クラスノヤルスkikannsiya,ク滞在記と滞在後記 
              Welcome to my homepage

home up date 28 July, 2019   (追記・校正:2019年10月23日、12月29日、2020年1月18日,6月6日、2022年1月24日)
37 - (7)   2019年 コミ共和国とチェチェン共和国 (7)
    イトゥム・カリ
        2019年2月18日から3月6日(のうちの3月1日)

Путешествие по республике Коми и Чечне, 2019 года (18.02.2019−06.03.2019)
   ロシア語のカフカスКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スと聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus

  コミ共和国スィクティフカル市へ 2月16日から2月26日 (地図)
1 2/18-2/19 旅行計画 長い1日 ガリーナさん宅へ 複線型中等教育ギムナジウム
2 2/20 アンジェリカさん祖先のコサック コミ文化会館 コミ・ペルム方言(地図) 歴史的地名インゲルマンディア
3 2/21-2/22 博物館。蕎麦スプラウト・サラダ 図書館、連邦会議議員 ウードル地方ィヨルトム村へ ィヨルトム着 水洗トイレ付き住宅
4 2/23-2/26 クィトシヤス祭 ザハロフ家 橇で滑る プロシャーク記者 コミからチェチェンへ
    チェチェン共和国グローズヌィ市へ 2月26日から3月5日 (地図、チェチェン略史
5 2/26-2/27 グローズヌィ着 マディーナ宅 マディーナと夕べ カディロフ博物館 トゥルパルとテレク川へ アーダムと夕食
6 2/28-3/1 グローズヌィ市内見物 野外民俗博ドンディ・ユルト(地図) チェチェン略史 マディーナのオセチア観 アルグーン峡谷へ ヤルディ・マルディの戦い ニハロイ大滝
7 3/1 歴史的なイトゥム・カリ区、今は国境地帯(地図) イトゥム・カリ村(地図) タズビチ・ゲスト・ハウス ハンカラ基地と運転手(地図) 妹ハヴァー
8 3/2 ジャルカ村のボス グデリメスとクムィク人 カスピ海のダゲスタン(地図) ハサヴユルト市 水資源の宝庫スラーク川 デュマも通ったスレーク峡谷
9 3/2-3/3 チルケイスカヤ・ダム湖 新道を通って帰宅(地図) ジェイラフ区には行けない(地図) 大氏族ベノイ 山奥のベノイ村 チェチェン女性と英雄、主権国家
10 3/3-3/6 地表から消された村 英雄エルモロフ像 国立図書館 いとこのマリーカ トルストイ・ユルタの豪宅 チェチェン飛行場
 歴史的なイトゥム・カリ区、今は国境地帯
 ウシュカロイ村から5キロも奥へ行くと、イトゥム・カリ(*)村に出る。シャトイ区の行政中心地シャトイ村からは24キロ、グローズヌィ市からは75キロだ。イトゥム・カリ村は、イトゥム・カリ区の行政中心地だ。チェチェンには、現在17の行政区があるはずだが、南部の山岳地帯の2区(**)は、1956年チェチェン人が強制移住先の中央アジアから戻ることが許可されても居住禁止で、廃村となっていた。現在、両区は復活されて国境地帯(5キロ以内?)以外は許可されているらしいが、インフラがなくて住みにくい(と思う)。
 
 チェチェンの15行政区↑ 17行政区↓
 
(*)イトゥム・カリのチェチェン語でのロシア文字表記では Итон-Кхаьлла、それをロシア語では Итум-Кали イトゥーム・カリ、または Итум-Калеイトゥーム・カレと表記する
(**)南部の山岳地帯の2区は、ガランチョージ区 Галанчожский(1939年の人口9500人、中心のガランチョージ村の標高1500メートル)と、チェベルロイ区 Чеберлоевский(平均の高度1670m、1939年の人口17,000人)と言った伝統的チェチェンの村々が散在する区。1944年以来廃止され、チェチェン人の強制移住が解禁されても、居住禁止区だった。2010年頃から復活されようとしている。
 イトゥム・カリ区も南部山岳地帯にあり、東カフカース地方で最高峰4500メートルのテブロスムタ Тебулосмта山もイトゥム・カリ区にある。カフカース山脈、正確にはその支脈の標高3552メートルのトゥシェット山脈 Тушетский хребет(*)などが、ここでは分水嶺となっている。と同時にロシア(ここではチェチェン)とグルジアとの国境ともなっている。
(*)トゥシェット山脈南でグルジア領のアラザニ Алазани川流域のパンキス峡谷はチェチェン戦争中、独立派の基地の一つがあった。戦後も長い間、いわゆるゲリラの根拠地だった。パンキス峡谷には古くからチェチェン人の移住者が住んでいて、グルジアではキスティン人 кистинцыと呼ばれている。(チェチェン側の地理によればトゥシェット山脈南のトゥシェチアは元々ナフ民族が住んでいた)
 
