クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 22 July, 2019   (追記・校正:2019年10月10日、12月28日、2020年6月21日、2022年1月21日、2022年7月11日)
37 - (4)   2019年 コミ共和国とチェチェン共和国 (4)
    コミのヴァシカ川辺のクィトシヤス祭
        2019年2月18日から3月6日(のうちの2月23日から26日)

Путешествие по республике Коми и Чечне, 2019 года (18.02.2019−06.03.2019)
   ロシア語のカフカスКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スと聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus

コミ共和国スィクティフカル市へ (地図)
1 2/18-2/19 旅行計画 長い1日 ガリーナさん宅へ 複線型中等教育ギムナジウム
2 2/20 アンジェリカの先祖のコサック コミ文化会館 コミ・ペルム方言 歴史的地名インゲルマンディア
3 2/21-2/22 博物館。蕎麦スプラウト・サラダ 図書館、連邦会議議員 ウードル地方ィヨルトム村へ ィヨルトム着 水洗トイレ付住宅
4 2/23-2/26 クィトシヤス祭 ザハロフ家 そり用滑り台 プロシェーク記者 コミからチェチェンへ
    チェチェン共和国グローズヌィ市へ (地図、チェチェン略史
5 2/26-2/27 グローズヌィ着 マディーナ宅 マディーナと夕べ カディロフ博物館 トゥルパルとテレク川へ アダムと夕食
6 2/28-3/1 グローズヌィ市内見物 野外民俗博ドンディ・ユルト(チェチェン略史 マディーナのオセチア観 アルグーン峡谷へ ヤルディ・マルディの戦い ニハロイ大滝
7 3/1 歴史的なイトゥム・カリ区、今は国境地帯 イトゥム・カリ村 タズビチ・ゲスト・ハウス ハンカラ基地 妹ハーヴァ
8 3/2 ジャルカ村のボス グデリメスとクムィク人 カスピ海のダゲスタン ハサヴユルト市 水資源の宝庫スラーク川 ディマも通ったスレーク峡谷
9 3/2-3/3 チルケイスカヤ・ダム湖 新道を通って帰宅 ジェイラフ区には行けない 大氏族ベノイ 山奥のベノイ村 チェチェン女性と英雄、主権国家
10 3/3-3/6 地表から消された村 英雄エルモロフ像 国立図書館 いとこのマリーカ トルストイ・ユルタの豪宅 チェチェン飛行場
 クィトシヤス祭
ナージャさん宅の居間。ソファベッドのある
コーナーから、パソコンのあるコーナーを望む
↑祭りの開会式↓
祭りの開会式のエンブレム前で
2台の車でスィクティフカルからやってきた
7人 (セルゲイはこの写真を撮っている)
スノーモビールの後ろ席はリメロフ夫妻
『新兵見送り』劇
ヤーナのおじいさんの建てた家で
ヤーナの家の寝室、大きな暖炉は
家の中央にあって家中を暖める
ウスチエヴォ村『コミの冬の遊び』長靴乗せ
 2月23日(土)。クィトシヤス祭1日目。まだ暗いころ目が覚めた。ナージャたちが起きる前に支度ができた。彼らは7時半ごろ起きてきて、朝食を作ってくれた。日本人は何を食べ、何を食べないのかガリーナさんに問い合わせておいたのだろう。普通の朝食にすればいいと言ってくれたのだろう。
 10時前に家を出て、クィトシヤス祭会場まで送ってくれた。ロシアの田舎というのは中心に役場や公共施設が並んである。村の中心と言えば、かつては必ず教会があった。ソ連時代は倉庫など別の用途に使っていたり、崩壊するままになっていたりしたが、今は修復されつつある。大都会やお金持ちの村々では完全に修復され、町・村の中央に堂々と聳えている。ィヨルトム村のような過疎化の進む村でも、教会は復興されつつある。外観は教会らしくなかったが、ナージャさんに勧められて入ってみると、お勤めはできる程度に内部は飾り付けられている。後から分かったことだが、彼女はとても信心深いのだ。どこでも宗教施設はその土地の文化財・記念物の一つだから、許可されれば入ることにしている。入れば、ロシア正教ならろうそくを立てる、チベット仏教ならお賽銭を置く。
