クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 26 January, 2018 (追記 2018年6月23日)
2016年 北カフカス(コーカサス)からモスクワ (2)
    峡谷のオセチア・2
        2017年7月9日から7月27日(のうちの7月12日から7月13日)

Путешествие по Северному Кавказу и москве, 2017 года (9.7.2017−27.7.2017)
   ロシア語のカフカスКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スとも聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus

  6/25-7/9  モスクワから北ロシアのコミ共和国
1 7/9−7/11 ウラジカフカス(地図) 山岳サニバ村 サニバの社 ギゼリドン峡谷 フェアグドン峡谷
2 7/12-7/13 バトラス ルーテル教会 トランスカム アルホン村 失われたオセチア
7/14 カバルド・バルカル共和国に向かう アディゲ人の地(地図) チュゲム峡谷 カルマコフさん
7/15−7/16 ディゴーラ地方へ(地図) ストゥル(大)ディゴーラ カムンタ村 ウアラグコム(上の峡谷)
7/17 グローズヌィ市に向かう 国立図書館 チェチェン地理 アングーン峡谷へ シャトイ村 ハッコイ氏族
7/17 サッティの塔 ハルセノイ村 ニハロイ滝群 ウシュカロイ塔 チェチェンの心 グローズヌィ・ホテル
7/18 アルグン市をぬけて ヴェデノ村 ハラチョイ村からハラミ峠 カゼノイ湖 ホイ村 ザクリエフさん
7/19-7/21 ゼムフィラさん アナトリア半島のスミュルナ カルツァ滝 ウラジカフカス駅発
7/22-7/27 モスクワ州のアパリーハ団地(地図) モスクワの大モスク トレチャコフ美術館 はとバスとクレムリン壁 ツァリーツィノ公園 プーシキン美術館
 バトラス 
 7月12日(水)、クララさんはソスランに届けるため『3枚のペラガー(パイ)(*)』を作っている。小麦粉のこねたものを大きな3個の団子に分け、テーブルの上に広げ、のし棒で伸ばしている。『ピラガー』の単数はピロークпирог、パイのような小麦粉製品。その指小形ピラジョークпирожокの複数がピラシキーпирожки。3枚のパイтри пирагаとはオセチアの伝統的な宗教儀式の一つ。民族宗教際や、家族のお祝い事の時に焼く。3枚は神、太陽(空)、地を意味するそうだ。
『3枚のピラガー』を作る
↓バトラスさんのアトリエにある発掘物↑
バトラスさんと彼の右のアスラン

 この日ルスランは都合が悪い。明日は車を出してくれるそうだが、今日はアスランとウラジカフカスを回ることになって、10時過ぎ芸術家同盟のアトリエへ行く。同盟員用アトリエは市内に何カ所かはあって、このアトリエには去年も来た。家全体が同盟員のアトリエになっていて、各芸術家は一区画占有できる。1階は中庭に広く空いていて、戸外でも仕事ができる。アスランとこの日訪れたアトリエは2階にある。バトラス・ツァゴエフ Батрас Цогоевさんと言って、考古学にも詳しいそうだ。専門の考古学者の指導する発掘調査隊には必ず画家も参加する。発掘した遺跡を写真でも撮るが、人間の目で見た写実的な絵も必要だからだ。同行画家は発掘物に詳しくなる。
 アトリエの棚の中には発掘された貴重品がたくさんしまってあった。はじめに骨董品の剣を見せてくれた。剣のコレクターなら見とれるかもしれないが、私は、骨とう品には一通りの興味しかない。立派過ぎて、コバン文化時代やアラン時代の発掘物ではない。
