クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 06 April, 2017 (追記5月8日、5月31日)
2016年 コミからペテルブルク (1)
    北ウラル山脈西麓へ
           2016年8月11日から8月20日(のうちの8月11日から8月12日)

Путешествие по Коми и Петербурге 2016 года (11.8.2016−20.8.2016)

1部)8月2日から8月10日 トゥヴァからサンクト・ペテルブルク
2部)8月11日−8月20日 コミ共和国の北ウラルからサンクト・ペテルブルク
   8/11-8/12 スィクティフカル着 ミクニ駅から北へ(地図) 超高駆動車 ユグィド・ヴァ国立公園(地図) 水晶の道
   8/13-8/15 北ウラルのクォーツ(地図) 坑道 ツンドラ草原 亜北極圏だが 若返りの湖
   8/16-8/17 インタ市 貯水塔 パーキング コミ人たちの古都 大学博物館
   8/18-8/19 ペテルブルクの双子姉妹 エルミタージュ シュメール学博士 噴水のペテルゴフ 深夜、ネヴァ川の橋
3部)8月20日から9月5日 北カフカスのオセチア・アラニア共和国からサンクト・ペテルブルク
2016年ロシア紀行の前編までは トゥヴァからサンクト・ペテルブルク 参照
 8月2日に成田を出発し、ハバロフスクでは、親切なロシア青年がスーツケースを持って走ってくれたおかげでクラスノヤルスク行きの飛行機に間に合った。8月3日早朝にはパーシャ運転のピックアップでトゥヴァの考古学キャンプ場に。パーシャにはかなり不満だったが、4日間、考古学者に案内されて遺跡を回った。8月10日にはクラスノヤルスクからサンクト・ペテルブルクに。迎えてくれたジェーニャ達と都心観光地をまわる。夜は日本語学校(実は中国語が主だが)の生徒との談話。深夜便でサンクト・ペテルブルク発。2時間後の翌日(8月11日になる)01時50分という夜中にスィクティフカル空港に着く。セルゲイ・ガルブノフさんが迎えてくれた。
 スィクティフカル着、保育園、歴史博物館
 8月11日(木)。スィクティフカルは小さな町だし、小さな空港も市内と言ってもいいくらいの郊外にあり、到着後1時間も建たない2時過ぎには、もうセルゲイさん宅で起きて待っていてくれたアンジェラさんと夜食をいただいていた。その後、昨日の分、というより今日の分を眠って、お昼の12時ごろセルゲイさんの車で街に出る。

 コミへは前年、セルゲイさんやジェーニャ・ストレルツォフさんとコミ人がコンパクトに住むウードル地方のメゼニ川辺の村々を回り、さらに、ヨーロッパ最大の原始林の残るコミ自然公園『ユグィド・ヴァ』内のシューゲル川をボートで遡ったが、イジマ方言を話すイジマ村へはまだ行ってない。イジマ村出身のジャーナリスト(セルゲイさんの知り合い)とも文通している。今年はイジマへ行こうとセルゲイさんと決めていたが、私がまだ成田にいる頃(8月2日)、
「イジマでは祭りも終わって、今は面白くない。イジマ村へは次回に行くことにしよう。それより亜北極圏ウラルのジェランナヤというところに行ったらどうか」とメールがあった。セルゲイさんの勧めてくれるところならどこでもいい。そこへ行くにはミクニ駅から一晩寝台車に乗ってインタ駅まで行かなくてはならない。夏場の列車のチケットは早めに買った方がいいというので、パスポート記載の氏名と番号をサンクト・ペテルブルク滞在中に送った。ロシアでは飛行機はもちろん、列車のチケットを購入するにもパスポート、またはパスポート記載の番号や日付、氏名などが必要だ。(実際に乗車するときは車掌さんにパスポートのオリジナルを見せる)。ホテルに泊まるにもパスポートを提示しなければならないのだ。
 スィクティフカルから100キロのミクニ駅まではセルゲイさんの車で行く(下記)。さらに、『ジェランナヤ』とかいうところに行くのは許可証がいるというので、パスポート・コピーをもう一度送ったものだ。『ジェランナヤ』も『ユグィド・ヴァ国立公園』内にあり、ロシアでは国立公園に入るにも許可証が必要だ。その許可証のためには身分証明書、つまりパスポートの提示(少なくともコピー)が必要だ。
 今回、『ジェランナヤ』へはセルゲイさんと彼の妻アンジェラさんのほかガリーナ・ブティレェヴァさんというコミ共和国の文化省のトップだった70代の女性も一緒だという。というより彼女のおかげで、『ジェランナヤ』へ行くことができるのだ。彼女自身もまだ行ったことがないので行きたいと思っていたとか。
保育園ではお昼寝中だった

