クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home   up date 19 April, 2017 (追記・校正: 2017年5月29日,9月11日、2019年12月18日、2021年12月5日)
34-3 (8)   2016年 北カフカース(コーカサス)からペテルブルク (8)
    レニングラード州のイングリア
        2016年8月20日から9月4日(のうちの9月4日から9月5日)

Путешествие по Северному Кавказу и Петербурге, 2016 года (20.8.2016−05.9.2016)

1部)8月2日から8月10日 トゥヴァからサンクト・ペテルブルク
2部)8月11日日から8月20日 コミ共和国の北ウラルからサンクト・ペテルブルク
3部)8月20日から9月5日 北カフカースのオセチア・アラニア共和国からサンクト・ペテルブルク
 1) 8/20 北オセチア共和国 ベスラン着 北オセチアの地理と自動車道 峡谷での宿敵 オセチアの宴
 2) 8/21-8/23 アスラン宅 ウラジカフカース市 アレクサンドロフスキィ大通り テレク川岸 ロシアとオセチア 南オセチア共和国
 3) 8/24-8/25 ウラジカフカースの芸術家たち  峡谷のオセチアへ(南東部地図) 納骨堂群の丘 氷河に呑まれた村(共同体地図) グルジア軍事道(イングーシ地図) デュマやレールモントフ時代のグルジア軍事道
 4) 8/26 イングーシ通過 チェチェンに グローズヌィの水浴場 復興グローズヌィとチェチェンの心 プーチン大通り
 5) 8/27-8/28 オセチア斜面平野(南西部地図) 正教とイスラム ディゴーラ共同体 カムンタ村着 過疎地カムンタ村 養蜂業者
 6) 8/29-8/31 マグカエフ宅 ザダレスクのナナ 失われたオセチアの一つ ネクロポリス ガリアト村 テロには巻き込まれなかったが
 7) 9/1-9/3 スキー場ツェイ オセチア軍事道 カバルダ・バルカル共和国へ 保養地ナリチク市 ウラジカフカースの正教会 再びグルジア軍事道
8) 9/4-9/5 サンクト・ペテルブルク イングリア フィンランド湾北岸の地 コトリン島の軍港クロンシュタット モスクワ発成田
 サンクト・ペテルブルクに戻る 
稼働しているのか不明の市内の工場
本の市ヤールマルカ
中庭の壁画
中庭の壁画(絵です)の前のリリア
 9月3日、夕方ウラジカフカースからサンクト・ペテルブルクに戻った。
 9月4日(日)。この日、午前中はカーチャが案内してくれて『本の市 クニージナヤ・ヤールマルカ』へ行き、午後からジェーニャの車でクロンシュタットへ行くという予定だ。
 『本のヤールマルカ』ではお土産品を買う。カーチャとヤールマルカまで地下鉄とバスを乗り継ぎ、1時間半もかかって着いた。きらびやかなサンクト・ペテルブルク中心地から遠く、稼働していない工場や、かつては開いていた文化施設の間を、広大な水たまりを除けて歩いて行かなくてはならない。
 さすが大都市サンクト・ペテルブルク、大きなヤールマルカだ。たぶん観光客は、ここまでお土産を買いに来ないが、お土産は中心部のキリスト復活聖堂(スパス・ナ・クラヴィ)やイサク寺院などの近くの屋台より、安くて物がいいと思う。同行してくれたカーチャには気の毒だったが、広い店内を2時間ほども廻ってやっと選べた。お土産品も多いが本も多い。教科書や地図帳もある。2015年版のロシア連邦地図帳を買うと、クリミア半島南部とセヴァストーポリだけがカラー版光沢印刷で付け加えられていた。
 かつては運営していた
文化施設の正面

