34-3 (3) 2016年 北カフカース(コーカサス)からペテルブルク (3) 峡谷のオセチア 2016年8月20日から9月4日(のうちの8月24日から8月25日) |
Путешествие по Северному Кавказу и Петербурге, 2016 года (20.8.2016−05.9.2016)
(1部) 8月2日から8月10日 トゥヴァからサンクト・ペテルブルク | |||||||
(2部) 8月11日日から8月20日 コミ共和国の北ウラルからサンクト・ペテルブルク | |||||||
(3部) 8月20日から9月5日 北カフカースのオセチア・アラニア共和国からサンクト・ペテルブルク | |||||||
1) | 8/20 | 北オセチア共和国(地図) | ベスラン着 | 北オセチアの地理と自動車道 | 峡谷での宿敵 | オセチアの宴 | |
2) | 8/21-8/23 | アスラン宅 | ウラジカフカース市 | アレクサンドロフスキィ大通り | テレク川岸 | ロシアとオセチア | 南オセチア共和国 |
3) | 8/24-8/25 | ウラジカフカースの芸術家たち | 峡谷のオセチアへ(南東部地図) | 納骨堂群の丘(共同体地図) | 氷河に呑まれた村 | グルジア軍事道とイングーシ(イングーシ地図) | デュマやレールモントフの時代のグルジア軍道 |
4) | 8/26 | イングーシ通過 | チェチェンに | グローズヌィの水浴場 | 復興グローズヌィとチェチェンの心 | プーチン大通り | |
5) | 8/27-8/28 | オセチア斜面平野(南西部地図) | 正教とイスラム | ディゴーラ共同体 | カムンタ村着 | 過疎地カムンタ村 | ミツバチ |
6) | 8/29-8/31 | マグカエフ宅 | ザダレスクのナナ | 失われたオセチアの一つ | ネクロポリス | ガリアト村 | テロには巻き込まれなかったが |
7) | 9/1-9/3 | スキー場ツェイ | オセチア軍事道 | カバルダ・バルカル共和国へ | 保養地ナリチク市 | ウラジカフカースの正教会 | 再びグルジア軍事道 |
8) | 9/4-9/5 | サンクト・ペテルブルク | イングリア | フィンランド湾北岸の地 | コトリン島の軍港クロンシュタット | モスクワ発成田 |
ウラジカフカースを回る。ウラジックの芸術家たち | |||||||||||
8月24日(水)。ウラジカフカースの『ネフスキー(サンクト・ペテルブルクの有名な通り)』と言えるアレクサンドロフスキィ大通りはテレク川右岸にある。ヘタグロフ公園も、アレクサンドルスキー大通りとテレク川の間の右岸にあるが、左岸にも広い公園ができている。最近、整備されて花壇やあずまや、彫刻が置かれたらしい。この日、アスランと12時近くに訪れる。美術作品はアスランの気に入らないものも多く、公園の設計もアスランからすると芸術的でない。私にとって、この広い公園にトイレがないのがつらかった。探し当てた唯一のトイレの建物の入り口にはかぎがかかっていた。
このテレク川には立派な鋳鉄の橋が架かっている。これも名所の一つで、1863 年、材料をロンドンに注文してできた市では初めての鉄製の橋だった。当時は、皇帝ニコライ1世の四男でカフカース総督ミハイル・ニコラエヴィチ大公の妃オリガ(1839- 1891)から『オリガ橋』と呼ばれていたそうだ。左岸がプリエフ広場でプリエフ将軍(*)の馬に乗った巨大な像があり、この像と遠景にはカフカースの白い峰、近景には『オリガ橋』または『鋳鉄橋』に乗るユキヒョウの像を入れた写真が必ずウラジカフカース市のPR写真にある。(将軍の像はソ連崩壊後に作られた)。
右岸はシュティバ Штыба広場で、革命家でチェキストのシュティフ(*)の胸像がある。シュティバ広場には18世紀末のウラジカフカース砦(**)の一部のイミテーションとその前にザウグ・ブグロフЗауг Бугуловの像がある。
ヴァジムは木工や鋳鉄で工芸品を創作している。ヴァジムはなかなかの好男子。アスランと長く鋳造の方法など話していて、私は、その間飽きるほど展示品を見ていた。
次にアスランが案内してくれたのも芸術家同盟員のアトリエだった。大きな彫像など創作しているので中庭付きの一階で、中庭には未完や完成した石膏像や鋳鉄道が立てかけられている。そこに1時間ほどいた。 ウラジカフカースの芸術家と知り合いになるのは悪くはないが、あまり話題が思い浮かばない。オセチアでの予定はウルイマゴフさんが決めてくれたところではウラジカフカースで山岳の気候になれたら、ディゴーラのカムンタ村やアラギルのアルホン村、ツェイなどに行くことになっている。カムンタへはルスランと言う共通の友達が迎えてくれるペンションに行くことになっている。 アスランには車がないので、市内はバスや路面電車で行けるが、郊外はタクシーで行くことに決めて、タクシー会社(と言うものはなくて、個人タクシーの連合のようになっていて、電話すると、自分たちのところに登録してある個人タクシーを配車してくれるらしい)に電話して、行先と値段を聞く。『死者たちの町ダルガウス』と言うところがいいと、アスランの家族が勧めてくれる。私は地図で見て、ウラジカフカースからクルタチン峡谷を登り、ゲナルドン峡谷、目的地近くのギゼリドン峡谷を通り抜け、グルジア軍事道(テレク川沿い、現在はA161道)を下って家に帰るコースを決めた。車が通行できるかどうかも含めて、アスランが値段を聞いてくれた。5000円くらいの値段だった。ほかに、待ち時間が1分につき何ルーブルかかかる、と言われる。 |
