up date | 19 April, 2017 (追記 2017年9月24日、2018年12月31日、2019年1月28日,12月18日、2021年12月2日) |
34−3 (4) 2016年 北カフカース(コーカサス)からペテルブルク (4) チェチェン共和国へ 2016年8月20日から9月4日(のうちの8月26日) |
Путешествие по Северному Кавказу и Петербурге, 2016 года (20.8.2016−05.9.2016)
1部) 8月2日から8月10日 トゥヴァからサンクト・ペテルブルク | |||||||
2部) 8月11日日から8月20日 コミ共和国の北ウラルからサンクト・ペテルブルク | |||||||
3部) 8月20日から9月5日 北カフカースのオセチア・アラニア共和国からサンクト・ペテルブルク | |||||||
1) | 8/20 | 北オセチア共和国(カフカース地図、歴史地図) | ベスラン着 | 北オセチアの地理と自動車道 | 峡谷での宿敵 | オセチアの宴 | |
2) | 8/21-8/23 | アスラン宅 | ウラジカフカース市 | アレクサンドロフスキィ大通り | テレク川岸 | ロシアとオセチア | 南オセチア共和国 |
3) | 8/24-8/25 | ウラジカフカースの芸術家たち | 峡谷のオセチアへ(南東部地図) | 納骨堂群の丘(共同体地図) | 氷河に呑まれた村 | グルジア軍事道(イングーシ地図) | デュマやレールモントフ時代のグルジア軍事道 |
4) | 8/26 | イングーシ通過 | チェチェンに | グローズヌィの水浴場 | 復興グローズヌィと『チェチェンの心』チェチェン現代史年表 |
プーチン大通り | |
5) | 8/27-8/28 | オセチア斜面平野(南西部地図) | 正教とイスラム | ディゴーラ共同体 | カムンタ村着 | 過疎地カムンタ村 | ミツバチ |
6) | 8/29-8/31 | マグカエフ宅 | ザダレスクのナナ | 失われたオセチアの一つ | ネクロポリス | ガリアト村 | テロには巻き込まれなかったが |
7) | 9/1-9/3 | スキー場ツェイ | オセチア軍事道 | カバルダ・バルカル共和国へ | 保養地ナリチク市 | ウラジカフカースの正教会 | 再びグルジア軍事道 |
8) | 9/4-9/5 | サンクト・ペテルブルク | イングリア | フィンランド湾北岸の地 | コトリン島の軍港クロンシュタット | モスクワ発成田 |
イングーシ通過 | ||||||||||||||||
8月26日(金)、予定ではこの日にディゴーラ地方のカムンタ村へ行くはずなのだが、迎えに来てくれるはずのルスランの都合がつかない。送って行ってくれるかもしれないソスランの都合も付かない。それで、「見事に再建された」とサンクト・ペテルブルクのジェーニャが言うチェチェン共和国のグローズヌィ市に行ってみることにした。アスランが前日タクシー会社に電話して、グローズヌイまでの往復運賃代と運転手の待ち時間が1分につきいくらか聞いてくれた。グローズヌィまではR217道(*)を通り片道120キロほどだ。アスランにはチェチェン人の知り合いがいるので、問い合わせたところ、その画家は今スタヴローポリ地方のピチゴルスク市(人口15万人)にいて、その日の夕方帰る予定だったが、早めに出て、お昼頃にウラジカフカースで、私たちを拾ってくれるという。
タクシーで行くより、地元の知り合いに案内された方がずっといい。お昼ごろまではアスランの家で待つことにした。アスランの母のクララさんが、散歩に行こうというので家を出る。ぶらぶら歩いて、5日前のように豪宅を見て回る。イスラムの宮殿のような門構えと外観の家もある。 歩道には果樹が植えられている。李もあったがブドウが実っていたのには驚いた。この歩道に面している家が、世話しているのだろうか。歩行者は蔓棚の下を通って通行する。 クララさんは、新しくできたらしいショッピング・センターに案内してくれた。こういうところは日本にでもモスクワにでも売っているような衣料品や雑貨などが、明るい店内に並んでいる。住民の好みや、より有利な仕入れ先に合わせて、各都市では多少商品が違うし、店員の態度もかなり違う。