クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 24 July, 2019   (追記・校正:2019年10月20日、12月28日、2020年1月17日、3月7日、6月21日、2022年1月22日)
37 - (5)   2019年 コミ共和国とチェチェン共和国 (5)
    グローズヌィ着
        2019年2月18日から3月6日(のうちの2月26日から27日)

Путешествие по республике Коми и Чечне, 2019 года (18.02.2019−06.03.2019)
   ロシア語のカフカースКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スと聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus

  コミ共和国スィクティフカル市へ  2月18日から2月26日
1 2/18-2/19 旅行計画 長い1日 ガリーナさん宅へ 複線型中等教育ギムナジウム
2/20 アンジェリカの祖先のコサック コミ文化会館 コミ・ペルム方言 歴史的地名インゲルマンランディア
2/21-2/22 博物館。蕎麦スプラウト・サラダ 図書館、連邦議会議員 ウードル地方ィヨルトム村へ ィヨルトム着 水洗トイレ付住宅
2/23-2/26 クィトシヤス祭り ザハロフ家 祭り2日目。橇 プロシャーク記者 コミからチェチェン
チェチェン共和国グローズヌィ市へ 2月26日から3月5日(チェチェン略地図,チェチェン略史)
5 2/26-2/27 グローズヌィ着(地図) マディーナ宅 マディーナと夕べ カディロフ博物館 トゥルパルとテレク川へ(地図) アーダムと夕食
6 2/28-3/1 グローズヌィ市内見物 野外民俗博ドンディ・ユルト (地図) チェチェン略史 マディーナのオセチア観 アルグーン峡谷へ ヤルディ・マルディの戦い ニハロイ大滝
7 3/1 歴史的なイトゥム・カリ区、今は国境地帯(地図) イトゥム・カリ村 タズビチ・ゲスト・ハウス ハンカラ基地(地図) 妹ハーヴァ
8 3/2 ジャルカ村のボス グデルメスとクムィク人 カスピ海のダゲスタン(地図) ハサヴユルト市 水資源の宝庫スラーク川 デュマも通ったスレーク峡谷
9 3/2-3/3 チルケイスカヤ・ダム湖 新道を通って帰宅(地図) イングーシ共和国ジェイラフ区には行けない(地図) 大氏族ベノイ 山奥のベノイ村 チェチェン女性と英雄、主権国家
10 3/3-3/6 地表から消された村 英雄エルモロフ像 国立図書館 いとこのマリーカ トルストイ・ユルタの豪宅 チェチェン飛行場
黒海とカスピ海の間に、北西から南東に長さ約1100キロ、最大幅幅約180キロに渡って伸びる大カフカース山脈の北麓の中ほどにあるのがチェチェン共和国で、ダゲスタン共和国やイングーシ共和国、北オセチア・アラニア共和国、カバルディノ・バルカル共和国、カラチャイ・チェルケス共和国、アディゲ共和国とともにロシア連邦の一員である。
大カフカース山脈の南にはアルメニア北部を通って、グルジア、アゼルバイジャンにわたる延長600キロの小カフカース山脈が横たわっている。
 スィクティフカル発、モスクワ乗り換え、グローズヌィ着
 2月26日(火)。早朝6時20分スィクティフカル空港発。ヤーナも同じ飛行機 。
ブヌコフ空港、グローズヌィ行の搭乗口近く
 ブヌコフ空港へはすぐ着いた。グローズヌィ行きの搭乗口もすぐ見つかった。搭乗口前の椅子にはさすが頭をヒジャッブで覆った女性が座っている。約束通り、マディーナに、私のロシア携帯から「今モスクワです」とSNS で送った。
 飛行機の遅延はなく、定刻の13時10分にグローズヌィ空港着。2年前のウラジカフカース空港より新しい。もちろんだ。チェチェンの建物はみんな新しい。マディーナは、自分か、自分の兄弟が迎えに行くと前から書いてきていた。兄弟と言うのは男性のいとこ、時にはまたいとこも含む。マディーナには妹が二人いるだけだ。
 空港に着いても、それらしい男性も女性もいなかった。イスラムでは女性が一人で空港のような公共の場所に出かけることはないらしい。飛行機が到着したというのに、ターミナル内のホールには到着客も出迎え人もまばらだった。ほかの空港ではあるようなタクシーの客引きもいない。髪を隠すような被り物をしていない女性は、もちろん私だけ。荷物が出てくるのを待つ間、もう一度電話してみた。すぐ行くから、とのこと。