 2時過ぎ、ジェーニャとの待ち合わせのアレクサンドル・ネフスキー大修道院前へ行く。クロンシュタットを案内してもらうためだ。ジェーニャは同僚のリリアと言う女性といっしょだった。彼女もクロンシュタットを見たいそうだ。カーチャと別れ、ジェーニャの車でまず市内を回る。と言っても市役所職員である彼らが見せてくれたのは、高層住宅に囲まれた中庭のようなところだった。住民たちが花壇を作り、高くて大きな壁にはロシア英雄物語に出てくるような騎士の絵がどーんと描かれてあった。地区ごとのコンクールでここが優勝したとか。別の中庭にはローマ建築のような絵が写実的に書かれていて、それはそれでサンクト・ペテルブルクの中心街の静かな中庭とも思えない趣だった。こちらの方が優勝したのかも。
 ジェーニャは前もって私たちと回るコースを決めていたのだろう。聖アンナ・ルーテル教会というところも、ジェーニャが選んでくれていた。
 レニングラード州のイングリア (地図は第2部の第4章)
 実は、前もってジェーニャに、サンクト・ペテルブルク市内やフィンランド湾岸のインゲルマンランディアを見たいと頼んでおいたのだ。
 フィンランド湾奥の現在のサンクト・ペテルブルクを中心とした地は歴史的には、インゲルマンディアИнгерманландияと呼ばれている。 またはイングリアИнгрия, イジョーラИжора, イジョールの地Ижорская земля、スウェーデン語ではIngermanland、 フィン(フィンランド)語ではInkerinma エスト(エストニア)語ではIngeri, Ingerimaa、 古いロシア語ではイジェーラ、イジェーラの地 Ижера, Ижерская земляと呼ばれていて住民も支配者も何度か変遷している。

 紀元前千年紀ごろから北東ヨーロッパ(現在の南部を除くヨーロッパ・ロシア)にはウラル語族のフィン・ウゴル人が住んでいた。東スラヴ人が移動してきた紀元8−10世紀ごろでも、フィンランド湾奥のカレリアの南から現在のエストニアのナルヴァ川までのイジョールの地には、南岸にはフィン・バルト語を話すヴォート人と、北岸には同じくフィン・バルト系のカレリア人から分かれたイジョール人が住んでいた。それらフィン・バルト系の地は、12世紀にはノヴゴロド国の同盟国または勢力下にあった。1478年からはノヴゴロド国を合併したモスクワ大公国領の支配する『イジョールの地』となる。イジョールの地は、モスクワ大公国の後継国家ロシア・ツァーリ国とスウェーデンとの争奪地であり、2度にわたりスウェーデン領になった(スウェーデン領インゲルマンランドШведская Ингерманландия (1583‐1595, 1617‐1721)。1721年からはスウェーデンとの北方戦争で勝利したロシア帝国領だ。ちなみに、スウェーデンから獲得したイジョールの地、つまりネヴァ川河口にピョートル大帝がペテルブルクを作ったのだ。古くからヴォッヂ人と並んでイジョール人が住んでいたイングリア(イジョール)の地はロシア帝国のインゲルマンディア県となる。ロシア革命の1919年には短期間だが北イングリア共和国という独立国が存在した。ソ連時代、1930年代には数次にわたり、ほぼすべてのインゲルマンディア人は自分たちの歴史的な地からシベリアなどに強制移住させられ、インゲルマンディアという地名もなくなった。(*イジョール人の強制移住、つまり粛正)
 現在インゲルマンディアには、17世紀のスウェーデン時代、フィンランドやカレリアから移ってきたルーテル教会信者のフィン・インゲルマンディア人(バルト・フィン語族)の子孫や、少数で、ほとんどロシアに同化した先住民のヴォッヂ、イジョール人(バルト・フィン語族)の他は、移住者のロシア人が住む。20世紀半ばまではイジョール人は自分たちの言語を維持していたが、現代の話し手は数百人程度。イジョール地方は19世頃からはペテルブルク人の別荘地になって、夏場の人口が多い。

 フィン・バルト系のイジョール人(インゲルマンディア人)はかつての自分たちの地のネヴァ川両岸で超少数民族となり、どう過ごしているのだろう。もし可能ならば、現在の彼らの文化がわかるところに案内してほしいとジェーニャに頼んであった。ロシア人は、自分たちは広大な領土を持っているのに、少しでも失われるかもしれないようなことに敏感だ。多民族のロシア連邦では、ある地域、民族が独立して主権国家を作りたいという運動は、反国家的なので処罰される。そうした雰囲気を持つ運動も分離主義と呼ばれ、とても警戒される。私は分離主義者の同調者的なことを言うので、ジェーニャは嫌な顔をする。しかし、私はロシア人でもイジョール人でもフィンランド人でもスウェーデン人でもない、分離主義運動とはかかわりがなく、少数派のイジョール人の文化を知りたいだけなのだ。
 聖アンナ教会がある建物。ドアの両脇には同館で
上映される映画のポスター
 