 午後1時ごろ、アンジェラさんの経営する保育所『インテレクト』に行く。後で知ったことだが、保育所の認可を取得し、補助金をもらうためには並々ならぬ障害があり、個人的に悪い風評を流すライバルもいて困難を極めたそうだ。園で掲示されていたカリキュラム表によると、才能教育をしているようだ。補助金が出るおかげで保育料は私立なのに月額12,800ルーブル(?)と安い。公立の保育所は定員オーヴァーで設備もよくないと聞いたことがある。経済的に余裕のある家庭では、有料でも水準の高い施設に通わせたがる。
 アンジェラさんは事業の規模を大きくしている。2つ目、つまり『第2インテレクト』も最近開所した。そこもセルゲイさんと回る。経営者のアンジェラさんが5日間も留守にするので、留守を託せるような準備が必要なのだろう。
 出発はこの日の夕方だ。まだ、昼の2時半だったので、2015年も訪れたことはあるが、もう一度歴史博物館に行ってみる。見落としたところが多かったような気がしたのだ。だが、今回考古学ホールは一時的に閉鎖されていた。後日、大学の考古学博物館に入れてもらった。
 ミクニ駅から北へ、インタ駅へ
北極圏ウラルと亜北極圏ウラルの地図 黒線は鉄道 66.6度以北は北極圏 バレンツ海、カラ海は北極海の海域の一つ 1.スィクティフカル市 2.ミクニ駅 3.インタ駅 4.ヴォルクタ市 5.ラブィトナンギ駅 6.サレハルド市 7.ヴクティル市(この辺りから北ウラル 8.オビ川 9.ペチョラ川 10.コシユ川 11.コジム川 12.ウサ川 赤星印「ジェランナヤ」
↑紫の四角部分を拡大↑コミ共和国地図はここ
 夕方、5時過ぎ、ガリーナさんのアパートへ寄り、彼女を乗せてミクニ駅へ向かう。スィクティフカルは、モスクワのヤロスラヴリ駅から北の産業地帯ヴォルクタ市とサレハルドへ向かう主要な北部鉄道から、ミクニ駅で支線が引かれている。支線はスィクティフカル駅で行き止まりなので、盲腸の先端のようだ。スィクティフカルからモスクワ方面へ行くには北部幹線鉄道との合流点ミクニ駅で、北からくる列車を待って車両を連結してもらわなくてはならない。乗り換えの必要がないため、一応直通列車ということにはなる。スィクティフカルから北へ行くにも、モスクワからの列車をミクニ駅で待って、連結してもらう。時刻表では8時40分の1本しかない。これではインタ駅に夕方ついてしまう。私たちは早朝に着きたいので都合が悪い。それで、スィクティカルからミクニまでの100キロほどのアスファルト舗装道は車で行くことにしたのだ。(北部幹線鉄道にあるミクニ駅の方が、スィクティフカル駅より離着列車数がずっと多い)
 ミクニ駅まで1時間余りだった。駅前で荷物を下すと、セルゲイさんは、安全な駐車場へ止めに車を回す。止めるのに手間取ったらしく、列車が入ってくるぎりぎりに戻ってきた。この列車はモスクワ(ヤロスラヴリ駅)を20時35分に出発し、北東へ北東へと2406キロ走って、翌々日の16時44分にラブィトナンギЛабытнангиに到着する急行列車だ。ミクニ駅へは19時5分に到着し、19時25分に発車する(ロシアの鉄道は停車時間が長い)。私たちの目的のインタ駅には翌日の7時15分着だ。乗車距離は684キロ。
 この長距離急行列車がラブィトナンギ行きと言うことは、北部幹線鉄道の終点の一つヴォルクタ市まで行かず、60キロほど手前で東へ曲がって、支線に移り北極ウラル山脈を超えて、東のヤマロ・ネネツ自治管区の行政中心地サレハルドの方へ行ってしまう(曲がってから200キロ)。ヤマロ・ネネツは大石油産地として重要な管区だ。サレハルドへ鉄道で行くには、距離的にはやや遠回りの、この北極圏ウラル越えのルートしかない。サレハルドはオビ川の右岸(東)にあるので、西から来た鉄道は、サレハルドの対岸のラブィトナンギまでしか通じていない。
猫もトイレ付きで繋がれて乗車