 荷物受取場に行くと、すでに置いてあった。この飛行機には手荷物を預ける人は少なかったらしい。(UtAir社の手荷物料金は高騰したから)。(以上前ページと重複)
  スーツケースを持って出たところで、マディーナと会った。彼女は仕事場(医療機関)から白衣を脱いで駆けつけてくれたらしい。そばにいたイスラム風被り物(丸帽子)で黒いひげの男性が私のスーツケースを持ってくれた。服装も黒かった。空港を出て、車に向かう。乗ったのはBMWでマディーナの母親と紹介された女性が運転席にいた。先ほどの男性は私のスーツケースを自分の車(慎ましいロシア車ラーダ)に乗せて後からついてくる(と、後でわかったのだ)。 
 
 チェチェンへ行こうと思ったのは前年の12月で、マディーナにSNSで都合を聞いた。
「いつでもどうぞ、どこでも案内します」と言うことだった。
「お宅の近くに高くないホテルはないですか」と、きいたところ、
「なぜホテルですか、我が家に泊まってください」、と返事があった。
「家はどこにありますか」。「町の中心部です」。「空港からお宅まで遠いですか」。「近いです。私か、私の兄弟が迎えに行きます」。
 というので、彼女の家にお世話になることに決めた。カフカースの民族は客好きだ、という。また子沢山だ。彼女の家がもし大家族で、私のためにほかの家族が迷惑するようだったら、ホテルに移ろうと考えて、ルーブルを余計目に持ってきたのだ。(カードが使えない場合もある)
 マディーナ宅 グローズヌィ市内略図
 空港から彼女のマンションまでは確かに近かった。たいていの地方都市は空港が町の近くにある。復興グローズヌィの通りを眺める間もなくマンションに到着した。一応、途中で、助手席に座ったマディーナが、あれは出版社だとか、説明してくれたが。しかし、彼女の母親がなぜこのBMWを運転しているのか、あの黒い男性がどこへ行ったのか、知る間もなかった。到着したのは8階建ての新しいマンションの前だった。グローズヌィの中心部は、建物は美しく、どれも新しいからそんなものだと思った。あの黒い男性はトゥルパル=アリー Турпал-Алиと言う名だ。みんながそう呼んでいた。彼が私のスーツケースをもってエレベーターに乗ってくれた。8階まで行って、エレベーターのドアが開いたところ、そこからがもうマディーナのマンションだった。住居用の建物にはいくつかの入り口 подъездがあり、それぞれの入り口から入ったところにはエレベーターがあり、普通はエレベーターから出たところで、廊下があって、その廊下にはいくつかのドアが面していて、それぞれのドアは一家族となっている。しかし、マディーナ家は8階すべてを占めているわけだ。別の入り口から上がった8階のマンションは、どうなっているか知らない。高層マンションは縦でつながっている。
空港から自宅へ。運転はファーティマ
私の寝室にどうぞと言われた
サニタリー・ルーム
食道
玄関の間
エレヴェータールームへの入り口(左ドア)
外部のカメラからの画面が見える
居間、テレビもある
 
 ここは市の中心部だが、プーチン通りなどの交通量の多い通りとは通り一つ離れたこの一角は、富裕層の住む地区らしい。このマンション全体も富裕層が住んでいるらしい。というのは、どのマンションでも、広めの4DKのようだったから。しかし、マディーナのマンションは2区画を1つにつなげて修理したもので8DKだった。トイレもバスルームも2個あった。
 私の部屋ですと案内されたのは中央に大きなベッドと、大きな鏡台、大きな衣装棚のあるマディーナの部屋だった。彼女は隣の部屋に移った。3人家族に8部屋だから、場所に不自由はしない。この部屋の家具は普通の実用品ではなく、装飾の施された、つまり場所をとるような家具で、新古典派様式とでもいうのか、ヨーロッパ宮廷風というか、いわゆる重厚な家具だ。重厚な家具は、私が使わせてもらえる部屋ばかりではなく、食堂も居間も、8DKの部屋にある家具すべて、玄関も、エレベーター前の小部屋の家具もそうだった。
 寝室の衣装棚の中は整頓して空きがありますから使ってくださいと言われたが、スーツケースを開ける場所があれば、私の荷物はその中から出し入れできる。
 隣がトイレ・バスルームだった。こうした水場が広いのは気持ちよい。棚にはタオルが重ねてあり、使ってください、使ったら洗濯機に入れてくださいと言われた。そんなことはできなくて使ったタオルは自分の部屋に持ち帰り、繰り返し使った。(日本で洗面台の上についているペーパータオルだって、私は1枚だけで両手の水分をすべてふき取る。そのうえ、洗面所周りの水滴もふき取ってから捨てる。エコを心掛ける)。