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峡谷のオセチアへ | |||||||||||
8月25日(木)。10時過ぎに注文のタクシーが来て、出発。私はいつでもタクシーに乗ると運転手さんのお名前を伺うことにしている。今回、イーゴリさんと言う。オセチア人。正確にはイロン人だ。アスランたちは自分たちのことをイロンと言う。ある時、アスランが兵役に入っていた時のエピソードを話してくれた。兵役はロシア連邦軍隊として、あらゆる地域から集められた青年たちが指定の場所で、ロシア語で兵役訓練を受ける。だから、トゥヴァの青年も、どこの民族共和国の青年もある程度はロシア語を話せるのだ。民族共和国内では、兵役に行かなかった(年配の)女性には、たまにロシア語が通じないこともある。アスランは赴任地で、各地から来たロシア人やウラル系、カフカース系やテュルク系、モンゴル系の青年たちと一緒に住んでいたが、ある時すれ違った青年を直感的に同郷人と思った。それで「イロン?」と言った。すれ違いざまその青年ははっとした。青年はそれを理解できた、と言うことは同郷人だったということだ。オセチア人は大部分がイロン方言を話し、ディゴーラ方言の話し手は少数であるが、それぞれの伝統を守っている。 ウラジカフカース市はかつて(20世紀初め)の国の最東端テレク川辺にあるので、オセチア的な観光地 (山岳から平地への移住前までの伝統的なオセチア人居住地区にある) へはどこへ行くにも南西へ向かう。1944年まではウラジカフカースは前述したように余裕がないくらいの最東端だった。チェチェン人やイングーシ人がカザフスタンなどに強制移住させられ、チェチェン・イングーシ自治ソヴィエト社会主義共和国が廃止された1944年にテレク川右岸のプリガラド区をイングーシから得て(ソ連中央政府から与えられて)、ウラジカフカース市はぎりぎりの端ではなくなった。しかし、その新オセチア領へは、オセチア人はあまり行きたがらない。観光地どころか無用の時は近づかない方がいい。ちなみに、チェチェン・イングーシ自治共和国のできる前のイングーシ自治州の時代(1924−1934)は、ウラジカフカースは北オセチアの首都であると同時にイングーシの首都でもあったくらいだ。だからテレク川右岸(東部。歴史的にイングーシ人が住む)も左岸(西部。歴史的と言うよりロシア帝国に合併されてからオセチア人が住んでいる)もプリガラド(都市近辺の意)区と言うらしい。(地図参照) |
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オセチア南東部地図 (オセチア全体はここ) | |||||||||||
1.ウラジカフカース市 2.ギゼリ村 3.ズアリカウ村 4.アラギル市 5.アルドン市 6.エリハトヴォ村 7.ジルガ村 8.ベスラン市 9.マイスキィ村 10.チェルメン村 11.チェルメン交差点 12.ナズラニ市 13.マガス市 14.カムビレエフスコエ村 15.オクチャブリスコ村 16.カルツァ区 17.タルスコエ村 18.エズミ村 19.バルタ村 20.チミ村 21.ヴェルフヌィ・ラプス村 22.古サニバ村 23.下カルマドン村 24.ダルガウス村 25.旧ウラスィフ村 26.ヴェルフヌィ・フェアグドン村 27.ツミチ村 28.ハリスジン村 29.旧ジヴギス村 30.キャニオン・カダルガヴァン 31.(山岳)カルツァ村 32.カズベク山 33.テレク川 34.アルドン川(アラギル峡谷を作る) 35.フェアグドン川(36と37でクルタチン峡谷を作る) 36.ギゼリドン川 37.ゲナルドン川 38.カウリドン川 39.スタローヴァヤ山 40.コバン村 41.上と下の(新)サニバ村 | |||||||||||
A162 道(旧R127道)はウラジカフカースからトランスカム道の通るアラギル市(4)までカフカース山脈と平行に東西に走っている。ズアリカウ村まで20キロ弱行ったところで、20日にソスランに連れて行ってもらったフィアグドン川(75キロ)のクルタチン峡谷の方に曲がる。あの時は来たばかりでよくわからなかったが、2度目だし、地図も持っていたのでよくわかる。キャニオン・カダルガヴァン(30)はパスする。しかし、その道路の反対側の滝には、運転手が気を効かせて止まってくれたので、見物。運転手のイーゴリさんがその滝の水をコップに汲んで私にくれる。こんな壮大な滝の水は飲んでおくことになっている。