 10時半にはクィトシヤス祭の会場に着いた。教会の向かいにある文化会館(直訳では『文化宮殿』)だ。ロシア連邦ではそこそこの村なら必ずある集会所だ。今、一室は主催者運営のカフェになっていてお茶を飲んだり休んだりできる。まずここへ案内されて、さあ、お茶をどうぞと言われた。
 しばらくすると、『今日の開会式』が文化会館前広場であった。誰かの挨拶の後、ウードル地方の旗を掲揚台にあげ、若者の斧をもっての踊り、娘さんたちの輪舞もあって、見物人も参加した。文化会館前広場にはかなり大掛かりな滑り台も作ってあった。橇で滑るのだ。この滑り台はナージャが手伝ってヴァロージャが作ったものだという。子供たちが順番をついている。
 この頃、私はガリーナさん達と合流できた。彼らはみんな一緒に、ナージャさん宅より広いが水洗トイレが故障中の家に住んでいるらしい。広場で8人で、記念写真も撮った。競技のスタートはこの広場の近くらしかったがいつ始まるのか、どんなプログラムなのか、その時の私はよくわからなかったが、昨夕の開会式の時、ヤーナから
「私のおじいさんが建てた家がシリャエヴォ Шиляево村にあるのだが、そこへジープで行きたい?スノーモビールで行きたい?」と聞かれたので、
「スノーモビール」と答えておいた。
 ィヨルトム村(人口244人)を中心に、シリャエヴォ Шиляево(18人)、コルットゥヴィヤ Корттувья(0)、ウスチエヴォ Устьево(26人) リャジュフ Лязюв(9人)という村が近くにあって、長距離スキー・コースは、この順番で回って、スタートのィヨルトム村がゴールになる(前ページ地図)。前記のようにクィトシヤスの意味は輪というのだ。ィヨルトム村はヴァシカ川の右岸にある。ちょうど向かい側のヴァシカ川左岸にィヨルトム川(106キロ)が流れ込む。つまり、ィヨルトム村は、ィヨルトム川がヴァシカ川に合流する対岸のヴァシカ川畔にある。そのィヨルトム川下流にシリャエヴォ村があり、無人のコルットゥヴィヤ村は合流点より下流の左岸に、ウスチエヴォ村とリャジュフ村はィヨルトム村よりやや下流の右岸にある。
 クィトシヤス祭というのは冬季スポーツの民族フェスティヴァルなので11時から競技が始まると同時に、例えば、ィヨルトム村の文化会館では『村ヤールマルカ(市場)』で民族品や道具の展示、メゼニ絵付け教室などが開かれる。シリャエヴォ村ではコミの演劇、ウスチエヴォ村ではコミの冬遊び大会などがある。
 11時過ぎにはヤーナが私を見つけ、スノーモビールに乗れるよ、と言ってくれる。運転手の後ろに座った。引いていく橇にはパーヴェル夫妻が座って、出発した。かつて10年ほど前、エニセイ川のヴォーログ村でスノーモビールに1時間以上乗った時は寒かった。しかし、今回は直通で2キロほどで、凍った川を2本渡るとすぐに、ィヨルトム村の次の地点シリャエヴォ村に着いた。ここでは前記のようにコミの演劇(実はコミのみで演じられるとは限らない)『新兵見送り Проводы в рекруты(*)』劇をやっている。一軒の家の前の木戸(門)の近くが舞台だ。観客は数人、雪道に立って見る。演じる人も数人で、兵役にとられる若者、その母親、村人3人(女性2人と男性1人)、アコーディオン弾き。この寒さに戸外でアコーディオンをひいている娘さんの指は真っ赤だった。手袋をはめてはアコーディオンが弾けない。母親役の女性は大熱演だった。兵役にとられる息子の安否を思い、泣いてしがみつき、どうしたら息子が無事帰って来られるかと、叫ぶのだった。村人がやってきて、木戸にくぎを打つことを勧めたり、いろいろなおまじない(?)をしたり、特別の聖なる(?)手ぬぐいを若者の肩にかけたりして、みんなで泣く泣く送り出した。おまじないが効いたのか息子は無事帰ってきた。喜んだ母親は、観客にも菓子をふるまう。