 ささやかな日本のお土産を渡す。前もってのマディーナからのメールでは、日本の国旗とかマグネットとか言われていたのだが、この豪宅にはあまりふさわしくなかった。イスラム関係の日本の本も3冊進呈したが。(幾何学模様の描き方。イスラムの書写美術、漫画イスラム)
 マディーナは母親のファーティマや、いつもこの家に来ている親戚の女性ズーラに日本のことをほめて話してくれる。たとえば、
「東北地震の時、多くの人が避難したが、その人たちへの食糧(か、何か必要なもの)の支給があり、長い順番ができた。(ロシアの)テレビに映っていたが、先が見えないくらい長い順番だった。が、その順番を乱す日本人は一人もいなかった。みんな整然と順番に並んでいた。ほかの国ではそうはいかない、災害があると暴動が起こる」。こう褒めてもらえると、他人の国にいることに、気分が楽になる。
 マディーナは仕事に戻っていった。次の日や次の日は、市内を町のガイドや、近郊をトゥルパルが案内する、という。金曜日は、自分は特別に休みを取る。金土日の3日間で、もしかしたら、宿泊できるようなところへ行くかもしれない、という予定だった。
 食堂のテーブルに食事が出された。いつも、食事は一人だった。そして全く時間が決まってなかった。食堂のテーブルも大きく重厚で椅子も重厚、つまり引いたり出したりするのはなかなか骨が折れた。壁には鏡の付いた重厚な(ほかの形容詞は思いつかないから、何度でもこの語を使う)チェストがあった。また、そろいの、高価そうな食器の入った食器棚も重厚だった。ロシアでは食器を、日本のように桐の箱に入れないで見せるように飾る。
 前もって、私はあまり食事ができないと書いておいた。牛乳はダメです。食べるのはおかゆとかパンとかスープです、と知らせてあったので、あまり肉攻めにはあわなかった。とてもおいしい焼き魚が出たこともあったが、大きくて食べきれなかった。片身だけ食べて後はごめんなさいと言って残した。マディーナの家には、母親のファーティマと父親のルスランの他、前述のズーラと言う年配の女性もいる。ファーティマが心臓の手術をして以来、仕事をしないで家にいるので、一緒にいてほしいと頼まれて昼間だけやってくる親戚の女性だ。彼女が食事を作ったり、掃除、洗濯を手伝ってくれるわけでもないと言われた。
 家での食事はたいてい一人だったが、ファーティマさんが向かいに座ってお茶を飲んでくれることもあって、私は真っ先に、1944年の強制移住や1996年からのチェチェン戦争で犠牲になった近親者はいないだろうかと聞いた。。。。
 その後、居間でテレビでも見ていてくださいと言われて、大画面(畳1枚)のテレビの前にある重厚なソファに座ってみた。この家の豪華な絨毯とシャンデリヤも言及するのを忘れてはならない。
 これらの、エルミタージュとは言わないが、チェコのお城にあるような家具類をどこで調達したのだろうか。食堂の家具はドバイで買って、コンテナで運んだそうだ。グローズヌィ市では売っていない。別の部屋の家具はイタリアで調達したとか。何せ8部屋と玄関がある。マディーナと私の部屋群と、ファーティマとルスラン夫婦の部屋や彼らの居間群、2部屋の居間
、いくつかの玄関の間などもある。
 家具は、前述のように、ヨーロッパ風だ。つまり帝政ロシア風だ。なぜ、ロシア帝国風、つまりロシア連邦富裕層向けの家具を集めたのかな。チェチェンの『血』と伝統を大切にしているはずなのに。
 玄関の間には壁にビデオからの画面が掛かっていた。マンション前の駐車場、入り口、エレベーター前、エレベーター内、最初の玄関の間などにカメラが仕掛けてあって、居ながらにして、ここに近づく者を細かく監視できる。思わず、すべてのマンションにはこんな監視カメラがついているのかと聞いてしまった。何せ富裕層のマンションだから。が、答えは否。
 マディーナの仕事は精神科医だ。精神的障害者鑑定医師だそうだ。つまりその患者が障害者年金を出すような障害者かそうでないかを見分けるそうだ。患者は障害者と認定してもらいたがる。いくら賄賂の横行している国でも、そのために医師に巨額な金品を渡すとも思えない。後でわかったことだが、ファーティマさんの実兄が医療関係のトップなのだそうだ。医療・社会監査省 Министр Медико-социальная экспертизаと言って、チェチェン共和国ではなく連邦政府の管轄下にある。その省のトップとかがマディーナの伯父になる。ファーティマも医師だ。マディーナの妹のアミーナ Аминаは法科卒でモスクワでレストラン業をやっている。既婚で子供もいる。下の妹ハーヴァ Хаваはモスクワの医大在学中。
 マディーナとの夕べ