クルタチン峡谷をフェアグドン川に沿って登っていくと、ヂヴギス(29) Дивгисと言う今はほとんど無人の村が、川にせまってくる岩山の麓にある。この65メートルの岩山の洞穴と斜面を利用して13世紀から16世紀のアラン人の要塞ができていた。侵入者をこれ以上フェアグドン上流(フェアグドン盆地・谷)へ行かせないためだそうだ。18世紀ごろまではオセチア人の共同体の一つクルタチン共同体の主なテリトリーはここより上流だったからだ。斜面の洞穴から敵を撃つことができ、斜面に沿って6棟の石の塔が立っている。石造りの階段や木の橋などで繋がっているそうだ。道路わきに車を止め、川向こうのオセチア・アラニアの名所の写真を撮った。今は廃墟のようになっているこのヂヴギス村も18世紀には60軒もの家がある大村で、1752年オセチアで初めての学校があった。(2番目は1764年マズドクで開校された。マズドクは北のスタヴロポリ近く)。が、村人たちは次第に生活の容易な平地に去っていったそうだ。20世紀初めには400人程度の村だったが革命後の集団移住で、ヂヴギスとヂヴギス要塞はうち捨てられた。 アスランとイーゴリが由来を説明してくれたが、その時は荒れ果てた村、荒れ果てた遺跡だと思っただけだった。ヂヴギス村には夏は数人の住民が農業と牧畜を営んでいるそうだ。 今日の目的地は、クララさんに勧められた死者たちの町ダルガウス(24)だ。つまり昔の墓地だ。そこはクルタチン峡谷をフェアグドン川に沿ってずっと登っていき、ギゼリドン峡谷(36)の方へ移らなくてはならない。 フィアグドン川はテレク川の左岸支流のアルドン川(34)に合流する。アルドンはフェアグドンやギゼリドンが合流してくるとすぐ、テレクに合流してしまう(だからちょっとのことで、フェアグドンやギゼリドンはテレクの支流ではなく、支流の支流と言うことになった)。どの川もそうだがフェアグドンも大カフカ―ス山脈から、つまり、グルジア(ジョージア)との国境近くから流れてくる。 川に沿った道を登っていく。横には緑の斜面、正面には白い山、その向こうにはもっと白いもっと高い山。これがヨーロッパで最高峰エリブルス山(Эльбрус 5642メートル)につながっているのだ。 フェアグドンの上流(最上流は氷河だ)にフェアグドン盆地があり、ここには、いくつもの、かつての山岳村がある。平地に今は住むオセチア人たちの出身村だ。そこは、クルタチン共同体だった。つまり、中世のオセチアの中心の一つだった。山の斜面に寄り合って建っている石造りの家々や突き出ている石の塔が、道路から何カ所も見えた。この盆地で現在もっとも大きくて役場や学校があるのはヴェルフニ・フィアグドン村(26)で、2010年は人口1000人だが、1970年は2500人だった。まだこれだけの人口がいて、学校や医療施設、国営店のあるのは、1960年代には閉鎖されたが、銅山があったからか。村の入り口には大きな慰霊碑があった。その碑は戦没者の名前が刻まれた塔に、悲しそうに頭を垂れている馬の像だ。 この盆地では、ヴェルフニィ・フェアグドン村の奥、盆地の中央にあるツミチЦмити村(27)が最も古く14世紀初めにできたそうだが、現在は無人に近い。この村のかつての住民の姓は、現在のオセチアの各地に広がっているそうだ。ツミチ村の分村が周りにいくつもできた。山岳地の村々は小高い丘に、必ず石の塔がある。砦だそうだ。敵が攻めてきたらここへ逃げるという。塔の上の方にある小さな窓から敵を迎え撃つとか。一族で一軒の塔を持っていた。 また、その盆地の入り口近くにウラスィフУаласых(25)と言う、これも今は無人の古い村があって、ここには特に有名な石の塔がある。クルタКуртаとタガТагаと言う。言い伝えによると、クルタとタガは兄弟で、アラギル峡谷(34。オセチアの山岳峡谷では最も古く広い。アルドン川に沿っている。アラギル共同体)に住んでいたが、人口が増えすぎたので、このクルタチン峡谷へ移ってきた。だが、二人の仲は悪くなりタガは、さらに隣のタガウルス峡谷へ移っていった。二つの峡谷の名は、その兄弟の名から出ている、と言う。岩山の上の廃墟の塔へ行ってみる。窓(銃眼)だった穴から、はるか下のフェアグドンの流れがよく見える。確かに、中世には、もし、少数の敵からなら、村を守ることができたかもしれないようなロケーションだ。 こうしたオセチアの古い村には、石の塔の他に、伝統敵な神(キリスト教から見て異教)を祭る、つまり羊などの犠牲動物を捧げる社(聖なる場所で、岩山の斜面にあったり、洞窟だったりする)、仲間が集まる広場が必ずある。その広場には議長の座る石の椅子があったりする。ここで争い事を解決する。 この盆地の奥、西のアラギル峡谷へ抜ける山道の入り口にハリスジンХарисджин(28)と言う村があり、ここには聖ウスベンスキー修道院がある。これはロシア正教の修道院の中で最も標高の高いところに建てられているそうだ。 |
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納骨堂群、死者たちの町ダルガウス オセチアの共同体 | |||||||||||
フェアグドン盆地も過ぎると、フェアグドン本流から離れ、フェアグドンの右岸支流から、ギゼリドンの左岸支流へ渡る山道(R299道)を通り、ギゼリドンも渡るとダルガウス村が見えてくる。タルガウスには『死者の町』と言う国立野外博物館がある。
