up date | 21 July, 2019 | (追記:2019年10月10日,12月27日、2020年6月18日、2022年1月19日) |
37 - (1) 2019年 コミ共和国とチェチェン共和国 (2) コミのスィクティフカル市 2019年2月18日から3月6日(のうちの2月20日) |
Путешествие по республике Коми и Чечне, 2019 года (18.02.2019−06.03.2019)
ロシア語のカフカスКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スと聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus
コミ共和国スィクティフカル市へ (地図) | ||||||
1 | 2/18-2/19 | 旅行計画(地図) | 長い1日 | ガリーナさん宅へ | 複線型中等教育ギムナジウム | |
2 | 2/20 | アンジェリカさんの先祖のコサック(地図) | コミ文化会館 | コミ・ペルム方言(地図) | 歴史的地名のインゲルマンディアから(地図) | |
3 | 2/21-2/22 | 博物館。蕎麦スプラウト・サラダ | 図書館、連邦会議議員 | ウードル地方ィヨルトム村へ(地図) | ィヨルトム着 | 水洗トイレ付住宅 |
4 | 2/23-2/26 | クィトシヤス祭り | ザハロフ家 | そり用滑り台 | プロシェーク記者 | コミからチェチェンへ |
チェチェン共和国グローズヌィ市へ (地図、チェチェン略史) | |||||||
5 | 2/26-2/27 | グローズヌィ着 | マディーナ宅 | マディーナと夕べ | カディロフ博物館 | トゥルパルとテレク川へ | アダムと夕食 |
6 | 2/28-3/1 | グローズヌィ市内見物 | 野外民俗博ドンディ・ユルト(チェチェン略史) | マディーナのオセチア観 | アルグーン峡谷へ | ヤルディ・マルディの戦い | ニハロイ大滝 |
7 | 3/1 | 歴史的なイトゥム・カリ区、今は国境地帯 | イトゥム・カリ村 | タズビチ・ゲスト・ハウス | ハンカラ基地 | 妹ハーヴァ | |
8 | 3/2 | ジャルカ村のボス | グデリメスとクムィク人 | カスピ海のダゲスタン | ハサヴユルト市 | 水資源の宝庫スラーク川 | ディマも通ったスレーク峡谷 |
9 | 3/2-3/3 | チルケイスカヤ・ダム湖 | 新道を通って帰宅 | ジェイラフ区には行けない | 大氏族ベノイ | 山奥のベノイ村 | チェチェン女性と英雄、主権国家 |
10 | 3/3-3/6 | 地表から消された村 | 英雄エルモロフ像 | 国立図書館 | いとこのマリーカ | トルストイ・ユルタの豪宅 | チェチェン飛行場 |
アンジェリカさんの先祖のコサック | |||||||||
2月20日(水)。ガルブノーヴィ宅で朝食。セルゲイさんの連れ合いのアンジェリカ・ガルブノーヴァさんがテーブルにいたので、彼女が経営する保育園についの話を聞いていた。アンジェリカさんは(たぶん)15年前に保育所ビジネスに着手し、波乱はあったが、今は成功しているらしい。と言うのも3年前認可を受けたからだ。認可保育所なら国から補助が出るので保護者からの徴収はずっと少なくて済む。現在一人の園児に対して月額8600ルーブルの援助が出る(補助金)。第2保育園も開いたので、園児は全員で38人いる。園の職員は10人いて、資格によって2万ルーブルから3万ルーブルの給料を出す。園児の保護者は保育料を月9千ルーブルだけ払う。スィクティフカル市には、このような認可保育園は10カ所ほどある。 確かに3年前は、認可を受けることの難しさを語っていた。設備などの条件をクリアし、同業の競争相手の誹謗とも戦わなくてはならない。セルゲイさんは仕事をしてはいないから(彼を紹介する時は『旅行者』と言う。それで収入が得られるのか、その反対に持ち出しになるのか不問の言い方が素晴らしい)、彼女が一家を養っていると思う。