額に飾った日本人形の押し絵も高くない値段で売っていた。 1時過ぎ、アスランと私は、友人のチェチェン人画家マゴメド・ザクリエフさんと、待ち合わせの場所のバスセンターで落ち合う。前記のように、マゴメド・ザクリエフさんは、自分の個展をピチゴルスクで開いているそうだ。彼の車に乗ると、自分の個展のパンフレットをくれた。彼はもちろんチェチェン共和国の芸術家同盟の会員だ。グローズヌィには芸術大学はないので、ウラジカフカースのアスランと同じ大学を卒業した。パンフを見ると、油絵の山岳チェチェンの風景がたくさんあった。私はこんな絵が好きだ。 マゴメド・ザクリエフさんの車も乗り心地がいい。20分も走ると北オセチア・アラニアとイングーシの国境に出た。自動小銃など持った職員が数人立っていて、マゴメドさんの書類を調べる。ここはチェルメン交差点と言って、もともとチェルメン村はずれの普通の交差点だったが、ブロックで道を狭め、遮断機が設置され、通行する車を全て調べている。普通の交差点が、ここまで厳格になったのは1992年のオセチア・イングース紛争以来で、オセチア側が検査しているという。オセチアからイングーシへ行くほとんど唯一の自動車道だ(*)
このチェルメン交差点(地図の11)で大渋滞も起きることがあるとか。交通量の多い連邦道だし、1台1台調べるのだから。 この交差点の南西(オセチア側)にチェルメン村(8300人)があり、イングーシ側の北西にマイスコエ村(6500人)があり、どちらも行政的には北オセチアのプリガラド区に含まれている。が、ほぼ全員がイングーシ人のマイスコエはオセチア政府の監督下にはないという。チェルメン交差点のオセチア側にあるチェルメン村は、イングーシ語ではモチヒィ・ユルト Мочхий-Юртと言って19世紀半ばからのイングーシ人の村だった。イングーシで最初の学校もここにできた。1917年にイングーシのソヴィエト政権を宣言したのもここだった。1944年に全イングーシ人がカザフなどへ強制移住させられて空いた村へ、テレク川上流のグルジア側の峡谷からオセチア人が移り住んできている。だから強制移住から帰還したイングーシ人は北東に新村マイスコエを作って住むしかなかったのだ。交差点はウラジカフカースから13キロしか離れていない。またイングーシの最大都市ナズラニと、オセチア第2の都市ベスランの中ほどに位置し、1992年には、この辺り一帯に深刻な民族紛争が起きた。 マイスコエ村とナズラニ郊外はそのまま繋がっている。つまりチェルメン村、マイスコエ村、旧イングーシ首都ナズラニ市、新首都マガス市はほとんどつながっている。『右折マガス、直進グローズヌィ、左折ナズラニ』とある標識がすぐ見える。左折はナズラニの新中心地へ向かうだけで、直進しても、ナズラニ市を縦断する。私達は旧いナズラニ市も見える直進の連邦道R217道を通っていく。 政治的抑圧の犠牲者を悼む記念碑がある。Мемориал памяти жертв политических репрессий。上記1944年の全民族の強制移住で、どれほどの犠牲者が出たか、本当の統計はもちろんない。ただ、1944年と1945年の公式統計でも、人口が20%以上減少したとある。1944年2月末のわずかの数日の間にチェチェン人と合わせて約50万人が貨車に乗せられて移住させられたのだから。これは前もって極秘裏に作戦を練られて実行された民族絶滅、少なくとも民族文化消滅の軍事行動だった。 現在ナズラニ市は、イングーシで人口11万人余の最大都市で、18世紀には、すでに今ある場所でイングーシ人が住んでいた。19世紀初めにはロシア帝国によるナズラニ砦が築かれ、抵抗するカフカース人(この場合、イングーシ人やチェチェン人、アヴァール人)征服の拠点となった。現在、住民はほぼ全員がイングーシ人(98.8%)でチェチェン人(0.4%)もロシア人(0.2%)も少ない(2010年) 2002年から、イングーシの首都は新築のマガスに移った。マガス市は、2016年の人口が6880人(2001年は100人だった)、ロシア連邦構成主体のなかでは最も若く人口が少ない行政中心地だ。チェチェンと分離してからは2000年までナルザニが首都だった。1994年に将来の新首都を作り始め、マガスと命名した。