クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 19 April, 2017 (追記5月26日)
2016年 北カフカス(コーカサス)からペテルブルク (5)
    西オセチアのディゴーラ峡谷
        2016年8月20日から9月4日(のうちの8月27日から8月28日)

Путешествие по Северному Кавказу и Петербурге, 2016 года (20.8.2016−05.9.2016)

1部)8月2日から8月10日 トゥヴァからサンクト・ペテルブルク
2部)8月11日日から8月20日 コミ共和国の北ウラルからサンクト・ペテルブルク
3部)8月20日から9月5日 北カフカスのオセチア・アラニア共和国からサンクト・ペテルブルク
1) 8/20 北オセチア共和国 ベスラン着 北オセチアの地理と自動車道 峡谷での宿敵 オセチアの宴
2) 8/21-8/23 アスラン宅 ウラジカフカス市 アレクサンドロフスキィ大通り テレク川岸 ロシアとオセチア 南オセチア共和国
3) 8/24-8/25 ウラジカフカスの芸術家たち 峡谷のオセチアへ(南東部地図) 納骨堂群の丘 氷河に呑まれた村(共同体地図) グルジア軍事道(イングーシ地図)
4) 8/26 イングーシ通過 チェチェンに グローズヌィの水浴場 復興グローズヌィとチェチェンの心 プーチン大通り
5) 8/27-8/28 オセチア斜面平野(南西部地図) 正教とイスラム ディゴーラ共同体 カムンタ村着 過疎地カムンタ村 養蜂業者
6) 8/29-8/31 マグカエフ宅 ザダレスクのナナ 失われたオセチアの一つ ネクロポリス ガリアト村 テロには巻き込まれなかったが
7) 9/1-9/3 スキー場ツェイ オセチア軍事道 カバルダ・バルカル共和国へ 保養地ナリチク市 ウラジカフカスの正教会 再びグルジア軍事道
8) 9/4-9/5 サンクト・ペテルブルク イングリア フィンランド湾北岸の地 コトリン島の軍港クロンシュタット モスクワ発成田
ロシア語のカフカスКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スとも聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus
 オセチア斜面平野を行く
北オセチア共和国南西地図(全体地図はここ(1)の3ウルフ川(Урух)は第2音節に力点があるのでウルッフとも聞こえる。オセチア語イラフ川のロシア語読み
 8月27日(土)。この日はソスランがカムンタ村のルスランのペンションへ送ってくれることになっているが、それは早い時間ではない。夕方近くと思った方がいい。やっと午後になってからアスランと食料を買いに市場に出かけた。カムンタでオセチア風ピロシキを作るための牛肉などを買う。市場はテロに狙われることもあって危険でもあるが、ウラジカフカスでは、市場での自爆は起きていない。私達が出かけたのは、それほど大きな市場でもない。肉屋に入ると動物の部位がぶら下がっている。牛肉3キロは1200ルーブル(2500円)だった。レモンやキュウリ、トマト、ニンジンなどは全部で200ルーブル、コーヒー280ルーブル。ほかに私は自分用の菓子を600ルーブルも買う。私は甘いものが好きなのだ。カムンタ滞在中、食事が私の胃腸に合わなくても、この甘いものと熱いお茶だけで数日は過ごせるだろう。ルスランやソスランたちにお勧めもできる。
 買ったものが大量で、バスを乗り継いで帰宅するのも嫌になったので、近くに止まっていた車に乗る。100ルーブル(アスランによるとこういう乗り方をすると高いそうだ)。ちなみに、アスラン宅でお世話になっている私は、家以外の出費は一応すべて受け持った。
市場、肉屋さんの冷蔵庫内

 3時半頃ソスランが来てカムンタへ向けて出発。車には、いとこのヴァジムと言う男性が乗っていた。いとこ、つまり同じ祖父母から生まれたのかと思ったが、ヴァジムはそういう意味のいとこではなく、同じ姓の同年齢のもの同士と言うことだった。苗字が同じならば、一族と言える。兄弟でなければ、いとこと言う(下記)。