 2121年ジェーニャが訪れたイジョール博物館
その外観
 
 その内部(ジェーニャからのSMSより)

 サンクト・ペテルブルク市内でジェーニャが案内してくれた前記の聖アンナ・ルーテル教会は1703年ピョートル大帝によってペテルブルクが建設されてすぐ、創設された由緒ある教会だった。もちろん、ロシア正教会ではなく、スカンディナヴィア伝統の福音ルーテル教会イングリア(1611年創立)に属している。(当時、サンクト・ペテルブルク周辺はロシア教会の地と言うよりルーテル教会の勢力圏だったか)
 市の中心にある聖アンナ教会はキルハ様式(ゲルマン教会様式)で、18世紀後半に建てられた歴史的建造物だ。1826年にそれまで『第4砲兵通り』と呼ばれていた通りが、『キルハ通り Кирочная』と改名したくらいだ。キルハとはドイツ語で Kirche、英語で church、ロシア語でцерковь、(元々ギリシャ語で「神の」の意)だから、聖アンナ教会は『教会』様式で建てられているので、『教会』通りとなったというわけだ。
 教会はソ連時代の1935年閉鎖され、1939年改造され有名な映画館『スパルターク』となった。2013年から建物内の一部のホールが教会として使われている。
 ジェーニャに案内されて入ってみたが、プロテスタントの教会らしくはなかった。非公認グループのアジトのようですらあった。前もって、ジェーニャからここでは「分離主義者」という言葉を口にしないでほしいと言われていたが、スターリン時代は映画館として使われていたせいか、暗くて秘密めいていた。書籍や写真が売っていたが、イングリアのことを知れるようなものはなかった。ただ、入り口のドアに、「聖アンナ協会(1779)、建築家フェリテン(1730−1801)福音ルーテル信条、開館日と時間は…、日曜日の祈祷時間…」と書いた紙きれが張ってあっただけだった。
(後記)2021年8月にジェーニャはサンクト・ペテルブルク西のフィンランド湾に面したヴィスチノ村に行ったそうだ。そこにはイジョール博物館があり、展示物も多く、書籍も販売していたそうだ。私のために一冊購入したとSMSに書いてきてくれたが、新型コロナ流行のため、国際航空便はうけてけていない。

 フィンランド湾北岸レニングラード州のフィン人
テリオキのルーテル教会
その内部。数人の信者が座っていた
『カフェ漁師』でリリアが自撮りで撮ってくれた
 サンクト・ペテルブルク郊外の自動車道路網は素晴らしい。競技場などが建設中(すでに建設済みも)の北部地区を通り抜け、快適な有料道路も通って、フィンランド湾北岸に出る。湾の見えるところに出ると、そこはサンクト・ペテルブルク市のプリモルスキー区となる。サンクト・ペテルブルクには現在18の区がありプーシキン市、ペテルゴフ市など9市が含まれている。
 鉄道が時々見える湾岸通りを行く。オリギニ町やリーシィ・ノース町を通り過ぎる。1983年、1984年,1985年と3年連続で夏に行ったことのあるシェストロリツク市も通り過ぎる。1918年から1940年までシェストロリツクから北2キロのところにフィンランドとの国境が通っていたのだ。というのは、1940年のソ連・フィンランド戦争までは、そこまでフィンランド領だった。1918年以前は、ロシア皇帝がフィンランド大公を兼ねていた。つまり、1918−1940はカレリア地峡とともにロシア帝国から独立したフィンランド領だったのだ。1940年ソ連・フィン戦争の結果、フィンランドはバルト・フィン人の歴史的な地だったそれらをソ連に割譲させられたのだ。

