クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 02 September, 2019 (追記・校正: 2019年10月20日、2020年6月2日、2022年2月2日)
37- (6-2)  2019年 コミ共和国とチェチェン共和国 (6-2)
    追記・チェチェン略史
        

Путешествие по республике Коми и Чечне, 2019 года (18.02.2019−06.03.2019)
   ロシア語のカフカースКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スと聞こえる。英語読みはカフカースCaucasus

     コミ共和国スィクティフカル市へコミ共和国スィクティフカル市へ 2月18日から2月26日 (地図)
1 2/18-2/19 旅行計画 長い1日 ガリーナさん宅へ 複線型中等教育ギムナジウム
2 2/20 アンジェリカさんの祖先のコサック コミ文化会館 コミ・ペルム方言 歴史的地名インゲルマンディア
3 2/21-2/22 博物館。そばスプラウト・サラダ 図書館、連邦会議議員 ウードル地方ィヨルトム村へ ィヨルトム着 水洗トイレ付き住宅
4 2/23-2/26 クィトシヤス祭 ザハロフ家 橇で滑る プロシャーク記者 コミからチェチェンへ
     チェチェン共和国グローズヌィ市へ 3月26日から3月5日まで   (地図、チェチェン略史)  
5 2/26-2/27 グローズヌィ着 マディーナ宅 マディーナと夕べ カディロフ博物館 トゥルパルとテレク川へ アーダムと夕食
6 2/28-3/1 グローズヌィ市内見物 野外民俗博ドンディ・ユルト(地図) チェチェン略史 マディーナのオセチア観 アルグーン峡谷へ ヤルディ・マルディの戦い ニハロイ大滝
7 3/1 歴史的なイトゥム・カリ区、今は国境地帯(地図) イトゥム・カリ村 タズビチ・ゲスト・ハウス ハンカラ基地(地図) 妹ハーヴァ
8 3/2 ジャルカ村のボス グデリメスとクムィク人 カスピ海のダゲスタン(地図) ハサヴユルト市 水資源の宝庫スラーク川 デュマも通ったスレーク峡谷
9 3/2-3/3 チルケイスカヤ・ダム湖 新道を通って帰宅(地図) イングーシ共和国ジェイラフ区には行けない(地図) 大氏族ベノイ、旧ツェンタロイ村 山奥のベノイ村 チェチェン女性と英雄、主権国家
10 3/3-3/6 地表から消された村 英雄エルモロフ像 国立図書館 いとこのマリーカ トルストイ・ユルタの豪宅 チェチェン飛行場

カバルダ・バルカル共和国 Кабардино-Балкарская республика はチェチェン西にあるロシア連邦の主体。カバルダ人(複数ではカバルディネツ кабардинейц、単数では カバルデンツィКабардинцы )とバルカル Балкарцы人が主に住む。日本語ウェキペディアの表記にあわせて、カバルダ地方、カバルダ国、カバルダ人、カバルダ語、とする。

チェチェン略史
カフカース諸言語 先史時代   中世  宗教 近世  カフカース戦争  ソ連崩壊まで  第1次と第2次チェチェン戦争 
 カフカース諸言語(前ページと重複するが)カフカース地図
 カフカースで話されている諸言語は、印欧語族・テュルク語系・セミ語系を除くと、以下の3つの諸語が1つの語族を成すと言う仮説がある(イベロ・カフカース語族仮説)。また北東カフカース語族と北西カフカース語族とのあいだには、系統的な関係がある(数千年前に共通祖先から別れた)とする北カフカース語族仮説も有力である。
 
 カフカース諸語を含むカフカースで
話されている言語(拡大地図はウィキで検索)
 ■アブハズ・アディゲ諸語(仮説北西カフカース語族、約5言語)
 ■カルトベリ諸語(仮説南カフカース語族、グルジアなど、約5言語)
 ■ナフ・ダゲスタン諸語(仮説北東カフカース語族、約48言語。話し手は約600万人、紀元前3千年紀末に諸言語派に分かれたとされる。その諸言語とは;
  ●ナフ語派(*)
     ・ヴァイナフ語
        ・チェチェン語
        ・イングーシ語
        ・ガランチョージ方言(***
     ・バツビイ語(**
  ●アヴァル・アンディ・ツェズ諸語(約21言語)
  ●ラク語(1言語)
  ●ダルギン諸語(約18言語)
  ●レズギン諸語(約10言語)
  ●他  

 (*)ナフ民族 ロシア帝国時代、およびソ連時代の初期、アッキ(現在はタゲスタンに住む)、バツビィ(上記言語表参照)、イングーシ(自称ガルガイ)、キスチィ(チェチェンとの国境付近のグルジアに住む)、オルストホイ Орстхойё(現在のイングーシとチェチェンにまたがるスンジャ川流域、支流のアッサ川、フォンタンカ川上流が故郷)、チェチェン(自称ノフチィ)などと居住地の地名などで呼ばれていた氏族または部族を、現在のカフカス学ではナフ民族(ナフ語の話し手と同じ)と呼ぶ。ヴァイナフ語とは『我らが人』の意。
  (**)バツビイ
Байбийцы 、ツォヴォ・トゥシン Цово Тушинとも言う。話し手は3000人(2017年)。無文字言語。16世紀イングーシのジェイラフのエルジ村からの移民(山岳イングーシ)。ナフ民族では唯一の正教徒
  (***)ナフ語の方言 ガランチョージ方言のほかいくつかの方言。グルジア山中のキスティン人の方言 キスティン人
Кистинцйとはグルジア北東の アラザニ川上流のパンキス峡谷に住むチェチェン人。キスティンとは古い意味でグルジアや特に北東グルジアにおいてはナフ民族全体を指した。15000人。チェチェン語のキスティン方言を話す。1840−1850年、アルグン川最上流のカフカース山中のマイスタやマルヒスタ氏族などがミャミールのイスラーム軍から逃れて、指導者ジョコーラに率いられてパンキス峡谷に移住した。

 狭いカフカースにこれだけ多くの言語(民族)があり(*)、それらが周りのより大きな勢力に同化されず(地形が厳しいからか)、祖先からの伝統文化や言語をかなりの程度保持して現在に至っているということからも、カフカース学は難しい。カフカース山中の孤立した峡谷で話されているような言語の話し手は、事実、古代王国の生き残りかも知れない。例えば、レズギン語の一派のウディ語は古代カフカース・アルバニア王国(**)の主な言語のアグバン語 агванский язык(死語)の直系であるとは広く認められている。
(*)多くの言語 ストラボン(『地理誌』を書いた紀元前1世紀のギリシャ人)はカフカースには70言語をしゃべる70民族がいると延べている。アラブ人達は、その壁(カフカス山脈の山壁のこと)に先史の民族移動の跡を残すこの巨大な岩塊の地を、諸言語の山とよんだ。この言語の多様性は、自然の障害によって切り離され、地勢によって分割された種族住民の細分化を反映している、と言う。 
(**)カフカース・アルバニア王国
 クラー川周辺の現在のアゼルバイジャン、グルジア、ダゲスタンに紀元前3世紀頃から紀元後4世紀頃栄えた。首都はデルベント。ちなみに、4世紀初めにはキリスト教を国教とした.バルカン半島の現代のアルバニアとは無縁
 古代・中世に征服されたり移動を余儀なくされたり、近世になって離散したなどで、今は人口も少なく、弱小と言われてしまっている多くの『カフカース先住』と言いう民族(印欧語系でもチュルク語系でもない)は、かつて、自分たちの先祖はアッシリア時代には強力で、旧約聖書にも出てくるxxx国を築いたとか、自分たちの祖先はシュメール人だったとか、エジプト文明を築いたのは自分たちの祖先(コルキスのアバザ人、アブハジア人)だとか、自分たちはウラルトウ(*****)や、ハッティ (***)の子孫だとか、ナフ・ダゲスタン祖語はフリル語(****)との共通点があるとか、を述べた自国の歴史書(試行とは断られているが)が見かけられるようになった。支持されている仮説も多い
 (***ハッティ Хатты) アナトリア半島中央部から東部の領域に前2500−2000/1700年に居住していた古代の民族。アナトリア半島はかつては『ハッティの地』と呼ばれた(アナトリア半島中央部を意味する最も古い表現)。非印欧語族の言語を話していたと推定される。後に印欧語族のヒッタイト人に同化されていった。以降はもっぱらヒッタイト人たちが「ハッティの土地」と結びつけられるようになった。ヒッタイトが移動してくるまではアナトリア半島は非印欧語だけを話していたのか、ルヴィ語(印欧語族アナトリア語派)などもハッティ語とともに話されていたのか。北西カフカース語がハッティ語に通じるという仮説は有力。
 (****フリル Хурриты人)は紀元前25世紀頃から記録に登場する。紀元前2400年頃までにはカフカース山麓から拡大していったとみられる(ここで、チェチェン寄りの説では、そのカフカース山麓とはまさに、チェチェン・イングーシだとする)。アッカド帝国(前2334−2050)の終焉によってハブール川(486キロ、ユーフラテス川の左岸支流)流域は1000年にわたって、フルリ人中心の地域となった。北メソポタミアや歴史的シリアの至る所で小国を形成。最も有力だったのはミタンニ王国(前1500年から前1300年)。紀元前13世紀、ハブール川流域はアッシリア(中アッシリアがミタンニから独立したのが前1365から、アラム語を公式言語とする新アッシリが新バビロニアによって滅の625年頃まで)の州となって、フリル語話し手はアラム語話し手などに吸収されたが、アナトリア東部のヴァン湖付近にフルリ・ウラルトゥ語族の話し手がウラルトゥ王国を建設。下記のように、フリル語とナフ・ダゲスタン語の関係は多くのカフカス学者から認められている。
 (*****ウラルトゥ Урарту王国)  紀元前9世紀ごろから紀元前585年までアルメニア高原ヴァン湖周辺を中心にメソポタミア北部からカフカース南部に種族連合として存在。当時の中近東の大勢力。全盛時は現在のトルコ東南部、イラン西北部のウルミエ湖、アゼルバイジャン西部、グルジア南部、全アルメニアが領土だった。
 
 ウラルトゥ国 紀元前745年の最大領土(ウィキから)
 
 大アルメニア、前95年の最大領土(ウィキから)
黄色のカッパドキアとユダヤ王国は1次的な領土
 しかし、北からはスキタイ人の攻撃で、最終的にはメディア Мидия (後にアケメネス朝ペルシャに取って代わられる)の攻撃で滅び、ウラルトゥ国の当時高度な文化は減退し、都市文化は消滅した。しかし、ウラルトゥの故地は、前530年アケメネス朝のサラトピア(ペルシャの州で、その長官の太守はサラトップ)の一つであるアルメニア州となり前330年まで存続。前330年アルメニア・サラトップは独立してアルメニア・アイラルト王国 Армянское Айрартское царствоとして前200年まで存続。次いで、大アルメニア王国が前190年から後428年まで約600年間存続した。
 だから、むしろ、現代のアルメニア人(印欧語族アルメニア語派アルメニア語)の祖先がアルメニア高原にあったウラルトゥ国の担い手だったと、アルメニアの歴史家は言う。しかし、ウラルトゥの住民(支配者)は印欧語ではないフリル・ウラルトゥ語の話し手だった。ウラルトゥは種族連合で、青銅器時代バルカン半島からアナトリアに移住してきた今は死語のルヴィ語の話し手や、古アルメニア語(アルメニア仮説では、アルメニア祖語がその地で紀元前3千年に生まれたインド・ヨーロッパ祖語の発展形であると推測する、つまり、アルメニア語が印欧語の中では最も古い一つ)を話していたアルメニア高原の原住民、セミ語の話し手たちがウラルトゥを作っていた。
 古典アルメニア語にはウラルトゥ語からの借用が多い。長期にわたって平行して用いられていた、と言う仮設が有力。だから、アルメニア高原にあったウラルトゥと現在のアルメニア国の関係は直接的ではない。(ここで、チェチェン寄りの説では、ウラルトゥ語に一番近い現代語はチェチェン・イングーシ語だとする) 。
 チェチェン寄りの仮設では、北東カフカースには1万年から8千年以上前から人類、それはカフカスでは最も古いチェチェン・イングーシ人の祖先が住んでいた、その言語はフリル語やウラルトゥ語に近かった(前記)。つまり、メソポタミア北部と関係があったとしている。メソポタミア文明の遠い後継者というわけだ。紀元前4千年紀から紀元前千年紀にかけて北メソポタミアで多くの国や都市をつくったフリル人は北カフカース(のチェチェン・イングーシ)出身なのだからという。
 