 ウラジカフカスを出ると西へ向かう主要道R295で、南にカフカースの山々を見ながら進む。ウアラジカフカスからアラギル市へ向かうA162(旧R 297 )とは平行だが、北側を走る。2日前は遡っていったフィアグドン川も今度は渡って、さらに西へ進み、ウラジカフカス市からは30キロのアルドン市に入る。アルドン川(テレク左岸支流102キロ)辺に、1824年にコサックの哨としてできたのが現在のアルドン市だ。アルドン市は1964年から市に昇格した。現在人口2万人でオセチア斜面平野の中ほどにあるアルドン区の中心。78%がオセチア人で17%がロシア人、アルメニア人1.4%。
 アルドン川がカフカ―ス山脈脈からアラギル峡谷を流れ、オセチア斜面平野に出るが、その平野の中ほどにあるのがこのアルドン市で、ここで道路は東西と南北に交差している。このアルドン川はオセチア斜面平野をさらに北に流れてフェアグドンやギゼリドンを集めるとテレク川に合流してしまう。アルドン市から北へ行くと、カバルタ・バルカル共和国の首都ナリチク(9月2日訪問)に出て、さらにロストフ・ナ・ダヌや、ロシアの中心に行ける。

 反対にアルドンを遡ると、南のカフカ―ス山脈へ入るのだが、その直前のまだオセチア斜面平野にあるのがアラギル市だ。アラギル市を過ぎると山岳地帯のアラギル峡谷にはいり、その峡谷は『アラギル共同体』の領域だった。
(19世紀ごろ共同体の地図)
 ロシア語訳では『共同体』обществоと訳されているが、国家以前の形態で、15−19世紀オセチアが山岳の交通の不便な狭い峡谷のみを有していた時代、それぞれの共同体が自治の形をとっていた。北オセチアでは5の共同体があった。ロシア帝国に併合され、19世紀、峡谷から出て下流のオセチア斜面平野に移住するようになると、自治は失われたが、サブ・エトノスとして、それなりのアイデンティティを有している。各共同体には固有の文化と方言があるからだ。均されているものも多いが、オセチア全般で話されているイロン方言に対してディゴーラ方言のように保たれている文化もある。都会に住むたいていのオセチア人は両親や祖父母や曽祖父母の代に山岳から移住してきたので、自分の出身の共同体、村の名前を必ず告げる。もっと古い代に村を離れたとしても、親せきが残っている。父方でたどれなくても母方でたどる。同じ苗字と言うことは同じ村の出身だ。つまりいとこだ。
 アラギル市より南のアルドン川上流のアラギル共同体とアルドン川源流のトゥアリ共同体には、後日訪れた
オセチア斜面平野の八端十字架

 ちなみに、かつてのアラギル『共同体』は3のサブ共同体общинаに別れていた。『共同体』時代のオセチア人は奥地の峡谷にのみ住んでいて、峡谷の出口からオセチア斜面平野は、15−19世紀はカバルダの封建領主の支配下にあった。アルドン市やアラギル市のオセチア人は、前記のようにロシア帝国への併合後、19末,20世紀にアラギル峡谷などの山地から移住してきたオセチア人が住む。それまで住んでいたコサックはロシア革命後粛清された。コサックは平時は農民、有事は兵士。もともとツァーリ政権から僻地へ逃れてきた自由民だが、18−19世紀には政権によって当時の僻地、つまりシベリアや北カフカスなどの併合に利用された。

