クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 22 September, 2019   (追記・校正:2019年10月24日、12月30日、2020年1月18日、6月7日、2022年1月26日、2024年10月11日)
37 - (8)   2019年 コミ共和国とチェチェン共和国 (8)
    ダゲスタン共和国へ
        2019年2月18日から3月6日(のうちの3月2日)

Путешествие по республике Коми и Чечне, 2019 года (18.02.2019−06.03.2019)
   ロシア語のカフカス Кавказ の力点は第2音節にあるのでカフカ―スと聞こえる。英語読みはコーカサス Caucasus

  コミ共和国スィクティフカル市へ 2月16日から2月26日 (地図)
1 2/18-2/19 旅行計画(地図) 長い1日 ガリーナさん宅へ 複線型中等教育ギムナジウム
2 2/20 アンジェリカさん祖先のコサック(地図) コミ文化会館 コミ・ペルム方言(地図) 歴史的地名インゲルマンディア(地図)
3 2/21-2/22 博物館。蕎麦スプラウト・サラダ 図書館、連邦会議議員 ウードル地方ィヨルトム村へ(地図) ィヨルトム着(地図) 水洗トイレ付き住宅
4 2/23-2/26 クィトシヤス祭 ザハロフ家 橇で滑る プロシャーク記者 コミからチェチェンへ
チェチェン共和国グローズヌィ市へ 2月26日から3月5日 (地図、チェチェン略史
5 2/26-2/27 グローズヌィ着 マディーナ宅 マディーナと夕べ カディロフ博物館 トゥルパルとテレク川へ アーダムと夕食
6 2/28-3/1 グローズヌィ市内見物 野外民俗博ドンディ・ユルト(地図) チェチェン略史 マディーナのオセチア観 アルグーン峡谷へ ヤルディ・マルディの戦い ニハロイ大滝
7 3/1 歴史的なイトゥム・カリ区、今は国境地帯(地図) イトゥム・カリ村 タズビチ・ゲスト・ハウス ハンカラ基地と運転手
(地図)
妹ハヴァー
8 3/2 ジャルカ村の2≪モスク≫ グデルメスとクムィク人 カスピ海のダゲスタン(地図) ハサヴユルト市 水資源の宝庫スラーク川 デュマも通ったスラーク峡谷
9 3/2-3/3 チルケイスカヤ・ダム湖 新道を通って帰宅(地図) ジェイラフ区には行けない(地図) 大氏族ベノイ 山奥のベノイ村 チェチェン女性と英雄、主権国家
10 3/3-3/6 地表から消された村 英雄エルモロフ像 国立図書館 いとこのマリーカ トルストイ・ユルタの豪宅 チェチェン飛行場
 スラーク峡谷へ、ジャルカ村のナンバー2≪モスク≫
 3月2日(土)。9時前に一人で朝食をとった。いつもテーブルに並ぶ朝食は品と量が多いので食べきれない。悪いなあと思う。
 10時過ぎ、マディーナと下へ降り、ツアー会社の車を待った。このマンションもやがてゲーティッド・マンションになりそうだ。駐車場に遮断機ができるだろう。マンション近くの遊び場も、このマンションの住民の子供だけのものだ。富裕層の住む地域は、ほかの大都会では、とっくにゲーティッド・マンションができて、部外者を遮断している。
 ツアー会社の車がやっと来たが、そのアスランと言う運転手の言うには、家を探すのに時間がかかったとか。だから、出発したのは10時半近くで、グローズヌィの街角の警官をフロントガラス越しに撮りながら、連邦道を東に向かって進んだ。グローズヌィはどの建物も新しいが、ひときわ整然と立つ塀の中にある2階建ての建物にはプーチンとアフマト・カディロフの写真が建物の左右にたたずむ。その厳かな建物はヴォエンコマート Военкомат軍事委員部だ。(後にウィキマップで調べてわかったのだ)。ヴォエンコマートはロシア連邦のどこにも必ずある。徴兵もうけ持つ機関だ。
朝食
連邦道左側(北側)のジャルカ村
リア・ガラスにナンバー1と2への支持を謳う
2019年3月完成予定のシラー市のモスク
(ウェブサイトから)

 グローズヌィ市の門・アーチを出て、連邦道を東に進むと、間もなくアルグーン市のアーチが見える。アルグーン市に入ったところのアルグーン・シティとモスク前の広い交差点で、車が渋滞していた。しかし、これは交通量が多いための渋滞ではなく、通行の車がすべて停車されているのだった。なぜなら、『偉い人の車を通すため』通行止めになっているとのこと。誰かはわからない。あまり待たないでもその車が通りすぎてくれた。伴走車が数台なので、運転手の言うにはそんなに偉くはない人だろう。市長ぐらいか、だそうだ。