 棚から出して、箱を開けると、トイレット・ペーパーの包みがあった。包みを開けると、青銅の矢じりや、鏡、腕輪、銜などがでてきたこれは個人の所有物としては驚きだ。発掘調査で同じものがたくさん見つかれば、発掘参加者の私有物になってもいいのかもしれない。錆びた青銅製と鉄製の剣も見せてくれた。土器もあった。確かに、古墳など発掘すると、青銅の矢じりは多く見つかる。玉をつなげた首飾りもある。つなげたのは現在人だろうが、玉を選んだり玉に模様を刻んだりしたのは古代人だろう。木製の櫛(羊毛を梳くためか)や、皮の長靴の断片もあった。
 個人博物館を開けそうなほどのコレクションだった。と言ってもウラジカフカスの国立博物館は大量の保有コレクションでパンクしそうだと言うから。
 発掘物についてバトラスさんに説明してもらいたかったが、忙しそうだったから遠慮して写真を大量に撮っただけで、1時間ぐらいで退室。1階のアトリエのオレーク・ツヴァルガソフОлег Царгасовさんのところへ寄ってお茶を飲み、ハードビスケットをいただき、町の中心部に出る。アレクサンドロフスキィ大通りには去年、写真を撮った記念碑・彫像のほか、ガジエフ・セーカГадиев Сека(1855―1915)像もあった。ガジエフは、調べてみると、現在はグルジア領だが南オセチア近くに生まれて、後にウラジカフカスへ移ってきた文学者、オセチア民族語文学の創立者の一人。
 モスク、ルーテル教会
テレク川右岸にあるモスク
 テレクにかかる歩道橋の上から去年のように写真を撮る。左岸には青い屋根と茶色の壁の美しいスンニー派モスク(*)が見える。今回は橋の上から眺めただけではなく近くまで行ってみた。中へは入らなかったが。
 モスクはコツォエヴァ通りとテレク川の間の川岸モスク公園にある。コツォエヴァ通りを進むとオセチア共和国立図書館の大きな建物があり、正面には、アルセン・コツォエフКоцоевの胸像があった。コツォエフ(1872-1944)は近代オセチア文学の創立者の一人と言えるそうだ。
 アスランとここへ来たのは図書館の本を見るためではなく4階にホールがあって、2か月後、彼の個展(共同展かも)が開かれるからだ。ホールの責任者らしい女性と挨拶していた。その女性が出してくれたコーヒーを飲む。
 5時近く、また橋を渡って右岸のアレサンドロフスキィ大通りに出る。ウラジカフカスではこの通りに出れば退屈しない。もう一度国立博物館に入る。
アスランとテレク川の橋から見えるモスク
国立フィルハーモニー
修復された旧ドイツ・ルーテル教会横広場から
 最近ウラジカフカスに新しい名所ができた。それは国立フィルハーモニーだ。10年間もかけて修復したと言う。それは19世紀後半に建ったルーテル派教会だった。その頃、ウラジカフカスはテレク州の中心として人口が増えた。ロシア内部から移ってきたロシア人ばかりか、国外、特にドイツからの移住者も多く、ドイツ人居住区もあった。そこで1866年にドイツ・キルヒが現在の地に建ったのだ(ドイツ語のキルヒェKircheは英語のチャーチChurch、つまり教会という普通名詞)。それは北カフカスでは唯一のゴシック様式で、土台と壁は赤レンガ、屋根はスチール製、幅15メートル、奥ゆき50メートル、尖塔の高さ24.7メートルという荘厳な建築記念物だった。1930年代教会は閉鎖され、建物は種々の同好会などの会場として使われた。1948年から国立フィルハーモニーとして観客席や舞台が造られ、付属建物も増えた。ホールは展示場ともなった。
 その国立フィルハーモニーの元ドイツ・ルーテル教会が外観は建築当時の様式を復元し、内部は近代技術の粋を集めて修復完成したのだ。音響設備は日本製とか。
 ウラジカフカスで古い建物と言えば、前記のスンニー派モスク(*)と、1868年のアルメニア教会(**)と、ドイツ・ルーテル・キルハだ。 

(*)1908年に建設したアゼルバイジャンのバクーの石油王の名前ムハタロフМухтаровの名で、そのモスクを呼ぶこともある
(**)『預言者聖グリゴリー啓蒙者』教会のグリゴリーとは3−4世紀アルメニア人、アルメニア使徒教会創立者