 バイナフ(チェチェン、イングーシ)の歴史は北カフカースの民族の中でも最も研究が遅れていると言われている。19世紀のカフカース戦争でロシア帝国軍によって多く遺跡は破壊されただろうし、スターリン時代の(民族として絶滅を狙った)強制移住でさらに消されたからだという。1994年からのチェチェン戦争でも、破壊・消滅された。以下、ウィキペディアの記事やグローズヌイで購入の『チェチェンの歴史(チェチェン・アカデーミア編)』などの書籍を参考に;
  北カフカースの先史時代
 考古学的には、旧石器時代中期のいわゆる旧人のムスチエ文化(8万年から3万5千年前)の遺跡がダゲスタンやチェチェン山岳地方(ホイカゼノイマカジョイ、ヴェデノなど)にある。
 旧石器後期では、4万年ほど前のチェチェン南東のカゼノイアム湖周辺の洞窟画や住居跡などの遺跡がある。現代のカフカース人の遠い祖先は1万年以上も前からカフカースに住んでいた。つまり、チェチェン人はカフカース原住民が核になってできというわけだ。
 中石器時代の1万年ほど前からは、弓矢の使用、初期の農耕牧畜が始まり、現代の『主要な』言語族(主要な、と言っても印欧語などのこと)が生まれた。その元の言語が分かれた場所がカフカース(印欧語族の源郷)だと言う古くからの仮説がある。『コーカソイド』と言う歴史的人種分類概念が生まれたくらいだ。(ウィキペディアによると、印欧語族の源郷は『クルガン仮説』では南ロシア、『アナトリア仮説』ではアナトリア半島)。この時代、北東カフカース、カスピ海西南部やイラン北によく似た遺跡が多い。その中でよく調査されているのが紀元前6千年のチョフ文化 Чохская культурар。カフカース山岳地帯は平野部より早く中石器(金石併用)時代がきたという説がある。
 新石器時代もチョフ文化の住居跡がダゲスタン、チェチェンの山麓に多くある。ちなみに、言語年代学の方法によれば、北カフカース語族が東西に分裂したのは紀元前6千年紀で、そのころには古ナフ・ダゲスタン語を話すグループが形作られていた。上記のように、北東カフカース語族はフリル・ウラルトゥ語に属し、北西カフカース語族はハッティ語に属する。同じく、北東カフカース語族がナフ語とダゲスタン語に分かれたのは紀元前3千年紀とされる。つまりフリル語が北東カフカース語から分かれていったのは、紀元前4千年紀より遅くはない(すべて仮説、しかし有力という)。
 金石併用時代は中東で紀元前7千年紀から6千年紀に始まったが、その2千年後にはカフカース地方が冶金(銅や青銅)の中心地の一つとなった。北カフカースにあるこの時代の多くの古墳から青銅の製品が発掘されている。
 青銅器時代、紀元前4千年紀から3千年記のマイコップ文化の遺跡が北西カフカースに多い。マイコップ文化の担い手は現在のアブハジア・アバジン人の祖先とカフカス学者は見なしている(と言うことは、後のハッティ語を話すグループが北西カフカース語族から分離したのか。上記)。マイコップ文化は南へ向かって普及し、同じ頃、カフカース全体、特にカフカース山脈南やイラン北西やトルコ東にあったクロ・アラクスカヤ文化 Куро-араксская культураは北へ向かって普及した。カフカース山岳地方では両文化が混合した文化も見られる。つまり、その両文化 の境界が、チェチェン、イングーシやオセチアだった。チェチェンには両文化の遺跡、遺物(土器)が発掘されている。クロ・アラクスカヤ文化の担い手はフリル人と見なされているので、前記のように、北東カフカース語族がナフ語とダゲスタン語に別れたのは青銅器時代中期の紀元前3千年記だろう。クロ・アラクスカヤ文化が元になったと見られるギンチンスカヤ文化 Гинчинская культураがダゲスタン・チェチェンに紀元前3千年紀から2千年紀に広まった。 
 青銅器時代から鉄器時代の移行期になると、紀元前15から12世紀から紀元前1世紀頃のカヤヘント・ハラチョイ文化 Каяхентско-Хорочоевская культураの遺跡がチェチェン南東からダゲスタンに発見されている。カフカース北東の山中と山麓のこの文化圏では、銅とスズ、またはヒ素銅と青銅の冶金技術は高かった。
 また、平行してコバン文化 Кобанская культураも形成されつつあった。こちらの方がカヤヘント・ハラチャイ文化より有名。範囲が広かったこと、精巧で美しい青銅製品が多く発掘されているからだ。紀元前13世紀(または紀元前16世紀)から紀元前4世紀にカフカース山脈の南麓(グルジアや南オセチア)、北カフカース中央から西のイングーシ、北オセチア、チェチェン西で遺跡が残っている後期青銅器から初期鉄器時代のそのコバン文化 の担い手も、チェチェン人の先祖の一部になっただろう。彼らは北西カフカース地方の農耕牧畜、特に冶金技術(青銅器、鉄器)を発展させ、紀元前1000年頃、この地は冶金の中心地の一つだった。
 紀元前7世紀から紀元後4世紀のチェチェンを含む北カフカース地方は地元の定住農耕牧畜民と、南東ヨーロッパの草原の遊牧民との接触の場だった。古くは紀元前9世紀から紀元前7世紀の南ウクライナで勢力を振るったキンメリア人との接触。ちょうどその時代というのが、東ユーラシアでの遊牧と騎乗への移動、金属製馬具の始まり、つまり遊牧騎馬民族の始まりの時代だった。キンメリア人に続いてスキタイ人の侵入がある。紀元前7−5世紀の初期鉄器時代のスキタイ芸術品(スキタイ動物意匠)も北東カフカースの多くの遺跡から発掘されている.チェチェンでは、その時代のシャリー Шали, セルジャン・ユルト Сержень-Юрт, ノヴォグローズヌィ Новогрозной, ガライチ Галайты, ゴイトィ Гойтыなどの遺跡がある。
 ここで、スキタイというのはユーラシア草原(ここでは黒海北岸.ウクライナ南部)で遊牧をおこなう諸民族の総称だ。ギリシャなどの歴史家は『北方の野蛮人』と呼ぶ。紀元前7世紀、スキタイは大挙してカフカースから中東へ押し寄せ、西アジアに拡大していったが、ここでスキタイ軍に合流したナフ族の一派もいる。スキタイの移動により、ウラルトゥ国は倒れ、また新アッシリア(紀元前934から紀元前609)の崩壊の原因も作った。
 しかしこの時代、カフカース地方では原住民と、草原の民族との交易接触はお互いの文化、農耕牧畜技術を高めたともいえる。スキタイ集団は北カフカースに2世紀間とどまり(定住するようになり)、原住民と接触し、前述のように、スキタイ文化(馬具、武器、スキタイ動物意匠)を伝え、原住民の中に溶け込み、オセチア人やチェチェン人ばかりでなく現代の北カフカース諸民族の祖先の一部となった。北カフカース人はスキタイから多くを採り入れ、スキタイ文化が、たとえば、チェチェン平野部や山岳部に広かったことが7−5世紀の古墳などでわかっているそうだ。
 サルマタイは紀元前5世紀以前からヴォルガ下流、ウラル地方に住んでいて、時代によってサヴロマタイやシラク、アオルス(アラン)その他の民族・種族を含んでいた。紀元前4−3世紀、サルマタイはアゾフ沿岸からメオト人、シンド人などのテリトリーのクバン川流域に侵入。交易なども行うようになる。紀元後1−4世紀にサルマタイは北カフカース、黒海北岸に定住するうちに、かつてのスキタイ人と同じように、多くの言語の話し手、民族が住んでいたカフカースの中に溶けて行ってしまった。 
 中世のチェチェン、アラン国、モンゴル、ティムール
  紀元後1世紀頃、アラン人などイラン系の諸民族がアラル海付近で遊牧していた。その頃、西から移動してきたフン人に追われて、アラン人たちも西へ移動、北カフカースに大挙して侵入。北カフカース一帯を数百年にわたって勢力下においた(アラニア国)。その間オセチア人の祖先はイラン系言語に移行していった(とは、チェチェン側の歴史家の表現で、オセチア側の歴史では、北カフカースを領有したアラン人の一部は『現在の古代イラン語系話し手のオセチア人』の『直接の』祖先となったのだ、それで、北オセチア共和国は『北オセチア・アラニア』と名乗るようになった。現在のオセチア人は純粋なアラン人の子孫だとする)。アラン人の別の一派はゲルマン系民族とヨーロッパやアフリカへ移動していったが、遊牧騎馬民族のスキタイやサルマタイ同様、原住民の中に溶けてしまって自分たちの言語文化を失った。現代では、北カフカースではオセチア人のみが古代イラン語(のオセチア版)を話している。
 7−10世紀の中世初期頃には、北カフカースには現在チェチェンの平野部も含んで早期封建国家アラニア国が栄えていた。アラニア国は、アラン人はじめその地に住んでいた多民族、多言語の連合体だった。山岳地帯のテレク川中上流、キスティンカ 川 Кистинка (17キロ、テレク上流の右岸支流グルジア領ヘヴィ地方を流れ、国境付近でテレクに合流)、アルムハ川 Армухи (28キロ、イングーシ、ジェイラフ地方を流れてテレク右岸に合流)や平野部(上記河川の中下流域)にはナフ語を話すチェチェン人の祖先(現在の自称でもあるノフチィ)が住んでいた。
 11世紀グルジアの地図では、現在のチェチェン・イングーシやダゲスタン山岳地帯とその南麓の北東グルジアのパンキス峡谷一帯にジュルジュキ Дзурдзуки人の住む国があったとなっていて、カフカス学者は山岳チェチェン人たちの祖先としている(バツビイやキスチ)。アラニア国を構成する平地のナフ民族もジュルジュキのナフ民族も、同じ言語文化を持っていて、ほとんど両者で『バイナフ』とでも呼ばれる国を建ててもよかったくらいだと『チェチェンの歴史』には書かれている。自国をひいき目に見る『チェチェンの歴史』では、現在のチェチェン人は古くから一つの民族であったことを強調する。ジュルジュキについても、下記のシムシムについても、歴史的記述はやや曖昧。多分、それらは、当時、一時的に強力だった少数のグループの指導者名か、根拠地だった地名だろう。大概のチェチェン人はジュルジュキについてもシムシムについても、近世のオコツキィ侯国についても知らない。『チェチェンの歴史』を読むと著者達がアルメニアやグルジアの、あまり一般的でない文献から、苦労してチェチェンらしい記述を拾い上げているという感じだ。(それが研究者の仕事だ)
 北カフカスは数千年にわたって諸文化の緩衝地帯、主要な文化の辺境だった。紀元前6世紀から4世紀のスキタイ、紀元前3世紀から紀元4世紀のサルマタイ、4世紀から11世紀のアランなどの渡来民がこの地の原住民とどのように交雑したのか、紀元後1000年紀前半の北カフカースの言語地図はめまぐるしく変わっていると、ダゲスタン歴史学者は言う。古代の主な語族、つまりカフカース諸語に、イラン語族(スキタイ、サルマタイ、アラン、他)、テュルク語族(サヴィル савиры、グン、アヴァール、ハザール、他)が次々と往来し、もつれ合い、あるいは消えていった。北カフカスの文化は遊牧文化と原住民の文化の習合だ、という。
 前述のように、テレク川、スンジャ川中下流域のナフ民族は10−12世紀頃はアラン国の一部だった。また、フン族に紀元を持ち、西突厥帝国衰退後の中央アジア、さらには9世紀には北カフカースやカスピ海北岸域に勢力を持ったハザール・カン国(7−10世紀)の一部でもあったようだ。『チェチェンの歴史』によると当時の古墳が多く残され、埋蔵物はシベリアから西ヨーロッパにいたる遺物と類似したものだった。つまり、広く交易が行われていたのか。
 主に、5世紀から12世紀の中世にできたとされる石の建造物が、現在までも多く残されている。特にチェチェン山岳地帯に集中していて、4階から5階建て、高さ25から30メートルの防御と戦闘用の塔がそびえるマルヒスタ地方やマイスタ地方(後述)はチェチェン山岳風景の典型だ。居住用の塔は2階から3階建てで12メートまでの高さだ。これらチェチェンの塔群は古くは、キンメリア人など遊牧民が北カフカースに侵入・移動してきた紀元前千年紀頃から、ティムールの侵攻後まで建てられていた。11から13世紀の岩の城趾として現在でも有名なものはヴォヴヌシキ Вонушкиやホイ Хой などがある.

