up date | 02 September, 2019 | (追記・校正:2019年10月20日、12月29日、2020年1月18日,6月3日、2022年1月22日、2024年10月10日) |
37 - (6) 2019年 コミ共和国とチェチェン共和国 (6) グローズヌィ市からアルグーン峡谷へ 2019年2月18日から3月6日(のうちの2月28日から3月1日) |
Путешествие по республике Коми и Чечне, 2019 года (18.02.2019−06.03.2019)
ロシア語のカフカースКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スと聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus
コミ共和国スィクティフカル市へコミ共和国スィクティフカル市へ,2月18日から2月26日 (地図) | ||||||
1 | 2/18-2/19 | 旅行計画 | 長い1日 | ガリーナさん宅へ | 複線型中等教育ギムナジウム | |
2 | 2/20 | アンジェリカさんの祖先のコサック | コミ文化会館 | コミ・ペルム方言 | 歴史的地名インゲルマンディア | |
3 | 2/21-2/22 | 博物館。そばスプラウト・サラダ | 図書館、連邦会議議員 | ウードル地方ィヨルトム村へ | ィヨルトム着 | 水洗トイレ付き住宅 |
4 | 2/23-2/26 | クィトシヤス祭 | ザハロフ家 | 橇で滑る | プロシャーク記者 | コミからチェチェンへ |
チェチェン共和国グローズヌィ市へ 3月26日から3月5日まで(地図、チェチェン略史) | |||||||
5 | 2/26-2/27 | グローズヌィ着 | マディーナ宅 | マディーナと夕べ | カディロフ博物館 | トゥルパルとテレク川へ | アーダムと夕食 |
6 | 2/28-3/1 | グローズヌィ市内見物 | 野外民俗博ドンディ・ユルト、(地図) チェチェン略史 | マディーナのオセチア観 | アルグーン峡谷へ | ヤルディ・マルディの戦い | ニハロイ大滝 |
7 | 3/1 | 歴史的なイトゥム・カリ区、今は国境地帯(地図) | イトゥム・カリ村 | タズビチ・ゲスト・ハウス | ハンカラ基地(地図) | 妹ハーヴァ | |
8 | 3/2 | ジャルカ村のボス | グデリメスとクムィク人 | カスピ海のダゲスタン(地図) | ハサヴユルト市 | 水資源の宝庫スラーク川 | デュマも通ったスレーク峡谷 |
9 | 3/2-3/3 | チルケイスカヤ・ダム湖 | 新道を通って帰宅(地図) | イングーシ共和国ジェイラフ区には行けない(地図) | 大氏族ベノイ、旧ツェンタロイ村 | 山奥のベノイ村 | チェチェン女性と英雄、主権国家 |
10 | 3/3-3/6 | 地表から消された村 | 英雄エルモロフ像 | 国立図書館 | いとこのマリーカ | トルストイ・ユルタの豪宅 | チェチェン飛行場 |
ガイドと市内見学 (グローズヌィ市内略図) | ||||||||||||||||||||
ロシア連邦軍が(プロシャークさんによると、近くにあったイスラム・モスクではなく誤ってこちらの方を)爆破したと言う『アルハンゲラ・ミハイル』ロシア正教会だ。掲示板によると1868年創立とある。19世紀後半カフカース戦争も終わってチェチェンがロシア帝国の行政区に組み込まれた頃だ。2013年チェチェン共和国政府によって再建された、と言うようなことがチェチェン語で書かれていた(推測)。そして防弾チョッキを着て自動小銃を持った連邦軍兵士(しかし、ロシア各地の警察署から順番に出張に来ている武装警察官かもしれない)が立っていた。カメラを向けても怒られなかった。近郊のイスラム諸国からの観光客はロシア正教会へはたぶん訪れないだろう。ムスリム女性と連れ立った非チェチェンの私はロシア正教徒にも見えないし、いかにも観光客らしかったし、観光客は名所を映したがるものだ。 入り口の掲示板には、2018年5月19日武装テロリスによってサラトフからの警官2名(なにがしと名が篆刻)が殉職したと言うようなことが刻まれてあった。つい最近の出来事だった。ウィキペディアによると警官2名の他、逃げ遅れた信者1名も死亡した。 中に入ると、そこは普通のロシア正教会で聖者たちのイコンが所狭しと並べられている。ろうそく立てもある。売店もある。数人の信者(?)がいたが、旅行者のようではなくグローズヌィ滞在のロシア人だろうか。現在でも、グローズヌィ市には3%程のロシア人住民がいる。チェチェン人は94%、残りは他のカフカースの諸民族だ。この3%には連邦軍基地(ハンカラ)に駐屯している非チェチェン人は含まれない(もちろん基地内には自分たちの教会があるだろう)。あえてここでろうそくを立てると言うことを私はしなかった。 ロシア正教会はグローズヌィの中心地にある。ロシアの町は(どこでもそうかも知れないが)役所、教会、文化施設など公共の物は必ず市の中心にあって、徒歩で回れる。ガイドと『グローズヌィ・シティ』横の『ハートの公園(愛の公園か)』を歩いた。冬で花も咲いてなくて、寒かった。ガイドに、チェチェン戦争のことを聞く。