(*)新兵見送り劇 レークルト Рекрут (от фр. recruter, набирать войско) лицо, принятое на военную службу по рекрутской (воинской) повинности или найму レークルトとは歴史用語で「新兵」のこと。18、19世紀、兵役義務によって募集され、補充された新兵。現代語は「リクルート」「新入社員」「求人」「就職活動」などの意味もあるが。
 見終わった頃、ヤーナが現れて、自分の祖父の建てた家を見たくないかと言われる。このような質問は勧誘だから、「見たい」と答える。劇のあった家から数メートルのところに、大きくてまだ立派な田舎家が建っている。中にはヤーナの母親と親せきの親子がいて、私にまずお茶やお菓子やハムを勧めてくれる。(今回のロシア滞在中、なぜかこのヤーナの親戚の女性持参のハムが一番おいしかった。あまり手を伸ばして食べるのも悪いし、自分の不良の消化器のために、控えめに食べたが)。ヤーナのおじいさんの建てた家は、今は冬期間人は住まないと言うが、大きな暖炉を中心に整頓された寝室や居間があり、暖炉に火さえくべれば今でも住めそうだ。田舎家としては住み心地がよいだけでなく、田舎の生活を営む場所でもある。だから、屋内の仕事部屋、物置がたいせつだ。そこも見せてくれて説明してくれた。
 ヤーナは子供のころから夏にはここへきて過ごした。だから、ここには夏しかないと思っていたそうだ。
 待っていてくれたスノーモビールに乗って、ィヨルトム村にもどる。競技は始まっているようだが、よくわからなかった。ヤーナも出場するはずだ。応援すると約束してある。スキー競技にはクラシック・スタイルと猟師スタイルがあるそうだ。
 セルゲイさん達と、またスノーモビールに乗ってウスチエヴォ村に行く。ここでは『コミの冬の遊び』というのをやっていた。竹馬のようなものに乗ってアンジェリカさんは歩いてみていた。長靴を投げて棒を倒すという遊びもあった。ボーリングのようでもあるが、長靴と言うのが田舎らしい。揺れている長いじゅうたんに長靴を投げて乗せるという遊びもある。2,3本の廊下用の長いじゅうたんの端をもってゆすらせている。その絨毯の上に長靴を乗せようと投げてみるのだが、長靴は重く不規則な形をしているのでなかなか思うところに落ちてくれない。
 15時から、屋内で表彰式だった。座ってロシア語を聞いていてもあまりわからない。ときどきコミ語になって、ますますわからなくなる。7時過ぎにはナージャさん宅へ帰った。ヴァロージャの妹一家が、今はィヨルトム村に来ているそうだ。妹の夫のセルゲイ・ザハロフさんの誕生日に呼ばれているので一緒に行かないかと誘われた。今日の分の元気は残っていたので行くことにした。新しい人と、知り合いになりたい。
 ザハロヴァさん一家
ニキータ君は奥の部屋でタブレットを
ザハロフさん宅のキッチンで
 妹のアリビーナ・ザハロヴァ Альбина Захароваさん宅は、すぐ近くだ。二人の息子さんのリョーシャ Леша(12歳)と ニキータ Никита(10歳)もいた。私達を待っていてくれて、御馳走や誕生日ケーキを出してくれた。上の坊やは日本について聞きたいことがたくさんあるのだって。だが、今のところ別の部屋でタブレットでゲームなどしている(田舎の家は暖房がよくいきわたるよう部屋と部屋の間にはドアがない。カーテンならある)。ザハロヴィさん一家にとっては、このィヨルトム村の家は多くの村人と同様、セカンド・ハウスだ。
 普段は、より便利なウソゴルスク町に住んでいる。夫のセルゲイ・ザハロフさんはワフタ вахтаで働いているという。コミの北、ネネツ自治管区には石油の産地がある、とすぐ思いついた。ハリヤギン油田 Харьягинским нефтяным месторождениемだ。ルクオイル ЛУКОЙЛ 社が持つ10大油田のうちでも6位の採掘量を持つ。ハリヤギン油田はネネツ民族管区でもコミ共和国にほとんど接するところにある。