 横に広場があったので、アスランと休む。夕方6時過ぎだった。ベンチに座ると斜めの太陽が私たちの目を射る。赤レンガに白枠の窓が規則正しく並んでいるのは気持ちがよかった。アスランに、私にはよくわからない伝統宗教について説明してもらう。今まで、社やナルト叙事詩の絵や彫像はよく見かけたが、オセチア伝統宗教にはギリシャ神話のゼウスのような神々の神はいるのだろうか。いる。
 最高神はフツアルХуцауと言う。天界の人物・神も多い。ナルト叙事詩で語られている英雄も伝統宗教で崇められる。ウアステルジУастырджиは天界と地上の間を行く。
 トランス・カフカス自動車幹線道
 7月13日(木)、この日、峡谷の険道を回るので、ルスランに早めに出発してもらうよう頼む。8時半にルスランがチェヴロッキー・ニーヴァ(シボレーとニーヴァの連名した車名)で迎えに来てくれる。去年のウアスよりはいいがシートが動かない。背もたれもかなり倒れたまま動かない。まあ、車輪が動けばそれでいいが。
 ウルイマゴフУруймаговさん(*)が去年勧めてくれたが、行けなかったアルホン村へ行く。アルホンはアルドン川中流の広い意味のアラギール峡谷にあるが、トランスカムという連邦道A164の走る峡谷の主要道からは離れた小さな険しい峡谷にある。かつてはアラギール共同体の主要な大村だったが、今は1,2軒の家しかないそうだ。
 ウルイマゴフさんは、アルホンは素晴らしいところで遺跡も多い、村には冬場は人はいないがアフサル・ツァパノフАхсар Цопановがいる。彼の兄弟のヴラジィックВладикとブジБудзиは『下』、つまり峡谷の底の方に住んでいる、と書いてきていた。峡谷の底の方とは、最も下のアルドン川岸の段丘のトランスカム道沿線の交通に便利な村々のことだ。私達は、容易に会うことのできる『下』に住むブジに会い、アルホンに行くことを告げなければならないらしい。
トランスカム道にあるウアステルジの像
ミズ―ル村の病院前。左にあんずの木
村のレーニンのレリーフとスターリンの胸像
 トランスカム道A164 は、昔は『軍事オセチア道』と言って、マミソン峠から南オセチアとグルジアに出られた。現在のトランスカムはマミソン峠へは回らないで、ロック・トンネルで南オセチア共和国への国境へ出られる。その先は南オセチアの首都ツヒンヴァルまでは行けるが、ツヒンヴァルから数キロのグルジアとの国境は現在、越えられない(グルジアは南オセチアを自国の一地方としているから国境とは言わない。しかし、実際は南オセチアにグルジアの主権はいきわたっていない)。だから、ロシアから直接グルジアに行くには、ダリヤル峡谷を通るグルジア軍事道、現在の連邦道A161しかない。
 ダリヤル峡谷のA161は、グルジア貿易もあって、大型トラックなどの交通量がそれなりに多いが、アラギール峡谷のA164の方は、すれ違う車も多くない。連邦道なので道路の状態は良く、車もまばらなのでスピードが出せる。みんな私たちの車を抜いていく。ルスランのシトロエンは動くだけでもありがたいが、かなり古い。
 トランスカム道に入るには、ウラジカフカスから50キロほどのアラギール市でアルドン川に沿って南の山の方へ曲がる。トランスカムはアルドン川の左岸を走っている。トランスカムに入ると7−8キロで平地から山間に入り、道にはもう絶壁の岩がせり出している。その岩山の途中の20メートルくらいの高さのところに馬に乗ったウアステルジが、岩から出てきたように空中に走り出している。この像は1995年制作で、重さは28トン、ヘリコプターで運びあげて、岩につけたそうだ。
 ウアステルジはオセチア伝統宗教では天界の超人の一人で、伝統宗教のキリスト教化、つまり習合で、凱旋者聖ゲオルギオス(ゲオリギィー、ジェルジオ、ジョージ)と同一視されている。勝利をもたらす軍人の守護神とされ、オセチアでは人気がある。この人目を引く像は、オセチアの象徴の一つなのか、観光写真集にも載っている。アスランやルスランは伝統宗教のキリスト教化にはあまり積極的ではない。(ロシア帝国は、武力で征服するばかりでなく、征服地の非ロシア人たちをロシア正教化し、ロシアと一体化させようとした。軍事的征服と前後して宣教師団が赴くのは、なにもロシア帝国に限ったことではないが)。