 この日の夕方、仕事から帰ったマディーナと、カムリに乗って、カフェに行く。運転していたのは、やはり黒い服で丸帽子はかぶっていないので頭髪のないことがわかる親戚の男性だった。マディーナの父ルスランの甥でマメードという。はじめのカフェでは、コメの粥がメニューにはなかったが、特別に注文できた。時間がかかるとのこと。前もっての私からのメールには「私が食べられるのはおかゆ、パン、スープ」と書いておいたからだ。ボルシチもメニューにあったので注文。食べてしまうと、お腹がいっぱいになった。マディーナたちが立ち上がる。私も立ったところで先ほど特別注文のコメのお粥が運ばれてきた。ウェイトレスとコックさんにはとても悪いが、手を付けなかった。私は「ごめんなさいと」小さい声で言ったが、連れは出口へ向かっていた。
いとこのマメード
2軒目の喫茶店で

 途中で旅行会社に寄った。金曜日から休みを取るマディーナと、どんなコースがあるかと調べたり、車の予約をするためだ。チェチェンの名所はカゼノイ湖だが、そこへは2年前マゴメド・ザクリエフさんと行ったことがある。私の当初の予定では、観光名所へはあまり行かない。田舎へ行く。マディーナの親せきは多いので、田舎にもいるはずだ。訪問させてもらって、知り合いになりたい。というものだった。それは残念ながら、まったく実現できなかった。マディーナ一家以外に話したのは、2人の年配の『いとこ(母の姉妹の子)』と、車を運転してくれた男性の『いとこ』以外はガイドのみだった。

 夜道を歩いて帰った。マディーナの質問、
「日本ではどんなビジネスが人気があるか」つまり、皆がやりたがるとか、儲かるかということ。ビジネスと言うのはもともと仕事、事業、営業、商売、商社と言う意味だが、ソ連崩壊後この言葉は当地では魅力的に響いた。ビジネス・マンといえば、つまりお金持ちだ。崩壊後の放任時代、安いところから仕入れ高いところで売ると言う流通マンに誰もがなろうとした。給料の安い医師や大学職員よりずっと魅力的で、目先の効く男性(資金をうまく流動させ、情報に目ざとい)なら転職した。女性も。
 マディーナの言うビジネスが起業家と言う意味なら、日本流で言えば、TI関係とか、チェーン店関係とか、ベンチャーか。何と答えればいいのだろう。彼女はレストランや美容院の意味だったらしい。日本の昔なら町工場で素晴らしい品質の、そこでしかできない技術で製品を作り、世界中でシェアを独占し、中には大会社になった場合もあったそうだが。今でもあるだろうが。マディーナはそんな意味ではないらしい。
 カディロフ博物館
 2月27日(水)。私が目覚めても、たいてい一家はまだ眠っている。起きるとすぐに軽い朝食を取りたいので、私はビスケットと飲料水はいつも持ち歩いている。マディーナ宅の台所へ行ってみると、ビスケット(クラッカー)や菓子類が大きな器にのせてあった。食堂のテーブルの上にもチョコ菓子などがある。そのビスケットを食べてみるとコミのィヨルトム村で買ったクラッカーよりおいしかった。実は、ィヨルトム村にいる頃、日本から持参のビスケットがちょうどなくなったので、村をセルゲイさんの車で回っている時、村一軒の店に皆で入ったのだ。そこで買えたビスケットを、少しずつ減らしながらグローズヌィまで持ってきていたのだ。
栄光記念総合施設内の
アフマト・カディロフ博物館
イランのシャンデリヤ、スペインの大理石
私とガイドの間のウインドウには
上の写真のアフマトのネクタイの実物
『栄光記念総合施設』敷地内のトゥルパル
モスク『チェチェンの心』の内部
非ムスリムは触れてはいけないコーラン

 やがて、ファーティマさんも起きてくれて、前もって言ってあるようにパンや目玉焼き程度の朝食を並べてくれた。量が多かったので残したが、こんな普通の食事なら助かる。マディーナも付き合ってお茶を飲んでいた。私が今までどの宗教に接したかと聞く。10代の頃、キリスト教の教会に行ったこともある。私がなぜイスラムでないのかというようなことを聞く。日本は一応仏教国だが、どこの国でもあるように民俗宗教も並行している。または日本的な仏教だ。日本はお寺は多いが、住民の多くが一神教の(旧約聖書を認める、つまりイスラムも含む)国のように、あまり信仰心が強いとは言えない。私も無宗教だ。しかし、どの宗教をも尊敬している(距離を置いている)、といつも言うことを繰り返すと、ファーティマさんから、その通りですと賛同された。(危険な宗教もあってそれは除外)。
 この日の夕方、のことになるが、マディーナと一緒に歩いていた時、なぜ唯一の神を信じないのかと問われた。その神は自分たちや地球のあらゆるものや宇宙を創造した。こんなことができるのは神(アラー)だけだ。そうかもしれないが、私は「自分はダーウィン主義者である。また、宇宙論については最新の天文、物理の成果に期待している(難しい専門書は読めないが)」とは、言わなかった。