 イリヤ・レーピンの別荘があったことで名づけられたレーピノ町(1948まではフィンランド語でクオッカラКуоккалаと言った)も通り過ぎて、昔の観光客なら必ず寄った当時ガラス張りで保存されていたシェストロリツクの10月革命前のレーニンの隠れ家については話題にも上がらず、ゼレノゴルスク市へ行く。ゼレノゴルスク市は1948年までテリオキ村と言った。タールの川という意味のフィン語だそうだ。フィンランド湾は歴史的にフィン・バルト語系人の地だったから地名はほとんどがフィン語系だ。
 ゼレノゴルスク市の旧中心地にも、ルーテル教会がある。2002年復興されたそうだ。入ってみると日本でも見かけるようなプロテスタント教会だった。ロシア正教の寺院を見慣れていると、私にはテリオキの教会は清楚で快かった。教会は公園内にあり、教会前には「ここで1939年から1944年に倒れた75名のフィン・テリオキ兵士が葬られている」と書かれた記念碑があった。また、2004年設置という『和解記念碑』もある。
 フィンランド湾は、ゼレノゴルスク市まで行ったところで、カマロフカ村へ戻り、ジェーニャお勧めのカフェに入る。フィンランド湾砂浜に沿ったところにあ『カフェ・漁師』と言って、湾を見ながら屋外で食事ができる。
 遠くにクロンシュタット市のあるコトリン島が見えた。
 カマロフカ村から、元来た湾岸通りの道を通り、レーピノ町から、またシェストロリツク市の方へ行く。シェストロリツクとは、シェストラ川からついた名前で、フィン語でシエスタリオキ(黒いタールの川の意)、つまり、ゼレノゴルスクの歴史的名前のテリオキと同じ語を含む。ロシア語風に読むとずいぶん違うが。
 コトリン島の軍港クロンシュタット
 そのシェストラ川を渡って。サンクト・ペテルブルク環状線A118に出る。フィンランド湾の入り口にあるコトリン島とフィンランド湾両岸、サンクト・ペテルブルクの東をつなぐ43キロの大環状線で、開通は最近だ(完全には開通していない)。一部有料道路もある。フィンランド湾上は堤防と橋でつながっている。橋には大型船の通り道が2カ所空いていて、堤防の内側は特別にネヴァ湾と呼ぶ。コトリン島はサンクト・ペテルブルクの西30キロにある長さ12キロ、最大幅3キロの島で周囲の小島を合わせてクロンシュタット市(4万3千人)となっている。ピョートル大帝が北方戦争でスウェーデンからネヴァ川河口を獲得してすぐに、ペテルブルクを守る要塞を作った。1723年島の半分を占める要塞ができ、ピョートル大帝は首都ペテルブルクの一部とした。
ニコライ海洋大聖堂
大聖堂内部
ピラミッド状のメモリアル