 セルゲイ・ザハロフさんがそこまで行くには、ひし形のコミ共和国を南西から北東に走る北方鉄道に乗り、途中のスィニャ Сыня(その名もコミ語で湿った場所の意)駅から出る支線でまっすぐ北へ行ってウシンスク市(石油採掘のため1970年代に『沼地に夢の町』としてできた)で鉄道は終わるから、そこから、会社のバスで200キロ、北へまっすぐ行って、ネネツ自治管区に入ったところにハリヤギン(ネネツ語ではハルヤガ)油田のワフタがある。今は北方鉄道の急行に乗るので片道1昼夜半ほどで行ける。急行のなかった以前は丸2日かかった。
 地図で見ても、ウシンスクからハリヤンギンまで自動車道はある。ハリヤギンには大型ヘリコプター発着場ならある。
 ワフタと言うのは船などの見張りとか当直と言う意味だが、今では、町から遠い(ロシアのことだから)極寒の産地で泊まり込み労働の意味で使われる方が多い(『飯場』と訳せばいいか)。町や村からずっと離れたところが新産地(新油田開発地とか)になるから、働く人は、町や村から毎日通っては来られない。だから、例えば、2,3ヶ月泊まり込みで働き(期間は場所が遠隔地かどうかにもよるが)、1ヶ月弱は家族の家で休む(ワフタ労働が長ければ休みも長期)という勤務表で効率的に資源開発するのが資源大国ロシアのやり方だ(ほかの国でも同様)。それなりの規模のワフタ村ができている。もちろん住民(というのは登録されている村人)はゼロだ。環境は悪く、仕事はきついので給料は高い(かつて、ソ連時代などでは北方手当てがかなりもらえた)。たとえば、話は飛ぶが、クラスノヤルスクのパーシャは結婚してお金がいるのか、ディーマの会社を辞めて、エニセイ下流(タイムィール地方、つまり無人の極寒地)のヴァンコール石油会社のワフタに出稼ぎに行っているとか(その後やめたそうだ、そして今は私とは音信不通)。
 コミにはガソリン・スタンドはルクオイルの他はない。ルクオイルは世界的な巨大な石油会社だ。コミ・ルクオイル(または、実際に採掘しているネネツ石油会社 Ненецкая нефтяная компанияか)が、数年前、子会社をいくつか作ったので、自分は孫会社ぐらいで働くことになったといっている。セルゲイ・ザハロフさんによると、ワフタで働いても給料は高くないそうだ。親会社のコミ・ルクオイルならよい。しかし、子会社、孫会社となると、お互いに競争で、できるだけ安く親会社に買ってもらわなくてはならない。だから、給料も安くなるというのだ。はじめは親会社に夫婦で勤めていたそうだ。そのうちセルゲイさんは子会社(孫会社)に回され、アリビナさんは、解雇された(退職せざるを得ない状況にされた)。
 少ない給料でとても苦しい。と言っていたが、後にナージャさんによると、とんでもない、彼らはかなりの収入だ、という。比較の問題かな。
 長男のリョーシャ君が呼ばれて、日本について質問してもいいよと言われた。しかし、そういわれても質問は出てこないようだった。
 帰ってから田舎の蒸し風呂に入る。
    (後記:2020年の新型コロナ大流行の頃、ザハロフさん一家は全員がコロナにかかった。父親のセルゲイさんがワフタで感染したらしい。ワフタというのは共同生活場らしいから感染しやすいのだろう。セルゲイさんが帰宅したときに家族に移ったのだろう。ちょうどクィトシヤスにいるときで、ナージャさんが彼らのために買い物などしてあげたとか)

 クィトシヤス祭2日目 滑り台
『ロシアの冬』の刺繍画を持ったナージャさん
 2月24日。朝食後、ナージャさんはシーバックソーン(スナジグミ)облепихаのジャムの小瓶をプレゼントしようとしてくれた。私はありがたくお断りした。日本までは遠く、まだ何回も飛行機に乗らなくてはならない、飛行機には水もの、瓶ものは持ち込みできないこともあると。だから、そのジャム瓶を持ったナージャさんの写真を撮っておいた。それで、帰国後も、それはシーバックソーンだったと思い出せる。エミシェヴィ夫婦はそろって働き者なのだ。雪が積もっていて菜園は見えなかったが、そこも申し分ないくらい世話が行き届いているに違いない。長い冬の間ナージャさんは手芸をする。寝室には彼女が刺繍した絵が額縁に入って何枚もかけられていた。冬景色の1枚を進呈された。額縁を外すと、トランクに入る。ナージャさんは自分で編んだと言う可愛い靴下もくれた。