 トランスカム道にはトンネルが多い。初めの短いトンネルを1本超えたところに、淀んだ池が見えた。これはミズールМизурの精製工場の沈殿池だ。もう一本トンネルを越えたところがミズール村だ(1941−2005はミズール町だった)。もともとミズールの名の村は、もっと山間の難攻の小さな峡谷にあり、今はヴェルフヌィ(上)・ミズールと呼ばれている。現在のミズールは、亜鉛鉛精製工場村だ。アルドンの左岸支流サドン川の中流に、サドン鉛亜鉛鉱山が開発され、採掘された鉱石を精製するために峡谷の『底』の交通の便利な場所にできた村(かつては町)だ。1960年代には3500人以上の町民がいた。今は3000人くらいだが、ソ連時代に新しくできた工場城下村なので、労働者用のアパートが無趣味に並んでいる。
 ブジはここの病院でガードマンか何かで働いているらしいので、まず私たちは、その病院に車をつける。周りにはあんずの木があって、熟れた実が地面に落ちて割れていた。前記のようにミズールはソ連時代の工場村なのでおなじみのスターリンの胸像やレーニンの大きなレリーフ像が残っている。道の舗装が割れ、雑草が至る所に生い茂りごみごみしているのを見ると、私は気持ちが暗くなる。
 アルホン村
アルホンドン沿いの道に入る
アルホンドン川岸の『石のキノコ』
イカエヴィ家の塔
納骨堂のある斜面
納骨堂の中
アフサル・ツァパノフその人か
『アルホン・タラ』からの帰り道
案内してくれた青年と
 ブジから行き方を教わり、10時過ぎミズーリを後にして、元来たトランスカムを少し戻って最初の小さな橋で右岸にわたる。右岸の狭い道をアルドン川から遠ざかるように行くと、アルホンドン(14キロ)と言う、小さいが水量が多く、流れの早い川岸に出る。絶壁と川の間の狭い道を登っていく。川岸には大きな石が見える。道は厳しい上り坂になり、車も辛そうだ。別れ道があって左ダイカウДаикауと標識が立っていた。私達は直進。道は険しく、アルホンドンの川岸を登っていく。道のわきの絶壁は浸食によってできた奇岩群がみえる。土のピラミットとか岩のキノコとか言われている。(この写真の載っている観光写真集もある)
 『アルホン』と書いた標識が見えてきた。アルホンとは『断崖』『窪地』と言いう意味。アルホンドン(ドンは川の意)の絶壁の上にある斜面に村ができていて、村に近づくと、高い窓のある半壊の防御塔(イカエヴィИкаевых家の塔と言う)が見える。次いでもう1基見える。
 前記のように、アルホン村は古いオセチアの代表の一つで、アラギール共同体でも大村だった。家畜の保有数も多く、19世紀末には近くで銅も採掘され、鍛冶職人もいた豊かな村だった。(1922年の地震以来アルホンはじめ、クルタチン峡谷山岳村の人口は減っているそうだが)。
 私達を迎えてくれたのはブジの親せきの青年で、兵役から戻ってきたそうだ。彼は、ルスラン達と少し話してから、村の奥にある納骨堂の広がる斜面に案内してくれた。15基ほどの納骨堂があり、崩れたものはなかった。狭い穴からは暗い中部が覗き見られる。中には遺骨や遺品があった。この斜面は現代の墓地でもあって、ブジたちの両親は、現代ロシア風の墓に収まっている。
 その奥は車の通れない山道で私たちは歩いた。緩くても、景色が良くてもこの上り坂は私にはきつい。道とは言っても、下へ下へと流れてくる水にとっても格好の通路となるから、人が上り下りする道と、水が流れ下る道とは共通する場所が多い。ぬかるんでいるところでは迂回が難しい。雨水で地表を流れる水もあれば、地中に浸みこみ、裂け目があると湧き水となって地表水に合流する流れもある。湧き水のでる場には、手ですくって一口飲めるようになっている。去年から行ってみたいと思っていたアルホンだったが、1時間も歩くと、体力のない私は車に戻りたくなった。