クルタチン峡谷沿い、つまりフェアグドン盆地の住民は歴史的にクルタチン共同体をつくった。その東隣にはタガウル共同体(上記の言い伝えの兄弟の名から)がある。タガウル共同体の村民はギゼリドン川(*)の作る峡谷やゲナルドン川(**)の作る峡谷(カルマドン峡谷ともいう)、カウリドン川(***)の作る峡谷(サニバ谷とも)や、テレク峡谷(ダリヤル峡谷Дарьяльское ущельеともいう)に住む。ギゼリドン峡谷には上流にはダルガウス盆地とその少し下流にコバン盆地(40)がある。サニバ谷にはかつての大村がある。アスランの父親がサニバ出身だとは後で知った。 (*)Гизельдон大カフカ―ス山脈脈から80キロ流れアルドン川に注ぐ (**)Геналдонаギゼルドンの東支流で22キロ (***)Каулдонゲナルドンの右岸支流 つまり、タガウルス『共同体』の土地は東がクルタチン『共同体』、北はカバルダ人(現在のオセチア平原は18,19世紀までカバルダの候国だった。つまりオセチアの地ではなかった)、南はカフカ―ス山脈のトゥルソフ峡谷にトゥルソフ共同体(*)、西はイングーシ人のロアマロイ共同体 ингушское общество лоамаройと言う隣人がいたのだ。 (*)ツィルスィゴム Тырсыгомским обществом『共同体』とも言う。現在はグルジア領だが、トゥルソフ峡谷の住民はオセチア人。しかし、1987年には峡谷の村々に合計1000人のオセチア人が住んでいたが2002年には峡谷全体がほぼ無人、統計では40人ほどのオセチア人が住むのみ。フェアグドン盆地もダルガウス盆地も、18,19世紀にオセチア人がカフカ―ス北麓平野、つまりオセチア斜面平野に出るまでは、飽和状態の大村だった。前記のように、オセチア人の祖先と言われているアラン人は、9,10世紀にはカフカ―ス北麓に強力な国を作ったが、13,14世紀にはモンゴルやタメルラン(ティムール)に侵攻されて、アラン人の末裔オセチア人はカフカ―ス山脈の険しい峡谷に逃れて生き残ったという。そのアラン人の逃れた峡谷の盆地には、青銅器時代からの遺跡が多い。有名な青銅器時代のコバン文化も、ギゼリドン峡谷にある。コバン村(40)で初めに発見されたのでその名がある。 ギゼリドン川上流にあるかつての大村ダルガウスの、野外博物館『死者の町』と言うのは、石造りの古い堂が96基ほども集まっている斜面にある。それらは納骨堂だ。一族ごとに納骨堂があり、その一族の財力によるのか豪華なものや質素なものがある。壁は石を積み上げ、屋根も角錐状になるように工夫して積み上げられている。小さな窓、つまり入り口が一つ開いていて、ここから死者を運び入れる。各納骨堂には先祖代々の死者が何体も眠っている。窓から覗くと古い骨が見える。当時は、死者を運んできて、副葬品とともにただ寝かせただけだそうだ。野外の博物館なのでどこからでも入場できるのだが、一応入り口があって、そこで売っていたパンフレットによると、考古学的に貴重なもの、例えば、16から19世紀の衣服、容器、道具類などは、ウラジカフカースの国立博物館に保存されているそうだ。
旅行案内書のダルガウスのページには「17世紀から19世紀、たびたびオセチアの地は疫病に襲われた。人口は20万人から1万6千人に減少したくらいだった」。「一族所有の納骨堂は感染者が最後の時を過ごす場所ともなった」と書いてある。アスランによると、ペストかチフスが流行り、オセチア人は全滅に近いほどに減った。その疫病はアラビアからか、カバルダからかもたらされたとか。 現在でも、ダルガウスの村人(人口270人)は納骨堂が建ち並ぶ斜面には近寄らないそうだ。そこへは死者、またはほとんど死者しか行かないから。そこへ行けばもう戻っては来ないから、だそうだ。 納骨堂の窓から、中の写真を撮った。運転手のイーゴリが窓から中に上半身を乗り出して写真を撮ってくれた。イーゴリによると異様な臭気だったという。そうだろう、遺骨はいくら古いと言っても、納骨堂は風通しが悪いから。 1時間余り、納骨堂のある斜面をさまよっていた。実は納骨堂(の廃墟)は旧いオセチアの村々にはどこにでもある。しかし、これだけの数の納骨堂が現在にも残っているのは、当時のダルガウスはよほどの大村だったからだ。『死者の町』つまり墓地のほか、ここには、古いオセチアにはどこでもそうだが、いくつかの家族所有の石の塔、つまり要塞がある。中でも、立派な塔はオセチア貴族の持ち物だった。その苗字から党の名前がついている。たとえば、マムスロフ家の塔 мамсуровыеのように。20世紀初め頃まで、その前の広場で祭日の伝統舞踊などが行われていた。マムスロフ家の塔は西のフェアグドン峡谷から攻められた時の防御要塞でもあった。 |
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コルカ氷河に飲み込まれたカルマドン村 | |||||||||||