後ろから押してくれようとする少年
くるくる回ってまだ停止はしない。
写真を撮ってくれている
 朝食の後に、私は可愛い封筒(ガリーナさんがくれた)に入れて1000ルーブルを渡そうとした。出発前に、ィヨルトム村での宿泊費のことをガリーナさんに聞くと、それぞれ、500ルーブルぐらいは支払ったらよいということだった。そしてお金を入れるための可愛い封筒をくれたのだ。私に充てられた宿は水洗トイレがあって特別だった。(ペーパーを流したので後で詰まるのではないかと私はこのころ心配していた)。だから封筒に1000ルーブル入れた。(何年も前、ある田舎の古いホテルに泊まった時は素泊まりが250ルーブルだった)。ナージャさんは私からお金を受け取ることはできないと固辞した。私は、引っ込めるわけにはいかないので、
「でもガリーナさんにそう言われているのです」と、ここでは絶対のその名前を繰り返した。
「では半分は祭りの寄付に、半分は教会の修復に寄付にしましょう。それでもいいですか」
「お好きなように使ってください」とお願いして、受け取ってもらえた。

 10時近くにまた会場の文化会館へ行く。広場の滑り台で滑ってみたくなった。もう子供の順番はない。親子連れが大きな古タイヤをもって滑ろうとしていた(または、滑り終わったところか)。ちょっと貸してもらう。階段をのぼって、タイヤのうえにこしかける。後ろから男の子が押してくれた。悲鳴をあげて降下。帽子も飛んでいった。タイヤ橇の持ち主の親子に、もう一度だけとお願いして、また階段を上る。日本の公園にある児童用滑り台の3倍以上の高さはあると思う。またも、悲鳴をあげてくるくる回って到着点に着く。セルゲイさんがビデオに撮り、のちに、彼が編集して音楽やナレーターを入れて、ネットで流していた。彼のフィルムはSNSに投稿されている素人っぽい動画に比べて、プロ並みだ。彼のフィルムのナレーションでは、私は生まれて初めてタイヤ橇で滑った人となっていた。私は、ウインター・スポーツは苦手なので、子供の頃の子供用のそり以外は、確かにどんなそりでも滑ったのは大人になって初めてだ。サマー・スポーツも苦手だ。
 2日目の競技は年少者だった。この可愛いのを少しだけ見て、私たちは最後まで残らずに引き上げることにした。なぜなら、暗くなってからの長距離運転は避けたいとセルゲイさんが言ったからだ。帰りの車はガリーナさんも乗ったので、5人となり、最も太めのガリーナさんが助手席に座ることになった。12時には出発して、5,6時間後にはスィクティフカルに着いた。
 途中の雪道では、また、旧収容所の見張り塔を眺め、雪道に降りてきている小鳥のウソ Снегирьを見ながら進んだ。いったい、この雪道に小鳥のエサでも落ちているのだろうか。餌の少ない冬を越せない小鳥も多いに違いない。葉のすっかり落ちた枝には、冷凍ベリーのひとかけらも残っていないように思える。セルゲイさん達が教えてくれるには、小鳥たちはえさをついばんでいるのではなく、消化のために地面のところどころに現れている砂を食べているそうだ。確かに雪の深い森の中では砂が見つからないが、車の通る舗装道では除雪されていて砂粒が露出している(つまり、舗装が不完全)。
 夕方、私たち5人は、セルゲイさん宅で夕食をごちそうになった。

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2020年2月にもクィトシアス祭が行われた。私は出席できなかったが、主催者のガリーナさんから挨拶文を送ってくれないかと依頼があった。それで、以下のようなロシア文を送ったのだ>

 Поздравляю вас, удорцев, Ертомцев, Шиляевцев, Корттувьяцев, Устьевцев, лязювцев с Третьим Межрайонным Этнографическим Фестивалем зимних спортивных игр ≪КЫТЩЪЯС≫ в 22-24 февраля 2020 года!!!