それは第1に、4世紀にはゲルマン人と西ヨーロッパや北アフリカまで移動し、中世には北カフカースに栄えたアラン人の国のアラニア(アラン)の首都はマガスといったからだ。(イングーシ人もアラン人の1とみている)。第2にマガスと言うのはイングーシ語であり(と主張する)、太陽の都と訳せるからだ。現在、中世アラニア国のマガスは正確にどこにあったかは特定されていない。しかし、イングーシはそれまで暫定的に首都だったナズラニの南4キロ、オセチアとの現在の国境の500メートルのところに(イングーシは現在のオセチアとの国境を認めていない)新しい首都を作ってマガスと名付けたのだ。現在のマガスには、紀元前千年から3千年の『マガス・クルガン‐1』から『マガス・クルガン5』や紀元前1000年の『マガス・住居跡‐1』や、紀元後1000年の『マガス・住居跡‐2』など、青銅器時代から中世への遺跡が多く発掘されているそうだが。アラニア(アラン)国のマガスは、カバルダ・バルカル共和国にあると言う説もある(後述)。(北オセチア・アラニアと言う国名をイングーシ人が認めているのかどうか?それ以上に、かつての、1944年までのイングーシ自治共和国の領土をイングーシ人が帰還した1956年に北オセチアが返却しないというのが民族闘争の原因だ。) |
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チェチェン共和国に入る | ||||||||||||||||
連邦道はカフカ―ス山脈と平行に平野を通る。トウモロコシ畑が広がっている。イングーシの旗や、イスラム寺院が見えた。35キロほどでイングーシを通り過ぎてチェチェンに入る。境界には交通警察(と言っても、交通違反を取り締まるだけではない)が立っているだけで、怪しくない車はパス。ロシア中の主要道には至る所、警官が立っている。 戦車が止まっていたので、写真を撮りたいというと、「僕が撮ってきてあげましょう」というのでデジカメをマゴメド・ザクリエフに渡す。彼は車から降りて戦車の横にいる兵士に近づいて行った。後でその時の写真を見てみると、マゴメド・ザクリエフさん自身の目が大きく映っている写真だけが何枚もあった。大昔のカメラならファインダーからのぞきながらシャッターを押すものだが、私のは、(ちょっと昔の)デジカメだから、ファインダーのように見えるレンズに自分の目を近づければ目しか映らないのだが… 連邦道をさらに60キロほど行く。新しい立派なモスク(イスラム礼拝堂)とミナレット(礼拝堂に並ぶ塔、ここから礼拝を呼びかける)が見える。これはグローズヌィ市ま15キロのアルハン・ユルト村(1万人)に2012年に神学者マゴメド・ベシラ・ハッジ・アルサヌカエフ Магомед-Бешира-Хаджи Арсанукаев(1913−1998)を記念して建てられたものだ。このモスクでは2千人以上の信者が同時に祈れる。これは、ロシアのイスラム礼拝場では8番目に大きい(当時)。 ちなみに、ロシア連邦で最も大きいモスクはダゲスタンの首都マハチカラにある(*)。2番目はモスクワにあり、3番目はグローズヌィにあるアフマト・カディロフ記念『チェチェンの心』と言うモスク(2008年、1万人収容、後述)、4番目がサンクト・ペテルブルク(2005年5千人)、5番目も、チェチェンのジャルカ村(8000人、グローズヌィから南東45キロ、5000人収容、2011年アフマト・カディロフ生誕60年に完)、6番目はニジェニィ・ノヴゴロド(かつてのカザニ県に1915年創立のロシアでは古いモスクの一つ)、7番目はサマーラ(1999年築)、9番目がハンティ・マンシィ自治管区のスルグート市、10番目がナズラニ市だ。(Аргументы и факты誌2015年の不動産ページによる)
ウィキペディア2016年によると、4番目はチェチェンのアルグン市(グローズヌィ東10キロ)に2014年に完成したモスクで、5000人から15000人収容可のアイマニ・カディロヴァ(前大統領アフマト・カディロフの妻で現首長の母)記念モスク。5番目はダゲスタンのカスピイスク市、6番目バシュコルスタンのウファ市…9番目がチェチェンのジャルカ村、11番目チェチェンのアルハン・ユルタ村…となっている。チェチェンには壮大で巨大なモスクが、どこよりも多いということだ。 |