ダルガウス盆地(ギゼリドン峡谷にある)は西のフィアグドン盆地(クルタチン峡谷にある)と東のサニバ谷(ゲナルドン峡谷)の間にあり、それら盆地や谷をつないで車の通れる山道ができている。オセチアの山岳地帯では、峡谷は南北に走り、道路も南北に走っていて、峡谷を横で結ぶ道(4輪車通行可、しかし無舗装)は、ここしかない。フェアグドン盆地から来た私たちは、ダルガウスを過ぎると、さらに山道を通り東へ行く。 ちなみに、北、つまりギゼリドンに沿って川下へ行くとコバン村がある。前記のように、ここで1869年、カフカースのコバン青銅器文化(紀元前13−6世紀)が初めに発見されたのだ。ダルガウス峡谷(盆地)と同じギゼリドン川が作った谷だが、そこはコバン峡谷と言う。 ギゼリドンのダルガウスから、その東のゲナルドン峡谷へ出るには峠を越えなくてはならない。ダルガウス峠と言う。緑の山々に囲まれている。狭い草原もたまに見える。オセチアの山地(つまり旧いオセチア)を通ると、いつでも必ず石の塔が見える。たいていは崩れるままの廃墟となっている。それでも、高くそびえている。峡谷には平地は貴重なので、どの塔も斜面に建てられていて、中には絶壁の上にそびえている塔もある。旧いオセチアの地にはいったい何十基、何百基の塔があったのだろう。一家で一基持っていたはずだ。人々が平地へ下りて行ったために過疎になっただけの山地の村々の塔は、うちすてられたまま今でも立っている。 緑の山に囲まれた山道だが、その山の向こうには白い山並みが続き、その向こうにはもっと薄い白い山が見える。そのうちの最も高いのがカズベク山(5033メートル)だろうか。大カフカ―ス山脈は北西から南東に1100キロもの長さに横たわっているが、中ほどのエリブルス山(5642メートル)からこのカズベク山までの200キロが最も高い。カズベク山の辺りを何枚も写真に撮った。 ゲナルドン川に近づくとカルマドン村(300人)が見えてくる。道は曲がりくねり、村道を通り抜け、迷いながら進む。運転手のイーゴリはイロン人(中東部オセチア人の自称)だ。だから後部座席のアスランとイロン語で話し続けている。私はちっともわからない。ロシア語で話してください。カルマドンには鉱泉が湧き出ていて、近くにサナトリウムがあるという。カルマドン鉱泉場は19世紀から知られていて、1962年にサナトリウムができたそうだ。80カ所以上の湧水があり、『上カルマドン』では60度、『下カルマドン』では40度の温泉が出ている。20度以下の鉱泉も多い。 しかし、今は廃墟になっている。2002年9月20日にコルカ氷河に上カルマドン村が飲み込まれ全滅するという土砂災害が起きたからだ。上カルマドン村にはサナトリウムは建っていなかったが、100人以上の村人と、当時モスクワから撮影に来ていたグループが行方不明になった。多分、イロン語で二人はこのことを話していたのだろう。 ゲナルドン川(22キロ)はギゼリドン川の支流だが、大カフカースの最も奥から流れてくる。ゲナルドンの源流はカズベク山(5033メートル)近くのコルカ氷河やマイリ氷河だ。高山の斜面にできた氷の塊は氷河と呼ばれているが、山の斜面にへばりついている。その塊がだんだん厚くなり、支えきれないほどになると、ある衝撃でどっと流れ下る。氷と土砂の流れとなり、例えば時速180キロ以上ものスピードで山麓の村に襲い掛かることがある。コルカは昔から危険な氷河で50から60年ごとに大なり小なり流れ下っているそうだ。だから古老たちは、その場所に村を作ってはならないと言っていたが、ソ連時代、村ができてしまった。 今でも、氷は解けたが、村は土砂にうずもれている。… 長い間、この一帯は通行止めだった。アスランはゲナルドン川をわたれるかどうかイーゴリに聞いている。ゲナルドン川に沿ってトンネルをいくつか超えて、北のウラジカフカース方面へ抜ける国道R 299道が通じているが、それも長い間通行止めだった。私達はトンネルの方へは行かないで小さな支流カウリドン кауридонのサニバ谷へ出る。サニバ村は、今はスターリィ(旧)サニバと呼ばれ、ギゼリドン峡谷がオセチア平原に出たところにヴェルフニィ(上)サニバや、ニージニィ(下・下流の)サニバ(地図の41)と名付けられた新村ができているが、古い時代はダルガウスなどと並んで大村だった。アスランの父親はサニバ出身だ。 サニバ村はカウリドンのほとりにある。カウリドンは短い川で危険なゲラルドン、つまり氷河の通り道との間には山がある。だから2002年の氷河も、サニバには流れてこなかった。この由緒ある古い村を、私たちは高台を通る自動車道から眺めただけで、さらに西のサニバ峠へ向かった。ここからもいくつにも重なった白い山々のその向こうに、空の色と同じくらいに薄く、白い高貴な山が見える。 |
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グルジア軍事道とテレク右岸のイングーシ | |||||||||||