 朝食後10時頃、トゥルパルが下で待っているからといわれる。グローズヌィ最初の見物は『大祖国戦争勝利とチェチェン初代大統領アフマト・カディロフに捧げるアフマト・アブドゥルハミドヴィチ・カディロフ名称栄光記念総合施設 Мемориальный комплекс Славы имени Ахмата Абдулхамидовича Кадырова ? мемориал, посвящённый Победе в Великой Отечественной войне, а также первому Президенту Чеченской Республики Ахмату Кадырову.』だ。長い名前だ。『カディロフ博物館』と言えばグローズヌィにはここしかない。(チェチェンの各市町村にも小型がある)。これは3年前初めて来たとき、マゴメド・ザクリエフさんに連れられて真っ先に行ったところだ。各地から観光バスを連ねてツーリストが来ると言うチェチェン最大の名所だと言われた。広い敷地内に立派なアーチや、騎馬の『英雄』の銅像、新しいイスラム風の丸屋根の建物がある。建物の前には例の、つまりモスクワの傀儡だとも言われ、だから、一部の人々からすれば裏切り者の、しかし、別の人々からはチェチェンに平和をもたらした偉大な人物だ、と思わせられているアフマト・カディロフの上目遣いのちょっとはにかんだような肖像を彫った記念碑が建っている。町中にあるアフマトの数種類の写真のうち、これが、私は一番好きだ。ここにはロシア連邦英雄勲章とともに大きな肖像画と『アフマト‐ハッジ・アブドゥルハミドヴィチ・カディロフ(1951−2004)は勝者として去った…プーチン』と言う碑文が刻んであるのは3年前確認してある。(ハッジはイスラム教徒で聖地メッカへの巡礼を終えた人々への尊称)。

 トゥルパルが受付で話している。今日は休館日だそうだが、交渉してくれたのかガイドが近づいてきた。とても感じの良い男性だった。来館者が待つ玄関ホールは、はっと息をのむほどお金をかけた造作だ。丸屋根の天井から下がっている1.5トンもの巨大なシャンデヤはイランへ特別注文したと言う。750個のランプがついているそうだ。床や階段の大理石もスペインから運んできた。
 ガイドは、カディロフの執務室から見ていきましょうと言う。若めのプーチンの肖像写真が背後にある大きなデスクなどが再現されている。ついでアフマト・カディロフの古い写真も説明してくれた。強制移住地カザフスタンで生まれ育っている。後に、つまり、高官になってから彼が訪れ、地元民と親しく交流している写真もある。彼の個人所有物の服や筆記用具などもガラスの中に展示されている。勲章なども多い。ガイドの説明は丁寧で私にもわかりやすかった。カディロフがいかに平和を愛していたかと繰り返し説明した。確かに、チェチェンでの敵味方かもわからない残劇をモスクワに有利なように終わらせたのだから。
 しかし、当時チェチェンの両派の指導者同様、執拗に命が狙われていた。独立派の指導者のほうは21世紀初めまでには全員が連邦軍の特別任務隊によって暗殺されたが、カディロフもその独立派から命をねらわれていた。2004年5月9日対ドイツ戦勝利記念日にカディロフ暗殺が成功する以前から何度も命拾いをしていた。一度は爆弾をからだに巻いた女性(?)がカディロフの方向に走ってきた。それを身をもって止めたのは一人の警備員で、女性も彼も死亡、カディロフは助かった。その警備員の写真もあった。運命の5月9日戦勝記念日にカディロフはモスクワに招かれていたが、行かなかった。その日グローズヌィに賓客が来た。賓客は主人の左手(もしかして右手と説明されたかも)に座る(立つ)もので、カディロフはその賓客と当日になってから席を交換し、彼の右手(左手)に立った。爆破は賓客の右側(左)の席に仕掛けられてあった。だからカディロフは死亡したが、賓客は重傷だが命が助かった。その事件では7名が死亡、50名が負傷した、とある。仕掛けたのはシャミーリ・バッサーエフ(1965−2006、後述)で、実行者には5万ドル支払ったとか。
 戦争で大勢の平和な市民が死んで行くチェチェンに平和をもたらしたという(モスクワの手先の)カディロフを本当に尊敬し(メディア操作によってか、たいていのチェチェン人は表面は「尊敬しています」と言う)、彼の死を心から悼んでいるようなガイドに、私はすっかり好感を抱いて、一緒に何枚も写真を撮った。彼はダジャブライロフ Джабраилов Аслан Дакаевичと言う。彼の胸の名札もとらせてもらったのだ。