 アルグーン市とグデルメスの間に、道路からでもかなり目立ったジャルカ村と言う派手な村がある。連邦道はアルグーン市のようにジャルカ村の市内を突っ切っていない。傍を通るだけだ(その方が直線なのだろう)。それで、村にしては立派過ぎる門・アーチは道路の左側にあり、華やかなモスクの『スルタン・デレムハーノフ Мечеть Султана Делемханова』もその門の向こうに見える。ジャルカ村は19世紀末にできた村で人口は9千人。モスクは2011年に故アフマト・カディロフの60歳記念の年に完成した。都市でもないこんな村にこんな立派な5000人も収容できるモスクが建てられたのは初めてのことだとか。それもそのはず、ジャルカ村はアーダム・スルターノヴィッチ・デリムハーノフ Делимханов, Адам Султанович (*)にゆかりがあるそうだ。アーダム・デリムハーノフは2007年からロシア連邦国会議員(*)で、与党『唯一ロシア』党員で、彼の母がデリムハーンノフ出身地の今のジャルカ村に住んでいるようだ。つまり、そのデリムハーノフ・モスクは、チェチェンのナンバー2のアーダム・デリムハーノフが自分の父親の名前をつけたモスクだ。(アルグーン市にはチェチェンでナンバー1の母親の名前を付けたモスクワがある)
(*)アーダム・スルターノヴィッチ・デリムハーノフ。アーダムの父称スルターノヴィッチはスルタンと言う父の名から来ている。つまりスルタンの息子アーダム。スルタンは男子の名前で、ここではイスラム社会の支配者の称号ではない。
(*)国家院、つまり下院、任期4年、比例代表制でチェチェン共和国区では定員1名
 デリムハーノフ家はカディロフ家のスヴィータ(свита従者、侍従武官、腰巾着)だ、と言う記事がヴェブサイトにある。同サイトでは、アーダム・デリムハーノフが国会議員になってからただの一度も国会で発言したことはないが、彼に関する黒いうわさはSNSに多く載っている。デリムハーノフ一族だけではなく、母方のゲレメーエフ Геремеев一族も影響力のある地位についていて、彼ら一族(つまり傍系だが)はデリムハーノフ一族(主系)の承諾なしでは何もしない。デリムハーノフ家とゲレメーエフ家はカディロフ家側近の地位を固めている。アーダム・デリムハーノフはカディロフ家への絶対忠誠をいつでも示している。チェチェン共和国ではラムザン・カディロフに次ぐ権力を持ち、この権力の強さは第3位をはるか引き離している。共和国議会議長のダウドフ Магомед Даудовすら、ラムザンに対する影響力という点でははるかに引き離されている、とある。そういえば、たまに白髪の顎髭のアーダム・デリムハーノフと若いラムザン・カディロフが一緒の写真を見かける。プーチンとアフマト・カディロフよりずっとまれだが。
 ロシアでは車の後ろのガラスに「この車売ります、連絡先電話番号は…」と書いた車をたびたび見かけるが、チェチェンではアフマト・カディロフの写真と『Ахумат−Сила(『アフマトは力だ』と訳せるか)』と道路沿いにもあるスローガンが書かれた車も度々見かける。その車の後ろについているときにはずっとそのスローガンを読んでいることになる。(上記写真のリアガラスの写真は珍しく、ラムザン・カディロフとデリムハーン)
 ジャルカ村の名前の元となったジャルカ川は、スンジャ川の右岸支流(77キロ)でアルグーン川の合流点よりわずか下流で合流する。