 オセチア斜面平野の中ほどにあって、道が東西南北に分かれているアルドン市までくると、東から来た私達は直進の西のチコラ村方面へ行く。途中の道にはロシア正教の十字架や、ロシア正教からの聖人の像があった。
 ロシア正教とイスラム
ディゴーラ市の近く
道端でスイカを買うソスラン
チコラ市への入り口
 アルドン市からさらに10キロほど西へ行くと現代のディゴーラ区の中心ディゴーラ市がある。ディゴーラ市はテレク川左岸のウルスドン川(48キロ)のほとりにあって人口1万人。19世紀中ごろ、ロシア帝国政府がオセチア人を峡谷から平地に移住させるに当たって、オセチア西部カフカ―ス山脈中のウルッフ(イラフ)川上流のディゴーラ峡谷に住んでいたディゴーラ人の場合は、正教徒とイスラム教徒を(強制的に)分けて移住させたのだ。正教徒が移住してできたのがヴォリノ・フリスチアノフスキィ(Вольно-Христиановский)村で、『自由キリスト教の』と言う意味だったが、それが今のディゴーラ市となった。一方、ディゴーラ人のうち、イスラム教徒が移住させられてできたのが、ヴォリノ・マゴメタンスコエВольно-Магометанское村(自由マホメット教の)村、つまり、現代のチコリ村だ。
 現在のイラフ区の奥地のウルフ(イラフ)川上流ディゴーラ峡谷や、現在のディゴーラ区のウルスドン上流を歴史的なディゴーラといって、東のアラギル共同体やクルタチン共同体、タガウル共同体のイロン人とは異なる方言も話していた。イスラム教徒も多く、ロシア帝国に併合されたのも1781年で、アラギル『共同体』中心のイロン地方より7年遅かった。(どちらも形式的な合併の年号)(19世紀の事実上の合併後は多数のムスリム・ディゴーラ人はトルコに移住)。ロシア併合への請願は中央オセチアの(つまりカフカ―ス山脈中のイスラムではない)トゥアル共同体の、当時の中心のザラマグ村のズラフ・マグカエフが大使となってサンクト・ペテルブルクのエリザヴェータ女帝に請願したとうことになっている。ディゴーラのイスラム教徒たちはロシア合併を、当然のことながら望まなかった。

 20キロも行くと、ディゴーラ共同体のストィル・ディゴラСтур-Дигора村、アフサウАхсау村、マフチェスクМахческ村、ガリアト Галиат村、ファスナル Фаснал村、ドゥル・ドゥル Дур-Дурの村々から(強制的に)移住させられたイスラム・スンニー派のチコラ村(7000人弱)村に入った。正教のディゴーラ市と同じ1852年にできたそうだ。この場所はより不毛な場所で、おまけに、移住させられたイスラム教徒のオセチア農民は、コサックの5分の1の土地しか与えられなかったとか。

 「ここは全員がイスラムだ」とソスランが言うまで、アラン人はビザンチンに影響されキリスト教徒になり、中世のアラニア国もキリスト教の国、ロシア帝国併合後もずっとキリスト教信者の国、伝統宗教は残っているが、と私は思っていたが、ペルシャとトルコに近いカフカース地方はイスラム教徒が多い。イスラムに囲まれたオセチアも、イスラムが多いのだろう。もしかして帝国併合の少し前までは伝統宗教でなければイスラムが支配的だったのかもしれない。アスランたちはイスラム化される前のペルシャに近親感を持っているらしいが。
 チコラ市は主要道を通って数分で通り過ぎただけだが、通りに面して半ば見えないくらいの塀があり、めったに開けてもらえないような扉がついていた。この塀の内側に中庭や前庭があるのだろうか。1つの扉に一家族の家とすれば、この通りに面している家は裕福なのか。通りにそのまま家の壁と窓が面している家もある。
 チコラで、南(山脈の方)に折れR295(ウラジカフカスからレスケン)からR302(チコラからマツタ)に移り、イラフ(イロン風の発音、ロシア風の発音ではウルフ)川をさかのぼる。
 共同体ディゴーラ
 舗装道のとても快適な道で、今度は正面にカフカースの山が見え、次第に高くなってくる。途中に小さな村は2個あるだけの舗装道を25キロほど走る。『国立公園アラニアは10キロ先』と標識のあるところで止まる。国立公園は1998年に自然と文化保護のため制定され(1958年からオセチア南部の山岳地帯一帯の公園化は実現されていた)。そこはディゴーラ山岳地帯にあって標高は1350メートルから4646メートル。最高峰のウイルパタ山(гора Уилпата)や、いくつかの有名な氷河や、オセチア人の伝統宗教の聖地(祠がある)や中世に建てられた塔も多い。
アフシンタ・キャニオン