 モンゴルの侵攻。1218年モンゴル軍はシル・ダリア川を渡り、イラン、ホラズム・シャー朝を壊滅させ、1222年グルジア、アルメニアを破りアンディ山脈を越えて、おそらくはハンカラ谷でアラン軍と対峙しただろう。ハンカラ谷は古代から現代までも戦略的に重要な地だ。モンゴル軍の勝利の原因の一つは、モンゴル軍が強力だったからと言うだけではなく、征服された国が比較的弱かったからだ。モンゴルでは初期封建国家が作られようとする勢いのある時期であり、一方征服された方の国々は、封建的分裂の時期でもあったからだ(と、歴史書にある)。
 1239年、ムンケ指揮のモンゴル軍はアラン国の首都マガスを落とした。マガスは最盛期には1万5千人の人口があり、テュルク語系ルーン文字、ギリシャ文字、アラビア文字が使われていたという。当時、ビザンチンやそのほかの国々にも有名だったマガスがどこにあったか、歴史家の間で一致はない。アラビア人の手記や発掘調査から30カ所ものマガスかも知れない地が上がっている。カバルダの歴史家は、現代のカルバタにあったとし、別の研究者は現在のカラチャイ・チェルケスにある城市跡がマガスだとし、イングーシは新首都名をマガスと名付けている。チェチェンの歴史家はチェチェン平野のアルハン・カラ Алхан_Кала (グローズヌィから南西7キロ)近くにあったとする。アラン国の一員だったチェチェンもモンゴルに征服され、13−14世紀チェチェンを含む旧アラン国平野部はモンゴル帝国の『トゥメン(1万人の兵力を出すことのできる軍団)』の一部となった。
 14世紀、西チャガタイハン国の家臣からでたティムール朝(1370−1507、後に首都サマルカンド)が起こった。キプチャック・ハン国のトフタムィシュ・ハン(1377,1378−1406)を破ったティミール(1336−1405)は、カスピ海北岸、黒海北岸を侵攻し、1394年には、おそらく行軍ルートとして北カフカースを、チェルケス、ピチゴルスク、カラチャイ、カバルタ、北オセチア、シムシム Симсим(Симсир 下記。つまりチェチェン)、山岳ダゲスタンと侵攻していった。このときマガスも、ティムール軍に略奪されている、と言うことは、モンゴル軍によって壊滅されたマガスが、この頃、復活していたと言うことか。
 
 1330年頃のカフカース(地図上の古名チフリスは
1936年にトビリシと改名。ウェブの地図では
ドイツ語でTiflisとある)シンシムsimsir の南の地域は
ジュルジュキDurdsukenと読める
 伝説によると、ティムール軍はスンジャ川右岸へ渡ってチェチェン山岳地帯へ進軍しようと、現在のグローズヌィのあたりに橋(のようなものか)を築いた。ティムールが自分の陣地から相手側の陣地へ攻めるための通路として築いたわけだ。その故事から『びっこのティムールの橋』という格言が今でも残っている。その名の遊び(二陣に分かれて戦う戦争ごっこ)もある。
 ティムール軍は山岳地帯を侵略し、当時残っていた多くの塔を破壊した、と『歴史』にある。また、当時チェチェンにあったシムシム国はガユルハン Гаюрхан と言う指導者(支配者)がいた。決して弱小国ではなかったが(と強調されている)ティムールの大軍には勝てず、山岳に逃れ、パルチザン戦略でティムール軍を悩ませた、とある。
 シムシムとは ウィキぺディアによると、14世紀頃からあった緩い国家、または東チェチェン、イチケリアの地方名らしい。ペルシャ語の年代記として1404年にニザミ・アド=ディナ Низам ад-Динаによって表わされ、完全な形で現存するタメルランの伝記『ザファル・ナメ Зафар-Наме 勝利の書の意』には、14世紀末のタメルランのジュチ・ウルス(金帳カン国、キプチャック・ハン国)への行軍が書かれている。途中にカフカース地方にあったシムシム国も征服した。シムシム人の一部は厳しい山岳地帯に逃げた、とある。現代のチェチェン研究者は、シンシムは全チェチェン・イングーシを含む初期封建国家・侯国だったと見ている。現在、東チェチェンのノジャイ・ユルタ区に人口2千人余のシムシル村がある。この村名からも類推できるとしている。ちなみに1877年蜂起(後述)の首謀者アリベック・ハッジ・アルダモフ Алибеж-Хаджи Алдамов (1850−1878)はシムシル村で生まれている。

 またグルジア軍とともにモンゴル軍と戦ったというササニ сасаны と言う民族もチェチェン人の祖先だとしている。
 15世紀にはかつてのジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)も弱体化し、いくつかに分裂していた。北カフカースの草原地帯は定住農耕民は姿を消し、遊牧民の占める地となり、現代のスターヴポリ地方南部のピチゴルスクやカバルタ平野はカバルタ人(アディゲ人のこと)が占めるようになった。16世紀、カバルタやクムィクの侯はテレク岸のかつてのチェチェンの故地(下記)まで勢力を及ぼした。一方、モンゴルやチムール時代、山岳地帯に逃れていたチェチェン人は平地に降りてくるようになった。平地、つまり、スンジャ川南からカチカルィン丘(グデルメス南)までの平野はチェチェンの故地である、と書いてある。(自国の歴史者というのは自国民を訓示するためにもあるようだ)。チェチェン人は居住地を、西はアッサ川上流から東はアクサイ、アクタシュ川まで、さらにナフ民族の一派のバツビィ人はカフカース山脈南のトゥシェット・アラザニ川岸(現在グルジア領のパンキス峡谷)にまで広げていった。
 16世紀までには、山岳地方に住んでいたチェチェン人たちには、居住地の山や川などの名前で呼ばれるタイプという共同体が形成された(мичиковцы, качкалыковцы, ичкеринцы、 чеберлоевцы, шатоевцы, аккинцыなど)。また『祖先からの地(とチェチェン人は強調する)』である平野には、チェチェン・アウルや、アタギや、ゲヒと言った山岳から移ってきたチェチェン人の大村(いくつかの村の集合、500家族以上か)ができた。平野部に山岳から移住してできた村はその氏族(タイプ)の名で呼ばれることが多い。
 彼らは、当時はすでにテレクやスンジャ川沿岸に住んでいたグレーベン・コサック(テレク・コサック)と交易していた。交易には互いの襲撃、強奪ばかりでなく通婚なども含む(下記。「近世のチェチェン』)。時には、カバルダ侯や、テレク・コサックとともに、クリミヤ・ハン国やオスマン帝国、ペルシャ帝国への行軍にも加わった。1589年チェチェンはロシアの保護国であるという条約が結ばれたくらいだ。

 チェチェン人の宗教
 15世紀から19世紀までチェチェン山岳地帯には、自然や動植物が神格化された古来の伝統宗教や、グルジアから伝わったキリスト教、それらの習合した宗教が信じられていた。古来の伝統宗教(『異教徒』などというの差別用語が今でも使われる。『多神教』ならばまだしも)の遺跡として、牧畜や多産、農耕を保護するそれぞれの神々の神殿があった。現在チェチェン・イングーシの山岳地帯には有名なものでも100基以上の遺跡、つまり神殿だった土台がある。また、アニミズムやトーテミズムの神々の名前は現代のチェチェン人の名前にも見られる。例えば、レーチャ леча は鷹の(霊の)意味だが、20世紀のチェチェン人ジョハルド・ドゥダエフの親戚のレーチャ・ドゥダエフ Леча Дунаевにも見られる。また、 ナジнаж(樫の木の霊)から来た名前も現在多い、など。また、メルヒストは太陽の意味で、それはメルヒスト氏族 Мелхистинцыの名前にもなっている。
 最初のキリスト教は、すでに1世紀に、黒海沿岸のギリシア植民市から、北西カフカースのアディゲ、アバズ、アラン達を通じて伝導された。グルジアやアルメニアでは4世紀には国教となっている。9世紀には、イングーシ山岳のアッサ川上流にも広まり、キリスト教寺院が次々と建てられていった。現代、その廃墟で有名なトゥハバ・エルディ教会などがある。13世紀はグルジア・キリスト教が山岳ナフ民族の宗教となるが、ビザンチン帝国の滅亡とグルジアの国力の低下により、キリスト教の影響力は減少。15,16世紀にはキリスト教やキリスト教以前の伝統宗教の習合したような宗教となっていた。
 一方平野部ではイスラーム教は8−10世紀にはタゲスタンから伝わり、13−14世紀にはキプチャック・ハン国やクムィク人の影響でイスラームが浸透し始めてていた。ダゲスタン方面へイスラームが伝わったのは南東(現代のイラク、イラン方面)から7世紀から10世紀にかけてだが、はじめは封建領主がムスリムとなった。が、『金曜日にはモスクで祈り、土曜日にはユダヤ教のシナゴーグで、日曜日には教会で祈る』と、当時の旅行者の記録にある。宗教に寛容だったハザール・ハン国では、教会とシナゴーグとモスクが並んで建てられていたようだ。(ハザールの国教はユダヤ教)
 チェチェン平野部では、15−16世紀までイスラームも伝統宗教も信じられていた。16世紀頃から多神教の神殿に変わってモスクが建てられるようになった。
 しかし、山岳部にも広まったのは17−18世紀であり、それまでの山岳人は、前述のように古来からの地元の宗教を守っていた。普及したのは1785年シェイフ・マンスルのイスラームのスローガンによる反ロシア帝国侵略闘争が始まった頃からだった。
 イスラームがチェチェンに完全に普及したのは19世紀だ。
 近世のチェチェン
 17世紀後半には山岳地帯のチェチェン人は平地のスンジャ川南岸まで移住して、上記のように、数十もの集落ができた。特にアルディ村 Алдыなどは600家族が住み、現在のグローズヌィ市南からハンカラ谷にわたっていた。18世紀中には山岳地帯から平野部への移住村は大部分が(現在の場所に)ほぼできあがっていた。チェチェン平野部は小麦の産地の一つとなり、耕地はテレク左岸(左岸は北岸、そこから離れると乾燥地帯が始まる)や、テレク下流低地にまで広がっていった。後述のロシア・コサックの砦やその集落は農産物の消費地でもあった。平野部は大型家畜(牛)を飼い小麦などの耕作を、山間部は小型家畜(羊)の放牧やライ麦などの耕作を、山麓地帯はトウモロコシを、乾燥地帯はきびなど生産するといった分業もできてきた。山岳から平野部への移住も、平野部の畜産業の発達を促した。夏期は山間部で、冬期は平野部で、春秋期は乾燥地帯で放牧した。(と言うように歴史の本では経済的なことも書いてある)