「あった」と言う答え。たぶんチェチェン人はだれもが、身近な人を失っているだろうし、すんでのところで命拾いをしたと言う経験を持っているに違いない。避難しなかったのかと聞いてみる。西隣のイングーシには避難民用のテントなどできていたはずだ。だが、その道中も検査され、通れなかったり、生命が危険だったりすることがあったのだろう。また、避難先では何もない。お金を持っていなくてはそんなところでも余計困るだけだっただろう。だから、彼女はグローズヌィにとどまっていた。だから、大勢の人が死ぬのも見た。 スンジャ川を渡った。国立図書館が近かったので、入ってみた。2年前にマゴメド・ザクリエフさんと一緒に入って、館長のイスライロヴァ・サツィタ Исраилова Сацитаさんにチェチェンに関する本の紹介をしてもらったということがある。受け付けで、館長に会いに来たと告げると、サツィタさんがロビーに来てきてくれた。今は時間がないが、連絡しあって、必ずザクリエフさんを交えて会おうと言うことになった。チェチェン女性と一緒なので、私が彼女の家に宿泊しているのかと思ったらしい。 図書館を出て、またぶらぶら歩く。スンジャ川を渡って、また『グローズヌィ・シティ』へ。ここにある数軒の高層建築の一つの屋上はヘリコプター発着場となっていて、観光客が昇れる見晴らし台にもなっている。100ルーブル払って、登ってみる。屋上にはごつい監視人が目を光らせていた。ここからラムザン・カディロフが住むチェチェン大統領官邸(*)が見下せる。どうせそんなところにはめったに本人はいない。しかし、その方向の写真撮影は厳禁だ。と言われると撮りたくなるので、監視人がむこうを向いているようなとき、撮ってはいけない方角とわずかにずれた方角を撮った。監視人が飛んできた。ガイドが、私たち観光客はそんな方角をとってはいませんよと言ってくれた。後で見ると、画面の隅に映っていた。ラムザン・カディロフがいつも不在な官邸を撮っても仕方がないが、建物としては立派だったから。 (*)ラムザン・カディロフは『大統領』とはプーチンのみで、自分は『首長』(にすぎないの)だと言っている。そのせいか連邦内の21の民族共和国のそれまでの大統領は首長と呼ばなくてはならなくなった。反抗しているのはタタルスタン共和国大統領のみだ。屋上には観光客が何組かいた。ガイドの言うには彼らはダゲスタンから来たと言う。「ダゲスタンからの観光客が多いのよ」。(後のことなるが、私とマディーナとトゥルパルはダゲスタンに行って、ダゲスタンの町を垣間見ることができた。) 12時、もう開館しているでしょうと言うので国立博物館へ行く。博物館からほど近い辻公園に新しそうな石碑が立っていた。ガイドは何も説明してくれなかったが、私はなんでも一応写真に撮っておいたのだ。それを帰国後調べてみた。石碑には、この通りはロシア連邦英雄で第2次チェチェン戦争指揮中にハンカラ基地で心臓発作のために亡くなったFBS 副長官・海軍副大将ゲルマン・ウグリューモフ Угрюмов Германを記念して名付けられたと書かれていた。2014年に完成式があったとヴェブサイトに写真入りで載っている。ここは博物館や図書館に近い中心街の道路で2014年まではダゲスタン通りと言った。チェチェンの至る所にプーチンの写真があるのと同様、第2次チェチェン戦争を指揮してFBSで働いていた海軍副大将もグローズヌィで尊敬される人物なのか。まさか!グローズヌィ市の中心にウグリューモフ通りだって?(忖度するのも程度ってものがあるよ) 国立博物館へは3回目だが、前の2回は閉館中で入れなかったのだ。今回、博物館の男性ガイドが現れて、考古学ホールから案内してくれた。しかし、彼は早口でチェチェン訛りのロシア語で、私の知りたいことの説明がよく理解できなかった。質問させてくれれば、いくらか理解できたかもしれない。しかし、彼はよくあるタイプの不親切なガイドで、展示物の前で、テキストを読み上げるように早口で述べ、すぐ次に移るタイプで、相手の反応、理解したかどうかなどは無関心だった。