サニバ峠を越えて山道をさらに西へ向かったのは、ダリヤル峡谷を見るためだった。テレク川のダリヤル峡谷はカフカースの山々の中で最も歴史的な地名の一つだ。古代からこのダリヤル峡谷沿いに大カフカ―ス山を越えて南へ、北へと出た。中世のタメルラン軍もここを通ってカフカースを越えたと言う。18世紀には南カフカースのグルジアの一部を合併していたロシア帝国がここにグルジア軍事道を作った。南カフカース支配にも有効だ。軍事道を守るために、テレク川沿いにいくつかの要塞を作ったのだが、その一つがウラジカフカースだった。今でも、北カフカースから南へ抜けるにはこのグルジア軍事道、今はA161道と呼ばれている道を通る。最近では、1989年開通のロッカ・トンネルを通って南オセチア経由でグルジアへ出るトランス・カフカースA164道もある。 現在トランス・カフカース道は南オセチア共和国まで行くには便利だが、その先のグルジアへ出るのは難しい (南オセチア共和国をグルジアは認めていない、だから南オセチアからグルジアに入る道路は、2008年の8月事件、つまり南オセチア紛争以来一般には閉鎖されている)。グルジア軍事道(A164)のほうは、まっすぐダリヤル峡谷を登り(峠を越えなくてはならないから)、ロシア側の国境と税関を通り、グルジア側の国境と税関を通ればグルジア領に入れる。グルジアからアルメニアにも行ける。日本を出る前からダリヤル峡谷をできるだけ南下してみたいと思っていたのだ。もちろん国境の手前までだが。 サニバ峠からの山道を越えて、グルジア軍事道に出る。このA161道は、ヨーロッパ道Е117と言うスタヴポリ地方(オセチアの北)のミネラーリヌィエ・ヴォードィ市から、カバルダ・バルカル共和国の首都ナリチク、ウラジカフカース、グルジアの首都トビリシ、アルメニア首都のエレヴァンを通り、アルメニアとイランの国境のメグリ市までの1050キロの国際道の一部だ(欧州自動車道路のBクラス幹線道路)。ウラジカフカースからグルジアとの国境までの33キロを連邦道A161道という。歴史的なグルジア軍事道はウラジカフカースからグルジア首都のトビリシまで208キロだ。 ここのテレク川はダリヤル峡谷から出て来たばかりで流れは速いが、川幅は広い。そのテレク川に沿った広く立派なアスファルト道がかつてのグルジア軍事道だ。広いテレク川を左に見ながらしばらく行くと、もう大きなトラックの列が見えた。税関を通るための車の列だ。コンテナのトラックは検査に時間がかかるだろう。税関の手前に食堂や店が並ぶ一角がある。ここは一応ヴェルフナヤ(上)・ラプス(地図の21)という人口0人の村だ(住んでいるらしい人はいるが、彼らの住民登録は別のところらしい)。国境検査は24時間受付で、車以外は通行が許可されない。つまり徒歩でダリヤル峡谷超えることは不可だが、自転車以上なら可。 ここが峡谷の入り口だとはよくわかる景色だ。国境検査小屋の向こうの道は幾重にも重なった山波の中に消えている。コンテナ・トラックは順番をついているが、乗用車は乗用車用のゲートから入っていく。ここで20分ほど、車の列を見たり、車から降りて周りを歩き回っている運送業者さんたちを見たり、テレク川を見たり、上流の険しい山波を見たりして、この歴史的に有名な峡谷の写真をたくさん撮った。こんな場所の写真と言うのは、今でもロシアでは好まれないらしく、同乗のイーゴリやアスランにせかされて去る。 このテレク川の右岸(東)のエズミЭзми村(18)やフルトゥグфуртоуг村は、イングーシとの国境沿いにある。イングーシ人が主に住んでいた。2,3キロほどの狭い河原の向こうはもう険しい山が迫っていて、山はイングーシ共和国領で、ジェイラフ(*)という1800人のイングーシ人の大きな村がある。 現在はテレク両岸はオセチア領だが、前記のように、1944年まではチェチェン・イングーシ自治ソヴィエト社会主義共和国領だった。しかし、1944年スターリンによって、チェチェン・イングーシ人は全員カザフなど中央アジアへの強制移住させられ、同自治共和国が廃止されると、旧チェチェンの中央部分はスタヴポリスキィ地方の低地帯を切り取ってグローズネンスキィ州、旧イングーシの大部分は北オセチア領ナズラン地区となった。これはつまり、元の住民を強制退去させて、新たな住民を迎える空間ができたということだ。旧イングーシ領でイングーシの歴史的な地だったテレク川右岸も北オセチアのプリガラダ区東部となり(上記)、イングーシ人が一掃された村々に、南オセチアやグルジアからのオセチア人などが住むようになった(移住者にとっては、家具付き、備蓄食料付き住宅をもらったようなものではないか、と思う)。村の名前も、たとえば、アングーシト(**)からタルスコエに、ガルガイ・ユルト(***)からカムビレイフスコエ Камбилеевскоеに、ショルヒ(****)はオクチャブリスキィなどとイングーシ色は払拭された。