 <モスク мечетьイスラム礼拝堂>チェチェンでは大小1100軒のモスクがあるそうだ。歴史上の有名な導師の名前が付いたモスクも多いだろう。しかし、現在の政治的勢力者の親族、父親や母親の名がついた巨大モスクも次々と建てられている。カディロフ家やデリムハーノフ家などだ。チェチェン第4のシャリー市には何と現職トップの若いラムザン・カディロフの名がついたモスクが2019年に完成した(写真)。それもヨーロッパ最大の2万人(?)が同時に祈れると言ううたい文句付きだ。2012年着工で、面積は2万へクタール、4本のミナレットの高さが62m、丸屋根の高さは43メートル、ギリシャ白大理石製、12個の噴水があると、ヴェブサイトにある。新観光名所になるそうだ。
 (追記:しかし、2019年8月23日付『ノーヴァヤ・ガジエタ』誌によると、当初は確かに『ラムザン・カディロフ』モスクと言う名称で、第二の名称として『ムスリムの誇り Гордость мусульманы』だったが、父アフマト・カディロフの誕生日に合わせた落成式で、さすが、ラムザン・カディロフは第一の名称を自分の名前ではなく『預言者ムハンマド』にすると宣言した。第2の名称はそのままだ。(最近では、あまりにもあからさまに個人の名前を公共物につけることは流行らなくなったらしい。プーチンも、プーチン通ができた時、これで終わりにしてほしいと言ったとか)。記事には3万人(?)が同時に祈れ、モスクに附属した敷地内も合わせると7万人と書いてある。ちなみにシャリー市の人口は5万4千人、90%がチェチェン人。5%がロシア人だ。最近ではチェチェン第3の人口都市だ。第2はウールス・マルタン市、第4はグデルメス市。
 グデルメス市 クムィク人
 グデルメス市(ロシア語で Гудермес、 より正確には『グデェルメース』と力点を長音で表せる)は人口5万4千人のチェチェン第4の都会なので連邦道から市内への入り口にはプーチンとアフマト・カディロフの肖像写真のアーチがある。。連邦道はこの立派なアーチをくぐって市に入る。グデルメスは連邦道ではグローズヌィから40キロ、ダゲスタンとの国境までは30キロ弱だ。(追記: チェチェン共和国には2019年には、グデルメス市など5市と543町村があったが、2024年には7市と360町村になった)
 ウィキペディアによると、17世紀に山岳地方(現在はグルジア領)からチェチェン人がグムス Гумс川辺に移住して来て(*)できたグムス村(**)が起源だそうだ。グムス川はベルカ Берка川(***)の一部か、その別称らしい。
(*)17世紀ドン川やクバン川、テレク川岸に定住したコサック(帝国に敵対していた時期もある)に対抗させるためロシア帝国は山岳民の平地移住を奨励した、とも言う。
(**)グムス村 グデリメース市はチェチェン語ではグムセ Гуьмсеという。
(***)延長80キロ。ジャルカ川よりやや下流でスンジャ川に合流。スンジャ川はテレク川の右岸支流
 グデルメスから国境までは連邦道は4つか5つの村の傍を通り過ぎる。この辺は、かつてはクムィク人(*)も住んでいた。
 (*)クムィク人 Кумыкиは、現在ダゲスタンの中央部と南部はカスピ海側に主に住む。(一方、その山側はアヴァール人が住む)。クムィク人は中世から近世にかけてこの地方一帯の大勢力だった。現在でもテレク沿岸の中流や下流の、現在の北オセチアのマズドック市から、グローズヌィ、グデルメス、キズリャルなどに住み、カスピ海北西岸、つまり沿カスピ低地の一部は別名(歴史名)クムィク平野とも呼ばれる。テレク・クムィク低地、またはテレク・スラーク低地とも呼ばれているが。
 全世界でクムィク人口は60万とウィキペディアに載っている。そのうち44万人がダゲスタンに、チュメニ州に1万8千人、北オセチア(主にマズドック市)にも1万6千人、チェチェンにも1万2千人が住む。テュルク系であるクムィク語は42万人余の話し手があり、カフカースのテュルク語系話し手の数ではアゼルバイジャン語に次ぐ。
 クムィク人を構成したのはどんな古代・中世の民族か。ハザール国の後継者か、キプチャック・ハン国の支脈か、テュルク語化したカフカース民族か、地元山岳民と融合したフン族の末裔か、と説はいくつもある。10世紀ごろタゲスタンにできたジダン Джидан と言うのは、クムィク人の初期封建国家だと言う説は支持されている。
 13−15世紀にはクィムク人のタルコーフ・シャムハリ国 Тарковское шамхальствоがカスピ沿岸のスラーク川から現在のダゲスタン南部を支配していた。シャムハリ国は16‐17世紀は領土も広く、カバルド(現在カバルディノ・バルカル共和国)まで影響下におき、オスマン帝国を構成した強国、つまりオスマン帝国の有力な被宗主国のひとつだった。(19世紀にはロシア帝国の一部となるが)
 背後の山脈とカスピ海岸の間が3キロしかないのでペルシャ語で『閉じられた門』という意味のデルベント(**)は古代から、アジアからヨーロッパへ行く主要道の一つだった。それで、タルコーフ・シャムハリ国のダゲスタン南部へ、ロシアは16世紀から絶えず侵攻してきたが、シャムハリ国はロシアの侵略をカラマン草原の戦い(17世紀)などで撃退していた。18世紀初めになって、ピョートル大帝のペルシャ侵攻の目的はカスピ海沿岸の領土化だった。クィムク人は敗北したもののロシア軍に手痛い反撃をくらわした。(それでピョートル大帝は這々の体で逃げ帰ったのだと、マディーナの父のルスランは話していた)。18世紀、ロシアはまだカスピ海西岸の統治を強固にできず、その地方へはダゲスタンのアヴァール人のハン国やカジャール朝ペルシャやオスマン帝国も干渉してきた。チェチェンの民族的英雄というシェイフ・マンスルの蜂起には、クムィクの侯たちが、マンスルとともにキズリャルのロシア砦を襲った。その少し後の19世紀中頃のカフカス戦争のロシア軍の将軍は、最も恐るべき敵はクムィク人だと言っているほどだ。ロシア帝国が最終的に勝利したカフカス戦争の後、かつての諸侯の自治国(従属諸侯国)も廃止され、テレク州クムィク地区はハサヴユルト区となって、山岳からのチェチェン人が多く住むようになった。つまり、テレク川とスンジャ川の間(グデルメスやハサヴユルト)にはクムィク人に代わってチェチェン人が住むようになった。
 19世紀末にはロシア経済圏に組み込まれ、かつてクムィク人の多かったダゲスタン中央部の平地にはロシア人が多く移住してきた。
 革命後ダゲスタン自治ソヴィエト社会主義共和国が、かつてのクムィク侯領の一部などから1921年形成された。ソヴィエト時代、クムィク人指導者の多くが汎テュルク主義者として粛清されたとウィキペディアに載っている。現在クムィク人国家を求める民族運動もあると同サイトには載っている。
 (ダゲスタンの民族構成については後記)

(**)デルベント(下記地図) ミレトスのヘカタイオスが紀元前6世紀に『カスピの門』として始めて言及した。ササン朝ペルシアのホスロー1世によって6世紀、北部ダゲスタン低地を占領したハザールを防御するため建てられた砦。それ以前のカフカス・アルバニア国やセレウコス朝でも、軍事的通商的な拠点として要塞があった。9−10世紀はアラブ・カリフのデルベント・エミラートの首都。16世紀からはサフィヴィー朝ペルシア領。19世紀初めロシア帝国領となった。現代のデルベントにはレズギン人(後述)とアゼルバイジャン人がそれぞれ3分の1ずつ住んでいる。