 インタ駅から列車はさらに北へ行く。北東へ2時間ほどで北極圏に入る。去年も訪れたヴクティルやシューゲル川は北緯64度だが、インタは66度だ。たぶんロシアでも北極圏を走る客車は、ここだけだと思う。(ドゥジンカからノリリスクや、ヤマロ半島へは貨物列車のみ)
 北部幹線鉄道やその支線に限らず、無数の急行の止まらないような駅には、ちゃんとした名前も付いてないようなものもある。例えば、インタ駅(正確にはヴェルフナヤ・インタ)の2つ手前の駅は『1974q』と言う。これは始発のヤロスラヴリ駅から1974キロの地点と言うことだろう。またペチョーラ駅の手前には『1808q』と言う駅や、ミクニ駅から伸びている支線には『54q』と言うのもある。これは起点のミクニ駅から54キロに地点なのだろう。ちなみにロシアでは数字で名付ける意外なこととは学校名だ。固有名詞ではなく何々市第7学校などと表す。
 セルゲイさんが私たち4人に買ったチケットはプラツカルタ、つまり3等席で、車内の縦横に2段の寝代がぎっしりあって、もちろん仕切りもカーテンもない。確かに一晩ぐらいは、横になれるだけでもありがたいが、私は苦手だ。乗車券はシーツ代込みでは1600ルーブル。夏場は満員なのか私たち4人はばらばらの席だった。
 車内は蒸し暑くて乗客は上半身裸になっている。エアコンはないのかと聞いて笑われる。窓は開かないようだ。女性の乗客も薄い浴衣のみ。この列車にはペットも乗れる。かごに入れたりつないだりしないといけないが、ベッドの上や下に猫や犬たちがいて、ペット用トイレもみんな持参していた。ペットは乗車券が必要かどうか。
 超高駆動車で、インタ街道
インタ駅着
夏の凍土地帯草原のトゥレコル
アンジェラさんと
 朝起きてみると、夏の凍土地帯を走っていた。半沼地草原だ。インタ駅に着くと近くの広場(駐車場というべきか)に、私たちが乗っていく高駆動車トゥレコルТРЭКОЛ 39294が待っていた。これはモスクワ州リュベルツィ市の『トゥレコル社』で、たぶん、ヒュンダイのエンジンを使って2008年から生産されているツンドラや沼地用の6輪の超オフ・ロード車だ。特別な圧のタイヤで、キャタピラより燃費はよく、土壌を傷つけないそうだ。北極圏地方の地下資源探索は、ヘリコプターでなければ、沼地や川や早瀬を渡れるこんな車で行う。企業政府関係の地質調査隊や非常事態省だけではなくハンティングやフィッシングにも使われているとか。
 『ジェランナヤ』ペンションというのは、2015年にも行ったことがある『ユグィド・ヴァ』国立公園内にある。前記のように、『ユグィド・ヴァ』はコミ共和国の最東部、ウラル山脈西麓にあるヨーロッパ最大の原始林地帯で南北に約200キロ、東西に約40キロもあって、2015年には南のシューゲル川を遡ったが、今回は北のコジム川の支流バルバニユ川(『ユ』というのはコミ語で川の意。つまり、『バニバニ川・川』という冗語になる)のほとりに行く。
 北極圏の地下資源採掘地はどこもそうだが、ソ連時代に囚人労働でできた。コミも多数の囚人労働が投入された地の一つだ。今は荒れ果てたように見えるインタ駅なのは人口も減っているからだ。駅前広場(駐車場)には、頼もしそうなトゥレコルの横に普通のランクルも止まっている。その車から出てきた男性がガリーナさんに懐かしそうに挨拶し、セルゲイさんと握手をしている。後でわかったことだが、アレクサンドル・オゼロフというこのランクルの男性は、有限会社『コジム調査採掘会社』の社長だった(オーナーではない)。『コジム』社の本社はインタ市にあり、採掘場はジェランナヤというところにある。同社はクォーツを採掘している。(詳細は後述)
 オゼロフ社長からガリーナさんが聞いたところでは、ジェランナヤ・ペンションでは、自炊しなければならないと言う。そうだろう。それで駅横の食糧店から4人の4日分の食料を買い込んで、トゥレコルに乗り込む。これは乗客も乗れる貨物車で、女性3人が運転手イーゴリさんの斜め後ろの席に座り、セルゲイさんは後ろの荷物台側面にある椅子に座ってもらった。8時には出発できた。インタ駅から、120−140キロ南東のそのペンションまではトゥレコルのような車でないと絶対行けない。この凍土帯と草原沼地にできた道を『インタ街道』と呼ぶそうな。もちろんインタ街道はペンションへ行くためにできたのではない。水晶採掘場とインタを結ぶためにできた。インタ街道は珍しく通年通行可。しかし、4月後半から5月、10月末から11月は増水期のため渡河ができないので通行できない。