 1999年まではここも閉鎖都市で許可なしでは入れなかったが、2005年2月に私は訪れている。そのことをすっかり忘れていて、ジェーニャにぜひ回ってほしいと頼んだのだ。もっとも2005年は今のように立派な道路も橋もなかった。すでにブレジネフ時代に、湾の北岸からコトリン島とのあいだに飛び石状に並んでいた小島を結んで防潮堤が築かれてはいたそうだ。バルチック艦隊の軍港なので、海軍の学校や、ドックなどが多い。その中でも歴史的と言うドックをみて、11年前を思い出したのだ。
 クロンシュタットには、事実多くの歴史的な名所があり、サンクト・ペテルブルク市の歴史地区の一部としてユネスコに登録されている。
 しかし、私たちが訪れたのはクロンシュタット砦の中にある、『ニコライ海洋(奇跡をおこなう聖人ニコライの、つまり海軍の)大聖堂Морской собор святителя Николая Чудотворца)』だった。ネオ・ビザンチン様式で、コンスタンチノープル(イスタンブール)の聖ソフィア大寺院よりわずかに小さいそうだ。丸天井の直径は27メートル、高さは52メートル、丸屋根の先に立てられている十字架までの高さは70メートル、もちろんクロンシュタット市では最も高い建物だ。聖堂の長さ82メートル、幅64メートル、1903年から1913年にかけて建てられた。ソ連時代の1929年には閉鎖され、映画館や海洋博物館として利用されていたが、2002年頃から寺院として修復がなされ、建立百年の2013年にはほぼ完了した(広場にあった説明書きから)。私が前回訪れた2005年は少なくとも外見は寺院らしかった。今は内部も立派で、キリストが見下ろしている高い丸天井と装飾された高窓、巨大ないくつものシャンデリア、壁面の金色に光る聖画が飾られ、床には大理石のモザイクで魚やクラゲ、海草、船舶が描かれている。祭壇に並ぶ聖人たちの多さとその麗さ、ロシアが宗教にかける熱意に驚嘆。
 聖堂前の広場は2色の敷石で敷き詰められ、錨の形が描かれていると、航空写真から見て取れる。(広場にあった掲示板の写真から)。広場には海軍大将の像もあるが、『ソヴィエトのために戦った戦士たちのメモリアル』という1970年代に作られたピラミッド状の記念碑もある。その中には、1980年から灯されているという『永遠の火』が燃えている。
 ピラミッド状の南面には『1905−1906 恐れを知らない君たちは自由への戦いで倒れたが、その英雄的な行為によって10月革命への道を照らしだした。Бесстрашно вы пали в борьбе за свободу и подвигом путь Октябрю озарили』。
 西の面には『1917年、革命の炎の中赤旗の下、君たちはクロンシュタットの栄光を永遠に確立した。Под знаменем Красным в огне революции вы славу Кронштадта в веках утвердили』。
 南の面には≪1919‐1921、人々の幸福のために戦い倒れた彼らは感謝に値する。クロンシュタット蜂起の犠牲者の記念碑1921 Сраженные в битвах за счастье народов живых благодарность они заслужили、памяти жертв Кронштатского востания1921』 と書かれ、没した兵士たちの名前が続く。1919−1921はロシア国内戦が続いていたが、1921年3月はクロンシュタットの『錨の広場』で1万5千人が『政権を党にではなく、ソヴィエトへ』というスローガンで集会を開いたのだ。на Якорной площади Кронштадта состоялся 15-тысячный митинг под лозунгами ≪Власть Советам, а не партиям!≫.
 (ウィキペディアから) バルト海艦隊の拠点であるクロンシュタットの水兵たちは、当初はロシア革命を進めているボルシェヴィッキの重要な支持者であったが、次第にボリシェヴィッキと水兵の意見の相違が大きくなった。1921年、独裁化するボリシェヴィキ政権に対し、クロンシュタットの水兵たちは、戦艦ペトロパブロフスクの船上で開かれた乗組員集会において、言論、集会の自由や、農業や家内工業における統制の解除、すべての政治犯の釈放、すべての勤労人民の配給量の平等化などを要求する15項目の決議を採択した。
 レーニンによって蜂起は鎮圧され、参加者2103人は銃殺、6459人は有期刑となった。そのほかすべての島民は関係者とされ、1922年以後強制移住させられ、弾圧された。1994年になり当時の大統領エリツィンがクロンシュタット蜂起参加者の名誉回復を行った。

 錨の広場を去ったのは7時半頃だった、夕日が大聖堂の丸屋根に反射し、神々しく輝く聖堂が、広場に広がる広い水たまりにも映っていた(上の写真)。
 水兵たち

 セーラー服の水兵さんたちが行進している軍港都市の校庭を過ぎて、夕日の見えるフィンランド湾の防潮堤の上を通り帰途に就く。
 サンクト・ペテルブルク市街地に入りライトアップされたネヴァ川をもう一度見る。たまたまサンクト・ペテルブルクのモスクの前も通りかかる。イスラムの青色は何度見ても目がさえる。
 翌日のサンクト・ペテルブルク発モスクワ行きの飛行機は、12時05分発だが、予定したようにカーチャの家には泊まらず、ジェーニャの家に泊まることにした。なぜなら日中は渋滞がひどくて、カーチャ宅から空港へ私を送った後、ジェーニャは仕事に大遅刻するからだ。早い時間に直接彼宅から家を出ることにしよう。
 ジェーニャの家では、彼の兄のキリールがいた。彼はピアノの調律もやっている。樽見和徳と言うサンクト・ペテルブルク在住の音楽家の調律をした時、プレゼントされたCDをくれる。それは、『銀河鉄道の夜』に彼が作曲し、彼の妻のマリア・タルミが朗読したというものだ。
 モスクワ発成田へ
 9月5日(月)朝、サンクト・ペテルブルク発。送ってくれたジェーニャは、やはり、仕事に大幅遅刻したそうだ。郊外の空港へは問題なく行けるが、郊外から中心へは車が動かない。迂回路はなく、主要道が数本(1本)しかないからだ。
 モスクワ・シェレメチエヴォ空港には13時20分に着いて、長く待って19時モスクワ発。持ち物検査ではペット・ボトルがチェックされたが、捨てるところまではチェックされなかったので、またカバンに戻す。翌朝10時35分に成田着。
 北カフカースへは来年も行こう。コミにも行くことになった。祭りがあるからとガリーナさんに誘われたからだ。(2017年『モスクワから北ロシア、北極圏のコミ共和国』に続く。
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