それなら、貸出し録音テープをもって回った方がましだ(そんなものはここにはないが)、とは言わなかったが、何度も、もっとゆっくり話してほしいと言った。質問も無理にはさんだ。確かめたいことは確かめの質問をしなければ私には理解できない。彼が言うには「あなたは日本語のガイドを連れてくるべきでしたね」だって。そんな人(ロシア語またはチェチェン語から日本語に通訳)がこんなところにいる訳はないではないか。わかるように話そうと努力してくれれば、私のロシア語力で十分だ。私はむっとして、それ以上は何も言わず、彼がしゃべるに任せておいた。それで、彼のガイドの仕事はすぐ終わった。一方、私たちがこの国立歴史博物館へ入ってから見学の早いうちに、朝からついてくれていた女性の市内ガイドは、「これで私の案内は終わりましたから」と言って帰っていった。この博物館は大きくはない。考古学ホールと民俗学ホールと絵画ホールがあるだけだ、アフマト・カディロフ記念展示ホールの他は。 チェチェンには美術館はないのかもしれない。アフマト・カディロフ博物館の2階も美術品展示されていたし、ここもかなりのスペースに絵画作品が展示されている。絵画ホールには、ロシアの作家の他にチェチェン作家の絵もある。マゴメド・ザクリエフさんの冬のカフカースの絵があって「まあ、ザクリエフ。彼は有名なの?」と言うと、「大変有名です」と力を込めてガイドが答える。 |
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ウールス・マルタン市のドンディ・ユルト Донди-Юрт 野外民俗博物館 | ||||||||||||||||||||
ウルス・マルタン市はスンジャ川の右岸支流マルタン川の畔にあってグローズヌィ市から南西に18キロの人口61,221人(2,019年)の古い町だ(地図)。現在、人口ではシャリー市(54、168人)やグデルメス市(53,957人)を抜いて第2位。18世紀にチェチェン人のいくつかのタイプ тайп(テイプ・氏族、後述)が集まってヒアルハ・マルタネ村 Хьалха Мартанеができたそうだ。19世紀中ごろには、その近くにロシア帝国の砦もでき、ウルス・マルタノフスキィと呼ばれた(ロシア人に限らずヨーロッパ人は行く先々に砦を築くと言う厚かましさ)。19世紀のカフカース戦争中は何度も焼かれた。1944年から1958年のチェチェン・イングーシ人の中央アジアへの強制移住でチェチェン人が不在の期間はクラスノアルメイスコエ(赤軍のと言う意味)と改名していたが、帰還・復帰後は元の名前になった。(強制移住で不在の期間はチェチェンのどの地名もソ連風に改名していた。帰還後は元の名前になった)。チェチェン戦争の頃は反ドゥダーエフ 側、つまりロシア連邦側で、チェチェンはロシア連邦の一部であるとする臨時政府があったそうだ。しかし、第1次でも第2次チェチェン戦争でも町は連邦軍と『イチケリア軍(*)によってほほ完全に爆破されている。多くの村人が亡くなった。 (*『チェチェン共和国イチケリア』と称した独立派は、その反対派(ロシア連邦軍)に『イチケリア』と呼ばれる.イチケリアとは歴史的地名でチェチェン東南部を指した)。
この日は雨がちだったせいか、ウールス・マルタンは泥だらけの陰気な町に思えた。町の中を探して見つけた『ドンディ・ユルト野外民俗博物館』はこの日は休館日だった。しかし、遠方から来たのだからと開けてもらう。ガイドはいないが、見てもよいと言うことだった。2000年、村の住民アーダム・サトゥルーエフ Адам Сатруевと言う個人が自宅の庭に作ったそうだ。彼は若い時から、廃村になった山岳の村々から古い道具を集めていたと入り口の掲示板に書いてあった。ドイツの旅行者が持っていたという図から18世紀末の家を再現したり、3階建ての塔を再現したり、水路を作ったりと、あたかも、チェチェンの古い村が、ここにあったかのように作り上げた。納骨堂も再現した。数軒の民家は、当時のように質素なものだ。住民からの寄付もある。 再現民家は、その野外博物館には前記のように数軒あった。その一軒の玄関テラスには、チェチェン民族について書かれた「論文」のコピーと歴史地図が掲載されていた。それによると、カフカース諸語(*)のナフ語話し手(チェチェン人など)は紀元前7世紀には東ヨーロッパのルーマニアのドナウ川から中国の黄河に至る地に住んでいた、と言う。なぜならナフ語話し手はスキタイ・サルマト・アラン人の直接の子孫だからだ。スキタイ人はユーラシアの東西の草原地帯を自分達の勢力地・遊牧地としていた、と言う。時代が飛んで、7世紀アルメニアの地図では、ドン川やヴォルガ川の下流からクラー川近くまで、つまり、南はカフカース山脈南から、北はカフカース山北麓と北の草原地帯までナフ語の話し手(ここではサルマト・アラン人とされる、それは前記のようにチェチェン人などの直接の祖先とされるから)が住んでいたとなっている。古代ロシア語にはナフ語からの借用語も多い…。