  Я участвовала (посетила) в прошлом году, 2019 года. Меня пригласила госпожа Бутырева Галина Васильевна. От моего дома в Ёртом очень далеко, но нельзя отказаться от её приглашения. Я очень хотела видеть ещё раз её на фестивале. (А в правде, даже если можно, хотела бы пригласить её в Японии. Потому что, я уже 3 раза побывала в Коми, а она ни разу не была у нас. Теперь её очередь, приехать к нам в Японию.)
  Так я отправилась рано утром из дома города Канадзава, где находиться близка от берегу японского моря, поехала на синкансэн в Токио, и оттуда на самолёте в Москву, пересела на другой самолет в Сыктывкар. Из Сыктывкара на машине в Ёртом с Галиной Васильевной и её гостями.
  Приехали в Ёртом. Мы поужинали в библиотеке бывшей школы, приехав вечером в Ёртом. Нас угостили, наверное, местные женщины. Они очень любезно, отзывчиво, заботливо приняли нас. Чувствовалось уже гостеприимные деревни.
  Я ночевала в одном очень уютном доме. Даже не ожидала, что я в гостях у так уютный и комфортабельный дом в далекой деревне. У хозяина и хозяйки золотые руки, поэтому их дома так хорошо устроен. В Японии таких людей, к сожалению, мало. Хорошо жить в Ёртом. Я люблю снег, снежный глубину.
  В следующий утро хозяйка меня проводила в место, где проходит фестиваль. По пути мы заходили в Церковь, ещё не достроенную. Думается, церковь всегда центр местного жители, если даже некогда, раньше разрушили, постараться восстановить. Я не христианка, а уважаю религию соседей. Кстати, в Японии в каждом деревне свой синтоистский храм.
  Фестиваль, конечно, мне понравился. Хорошо организован. Посетителям, как я, некогда скучать.
Я не спортсменка, особенно по зимней игре. А там длинная горка для катанья. Дети катаются на старом шине. Длинная очередь детей. А потом, через несколько часов, я вижу, нет очереди. Я решила кататься на прекрасном шине, которую мне дали один мальчик. Я в первый раз жизнь с такой высоты каталась на шине. Хотела целый день кататься, но, к сожалению, только два раза, и вернула шину мальчику.
  В деревне Шиляев поставлен спектакль ≪Рекрут≫ на снежной улице. Слово ≪рекрут≫ есть на японском языке, как заимствованное слово из английского. А смысл достаточно разный. Я очень интересно посмотрела сцену с музыкой. Актеры, может жители деревня, хорошо выступали. Музыкантша прекрасно играли на аккордеон. В конце молодой солдат вернулся к матери, и семья и соседи солдата угостили нас, зрителям конфеты. Так приятно.
  В Шиляева крепко стоит один дом. Это строил когда-то дедушка моего новой знакомой. Она пригласила меня смотреть дом. Дом деревни, это не только уютно и тепло жить, но и активно и удобно работать. Я думала, её Дом типичный дом края Вашка.
  Ещё рас сердечно желаю успехи ≪КЫТЩЪЯС≫ в 22-24 февраля 2020 года!