 快適なアスファルト道が続き、国境のかつての検問所に出る。そこはチェチェン戦争の頃は厳重に閉鎖されていた。今は検問小屋の前に交通警官が立っているだけで、その警官に車の形や乗客の顔がよく見えるように、そばを超低速で通らなくてはならない。
 カスピ海のダゲスタン
 ここからダゲスタン共和国に入るのだが、インフラがぐっと落ちたような気がする。道路にアスファルト舗装はあるが広い路肩は埃っぽい。むき出しの地面の中央に細くアスファルト道が伸びて、両側にほこりっぽい路肩が広がっている、といういるような感じだ。用地はあるが、アスファルトの材料と手間をケチったか、と思われるほどだ。道路の看板は大きさもデザインも不揃いな広告だけになる。チェチェンでは目に入るものと言っては例の3人の肖像写真とスローガンだけだが、ダゲスタンに入った途端の、こんな看板の乱立はどこかの途上国に来たような感じだ。
 
 カスピ海周辺の地図。黄色の部分が集水域

 カスピ海はヨーロッパとアジアの間にある世界最大の塩湖だ。アストラハン州でデルタを作って流れ込むヴォルガ川のほか、カザフスタンからのウラル川やエムバ川、ダゲスタンからのテレク川とスラーク川、アゼルバイジャンからのクラ川など130本もあるが、流れ出す川はない。
 カスピ海は南北に長円の形で長さは約1000キロ、幅は約400キロ。水面標高はマイナス28メートル(過去2000年の間にマイナス22からマイナス34メートルの間で変動したと考えられている)、最深は1025メートル。平均水深は187メートル。島を含まない岸全長は約6700キロで、ロシア(沿岸の長さ695キロ)、アゼルバイジャン(同955キロ)、イラン(同724キロ)、トルクメニスタン(同1200キロ)、カザフスタン(同2320キロ)に囲まれている。面積は37万平方キロで日本よりわずかに小さい。
 沿岸のロシアの分の695キロはアストラハン州、カルムィク(カルムィキア)共和国、ダゲスタン共和国が占めるが、ダゲスタンが約400キロと最も長い。
 
1.アンディ・コイスー川(グルジアから
流れるてくるトゥシン・アラザニ川が源流)
2.アヴァール・コイスー川 
3.チルケイスコエダム湖> 
 ダゲスタン共和国はカスピ海に沿った南北に細長い国とも言えて、南と北の半分ずつに自然地形から分けることができそうだ。そうすると北部は沿カスピ低地帯・乾燥地方で、南部は狭い海岸線がある山岳地方(カフカース山脈北麓。アンディ山脈東麓)となる。南のアゼルバイジャンとの国境近くをカフカース山脈からサムール川 Самурが流れカスピ海に注ぐ。同じくカフカース山脈が水源のスラーク川 Сулак(後述)は山岳地帯からの多くの支流を集め、南部山地を出て、北部低地でカスピ海に注ぐ(スラーク川下流は東西に流れ、ダゲスタンを南北に分ける境のようだ)。だから、このサム―ル川流域とスラーク川流域の間を『内地ダゲスタン』と呼んでいいかもしれない。
 ハサヴユルト(14万人)、キジルユルト(5万人弱)、マハチカラ(首都で73万人)などのかつてロシア帝国がカフカース征服のための砦として築いた集落からできた都市が、北の低地と、南の山麓・平野地帯の境目にほぼ東西に並んでいる。ちなみにダゲスタンの都市はこの山麓(南部・内地)にあるか、南部の海岸線(デルベント市など)にある。山岳地帯のサムール川やスラーク川支流の作る多くの峡谷にも集落は多いがそれらは村だ。
 
 テレク川南とスラーク川沿岸
歴史的にはクムィク平地
現テレク・スラーク低地
(南部)。拡大地図は左下

 例外はキズリャル Кизляр市で北部低地のテレク川下流にある。ここは、中世ハザール国の首都だったかもかもしれないといわれている古い町だ。16世紀、ロシア帝国が、ペルシャ領に膨張するために、カスピ海への出口として築こうとした砦からできた。カフカースにおけるロシア帝国(当時はロシア・ツァーリ国)基地の最初期の一つだったが、何度も襲撃され、破壊された。19世紀初めには移住を奨励されたアルメニア人やグルジア人のほか、イスラムからロシア正教に改宗したカバルダ人、オセチア人などが住み、2500人程度の要塞都市となった、とウィキペディアヤにはある。19世紀には北東カフカースにおけるロシアの出窓とまでなっている。現在もロシア人(かつてのテレク・コサックの子孫かその入れ替わり)が41%と多く、アヴァール人やダルギン人などカフカース系が35%、チュルク系のクムィク人が6%住んでいる。
 