チェチェン南東部 (イ)イトゥム・カリ村
(ア)アルグーン川
(シ)シャーロ・アルグン川
(ヴェ・ツァマドイ)は
ヴェルフニィ・ツァマドイ村
 前述のようにアルグーン川はカフカース山脈を越えて流れる川の一つ、つまり通行可能な峡谷を成しているので、古い時代からカフカースの北と南をつなぐ通商路があった。テレク川上流のダリヤル峡谷にグルジア軍事道ができるまでは、こちらの方が通行量が多かったとも言われている。しかし、それはもちろん近代的な道ではない。ソヴィエト時代でも、馬がやっと通れる険しい山道だったと思う。
 このイトゥム・カリからグルジア内国境の村シャティリまでの42キロが(シャティリは国境から2キロ南なので、国境までの40キロといえるが)4輪車でも通年通れるようになったのは第1次チェチェン戦争の後で、整備したのはチェチェン『ゲリラ』だと言う。それは、グルジアから物資を運び込むためだ。チェチェンは北側と東西はロシア連邦の共和国またはロシア共和国の地方(スターヴロポリ)に囲まれているが、南側のみは、チェチェン戦争では中立であったと言うグルジアと接している。第2次チェチェン戦前も戦中も国境を包囲されていて、物資の運搬ができないので、唯一南のアルグーン峡谷のイトゥーム・カリからシャトイ村方面の道のみは通年使えるようにしたのだ。アルグーン峡谷以外のトゥシェト山脈越えの昔からの峠は幾つかあるが、それら険しい道では冬季でなくとも重機の運搬は不可能のはずだ。だから、このイトゥーム・カリから先へ延びる道路が第2次チェチェン戦争の時は激戦区の一つでもあったそうだ。グルジアから戦闘員や武器が入ってくるばかりでなく、避難民がグルジアへ逃げる通路でもあった。難民が無事避難できなかったこともあっただろうし、物資の運搬を阻止するために連邦軍は全力を挙げただろう。また、地元民しか知らないトゥシェット山脈越えの道もあったとも。
 しかし、10年以上もたった今、静かになったに違いない。第2次チェチェン戦争中は独立派に占領されていたと言うイトゥーム・カレも復興が進んでいるし、42キロのグルジア国境への道路も平和だろう、と思った。だから、イトゥーム・カリ村から少しでも先へ行きたいものだと思っていた。ウィキペディアによると、道路は整備されたらしい。

 イトゥーム・カレ区(前記のように、チェチェン語からロシア語に転記の際には揺らぎがあって、カリともカレとも書かれている。ほかの地名でも同様だ)は、現在31村があることになっているが、住民がいるのは16村だ。そのほかに71の廃村、つまり廃墟がある。(ヴェブサイトには71廃村の村名が載っている)。つまり、かつては百以上の集落があった。現在、イトゥーム・カレ区全体の人口は6500人。行政中心地イトゥーム・カレ村は人口1300人(ロシア人12%)。標高は773メートル。
 19世紀のカフカース戦争の際、ロシア帝国軍によって最も南(奥)にある砦として、エヴロキモフ砦 Евдокимовское укреплениеが現イトゥム・カリ村の南隣に作られた。ニコライ・エヴドキモフ(1804−1873)とはカフカース戦争時のロシア帝国軍将軍の名。1899年の北カフカースの軍事地図でもエヴドキモフ堡塁(1858年)より先は山脈だhttp://www.etomesto.ru/map/base/23/kavkaz-severo-vostok.png)。
1840年レールモントフの鉛筆画『山の村の…』
(ヴェブサイトから)