私が、アンジェリカさんから聞きたかったのは、彼女の祖母の出身だ。アンジェリカさんの生まれたのは極北のヴォルクタ市だが、母方はハドィジェンスク Хадыженск出身のコサックだった。コサックの歴史は起承転結そのものだ。 もともとコサックは、10-12世紀のキエフ公国が13世紀モンゴルによって没落後、ほぼ荒野・空地となっていたウクライナ草原に住んでいたかつて遊牧の先住民と、ロシア・ツァーリ国や、リトアニア公国などから逃亡した農奴・没落貴族から15世紀ごろできた半農武装集団だった(ヴェブサイトから)。ドニェプル中流ザポロージェ地方を根拠地とする自治集団ザポロージェ・コサックが有名だ。また、16世紀にはドン川下流にも根拠地が築かれ、ドン・コサックと言うやはり半農武装自治共同体ができた。村の数だけ自治体があったようだが、ザポロージェ方面では、ヘーチマンと言うコサック共同体の首長を選び、ヘーチマン国家と言われた時期もあった。 隣国のリトアニア大公国・ポーランド王国(複合君主制国家、中世と近世の東中欧では大勢力だった)や、北東のモスクワ大公国(ロシア・ツァーリ国)はコサック共同体やヘーチマン国家を保護・利用したり、合併しようとしたりしていた。(ザポロージェ・コサックはポーランド王国=リトアニア大公国の正規の軍隊とされた。つまり半合併。ドン・コサックをロシア・ツァーリ国がスウェーデン王国と戦ったとき利用、つまり半合併)。コサックの自治権縮減や合併に対しては、フメリヌィーツィクィイ(フメリニツキィ)のリトアニア・ポーランドに対する反乱があり、ウクライナ中部におけるザポロージェ・コサックの国家(前記・へーチマン国家)を誕生させた。一方、ドン・コサックの方は反乱(1670-1671年のステンカ・ラージンの乱など)は失敗に終わり、ドン地帯はロシア領となった。後には、ロシア・ツァーリ国へのウクライナ合併によって、ザポロージェ・コサック(ウクライナ・コサック)も独立が失われた(18世紀末)。 話は前後するがウクライナの歴史はコサックの歴史に劣らずたどることが難しい。ウィキペディアの記事を抜粋して近代以前までを略述すると;17世紀から18世紀にかけても、ドン・コサック(ロシア・コサック)は、1773-1775年のプガチョーフの乱など起こしたがいずれもロシア軍によって鎮圧され、ドン・コサックは完全にロシア体制に取り込まれた。コサックは自治を失って、いくつものコサック軍団を編成し、ロシア帝国の膨張のために利用された。つまり、ロシア・ツァーリ国の南下、シベリア侵攻(コサックの首領エルマークが有名)に合わせて、カフカース地方でも、ドン・コサックから分かれたクバーニ川に根拠を持つクバーニ・コサック(*)やテレク川に根拠のテレク・コサックが編成された。私が今回行こうとしているチェチェンではグレーベン・コサック(**)が、当初(18-19世紀)はカフカース民族と住み分けていた。コサックは、19世紀には、完全に帝国の領土拡張の前進部隊となって国境防備と国境付近の治安維持などに活用されていたが、帝国軍とは一線を画していた。(レフ・トルストイの『コサック』でも、コサック娘に好意をよせた主人公のロシア貴族の若者は帝国軍より、コサックたちにずっと好意を寄せている。そればかりか、コサックは敵の山岳民(チェチェン)を帝国軍より敬意をもって見ている)。コサックは帝国の忠実な臣下となり、一つの階級をなしていたわけだ。帝国の特権階級に近かった。
私は、アンジェリカさんの祖先はクバーニ・コサックではないかと思っていた。だが彼女はザポロージェ・コサックだったと言う。出身地は前記のようにハドィジェンスクХадыженскと言うので、帰国後ウェブサイトで調べてみると、クラスノダール地方(クバニ川)にある(地図)。だからドン・コサックか、クバニ・コサックか、グレーベン・コサックかと思ったのだ。ハドィジェンスクは、1864年、つまりカフカース戦争の後、この村に住んでいたチェルケス人を絶滅させた廃墟にクバニ・コサックが移り住んでできた集落だ。 17世紀後半から徐々にウクライナがロシア帝国領になって、ウクライナ・コサック(ザポロージェ・コサック)はロシア帝国によって解体され、19世紀には一部はカフカース地方へ移され、クバニ・コサックに合流したと言うから、アンジェリカさんはもともとはザポロージェ・コサックの子孫のひとりかもしれない。 革命後の内戦では、コサックは反革命側白軍の強大な軍事勢力を形成し、各地で赤軍ボルシェヴィッキと大規模な戦闘を繰り広げたが、白軍はシベリアでも黒海沿岸でも敗北した。