 17、18世紀、カフカース地方は一方ではサファヴィー朝イランとオスマン・トルコの抗争の的であり、他方では、ヴォルガ中流にあったカザン・ハン国を平定し、次いでヴォルガ下流のアストラハン国も併合した(両ハン国はジュチ・ウルスの後継国家)ロシア帝国も、アストラハン国の先のカスピ海岸に割り込もうとしていた。しかし、17世紀中頃は、イランはカスピ海西岸に南下しようとするロシアを撃退し、デルベントからスンジャ川一帯を勢力圏としてきた。オスマン・トルコは、自分の従属国であるクリミア・ハン国を通じて黒海北岸を勢力圏としていた。北カフカス平野部の諸侯国を味方につけたトルコは、ロシアにアゾフ海からの後退をやむなくさせたくらいだ。
 ロシア帝国の北カフカース、カスピ海西岸への膨張の一歩はテレク川下流にテレキ要塞(当初は チュメニ砦Тюменский острог、後にテレスコーイ・ゴーラド Терской городと呼ばれた)を築いたことだ。16世紀後半から18世紀にかけて5回にわたってその場所は移動したが、まがりなりにも主要な軍事拠点だった。現在その5カ所とも正確な場所は特定されていないがロシアの歴史やカフカスの歴史には必ず記述がある。18世紀前半になってアストラハンに次ぐ主要な軍事・行政・交易都市としても栄えた。当時テレク下流は、国境は確立されていなくて、遊牧民やコサック、カバルダ侯国、ダゲスタンの諸侯国、ペルシャ、オスマン・トルコ、その同盟国クリミア・ハン国などの臣民(またはそれらの若干の影響下にあるチェチェン人も含む)が居住、経済活動など行っていた。
 18世紀になると、テレク右岸のコサックたちは徐々に自治を失い、ロシア帝国に取り込まれ、帝国の南部を守備する武装国境軍化していった。テレキ市は大軍事基地となっていた。さらには1735年スラーク川畔にキズリャール砦(*)が築かれ、コサック軍や、ロシア帝国軍に取り込まれた地元民(クムィキやカルバタ)の軍隊も駐屯し、ロシア帝国のカスピ西岸の軍事的経済的影響力を強めた。
 (*)キズリャールは1785年には市制が敷かれ、、18−19世紀はロシアと東方を結ぶ交易都市として大発展した。主に、アルメニア人やロシア人(コサック)が住み、当時、南ロシアではキエフ、アストラハンに次いで大都市であり、カフカスではチフリス(トビリシ)につく人口だった。ロシア人(コサック)やアルメニア商人、ロシア正教に改宗した現地人が住み、非軍人だけでも1万5千人の都市だった。現在でもロシア人(旧コサックを含む)が41%で、アヴァール人(ダゲスタンに住む民族の1)20%、アルメニア人2%だ。レールモントフの『現代の英雄』にもバルザックの『カフカース紀行』にも言及されている。

 18世紀の初めにロシア側資料ではチェチェンという名称が使われ出した。それは山岳地帯からアルグーン川下流の平野部に移住したチェチェン人の大村の名前がチェチェン・アウル(*)だったからだ。それは、当時、最も大きなチェチェン人の村の一つだった。『チェチェン人は(名目的には)カバルダ侯の地に、広い堅固なチェチェン人の村を作った』とウマラト・ラウダエフ Умалат Лаудаев (**)が記している。チェチェン・アウルなど現在のチェチェン平野には山岳チェチェン人が移住してきて住んでいたが、それらの地はロシア帝国の形式的な保護国であるカバルダ諸侯やクムィク諸侯の領地であり、チェチェン人はテレク周辺のコサック 村などを襲う盗賊団としてみられていたらしい。前述レールモントフの『現代の英雄』でもチェチェン人はよく言及されている。『現代の英雄』(何度も映画化・テレビがされているが2006年作のの8シリーズのテレビ化の作品)では、チェチェン人が主人公ペチョーリンの逗留した要塞を襲う場面もある。
(*)アウル チュルク語で『集落、遊牧の基地・営地、共同体』の意味。中央アジアやカフカースで使用されるようになった。元々は移動式家屋の臨時宿営地を意味したが、カフカスの山岳地方では防御された集落を指すようになった。ウィキペディアには、カフカース戦争時、アウルは最も攻めにくい地点で、攻め落とすには猛攻撃しなければならなかった、とある。北カフカースには伝統的にアウルという名を誇る村が多い。(それは非キリスト教の住民が住む、と付け加えられている)
(**)ウマラト・ラウダエフУмалат Лаудаев ロシア軍将校。チェチェン人の歴史や民俗学を始めてロシア語で表わしたチェチェン人 。
 1721年から1783年の間、テレク川周辺を『荒らす』チェチェン人の集団にたびたびロシア軍は懲罰隊を送った。懲罰隊には正規軍の他にコサック、『恭順な』カルムィク人、カバルド人、ノガイ人などが含まれていて、チェチェン人の村を焼き払ったり、村の長老を恭順の印の人質として取ったりした。チェチェン・アウルを中心としたロシア帝国の侵攻に対する蜂起や、山岳民の地元領主(カバルダ人やクムィキ人)への『不服従』に対してロシア帝国から送られらの懲罰隊だが、その軍隊でも『匪賊』の殲滅はできなかった。(主なものでも、1707−1708年、1722年、1732年、1757−1758年、1760年、1770−1774年、1783年)
 これらの時代はチェチェンを直接は支配せずに、カバルダやダゲスタンの封建諸侯に支配させ、ロシア帝国はその後ろ盾となっていた。例えば、チェチェン・アウルの侯はトゥロエフスキィ家だが、元々はアンディ・コイス岸のグムベト Гумбет地方(山岳ダゲスタン)の侯だったが、後にチェチェン・アウルのやその近郊8村の侯(領主)ともなった。しかし2代目のハズブラート Хасбулан, Казбулат(1728−1732)は 1732年の(蜂起)武装チェチェ人によって殺害された。ハズブラートの援軍としてチェチェン・アウルで戦ったコハ Коха 大佐指揮のロシア軍も打ち負かされた。
 1757年にも封建領主に対する大がかりなチェチェン人の蜂起があり、ロシア軍は5−6千人の兵力を差し向け、ハンカラ(現代もグローズヌィ近くにある有名な軍事基地、下記)は占領できたものの、それ以上成果を上げられず、キズリャルに引き上げた。

 18世紀後半になるとロシア帝国は北カフカスにおける姿勢の強化と北カフカス民族の征服に本格的に乗り出した。軍事力の強化としてヴォルガやドンに居住していたコサックたちを強制的にクバニ川(カフカース北西)やテレク川に移住させた。テレク中流のモズドック砦(1763年)をはじめとして、カフカス平定左翼戦線を築き始めた。(右翼ラインはロシア本国側から見て右、つまり西のチェルケッス方面)。マルカ川(テレクの支流)のエカチェリノグラドスカヤ砦など、モズドック砦からグレベンスキィ・コサックの地までテレク川沿いにぎっしりと砦を築き、かつてのヴォルガ・コサックなどに守備をさせた。チェチェン人の集落の多いスンジャ川岸でハンカラ谷へでる要所にグローズヌィ砦が建てられたのも1821年だ。その地というのは、山岳から移住してきたチェチェン人が住むソリジャ・ユルト Соьлжа-юртを襲撃、殲滅してできた空地に建てられた。チェチェン人の住むスンジャ川岸一帯のど真ん中にロシア軍は陣地を築いた、とある。砦近くのチェチェン人も一掃してできたのがカフカス平定戦略都市グローズヌィだ。こうして18世紀後半にはテレク戦線は遙かに強化されたのだ。

 そうした中で、カフカス民族の間では急激に反ロシア・反植民地化の運動が先鋭化し、聖戦のスローガンが叫ばれた。1785年、シェイフ・マンスルがイスラーム法の遵守、山岳の非イスラーム教徒、さらにロシアに対する聖戦を掲げて蜂起。短期間でチェチェンだけでなくイングーシ、カバルダ、クムィキ、ノガイ、ダゲスタンの諸民族たちの支持を得て、勢力は拡大していったが、1791年には負傷のマンスルは捕虜になり、蜂起は鎮火。しかし、今でもシャエフ・マンスルはチェチェンの国民的英雄だ。
 カフカース戦争
 ロシア帝国はすでに18世紀末にはグルジアなどカフカース山脈南部の国々を保護国として、南下政策を進めていた。ロシア本土からカフカース南部へ出るためには北カフカースを通り、カフカース山脈を越えなくてはならない。(ロシアからグルジアなどへ行く軍事道、通商路を帝国の管理下におかなければならない)。北カフカースは(1860年代までは)ロシア帝国の名目的な保護国であるカバルダ諸侯やクムィキ諸侯の勢力圏だった。
 ロシア帝国は北カフカス民族の征服に本格的に乗り出し、北カフカースを帝国の1地方にしようとしたが、現地民の頑強な抵抗にあった。1805年にはチェチェン、イングーシ、オセチア、カバルド人達がロシアの植民地化に反対して武装したが、制圧された。1807年にはチェチェン人の蜂起にハンカラ谷でかろうじて対することができた。これら北カフカースを支配しようとするロシア帝国とカフカースのチェチェン人、ダゲスタン人(アヴァール人, レズギン人, クムイク人等)、カラチャイ人、チェルケス人(アディゲ人, カバルド人)、アブハズ人、アバザ人、ウビフ人等の間で行われた断続的で長期にわたった戦争で、特に1817年から1864まで(チェチェンは1860年平定)をカフカース戦争という。それ以前にもシェイフ・マンスルのような反ロシアのイスラーム聖戦はあったし、それ以後にも各地で蜂起があった。(カフカース戦争の一つのエピソード
 そのカフカース戦争の始まりは1817−1822年アレクセイ・エルモーロフ将軍の『スンジャ戦線』の強化からだった。ロシア軍の砦を中心にロシア人の(テレク・コサックなど)の集落を、『本来の』チェチェンの地に広まめていったのだ。

 カフカース戦争時とその後には、チェチェン人の人口は、北カフカースの原住諸民族と同様オスマン帝国への移住などで著しく減少した。北カフカースからオスマン帝国への移住は政治的原因、住んでいた土地が没収されるなどの経済的原因、宗教的原因、氏族の共同体であったという社会的原因などによる。
 ソ連崩壊まで
  カフカース戦争で完全勝利が見えた1860年に、帝国の直接の領土としてウラジカフカースを中心とするテレク・コサック軍管轄のテレク州ができた(行政官は任命のコサック頭目)。テレク州にはチェチェン管区や、イチケリア管区など8管区ができた。その当初から後に何度も、行政区改革、つまり管区の増減、境界線の移動は度々あった。テレク州とは別にその南東にダゲスタン州があった。チェチェン人とイングーシ人は元来同じ民族だったが、ロシア帝国の民族分断政策により、1859年、2つの民族に分けられた。つまり1860年には、チェチェン管区とイングーシ管区が置かれた。
 しかし帝国のテレク州となってからも、一連の蜂起が起きていた。
 1860年、山岳チェチェンでは飢餓が発生し、人々は武装蜂起したが、鎮圧され蜂起した村々は焼かれた。1864にもシャーリー砦でイスラム教の神秘主義哲学派のスーフィズム・ミューリズムの大規模な蜂起があったが、制圧された。1877−1878年のチェチェン・ダゲスタン大蜂起も制圧された。これは『小さい聖戦』として有名だ。ロシア帝国側は3万6千人を動員、チェチェン側は2万5千人。ちょうど1877年ー1878年の露土戦争(バルカンを巡ってロシアとオスマン帝国が戦う。ロシアの勝利)の時期だった。蜂起軍は制圧され、イチケリア地方のシムシル出身の首謀者アリベック・ハッジ・アルダモフ Алибеж-Хаджи Алдамов (1850−1878)他数十人は軍法裁判で裁かれた。
 19世紀末にはチェチェンで石油の採掘が開始され、1893年には鉄道も敷かれた。1911にはチフリス(1936 年までのトビシリの旧名)でチェチェン語読本が発刊された。

 1917年のロシア革命時の帝政の廃止と国内戦中には、かつての帝国の他の地方同様多くの短命国家ができた。
 山岳共和国 Горская республика (1917ー1919)(1917年5月から1918年12月までは『北カフカースの山岳同盟とダゲスタン』と言う名称)首都はウラジカフカース(1818年12月まで)から、バトゥミ(現在グルジアの港湾都市。アジャリア自治共和国の首都)へ、さらにテミル・ハン・シュラ Темир-Хан-Шура(現在ダゲスタンのバイナクスク Байнакск)と変遷。黒海からカスピ海まで広い領土で、一時期は人口3百万人。指導者はチェチェン人でロシア軍将軍(1877−1878のチェチェン人の蜂起にもロシア側として制圧に参加)の息子で石油資本家のチェルモエフ Чермоев, Тапа Арцуевичなどカフカースの民族主義基本家だった。山岳共和国は1919年には白衛軍(デニキン軍)に、その後は、テレク・ソヴィエト共和国に吸収される。

