲナルドン峡谷から峠を越えてギゼリドン峡谷へ移り、ダルガヴス村を通る。オセチアで最も大規模なこの村はずれの納骨堂群は、今回は寄らなかった。ダルガヴス村内に入って食料を買う。村には戦没者慰霊碑もあるが、サニバほど心を打たない。ちなみにどんな小さな村にも必ず、第2次大戦、つまり対ドイツ戦(ロシアでは必ず対ファシズム戦と言う)の慰霊碑はある。
今回は通り過ぎたダルガヴス納骨堂群
フサール・ヒンツァグ村跡にある砦(矢印)
ギゼリドン発電所ダムから降りるヘアピンカーブ
バライラグ峠でランチ

 上流のダルガヴス村からギゼリドン川を遡る。この道はぜひ通ってみたいと思っていた。この辺のギゼリドン河原はかなり広い。両側に聳える絶壁のすぐ後ろに岩山の頂は雲で見えないが。
 3キロほど下ったところで、ルスランが指さしたのはフサール・ヒンツァグХуссар Хинцаг(南のヒンツァグ)村跡だ。(後で地名をルスランに書いてもらったから)。斜面に塔や納骨堂が見える。この斜面には自然の岩山を利用した砦もあるそうだ。道路から出て斜面を登る細い道もある。しかし、道には遮断機が下りていた。オセチアではよく見かけるが、鍵がないと通行できない。ここは個人の牧草地にでもなっていて部外者などが入ってこないようにしているのか。近くの人家の留守番老人がカギを持っていて開けてくれることもあるが、ここの鍵はだれのところにあるかルスランは知らない。それで、遠くから眺めただけでパス。この村出身者の数人(または一人)が所有者なのだろう。
 さらに3キロほどギゼリドンを下るとギゼリドン発電所のダム湖が見えてくる。水力発電所のダム湖だから、300メートルは落差のある高所にあり、峡谷の両脇は45度以上の絶壁の、つまり景勝にある。だから、ソ連時代カフティサルКахтисарと言うペンション群があった。ダム湖はカフトィ・サールКахты-Сарと言う古代の土砂崩れによる堆積地にある。ダム湖ができる前はその堆積土砂がギゼリドン川を塞ぎ、プルトПуртと言う小さな湖があった。その湖からギゼリドン川に滝が流れていたそうだ。
 発電所は1927年から建設が始まり1934年には、始動した。始動当時はヨーロッパでもっとも落差の大きいダムだったとか、そして現在も稼働しているロシアの水力発電所では最も古いとか。推定水頭(*)Estimated headは289メートルと、ウィキペディアにある。 
(*)水頭(すいとう、英語:hydraulic head)またはヘッド(head)は、水の持つエネルギーを水柱の高さに置き換えたものである、とウィキペディから。
 現在は、ロシア連邦水力発電会社(ルスギドロと言い、世界ではブラジル電力会社に次ぐ規模)の所有物だ。ルスギドロはここではペンション経営はしないから、ソ連時代、多くの人が宿泊して楽しんだかもしれないカフティサル・ペンションは無人となってうち捨てられ崩れかけている。高台にあるペンションの廃墟を過ぎると、道はヘアピンカーブに差し掛かる。何カ所も急カーブを作り、ひたすら下に降りて行く。素晴らしい道だ。危険な道なので絶えず削られ均されているのだろうか、地面が新しい。そして道端に白い花びらの小さな太陽のようなマーガレットが少しの場所をも惜しんで咲き乱れていた。誰かが一面にマーガレットの種をまき、マーガレットは「この場所が気に入った」と言っているかのようだ。まだマーガレットも咲く暇もない新しい崖地には背中に二筋模様のトカゲの群れが肩寄せ合って日向ぼっこをしている。私が近づいても草むらに逃げ込まない大胆なやつもいた、それとも日光浴が足りなくてエネルギーがないのか。
 坂を下りたところに発電所の古い建物があり、道路は川岸に出る。さらに2キロほどギゼリドン川の横を行くとコバン村に出るのだが、それまでのほとんど垂直に切り立った両岸を見ると、ギゼリドンの深さがわかる。
 コバン村は400人と山岳村にしては比較的大きい。19世紀に精巧な青銅器がこの近くで発掘されて、コバン文化と名付けられたことで有名なコバン村だ。当時、小さな集落コバンの近辺で発掘された青銅器は、類似のものがその後カフカス一帯に発掘され、はじめの発掘地の名でコバン文化(後期青銅器文化の一つ)と呼ばれている。しかし、現在のようなコバン村ができたのは、1920年代でギゼリドン発電所建設のためだった。かつての上コバンと下コバン村が合体してコバン村となっているから、家並みは道路に沿って長々とある。
 コバン文明の青銅器が初めに発掘されたのは現代の村内ではないだろう。有名なコバン文化だから記念碑か博物館でも立っていればいいのに。
 この道を下っていくと、ウラジカフカスからコバン行のバスに乗り途中下車したタマーラさんがオート・ストップをしていたゲナルドン峡谷への分かれ道に出るのだが、私たちはコバン村からギゼリドン川の左岸の山道に入る。めったに車も通らないような古い山道を通ってフィアグドンに出ようと言うのだ。(主要道は面白くない。)
 すぐに遮断機がある。ジギДжизи村にでも通じているのか。村は、無人だが、個人(かつての村人、19世紀には10軒ほど家があったと言うから)の占有地・牧草地になっているのだろう。私達はジギ村の方へは行かない。別の山道を登る。眼下にコバン村が見えてくる。ギゼリドンからフィアグドンへわたるこの道はバタイラグБатайрагと言う標高1636mの峠を越えて、道のりは9.5キロほど。天候によっては通行できないかもしれないが、ともかく、今日4輪車の通れる道があるのはありがたい。
 バタイラグ峠で3時過ぎだったがランチにする。タマーラさん宅でクレープを食べたからこの時間と場所がぴったりだ。ルスランはコーヒーを持ってきている。当然、カセット・コンロもセットする。壺に挽いた豆を入れて沸騰させる。「あちちっ」と(たぶん自分たちのオセチア語の言葉で)言いながら上澄み液をコップに入れて飲む。たったこれだけの標高でもかなり寒い。
 この峠から、今通ってきたギゼリドン川とその向こうの峻厳な山々が見える。峠までの道が、高い木のない野原を通っているからだ。峠を過ぎると森に入り、両側から木々の葉が迫ってくる。森の空き地は灌木が生えている。白い花びらの野ばらが美しかった。
 フェアグドン峡谷
 夕方6時ごろ、峠の山道を降り切って、フェアグドン峡谷を走る舗装道に出る。出たところにカルツァと言う小さな支流が合流してくる。この川も、遡って行けばカルツァ峡谷のカルツァ村に出られるのだ、が、それは今回パス。(最終日に訪れる機会があった)。舗装道に出ると山側に曲がり、フェアグドン川を遡ってクルタチン峡谷に向かう。狭い峡谷を通って遡るとクルタチン共同体の村々が残る盆地に出る。
ツィムィッチ村の塔
納骨堂群