1920年代にはコサック軍は解体され、共産党政府ボリシェヴィッキによる過酷な弾圧を受けることになった。このコサック根絶政策でコサックの人口440万人のうち70%が戦闘、処刑、流刑などによって死亡した、と言う。アンジェリカさんの母方曾祖父も、ザポロージェ・コサックだった。 カフカースのコサックは、ボリシェヴィッキによってまず粛正された集団だ。彼らや多くの強制移住者、囚人達はコミ自治共和国の資源開発と運送のための鉄道建設にまわされた。ウフタの石油とヴォルクタの石炭が囚人(反革命とされた人達)の強制労働によって開発されたのだ。コミは強制移住者や囚人で、当時人口が急激に増えた。1926年は21万人でそのうちコミ人の割合が92%だったのに、1959年には82万人で、コミ人の割合は30%だ。ヴォルクタからコトラス(その間1200キロの鉄道は囚人達が建設)まで収容所(ラーゲリ)をたどっていけば、ひとりでに行けたとか。 コサックはコサックであることに誇りを持っている。ソ連時代には反革命として否定されたコサックだが、ソ連崩壊後は、コサックの子孫であることを強調して、生活様式、規範を復活し守ろうとしている。またその制服も復活している(復古調でかっこいい)。つまり、かつては持っていたコサックの誇り(時代錯誤だが)を強調し、自分たちのアイデンティティとする。(去年訪れたバイカル湖オリホン島のフジール村でも『コッサクの夕べ』と言う催しが図書館であった)。ちなみにソ連時代でも、政府側の赤軍コサック隊が作られていた。
今回、アンジェリカさんはウクライナ人とロシア人はほとんど違わないと言う。アンジェリカさんは母方からはウクライナ・コサックの子孫だからだ。ロシアでウクライナ問題は重大で複雑だ。アンジェリカさんは、ウクライナはロシアだと言う。ウクライナ人とロシア人は同じく10世紀のキエフ公国の末裔で、同じ民族であり、ウクライナ語とロシア語は、コミ・シリャーン語と、コミ・ペルム語の差より小さいと言う。(もちろんそれは誤り) しかし、ロシア帝国によるウクライナ(ヘーチマン国家)併合と、帝国政府によるウクライナの強引なロシア化、ロシア人のウクライナ東部への植民、19世紀後半からのロシア政府による地下資源開発、ウクライナ独立運動の弾圧などと言う歴史を知ると、ウクライナはロシアであるとは決して言えない。しかし、外国人の私はアンジェリカさんの主張に対しては曖昧に沈黙する。ここではあまり激論しないほうがいい。 |
|||||||||
コミ文化会館 | |||||||||
朝食を済ませて、ガリーナさん宅へ送ってもらう。ガリーナさんは『コミ人は自分たちの文化を大切にする』と言う。16世紀、ロシア帝国がシベリアに膨張していった時、その先兵(案内人)はコミ・ジリャーン人であった。(シベリアの気候に慣れているからか)。17、19世紀、かなりのジリャーン人が、ウラル地方や、シベリアや極東に移住し各地にジリャーン村を作ったが、今ではそれら集落の名前も残っていない。しかし、例えば、ハンティ・マンシ自治管区にあるタルハ
Тархо村というところの住民は、ジリャーン語は全く話さないが自分がジリャーン人であることを知っているそうだ。帰国後地図を見ると、ボリシェタルハ
Большетархово村と言うのがあった。これは古い タルハ村の近くにできた最近の村だろうか。 11時過ぎ、『アルト』誌編集部のある建物に行く。ここは『アルト』誌だけではなく、アルトゥーエフさんの『レスプブリック』誌なども同じ建物にあり、さらにフィン・ウゴル友好協会もある。 ガリーナさんは前述のように、コミ共和国の文化担当職を歴任していた。季刊『アルト』誌の編集長でもあった。『アルト』誌は1997年創刊で、コミの文学・歴史・文化・芸術・評論の記事を載せている。