 
 ガリーナさんから送られてきたナジェージダさんの写真

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   (後記2;ガリーナ・ブティレーヴァ Галина Васильевна Бутыреваさんから、2022年4月22日フコンタクトВКОНТАКТというSNSを通じて、ナジェージダ・エムショーヴァ Надежда Емушева さんが、亡くなったという知らせと写真が届いた。腎臓が悪かったが治療をしなかったそうだ。夫のヴォロージャにお悔やみを伝えてくださいと返事した)
 モスクワからのプロシャーク記者Людмила Прошак
 2月25日(月)。この日はスィクティフカル市に滞在。特に予定はないが、モスクワから車で来たが、ねん挫で宿泊所レミユを動けないプロシァークさんのお見舞いに、ガリーナさん達は行くという。プロシャークさんもクィトシヤス祭の来賓の一人だった。しかし、思いがけないけがで運転ができない。レミユに数日留まることになったのだ。
レミユのキッチンで
プロシャークさん指導・編集の本の目次のページ

 ジャーナリストのプロシャークさんについては、ガリーナさんから聞いている。私の彼女宅到着第1日目には、ガリーナさんは祭りに関することはすべて話してくれた。プロシャークさんのことも詳しく話してくれたのだ。彼女のジャーナリスト活動についてではなく、私生活についてだ。彼女(56歳)には一人息子アクセクティ Аксектийがいてウクライナ系女性と結婚して孫息子のアクショーン Аксёнが生まれたが、息子夫婦は別れることになり、彼女の孫息子は父親が引き取った。この時もかなり大騒ぎになった。普通は幼い子供は母親が引き取るものだからだ。しかし、プロシャーク祖母と父は子供を渡すまいと頑張った。母親は再婚している。なぜ子供を引き取ろうとしたのか、これは家族の人数によって支給されるアパートの広さが決まるからだろう。というガリーナさんの(つまりプロシャークさんの)推測だ。
 今回、プロシャークさん運転で、息子と孫息子が一緒に来た。去年もそうだった。彼らはいつもコミ作家同盟の宿舎のレミユに泊まる(宿舎はコミ作家同盟のボスのガリーナさんの采配のままになる)。レミユは、スィクティフカルからほど近く、自然に囲まれていて、2階建て。部屋数も多くて、好きなように使える。常連の孫息子のアクショーンもお気に入りだ。
 プロシャークさん運転の車は、祭りの前日にスィクティフカルに到着。息子さんがガリーナさんの住む5階まで上がって、レミユの鍵を取りに来た。ほっそりとした控えめの青年(だが10歳の息子あり)だった。ガリーナさんは鍵と冷凍餃子を渡していた。なぜなら、レミユには何も食べるものがないからだ。ロシアでは圧倒的に男性が運転するものだが、なぜ息子が運転しないか聞かないことにした。車で来たのは、クィトシヤス祭参加のほか、コミ共和国を自力で回るためだ。
 前記のように、捻挫は、到着の日になったのだろう。翌日の祭りには、私達と一緒に出発しなかった。ずっとレミユに滞在していた。それで、祭りから帰ってガリーナさんやサイマさん、セルゲイさん達とレミユに食糧をたっぷり持って行ったわけだ。まだしばらくは留まるだろうから。
 レミユには2年前の夏に寄ったことがある。その時、私はここに泊まらなくてよかったと思った。蚊が多そうだったから。冬、蚊はいないが、雪の中では、雪遊びをしないのなら部屋でネットぐらいしかできない。私たちにドアを開けてくれたのはネット・ゲーム大好きなアクショーン少年だった。
 私以外の、ガリーナさんやサイマ、ガルブノーヴィさん夫婦はプロシャークさんに挨拶し、持ってきた食糧を渡すと、去っていった。パーヴェルさんがセカンド・ハウスを建てていて、立派なハウスだから見に行くそうだ。私も行きたかったが、プロシャークさんと話したかった。というのもジャーナリストの彼女はホット・スポット горячая точкаを回っているからだ。彼女は、今は車の広告新聞で働いているそうだが、『論拠と事実』のようなモスクワの大新聞社の記者でもあった。(やめたのは、編集部と方針が合わなかったからだとか)。ホット・スポットと言えば1999年-2000年のチェチェンだ。その話をぜひとも聞きたかった。
 彼女は人道支援グループとして、戦火激しいグローズヌィから非戦争の隣国イングーシ共和国(ロシア連邦内だが)への人道支援道を通って、難民の援助をしたり救援物資を届けていたりしたそうだ。『ノーヴォエ・ヴレーミャ』誌のアンナ・ポリトコフスカヤ記者は軍隊と一緒に動いたが、自分たちは全く自費(人道支援 Human Rights Watchつまり寄付)だけで活動していた。彼女の口調では、彼女たちグループは連邦軍側(ロシア側)であり、独立派・テロリストからチェチェンを守るというスタンスのようだった。