 テレク・ソヴィエト共和国 Терская советская республика (1918年3月から1919年2月) ロシア帝国時代のテレク州をロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国の構成共和国としてボリシェヴィッキ(レーニン派)やエスエル(社会革命党)左派が作った。ピチゴルスクが行政中心地だったが、反革命コサック軍に押されて首都をウラジカフカスに移転し、さらに7月7日に開催された第1回北カフカース・ソヴィエト大会において、テレク・ソヴィエト共和国は他のソヴィエト共和国とともに北カフカース・ソィエト共和国(下記)に再編されることが決定された。テレク・ソヴィエト共和国はその後も北カフカース共和国内に独立して存在し続けたが、その領域も翌1919年2月には白軍義勇軍によって制圧された

 北カフカース首長国 Северо-Кавказский эмират(1919年9月−19203月)ヴェデノ村を首都としてダゲスタンとチュエチェンにあったイスラム国。オスマン・トルコ(36代皇帝メフメド6世)の保護国としてアヴァールのシェイフ(宗教指導者)ウズン・ハッジ Узун-Чаджиがアミールだった。赤軍によって山岳自治ソヴィエト社会主義国家に併合される。

 北カフカース・ソヴィエト共和国 Северо-Кавказская Советская Республика(1918年7月7日から同年12月)。後のソ連共産党政治局員セルゴ・オルジョニキゼによって、エカチェリノダール(1920年クラスノダールと改名)を行政中心地としてクバーニ・黒海ソヴィエト共和国、スタヴロポリ・ソヴィエト共和国、テレク・ソヴィエト共和国を合邦する形で形成が宣言された。ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国の一部としての建国であった。8月には白軍、メンシェヴィキ、社会革命党の攻囲によって戦況は悪化し、中央執行委員会はピチゴルスクへと移転した。しかしほどなく北カフカースは白軍に占領され、北カフカース・ソヴィエト共和国は12月に廃止された

 北カフカース。地図の『まるグ』はグローズヌィ市
『まるウ』はウラジカフカース市
 
 山岳自治ソヴィエト社会主義共和国 Горская Автономная Социалистическая Советская Республика 山岳ASSR (1921年1月20日独立。1924年7月7日ソ連邦に併合)。かつてのテレク州とクバニ州の一部を領土とする人口約80万人で、首都はウラジカフカース。アナスタス・ミコヤン達が指導。この共和国にはカラチャイ、カバルダ、バルカル、オセチア、イングーシ、チェチェン、さらにテレク・コサック(スンジャ・コサック)の7民族管区の他グローズヌィとウラジカフカースがあった。山岳ASSR の崩壊はすぐ始まり、1922年にはチェチェン管区は山岳ASSRから分離されてチェチェン自治州になった。それに前後して1921年の民族管区は分解されソヴィエト・ロシアの統治下に置かれ、現代の共和国の境界と同じ名称の自治州となる。

 チェチェン自治州 Чеченская автономная область (Чеченская АО)(1922−1934)ソ連邦の構成共和国の一つであるロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国(RSFSR)内の一つ。山岳ASSRから分離されてできた。1926年の人口は約31万人、うち94%がチェチェン人。チェチェン自治州は1924年から1937年まではRSFSRの北カフカース地方 Северо-Кавказский крайの一部だった。『ソ連>ロシア>北カフカース>チェチェン』という重箱型行政構造だったわけだ(ソ連邦は各地に実に4重の『入れ子』行政制度を持っていた)。北カフカース地方の行政中心地はロフトフ・ナ・ダヌ、ピチゴルスク、オルジョニキーゼ(現ウラジカフカース)、ヴァロシロブスク(現スターヴロフスク)と移っている。1926年、ドン管区やクバニ管区などの12管区、チェチェンやアデゲィなどの7自治州がふくまれ、ロシア人46.2%、ウクライナ人37.4%、チェチェン人3.6%だった。
 1927年にはグルジアの北東アッラゴ Аллагоがチェチェン領となっている。そのかつてグルジア領だったアッラゴ地方にはチェチェン山岳民のマルヒスタ氏族やマイスタ氏族が孤立して住んでいた。(現在もチェチェン領、つまりロシア領だが、国境地帯の山岳地方で統治が難しいからか居住禁止)。
 1923年春、中央政府に指名された自治州政府の候補者選出に反対して、投票拒否闘争があったが、内務人民委員部(ロシア赤軍)により制圧される。しかし、その後もチェチェン人による騒擾が続いたため、1925年ロシア軍による大がかりな作戦が実行され、チェチェン人の武装解除がなされた。1929年、穀物供出の拒否などをめぐってゴイツィ、シャリー、サムビ、ベノイ、ツォントロイ村などでチェチェン人が武装蜂起。国家保安部に鎮圧される。1930年、反ソヴィエト・テロはチェチェンの広い範囲で展開され、ソ連軍によって鎮圧。1932年集団農業化(コルホーズ化)に反対するチェチェン人の大規模な蜂起が起きる。蜂起に参加したのはチェチェン人ばかりでなくテレク沿岸のコサック(ロシア人)も加わった。蜂起は鎮圧され、蜂起した村は住民全員が北カフカース域外に強制移住させられた。

 チェチェン・イングーシ自治州 Чечено-Ингушская автономная область(1934−1936)行政中心地グローズヌィ。面積は16 200 平方キロ, 人口は 65万人。

 チェチェン・イングーシ自治ソヴィエト社会主義共和国 Чечено-Ингушская Автономная Советская Социалистическая Республика (1936ー1944)1936年のスターリン憲法によってオルジョニキーゼ地方の一つとして形成。同自治共和国政府中枢はロシア人が多く占める、と言うのもグローズヌィやグデルメスといった都市人口はロシア人が過半数を占めていたからだ。反ソヴィエト闘争は、1920年から1941年まで500人から5000人の大規模武装グループの蜂起が12回、より小規模な蜂起は50回以上あり、鎮圧の赤軍側の死者は3564人とか。
 ハサン・イスラィロフ Хасана Исраиловаの反ソヴィエト政権蜂起(1940年から1944年)。革命後の内戦時には北カフカース民はボリシェヴィッキ(ソヴィエト)を支持していたが、次第に、中央政権の反宗教政策(モスクの破壊、宗教者への弾圧)や集団農業化政策に反発、不満を口にすると逮捕されシベリアに送られる状況などが原因となって、この反ソヴィエト蜂起は起こったのだと、ウィキペデアの論文にはあり、参加者はわずか14名以下。ドイツ軍やソ連軍と本当はどのような接触があったのか、捏造された情報も多かったらしい。しかし当時は、利敵行為をしたというのでチェチェン・イングーシ人の強制移住の口実の一つとされた。ちなみに、ハサン・イスライロフのグループにいたハスハ・マゴマドフ Хасуха Магомадов は蜂起鎮圧後にも、チェチェン・イングーシ人の強制移住にも逃げのび、最後のアブレーク абрек (『山匪』、北カフカースでは『反政府的賊』)だったが、1976年ベノイ近郊で射殺された(71歳)。マゴマドフは後のチェチェン・イチケリア政府存続中には『民族の誇り』として記念されたとか。

 チェチェン人とイングーシ人の強制移住 Депортация чеченцев и ингушей(1944−1957)。その公式の原因は、第2次大戦中のチェチェン人の大部分が参加した利敵行為という罪、つまり祖国裏切り罪(明らかに捏造された証拠が多い、ドイツ軍はチェチェン領内をほとんど占領していない)と、反ソヴィエト行動と不法行為であるとされた。ソ連邦の国境付近に住む不穏な少数民族(信用のおけない民族 неблагонажёжность)という口実もあった。ソ連政府の民族浄化政策もあった。対外的には、『敵対的な中立国』であったトルコとの関係もあった。本当の原因は現在でも不明だ。
 1944年ソ連共産党中央委員会政治局では、直ちにチェチェン人とイングーシ人を移動させようというモロトフやジダーノフなどの主張する案と、スターリンやカリーニンの北カフカースから完全に完全にドイツ軍を駆逐してから行うという案があったという。ミコヤンは、強制移住に賛成はしたもののそれは国際的評判を落とすと言った(ロイ・メドヴェージェフ Рой Александрович Медведев1925年−による)。実はその作戦の計画は1942年からあった。当初は移住先はアルタイ地方やノヴォシビリスク州、オムスク州とされていたが、1943年にはカザフスタンとキルギスということになった。反政府グループや軍役逃避者達が隠れるチェチェン山岳部(ソ連軍には到達困難とおもわれた)に化学兵器、つまり毒ガスをまくという計画もあった。そのための飛行部隊も準備された。しかし、この時のグローズヌィの人口は23万人、防ガス壕に収容できるのは1万人だった。また、効果の正確な防ガス壕には6385人しか収容できない。(この数字はわざわざベリアがグローズヌィに来て自治共和国のトップに確かめている。それで、現代の歴史研究者達は、チェチェン滞在中の主にロシア人の高度技術者を除いて(避難させて)一挙に毒ガスをまけば、後の強制移住作戦が楽になると考えていたのではないかと推測している。しかし毒ガス散布の結果が重大化することで、その計画は取りやめになったとか。)
 民族的な全チェチェン人とイングーシ人は数日のうち(2月23日午前2時開始、3月9日完了)に各地から集合させられてカザフスタンやキルギスに移住させられた。この慎重に計画された『チェチェヴィツァЧечевица』と暗号名で呼ばれた作戦には、10万人以上の正規内務省軍属および同数の非正規武装兵が参加し、180の集団輸送列車、15000台以上の車両、6000台以上のトラックが使われ、一挙に50万人(別の統計では65万人)のチェチェン・イングーシ人が強制移動させられ、1年目にはその4分の1が死亡した。ほぼ1ヶ月間の移動には家畜用車両が使われた。環境の悪さと厳寒、飢え、疫病のため死者が多く、列車が通った鉄道線路横の雪の中に死体が累々と置き去られていたとか、移住車両は半分死体を運んでいたとかと言う目撃者の証言がある。移住地に到着後も劣悪な環境で、治療もされず、病死者も多かった。別の統計ではチェチェン人の30%(45%かも)、イングーシ人の21%が死亡した。
 この作戦に要した費用は15000万ルーブルとされ、当時この金額で最新式戦車が700台製造できた。作戦実行中、蜂起した集団(大きなもので50グループと政府側の記録)も多かったが鎮圧され、逃亡者も多かった(公式では1万4千人、その大部分が山岳に逃れアブレキー・山匪となった、しかしこれらは正確ではないらしい)が捕縛された。 同年3月7日にはチェチェン・イングーシ自治共和国廃止令が出され、かつての共和国は解体され、南部山岳地帯はグルジアに、南東部山岳地帯はダゲスタンに、イングーシのグルジア領になった南部山岳地帯を除いては北オセチア領となり、かつての共和国の主要な部分はグローズヌィ州となった。(このような民族全体の強制移住とその共和国を廃止したり国境を変更したりすることは当時のソ連邦憲法にてらしても不法であった)。
 強制移住は当自治共和国に在住するチェチェン・イングーシ人ばかりか、軍務についているもの(9千人が赤軍にいた)、ソ連邦の他の地方に在住するあらゆる民族的バイナフ人に対して執行された。非チェチェン、非イングーシ人と結婚しているチェチェン女性は免れたが、チェチェン人・イングーシ人と結婚している例えばロシア女性は強制移住に該当するが、離婚すれば免れる、しかしその場合でも子供は対象とされた。例外はグルジアの北部山中に住むキスチン人や、バツビイ人で、彼らは元々の出身はバイナフ民族だがグルジア人とされ強制移住は免除された。
 