ガリーナさんは作家で詩人でもあるように、パーヴェルさんにも著作がある。それは『イヴァン・アレクセィェヴィッチ・クラートフИван Алексеевич Куратов 1839−1875』と言う。印刷して出来上がったばかりのようで段ボールから1冊とりだしてセロファンを剥がし、私に贈呈してくれた。クラートフは、コミ文学の創始者だった。スィクティフカル市のオペラ・バレエ劇場前にも銅像が立っている。帝政時代、中央アジア(カスピ海と中国の間、つまり、トルキスタン)にも旅行・視察している。つまり帝国の情報員だったともいわれている。 長くは彼らのお邪魔をしないで室外へ出る。同じ建物にフィン・ウゴル友好協会(文化センター)があって、2003年にその前身ができていた。(以下前述の通り)コミ共和国では現在コミ人が23%だが(ロシア人は65%)、1929年にはコミ人は92%(ロシア人7%)だった。(ヴォルクタ市に伸びる北方鉄道沿い地下資源採掘ゾーンでは戦後移住のロシア人が大多数だ。粛正時代の囚人や強制移住者も解放後、行き場がないので残っていたりする。そのゾーンには人口が多い、それでコミ共和国内の非コミ人の人口割合を上げている)。ソ連崩壊後は徐々にコミ文化を保護・発展させようとする動きが始まり、コミ語の雑誌なども出版されているし、こうした文化センターなどの組織も再建されている。 ロシア革命後の1920年代はまだ「地元民化Коренизация政策」つまり、少数民族の文化保護政策が採られていた。1930年代後半にはその政策は否定され、それまでの政策施行者や賛同者は粛清された。少数民族の文化の保護を主張できるようになったのはソ連崩壊前後から、と言う前史がある。 現在この文化センターには32人の職員が、民族的活動(催し物など)の組織、情報・出版などに関する活動、公式翻訳・通訳センター、フィン・ウゴル語諸地方への情報援助などの分野で活躍しているそうだ。オフィスのほか会議場や、フェスティヴァル用の会場・舞台、コミ語教室などがある。ガリーナさんに連れられて入った部屋はコミ語イノベーション・センター Центр инновационных языковых технологий Комиで、フェディーナ Федина Марина Серафимовнаと言う女性が指導している。 |
|||||||||
コミ・ペルム方言 | |||||||||
15世紀以前、モスクワ・ツァーリ国に合併されるまでは、大ペルミ公国として独立を保っていたペルム人の子孫の地に、ロシア人が入ってきて、コミ・ヤージヴィン人は、コミ・ペルム人と分断されたかのようだ。 先史時代から、広く北ロシア(*)からウラル山脈北西に住んでいたコミ人(ジリャーン人などの祖先)は、中世には小ペルム公国としてノヴゴロド国内で自治を保っていたが、ロシア帝国の行政下にあって、近隣の県や管区の一部にされてきた。(ヴォログダ総督・太守管区 Вологодское наместничествоやアルハンゲリスク県 Архангельская губернияなど)。 (*)北ロシアとは、ヨーロッパ・ロシアの北部のことで、ロシア連邦全体の北部ではない。だから、当然シベリアのことでもない革命後、コミ人が多く住むウラル山脈北西、スィソラ郡を中心にコミ自治州(当時は前述のようにコミ人92%以上)ができた。その後アルハンゲリスク州の東にあったウードル地方(コミ人村が集中している)がコミ自治州に加わったが、同じくコミ人の多かったコミ・ペルミは、コミ・ペルム民族管区として、コミ自治州とは別のペルミ州にあった。強力なペルミ州が手放さなかったからだとか。かつて10世紀―14世紀には、スィクティフカル近くにあった前記『小ペルミ』とは別にチェルドィニЧердынь(現在はペルム地方の北部、コミ・ペルムとコミ・ヤージヴィンの中ほどにある)中心に強力で、だから比較的長く自治を保っていた大ペルミ国があり、コミ・ペルム人とコミ・ヤージヴィン人はその子孫だった。後に移ってきたロシア人がかつての大ペルミ公国に住み、先住のコミ人たちをロシア化したが、(ペルミ市から見て)北西のコミ・ペルム人と、北東のコミ・ヤージヴィン人がロシア化されずに、コミ・ペルム民族管区として、独自性を保っていたそうだ。コミ・ペルムの方は、2005年まではコミ・ペルム自治管区としてペルム州内にあっても、ロシア連邦構成自治体(当時89あった)の一つだったが、行政改革で、ペルム地方に含まれるコミ・ペルミ管区になった(『自治』が抜ける)。現在の人口は10万人、そのうちコミ・ペルム人60%。 フィン・ウゴル語派と言った場合、フィン・ペルム語とウゴル語にまず分けるが、そのフィン・ペルム語が、フィン・ヴァルガ諸語とペルム諸語とに分かれる。ペルム諸語は、ウドムルト語とコミ語に分かれ、そのコミ語が、コミ・ジリャーン語やコミ・ペルム語などに分かれる。