 グローズヌィ市の中央にイスラムのモスクとロシア正教の教会がある。連邦軍はグローズヌィを(さんざん、非人道的に)爆破したが、ロシア正教教会は爆破しないようにしていた(のかもしれない)。しかし、イスラムのモスクから100メートルぐらいしか離れていない正教の教会のほうが(まちがえて)爆破されてしまった、と悔しそうに言う。ロシア正教のロシア人は、意識的ではないにしろ、イスラムを見下す。彼女は、グローズヌィに残っていたロシア正教徒とロシア正教会(のみ)を支援していたのかもしれない。昔からロシア人のいるところ、またはロシア化したい所には、まず(何がなくても)ロシア正教会が建った。19世紀、ロシア帝国軍によってチェチェン人の村が焼き払われ、その場所にグローズヌィ砦が築かれ、正教会が建ち、砦はチェチェン山岳民征服の拠点となり、後にグローズヌィ市となった。ソ連崩壊後もロシア人(非チェチェン人)が大多数を占め、だから正教徒の多かった町の教会が破壊され、イスラムのモスクが残ったのを、聞き手の私も残念がっているに違いないという話しぶりだった。私は正教徒でもイスラムでもないから黙っている。プロシャークさんはもちろんアンナ・ポリトコフスカヤを知っている。「気の毒だった。だが…」という。プーチンに対する立場が違うのだろう。
 2時間ほど話していると、パーヴェルさんの建設中のセカンド・ハウスを見てきたガリーナさんたちが、私を迎えに来てくれた。素晴らしい家になりそうだと、感心していた。
 皆でカフェに入る。いつもおごってくれるガリーナさん、自宅に泊めてくれるガルブノーヴィさんに感謝して全員の分を、私が支払う。チップを入れても4000ルーブル以下。まだかなりあるルーブルを明日到着するチェチェンで使い切る予定だったが。
 スィクティフカル発、モスクワ・ブヌコフ空港経由グローズヌィ着
 2月26日(火)。早朝6時20分スィクティフカル空港発。ヤーナも同じ飛行機なのは、すでにィヨルトム村にいるときから知っていた。彼女もモスクワの上司のところに報告に行く。6時20分発は『あさイチ』の便で8時20分にはモスクワに着くから、その日の仕事に早く取り掛かれる。私はこの便だとモスクワでの乗り換え待ち2時間でグローズヌィに行ける。
 ヤーナ・サジーナさん、背後にサイマさん

 ヤーナと一緒に行こうと決めてあった。隣同士の席に座りたいから、ヴェブサイトで搭乗手続きも座席予約もしないで、5時に空港で会って、一緒に窓口に行こう、と約束してあった。アンジェラさん達も、ヤーナがついていてくれるなら私がブヌコフ空港で迷子にならないと安心してくれた。
 約束通り、5時にセルゲイさんに空港に送り届けてもらって、ヤーナに会った。機内は美人のヤーナとお隣同士。彼女は私へのお土産をいくつか用意してくれていた。なぜ、マルコフの秘書になったか、は彼女の話によると、マルコフは、ヤーナがまだ生徒・学生時代から、目をつけていたそうだ。きっと、可愛くて、スポーツができ学業成績も優秀、性格も明るかったのだろう。あの子が成長したら自分の秘書にしようと卒業を待っていたという。二人ともウードル地方出身だ。彼女は30歳で、独身だ。

 ブヌコフ空港へはすぐ着いた。グローズヌィ行きの搭乗口もすぐ見つかった。その前の待合ホールの椅子にはさすが頭をヒジャッブで覆った女性が座っている。約束通り、マディーナに、私のロシア携帯から「今モスクワだ」とSNSで送った。
 飛行機の遅延はなく、定刻の13時10分にグローズヌィ空港着。2年前のウラジカフカース空港より新しい。もちろんだ。チェチェンの建物はみんな新しい。マディーナは、自分か、自分の兄弟が迎えに行くと前から書いてきていた。兄弟と言うのは男性のいとこ、時にはまたいとこも含む。マディーナには妹が二人いるだけだ。
 空港に着いても、それらしい男性も女性もいなかった。イスラムでは女性が一人で空港のような公共の場所に出かけることはないらしい。飛行機が到着したというのに、ターミナル内のホールには到着客も出迎え人もまばらだった。ほかの空港ではあるようなタクシーの客引きもいない。髪を隠すような被り物をしていない女性は、もちろん私だけ。荷物が出てくるのを待つ間、もう一度電話してみた。すぐ行くから、とのこと。
 荷物受取場に行くと、すでに置いてあった。この飛行機には手荷物を預ける人は少なかったらしい。(UTエアー社の手荷物料金は高騰したから)。
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