 当時からも、今もこの村の周囲には実に多くの中世の塔や納骨堂があったし、今も残っている。古い村のシュルカグ Шулкагは今ではプハコチ Пхакочともにイトゥーム・カレ村に合併されている。カフカース山脈を背景にした自然美の中で聳える古い塔が心を打ったのか、当時帝国軍としてシュルガク(たぶん)にやってきたレールモントフの『山の村の眺め Вид горского селения≫』という詩に歌われたくらいだ。詩人はスケッチも残した。
 20世紀初めの革命後、帝国軍は去った。(ウィキペディによるとチェチェン人に皆殺しにされたとあるが出典は出ていない)。
 アルグーン川には、シャトイ村(上記、グローズヌィから50キロ余で、アルグーン峡谷で最も大きいシャトイ盆地にある)より奥の山岳地帯にこそ、多くの村があった。ここはチャンティ氏族が古くから数百の村を作って住んでいた歴史的な土地だ。だからアルグーン川も、ここではチャンティ・アルグーンと言われている。各村には村を守る塔(または避難する塔)が建っていた。

 19世紀末の地図ではチャンティ地方より奥のアルグーン川とその支流沿いはキスティ地方と呼ばれ、キスティ人(今、キスティ人と言えば、グルジアに住むチェチェン人を言う)がマイストィ майсты(マイスタ)、メルヒストィ мелхисты(マルヒストィ малхисты)と言った氏族などを作って住んでいた。あるいはその名で呼ばれた地方名だ(下記)。そこは、現在はロシア連邦領(のチェチェン領)だが、かつてはロシア帝国チフリス(現グルジアの首都名)県ティオネット郡 Тионетский уездに含まれていた。
 
マイスタ、旧・プオグПуог村(ウェブから)

 歴史的なマイスタ地方(マイスタ峡谷)にはアルグーン川の河口から108キロの上流(だからカフカース山中)の右岸に合流してくるマイスタ・エルク Маисты-хи(Майстойн-эрк延長14キロ)川岸の高度1370メートルくらいに多くの村を作って、かなり密に住んでいた。(人が多くなってて土地が足りなくなったので)、ここからナシュハ Нашхやイチケリア Ичкерияにも広がったと言われているるくらいで、当時は山岳チェチェンの首都、文化的中心ともいえる場所だった。現在、ロシア連邦軍が管理する無人の国境地帯となっているが、多くの石造りの建物が残っているそうだ。特に、ヴェセルケル塔群 Васеркелというところには2基の防御用の塔、10基の住居用の塔、36の納骨堂が残っている(ウィキペディア)。19世紀カフカス戦争時には、ロシア帝国の支配下にも、カフカース・イマム国のイスラム・ミューリズムのシャミールの支配下になることも拒んだチェチェン人(マイスタ人と言う)がジョコーラ Джоколаに導かれて、今はグルジア領のパンキス峡谷に移住したと言うエピソートもある。
https://tonkosti.ru/%D0%9C%D0%B0%D0%B9%D1%81%D1%82%D0%B0
https://history.wikireading.ru/353295

 一方、アルグーン川の左岸にはマルヒスタ Малхистаという歴史的地方があって、メシ・ヒ川 Меше-Хи(アルグーン川河口から116キロの上流)やバスタ・ヒ川 Баста-хи(同113キロ)の作るマルヒスタ峡谷に19世紀末には10余りの村に177家族、つまり1500人ほどが住んでいた。1944年の強制移住の時、この遠方地から移住目的地のカザフスタンまで移住できないと判断された村人(障害者や老人)は、1カ所に集められ集団で殺害された(300人とかいう)。現在ここもロシア連邦軍に管理された国境地帯となっていて無人だ。(マルヒスタではないが、同様に山岳のガランチョージ区のハーイバフ村で当時、ロシア内部人民委員部によって虐殺された事件は2014年映画化された)。
 マルヒスタというのは古代ナフ語で『太陽の国』という意味だ。これはイスラム以前のナフ民族の神話からきている。(”История Чечни” 68ページ)
 チャンティ・アルグーン川の最上流の方はグルジア領のヘヴスリア地方でここに住むヘヴスリア人はチェチェン人の子孫だが、現在グルジア語の方言を話す。また、ヘヴスリア地方の東はトゥシェット山脈の南になるが、そこはトゥシェチア Тушетияと言った(現グルジア領)。そこも、山岳チェチェン人が住んでいた。(前記、パンキス峡谷)
 以上が出発前にヴェブサイトで調べたことの一部だ。マイスタやマルヒスタ地方は、グルジアとの国境地帯になっていて、許可がないと入れない。
Старинный замковый комплекс Пакоч
http://www.itumkali.com/news/torzhestvennoe-otkrytie-otrestavrirovannoj-boevoj-bashni-v-itum-kali.htm