 標識のあるところはイラフ川がキャニオン・アフシンタを通り抜けて流れる景勝地だった。岩壁は100メートルもの高さ、狭さは2メートルと言う目もくらむような峡谷で、これまでイラフ川沿いに上ってきた道も、ここで昔は途絶えていただろう。だから、その奥の集落は安全だった。現在は、崖上ぎりぎりに岩を削ってできたような狭い通路がガードレールで保護されてある。一方には逆巻く急流が流れる深淵、もう一方は厳しい岩肌だ。私達はそこをそろそろと通った。岩を削って何とか道をつけたという通路だった。ガードレール近くにはあまり寄りたくはない。岩肌は天井になって続いている。だから一方の側面と天井が岩だが、水面80メートのところにある。現在は、もちろん、このガードレール道と並行して、岩の中を突っ切ったトンネルもある。そこは地震が起きない限り、高所恐怖症の人でも大丈夫だ。(実は帰りはトンネルを通った)。
オセチアのゲオルギウス
聖なる場Святилище
ベルギー資本の亜鉛鉛精製工場の廃墟
 

 キャニオンから10分ぐらいで、崖上に騎乗の騎士が躍り出ているといういかにもアラニア国らしい彫刻があった。馬には翼が生え、騎士は鎧兜で身を固めている。近くには滝と、『聖なる場』の、それも女性禁制と書いてある祠があった。これは勝利をもたらすというゲオルギウスを祭ってあるもので、新しい建物だった。
 両脇と前方の山々はますます険しくなり、イラフ川岸の崖上にできている道路もところどころ崖崩れの土砂が道路の中ほどまで迫っている。
 アフシンタ峡谷から10キロほどでマツタ村の分かれ道に出る。ウラジカフカスから約100キロのこの辺からが国立公園らしい。分かれ道なのは、ここへ右岸支流のソングチドンСонгутидон川が合流して、それぞれの川の上流にはサブ「共同体」общинаがあるからだ。この辺までの右岸は『タパン・ディゴーラ(サブ)共同体тапан-дигорсккое』 のようだ。左岸は『ドニファルス(サブ)共同体Донифарское』と言う。合流点に標識もあって「右コミ・アルト、ピラガ・ネーヴァ、左ガリアト」とある。私達は支流のソングチドン川を遡った『ウアラグ(サブ)共同体Уаллагком』つまりガリアトとある方へ曲がる。道はここからアスファルト舗装がなくなった。ソングチドン岸でところどころ岩崖が迫ってくる狭い道を行く。崖上には中世の塔が見える。最も高い岩山にそびえ、石垣に囲まれた塔もあって、これはきっと名のある記念物に違いない。『アビサロフ家の塔Башня Абисаловых』と後で知る。
 マフチェスクмахческと言う村に入る。現在は人口100人余だが、かつてはタパン・ディゴーラ共同体の中心だった。100人弱のヴァカッツВакац村も通り過ぎてファスナル村фасналに向かう。ここは50人強の人口だが、ソングチドン川に水力発電所があり、また、革命前まで稼働していたというベルギー資本の鉛亜鉛精錬工場の廃墟がある。革命前から電力が通じていたというのも納得だ。工場は、まるで城の廃墟のようで、窓のある壁だけが整然と残り、天井は全くない。だから高台に上ると内部がよく見晴らせた。正確な長方形で、規則的に石のアーチ模様の窓がついている。鉛亜鉛精錬工場だと言われなければ、封建領主の邸宅跡のようだった。ソスランも、この廃墟が好きらしい。車から出て長い間眺めていた。この村まで、路線バスが運行されているらしい。
 ここからは、ソングチドン川のほとりを無言で(何度通っても無言で通り過ぎたから)数キロ行かなくてならない。道は川の横だったり、高い崖上だったりする。すぐ近くの山々の中腹にはうっすらと雲がかかっている。やがて、崖上の道から人家が見えてくると、それは、崖下のソングチドン川辺のドゥンタ村で、私たちは崖下へ降りずにさらに上がったところのカムンタ村へ向かう。カムンタ村に入ったばかりのところにある家が、ルスランの将来の『ペンション』または『別荘』だ。広場(というより広見)には、湧き水場があり、2,3軒の家の門が面している。
 カムンタ村ペンション
 6時過ぎ、到着するとすぐに迎えてくれたのはアレクサンドル・ウルイマゴブさんの知人の持ち主ルスラン・バグラエフさんの息子のハサン君だった。ルスラン本人は、留守で明日到着だとか。ハサンは金髪でまつげも白く長くて小柄、てきぱきした青年で医学部1年生だそうだ。
 これから1週間近く滞在することになるルスランの家は、数年前廃墟を買い取って、住める程度に修理したものだ。ロケーションがいいので、ペンションとしてもぼちぼち旅行者を泊めているらしい。後で知ったが、今年の夏の初めにブラジルから旅行客が泊まっていった。日本語を話さない日系ブラジル人の年配女性グループだったとか。
 ディゴーラ峡谷では100年も前から住民は平地に移住して過疎化が進み、廃墟は多く、『失われたオセチア』だったが、最近は、観光業で活気づき始めているらしい。イラフ川上流には観光資本のペンションが数カ所ある。ソングチドン川合流点付近の分かれ道で見た「右コミ・アルト、ピラガ・ネーヴァ」と言うのは、それらペンションの名前だと、帰国後詳細地図を見てわかった。「左ガリアト」は本当の地名だ。
ルスランのペンション。高い窓を埋めているのは薪
地上階は物置、2階に住む
2階の居住空間
暗くなったころ、中庭で食事。椅子は3脚