名札も撮らせてくれたガイドさん

 1時間半ほども丁寧にわかりやすく説明してくれたので、相手の口調にやすやすと載ってしまう私は、はにかみ目線のアフマト・カディロフに好感を持ったくらいだ。外に出ると、駐車場に確かに大型バスが1台止まっていた。それはアルグーン市からグローズヌィへ来たもので、今では、3年前のように、各地からバスを連ねて観光に来ると言うほどではないようだ。
 近くに『チェチェンの心』モスクがある。行ってみたいとトゥルパルに言って、首に巻いていたネッカチーフを頭に巻きなおして、入ってみた。トゥルパルは髪の毛が見えないように巻かなくてはならないと言う。今回チェチェンで会ったチェチェン人のうち彼が最も敬虔なムスリムだったと思う。
 モスクの内部、いつ見てもこの幾何学模様は美しい。2階の女性用ホールの片隅にコーランが置いてあった。『イスラムでない女性は手を触れないでください』と書いてあった。このコーランは美しいアラビア文字で書いてあるのかもしれない。日本にも翻訳はあるが、コーランは読誦するもので、本当は訳してはいけない。日本だと『漫画コーラン』さえあるのだ。翻訳コーランが読み通せなくとも漫画の方を読んでも、少しはわかる。
 モスクから出ると、トゥルパルは私をマディーナの家に送る。彼はお昼の祈りに参加するため先ほどのモスクに戻ったのだろう。
 テレク川、トルストィ・ユルタからグデルメス。アルグーン
 
上記北カフカース地方の地図から、チェチェン
1.グローズヌィ市 2.トールストイ・ユルタ町 
3.アルグーン市 4.グデルメス市 
5.イトゥム・カレ 6.ベノイ
グローズヌィ市北の軍関係建物
テレク川辺に出てくれたが
グデルメス市のモスクの前のトゥルパル
アルグン市のモスクの2階の窓から
アルグン・シティの高層建築群を見る
アルグン市のモスク内、礼拝者は少ない
 午後は3時過ぎからトゥルパルは始めてくれた。山岳へは週末にマディーナといくことになっている。市内は明日ガイドが回ってくれる。今日はどこへ行きたいかと聞かれたので、テレク川を見たいと答えた。テレクはカフカース山脈南のグルジアからダリヤル峡谷をつくって北へ、オセチアを流れ、マズドク市の辺りで右折、つまり、東へ曲がり、ほぼまっすぐ東に流れ、イングーシを横切り、チェチェンを横切ってダゲスタンに入り、やや北へ弧を描いてカスピ海に注ぐ。2年前の北オセチアの首都ウラジカフカース市では市中を流れるテレク川を何度も見た。写真も撮った。ウラジカフカースでは山川が平野に出たところで、まだ流れも速かった。その川が北のステップと南のテレク丘陵の間(大雑把に言ってチェチェン平野)を流れる頃はどんな様子なのだろう。川は川でどこも同じなのだが。他に行きたいと言う場所が思いつかなかった。
 グローズヌィ市はどこも、プーチンかアフマトかラムザンの大きな肖像写真が建物の入り口や壁にある。プーチンとアフマトの写真の間にチェチェン語とロシア語で「歓迎」とある建物の前も通り過ぎた。軍関係の学校だという。『ハンカラ』の支部のようなものか(ハンカラ基地は後述)。
 市の中心にあるマディーナ宅から北へ向かい、テレク丘陵を超えるとトルストイ・ユルタ町に出て、さらにまっすぐ行くとテレク川にぶつかる。トルストイ・ユルタ町はファーティマの出身地だと聞いている。同町は18世紀初めからの古い村で人口も8000人だ。ガソリン・スタンドや、バス停の横には小さなモスクがある。トゥルパルによるとモスクは24時間空いている。ここで夜を過ごしてもよいという。(トルストイ・ユルタ村には後にファーティマと訪れた。)
 トルストイ・ユルタ町の横を通り過ぎてまっすぐ進むと、テレク川にかかる橋がある。テレク川の向こうはシェルコフ区(地図)だ。シェルコフ区はロシア帝国時代はテレク県キズリャール郡に含まれていた。革命後は所属がダゲスタン社会主義ソヴィエト自治共和国(当時)、ついで、スタヴローポリ地方と変わり、1957年に住民の大部分がロシア人(テレク・コサックの子孫か、その入れ替わり移住者)だったのに、復活チェチェン・イングーシ社会主義ソヴィエト自治共和国(当時)に編入された。復活チェチェン・イングーシは、復活されても、北オセチアが元々のイングーシ領のテレク右岸を返還しなかったり、元の山岳地方の領土が居住禁止だったりで、そのための『補償』だったと言われている。
 シェルコフ区はチェチェンでは南北60キロ、東西75キロと最も面積の大きい区で、人口は6万2千人。テレク川岸のほかは人口が疎らだ。ソ連崩壊前の1989年にはチェチェン人58%、ロシア人32%、ノガイ人15%(15−18世紀はノガイ・オルダのテリトリーだった)。2010年にはチェチェン人82%、ロシア人5%、ノガイ人6%と、ロシア人の割合が減った。というのも、ソ連崩壊の1990年前後は民族紛争が多発したところだ(チェチェン人によるロシア人と非チェチェン人排斥運動)。