 イトゥーム・カレ村(現代)
 ニハロイ滝やウシュカロイ塔のある今までの道、つまり、右手に絶壁、左手にアルグーン川沿いのアスファルト道を、新築らしい丸屋根のモスクの村を通り過ぎて道なりに行くと、そのままイトゥーム・カレ村にはいる。村の入り口には例のように左にプーチン、右にアフマト・カディロフの肖像写真が掲げられたチェチェン風の塔が門のように道の両側に立ち、通りの向こうの背景は白いカフカースの山々だ。
イトゥーム・カレ村にはいる
博物館の入り口
修理前のパコチ塔(ヴェブから)
イトゥーム・カレ空挺部隊(ヴェブから)

 通りに入る。またも、アフマト・カディロフトとプーチンの写真が見える建物のある広い敷地は警察署らしい。
 前記のように、アルグーン川上流はチャンティ・アルグーン川と言う。村の通りに入る。チャンティ・アルグーン川と書いた川の橋も渡り、村の中ではチャンティ・エフク Чанты-Эхкと言う小川も渡る。この小川は、ロシア語では Хатеркаと呼ばれている。イトゥム・カリ村でアルグーン川に合流する16キロの小さな川だ。エフクと言うのはチェチェン語で川の意味らしい。チャンティ・アクフ Чанты-Ахк(АхкもЭхкもチェチェン語をロシア文字で表した同一の言葉)の橋も渡って村の山手へ出ると、立派なモスクがあった。その横にフセイン・イサエフ Хусейн Исаев名称郷土博物館がある。イサエフと言うのはチェチェン国会議長で2004年5月アフマト・カディロフが爆破された時、巻き添えを食って死亡した一人で、この村出身者。同名の通りにこの博物館もある。
 ちなみに、グローズヌィ市の中心部、プーチン大通りと交わる1690メートルの旧セルゴ・オルジョニキーゼ大通りも2005年『フセイン・イサエフ大通り』と改名された。ちなみに、1940年『セルゴ・オルジョニキーゼ大通り』と呼ばれる前は『5月1日通り』でその前は『アレクサンドル2世通り』だった。オルジェニキーゼ大通り時代にも、チェチェン戦争で廃墟となり復興されてイサエフ通りになっても、そこは市の中心で内務省や連邦保安局支部などがある。

 イサエフ名称博物館になっている石の塔とそれに続く石の建物は、最近まで廃墟だったらしい。前記のようにイトゥーム・カレ村はかつての2つの村シュルカグとプハコチを含む。プハコチは奥にあったらしくそこには、パコチ Пакоч(Пъха коча、上の集落と言う意)と言う塔があり、これが博物館となっている。2012年開館式が行われたようだが、完成はしていなくて、展示物も多くはなかった…19世紀ごろの道具が展示してあった。イサエフの遺品も展示されているはずだ。感じの良い青年がガイドとなって案内してくれた。
 博物館の前庭には水車の模型があった。これは当時村で唯一の水車で、これ1台で村全体の用途を足していたが、戦争で破壊された。その実物大模型だ。
 時刻は2時近く、食事をしよう(と彼らが私にはわからないチェチェン語でお互いに話していたのだろう)、シュルカグに戻ったが、そこのカフェは閉まっていた。通りが数本しかない狭いイトゥーム・カレ村を、なんだかぐるぐる回って、ここを直進すれば、グルジアに出られると言う道で
「私達はこちらには用はないから」とわざわざ運転手は言って左折して細い道に入る。