今は人口も少なく(古代・中世に征服されたり移動を余儀なくされたり、近世になって離散したなどで)、弱小と言われてしまっている多くの『カフカース先住・原住』と言われている民族は、かつて、自分たちの先祖はアッシリア時代には強力で、旧約聖書にも出てくるxxx国を築いたとか、自分たちの祖先はシュメール人だったとか、エジプト文明を築いたのは自分たちの祖先だとか、自分たちはウラルトウや、ハッティ Хатты(紀元前2500-2000/1700、アナトリア半島中央から東部、後に印欧語族のヒッタイト人に同化していった)の子孫だとか、ナフ・ダゲスタン祖語はフリル語(*)との共通点があるとか、という自国の歴史書(試行とは断られているが)が見かけられるようになった。民族語で書いてあると私には読めない(ソ連時代は民族の系統を探ると言うような論文は多分あまり発表されなかった)。 (*フリル Хурриты人、ウラルトゥ Урарту王国 については 『追記チェチェン略史』) ここドンディ・ユルタの民家に貼ってある『ナフ語話し手』の地図と論文のコピーを読むと、これは身びいきにしても無理があると思う。現在のカフカース人は地元勢力か渡来勢力かにかかわりなく古代・中世・近世の様々な勢力の子孫だろう、と言ってしまうと身も蓋もないが(カフカース学者ももちろんそれは認めている)、スキタイの直接の子孫がナフ語の話し手になったとはうなずけない。オセチア人の祖先にはスキタイの流れのサルマト人・アラン人もいるという仮説は支持されている。かなりチェチェン寄りの説でさえ、北東カフカースには1万年から8千年以上前から人類(カフカスで最も古いのはチェチェン・イングーシ人とする)が住んでいた、その言語はフリル語やウラルトゥ語に近かった(前記)とは、仮設だ。北カフカースはメソポタミア北部と関係があったとしても、メソポタミア文明の遠い後継者がチェチェン・イングーシ人か、わからない。この掲示の歴史説では、紀元前4千年紀から紀元前千年紀にかけて北メソポタミアで多くの国や都市をつくったフリル人は北カフカース(のチェチェン・イングーシ)出身なのだという。 バイナフ(チェチェン、イングーシ)の歴史は北カフカースの民族の中でも最も研究が遅れていると言われている。19世紀のカフカース戦争でかなりの歴史資料は散逸しただろうし(ロシア帝国軍によって焼かれ、遺跡は破壊された)、スターリン時代の(民族として絶滅を狙った、あるいは絶滅を期待した)強制移住でさらに消されたからだという。以下、ウィキペディアの記事やグローズヌイで購入の『チェチェンの歴史(チェチェン・アカデーミア編)』などの書籍を参考に;
野外博物館内の1軒の家だけは暖房され、明かりも付いている。これも正確に再現された民家だそうだが、当直のおじさんも住んでいる(昼間だけ)かもしれない。チェチェンではたいてい靴を脱いで屋内に入る。それももっともだ。外のぬかるみを歩いた靴では中に入らない方がいい。じゅうたんが敷いてあり、テーブルや棚には当時の食器や筆記用具があり、壁には古い写真がろうそく付きの額縁に入れられて掛かっていた。ヒジャーブを被ったおばあさんとおばさんが映っていた。…。 帰り道は、来た道とは違ってグローズヌィ市のほぼ真南から入った。『グローズヌィ海』のそばを通ることになる(地図)。これは1961年、ゴイタ川(41キロ)を長さ800メートルの堤防でせき止めてできた貯水池で、スンジャ川に流れ込む手前にあり、近くにある地区の名前から、チェルノレーチェンスコエ貯水池 Чернореченское водохранилищеと呼ばれている。しかし、観光業界では『グローズヌィ海』と呼ぶ。その『海』は幅は700メートル(ダムの長さ)、で深さ6メートルの2平方キロ弱の人口湖で、2012年頃からこの『海岸』にスポーツと憩いの施設の建設が始まった。中世の塔や、5つ星ホテル、水上レストラン、アミューズメント・センターが作られだした。最も有名なのは音楽付き噴水で規模はドバイの大噴水に次ぐとか。然し、その噴水はめったに稼働しない。3年前に『グローズヌィ海』にマゴメド・ザクリエフさんと来た時は未完成の憩いゾーンだった。今、見るとホテルやレストランらしい建物が建っている。中世風のアーチには『グローズヌィ海』と確かに表してあった。それなりに総合観光地となっている。ちなみに設置前には地雷除去作業も行われたとか(ウィキペディアによる)。 |