 現在最も大きいのはフェアグドン岸にある人口1000人余のヴェルフヌィ(上)・フィアグドン村だが、最も古いのはツィムィッチЦымыти村で、16世紀以前からある。ツィムィッチ村はフィアグドン左岸の防御の堅固なカリウ・ホッフКариу Хох山の斜面にあり、野外博物館と言っていいほど、多くの防御・住居用塔や納骨堂が残っている。かつての村人はフェアグドン川下流の平地に移って、ほとんど無人だが、オセチア人の多くがここ出身の苗字だと言う。
 というのも、ツィムィッチは当時、クルタチン共同体の中心で、川下や川上からも最も守備が固く、最盛時には50軒もあった大村(*)だったとか。防御の堅い山岳村ではあるが、商業の中心でもあり、グルジアに通じる山道もあった。近くで採れた硝石を売っていたとか。ツィムィッチの分村とされているのはヒジクスХидикус村(『ツィムィットの橋』の意)、ウリカウУрикау村、 カダットКадат村で、親村から2,3キロ離れた斜面や川岸にある。当時、ラッツЛацなど周囲の村は30軒ほどだった。また分村のヒジクスにはアラン聖ウスペンスキィ男子修道院Аланский Свято-Успенский мужской монастырьがある。21世紀に建ったものだ。同じ場所に、19世紀から1928年まで『キリストの身体(遺体)に香油を塗りに来た聖女』教会церковь Святых жен мироносецがあったそうだ。
50軒で『大村」と言うほど、当時の人口は少ない。この山岳地帯ではそれ以上は増加できなかったのだろう。疫病などによるボトルネック状の人口減少も何度もあった。それでもオセチア人として現在にまで至ったのだ。カフカスにはもっと人口の少ない民族が数十はいる。)
 上記ヴェルフヌィ(上)・フィアグドン村は20世紀初めに亜鉛・鉛採掘場からできた村だが、今は閉鎖され人口は減っているが、この辺りの行政中心地で、主要道はここへ通じる。
 ツィムィッチへ車で登る。何基もの塔の廃墟、城壁のような石垣の廃墟がある。塔はすべて屋根が落ちている。防御用なので入り口は高いところにあり、仮に中に入っても修復してない場合は壁から落ちた石があるだけだ。納骨堂の方は屋根が落ちない建て方になっている。狭い入り口からは遺骨や遺品の一部が見える。サーシャといっしょに何枚も写真を撮る。
 斜面にあるので眼下のフェアグドンがよく見える。右岸遠くにはゲナルドン峡谷(当時はタガウルス共同体の領土)へ通じる道が見える。
 ツィムィッチのように古い遺物が多く残っている山岳村は、オセチアには数カ所ある。かつては共同体、サブ共同体の中心だった大村だが、20世紀初めまでに村人の大部分が平地に去ったため無人となっている。無人となった村は山岳地帯には多くあるが、かつて大村だった場合だけ、納骨堂や防御・住居塔が集中して、見事な廃墟村となっていて、訪れる人の心を打つ。大村でなかった場合でも、斜面の草原にぽつんと数基だけ残っている納骨堂や塔もそれなりの景観ではある。
 
 ツィムィッチの対岸にあるラッツにも上ってみる。オセチア・ナンバーの車が1台いて、観光客のような男性が廃墟を眺めている。話しかけてみると、彼はウラル南部ヴォルガ地方からオセチアの知り合い宅に来ていると言う。
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