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グローズヌイの水浴場『アフマト』前大統領 | ||||||||||||||||
砂浜に塀で囲った一角があるが、それは女性用浜辺だ。当然、かなり離れたところに男性用があって、そこは軽く囲ってある。厳格なイスラム国家を目指すチェチェンでは外出する時、女性は頭をヴェールで隠し、足首までの衣服を着ている。つまり見えるのは顔の中央(目鼻口)と手の先だけだ。水着姿を家族以外の男性に見せられないが、女性だって水遊びはしたいから、イスラムでは、こうしているのだな。 女性用浜辺は私なら入れるので、チェチェン女性の水着ファッションを見たかったが、言い出せないうちに通り過ぎた。ゴイタ川の橋を渡る。ここには色付き音楽付き大噴水があって、それはドバイにある噴水と肩を並べるくらい豪華だとか言うそうだが、今は、細いパイプしか見えなかった。よほどの賓客が訪れた時か、まれな祭日ぐらいにしか流さないのかもしれない。橋を渡るとチェチェン市モスクのミナレットが、道の向こう、空き地のかなたに見えてくる。
町中に入ると新しい広い舗装道を走る。両脇の建物も新しく、高さがそろい、歩道にはまだ若い街路樹が並び、規則正しく街灯が並んでいる。各街灯にはチェチェンやロシアの旗が下げられ、標語やカディロフ(父のアフマドが多い、息子のラムザンもある)の写真が掲げられている。立派な街並みだった。 1818年にロシア帝国によってスンジャ川ほとりに6稜角のグローズナヤ要塞が建てられた。当時、ハンカラ谷の近くスンジャ川辺は、山岳民との最も戦闘が激しかった場所なので、グローズナヤ грозная威嚇的な・厳しいという名がつけられたらしい。チェチェンでは「スンジャ川の町」という意味のチェチェン語で呼ばれている。1869年(*)には、もう戦略的意味を失った砦の町から、ロシア領のテレク州のグローズヌィ市が成長した。19世紀末には油田が発見され、鉄道も敷かれ、グローズヌィは北カフカースの工業都市となったのだ。
19世紀末には16,000人だった町は、20世紀末チェチェン戦争の直前の1991年には40万人を超えていた。しかし、2回のチェチェン戦争後には20万人を割り、現在は30万人近くまでになっている。2度の戦争でロシア軍により、町は破壊されつくし、遠くまで見晴らされるようになったとか。爆破されて骨だけになった建物群と瓦礫の町になったそうだ。 目の前の整然とした街並みと、写真でよく見るような瓦礫の街との対比にうろたえてしまって、私はマゴメド・ザクリエフさんに愚問を発してしまった。 「グローズヌィだけが爆撃されたの?」 「いや、国中の村々は、すべて、爆撃された」 「チェチェンの人はみんなロシア軍とたたかったの?あなたも戦った?」 「それは言えない」 「今も、チェチェンの人は主権国家になりたいと思っているだろうか?」 「思っている」 マゴメド・ザクリエフさんの車は大通りをずんずん進み、中心に近づいている。高層建築の壁には大きなプーチンの写真がある。スローガンもある。現大統領のラムザン・カディロフの写真もある。ラムザンがプーチンと仲良さそうに並んだ写真もある。 「プーチンは好き?」と言う質問。「支持しているか」ではなく、感情的な好き嫌いの質問なら、答えられるのではないか。町を破壊し、チェチェン人を殺したのはプーチンだが、時代は変わっているようだ…しかし、 「いや」 「カディロフは好き?」 「尊敬している」 「カディロフとプーチンは仲がいいようだが」 「そうだ」 実はカフカースについては、チェチェンについても、当時も今も私はあまりわからない。アンナ・ポリトコフスカヤの『チェチェン、やめられない戦争』を読んだのすら帰国後だった。日本出発前、チェチェンへ行く計画はなかった。 |
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復興グローズヌィ | ||||||||||||||||