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マディーナのオセチア観 | ||||||||||||||||||||
家では、マディーナはもう仕事から帰っていた。 ダゲスタン人はなぜ1944年にチェチェン・イングーシ人のように中央アジアへ強制移住させられなかったのだろうか。同じく北カフカース地方のバルカル人や、カラチャエフ人、カルムィク人は移住させられたのに、だ。ソ連邦領内に(18世紀から)住むヴォルガ・ドイツ人や、(元々そこ、レニングラード州に住んでいた)インゲルマンランディア・フィン人は真っ先に強制移住させられた。彼らの同胞のドイツやフィンランドはソ連邦の対戦国だったからだ。 その問いはパパに聞いてほしいと、マディーナは父のルスランを呼びに行った。父も答えられなかったが。(私が3日後にダゲスタンへ行って感じたことだが、ダゲスタンは雑多すぎる。ロシア帝国・ソ連政府は特にダゲスタンの諸民族を敵性だとはみなさなかったのだろう。カフカース戦争の時はロシア軍に味方したクムィキ侯もいた。) マディーナの言うには自分はオセチア人を尊敬はしないと言う。マゴメド・ザクリエフさんも2年前に、オセチア人のアスランの前で、「歴史的にもオセチア人はいつもロシアのちょうちん持ちだ(форпост)」と言っていたものだ。ロシア帝国がカフカースに侵入する時も、オセチアの主な共同体が協力した(しかし、オセチアでもムスリムの多かった共同体は反対だった)。オセチア人には、見返りに当時カバルダ侯の領土だった現在のオセチア斜面平野に移住することが認められ、山地に押し込められて人口も増えなかったオセチア人は、こうして平野に出てこられた。(当時、そのカバルダ候の領地は疫病のため、うち捨てられていた、そこへロシア帝国軍を後ろ盾に首尾良く移住できたのだ) オセチア人によれは、カフカースで唯一の印欧語のイラン語系のオセチアはサルマタイ族(スキタイ)の一派アラン族で(*)4世紀、民族移動の時はゲルマン人と共にヨーロッパ中を(略奪して)回り、至る所に短期間だが定住した。スペインやイングランドにアラン語の地名が残っている。435−534年、北アフリカにカルタゴを首都として一時は地中海の大勢力だったヴァンダル・アラン王国があった(東ローマ帝国により滅)。移動しなかったアラン人のアラニア国は10世紀には(故地の、つまり最初に移住したと言うだけの故地の)北カフカースや黒海北岸で、ハザール・カン国やビザンツ帝国(東ローマ帝国)と対等に勢力を張っていたが、13世紀、モンゴル軍とチムールの侵攻で国は壊滅、生き残りがカフカース山中で細々と暮らしていた。イラン系のアラン人の子孫オセチア人は周りのカフカース民族、つまり北西のチェルケス人(アディゲィ人、カバルダ人)や、東北のナフ人(チェチェン、イングーシ)、南西のチュルク系民族のバルカル人に侵攻され、侵攻し、しかし同化もされず、ロシアの出現までカフカースの厳しい峡谷に5個ほどの共同体を作って存在していた。南オセチアの共同体も含めるともっと多い。 (*)先ほどのドンディ・ユルト博物館掲示の歴史地図と説明示コピーによると、チェチェン人こそスキタイ・サルマトイ・アラン人の後継者だ。オセチア語はイラン系だが、それはアラン人の子孫だからではなく、ソグディアからの移民だからだ、となっている。しかし、この仮説はあまり支持されていない。それにアラン人はイラン系言語だったと言うがチェチェン語は別系統だ18世紀初めオセチアの比較的有力だった共同体の代表がペテルブルクまで行き、エリザヴェーダ女帝(在位1741−1762)に、ロシアに合併してほしいと言う文書を渡したのは、(現在になって、特に)有名だ。前記のように、すべての共同体が賛成したわけではない。特に西にあったムスリムの多いディゴール地方は、その西のムスリムのカバルダ諸侯と結びつきが強かったのか、ロシア正教のロシア帝国に抵抗した。当時オスマン帝国の庇護下のクリミア・ハン国と戦っていたロシアはオセチアの一共同体の申し込みを快諾。その後、『カフカース征服』と言う意味のウラジカフカース砦など造って、帝国は北カフカースに食い込む。当時のウラジカフカース砦はロシアからカフカース山脈の向こう側(ロシアから見て向こう側なのでザカフカースと呼ばれていた)にあって、新たに保護国としたグルジア(東グルジアのカルトリ・カヘティア王国で、現在の全グルジアではない)へ行く道を、チェチェン人など山岳民から守るためにできた。