 映画 『忘れろと命令された』の
ポスター(ウィキから)
 問題だったのはこの短期間に道もないような山岳村の住民も、中央アジア向け輸送列車の出発駅まで集めることで、NKVD(内務人民委員部、つまり命令の執行者)がその村にたどり着くのも困難だった。当時、6000人以上のチェチェン・イングーシ人がこのような山岳僻地に住んでいた。その一つが、現在はガランチョージ区の無人村ハーィバフ Хайбахだった。ここへたどり着いた内務人民委員部の執行者達は、命令された日時までに輸送の出発地まで移動させることが困難とみて、2月27日近郊7村の住民700名以上を1カ所に集め焼殺したという。集められたのは老人、病人、女性、子供など、山から下りて集合駅まで自力で(徒歩で)行進させるには困難な人たちだった。治療用の場所と平地までの交通機関を用意するから言われ、倉庫に集められたとか。寒いので藁など持って集まるように言われたとか。
 その事件の目撃者がチェチェン自治共和国の検事であったマリサゴフ Мальсагов, Дзияудин Габисовичだった。彼は強制移住先のカザフスタンからスターリンに手紙を書いたそうだ(そのために恐喝されたとか)。1956年にはフルシチョフに手紙を書いたところ内密に真相が調査され、多くの証拠書類や証人が見つかったが、厳重秘とされた。到達困難地でのこのような虐殺はハーィバフ村だけではなかった。これはソ連政府によるジェノサイドだった。1989年マリサゴフの手記が誌上に公表された。政府はハーィバフという村はチェチェン・イングーシ自治共和国には存在しない、と回答していた。(旧ガランチョージ区内は1944年以来1956年になっても居住禁止とされ、すべての村は廃村になったのだから)。しかし、その後、マリサゴフ達によって、ハーィバフの大量虐殺について公開の調査がなされ、当時の事実が明らかになった。ウィキペディアにはハーィバフの虐殺について記事も、2014年グローズヌィでフセイン・エルケノフХусейна Эркенова監督の『忘れろと命令された』≪Приказано забыть≫ と言う映画についても載っている。この映画はロシア連邦文化省がロシア国内での上映を禁止した。『民族間分断を煽るから』という理由だ。しかし、YouTubeで見ることができる(英語の字幕ありとなし)。
(後記:2020年5月、私には4人のチェチェン人の知り合いがいて、彼らにこの映画を見たかどうか聞いてみた。3人は見てないが、見たいという答えだった。YouTubeのURLを送った。4人のうち一人のマゴメド・ザクリエフさん(画家)は見たと言う返答。出演者の中には彼の知人もいるそうだ。 
 1944年ソ連政府は全チェチェン・イングーシ人を強制退去させた後は、その元々の民族が住んでいたという痕跡を消そうとして、チェチェン語の村名はすべて、ロシア語やオセチア語などに改名され、モスクや墓地は破壊され、墓石は道路建設などに転用され、チェチェン語やイングーシ語で書かれた書籍は燃やされ、博物館などのバイナフ民族関係の歴史的展示品、貴重な手稿などは廃棄・盗取された。あたかも、北カフカースにチェチェン人は過去にも現在にも存在していなかったかのようにされた。歴史から消されたのだ。(文化的ジェノサイドという、ざ残渣もいずれ消滅するものと期待された)。 チェチェン・イングーシ自治共和国は3月7日に廃止。
 ウィキペディの『チェチェン・イングーシ人の強制移住』というかなり長い記事に載っていたことの一つだが、博物館に革命後の内戦時(1919年)ソヴィエト政権のために白軍と戦ったチェチェン人の指導者アスランべク・シェリポフ Асланбек Шерипов(赤軍共産主義者としての英雄)のコーナーがあったのだが取り払われ、代わりにカフカース戦争時(1817−1864)の帝政ロシア軍の将軍エルモーロフ(征服者、つまり19世紀の侵略軍の指揮者)の展示コーナーとなった。笑止なことには、その展示コーナーには『世界中この民族ほど卑劣で陰険な民族はいない』というチェチェン征服に手こずったこの将軍の言葉(ため息と聞こえる)が掲示されていたということだ。強制退去後のことだから、入館者のチェチェン人はいなかっただろうが。
新たに作られたグロズヌィ州に新たに移住してきた(入植した)ロシア人達が読んで納得していたのだろうか。彼らは『チェチェン人は裏切り者、ナチスの側についた』と固く信じていたらしいとは、後述の『カフカースの金色の雲』でもわかる。
 チェチェン人達は強制移住先のカザフSSR(33万人)、キルギスSSR(7万人余)などで厳しい過酷な生活を送らされた。3日以上の外出は許可が必要だった。しかし、1944年から1950年の間に2万件以上の逃亡があった。
 スターリンのソ連政府による民族全体の強制移住は、10民族に及んだ、1937年には極東に住む朝鮮(韓国)人17万人(民族として強制移住させられた最初の作戦。これは後の短期間に大量の人々を輸送するという作戦の予行演習にもなったとか)、1941年にはヴォルガ・ドイツ自治州に住むドイツ人(18−19世紀に移住してきた)37万人、1930年代には数回にわたってレニングラード州などに住むフィン・インゲルマンディア人(レニングラード州など北ロシアの原住民)、1941年から1943年までドイツ軍の占領下にあったカラチャエフ人7万人とカルムィク人13万人を1943年に、1944年2月23日のチェチェン・イングーシ人強制移住の直後、3月7日−8日にはバルカル人3万7千人の番だった。クリミアでは、当時の人口は23万人でそのうち20万人がクリミア・タタールだったが、5月18日から20日の間にウズベキスタンなどの中央アジアに強制移住させられた。グルジアにいた メスヘティア・トルコ人12万人もだ。10民族のうち7民族は自分たちの自治共和国(自治州)が廃止された。また、アゼルバイジャン人、ポントス・ギリシャ人、アルメニア人、リトアニア人、ラトヴィア人、エストニア人、ウクライナ人などの多くも『人民の敵』として強制移住させられた。それらは民族全体ではないが。
 第2次大戦中、連合軍側は、ソ連の民族強制移住を無視するかまたは賛同すらしていた(ソ連内のドイツ人などの利敵行為を阻止するためとか)。国際連合などで問題になったのは冷戦時代になってからだ。国外にいる(カフカース戦争中に中東などに亡命したというような古くからの)、例えば、トルコや、ヨルダン、アメリカのチェチェン人社会が、自国の政府に問題の解明を要求した。スターリンの強制移住は死亡率が膨大だったことからもジェノサイド(人種・国民などの集団的大虐殺)であると主張。
 ちなみに、1977年、ソ連時代の著名なシンガー・ソング・ライターであるヴィソツキーもバイナフ民族の強制移住に捧げた『(直訳で)命は飛んだ Летела жизнь』と言う曲を作った。
 ソ連邦・ロシアの作家で、アナトーリイ・イグナーチエヴィチ・プリスターフキン(*)Анатолий Игнатьевич Приставкин(1931−2008)の『コーカサスの金色の雲 Ночевала тучка золотая』という、1989年にはソ連で映画化もされたという作品がある。小説は大祖国戦争中(第2次大戦をロシアではこう呼ぶ)にモスクワ郊外の孤児院からチェチェンへ送られた孤児のふたごを主人公としており、チェチェン人の強制移住が描写されている(強制移住から逃げたチェチェン人の抵抗も)。
 (*) プリスターフキンも、モスクワ郊外に生まれたが、大工の父は大祖国戦争に出征したまま帰らず、母も開戦直後に結核で病死したため、孤児となったプリスターフキンはしばらく路上で生活した。孤児院に収容され、1944年に他の孤児たちとともにチェチェンへと送られて、12歳で職業訓練所へ入り、14歳での缶詰工場に就職した。15歳になると航空機工場の無線研究室に務め、1952年にはモスクワ航空技術学校を卒業して、電気技士、無線技士になった。1987年に小説『コーカサスの金色の雲』を発表したことで広く名を知られるようになった。作品は1981年にはすでに完成していたが、グラスノスチが始まるまで発表できなかった。(ウィキから)
 マミロフ Суламбек Ахметович Мамилов監督の映画はYouTubeで見られる(ロシア語とチェチェン語)。 マミロフはイングーシ人。
 日本語訳の本はある。ちなみに、原題はレールモントフの詩『懸崖 Утёс』の一行目から取っている。直訳では『金色の雲が宿った』。8行の詩『懸崖』は、翻訳レールモントフ詩集では『巌』と訳されているが。
 2014年には上記のように『忘れろと命令された』が撮影された。現代まで、多くの作家がこのテーマで作品を書いている。

 グローズヌィ州 Грозненской областью РСФСР(1946−1957)は、チェチェン・イングーシ人を退去させた旧自治共和国に、グローズヌィ市周辺の平野部(かつてのチェチェン・イングーシの4分の1より少し広い面積)とスターヴロフスク地方の西部草原部(テレク・コサックの子孫の住むテレク川下流地帯とカスピ西岸、クマ川南の草原地帯)から、グローズヌィを行政中心地として1944年3月22日にできた面積38000平方キロの行政区。チェチェン人の築いた農村設備や家畜類は、ロシアなどからの移住・植民者たち(移住のための交通費無料、2.5トンまでの家財輸送費無料、新規経営に資金援助、初年度税金免除)のコルホーズ所有となった。(上記『コーカサスの金色の雲』には、家畜列車に乗せられ移住させられるチェチェン人や、元チェチェン人の家に住むことになったロシア人植民者を、強制移住を逃れ山に隠れているチェチェン人が襲い、ロシア内部省軍が隠れチェチェン人を襲う場面がある)。グローズヌィなど都市部は、山岳の農村部とは違って、元々ロシア人の割合が多く、テレク南の石油地帯もロシア人の割合が多かった。
 かつてイングーシだった地を譲渡された北オセチア自治共和国は、3000カ所の農場を計画したのだが、イングーシの最も肥沃の地にもかかわらず、オセチア人は他人の地へ移りたがらなかったと言う。それで南オセチアからの移民を奨励した。

 チェチェン・イングーシ自治ソヴィエト社会主義共和国CIASSRの復興 (1957−1991) 1953年スターリンの死後、ベリアも銃殺され、1956年強制移住させられた民族の利敵行為という罪状が取り下げられ、移動が許可された。1957年1月には元の自治共和国が復活したのだが、イングーシの西部(肥沃な土地)は北オセチア共和国が引き続いて自国領に(つまり返還しなくてもよいとされた)、その代償としてテレク北岸の(テレク・コサックの子孫が主に住む)草原地帯の2区(テレク沿岸の細いベルト地帯以外は不毛の地)が復興チェチェン・イングーシASSRに加えられた。(大部分のチェチェン・イングーシ人は『代償』とは見なさなかった。イングーシ西部の返還されなかったプリゴラド区(テレク右岸)をめぐっては、オセチア人とイングーシ人の民族闘争が続く)。多くのチェチェン人氏族の出身地ともいえる山岳地方(何世紀にもわたって先祖代々が住んでいた)は居住禁止地区となった。
 脆弱な計画で実行された自治共和国の復興だったので、大混乱と新たな問題が持ち上がった。チェチェン人たちを現住地から退去させるときは数日間で完了させたが、帰還は数年かかったのだ。隣国のグルジア、ダゲスタン、北オセチアからのチェチェンの地への移住者7−8万人が元へ戻ることになった。ロシア人移住者はとどまった。中央政府やグローズヌィの党は自治共和国に住むロシア人の割合を過半数に保つためだ。また、チェチェン・イングーシ人の帰還をわざと援助しなかったが、1957年末までには20万人が帰還した。グローズヌィの党(*)の計画では8万人程度だったというが。カザフSSR(ソヴィエト社会主義共和国)でもチェチェン・イングーシ人の帰還を妨害した。なぜなら、カザフでは労働力が極端に少なかったからだ(とウィキペディアにはあるが、移住させられたチェチェン人をカザフ人は受け入れようとはしなかったとも書いてある)。
(*)党 実は、ソ連時代、どこの自治共和国でもトップ層はロシア人が占め、下部機関のみ現地人に占めさせていたとか。