 ブジの親せきの屈強な青年は私たちを奥へ奥へと案内してくれる。ときどき道からずっと下を流れるアルホン川が見える。アルホン峡谷の灌木斜面だった。ときどき、斜面に石の廃墟と、塔が見える。青年は、ここはタラと言う場所だと説明してくれる、『アルホン・タラ』ともいう。アルホンから1.5キロも来たところだ。かつては村だった。ここにはタラ家が住み塔はタラと言う。もっと山手の方に数家族が住んでいた村が2,3あるが、今はすべて無人だ。廃墟好きのルスランもそこへ行くのは止めてくれて、私たちは引き返す。深い谷底にアルホンドン(川)の流れが見える。斜面には浸食でできた『石のキノコ』の一株もみえる。
 アルホンドン(川)の対岸の斜面には5−7世紀のアラン人の地下納骨堂がある。その近くに紀元前1世紀の古墳もあるそうだ。こちら側の岸から見ただけでは何も見えない。
 村に戻る。村の道路を横切って流れる水で老人が手を洗っていた。上の斜面から、地中、地表と流れてきた清い水だ。アフサル・ツァパノフその人か。
 アルホンにいたのは2時間くらいだった。青年は家に入ってお茶でもと勧めてくれたが、ルスランはこの日峡谷の村をできるだけ多く回る予定だったから、お断りした。
 元来た山道をアルドン川の方へ下りる。来た時は気が付かなかったが、帰り道ではダイカウ村の塔が2基見えた。こんな立派な塔が立っていたダイカウ村は、今は数人の村人だが、かつてはやはり大きかったのか。
 事実、アルドン川中流に合流する小さな支流のつくる狭い峡谷ごとに50軒前後の村々がいくつもあって、かつてはアラギール共同体をなしていた。中でも右岸のアルホンやウルスドン村、バッツ村、左岸のツェイ村、ヌザール村、上ミズール村(工場城下町の方は下ミズール、古いのは上ミズール)などが支配的だった。(この峡谷の狭い平地では50軒程度が養える限度らしい)。
 カフカスの氷河から流れてくる102キロもの長さのアルドン川に沿ってトランスカムが通るのだが、中流はアラギール峡谷と言い、アラギール共同体の領域で、上流と源流のマミフドン川岸はトアリス共同体だった。2つの共同体は川に突き出た通行困難な岩山カッサル峡谷で分け隔てられている。ちなみに、アルドン川のアラギール峡谷からその東のフェアグドン川のクルタチン峡谷へはアルホン峠(2206メートル)を超えると出られる。
 アルホン峠はアルホン村のアルホンドン川の上流にあるわけではなく、アルホンドンより2,3本川下のウルスドン川の小さな支流の上流とフェアグドン川の上流支流の分水嶺のあたりにある。当時、アルホン村が最も支配的だったので、アラギール共同体とクルタチン共同体(フェアグドン峡谷にある)の間の峠もアルホンと呼ばれていたのか。
 失われたオセチア
高台から見下ろすアラギール峡谷(サイトから)
アルドン川に沿った道がトンネルに入る
ツァマッド村
ダゴン村の塔と最近できた騎馬像のレリーフ
(サイトから)
ドニサール村の仮小屋のあづまやでランチ
ドニサール村の塔
ウルスドン村の住民の一人
クスルタ村の塔だろうか
上ミズ―ル村の墓地古い納骨堂の横に現代の墓が
アルハンゲル・ミハイル教会
上ミズ―ル村の高台の塔とルスラン
神ミズ―ル村の高台から下ミズ―ル村を見る
羊の群れも
 アルホンドン峡谷には隣の峡谷に出る車の通れる道はないから、いったんはアルドン川の橋まで下り、トランスカムを『ウナル』とある標識のところまで戻り、またアルドン川を渡って、ウナル村に入る。ここの郵便局(兼役場)には食料品の売り場がある。私達は食料を調達しようとしたが、どれも賞味期限切れ。お客が入ってきたと知らせを受けた店員のおばさんがやってきて、期限切れと教えてくれたのだ。賞味期限のある5品ほど購入。レジが故障中だからレシートは発行できない、手書きでもいいかと聞く。珍しいのでレシートの写真を撮っておく。