現在、北オセチア共和国首都ウラジカフカース市郊外には、ロシアに合併してほしいと女帝に外交文書を手渡すオセチア大使一行の像がある。最近できたようだ。それを3年前にウラジカフカース市で見て、オセチア人アスランには黙っていたが、今頃こんな大掛かりな記念碑を立てるのはロシアに阿っているようで見苦しい、とそっと思ったものだ。 「ロシアに合併されてよかったことは平野に出られたことだ、悪かったことはオセチアがロシア化されたことだ」と、アスランは当たり前のことを言う。オセチア以外のカフカース民族は、18、19世紀のロシアの侵攻とは長期にわたって戦ってきている。しかし、オセチアにはオセチアの、当時や現在の苦しい立場もあるだろう。 カフカース民族の中でも、数世紀もの間、最も頑強にロシアと戦い、3度もほぼ民族が絶滅されかけたチェチェン人は、オセチア人を尊敬できないだろう。その意味は嫌いだと言うことだ。さらに領土問題もある。(チェチェン・イングーシ人が強制移住されて空いたウラジカフカース市付近のテレク川東の元々のイングーシ領をオセチアは、チェチェン・イングーシ自治共和国復興後も返還しようとしなかった。現在でもイングーシ共和国に返還していない。) |
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アルグーン峡谷へ | ||||||||||||||||||||
2月1日(金)。この日はマディーナも仕事を休んで私に付き合うことになっている。一緒に朝食をとる。私は朝一杯のコーヒーを飲むことにしているが、この家ではインスタントしかなかった。その瓶をよく見ると、「BUSHIDO
PREVIUM COFFE 武士道 RED KATANA正直者 JAPAN BEST QUALITY」と英語と日本語で書いてあって、スイス製だった。ファーティマさんに訳してあげた。私がロシアで最も聞きたくない言葉は「サムライ」だ。向こうは褒めているつもりか知らないが、どういう意味で使っているのか、私はその言葉で日本が褒められることに戸惑う。武士道なんて、解説する人によって定義が異なる。武道の理念・倫理に基づいた人格者(もしかして、意気のある、気概のある)を言うのか。封建道徳の担い手か。相手は日本人の私からその意味を聞きたそうだが、私はよく説明できない、(間違いだらけのこともある)ウィキペディアのロシア語版でも読んでください、と言いたい。ちなみに、『日出ずる国』と言う言葉も戸惑う。しかしこれはロシア人にとって日本の雅称であると言われた。そういえば、私に対して好意を示したいと言うようなときにロシア人が使っている。
10時には連絡があって、下へ降りてみると、白地に赤に派手に『ツアー・ジープ』と書いたウアス(大型ロシア製ジープ)と、トゥルパルが待っていた。助手席に私が座り、後部にマディーナとトゥルパルが座って出かける。常に身内の男性が同行しなければならないのだろう。 以前のメールでは、マディーナはどこでもあなたの行きたいところに行きましょうと書いてくれた。アルグーンの上流グルジアとの国境付近のマイスタ Маистаは古い塔が建ち山岳の絶景と言われている。アルグーン川は『塔の川』と呼ばれていたくらいに戦闘用、住居用の塔が多かったが、19世紀のカフカース戦争や、20−21世紀のチェチェン戦争で、ロシア軍によって多くの塔が爆破された。が、数百年前建てられたままに残っている塔も少なくない。私が今回ぜひ行ってみたいところは、アルグーン川上流だった。最上流はグルジア領だ。そこに至るまではグルジアとの国境地帯で、許可なしでは入れない。その辺りはチェチェン戦争の時、ゲリラたちのテリトリーで、抜け道とかが多くあったそうだ。今回、ゲラーエフ Руслан Гелаев(1964-2004、独立派司令官。チェチェン略史)が自分の戦闘員たちを置いたと言う有名なパンキン峡谷までは(そこはグルジアだから)いけないにしても、できるだけ深く入れないだろうか。(地図) 前日、マディーナの父親ルスランに地図を見せて説明したが、彼は何も答えなかった。地図にはカフカースを縦断する太い道(主要道なので)が載っている。アルグーンの上流はグルジアに通じているが、その国境は厳重に閉鎖されているだろうし、国境の見えるところか、その手前の国境警備隊の小屋(後に小屋どころではないと知った)が見えるところへも近づくこともできないだろう。ここはチェチェン戦争の最後まで、もしかして今でも厳しい地帯だ。そんなところに行きたいと言った私にルスランは返事をしなかったのだろう。しかし、アルグーン峡谷は最近の、観光立国を目指すチェチェンの新観光地でもある。(後述。ロシアで一番長いロープウェイのあるスキー場も建設中だとか) 今日、マディーナが説明するには、イトゥム・カリへ行き、そこからシャーロ・アルグーン川上流のシャロイ Шарой村の方へ行けたら行くとのこと。冬で雪道なので行ってみるまで、どこまで行けるかわからない、そうだ。 