 ちなみに、ソ連政府は当初、チェチェン・イングーシ人が移住させられた中央アジアの比較的コンパクトに彼らが住んでいるところに、新たに自治共和国を作ろうという案も出したが、チェチェン・イングーシ人から断固として拒否されたそうだ。
 帰還したチェチェン人だが、元の家屋や土地はロシアなどからの移住者が住んでいたり(ここでロシア人とチェチェン人の民族紛争が多発した。帰還チェチェン人はかつての自分たちの家に居座るロシア人から、家や営地(農地・家畜)を購入したり、マガメド・ザクリエフさんの話のように脅迫したりして追い出した)、 山岳地帯は居住禁止されたりした。山岳地帯の元の住居は破壊焼却され、道路や橋も通行不能にされた。帰還しようとしたチェチェン人を内務省軍が追い払った。かつてはそれら山岳地帯には12万人の住民がいた。元の山岳地帯の住民は、新たにチェチェン・イングーシASSRになったテレク川北に新村を構えざるを得なかった。山岳人には慣れない乾燥した不毛の地であり、かつての故郷から遠いばかりか、近くには町も村もなかった(とウィキペディアにある。ロシア語のみが公用語であり、そうした新村の政治経済の指導部はすべてロシア人だった、とも)。
 チェチェン人の強制移住中に旧チェチェンの一部を領有したダゲスタンとも紛争はあった。ハサヴユルト区(現ダゲスタン)などには歴史的にバイナフ民族のチェチェン・アッキンツ人(2万人)が住んでいた。帰還したアッキンツはハサヴユルト区などに新村を作って住むことになった。しかし、1976年、1985年、1989年には大規模な民族紛争が起こった。
 政府がロシア人を自治共和国にとどめ置こうとしたにもかかわらず、3万6千人のロシア人がスターヴロフスキィ地方などに去った。2万6千のオセチア人と4万6千のダゲスタン人は自分たち自治共和国に戻った。ただ、シャロイ区(チェチェン山岳)はチェチェン人の居住は禁止されているものの、ケンヒ Кенхи村には、1500人のアヴァール人(ダゲスタン人の一つ、だから強制移住はされなかった)がそれまで通り住み続けた。(*シャロイ区は山岳ダゲスタンに近く、19世紀はアヴァール侯の領地、1924年まではダゲスタンのアンディ郡、1924年から1944年まではチェチェンASSR領、強制移住中はダゲスタンASSR領、1957年復興チェチェンに戻される。ケンヒ村はシャロイ区では、現在は最も人口が多い1500人、ほぼ全員がアヴァール人。ちなみに同区の行政中心地は300人が全員チェチェン人のヒモイ Химой村だ。シャロイ区には強制移住前の人口が戻ってきていない。) 
 1957年中には政府の奨励で移住してきた非チェチェン人の11万人は去ったという。1961年までには、35万6千人のチェチェン人、7万6千人のイングーシ人が帰還したが、そのうち7万3千人のみがかつての場所、または新たな場所に落ち着けたとある。チェチェン・イングーシASSRは強制移住前の1939年にはバイナフ民族の割合は58%だったが、1961年には、テレク北の2区が加わったり、イングーシの西部を失ったりしたので、割合は41%にさがった。
 1989年には、利敵行為と言う罪で民族全員を強制移住させたことは憲法違反であったとソ連政府が認めた。2004年には欧州議会はチェチェン・イングーシ人に対する強制移住はジェノサイドであると認めた。
 1959年同自治共和国の人口は71万人で、うちチェチェン人34%、ロシア人49%、イングーシ人6%だったが、1989年(ソ連崩壊直前)には人口138万人になり、うちチェチェン人58%、ロシア人23%、イングーシ人13%だった。2020年のチェチェン共和国の人口は148万人、2010年の民族割合ではチェチェン人95%で、2番目のロシア人は1.9%。

 ソヴィエト連邦解体とチェチェン独立の動き。第1次と第2次チェチェン戦争
  (以下はウィキペディアなどを参考に)
 1985年にソヴィエト共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは「ソヴィエト連邦離脱法」(1990年4月30日)を法制化した。
 ロシアを含む15構成共和国は1990年2月5日に採択された「ソ連共産党政治綱領」に基づき相次いで主権独立宣言を行った。チェチェンでは1990年11月27日の全チェチェン協議会で「ソヴィエト連邦からの独立及びチェチェン人の主権宣言」が全会一致で批准。1991年6月、ジョハル・ドゥダエフ Джохар Дудаев将軍らの全チェチェン協議会はクーデターにより共産党政権を打倒し政権を奪取。以来、チェチェンは事実上の独立状態となる。(厳密には、連邦離脱法はソ連邦構成共和国の離脱を念頭に置いたものであり、当時ロシア共和国内の自治共和国であったチェチェンには適用されない)。
 主権独立宣言を行ったソ連構成15共和国のうちバルト3国とモルドバを除く11主権共和国(ロシア、グルジア、ウズベキスタンなど)は1991年9月1日、旧ソ連邦からの移行を宣言した。 (バルト三国はその前に独立宣言)
 チェチェンでは「ソヴィエト連邦離脱法」に基づきソ連からの連邦離脱を問う全国民投票を1991年10月27日、憲法の規定を満たし実施した。独立チェチェン共和国(チェチェン・イチケリア共和国)の初代大統領としてジョハル・ドゥダエフ将軍が選出された(イングーシ人はボイコットした)。国民投票の結果、離脱要件を満たす得票が得られ、11月にドゥダエフ将軍はソ連邦からの離脱を宣言した。この宣言は合法であったが、エリツィンは11月8日に「チェチェン・イングーシ共和国の非常事態宣言」を声明、内務省治安維持部隊を派遣したが、チェチェン軍の猛反撃に合い撤退を余儀なくされた。
 1991年12月26日ソ連最高会議共和国会議がソ連邦消滅宣言を行う。12月31日深夜、69年間続いてきた「ソヴィエト社会主義共和国連邦」はその歴史を閉じた。エリツィンは「ロシア連邦条約(新連邦条約)」によりロシア連邦の崩壊防止に当たった。「新連邦条約」に21共和国中(かつてのソ連邦構成ロシア共和国内の自治共和国)19国が署名。1992年3月13日に「ロシア連邦」として再生することとなる。一方、チェチェン・イングーシ共和国とタタールスタン共和国はロシア連邦に参加しなかった。
 *ソ連 1922年樹立されたソヴィエト社会主義共和国連邦には、連邦国家であるソ連邦の中に連邦国家のロシア共和国(ロシア・ソヴィエト社会主義共和国連邦)が含まれ、さらにその中に16の自治共和国、自治州、自治管区などがあるという、奇異な国家構成を採っていた。1987年の時点ではロシア共和国の中に16の自治共和国が存在していた。1991年のソ連解体に伴ってロシア連邦内の自治共和国は全て共和国に格上げされた。また、1991年7月、4自治州も共和国に昇格。以下のようにイングーシがチェチェンと分離してロシア連邦に加入したので1992年の自治共和国は、チェチェンもいれれば21共和国
 1992年6月にロシア連邦大統領令により、チェチェン・イングーシ自治共和国が、チェチェン共和国とイングーシ共和国(ロシア連邦成員としてイングーシ共和国の成立という法令によって)に分離する。1993年12月、ロシア連邦憲法が国民投票で可決され、成立。1994年2月15日、タタールスタン共和国がロシア連邦に加盟し未加盟国はチェチェンのみとなる。  
第一次チェチェン紛争
 1994年12月、チェチェンの分離独立を阻止するためにロシア軍が軍事介入、第一次チェチェン紛争に突入する。エリツィンは「憲法秩序の回復」のためチェチェンへの侵攻を開始したと主張した。翌年にはロシア軍が首都のグロズヌイを制圧。ロシア軍が広域に渡って支配権を回復したことで、エリツィンは一方的に休戦を宣言し、軍の撤退を始めた。
 1996年4月21日、ドゥダエフ大統領がロシア軍のミサイル攻撃で戦死する(*)
*ドゥダエフ暗殺 第一次チェチェン戦争の最初から、ロシアの特殊部隊がドゥダーエフをねらっていて、 3回の暗殺未遂は失敗に終わった。 1996年4月21日、ロシアの諜報機関は、グロズヌイから30 kmのゲヒチュの村の近くでドゥダエフの衛星電話からの信号を検出し、ホーミングミサイルを備えた2機のSu-25攻撃機が発射された。ドゥダエフは、ヴァロフ氏(議員・企業家)との電話での会話中にロケット攻撃で破壊されたらしい。

 8月にはチェチェン軍がグロズヌイを奪還、同月末に独立派のアスラン・マスハドフ参謀総長がロシア連邦のアレクサンドル・レベジ安全保障会議書記と停戦に合意する。(ハサヴユルト和平合意)。その内容はチェチェンの独立を5年間凍結し、国家としての地位は2001年に再度検討するというものであった。1997年1月にロシア軍は完全撤兵。この紛争で一般市民は約10万人が死亡し、およそ22万人の難民が隣接する三共和国に流出することとなった(ウィキペディアによる)。
 1997年1月28日に大統領選挙が実施され、マスハドフが大統領に選出された。5月12日にモスクワで、マスハドフ大統領とエリツィン大統領の間で「平和と相互関係に関する条約」(Договор о мире и принципах взаимоотношений между Российской Федерацией и Чеченской Республикой Ичкерия)が締結される。(この条約には両国間の400年に及ぶ戦争の終結も宣言されている、確かに17世紀から一度も友好的になったことはない。今もそうかも知れない)。
  (*)後にアンドレイ・サハロフの未亡人エレーナ・ボンネルは「この戦争はエリツィン再選のために仕組まれたもの」とアメリカ上院議会で証言した。実際、1992年1月の「経済ショック療法」開始以来、急激なインフレが庶民を襲いエリツィン政権の屋台骨を揺るがしかねない内政問題になっていた。「国民の内政への不満を侵略戦争で逸らす」という古典的な帝国主義の政治理論にエリツィンは依存したのである。『ハサヴユルト和平合意』の5年間凍結とは『ソヴィエト連邦離脱法』(1990年4月)の3要件の中の『5年の移行期間』と同じ要件であった。しかし、ソ連邦のすべての条約を引き継いだとするロシア連邦は離脱法を遵守せず、民族問題におけるレーニン主義(民族自決)も引き継がなかった(ウィキペディアによる)。

 ダゲスタン介入
 1999年2月にマスハドフ大統領はイスラム法を発効させる。7月、ダゲスタンとスターヴロポリ地方のチェチェン国境付近で、紛争があり、ロシア側から国境がほぼ閉鎖される。8月7日にチェチェンの一部過激勢力(シャミル・バサーエフなど)が、隣接するダゲスタン共和国を解放すると称して越境侵入。ロシア軍との間で戦闘が再開する。ロシア政府は8月13日にチェチェンなどのイスラム武装勢力の拠点に対する攻撃を警告する。
 ロシア高層アパート連続爆破事件
 1999年におきたモスクワなどロシア国内3都市で発生したロシア高層アパート連続爆破事件は、計5件300人近い死者を出した。ロシア連邦は、爆破事件やダゲスタン侵攻を理由にチェチェンへの侵攻を再開し、第二次チェチェン戦争の発端となった。プーチンの対チェチェン強硬路線は反チェチェンに傾いた国民の支持を集め、彼を大統領の座に押し上げた。
 連続爆破事件については、未遂に終わったらしい「リャザン事件」において、ロシア連邦保安庁(FSB)による関与の可能性を裏付ける証拠証言が多い。また、2002年、イギリスに亡命していたロシア連邦保安庁(FSB)の元職員アレクサンドル・リトビネンコは自著 『Blowing Up Russia:Terror From Within』のなかで、「事件は、チェチェン独立派武装勢力のテロとされたが、 実は第2次チェチェン侵攻の口実を得ようとしていたプーチンを権力の座に押し上げるためFSBが仕組んだ偽装テロだった」と証言している(その後、リトビネンコは2006年、亡命先のロンドンにて、放射線被曝によるらしい不審死を遂げた)。
 アパート爆破事件の直前に発生し、ロシア軍のチェチェン侵攻のきっかけとなったチェチェン武装勢力のダゲスタン共和国侵攻に関しては、過激派指導者シャミル・バサーエフが関与を認めているが、アパート爆破事件に関しては、バサーエフは関与を否定している