(*)シェイフ・マンスル Шейф Мансур (18世紀後半、イスラム伝道者、北カフカースのイマーム・最高指導者、北カフカ―ス山岳民の民族独立運動の最初の指導者,後述ウラジーミル・プーチン大通りに面するアフマト・カディロフ広場に立つと、アフマト・カディロフ記念礼拝堂(つまりモスク)『チェチェンの心』(2008年完)とその前の噴水、背後には『グローズヌィ・シティ』の高層建築群が見える。 グローズヌィ・シティは2007年から2011年に完成され、7棟の高層建築(18階から40階)はマンション5棟、ヘリコプターの発着場のあるオフィス1棟、高級ホテル1棟となっている。アフマト・カディロフ大通りはスンジャ川の橋の袂からウラジーミル・プーチン大通りとなる。そのスンジャ川の橋の袂にある前記アフマト・カディロフ広場の背後にあるグローズヌィ・シティの他に、広場の向かいには『グローズヌィ・シティ2』が建設中だ。そこには435メートルの102階建て『アフマト・タワー』が2020年には完成の予定だとか。(2018年完成予定のサンクト・ペテルブルク郊外のラフタ・センターは463メートルで、ロシアばかりかヨーロッパで最も高い高層ビルだから、アフマト・タワーは2番目となるのか。) ロシアで3番目に大きいという礼拝堂『チェチェンの心』の背後にそびえる『グローズヌィ・シティ1』だけでも、アフマトと言う名前の多さだけでも、チェチェンとロシアの新しい面を憶測できる。復興資金は連邦政府の枠外予算から出ているとか。中心からやや離れたスポーツ・センターも『アフマト・アリーナ』と言って3万人以上が観戦できる。 マゴメド・ザクリエフさんは、さらにグローズヌィの観光名所を案内してくれる。それは ウラジーミル・プーチン大通りを行ったところにあるアフマド・カディロフ名称栄光記念複合施設だ。広い敷地の中央には新しく立派なアフマト・カディロフ博物館がある。周りは公園や並木道になっていて、『栄光の永遠の火』や、第2次世界大戦の英雄像、大戦中の絵巻物風の巨大レリエフが何枚かある。第2次大戦の英雄(これは、ロシアではうんざりするほど神聖で崇め奉っているように私には思えてきた。ショパンやプーシキンやウルトラマン・ネクサスでもあるまいし。戦争の英雄とは、つまり、より多くの人を殺害した人)に囲まれた偉大なカディロフとは、さすがロシア、その中のチェチェンと思えた。アフマト・カディロフの記念碑がさらに2柱あって、博物館へまっすぐ向かう『栄光の小径』に据えられた大きな石の記念碑もアフマト・カディロフをたたえたものだ。英雄勲章とともに大きな肖像画と『アフマト‐ハッジ・アブドゥルハミドヴィチ・カディロフ(1951−2004)は勝者として去った…プーチン』と言う碑文がプリントされている。(ハッジはイスラム教徒で聖地メッカへの巡礼を終えた人々への尊称)。 1991年から2000年頃までのチェチェン分離独立派による国際的に未承認の国家チェチェン・イチケリア共和国において、アフマド・カディロフは1995年頃から1999年頃まで、イスラム教の高位聖職者であった。つまり、ドゥダエフ大統領(1990−1996、第1次チェチェン戦争は1994−1996)の独立派共和国(チェチェン・イチケリア)の政治家の一人であったが、1999年頃、同チェチェン・イチケリア共和国第3代大統領マスハドフ(1997−2000、しかし武装勢力化した政府の大統領としては2005までも)と対立して政権から追放される。第2次チェチェン戦争(1999−2000)ではカディロフはロシアと手を結び、ロシア政府はカディロフの後ろ盾として戦争を進めた。ロシア軍がグローズヌィ占領に成功すると、2000年プーチン首相はチェチェンを再び連邦内の自治共和国に戻した上で、カディロフをその暫定政府大統領に任命。独立派は政府としての実態を失い武装勢力になる。 チェチェン現代史では 1924−1937 北カフカ―ス地方のチェチェン自治州 1935−1944 チェチェン・イングーシ自治共和国。 1944ー1955 チェチェン・イングーシ人は全員が中央アジアなどへ全民族が強制移住させられ自治国は廃止。 1957−1992 復活チェチェン・イングーシ自治共和国 1990年11月 チェチェン・イングーシ自治共和国はソ連からの独立を宣言。 1991年5月 チェチェン・イングーシ共和国に改名 1991年10月 チェチェン共和国とイングーシ共和国に分割 1991年11月 チェチェン共和国初代大統領ジョハル・ドゥダエフがソ連邦からの独立とチェチェン・イチケリア共和国の建国を宣言した。ただしソ連邦はこれを認めなかった。