帰国後調べたことだがシャロイ村の標高は1564メートル、人口は330人。12世紀から14世紀の多くの塔があったが、そのうち住居用塔は1944年の強制移住の後爆破され、防御用塔の一つは1995年のチェチェン第1次戦争の時爆破された。現在、復旧修理再建作業が行われている。8世紀から9世紀の5,6階建ての塔も発見されている。また、もっと古い建物に人間と犬の岩画もあった。その古さからコバン時代(カフカースの紀元前13世紀ごろから紀元前6世紀ごろの後期青銅器文化と初期鉄器文化)のものであろう、と言う。 そのごつい車に乗って、出発した。町角には至る所、自動小銃の警官が立っている。日本では見かけられない光景だ。町を出ると右側に山波が見えた。あの辺から山岳地帯が始まるのだろう。そこまでの平野はよく耕されて、冬なので、ただまっすぐで広い野原が山裾まで続いているばかりだった。こういう広々としたところもいい。トウモロコシ畑になるのだろうか。村の傍も通る。墓地もあった。いくつもの墓石が並んでいた。たぶん、イスラムの印がついた立石だろう。「連邦軍は墓地は爆破しなかったでしょう」と私。マディーナもトゥルパルも運転手も同時に否定の声を上げる。ロシア連邦軍はすべてを爆破した、と答える。 |
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ヤルィシ・マルディの戦い (地図) | ||||||||||||||||||||
もっと行くと前方近くに山が見えてきた。私達の目的地は、その山の奥にある。アスファルト舗装された道は平野から山地へ入る。その手前のまだ平らな地にチリ・ユルト Чири-Юрт(標高282メートル、人口6500人)という村が道路からやや離れたところにあって、そこにはチェチェンの唯一のセメント工場があると、運転手が説明してくれた。帰国後、ウェブサイトで調べたところ、1974年頃から操業、戦争直前の1993年には20万トンの生産量だったが戦争で破壊。第1次チェチェン戦争後も復興されることはなかったが、第2次チェチェン戦争の後2007年には復興され、現在北カフカース有数の生産量。(第1次戦後と第2次戦前のチェチェンは、休戦中だったが経済危機の3年間だったのだ。)
チリ・ユルタ村近くを過ぎ、平野が終わりかけた頃、アルグーン川の橋を渡る。この辺がアルグーンの門(狼の門)と言って、山々が迫ってきて、平野からアルグーン峡谷への入り口となっている。この峡谷の入り口で敵(侵入者)を防ぐことができる。だから『門』と呼ばれている。2年前もマゴメド・ザクリエフさんの車で通ったことがある。その時は工事中だったが、今はアスファルト舗装された快適な広い道が通じている。 数キロも行ったところにヤルィシ・マルディЯрыш-Марды村という小さな村があり、その近くで第1次チェチェン戦争の1996年に起きた戦闘をヤルィシマルディの戦いと言う。連邦軍は大敗し、チェチェン戦争の有名なエピソードの一つとなっている。それは、2年前帰国してからウェブサイトで知ったことだったので、今回通るときはよく見ておこうと思っていた。そして、わざわざ戦闘のあったあたりというところで車を止めてもらった。周りを見回したが、今ではもちろん、地面と木々と両脇の斜面の他は何もない。ヤルィシ・マルディに限らず、チェチェンで有名な激戦地跡と言えば枚挙に遑(いとま)がないのだが、どこも20年近くは過ぎているから自然に戻っている。(独立派や庶民の)戦死者を悼む記念碑なんてチェチェンのどこにもない(と思う)。 帰りの車で運転手が言ったことだが、この近くにセメントの材料を採掘する山がある。ドゥバ・ユルト Дуба-Юрт産地(近くに、前記のようにその名の村がある)と言って、ここで採掘された粘土は山腹の採掘場近くの太く長いパイプの入り口から投げ込まれ、パイプの出口の裾野でトラックに積んで、先ほど通り過ぎたチリ・ユルトの工場へ運ぶ。チェチェン戦争の時、そのパイプにチェチェン・ゲリラ(独立派戦士)が投げ込まれた。つまり、残酷な死刑にされた。パイプの中には材料の土壌(粘土)の塊が急降下するときに砕けるように刃が出ている。だから下まで落ちてきた遺体の断片は、遺族に見分けがつかない。遺体をしきたりにそって丁寧の葬ることは誰にとっても大切なことだ。 しかし、ガイドの運転手が言うには自分たちは仕返しをした。チェチェン人1人に対してロシア人2人を殺した。 カフカース戦争の頃から有名なシャトイ村はすぐ近くだ。今は見るものがないのかプーチンとアフマト・カディロフの肖像写真のあるアーチ(門)を通りぬけ、それからは村の迂回路を通ってただ通り過ぎた。 |