1956年チェチェン・イングーシ人の強制移住措置が廃止され、故郷への帰還が許されて、元の場所でチェチェン・イングーシ自治共和国が再建された時、大部分の旧イングーシ領は返還されたが、イングーシ人の歴史的な土地であるテレク川東の現在プリガラドク東部や、ウラジカフカースからグルジアとの国境までのテレク両岸は返還されず、イングーシとオセチアの境界は曖昧のままだった。1993年チェチェンと別れて単独イングーシ共和国となると、イングーシは、プリガラド区東のテレク川右岸の自分たちの祖先が住んでいた村々の返還を要求した。単独イングーシ共和国の面積は3685平方キロ(奈良県は3691平方キロ)とロシア連邦内で最少だった。オセチアは返却に同意しなかったので、武力紛争になったが、ロシアが介入して、オセチア領として留保された。 グルジア軍事道沿いのテレク川左岸のチミ村、バルタ村などは歴史的に、イングーシ人もオセチア人も住んでいた。現在それらの村々にはイングーシ人は少ない。テレク川左岸や右岸のプリガラド区のそれらの村々に住んでいたイングーシ人たちは、オセチア・イングーシ紛争の後、皆難民となって新しくできた狭いイングーシ共和国に移住して行った。イングーシ人が去って空いたところには、南オセチアやグルジア、旧ソ連邦、シリアからのオセチア人難民や、アルメニアとアゼルバイジャン紛争の難民、最近ではウクライナからのロシア人難民も住むようになったそうだ。 バルタ村は19世紀、グルジア軍事道建設と先住民からの守備のため軍事多面堡もできロシア帝国軍が駐留していた。20世紀初めジェイラフからイングーシ人が移住。1944年のチェチェン。イングーシ人の強制移住までは同自治州の領土だった。2010年926人のうち、グルジア人が58%、イングーシ人が23%、オセチア人は15%。 オセチアとグルジアの関係以上にオセチアとイングーシの関係は複雑だ。 目の前のチェック・ポイントを通り、テレク川を渡っても現在はオセチア領だが、アスランたちは決して行こうとしない。例えばエズミ村は、96%イングーシ人が住む。今でもオセチア人がイングーシに行ったり、イングーシ人がオセチアに来たりするときは、それなりに用心深くふるまうようだ。 この日は10時過ぎから5時前まで、タクシーを貸し切って、3250ルーブル(約6500円)だった。この値段には運転手の待ち時間も入っている。 |
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19世紀、デュマやレールモントフ時代のグルジア軍道 | |||||||||||
『モンテクリスト伯』や『三銃士』などで有名なフランスの作家アレクサンドル・デュマ・ベールは、1859年から1859年にかけて3か月間もカフカースを旅行をして、『カフカース』と言う紀行文を書いている。デュマは、当時ロシア帝国の南部ではアストラハンに次いで大きかった現代ダゲスタン北部のキズリャールからカフカースに入り、テレク川対岸の現在のチェチェンにも足を踏み入れ、また、カスピ海の古都デルベント、アゼルバイジャンのバクー、さらにグルジアを回り黒海のポチ港から帰国している。グルジアのトビリシに最も長く滞在したのだが、その滞在中、デュマは1週間ほどかけて、できたばかりの(1799年開通とはなっているが)
グルジア軍道をウラジカフカースまで、冬場にもかかわらず、行ってみようと思い立った。トビシリからウラジカフカースまでの間には11の宿場がある。デュマはトビリシを出て6つ目の宿場グダウリ
Гудауриまでは、グルジアを流れるアラグワ川沿いを遡るので、雪は深かったが、何とか行きつけた。それは、細い道がアラグビの奔流から数歩の所に通じていて、デュマの乗った馬車はウラジカフカースからくる郵便馬車と行違うこともやっとだったとある。グダウリは現在はグルジア領だが、当時はオセチア人も住み、除雪などに従事している。しかし、道路にはその道の端を表すポールなど立っていないから、2,3日雪が降れば、どこまでが道なのかわからなくなって、一歩ごとに深淵に落ちる危険を冒さないと進めない、と書かれている。おまけにアラグビ川沿いのクダウリを出て分水嶺を越えてテレク川沿のコビ宿場までは、レールモントフの作品中でも有名なコイシャウール峡谷
Койшаурская долина や険しいクレストーフスキィ Крестовский(Гудаурский) 峠がある。雪崩の音も聞こえたとかで、グルジアの貴族も同行していたデュマ一行はこの辺りで引き返したのだ。 デュマによるとオセチア人は全く未開人だ。土小屋(土を掘って屋根をかぶせたような)か、昔の塔の今では廃墟となっているようなところに住んでいて、収入の大部分はたばこかヴォッカに費やす。グルジア王国全盛のタマーラ・バグラティオニ女王時代(12‐13世紀)には、オセチアもイングーシもグルジアの勢力下にあったので、キリスト教徒だったが、今(19世紀中)は、「キリスト教とあらゆる民族宗教的なもの、つまり、彼らが聞きかじったような世界の隅々から集めた偶像崇拝的なすべてが習合した宗教」で、マホメットによって預言者だと見なされたイエスや、天使たちや霊や魔法を信じている。一夫多妻である。と『カフカース』68章に書かれている。 デュマの『カフカース』より20年ほど前、レールモントフの『現代の英雄』(1840年)が刊行された。カフカース戦争(1819‐1864)に従軍させられた20歳代前半のレールモントフの作中人物の見た当時のカフカースが興味深い。『現代の英雄』は、ペテルブルクから来た資産ある青年将校で傲慢でいやな奴、自称知識人の主人公ペチョーリンの恋物語と主人公の心の動きが、直接ではなく、『私』が読む手記の形とわき役の人物が物語るかたちで書かれているため、その時代を知る素晴らしい作品だと思う。 