1991年12月ソ連崩壊 1994年12月 ロシア連邦大統領エリツィンが連邦軍をチェチェン・イチケリア共和国に派遣。第1次チェチェン戦争(10万人以上の一般市民の犠牲者) 1995年2月 ロシア軍がチェチェンの首都グローズヌイを制圧し、1996年4月にジョハル・ドゥダエフ大統領の暗殺に成功 1996年8月 チェチェン側の攻撃でロシア軍はグローズヌィなどで敗北。ロシア軍の撤退、 1997年5月 チェチェン独立か否かについては5年間決定を延ばすというハサヴユルト停戦条約が結ばれる。 1999年9月 第2次チェチェン戦争 2000年 ロシア軍は首都グローズヌイを再び制圧した。ロシア政府はアフマド・カディロフをチェチェン暫定共和国の大統領につけてロシアへの残留を希望する親露派政権をつくらせ、独立派のチェチェン・イチケリア独立派を在野に追った。 2003年10月 アフマド・カディロフはチェチェン共和国初代大統領。しかし、2004年5月9日対独戦勝記念式典参加中にチェチェン独立派によって暗殺される。 2007年 ようやく30歳になって大統領の資格を得た次男のラムザン・カディロフ(1976年生まれ)が第3代大統領になる。 2010年 ラムザンはロシア連邦内にはプーチンのみが『大統領』だとして、チェチェン共和国初代『首長』と改名。チェチェン大統領もチェチェン首長も内容は同じ。実は、2010年当時の大統領のメドヴェージェフはラムザンに提案されて、2015年までにソ連邦内の民族共和国の大統領(プレジデント)は首長(グラヴァ)と名称変更しなければならないとした。真っ先に変更したのは全22の民族共和国内で、チェチェン、カレリア、アルタイ、モルダヴィア、コミだった。チュワシは2012年1月1日、ダゲスタンなどは2014年だった。タタルスタン共和国は今でも大統領を名乗る。(些細なことだがロシアへの忠誠・追随と反発の度が垣間見られる) http://www.riadagestan.ru/news/president/s_novogo_goda_prezident_dagestana_stanet_nazyvatsya_glavoy_respubliki/ 息をのむほど立派なアフマド・カディロフ名称栄光記念複合施設だが、警備員のほか、あまり人の気配がなかった。博物館の中に入ってみると、巨大なシャンデリア(イランに注文してできたという重さ1.5トン)、唐草模様の天井や壁、円柱、幾何学模様の彫刻のある手すりの付いた中央階段、それを取り巻く2階の重厚な手すり。私が入館した時は無人の宮殿だった。 グローズヌィ栄光の記念館http://timag82.livejournal.com/53613.html
1階には、アフマド・カディロフが映っている様々な場面のスナップ写真が大きく拡大され金縁額に入れて壁に並んでいる。アフマドは、スターリン時代、チェチェン人が強制移住させられていたカザフスタンで生まれた。大きくなって誰かと握手している写真もある。どの写真にもアフマドの賛美の辞が添えられている。ガラスの展示棚にはアフマドの愛用した身の回り品などが飾ってあり、さらに奥の一角はアフマド大統領の執務室が再現してある。大統領の椅子の背後にあるのはハンサムで誠実な表情のプーチンの肖像写真だ。次男の若いラムザンは父親を神格化している。どこの国でもいつの時代でも2代目3代目は初代を神格化して功績のない若い自分を正当化しなければならない。 展示品を見て回っている間中、マゴメド・ザクリエフさんは、アフマドがいかに偉大だったかを述べていた。尊敬している、と繰り返している。道半ばで暗殺されたことを悔しがっている。「いったい誰が殺したの」と私もマゴメド・ザクリエフさんの悔しさに同調して聞いてしまった。チェチェンについてその時の私はかなり無知だったからだ。マゴメド・ザクリエフさんが悔しさを口に出すたびに、私は同調してしまって、だれが殺したのかと聞いたが、返答はなかった。外国人にしてもあまりに幼稚な質問だったのか。 実は、博物館としての価値はあまりないと思って、広いホールを20分ほどでざっと回ってしまったことが、今から思うと残念だ。写真もほとんどとらなかった。(翌々年訪れた) エルミタージュ宮殿を模倣したような、大理石を彫刻した手すりのある重厚な階段を上って2階へ上がる。