 チェチェン(白)とダゲスタン中部
1.グローズヌィ 2.アルグーン 3.ジャルカ 4.グデルメス
5.シャリー 6.キズリャール 7.ハサヴユルト 
8.キジルユルト  9.ミアトリ 10.ドゥプキ 11.チルケイ 
 ダゲスタンはロシア連邦の中でも最も多民族の共和国だ。共和国公式言語はロシア語の他にダゲスタンのすべても民族の言語となっている。それらの言語のうち14民族語だけが文字を持つ。他は無文字言語だ。基本的に話されている言語は、75%が北東カフカース語のナフ・ダゲスタン語派(下記の1,2,3を含む)で、20%がテュルク語派、スラブ系は5%だ。
 タゲスタンの言語は大雑把に言って;
1)最も南のアゼルバイジャンに接した山岳地帯やデルベントにはレズギン系 Лезгинские народы(ダゲスタン全体で13%の人口割合)が住み、
2)その北の山岳地帯東部および中部にはラクス系 Лакцы, ダルギン系 Даргинские народы(同23%)。
3)チェチェンに接した山岳地帯西部にはアヴァール系 Аваро-андо-цезские народы(同30%)、
4)中部山麓の平野や首都のマハチカラ周辺、カスピ海岸、スラーク川やテレク川の下流にはクムィク Кумыки人(同14%。クムィク人はその歴史的な地で民族少数派となっている)やロシア人(同5%、かつてのテレク・コサックを含む)、アヴァール人などで、多民族が住む。
5)より北の草原荒野にはノガイ人(チュルク系、モンゴルのキプチャック・ハン国の後継国家で、15世紀から1634年まであったノガイ・ハン国の主要民族だった)が住む。

 歴史的に言えば、北の草原低地地方(ノガイ人が住む)を除くダゲスタン『内地』とテレク川下流までは、中世から近代にかけて現在のダゲスタンの一部を支配した諸侯国の名でよばれていた。
 ちなみに、アゼルバイジャンとの国境の北緯41°10'はロシア連邦南端に当たる(クリミヤ半島を領有したとしてもだ。クリミア半島南端は44°30'だから。) 
 ロシア連邦のムスリム人口は、ダゲスタン共和国内が最も多い。1996年で1670のモスクがあり、ロシア正教の教会は7、修道院は1、ユダヤ教会は4だ。ロシアで最も大きい(2019年初めまで)モスクはマハチカラにあって、Центральная Джума-мечеть Махачкалы или ≪Юсуф Бей Джами≫ と言う。
 ハサヴユルト
 ダゲスタン領に入ると10キロも行かないうちにハサヴユルト Хасавюрт市に入る。
 19世紀前半のカフカース戦争の頃ロシア軍の前線の砦の一つとし ヤルィクス川(*)アクタシ川 Акташ(156キロ。スラーク川に合流)辺にでき、のちに、その地名はクムィクの候 ハサフ(**)の名から名づけられた。これはチェチェン人の襲撃からクムィク人の集落を防御するための砦として、ハサフ侯が築いたからだ。現在人口13万人でダゲスタンでは首都のマハチカラ(人口60万人)に次いで2位。20世紀初めはロシア人が50%以上、クムィク人が33%、山岳ユダヤ人が6%だったが、現在は、ロシア人は2%、アヴァール人とチェチェン人とクムィク人がそれぞれ30%弱(*ダゲスタンの民族については前記)。
 カフカースはどこもあまり『治安』はよくない。チェチェン人とラク人(***)との民族紛争もあった。(ヴェブサイトによるとダゲスタンではたびたびテロが起きている。それに対して、チェチェンでは比較的少ない。なぜなら、チェチェンには厳重な治安監視部隊がいるからだ、そうだ)
(*)ヤルィクス川 Ярыксу、80キロ、チェチェン東山地に発してアクタシ川に合流。
(**)ハサフ侯 Хасав 親ロシアでカフカース戦争の将軍エルモーロフの戦友だったとか。
(***)ラク人 東北カフカースの先住民の一つで、多くのラク人は山岳地帯中央部にすむ。全人口は20万人弱、ダゲスタンに16万人、現在ハサヴユルトには3%で、2%のロシア人よりわずかに多い。
ハサヴユルト市
バラックのようなバザールの屋根が
橋の上から見える
箱を持って立つ女の子
アンディ山脈に向かった道路で
見えてきたモスク
モスクの敷地内。左がモスク(礼拝堂)
右が洗い場
女性用入り口の間
 ハサヴユルトには、前記のようにカフカースの支脈アンディ山脈からのヤルィクス川 と アクタシ川 が流れている。ヤルィクス川の源流はチェチェンにあってアクタシュ川の左岸支流だ。
 チェチェンとの国境から続く広い連邦道でハサヴユルトに入ると、道幅が急に狭くなり、両脇は一層ごみごみする。両側に建物(倉庫と言いたいくらい)が立ち並び、その前に車が止まっていて狭い道路を一層狭くし、車は動かなくなる。のろのろと走って、市の中心に向かうとまず、ヤルィクス川にかかる橋がある。この近辺は市場・バザールになっていて、橋の上から見るとバラックのような店の屋根が不ぞろいに並んでいるのが見渡せる。つまり、橋の下の河原までバザールがはみ出している。
 ハサヴユルトと言えば、1996年ロシア連邦軍のレーヴェヂ将軍と、チェチェン・イチケリア共和国大統領のマスハード Аслан Масхадовがハサヴユルト条約を結んで、第1次チェチェン戦争をいったんは終わらせことで有名な地名だ。条約ではチェチェンの独立は5年後に決めようと言うことになった。平和になったものの、戦場になっていたチェチェンは復興できなかった(ロシア連邦政府の妨害が原因だ)。