1830年代はすでにスターヴロポリ地方はかなり安全なロシア領とはなっていたらしい。スターヴリポリ市などのあるカフカース山脈に近い南部には薬効ある温泉・鉱泉が多く、湯治場、つまりモスクワやサンクト・ペテルブルクからの貴族たちの社交場になっていた。チェルケス人が襲ってくるかと湯治客の貴婦人たちが、びくつくこともあったように書かれているが、ロシア軍の要塞ラインはずっと南にあって、ここまでは『帰順』していないチェルケス人もチェチェン人も襲ってくることはない。つまり、『現代の英雄』では、現在のカバルダ・バルカル共和国北部のスターヴリ地方南部にできた保養地では湯治客のロシア貴族とカフカース『防衛』の将校(貴族に限る)の社交界があり、その下にコサック、その下に『帰順』した現地人と言う階層差があったように書かれている。作品には、ロシア人はコサックでなければ貴族とその召使以外は登場人物としてでてこない。 物語は『私(ただの進行係)』がトビリシからグルジア軍道を通って、ウラジカフカースに出て、スターヴロポリへ行く途中、カフカース山中の南麓と北麓を分けるようなところにあるコイシャウール峡谷まできた所から始まる。そこにはグルジア人やオセチア人の人足が群がっていて、酒代を稼ぎたがっている。後から来て『私』と同行することになった年配将校は、エルモーロフ将軍時代(カフカース戦争の緒戦の10年間にカフカースに食い込むことに成功)からカフカースに『勤めて』いる。『山国人討伐』の功あって少尉から2階級昇進した。年配将校はカフカースになれない『私』を助けて、『アジア人』と軽蔑的に呼んでいるオセチア人たちに手伝わせて、荷をコイシャウール山(峠、峡谷)まで運ぶ。ロシア語はろくに知らないのに、酒代だけはロシア語でせびる『オセチア人ども』は、酒を飲まない『タタール人(チュルク系ばかりかカフカース先住民のチェルケスやチェチェン人を含む)』より悪い、と言う。 雪崩があるかもしれないとオセチア人御者に言われて、岩陰の小屋に避難した。そこには『ぼろをまとった』オセチア人やグルジア人が煙の中で火に当たっていた。年配将校が『私』に言う。オセチア人は『愚鈍な奴らで、どんな教育にも向かない。カバルダ人(東チェルケス)やチェチェン人だったら、たとえ強盗や、素寒貧でも、その代わり捨て身なところもあるのですが、こいつときた日にゃ、武器を持ちたいと言う気持ちすら全くないのですからな…』と酷評だ。チェルケス人や、チェチェン人は、ロシア侵略軍と戦ったが、オセチア人は、多分その力がなく、協力して得をした。 レールモントフの『現代の英雄』の初めのこの部分では、コイシャウール峡谷の自然描写は、有名で、ロシアでの学校ではここは必読部分になっているようだ。(酷評部分ではない) その年配将校はエルモーロフ時代、チェチェン人に近い堡塁に勤めていて、『堡塁から100歩も離れると、どこかでけむじゃらけの悪魔め(チェチェン人のこと)が控えていて、ちゃんと狙っているのです。。。いつ首へ投げ縄か、あるいは首筋へ弾丸が飛んでこないものでもありません。だが、たいしたやつらですよ』と称賛している。そして、年配将校はある時、テレク川の向こう(右岸、つまりテレク川南岸・カフカース北麓のカフカース現地人の側)の要塞に勤めているとき、要塞から数キロの所に『帰順した領主』が住んでいた、と、ペチョーリンとヴェーラの物語を始める。その領主はカバルダ人らしい。カバルダはチェルケスの中でも東の平地がその当時の領土で(現在はオセチア斜面平野からチェチェン平野に及ぶ)、カフカース戦争の初期には疫病で人口が減り、エルモーロフの敵ではなかった。 カバルダ領主の娘ヴェーラを謀略で拉致したペチョーリンは、彼女(チェルケス女)の関心を買うために、キズリャールへ人をやっていろいろな買い物をさせた。つまり、デュマがカフカース旅行の出発点にしたキズリャールは、当時最大の商業都市でもあったのだ。数ヶ月経つと、もうペチョーリンは、ヴーラに(飽きたので)離れて狩りを楽しむようになってしまう。はじめは、なびかなかったヴェーラだが、その時はもう、愛するペチョーリンが「…チェチェン人に山にさらわれたのか…もう私を愛してはいないような気がする…」などと心配する。 「チェチェン人の弾丸の下には退屈はありえまい、と当てにしてきた」というきざで傲慢な若者ペチョーリンは、数か月後その堡塁を去り、グルジアに行ったのかロシアに『帰ったのか』とある。物語によれば、何年か後、彼はペルシャ、またはインド旅行の途中客死したとある。(『現代の英雄』中村融訳)。ちなみに2006年に8シリーズでイーゴリ・ペトレンコ主演のテレビ番組があって、ビデオになっている。『私』のグルジア軍道通行部分はない。大部分はペチョーリンのピチゴルスクやキスロヴォドスクでの社交生活だ。最後のヴェーラの章では現代のシェルコフスカヤ近くにあったらしい堡塁の描写がある。 カフカースを知らなければ、ロシアを知ったことにはならないと思う。(デュマの『カフカース』については、後述) |
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