 ルスランの家は、頑丈そうな扉の付いた石の塀で囲まれた前庭と、地上階(つまり1階、田舎ではここが人間の住居になることはない)と2階のある石造りの伝統的な廃墟だった。階段を上ってテラスから入る2階に長方形の居住空間があり、手前がテーブルといすだけで、水道もコンロもないダイニング・キッチン、その奥にベッドになる長椅子などが置いてある。入り口の横に独立した部屋があり、そこにはハサンがシーツなどかけてくれたらしい大きなベッドが2台あって、ここが私の部屋だと言われた。何しろ、ここはルスランが数年前、隣家から廃墟を買い取って、自分で少しずつ修理しているところなのだ。屋根があって、テーブルと椅子があるだけでもありがたい。ルスラン達の自慢は暖炉だ。オセチアではトイレより暖炉が大切だということがその後分かった。何らかの暖炉なしでは凍死してしまうが、まともなトイレがなくったって…。暖炉は生死を分かつ必需品と言うだけではなく美的にも凝る。
 家にトイレはない。田舎ではそれは普通で、菜園の端にトイレ小屋があるものだ。しかし、ここでは家の敷地内のどこにもない。トイレは村に1カ所あるだけだ。歩いて数分かかる。入り口には木戸がある。そこを通り草むらの中庭を通り抜けると個室がある。叢にも個室にも明かりはない。個室は戸を閉めると昼間でも暗くなるので、穴に落ちる危険と誰かに見られる危険を考慮して、前者を重要視し、戸は半分開けておく。