2階は画廊になっていた。主にチェチェン出身の画家の、カフカース趣向の絵が並んでいる。この画廊にマゴメド・ザクリエフさんの作品が1点だけあるという。それはカディロフの肖像画だった。肖像画は写真よりずっと感じがいい。後で、FBなどでマゴメドさんの作品を多く見たが、風景画が断然多かった。チェチェンの山にチェチェン風の塔のある絵が多い。作風はとても心が引かれる。山岳の風景画なら、長い間眺めていたいくらいだ。一方、彼は権力者の肖像画も描くのか。(後で気づいたことだが、大抵の芸術家はカディロフの肖像画を描いている。注文によって様々なポーズで表している。例えば、馬上の中世騎士の姿とかで)。 2階の画廊は広く、展示作品は多い。前衛的な絵もあった。 |
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ウラジーミル・プーチン大通り | ||||||||||||||||
博物館を出たのは5時半ごろで、雨模様だった空には虹がかかっていた。この仰々しい栄光記念複合施設はウラジーミル・プーチン大通り(1880メートル)にある。現在のウラジーミル・プーチン大通りは19世紀はじめ、グローズナヤ砦を守る兵士たちの家族の住むフォルシュタット(форштадт城外村)時代から始まる。19世紀半ばにはグローズナヤ砦やその砦周辺集落は、辺境地の兵士、つまりコザックたちが住むグローズノエ大村となり、グローズヌノエ村とグローズナヤ砦にわたる『グラニーチナヤ(境界の)通り』というのが、現在のウラジーミル・プーチン大通りの最初の公式地名だった。 1920年から『8月11日記念通り』と改名。なぜなら、この通りが1918年8月11日に始まる92日間の白軍コザック勢力と革命ボリシェヴィッキ勢力との市街戦の前線となったからだ。1955年には『勝利大通り』と改名(対ドイツ戦勝利10周年だから)。1993年には『イスィ・アルセミコヴァпроспект Исы Арсемикова大通り(チェチェン戦争時の独立派指導者のひとり)と改名。1995年にはまた『勝利大通り』。1996年には、また 『イスィ・アルセミコヴァ大通り』、2000年にまた、『勝利大通り』。しかし、2度の戦争でこの通りの両側の建物はほぼ崩壊していた。 2004年ロシア政府によるグローズヌィ市の再建は、この通りから始まったのだ。そして、ついに2008年、ロシアとチェチェンの善隣関係樹立420年記念として再建大通りが開通。同時に、テロリズム(とされる)との戦い、チェチェンの経済と社会構造の復興に功績があったとして、『ウラジーミル・プーチン大通り』と改名(プーチンは、このような栄誉は今回限りにしたいものだと言明したとか)。ロシアの地名、特に都市の通り名はたびたび改名する。その地名を追うだけでロシア史の側面が見えてくる。 ウラジーミル・プーチン大通りには、住居用高層建築のほか、愛国者クラブ『ラズマンとプーチン』(革命前やソ連時代は軍関係会館だった)、国立劇場、アフマト・カディロフ記念『チェチェンの心』モスク、政府庁舎、公共施設、中央百貨店、裁判所などが両側に並び、大通りの中央には並木道が通っている。
ウラジーミル・プーチン大通りのヴァイナフ様式の塔のある国立博物館に行く。ヴァイナフ様式塔と言うのは中世にチェチェンやイングーシに盛んに建てられた防御用または住居用、またはその両用の建築物で、その起源はメソポタミア北部のフルリ人(紀元前2千年紀にミタンニ王国をたてたとして歴史に残っている)やウラルトゥ人(ウラルトゥ王国は紀元前9−6世紀)にあると言われている。ちなみに、フルリ人やウラルトゥ人はヴァイナフ民族と同じ起源をもつと多くの歴史家はみなしているそうだ。(現在のグルジア西部にあったコルキス王国もヴァイナフ=チェチェン民族と同じ起源か。コルキスと言えば、古代ギリシャ3大詩人のひとりエウリーピデスの『メーディア』のメーディアやアイエーテーの母国ではないか)。ヴァイナフ民族とは、ナフ語を話すチェチェン人やイングーシ人などをさすカフカース学の用語。 国立博物館に建っているのは、先に行くにつれてやや細くなる四角柱の塔で石の屋根があり、縦に5個の窓がついている(たぶん5階建て)。到着したのはもう5時半も過ぎていて、残念ながら閉館していた。