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ニハロイ滝 | ||||||||||||||||||||
運転手が無料のところに止めたらしい。私たちは、その観光地へ入った。まずアルグーン川にかかるつり橋を渡る。この辺のアルグーン川は深い谷間を作って流れる。つり橋の上からは絶壁に挟まれ細くなった間を逆巻いて流れる川を眺めることができる。つり橋を渡ったところにはカフェやホテルがある。その奥に通路と小さな橋があって下へ降りる階段に通じている。そこからは有料のようだ。ガイドの運転手はその前で待っている。 階段の近くにムシュムラ мушмулаと言う木の実がなっていてトゥルパルが取ってくれた。中の小さな種も食べるといいと言われたが、消化器を最後まで通過できない可能性もある。黒くなった実を2個ほどは食べたが、3個目は無理だった。ティッシュに包んで日本にまで持って帰る。種を植えると芽が出てくれるかもしれない。(帰国後 мушмулаは何かと調べてみるとビワだった。ビワの実が木に残って干からびるとこうなるのか) 危なっかしい階段を上ったり下りたり、浅い川を飛び越えたり、雪の積もった河原を渡ったりして、山の奥に入る。ニハロイ滝のあるところは標高が高いうえ、峡谷で日光が当たらなくて雪も解けない。滝は、日本人の私には珍しくないが、こうしてアルグーン峡谷の小さな支流をたどっていくのは興味深い。スカートにパンプスのマディーナは歩きにくそうだった。トゥルパルに助けられていた。靴底に鈎付き冬ブーツの私は自力で行けたが、最後の階段はパスした。あまりにも急な長い登りだったから。この階段が滝の頂上へ行く最後の階段らしい。マディーナは登っていった。下からでもニハロイ大滝は見られる。
戻って、カフェでお茶を飲む。冬場でもホテルやカフェは営業しているので男性の従業員が数人広場にいる(滝へ下りる階段の入場料も観光客からとらなくてはならない)。カフェでトイレを貸してもらったついでに見たのだが、テーブルには食事の準備がしてあった。ツアー客でも来るのだろう。私達は外のテーブルでお茶を飲んでいた。クルミを甘く煮たデザート(ジャム)も出た。 太めで厚化粧の女性が広場を行ったり来たりしている。ロシア人かとマディーナにと聞くと、そうらしいとのこと。ツアー会社の者かもしれない。やがて、数人のグループがつり橋を渡ってきた。外国人のようだった。 ニハロイ村と滝は道路の東側、つまりアルグーン川に沿ったところにあるが、道路の西側の高台にはシャトィ村の続きのようなボルゾイ Борзой村がある。『291自動車部隊』(42-я гвардейская мотострелковая дивизияというチェチェン内の4カ所の基地のうちの一つ)という連邦軍のやや大規模な軍事基地がある。バルゾイ村のチェチェン人は1000人ほど。ロシア人が2000人、非ロシア・非チェチェン人が1000人ほどで、隣接する基地も含めてバルゾイ村全人口は4000人となっている。(チェチェンでは大概の村は98%以上がチェチェン人だ)。 ニハロイ大滝のあるカフェのテラスからの眺めは抜群だった。そこを後にして、主要道をさらに進んで奥地へ行っても、深い峡谷が続き、見下ろすと青い川や、ところどころに峡谷の絶壁を落ちる滝が見られた。 ニハロイ村から奥へ行くとすぐに、検問所がある。遠くからでも見えた。2年前もあった。だから私はあらかじめカメラをそっと構えておいて、そっと撮った。 さらにアルグーン峡谷を進むと、ウシュカロイ塔のある川岸に出る。そこはアルグーン川が最も狭くなったところの一つだ。高さ約12メートルのこの塔は11,12世紀にできたそうだ。左の塔は1944年(チェチェン・イングーシ人強制撤去の年)に破壊され、右の塔は2001年に半壊にされたが、2011年には両塔が復旧されたとヴェブサイトに載っていた。ただの塔ではないからだ。道路が走っているのは右岸だが、左岸は絶壁になっている。その絶壁のくぼみにこの双子の塔が建っている。最初から2基あったとか、いや最初は1基だけだったとか言われている。右岸から見ると、アルグーン川の急流の向こう岸に立つ双子の塔は見ものだ。2年前に見たときは修理された塔だけがあったが、今、右岸と左岸にカフェが建ちかけている。カフェを結ぶ橋もある。 ウシュカロイ村という標高712メートル、人口500人くらいの村が2キロほど奥にあるから、この塔の名前が付いたのだろう。2年前はここまで来た。というのはマゴメド・ザクリエフさんに、チェチェンで塔を見たいと言ったから、その日は塔を廻ってくれたのだ。2年前はここで引き返したのだ。今回はまだ先へ行く。 |
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