 家は石造りで、外から見ても石造りだけでなく部屋の壁も石造りだが、白い漆喰が塗ってある。塗りが薄いところは石が見える。天井からは様々なハーブ、つまり乾燥(乾燥中、または乾燥済み)草花の束がぶら下がっていた。奥の部屋の窓は、芸術家ルスランのデザインか、コバン文化風のステンドグラスになっていた。食器だなには自家製の土器もある。コバン意匠かアラン意匠の装飾のある土器もあって、後で1個プレゼントされた。釉をかけていないので、コーヒーなど入れると量がだんだん少なくなる。
 6時過ぎに到着して、少し落ち着いたころ、中庭で火を燃やし始めた。ハサンが2階の台所のテーブルでトマトやキュウリを切り、持ってきた魚をヴァジムたちが捌き、燃え上がった炎で焼き、前庭の石のテーブルに並べ終わったのは9時ごろ。もう真っ暗だったが焚火の明かりで、カフカース風の3脚椅子に座り、お味見を始めた。3脚椅子と言うのは、太めの便座のようで、木の支柱の伸びている部分の幹を横割にして、支柱を脚に利用して、あと2脚をついで、安定して、持ち運びの便利な椅子にする。普通は便座のように、U字形をしているが、半円形のものもある。
 田舎の石造りの家には前述のようにトイレはない。屋外の中庭にももちろんない。村中で1カ所しかない。村には、街灯も、昔は全くなかっただろうが現在も数カ所しかない。それも村の入り口の井戸水のでるところと、少し奥の坂道が曲がるところだけのようだ。(昔の山岳地帯にオセチアの村々は、すべて峡谷、つまり斜面にできているので坂のない村はない)。トイレに向かう道は、途中で真っ暗になる。懐中電灯はあったが、この暗闇に足を踏み入れるのは怖かった。だからたどり着かなかった。
 戻ってきて、ソスランたちに、トイレのない家では宿泊できないと告げる。ヴァジムは盛んに私を慰めてくれた。これは、オセチアの伝統であるという。では、いったい寝たきり寸前の老人は、どうするのだ?ヴァジムは答える「自分のおじいさんは死ぬまで歩いてトイレに通っていた。寝たきりになるのは恥だと思っていた。杖にすがって必死で行っていた」と強調。確かにカフカ―ス諸国は長寿の国ではあるが。しかし、「弱者にやさしい国でなければならない」と言いたかった。
「ではあなたが、夜、トイレに行きたいときは送って行ってあげましょう…いえ、離れたところまで行って、終わるのを待っていてあげます・・・いや、かなり離れたところで待ってます・・・夜中、いつでも起こしてください」。とても親切なヴァジムさんだとは思うが、いくらなんでも、それは…その離れたところから個室までが暗くて怖いのだし。個室の真前で待っていてもらうわけにもいかないし。結局私は渋い顔をしていた。アスランが、では遠いが他人の有料のペンションに空き部屋があるか確かめてみると言ってくれる。ディゴーラ川上流の観光資本のペンションは都会のホテル並みの値段だ。しかし、親戚だか知り合いだかがヴァカッツ村で旅行者を泊めているから、と言ってくれる。では、今日はもう我慢して、明日から移ろうということになった。
 その日の晩は、私は暗闇の中、村1カ所のトイレへは行かなかったが、街灯の光がわずかに及ばない草原の星空の下へ行くことにした。
 カムンタを歩く
 8月28日(日)。だから、ルスランの家の客用寝室でこの日は目覚めた。外に出ると、空は真っ青で、中腹に雲のかかった峻厳な高山が中距離に見える。手前の山々は緑で、家の隣には石積みの壁が見える。ここでは壁は石造りなので朽ちることはないが、屋根と天井は土と木でできているのか、住民が住んで手入れをしなければ、ぽっかりと開いている。壁には窓穴があるので、通りを歩くと、その穴からも青空が見える。
この坂を上ったところにあるのが村で1個のトイレ
谷底にはソングチドンが流れる。アスランの手
村はずれにある残丘、登っているのはよそ者グループ
母娘連れと。背後には放牧の牛、羊