うなる村役場兼郵便局の店の店員
手書きのレシート
 ウナル村を出ると上り坂があって『ヴェルフヌィ(上)・ウナル』と標識が見える。道は1本しかないので上っていったがどこに上ウナル村があったか気がつかない。道は見晴らしのよい高台に出た。下を眺めるとアラギール峡谷の底を流れるアルドン川、トンネルから出てきてその横を通るトランスカム道が見渡せる。 
http://reports.travel.ru/reports/2017/03/223560.html
 数分行くと、『右ツァマッドЦамад1.7キロ、ダゴムДагом2.7キロ、ウルスドンУрсдон5キロ』と書いた新しい標識が出ている。この先の小さな峡谷やテラスにはかつて、その3村の他にもいくつか村があったが、今はこの3村がたとえ数人でも住民が住んでいると言うわけだ。道はますますつづれ折れに上がったり下がったりする。この道一本で3村とも廻れるとは便利だ。
 ツァマッドと書かれた標識が見え、2010年には住民が2人と言うツァマッド村の塔が見えてくる。ツァマッドは、13世紀アラン国の王子ツァヒルЦахил(*)の地だったので、ツァヒルに語尾のアッドадがついてツァマッドと呼ぶそうだ。ツァマッド村に入ると巨大な塔が目に着く。かつては七重の塔だったと言う。今も残っている土台の大きさから、その規模がわかる。新しい小屋もあったが、これは都会人のダーチャらしい。
      (ツァヒルは13世紀モンゴルに滅ばされたアラン国を再興しようとしたアス・バガタルの子)
 次のダゴン村までは1キロも離れていない。20世紀中ごろから、村人たちは1450メートルもの高度にあるこれら村々を後にして平地に移住したので、中世からの石の塔が半壊のまま残っているわけだ。ダゴンもアラン王子の後裔が住んだと言う村だ。だから、中世には、有名な裁きの場があったという。ここで『血の復讐』を繰り返す2家の裁判も行ったとか。
 つづれ織りの上下する道を行くと『左ウルスドンУрсдон1.8キロ 直進ドニサールДонисар 1.3キロ』と書いた標識があり、私たちは直進する。ドニサールは完全に無人の村だが、広々とした緩やかな斜面草原で木も生えてない台地高原に立派な塔が2基あった、四方は雲をいただく岩山に囲まれている。
 車で行けるところまで行き、あとは歩いて近い方の塔まで行った。近くの塔は石の土塁が土台になっている。土塁に上がるだけで私はギブ・アップ。足元の草原には雛菊が群生している。白い花の中に紫の、私には名前不明の花が咲いている。ルスランとアスランは塔の中にも入っていった。もちろん中には何もないが。
ルスランのカセットコンロで三角フラスコのコーヒーを沸かす

 遠くの方の塔は突き出た岩を土台に建っている。ルスランが一人で見に行った。アスランと私は車のところまで引き返してランチの用意をする。新しい小屋が立っている。この辺りの草刈りをするための寝泊まり用か道具小屋だろうとのこと。入り口には鍵がかかっている。小屋の横のあずまやで、ルスランのカセット・コンロで沸かした湯でお茶とコーヒーを飲む。今日、ルスランは三角フラスコをもってきていてやかんの代わりにする。しかし沸騰した時どうやって3人のコップに注ぎ分けるのか。草刈小屋の近くに落ちていた針金で持ち手を作ってどうにか注ぎ分ける。4751
 3時過ぎ、また車で出発する。ちなみに、この辺で私は上腕を何らかの毒虫に刺され、1週間ほど腫れが引かず猛烈に痒かった。
 ウルスドンと言うのは『白い川』と訳せる。なぜなら村を流れる川が石灰のため白っぽいからだ。ウルスドン村は、かつては100人ほどの中程度の村だったが、20世紀後半に減り始め、現在は3人だとか。村を通った時、老人が菜園を耕している姿が見えた、ウルスドン近くにも1世紀の古墳が発見されている。6−8世紀の納骨堂、ミフタイМихтайと言う社。道路からはウルスドンの要塞ウアラグカウУаллагкауが見える。 13世紀アラン国の王子ツァヒルの要塞と伝えられているそうだ。塔が3基見える。岩山の斜面にあって、岩山の自然の凹凸とほとんど見分けがつかないが、よく見ると、人の手が入っていると分かる。攻撃用の窓もある。難攻不落かもしれないが、食料、水、武器はどうやって運ぶのだろう。かつてはジブギスのように通路、つまり険しいが道もあってその下に集落もあったのか。http://hoochecoocheman.livejournal.com/264579.html