 イトゥーム・カレからグルジアのシャティリの方へ、少しでも進みたかったが、こうやって左折してしまった。帰国後地図を調べると、グルジア国境の方向へイトゥーム・カレ村から出たところにすぐイトゥーム・カレ空挺部隊と言うアルグーン峡谷特別国境警備隊の一つがある。これはかつて第2次チェチェン戦争の1999年から2001年にグルジアのパンキン峡谷からの独立派の通路を遮断するため置かれた(それ以前からも小規模にしろあったはずだ)。
 部隊は3000人ほどもいるらしい。ちなみに、チェチェンには大きな連邦軍基地が4カ所あって、そのうちニハロイ大滝の上にあるバルゾイ村に隣接したバルゾイ機械化狙撃兵部隊基地 мотострелковый полкもその一つだ。2005年以後、アルグーン国境警備隊はバルゾイ国境警備隊と合併され、15カ所の強固関所、3個の国境要塞司令部があって、ロシア連邦でも、フィンランドとの国境軍と並ぶ、大規模な基地だそうだ。(他の3基地はグローズヌィ市東のハンカラ、テレク川左岸のカリノフスカヤ Калиновская町、そして、シャリー市にある。)
 イトゥーム・カレ空挺部隊基地(アルグーン国境警備司令部)は、ヴェブサイトに写真があったが整然と並んだ兵士集団や、その向こうにある大型テント、更に背後に見える古い塔、もっと向こうには白いカフカースの山が映っていた。この場所は元はトゥスハロイ Тусхарой村と言った。今も、その名で基地近くに村人が住んでいるのかもしれない。基地の名前はバルゾイにしろ、トゥスハロイにしろ、近くの村の名前で呼ばれている。小さな村でもあった場所の近くの方が基地を作りやすいのかもしれない。
 トゥスハロイ村はチャンティ・アルグーン川の左岸にある。右岸にはハチャロイ・アフク Хачарой Ахкという川が合流してくるのだが、そこにはシャッカロイ Шаккалой(ハチャロイ Хачарой)という廃村がある。これらも含めてイトゥム・カリ空挺部隊(アルグーン峡谷特別国境警備隊)の基地になっているらしい。シャッカロイ(ハチャロイ)村の基地はマゴメド・ウズエフ名称国境警備基地となっている(ヴェブサイトによる)。マゴメド・ウズエフ Магомед Узуев(1917-1941)は独ソ戦開戦時、ベロルシアのブレストで戦死した(爆弾をもってドイツ軍に突っ込んだ)というイトゥーム・カレ出身の若者だ。1996年になってロシア連邦英雄と言う『名誉』が授けられた(なぜ、1996年まで無視されていたのか)。彼の名をつけた通りは、現在グローズヌィにもあり、イトゥム・カリにもある。
 ウェブサイトにこのイトゥーム・カレ空挺部隊司令官のインタビュー記事が載っていたのだが、最近は状況が好転していると言っている。居住環境だけではなくグルジアとの国境関係もだ。というのは「グルジア側の年配将校も我が方も、かつては同じ学校で同じ国境を守るための勉強をしたではないか」と言うものだ。なるほど、かつてはどちらもソ連邦だった。
塔内、四隅に床板を置くでっぱり

 村の近くに古い塔があった。まがりなりにも立っている塔は、さすがとても多い。その中でもこれは、塔の最上階まで登れるよう梯子がついている。こういた塔は、現代では、もちろん防御用でも住居用でもない。チェチェン戦争後にも残っていたものは内部に雑草が生えているだけだ。どの塔も、石を積み上げて建っていて、窓の位置では石積みの壁は開いているが、塔内に床は作らなかった。窓の高さに合わせて、または必要に応じて木製の床を作ったらしい(吹き抜けもあったか)。その床の高さも調節できるとは、考えたものだ。床になる横板の高さが側面から出ているでっぱりに乗せて調整できる。つまり、塔の四隅には床を載せる石の出っ張りが四方そろえて何カ所かある。1階の天井を高くしたければ、高いところの出っ張りに床をのせればいい(横板の高さを調整できる本箱のようだ)。床の隅には人が通れるくらいの四角の穴が開いていてここへ梯子をかける。
 この塔は4階まであった。床板を3枚乗せたのだ。窓にはガラスなどないので、鳥が自由に出入りして、フンをまき散らしている。
塔の4階の窓から(グルジアの方を)見る

 どんな塔にも、床はなくても屋根は必要だ。石を積み重ね、だんだん狭くしていき、最後の一つで四角錐の頂点は閉じる。運転手の話すところによると、最後の『止め』の石を屋根の頂点に置くことになっているのは棟梁だった。最重要の仕上げの石だからだ。しかし、その危険な場所から墜落した棟梁もいたとか。
 タズビチ・ゲスト・ハウス
雪道を調べる運転手
この辺で引き返した
崖下で写真を撮るマディーナ(私の背後に)
タズビチのアスタル・ホテル(ヴェブサイトから)
アスタル・ホテルの中庭(ヴェブサイトから)
メニューはイトゥーム・カレ風家庭料理と言う
 イトゥーム・カレからタズビチ Тазбичиという村を過ぎて、斜面に沿って曲がりくねった道を登っていく。運転手によると、この先に峠がいくつもある。今の峠は緩い峠だ。この先にある最も険しい峠を越せるかどうか、この雪ではわからない。今のとろろは、道は除雪されている、と言っている(ロシア語なのでわかった)。