ガリーナさんと入ったのは、そのコミ・ペルム語の部屋で、オニオ・ラヴ Оньо Лавと言う細い男性がパソコンに向かっていた。彼は、コミ・ペルムの文化や歴史、言語を広めることが仕事らしい。私のスマホに、コミ語の文字を入れてくれたが、私はコミ語で書くことはないので、悪いが後で消した。アンジェラさんが今朝がた強調していたことなので、コミ・ペルム語とコミ・ジリャーン語では、ロシア語とウクライナ語以上の隔たりがあるかと、聞いてみたが、もちろんそんなことはない。ロシアはウクライナ語出版を禁止してロシア語化を図ろうとしたが、それでもウクライナ語の方にはロシア語にはない音価をあらわす文字もある。 ガリーナさんとこの友好会館内を歩いていると、絶えず彼女の知り合いに出会う。有名人だから。 昼食はカフェでとる。その時、ガリーナさんが私に紹介したいと言う女性がいて、彼女と3人でコーヒーを飲む。そのクセーニア・ウスチュコーヴァさんは20代後半。北海道に3か月ボランティアで働きに行ったと言う。2,3年前、コミのユギッド・ヴァ国立公園で日本人学生3,4人がエコロジー・ボランティアで働いていると、ウェブサイトで読んだことがある。と言うことはコミと北海道のある町では、青年たちがエコロジーのためボランティアでお互いの地で活動すると言う条約でも結ばれているのだろうか。 後でわかったことだが、国際ボランティア協会のプログラムのようなものがあって、希望する青年たちを、既定の資格に合致すれば、希望の期間、希望の地へ希望の職種に派遣しているらしい。国外へも海外へも派遣する。また受け入れているらしい。 |
|||||||||
インゲルマンランディア・フィン人のサイマさん | |||||||||
夕方6時ごろ、モスクワからサイマ・ゴルデエヴァ Сайма Гордееваさんが到着することになっていた。サイマはインゲルマンランディア・フィン人(ソ連邦の国籍だった)だ。今はエストニア国籍を持つ。スィクティフカル駅まで迎えに来なくても自力でガリーナさん宅まで行けると言うので、私とガリーナさんは、マンションで待っていた。タクシーで到着したサイマは、ガリーナさんと28年ぶりの再会を果たしたのだ。 落ち着いてから、テーブルに向かって座り、私の質問に答えてくれた。インゲルマンランディア Ингерманландияと言うのはほぼ現在のレニングラード地方を指す歴史的な地名で、ロシア語では、またはイングリア、古ロシア語ではイジョーラИжора、スウェーデン語ではインゲルマンランド Ingermanlandと言う。15世紀ごろまではノヴゴロド国の勢力下にあったが、ノヴゴロド国がモスクワ公国によって滅ぼされた(1478年)後は、モスクワ公国(ロシア・ツァーリ国)領となった。16世紀末と17世紀初めに2度にわたってロシア・ツァーリ国と戦ったスウェーデン王国領にイングリアは含まれていた時期もあったが、1721年北方戦争後のニスタット条約 Ништадтский мирный договор締結後からはロシア帝国領となった。 インゲルマンランディアの略史。
北方戦争(1700−1721)当時は、インゲルマンランディア住民は、ここは先祖代々の地(フィンランドから移住後は4世代が過ぎていた)で自分たちはスウェーデン王国臣民とみなしていたので、ロシア・ツァーリ国からの軍を解放軍とはみなさなかった。ロシア軍も先祖代々の地を奪還しているとはみなさなかっただろう(というネットの記事はロシア人ではなくイングリア人が載せたものだろう)。 北方戦争に勝利したピョートル1世は、かつてインゲルマンランディア県の旧庁舎のあったニエンシャンツ Ниеншанц(スヴェーデン語では Nyenskans)近くに現在のサンクト・ペテルブルクを作ったのだ。 18,19世紀、サンクト・ペテルブルク県として、ここには、ロシア人の他、スウェーデン領インゲルマンランディア以前からのフィン・ウゴル系のヴォード人や、イジョーラ人、カレリア人や、スウェーデン時代からのインゲルマンランディア・フィン人(савакот族やэвремуйс族など、レニングラード・フィン人とも呼ばれる)や、少数のエストニア人、バルト系のラトヴィア人、ドイツ系の人たちが住んでいた。ロシア人は、インゲルマンランディアへは移住者であり、移住してきた18世紀には、すでにフィン人の社会が築かれ、地名もすべてバルト・フィン語だった。