 カムンタ村は、ソングチドン川岸よりかなり高台にあって、見晴らしがよい。こんな高台に村ができたのも、井戸水を確保できたからか。9時過ぎ、ソスランとヴァジムが帰って行ってから、アスランと村の中を歩いてみた。オセチアの古い村々は山岳地帯にできているから村の道はどこも坂道だ。村のほとんど入り口にあるルスランの家から続く道は、かなりの勾配で上がっている。途中の道にはおなじみのトイレに通じる木戸もある。石の壁がまっすぐ聳える廃墟もある。積み上げた石が直方体の少なくとも2面をなす。それが組み合わさって、城のようだ。
 坂道を登っていくと、村はずれに出る。そこは絶壁の上だ。下方にうねうねとした川の流れが光って見え、低い河岸段丘には道が続いているのがよく見える。反対側も谷になって、牛が草を食む草原が続く。村はずれまで行くと、キノコ型をした残丘もあって、私たち以外の唯一の旅行者のグループがよじ登っていた。後でわかったが、彼らは、その日の夕方ウラジカフカスへ戻っていった。(カムンタは観光地になろうとしている。今のところは1軒半ほどしか宿泊施設がないようだ。が、宿泊と言ってもオーナー自身やオーナーの一家、その知人のみが利用するようだ)
 その若いよそものの旅行者の一団とは別の母娘連れがいた。レギーナ・ギビゾーヴァРегина Гибизоваさんと言う。カムンタ村出身で、自分の家も村にあるが、ウラジカフカスで生活している。家に招待されたので入ってみた。廃墟を購入して修理途中のルスランの家より住み心地はよさそうだった。そのルスランだが、この日もカムンタへ来られないという連絡だ。自分の車の調子が悪いからだという。今日も、向かってきてはいるが、途中で動かなくなり、修理中だとか。カムンタを基地にしてディゴーラを廻ろうにも、ソスランは帰ってしまったので車がない。ルスランは、なかなか現れない。
 カムンタ村は、オセチア山岳過疎化村の一つで、廃墟村とは言わないが、崩れかけた石の壁が累々と並ぶ村は確かに心を打つ。が、それら廃墟は住居だったのか、防御用塔だったのか、白い山々を超していく道はあるのだろうか、氷河はどこまで流れてきているのか、斜面に草原に見えるが、かつては段々畑だったのか、と誰かに聞いてみたい。ただ黙って眺めるだけでは、カフカ―ス山中の稀有な村とは言え、1時間で一通り見てしまい、屋根のない城壁の窓越しに見える青空も、そんなに長く感心して眺めておられない。
 ドゥンタ村やカムンタ村は、今はソングチドン川の最上流の過疎化村だが、住民はいる。少なくとも夏場はいる。ソングチドン川のその先にもすっかり廃墟になった村がいくつかあるらしい。オセチア山岳地帯では、そうした最上流峡谷の古い村々の多くが完全な廃村になっている。かつての壁だった石垣だけが2,3列残っているかもしれないが。
 養蜂業者
 カムンタ村の坂を下りてソングチ川岸近くまで行くと、そこに狭い平地があって、養蜂業者の長いトラックが止まっている。近くに蜜のなる草花が咲いているのだろう。アスランはその養蜂業者さんと話している。ほかに数人の男性も加わって話し込んでいる。養蜂業者は100箱以上もある巣箱を積んだ荷台のコンテナを3列ほど先頭のトラックにつないで、蜜のあるところを回っているのだが、この場所へはよく来ているのかもしれない。地元の人たちと話し込んでいるようだ
養蜂業者のトラック。背後の斜面にはカムンタ村

 養蜂業とは、興味深い。早速、挨拶して知り合いになる。ヴァロージャと言い、ロシア人だった。せっかくだから蜂蜜を購入することにしよう、それも巣蜜がいい。聞いてみると、一枠が2000ルーブルと言う。もちろん日本で買うより安いが、日本まで持って行かなくてはならない。巣箱の先頭にあるコンテナの中に入れてもらった。そこは移動中の生活の場と倉庫をかねていて、つまり、ベッドやテーブル、できた蜜を入れる壺や何やら大型器具などが置いてある。巣蜜を買いたいが、どうやって自分の家まで持って帰ろうかと尋ねてみる。
「遠くまで、持っていくの?」。「そう」。「どこまで?」。「日本まで」。「ニッポン!」と、驚いてくれる。では明日の10時に来てほしいと言われる。私の目の前で、一枠の巣箱から半分を切り取ってタッパーに入れるからと言う。そうすれば、まだ蜜がハニカムにくっついたどろりとしたままであり、確かに枠付きのを切って買ったと分かるからだそうだ。良心的な養蜂業者だな。
 列車のように住居用コンテナの後ろにくっついている貨車に乗っている巣箱を見せてあげると言うので、顔にネットをかけてヴァロージャさんと一緒に巣箱を開ける。顔にはネットがあるが、手は手袋なしで大丈夫かと聞いたら笑われた。ヴァロージャさんは顔にネットもかぶらない。ヴァロージャの奥さんのレーナさんは、住居用コンテナに迷い込んできたミツバチはタオルか素手でつまんで外に逃がしてやっている。
 そういえば、日本では高価なプロポリスとかいうのが入手できないだろうか。「ほら一塊、おまけにつけてあげる」と、小さな塊をくれて、これはガムのように噛んでいるといいという、噛み切っても飲み込まないように、コップの中にでも入れておいて、後でまたガムのように噛むといいそうだ。私はその通りにした。そのうち捨てたが。
枠から切り取った巣蜜をタッパーに入れてくれる