 なかなか先へ進まない道の真ん中には泣きそうな顔のジプシー(?)の女の子が箱を持って立っていた。悲しそうな顔は演技にしろ、箱に入れられた小銭は親(か、または親方、かなりのお金持ちかも)が取ってしまうにしろ、そして私は道端では恵まないことにしているにしろ、こんなところに立っている女の子がやはりかわいそうで、小銭を入れようとカバンを開けかけたところで、車は出てしまった。ここでちょっと待って、などと言えば後ろの車からうるさく鳴らされそうだ。

 ハサヴユルトの通りはそれでも20分ほどで通り過ぎ、ダゲスタンにもやはりある交通警察の横を超低速で通りすぎ、連邦道を出て南へ曲がる道に入る。前方に山が見え始める。12時半になっていて、マディーナは食事をすることにした。田舎の食堂は開いていないこともあるが、2軒目の食べ物屋(クリナリヤという)ではそこで注文した軽食を食べる場所イートインがあった。大抵の客はテイクアウトだが、狭くて暗い階段をお盆にのせたパイのような昼食を持って上がると、右側の薄暗がりの中にテーブルが1台あった。小さな電球をつけると少し明るくなる。ここは窓がないが、階段の左側には窓のある小さな部屋と低いテーブルがあって数人の男性たちが食事をしていた。部屋の前には数足の長靴が脱いである。じゅうたんが敷いてあって土足禁止の部屋かな。
 マディーナが狭い階段を上って持ってきてくれたパイのような食事は、おいしかったのかもしれないが、場所がこんなであまり食欲はわかなかった。外へ出て、トイレの場所をマディーナに聞く。わがままな私は「道のトイレ」はダメだと断る。ロシアで道のトイレと言えば、足の踏み場もなく、落すべき穴も満杯でドアを閉めると真っ暗だ。マディーナは少し待ってと言う。10分も車で走ると村のモスクが見えた。モスクがあればそこに清潔なトイレもある。モスクに清潔なトイレがあるのは、モスクに入りお祈りをする前に清めなければならないからだ(禊と言う神道に似ていなくもない)。汚れた手足で祈ってならない。頭や、もしかして全身を清めなくてはならないのかもしれない。だからトイレには、普通に手を洗う台ばかりではなく、もっと低い流し台と座れる台もある。後のことになるが、手足の他に、頭部のどこに象徴的に水をつければいいかなどマディーナに教えてもらった。
 モスクがあったのでトゥルパルはお祈りをしたそうだ。こんな田舎でも立派なモスクの中を見たいものだ。トゥルパルが女性はダメだと言う。だが、土地の女性が入っていくのが見えた。それで、ネッカチーフを頭に巻いてマディーナと女性用入り口から入った。元々は男性用のみに作られたのか、モザイク模様の美しい内部の一部を緑のカーテンで仕切ってあって、そこから2階の女性用の祈りの場所に上る階段があった。カーテンはモスクの内部の美しさにそぐわない粗末なものだった。マディーナは、モスクはどこも同じだから、わざわざくつをぬいで2階まであがることはないと言ったので、引き上げる。
追記:あとから地図などで調べてわかったことだが、その村はミアトリ Миатлиと言って、キズルユルトから25キロ南で、4800人ほどのアヴァール人が住む。2000年ほど前の遺跡もあるそうだ。ミアトリというのはチュルク語で『1000人の騎士』という意味。ミアトリは低地と山地の間にあって、いつの時代でも軍隊の通り道だった。カフカース戦争の1840年レールモントフも訪れて『スラーク川渡航』というスケッチを残した。
 
 またミアトリ村には当時、庭に深い穴のある屋敷があって、その穴にイスラムの慣習を犯した者や捕虜を捕らえておいた。ここに、1853年頃ロシア軍将校と兵士が捕虜になっていた。が、脱走に成功して、その体験談が地方新聞に掲載された。その当時ハサヴユルトにいたレフ・トルストイはその記事を読んで『カフカースのとりこ』(翻訳あり)という中編を書いたのだ、と言う説がある。虜になったジーリンとコスチリンを『タタール人』の少女が助ける。トルストイは児童向けの本ではカフカースの民族はすべて『タタール』としている。もちろんこれは正しくはない。https://welcomedagestan.ru/dagestan/kizilyurtovskij/miatli/?type=info