 そのシェルコフ区へ行ってみたくもあったが、言い出せないうちに橋の手前で道路を出た。テレク川岸近くへ行くためだ。テレク川はここではあまり広くないどぶ川だ。中洲を作り、両岸の木々の間を流れている。「川は流れる」という情緒も特にない。オセチアのダリヤル峡谷から出たばかりのテレクはまだ山川で、流れがきれいだった。
 道路に戻ってテレクの下流への舗装道を行く。チェチェン油田はこの一帯にあるそうだ。19世紀には油田のために鉄道も敷かれたそうだが、まさか先だってのチェチェン戦争がこの鄙びた油田をめぐって戦われたのでもないだろう。
 チェチェン第3の都市グデルメスに向かっている。この道はテレク川岸の高台に通じている舗装道だ(下記、連邦道『カフカース』と平行に走っている)。見晴らしのいいところで降りて、勧められてテレクの写真を撮る。
 トゥルパルが再三尋ねるには「日本の土壌はどんなのか」。普通の土だと思うが、火山性だろうか、堆積土壌だろうか。こんな質問を外国人にされたら何と応えればいいのだろう。トゥルパルは、では砂地かと尋ねる。場所にもよるだろうが、海岸付近ならば砂地だ。我が家の菜園は黒い土だ。日本は広いから一口には言えない。
 30分も走らないうちにグデルメス市に近づく。ここにもグデルメス・シティと言う高層建築が数棟建つ新名所がある。モスクもあるはずだ。トゥルパルにそこへ行ってもらう。もしかして、ロシアにある建築物の中でモスクが一番私の気に入っているかもしれない。幾何学模様の壁や天井、見事なシャンデリヤ、裸足で歩ける、ぎっしりと敷いた絨毯、そのぶ厚い足さわりの良い絨毯には線が織り込まれている。座っても立っても、見上げてもいい気持だ。
 出口にあった説明文によるとタシュ・ハッジー Ташу-Хаджи名称グデルメス・モスクと言って2011年完成。3500人が祈れるそうだ。タシュ・ハジー(1770−1843)はイスラム指導者、19世紀のカフカース戦争で戦死、クムィク人かチェチェン人かは不明。彼の著作はクムィク語かアラビア語で書かれている。
 グデルメスはクラスノダール地方からグローズヌィを通りカスピ海へ行く連邦道の途中にある。それはほとんど北カフカースの東西をつなぐような主要道で、もちろんモスクワからの主要道ともつながっている。グデルメスとグローズヌィの途中にある市がアルグーン市だ。この市にも、連邦道からの出口と入り口にはアーチがあり、両脇にはプーチンとアフマト・カディロフの大きな肖像写真が掲げられている。(私が思うに、アフマト・カディロフはともかくプーチンをチェチェン人が好きなはずはない。それでも掲げてあるのはモスクワに見せるためだ。モスクワが見に来ないような(?)、つまり、市でも町でもない村のアーチにはプーチンはいない。プーチンを掲げるかどうかはどの程度の自治体以上というきまりがあるのだろうか)。2年前にマゴメド・ザクリエフさんとアルグーン市を通ってカゼノイ湖に行った時も、各市町村の入り口と出口に必ずある肖像写真付きアーチの写真を撮ったものだ。プーチンがいないアーチは息子で現首長のラムザン・カディロフの写真にかわる。チェチェン共和国から一歩出るとそれらの肖像写真は全く見かけなくなる。アーチ、つまり、凱旋門はヨーロッパの真似をするロシアの都市ではよく見かけるが、こんな大きな肖像写真の額縁代わりになるのは、ここくらいか。
 また、グローズヌィとグデルメスの中間のここアルグーン市にも『アルグーン・シティ』があり、その近くにモスクがある。2年前、ザクリエフさんに頼んで入ってみたが、素晴らしかった。今度も入ってみた。チェチェンでモスクを素通りはできない。この時間はちょうど夕べの祈りの時間の少し前だった。私は女性用の2階へ上がり、幾何学模様を追いながら歩き回っていた。祈りが始まる頃には、丸天井から下がっているランプがすべて点灯した。トゥルパルさんは1階で祈り、私は女性用の2階で祈りの様子を見ていた。導師のアラビア語の朗誦も素晴らしい。西アジアで生まれた宗教は男女差別するどころか、女性尊重だというのがマディーナの意見だが、このアラビア語の朗誦は絶対にアルトでやったり、混声ではやらない。
 この日の夕べの祈りでは、それほど多くのムスリムたちは集まっていなかった。1日5回、毎回は参加できないだろう。金曜日は多いと言う。2階には私一人かと思っていたが、入り口近くで年配の女性が一人祈っていた。