 ちなみに、私たちは入らなかったが、イトゥーム・カレ村で直進の国境への道と左折のタズビチ村への道との間にヴェデュチ Ведучиへ出る工事中の道がある。ヴェデュチ村ではアルペンスキー場を作っているそうだ。世界で(?)最も長いロープウェイができるとか。
 イトゥーム・カレのパコチ Пакоч(Пъха коча)旧村を登り、タズビチ村を過ぎ、さらに、ヴェルフニイ・ツァマドイ Верхний Цамадой(無人村)も過ぎてかなり行くとシャロイ村 Шаройに出る。そこが私たちの、もし可能ならばの目的地だ。地図で見るとそれなりの道はある。
 しかし、タズビチから30分も進むと、薄雪道にタイヤの跡がなくなった。運転手は車を降りて雪道を調べているが、除雪されているのはここまでだという。この先、いくつも峠があるが、今の峠を下っても次の峠は登り切れないと言う。登れないから引き返そうとしても、今下る峠を登れるかどうかわからないと言う。雪道には両側に家畜の足跡だけが見えた。道の横には遠くか近くに必ず谷間がある。その谷間の向こうには白い山が見える。私達はここで写真を撮って引き返すことにした。この先の雪道で坂が昇れなくなったジープと一緒に留まるわけにもいかない。
 タズビチ村まで戻ると、田舎にはない立派な門の前で車が止まった。カフェだった。まず、運転手とトゥルパルが中に入って、料理が出せるかと聞いてくれたのだろう。しばらくしてきれいに整備された前庭を通って、家に入る。残念ながら、4人の中でチェチェン語が分からないのは私だけ。後の3人は自分たちのいつも使う言葉で話しながら予定を決めていたのだろう。たまたま自分たちの会話をロシア語ですることもあって、そんな時と、わざわざ私に伝えることがある時のロシア語だけが、私にはわかるのだ。
隣室の赤ちゃんを抱いて
挨拶させてくれる嫁さん

 農家らしくもない、と言って都会の家らしくもない家のドアの前にはマットが敷いてあり、ここで靴を脱ぐのだ。感じの良いおかみさんとその嫁が迎えてくれる。入るとすぐにそこはホールのようでソファやテレビがあり、中央にはテーブルと椅子がある。隣は台所になっていて、おかみさんと嫁さんが私たちに注文の料理を用意してくれる。このホールの隣にじゅうたんを敷いた部屋があり、そこにはサークルに入った小さな男の子がいた。ママが赤ちゃんを見守りながら料理ができるよう、ドアが開けられてある。マディーナも私も坊やをあやしにその部屋の入り口まで行ったくらいだ。その後、料理の準備中、その部屋でトゥルパルが昼間の祈りをささげると言うので、坊やは別室の祖父のへやへ移されたらしかった。トゥルパルは敬虔なムスリムだ。どこでも機会があるときには(1日に5回ときまりがある)、床にじゅうたんを敷いてお祈りをする。
 出された食事はチェチェン風だ。トウモロコシの粉で作ったお団子は多すぎて食べきれない。それに骨付きの肉。何かのフルーツで作ったと言うジュースはお代わりをするくらいおいしかった。私には特別に豆のスープを作ってくれた。4時半ごろ、タズビチ村を出て帰途に就く。
 後でウェブサイトで知ったことだが、イトゥーム・カレ村、それどころかイトゥーム・カレ地区全体には唯一のホテルがあり、私たちが食事した『アスタル АСТАРホテル』がそれだった。www.astarhotel.ru
 2005年創業、機器の修理や建設業、ホテル・レストラン業があるというアスタル・グループの一つだ。2013年、このグループではまだ1軒だけと言うホテルがイトゥーム・カレ区に建てられ、4部屋があり15人が宿泊できるとあった。)
 運転手との会話とハンカラ基地
グローズヌィ市とアルグン市の間にあるハンカラ基地
(yandex map) 
1.グローズヌィ・シティ 
2.アフマト・カディロフ名称『チェチェンの心』モスク
3.国立図書館 4.マディーナ宅 5.プーチン大通り
 