 その村から、道はヘヤピンカーブになり、薄雪が積もっていて、車窓から眼下のスラーク川が見下ろせた。それだけでも十分にスラーク峡谷だった。そんな道を5分も行ったところでドゥプキ Дубки(マハチカラ市からだと80キロ、人口5400人、76%がアヴァール人)と掲示された村にはいる。ドゥプキはチルケイスカヤ発電所 Чиркейская ГЭСとそのダムを作るためにできた町だった。
 水資源の宝庫スラーク川
 スラーク川はダゲスタン南に聳えるカフカース山脈(の支脈のアンディ山脈)から流れてくる多くの支流を集めて北上し、沿カスピ低地前で東に曲がってカスピ海に注ぐ延長336キロ(?)の川で、ダゲスタンでは水資源として大規模に利用されている。延長336キロと言っても、スラーク川はグルジア領カフカース山中から流れてくる144キロのアンディ・コイスー川(*) と、アゼルバイジャンとの国境になっているダゲスタン領カフカース山脈から流れてくる178キロの アヴァール・コイスー川 Аварский Койсуが合流して、スレーク川になるので、合流点からは169キロだ。336キロと言うのはアンディ・コイスーの水源からの全長になる。(コイスーと言うのは近世ダゲスタンで優勢だったクムィク語(チュルク系)で『雌羊の水』の意)
ドゥプキ町の正面入口
ドゥプキ町の中心広場か。レーニン像
(*)アンディ・コイスー川 Андийский Койсу 標高3000メートル以上の水源から流れるトゥシン・アラザニ川 Тушинская Алазань 48キロが、アンディ・コイスーの右岸源流で、その源流を含めるとアンディ・コイス―は192キロとなる。スラークの全長はトゥシン・アラザニ川を加えて361キロだし、加えないと313キロだ。
 水資源としてソヴィェト時代にはスレーク川に大小7基の発電所が建設され、右岸源流のアヴァール・コイスーにも4基の大小の発電所が作られている。スレーク川は山川なので峡谷を作って流れる。せき止めてダムを作るのに有利な地形なので、ソ連時代にいくつも発電所とダムができた。スレーク水系に作られた一連の発電所とダム湖は『スレーク・カスカード・連続滝』と呼ばれている。最も大規模なものが前記チルケイスカヤ発電所だ。発電所から5キロにあるのが、私たちが到着したドゥプキ町だ。1960年代から発電所とダムの工事が始まり、働く人のためにできたのがドゥプキで1973年には町となり、完成後、町民は発電所関係で働いている。発電所、鉄道、資源採掘などのため僻地に町を作りそこに働く人たちを住まわせ、完成後はその発電所、駅、採掘所などで働く人たちの町となる、と言った出来方をした集落は多い。
 デュプキと書かれた町の入り口に立つ道標に到着したのは、3時半過ぎで、先ほどのモスクから10分ほど行ったところだった。労働者のために計画的にできた、たぶん当初は整然とした街だったろうが、今、周りの自然が美しいだけにぞっとするほど寂れている、という印象の町だった。
 1979年は7000人ほどいたが、人口は年々減っている。町というカテゴリーなので5階建てのアパートも建てられている。(ソ連時代から、村の建築は木造2階建までで、町以上では5階建てのアパートが国営で建てられていた)
 デュマも通ったスラーク峡谷
スラーク峡谷。『危険な岩の出っ張り』らしいところへ降りて行くマディーナとトゥルパル。対岸にある集落は新チルケイ村か
見晴らし台
戻ってきたマディーナと
 キャニオン・スラークはダゲスタンでは観光名所の一つだ。スラーク川は前記のように山川なので、長さ54キロの峡谷群を作って流れる。それぞれの峡谷はそれぞれの特徴があるそうだ。『最もツーリストを集めている峡谷は長さが18キロもあり、深さが1900m以上、幅は3.5キロしかない。近くのドゥプキ町には安全で快適な見晴らし台が最近設置された、ドゥプキ町には清潔な宿もある・・・』と旅行会社のヴェブサイトに載っている。帰国後に読んだこのサイトの後半は嘘っぱちだ。別の、より良心的な旅行会社のサイトには、
『警告:ここには多くのツーリストが訪れ、この驚くべきキャニオンの印象は長く残るだろう。しかしここは、ダゲスタンでも最も危険な場所の一つだ。険しく高い絶壁、鋭い岩、強風、おまけにいかなる安全設備もない。手すりもない。死亡事故も起きている。そこにはツーリストのための安全な見晴らし台もなく、あるのはただ自然の岩の出っ張りだけである。そこへ出るには運動能力を持った人に限られる。さらに、付近にはごみが散らかっている。ツーリストはプラごみなどをキャニオンに投げ捨てている。ちかくにごみばこもないからだ。掃除をしているのは、強風と雨だけである。ここには旅行者のためのインフラは全くない』とある。
 しかし、これを読んだのは帰国後だ。キャニオンについては、マディーナばかりか、グローズヌィの旅行会社からの車の運転手のアスランもよく知らなかったらしい。というのも、ドゥプキ町に着いてから、見晴らし台もあるに違いないと探し回ったからだ。ひびわれた道路を進んでいく。通りがかりの人を見つけて聞いてみる。
「少し行って左折すると出る」と、一応教えてくれる。左折すると、たとえ、ひび割れていてもアスファルト舗装はなく、狭い道だ。行き止まりだったので、また戻って次の道を左折する。もう一度、めったに通らない通行人に聞いてみる。結局は絶壁には出られた。最深は1920メートルで長さが18キロと言うキャニオン・スレーク(の一つ)だ。ここが見晴らし台らしいと言うところは、裏庭のようなところで、確かにごみも落ちていた。他に見晴らし台と言うところはないらしい。と言うより、崖っぷちに出ればどこからも見晴らせる。
 絶壁の上に立って、下を眺めているだけではつまらないのか、若いマディーナとトゥルパルは下へ降りて行った。そこが、『危険な岩の出っ張り』と言うところらしい。10メートルくらいは、この小路を伝って真下に降りられる。するともっと素晴らしい景観が開けるのかもしれない。私でも上り下りできそうな小路だったが、パスして、上で運転手のアスランと待っていた。アスランと二人きりになるのはちょうどよいと、このツアーの値段を聞いてみた。少し口ごもって「1万ルーブル(約18000円)」と言う。高めの値段だったかもしれないが、ためらいなく私は彼に5千ルーブル紙幣を2枚差し出した。彼は受け取りを拒否する。マディーナが支払うことになっていると言う。それでも無理に受け取ってもらった。
 グローズヌィからはるばるとやってきたキャニオン・スラークだが15分ぐらいで引き上げた。もっと良い見晴らし台があるかもと、町の中を探し回った。町の中央にはレーニンの立つ広場がある。隣の店から出てくる女性に聞いてもわからない。隣の広場にはレーニンの横顔レリーフもある。たぶんこの村と発電所の由来を書いた説明版もある。こんな町の中央広場を歩いて崖の方へ行けば、多少はましな観光用の見晴らし台でもありそうだと思ったが、ここから崖までは出られないと言われた。
 寂れたドゥプキ町の裏庭のような所でしか、キャニオンはどうしても見晴らせないらしいと分かったのだ。