第2次チェチェン戦争
 チェチェン独立派勢力(チェチェン・イチケリア共和国)と、ロシア連邦(およびロシア連邦が後ろ盾となった反イケチリア政府のチェチェン人勢力)との間で発生した紛争(1999年から2008年)。ロシア連邦側は『北カフカースにおける反テロ作戦』と公式に名付けている。
 1999年8月7日から9月14日、独立最強硬派武装勢力のイスラム国際戦線を率いるシャミル・バサーエフとアミール・ハッターブと1500名程のチェチェン人武装勢力が隣国ダゲスタン共和国の支持者(バサーエフはダゲスタンに独自の勢力を持っていた)と呼応して、ダゲスタン国境付近へ侵攻し、一部の村を占領するという事件が発生する(上記・ダゲスタン介入)。チェチェン共和国イチケリアの公式政府(マスハードフ大統領)は様々な(バサーエフなどの)武装勢力の行動を制御できなかった。また同時期にモスクワではアパートが爆破されるテロ事件が発生し百数十名が死亡した(上記)。これを理由にロシア政府はチェチェンへのロシア連邦軍派遣を決定。ウラジミール・プーチン首相の強い指導の下、8月25日にはロシア軍がチェチェン勢力掃討のためヴェデノ村(過激派の基地があった)空爆。チェチェン政府からの公式抗議に答えて『ロシア連邦軍はチェチェンを含む北カフカース地域の過激の基地を攻撃する権利を保留する』と宣言。9月18日ロシア軍がチェチェンの全国境(ダゲスタン側、スターヴロポリ側、イングーシ側、北オセチア側など)を閉鎖(南のグルジアとの国境は閉鎖はできない)。9月27日プーチン首相は、ロシアとチェチェンの大統領会議を拒否し(『武装勢力に傷をなめさせるための会合はないだろう』と言って)、空爆を開始した。ハサヴユルト協定は完全に無効となった。
   (*当時、名前が出たばかりのプーチンは大衆受けする表現をよく使って、自分をアピールしていた。チェチェンを罵倒する表現は『愛国者』にうけて、プーチンの評判はあがった)。
 
 1999年9月23日 、ロシア連邦軍、チェチェンの首都グロズヌイに対する無差別爆撃を開始。 9月30日 、ロシア軍地上部隊、チェチェン侵攻を開始。プーチン首相はマスハドフ政権の合法性を認めず、チェチェンの分離独立派排除を試みる。戦争の最初の数ヶ月間、ロシア軍は制空権の優位性をうまく利用し(チェチェンに空軍はなかった)、チェチェン・イチケリア共和国の事実上の首都であるグロズヌイや他の主要都市ばかりか、ほぼすべての村々のへの激しい無差別毯爆撃や弾道ミサイルによる攻撃を行った。チェチェン共和国イチケリア軍事評議会で、マスハードフ大統領は聖戦を呼びかける。西方面はルスラン・ゲラエフ、東方面はシャミール・バザエフ、中央方面はマゴメド・ハンビエフによって連邦軍の打撃を反撃すると決定(つまりマスハードフは心ならずも受けて立ったということになる。
 10月16日、連邦軍はテレク川北のチェチェン領土を占領。10月18日、ロシア連邦軍がテレク川を横断。10月29日−11月10日、グデリメス市(テレク川の南10キロ)の戦い。連邦軍側にたったヤマダエフ兄弟、アフマト・カディロフ(チェチェン人だが反マスハード勢力)は、グデリメスを連邦軍に降伏させた。12月14日、連合軍はハンカラ軍空港を占領(しかし、その後もハンカラは両軍の戦闘が絶えなかった)。1999年12月までに連邦軍はチェチェンの平野部全体を支配下においた。独立派は山中(約3000人)とグロズヌィに集中。1999年12月26日から2000年2月6日、グローズヌィ市封鎖。2000年1月から2月にグローズヌイ近郊で行われたチェチェン戦闘機とその指導者の部隊を破壊するためのロシア連邦軍の『オオカミ狩り』と言う名称の作戦で、連邦軍がグロズヌイのほとんどの地域を制覇。独立派のグローズヌィ市長なども戦死した。
 
 2000年2月5日グローズヌィ郊外のノーヴィエ・アルディ町 Новые Алдыでロシア連合軍による民間人への集団虐殺があった。それは、1999年秋、同区にあるモスクにアスラン・マスハードフやゼリムハン・ヤンダルビエフ達が来て祈り、ジハードを行うと誓った場所であり、2000年2月独立派のアフメド・ザカエフの分記隊が村に入ったが、村人の説得で出て行ったと言う村だ。2月5日連邦軍の2部隊は、村を掃射し60人ほどの村民を虐殺した、という事件だ。 これはヒューマン・ライツ・ウォッチ Human Rights Watch (HRW)が とり上げたことで知られるようになったが、似たような事件は多かったにちがいない。
 HRWは2000年に何千人ものチェチェン人がロシア軍によって不正に拘束され拷問されている事実を公表した。また、彼らのほとんどは家族がロシア当局に高額な身代金(賄賂)を支払った後にのみ釈放されると報告している。国連人権委員会の決議にもかかわらずロシア当局は調査委員会を開いていない、と指摘された。2000年4月にメアリー・ロビンソン国連人権高等弁務官がチェチェンを訪問する。彼女は後に国連人権委員会でチェチェンでの人権侵害はロシア軍によるものとして非難した。2001年の報告書ではチェチェンに超法規的殺害の痕跡のある遺体が投げ込まれた数カ所の墓地があると指摘。2003年の報告では、戦争によって破壊された地域全体で遺体の破片が多く見つかっているが、軍部はそれらを隠蔽していると主張している。

 1999年12月17日ー2月15日、連合軍は山岳部イトゥム・カレ区のイトゥム・カレ村からグルジアのシャティリ道を制覇し、封鎖した。2000年2月22日ー29日、シャトイの戦闘。アルグーン峡谷のシャトイ村は19世紀のカフカース戦争の時からチェチェン人の牙城だった。平野部から山岳に入る戦略的に有利な場所にあった。カフカース戦争でも、21世紀のチェチェン戦争でもここで大激戦が起き、かつてはロシア帝国軍、現在はロシア連邦軍が制覇する。しかし、マスハードフ大統領や野戦指揮者ハッターブ、バサーエフなどイチケリア国の指導者は脱出する。シャトイ戦の勝利でロシア連邦軍司令部は、これで大がかりな戦闘は終わったと宣言している。
 ウィキペディアの『第2次チェチェン戦争のタイムラン』には、独立派軍とロシア連邦軍との大小の規模の戦闘が多く、毎日のように記録が載っている。チェチェンに関してはロシア側からの記事とチェチェン側からの記事では事実は同じでも、表現が大いに異なる。一方の敗北は他方の勝利。『タイムラン』はロシア側から書かれている
 本格的な戦争はこれで終わったというシャトイの戦闘の後の『タイムラン』の記事を抜粋すると;
 2000年3月20日大統領選挙の前夜プーチンがチェチェン、グローズヌィを訪問。
 2000年4月20日、連邦軍は軍事部隊による作戦を終了し、特殊部隊による継続を発表。(徴兵された多数の連邦軍による戦闘から、特殊な訓練を受けた少数の精鋭隊へ)。本格的な軍事作戦は中止された、と言うのも独立派は首都を追われ、牙城のシャトイも攻撃されたので、その後はゲリラ武力攻撃、テロ攻撃になる。
 2000年6月11日、ロシア連邦によりアフマト・カディロフがチェチェン政府の臨時首長に任命される。(2003年10月には選挙によってチェチェン共和国首長に。しかし2004年5月に、独立派の仕掛けた爆弾により死亡)
 2000年後半からのウィキペディアの『タイムラン』には、戦闘と言うより独立派ゲリラによるロシア連邦軍の戦闘機などの『損失』、チェチェン領外の諸都市における独立派によるテロによる爆破。2002年10月のモスクワ劇場占拠事件や2004年9月のベスラン学校占拠事件などや、ロシア連邦軍の特殊部隊による独立派の戦指揮者への殺害『成功(失敗もあったか)』の記事が多くなる。
 2002年3月20日、ロシア連邦保安庁の特殊部隊のよって野戦指揮者ハッターブが毒殺される。
 2004年2月28日、グルジアのパンキス峡谷に基地を作ったルスラン・ゲラーエフ Руслан Гелаевが、ダゲスタンでの戦闘で負傷して死亡。
 2004年2月13日、 第2代大統領ゼリムハン・ヤンダルビエフ(任期1996年4月から1997年2月)が移住先のカタールのドーハでロシア諜報機関職員により暗殺される。犯人は逮捕される。ロシア政府の引き渡し要求をカタール政府が拒否。しかし、後に引き渡す。
 2005年3月、チェチェン共和国イチケリア第3代大統領アスラン・マスハードフが、トールストイ・ユルタ村でロシア連邦保安庁の特殊部隊によって殺害される。(匿名の情報提供者にに1000万ドルが支払われたとか)。
 2006年6月17日、第4代アブドゥル=ハリーム(任期2005年ー2006年6月17日)が、ロシア連邦保安庁とチェチェン共和国内務省特殊部隊の共同作戦により殺害される。同日、在ロンドン・チェチェン独立主義者代表アフメド・ザカエフは、野戦指揮官の1人、副大統領ドク・ウマロフが大統領職を継承したと表明した。
 2006年7月10日、アブドゥル=ハリームの後を継いだドク・ウマロフ大統領により、2006年6月27日副大統領に任命された強硬派のシャミール・バサーエフはロシア南部イングーシ共和国でロシア軍部隊の作戦によりドローンを使った爆発物によって数名の仲間と共に爆殺された。強硬派で、ダゲスタン侵攻やモスクワ、ベスランのテロに関係していたというバサーエフの、独立運動のためならテロ行為も辞さないという姿勢は、当時独立戦争を戦う中で戦意の高まっていたチェチェン国内ではそれなりの支持を集めていた。しかし、国内穏健派や、それまでチェチェン独立派を支援してきた国外の勢力などは、独立派全体に「テロリスト」というイメージがつくことを恐れ、バサーエフの強硬路線には批判的であった。実業家ベレゾフスキーなどのロシア側からの援助も受けていたという。

 チェチェン・イチケリア共和国の第5代大統領だったドク・ウマロフは、2007年10月31日に北カフカースでのイスラム国家の建設を目指すカフカース首長国の建国を宣言しその首長に就任。2013年9月7日、ロシア治安部隊の特殊作戦によって毒殺された。ウィキペデアのウマロフに対する評価には『彼が今日最もよく知られていることはすべて、メディアのおかげで、シャミル・バサエフやサイド・ブリャツキーのように、カリスマ的な特徴を持つ人ではなかった』とある。
 『タイムラン』には、これ以後も独立派によるゲリラ襲撃とその反撃戦、数多くの独立派による爆破テロなどが記されている。
 2009年8月16日『北カフカスにおける反テロ作戦』の終了宣言。その後もカフカース首長国等のイスラム過激派達はロシア連邦軍とチェチェン共和国政府に対するゲリラ戦を継続していた。

 ウィキペディアによれば、『1999年ー2000年ロシア軍の戦闘が激しかったときから、独立派指導者の一部は西側諸国に対して仲介を要望しロシア連邦の軍事行動等に対しては抗議をしている。独立派に対するロシアのプーチン政権の強硬策に対する批判も一部から出て、独立派は紛争当初こそ各国から支援を得ていたものの、2001年9月アメリカ同時テロ事件が発生し、世界的な「テロとの戦い」という流れの中でチェチェン紛争もこの一部とされることが多く、紛争後期には独立派もアルカーイダ等の国際テロ組織との関係を疑惑視され孤立無援となったのだ』とある。

 ロシア当局の発表によるとロシア軍の死者と行方不明者は3560人。チェチェン独立派の戦闘員の死者は、ロシア側の主張では3万人。シャミール・バサーエフが2005年インタビューに答えたところでは3600人。民間人の死亡については、ロシア公式発表では20021年2月までの戦闘で1000人とある。非公式の資料では5−6千人の死亡、1−2千人の負傷とある。アムネスティ・インターナショナル(国際人権救援機構)の報告では2万5千人の犠牲者がでたとある。

 <2016年、2017年、2019年のチェチェンについてはそれぞれの紀行文も参考に>
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