6.アフマト・カディロ大通り 
7.連邦道R217『カフカース』 
8.スンジャ川 9.アフマト・カディロフ博物館
10.グローズヌィ駅
 帰り道、ウシュカロイ塔を過ぎて、検問所も過ぎ、シャトイ村の立派な緑のモスクの下を通り、グローズヌィに向かう。ハンカラ基地の横の連邦道を通った頃は暗くなっていた。基地内の規則正しく並んでいるライトが遠くまで続いている。連邦道に沿ったライトだけでなく、奥へも、光が伸びている。ヴェブサイトとウェブマップによると鉄条網と地雷で囲まれているハンカラ基地の面積は、グローズヌィの中心街(アフマト・カディロフ大通り周辺)より広い。ここはソ連時代の軍飛行場だった。チェチェン・イチケリア共和国時代は独立派の管理下に置かれ、第2次チェチェン戦争では連邦軍の基地となった。
 2008年になって、ハンカラ『村』は廃止された、ということはソ連時代からの軍事飛行場時代以前はここにチェチェン人の村があり、その後も2008年までは基地とは別に村があったと言うことか。1942年作成の地図によると、現在は基地になっている場所とグローズヌィ市の間に小さなハンカラ村が記されている。その地図にはもちろん軍飛行場は記載されていなくて、そこはただ白いだけだ。現在ハンカラの人口は8000人。83%はロシア人で、チェチェン人は20人ほど。(非ロシア人、非チェチェン人のカフカース人も勤務している).
 ハンカラ谷の名は古い歴史にも出てくる。初期鉄器時代の『ハンカラ住居跡−1』,同じく2、サルマト時代の墓地と住居跡などが発掘されている。18世紀、ロシア帝国軍のチェチェン懲罰隊もここにとどまった(それ以上先には抵抗があって行けなかったということ。『チェチェン略史』)。
 運転手が時々ロシア語で私と話す。
「日本では武器は売っているか」
「いや 」。とんでもない。日本は技術が発達しているから(と多くのロシア人は信じている)精巧な武器も市販されているかと思ったのか。
「アメリカへ行きたいものだ。旅行ではなく、武器を買うためだけに」と言う。
「なぜ、武器がいるの」と聞く。日本人でマニアでない限りは、モデルガンも興味がない。
「自分を守るためだ。武器がなかったら、襲われた時どうする?」これでも控えめな返事だろう。
 彼らチェチェン人は侮辱されたと思ったら、その相手を仲間の数人でつるし上げるか、この運転手のように武器を使うのか。あるいは略奪を目的に他氏族を襲うのか。警察の役目は?古い社会では復讐が犯罪の抑止力となっていたと言うが。

 私にはロシア人の知人が何人かいる。彼らはみんなチェチェンには否定的だ。私が一人でチェチェンに行くと言うと、驚く。そんな恐ろしいところに自分なら行きたくないと言う。なぜだと聞くと、もし、ロシア人となら喧嘩(意見の不一致、感情のすれ違い、侮辱)しても、それほど危険はないが、チェチェン人とではとても危険、即、命に係わるから、と言う。
 ロシアのメディアによる強烈な宣伝の影響もある。1991年からの紛争の、特に第1次と第2次のチェチェン戦争時のチェチェン人は危険なテロリストでギャングであるという峻烈な反チェチェン・キャンペーンの影響もある。このころ私はクラスノヤルスクにいた。私の知っている限りのロシア人はみんな反チェチェンだった。彼らはチェチェンは悪、それを懲らしめるロシア連邦軍は正義の使者と確信を持って言っていた、ように覚えている。私は当時詳しくはわからなかったが、真実はともかく反チェチェン・キャンペーンはあからさまだと思った。政府がこれだけ言い張っていると言うことは事実とは異なることを事実としたいのであろう、と思って、クラスノヤルスクのロシア人知人と口論したものだ。ロシア人は、またチェチェンを軽蔑していた。大統領になる直前のプーチンも言っていた「奴らを肥溜めに投げ込んでやる」と。ロシア中にチェチェン・マフィアがはびこって、犯罪の陰には、またはグレーゾーンにはチェチェン人がいるとも言われていた。第1次チェチェン戦争の時、独立を求めているのはギャング、マフィア(だけ)であるといわれ、第2次ではテロリスト(だけ)であると、ロシア人の当時の私の知人たちは信じていたから、プーチンの言葉に喝采していた。事実は多くの普通のチェチェン人は独立したがっていた。それはそうだ、できることなら。