ロシア語版
アレクサンドル・デュマ
『カフカース』
トビリシ市1988年版
初版は1861年
 ちなみに、『モンテ・クリスト伯』や『三銃士』を書いたフランスの作家アレクサンドル・デュマ・ペールは1858年から1959年にかけて3か月間、カフカースを訪れている。紀行文も書いていて、日本語訳も出版されていたが、絶版らしく、今は全く手に入らない。しかし、ロシア語訳ならヴェブサイトで読むことができる(フランス語を私は知らない)。デュマは、ロシア帝国の砦のあったキズリャール Кизляр(上記。沿カスピ海低地にある)から始め、古代から栄えていたデルベント Дербент、バクー、グルジアへ行き、さらに、当時通じていたグルジア軍用道路を通って、グルジアの首都トビリシからウラジカフカースへの往復を試みたが、途中で積雪のため引き返し、またグルジアの貴族と合流し、黒海のポチ Поти港から去ったようだ。途中で、キャニオン・スレークも訪れた。次のように書いている(訳はこのHP作者)。
『…私たちはやっと最後の丘を上り詰めた。そこでは、自分の乗っている馬を前に進ませることができないくらいだった。足の下に地面がないかのようだったからだ。先のとがった岩が7000フィートに渡って突き出ていた。私は、目が廻らないよう急いだ。自分の足の下に地面があってそこに立っていると感じられるように。しかし、足の下と言うのはまだ不足だ。私は地面に腹ばいになって両手で目を塞いだ。恐怖とはどんなものか、恐怖のためにどうなるかを理解するために、その説明のできないようなめまいを感じる必要がある。私の神経は震えた。大地の心臓の鼓動に溶け込むかのようだった。大地は生きているかのように動き、私の下で鼓動していた。事実、その鼓動は私の心臓の鼓動のようだ...』
とある。ということは、デュマの時代の方が、ごみもなかったしソ連時代の安普請のアパートもなく、峡谷らしかったと言うことだ。
 デュマはアルメニア以外は全カフカースを踏破したと、ロシア語訳出版社(編集者)の前書きには書いてある。デュマはもちろんロシア側(一応西側)の視点からカフカースを見ているが、そこが現代から見ると興味深い。デュマは1858年と言うカフカース戦争(1817‐1864、シャミールは1859年に投降した)がまたそれほど収まらない時期に旅をしている。キズリャールから始めたのも、そこがロシアに最も近く、南ロシアではキエフ、アストラハンに次ぐ大きな政治的経済的中心地であり、19世紀の北カフカースの中心であり、カフカースではトビリシに次ぐ人口だったからだ。そのキズリャールには当時、ロシア人とアルメニア人が大部分だった。現代でも半数近くがロシア人だ。
 デュマだけではなくトルストイも、ほぼ同時代に訪れている。レールモントフもだ。キズリャールは、現代のダゲスタンの首都マハチカラから140キロも北のテレク川(旧テレク)岸にあり、テレク左岸はチェチェンだ。
 デュマはキズリャールに到着して数日後、テレクを渡って宿場シェルコーヴァヤ Шерковая(現 Шерковская、しかし、ロシア語を知らないデュマは、誤ってシュコーヴァヤ Шуковаяと書いている)に泊まり、そこから15キロ離れたチェルヴレンノイ(そこに美人がいたとか)と言う村に行っているが、その途中にアブレキー(山匪・反ロシアのゲリラ)に襲われている。デュマ一行はもちろん武装コサックやロシア将校に護衛されているから、撃退した。
ロシア語版が無料で読めるサイト;
https://libking.ru/books/prose-/prose-classic/554620-aleksandr-dyuma-kavkaz.html#book
https://www.e-reading.club/book.php?book=1038317
(追記:ロシアを知るためにはシベリアや極東や北部だけではなく、カフカースにも行ってみなくてはならない。行くだけではなく、レールモントフなども読むと、もっと納得がいく、と思う)
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