外から、そのチェチェン風の建物の写真を撮っただけだ。博物館の付属建築としてそのヴァイナフ塔は建っているようだ。グローズヌィに1泊して翌朝博物館を見たいくらいだったが、アスランによれば、展示品はコバン文化など、どこも似たようなものだというのであきらめた。 マゴメド・ザクリエフさんはレストランに案内してくれた。途中に、長い塀をめぐらし、数カ所だけガードマン付き出入り口があるチェチェン首長官邸前を通る。イスラムの教えの教育機関前も通る。今は観光名所にもなり2010年頃にはチェチェン風に再建されたグローズヌィ中心地だが、2000年には廃墟だった。2度の戦争でチェチェン人の実に多くが犠牲になった。アフマト・カディロフ礼拝堂のある広場や、アフマト・カディロフ博物館のある栄光複合施設、アフマト・カディロフ大通りやウラジーミル・プーチン大通り、塀をめぐらした広大なチェチェン共和国首長邸宅など、2000年にはすべて、廃墟だったところだ。4分の1は死んだというチェチェン人の亡霊が、その立派なチェチェンの通りに夜な夜な現れるということはないだろうか。カディロフツィと呼ばれるラムザン・カディロフの私兵がいくら守備していても。 マゴメド・ザクリエフさんが案内してくれたのはウズベク・レストランだった。中庭を通ってウズベック風の個室に案内された。食べきれないほどのお団子と何杯ものお茶をごちそうしてくれた。コンソメ・スープは獣脂の匂いがした。野生的だな。太いソーセージのような肉は恐ろしく塩辛かった。3人とも全部は食べきれなかった。 レストランを出たのは8時過ぎで、もうすっかり暗くなっていた。アフマト・カディロフ広場で、また車を降りる。ちょうど礼拝の呼びかけが行われいたからだ。暗い夜空に青く輝く礼拝堂の丸屋根とその周りに建つ白く光るミナレット、背後に聳えるグローズヌィ・シティのネオン、預言者ムハンマドпророк Мухаммедの光る文字も建物の壁を流れる。礼拝を呼びかける声は厳かで、天上の響きだ。たしかに宗教は総合芸術だと思える(宗教のおかげで芸術は発展したのか)。 今夜は120キロ離れたウラジカフカース市までアスランと帰らなくてはならない。マゴメド・ザクリエフさんは中心から離れた駐車場のようなところへ案内してくれる。そこは白タク、と言ってもメーターを備えたタクシーなどはどこにも見かけず、自分の車に有料で人を乗せるというだけだが、そうした運転手のたまり場のような所だった(後で、ここは郊外バスの発着場でもあるとわかった)。薄暗い駐車場でそこだけ明るくしたテーブルを囲んで数人の男性が座り、カードをしていた。マゴメド・ザクリエフさんは運転手のだれかと交渉し、2500ルーブルでウラジカフカースまで行ってくれるという運転手を見つけてくれた。今の時間では3000以下で見つけるのは難しいという。 そのチェチェン人の古い車に乗って、アスランと私はマゴメド・ザクリエフさんに別れを告げる。タクシーに乗ると、私は運転手さんに話しかけて仲良しになるのだが、今回は怖くて口がきけなかった。 「ウラジックに住んでるのかい」と運転手がアスランに聞く。ウラジーミルの愛称でもあるウラジックはウラジカフカースのことだ。 フロントガラスにはレーダー探知機がついていて、絶えず反応して鳴っているので、「アンチラダール(レーダー探知機)なの?」と私が口を切ったのは、もう連邦道に出てからだ。「そうだ」とやや嬉しそうな返事。 チェルメン交差点の前で、運転手から、これはタクシーではなく知り合いの車だと言ってほしいと頼まれる。車はチェチェン・ナンバーだ。オセチアとチェチェンの関係も、イングーシとの関係と比べてよいとは言えない。チェルメン交差点の検査はオセチア側がやっているそうだ。 運転手さんはウラジカフカースのアスランの家からの戻り方、つまり、ウラジカフカースを抜けて帰りの連邦道に出るまでの道を、前もってアスランに確かめていた。夜中のウラジカフカースでチェチェン・ナンバーの車がうろうろするのはあまり安全ではないのか。2500ルーブル(5000円弱)で、夜間にチェチェンからウラジカフカースへ行くのを承知してくれる運転手さんを見つけてくれて、マゴメド・ザクリエフさん。ありがとう。 |
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