 東からグローズヌィ市に入るときは巨大なハンカラ基地を右手に見る。昼間より夜間の方が、広大さがよくわかる。行っても、行っても等距離で同じ明かりが続くからだ。
 7時前に私を送ってトゥルパルは去った。
 部すらんと食事、アーダムと3人で夕食
 この日、仕事から帰ってきたマディーナに誘われて、マンション下に降りてみると、トヨタ・ランクルが止まっていた。助手席に座って振り返ると、後ろにはマディーナと並んで幼い男の子が座っていた。
ベスランベックとウマ―ル
ケチャップで食べる寿司
アーダム

 カフェに入り、マディーナは注文しようとしたが、彼は断っていた。それでもテーブルにお皿が並び、マディーナはすしなんかも注文していた。ケチャップをつけて食べる。とてもハンサムなパパでベスランベック БесланБекと言い少年はウマール Умарと言う。マディーナのいとこのベスランは30歳半ば、ウマールは5歳だそうだ。「お仕事は?」と聞くと、無職だと言う。法科を卒業したそうだ。後でマディーナが言っていたのだが、ベスランは事故のため長く療養していた。実はロシア連邦保安庁、つまりKGBの後身のFSBに入りたいと思っている。しかし、その年では無理であろうとのこと。後のことであるが、私がグローヌィを去るとき、ウマールの祖母が繋げたと言う緑色の数珠を贈られた。
 無職だと言うのに、なぜランクルなんかを運転しているのだろう?富裕層だから仕事はなくても食べて行けるのか。なぜか、彼とマールはは1時間も座っていないで帰った。マディーナは私たちの移動のために、ランクルの所有者を呼んだかのようだった。彼ら父息子が去って、30分後ぐらいすると別の男性があらわれた。アーダム(*)と言う。マディーナの婚約者と紹介された。マディーナが3月末に結婚するとはメールに書いてあった。マディーナは32歳、アーダムは25歳で、仕事を尋ねると3個あると言う。家具のデザイン、ガードマン、タクシーの運転手だ。このタクシーの運転手と言うのは自分が車を持っていれば、誰でもできるサイドビジネスのようだ。タクシー会社に登録して、乗車希望者から電話があった時には回してもらうと言う。その場合は、登録料や手数料などがかかるだろうが、ただ流しでやっているタクシーもいる。アーダムはどんな形かわからない。彼の車は慎ましいラーダ。それでも、車が持てると言うのは、それなりの収入があるのか。彼の母親はモスクワにいる。
(*)アーダム、旧約聖書を聖典とするところではよくある男性の名。キリスト教ではアダームとエヴァとなっているが、イスラムのアラビア語ではアーダムとハッヴァー Адам и Хавваという。
 彼はたぶん、マディーナのような富裕層出身ではない。彼らの会話は年上のマディーナが上で彼女に彼は逆らわない。彼は(高等)教育を受けていない(戦争のため、この年代の多くの若者は教育が受けられなかった)。結婚が許されたのは、マディーナの年齢と、アーダムがとにかくチェチェン人であったことだろうと私は思っている。かつて、マディーナには好きな人(彼女にふさわしい『身分』?)がいたが、彼がアヴァール人だと言うことで許されなかった。(チェチェン人の血は守らなくてはならない。アヴァール人はチェチェン・イングーシ人のナフ語族と同じ北東カフカース語族だが)。アーダムとはネットで知り合った。彼は何度も会いたがったし、交際を求めたが、3回はきつく拒否したとか。付き合ってはいるが結婚前の男女は二人きりで会ってはならない。私と言う第3者がいればよろしい。そういえば、グローズヌィの通りで、カップルは見かけない。カフェに入ってもだ。女性同士か男性同士だ。ロシアの街角とは大違いだ。 

 後に知ったことだが、彼らの結婚式は3月から6月に延びたそうだ。ラマダンの期間もある。新婚旅行はイタリアにいくとか。「近いうちに」日本へも行くとか。ズーラの言うにはアーダムがイタリアで物を買いたがったからとか。2年前にマディーナはフランス、ドイツ、イタリアというヨーロッパ旅行を姉妹でしている。アーダムはイタリアに富裕層の年上女性と買い物旅行に行くのだって?逆玉ではないだろうか。しかし、その後もアーダムとマディーナのデートに何度も付き合ったが(付き合わされたが*)、アーダムはとても感じの良い親切な男性だった。鼻はつぶれているけれど。ボクシングでやられたとか。ちなみに、マディーナはアメリカへも2度訪れている。1度は短期留学(派遣、出張)だった。2度目は妹二人と運転手になる親戚の男性(ガードマンにもなる)4人で1ヶ月のレンタカーでのアメリカ周遊をした。
 (*)婚前の男女が二人きりになってはいけない。
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