 蜜蝋もあげるという。次の日のことになるが、約束の時間にコンテナに行って、巣蜜を枠からナイフで切り取って、タッパーに入れてくれた。日本にまで持ち帰るため、小さめのタッパーにしてもらった(いくら軽くても、大型タッパーはスーツケースに入らない)。1枠の半分はまるごとは入りきらなかった。入りきらなかった分を、もっと小さなタッパーに入れてくれた。ゴルフボール2個分くらいのプロポリスもおまけだった。昨日の約束だからと言って、手のひらぐらいに丸めた蜜蝋もプレゼントしてくれた。
 プロポリスの処方も教えてくれる。冷凍して固まったプロポリスをおろし金でおろして、ヴォッカなどに浸して浸出液を飲むそうだ。すでに製品になったプロポリス酒は、ウラジカフカスにいる息子宅にあると言う。電話番号を教えてくれる。彼らは2日後、ここを去って、別の場所に行く。
 前述のように、ミツバチの巣が置いてあるコンテナは、カムンタ村下の小さな草原広場にあって、私が養蜂業の見学をしている間、地元の数人の男性とアスランたちが話していた。その一人がアルトゥール・マグカエフАртур Магкаевと言って、アスランの家の隣人だった。私がトイレのない家にこれ以上宿泊できないと言ったので、彼の家に今晩から移ることに話をつけてくれたのだ。マグカエフさんの家でも旅行者を泊めていた。昨日はほかの旅行者がいたので、アスランたちは20キロほど離れたヴァカッツ村の知り合いの家に私を泊めようとしたのだが、隣家が空くなら、その方がいい。今日までの泊り客グループは夕方8時にウラジカフカスへ帰るそうだ。ウラジカフカスに帰りたがっていたハサン君は、彼らの車(2台で来ていた)に便乗させてもらって去った。ハサン君はバスが通ってくるファスナル村まで10キロを歩いて行こうと決めていたくらいだ。早朝に1便だけバスがあるそうだ。
 マグカエフさんの家にトイレはあるかと確かめる。驚いたことに水洗トイレもシャワーもあるそうだ。値段は1泊800ルーブル(1700円)と言う。私が隣人ルスランの客なので特別の値段だそうだ。夕方8時に客が帰ってから家を見せてもらった。ルスランの廃墟上がりの家とはちがい、マグカエフさんの家は本当にペンションと言える。1階の広い玄関の間には広いダイニング・キッチンと、奥にベッドが3台ある部屋、バス・トイレ、物置に通じるドアがあって、中央の階段を上ると2階に3部屋あり、そのうちのひとつがマグカエフさんの部屋だ。自分の部屋以外のどの部屋をとってもいいと言われたので、1階の階段奥の部屋にした。作り付けの棚があり、何人分もの食器がしまってあった。
 マグカエフさんとアスラン、のちのルスランからの話を総合すると、マグカエフさん一族はカムンタ村入り口にある今の自分の家も隣のルスランの家も先祖代々の所有物だった。数年前はほとんど廃墟となっていたのだが、しかし、いとこ(と言うが、つまり一族のこと)がルスランに自分の分の家を売り、アルトゥール・マグカエフさんは自分の分の家を大改築してかなり快適なペンションにした。(材料をすべて平野の町から運ばなくてはならないので、かなりの金額がかかった)。ここで、夏場などは自分が住む。家族も来る。空いているときは有料で旅行者に貸す。
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