 ハンカラの照明灯の列は続く。
「日本には一応軍隊と呼ばれるものはないって知っていた?自衛隊ならあるけどね」と私。
「ふん、自衛隊!何とでも名前は付けられるわ。自分たちの所のも、『幼稚園』という名前に変えようかな」
まず「自分たち」と言うのは何だ?ハンカラにあるロシア連邦軍のことか、それは、チェチェンにモスクワのロシア連邦政府の統制を敷くための機関ではないか。チェチェン軍なんてどこにもいない(チェチェン独立派軍の残存がカフカース山中にいるかもしれないが)。
 もしあったとしても『チェチェン幼稚園』軍なんて!
 一応「自衛隊」は他の国でも戦闘と言うようなことはやってはいけないことになっている。ソ連軍が国外に出てやっているようなことは、たぶんやっていないだろう(今のところは)。
 妹ハヴァー
ハヴァーのペティキュアをする女性(緑服)
 7時前に家に着いた。家にはマディーナの下の妹(三女)のハヴァーХава(末娘)が週末に帰ってきていた。モスクワで医学系の大学で学んでいる。モスクワではマンションに姉妹と住んでいるそうだ。マディーナのすぐ下の妹のアミーナАмина(次女)は法科を出て、結婚してモスクワでビジネスをやっている。彼女に子供も最近生まれた。レストラン・ビジネスらしい。アメリカにも出張に行っているとか。では、ハヴァーは姉のアミーナ宅に住んでいるのだろうか。いや違う、と言う。ハヴァーは別の姉妹と住んでいるという。ハヴァーの言う同居の姉妹と言うのはむしろ親友(遠いいとこ)と言った方がいい。それもそうだ。モスクワに2軒のマンションを構えるぐらいは難しくはない。姉一家の家庭にわざわざハヴァーが住むことはない。一人で住むのはよくないから、気の合った友達を呼んで一緒に住んだ方がいい。ちなみに、ファーティマとルスラン夫妻も、また、結婚後のマディーナとアーダム夫妻も、そのうち、グローズヌィのマンションを引き払ってモスクワに移り住むそうだ。財産があれば、大都会の方が面白いだろう、ということか。マディーナは精神科鑑定医としてグローズヌィの医療機関(政府機関)に勤めているが、モスクワに転勤することもむずかしくない。なぜなら彼女の勤めている機関はチェチェン共和国の下にあるのではなくロシア連邦機関であり、そのトップはファーティマの兄弟だからとのこと。マディーナは医師をやめて、ビジネスに従事したいと言っているそうだ。それも、美容院ビジネスだ。

 マニキュア師のぽっちゃりした可愛い若い女性がハヴァーの手足のマニキュアの手入れをし始めた。彼女は何本ものナイフ(メス)やハサミなど自分の仕事道具をテーブルに広げている。(テーブルはこの家には何台もあって、そのうち最も質素なものに)。洗面器などは、この家の物か。ハヴァーの次はマディーナが座った。「タカコ、あなたもやってもらう?」と聞かれる。私は化粧もマニキュアもしない。興味深そうに見ていたから言われたのかな。でも私はすることもなく手持無沙汰だったのからだが。
追記: 妹のハヴァーХава(Хавва)の名も、聖典から取った。アーダムとハヴァーはコーランに出てくる最初の男女だ。旧約聖書のアダームとイヴに相当する。アラーが粘土でアーダムを創り彼の左の肋骨からハヴァーを創った、とコーランには書かれている。同書にある楽園追放の次第も、彼らの子供のカビーリ(旧約ではカイン)が弟のハビーリ(アベル)を殺した次第も旧約聖書に同じ。
 マディーナの婚約者はアーダムだ(前記)。
 マディーナはアラビア半島の都市でマッカ(メッカ)に次ぐイスラームの第2の聖地だ。メディナともいう。ムハマンド達がメッカからヤスリブへ聖遷した622年がヒジュラ歴元年となっている。ヤスリブは後に『預言者の町』を意味するマディーナ・アン=ナビーに改名されたのだ。
 ファーティマは、ムハマンドの末娘で4代正当カリフのアリーの妻。アリ―はシーア派初代イマーム。10−12世紀のエジプトや北アフリカのファーティマ朝はアリー(600頃‐661)とファーティマ(606または614-632)の子孫と名乗っていた。
 
 次の日は、スレーク・ダム湖へ行くことになった。そこはチェチェンではなくダゲスタンだ。
HOME  ホーム 2016年カフカース 2017年モスクワからコミ BACK 前のページ ページのはじめ NEXT 次のページ