資料によると、1732年には6万人弱の農民のうち、2万人強は地元民のルター派、1万5千人はロシア正教のイジョール人(フィン語)、6千人の古儀式派(ロシア語)、1万人のロシアからの移住者だった。他にドイツ人、エストニア人、ラトビア人などだ。他民族の地域だった18世紀末にはフィン語話し手とロシア語話し手は同数になり、19世紀にはロシア語話し手の方が多くなった。 20世紀、ロシア革命後、北インゲルマンランディア国(1919-1920)が独立したが、短命で消滅。以後、インゲルマンディア人はソ連政府から信頼のおけない民族とされ、1930年代から50年代にかけて5次に渡る大粛清と強制移住の結果、レニングラード県からはほぼ一掃された。ソ連政府の民族政策として1920年代は『地元民化 коренизация方針』、つまり少数民族文化優遇政策が採られていたが、30年代からロシア化が強行される。かつての地元民化を進めていたリーダーたちは粛清された(上記)。インゲルマンランディアという語も使用ができなくなった。(学術書にインゲルマンランディアという語を使った教授は逮捕され獄死。私など外国人旅行者が最近までインゲルマンランディアの語を知らなかったのも当然だった。 サイマさんは1942年、現在のレニングラード州のPiilova―Пилово(現Белово*)村に生まれ、2歳の時にフィンランドに去り(フィンランドに移住させられたが、そこが飢餓のため)、ロシアに再び移り、母親はプスコフ州のコルホーズで働かされ、彼女は祖母と過ごした。さらにエストニアに行った。今はエストニア国籍を持つ。 (*)ピロヴァПиловаも ベロヴォБеловоもロシア語ウィキマピアには載ってない。Piilovaはフィンランド語で載っている。それによると現在のトーシノ Тосно地区にあった寒村だ。1926年には35家族、143人の住民のうち130人がフィン系であったと書かれている。トーシノ地区には現在ベロヴォと言う村はないが、ヴェロゴロヴォБелоголовоならある。トーシノ市はネヴァ川の支流トーシナ川辺にあって、サンクト・ペテルブルクから道沿いに62キロ東南の地にある。サイマさんが最後にコミに来たのはフィン・ウゴル語族友好協会の催しに参加するためで、それは1991年だった。大会途中、モスクワでプッチ путч(反ゴルバチョフのクーデター)がおきた。モスクワの通りに戦車が走り、国会が炎上したような事件だ。サイマさんは国境が閉鎖されて帰国できなくなるのではと、青くなったそうだ。しかし帰国できた。それ以来、ソ連やロシアへは入国していない。
サンクト・ペテルブルクは、18世紀にピョートル大帝がスウェーデンから奪ったばかりのフィンランド湾沿いの沼地に当初はだれも住みたがらない都を作ったのだが、そのサンクト・ペテルブルクが18,19世紀、20世紀の革命まではロシア帝国の首都であり、現在でも、ロシアの第2の中心だ。フィンランド沿岸にはかつてのロマノフ朝貴族や皇室の有名な庭園や宮殿が多い。 つまり、ここは古くからのロシアの地だと、私は10年前ぐらいまでは漠然と思っていた。が、北ロシアはフィン・ウゴル人の地だったことや、レニングラードのフィン人については、ここ10年程ロシア旅行中でも耳にするようになり、ウェブサイトで調べてみると、現在のレニングラード州、つまりかつてのインゲルマンランディアに住んでいたフィン人のことが詳しく載っている。3年前、サンクト・ペテルブルクへ行った時も、特別にゼレノゴルスク市(フィン語で1948年までテリオキ村)まで行ってもらった。ゼレノゴルスク市のような、フィンランドに近いフィン湾沿いだけがインゲルマンランディアではないらしい。サイマさんが2歳まで住んでいたのはピロヴァ村で、そこは、湾岸からずっと離れている。サイマさんを質問攻めにしたのだが、彼女のロシア語の答えはよくわからなかった。打ち明けることをためらっていたからか、小さい時のことなのでよく知らなかったからなのか、彼女のロシア語が私にはあまりよくわからなかったからなのか、それら全部かもしれない。 |
<HOME ホーム> | <2016年カフカース> | <2017年モスクワからコミ> | <BACK 前のページ> | <ページのはじめ> | <NEXT 次のページ> |