 道に沿って降りて行くと、インジンタИнджинтаと言う廃墟村があり、塔らしい廃墟を写真に撮る。灰色のウルスドン川を横切る道にはもちろん橋はなくて、車に乗ったまま水の中をわたる。さらに、降りて行くとほとんどアルドン川岸に、人口100人弱のインツァールинцар村がある。便利なところにあるが、古い村だ(古くは、便利なところには集落をつくらなかった。敵の攻撃にも便意なところだからだ)。ここでトランスカム道に出られる。交差点には大きいカバンを持った男性が立っていた。このオート・ストップしようとしている土地の人に、ルスランがアルドン左岸の古い村々へ入る道を尋ねる。今までたどってきた右岸の山中だけでなく、左岸のやはり険しい山中の峡谷や台地にも古い村々がある。4時50分頃だったが、ルスランはこちらの方にも回ってくれるのだ。
 帰国後、古い遺跡のある地図が載っている『失われたオセチア』と言うサイトで、私たちがたどってきたルートを見ると、途中にサフガСахуга、クスルタКсурта、ツァーラグツィカウЦаллагтыкау、ツィルトィラギЦыртыраг、ヴェルフヌィ(上)・ミズールなどがあって、すべて無人の廃墟か、または廃墟同然の村々だ。かつては数十軒も家があった。50軒もあれば山岳村では大村だ。無人なので標識もなく、どの廃墟がどの村なのかわからない。道は1本なので、たぶんクスルタを見て、遠くの森が始まるところにある廃墟サハグガタСахаггата(сахакат)を眺め、上ミズール村を見て、グソイタГусойтаを通って下へ降り、下ミズールに出たと思う。
 上ミズール村は、起伏のある台地一面に広がっていて、石壁や防御塔が至る所に残っていた。納骨堂群もあり、現在の工業城下町ミズールのなかったころはただミズール、または大ミズールと呼ばれていた。上記、地図上の廃墟村はミズーリの分村とも言えた。ミズーリは16世紀中ごろ、ウルスドンからミズーリと言う13世紀アラン国の王子ツァヒルの子孫の一人が移住して来てできた村だとか。19世紀末はこれらミズーリ・サブ共同体の人口は1200人ほどもあったと言う。1890年にはアルハンゲル・ミハイル教会も建った。ソ連時代は閉鎖されていたが、今修復されている。
 ミズール村は緩い起伏が多く、全体にアルドン川岸に向かって斜面になっているが、その緩やかな斜面は突然切れて崖になる。だからその崖からははるか下方のアルドン川の流れやまっすぐに線を引かれたようなトンネルから出たところのトランスカム道の一部、道にへばりつくように長く伸びているミズーリ村の一部が見える。ソ連時代の味気ない直方体のアパートが崖下に5棟建っている。
 この崖を何とか降りるつづれ織りの道を伝って、ミズール町に出る。すぐトランスカム道に出たのは7時ぐらいだった。この連邦道を羊の大群が歩いている、牧童も数人棒を持って歩いている。この個所だけ横道がないので連邦道を歩かせたのかもしれない。やがて牧童に追われて横の斜面へ上がっていった。アルドン市で南北に走る連邦道から東西に走る国道に移り、東のウラジカフカスへ向かっていた7時半ごろ、背後の夕日がきれいだった。南はカフカス山脈が連なっている。中にひときわ白く光る高い山はカズベック山だと思う。
унал верхний унал Цамад Дагом Урсдон Инджинта Зинцар
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