 インタ市はインタ駅の背後から西に、12キロ離れている。鉄道は何より物資を運ぶために地質的に好都合な場所に敷設された。町の中に駅があるのはソ連時代以前の古い町か、大都会のみだ。資源採掘のためにできた町は、すべて、まず資源を運搬する駅ができ、それから資源採掘で働く人の町(当初は囚人用宿舎)ができた。私たちは、もちろん町の方ではなく、資源採掘方面の、駅の東へ向かって行く。道はアスファルト舗装ではなく、コンクリート板敷(畳を敷くように)で、ごつい感じだ。継ぎ目のところでガタガタいうので、トィレコルでなくてもスピードは出せない。
 精錬工場があるのか、倉庫があるのか曲がり角にはКС6とかку32とか標識が出ている。あの駅と言い、この道と言い、暗号のような標識と言い、いかにも北極圏の無人地に地下資源採掘のために囚人労働ででき、今は出稼ぎの町だという感じがする。北極圏の工場では高賃金だから。
 そのコンクリート板道を数分走ると、もう、人の気配のない矮小白樺や柳の林の中の大きな水たまりのあるぬかるんだ道に出る。登ったり、下がったり、小川を渡ったりして数キロ行くと(ヤレネイムシュル山脈Яренеймусюрと言って標高508m)、夏の凍土地帯、草原沼地に出た。1時間半ほど行くと珍しいことに分かれ道に出る。この道、インタ街道を通って、複数の場所に行きつけるということか。146とか321とか言う標識が出ていた。帰国後調べたことだが、マンガンの採掘地に行くようだ。やや高台にある広い分かれ道だったので、この亜北極圏ウラルらしい道端で一時休憩。車から降りで、車の写真も撮る。
 さらに、砂利道やぬかるみの道を、いくつもの小川を渡り、急坂を上り下りし、貧弱な灌木林のそばを通り、残雪のある遠くの山々を眺めながら進む。灌木も生えていないところは、遠くまで見張らせる茶色の草原だった。ところどころに水面が見える。夏でも草原になれなかった沼地か。
 4時間半の間、窓から見える景色は、夏の凍土地帯の自然、だけだった。
 国立公園『ユグィド・ヴァ』へ入りコジマ川を渡る
 ここからすぐ近くに国立公園『ユグィド・ヴァ』のインタ地区の入り口がある。道にはちゃんと遮断機が下りていて、近くのコンテナ小屋から番人のおじさんが出てきた。
ユグィド・ヴァ国立公園北部
1.ジェランナヤ 2.コジム川 3.ナーロド山
4.バルバニユ川 5.サナ・ヴォジ
6.監視小屋『ペレプラヴァ』7.バルコヴァ山 
8.ナーロド川

「何を運んでいるかね」と運転手のイーゴリに聞く。トゥレコリは乗用車ではないからだ。
「旅行者を案内している」と答える。そして私たちの国立公園立ち入り許可証を見せる。本当はインタ市の国立公園管理事務所へ赴き、パスポートを見せてちゃんとした許可をもらわなくてはならない。ロシア中どこの国立公園でも無断で立ち入りはできない。前年のシューゲル川航行の時もヴィクティル市の事務所で許可をもらった。今回、インタ市の管理事務所へは赴かなかった(ユグィド・ヴァ国立公園の管理事務所はヴクティルにある。支部がペチョーラ市とインタ市にある)。9時の勤務時間開始まで待たなくてはならなかったからだ。ガリーナさんの知り合いのオゼロフ社長が便宜を図ってくれたのかどうか知らないが、印鑑の押された許可証をセルゲイさんが見せて、パス。
 『ユグィド・ヴァ』国立公園の北の境界は、コジム川の右岸(北側)にある。国立公園の境界内に入るとやがてコジム川を渡らなくてはならない。コジムは力強い大きな川だ。亜北極ウラル山脈の西側分水嶺から200キロ流れてコシユ川(上記地図の10)右岸に流れ込む。(この語尾の『ユ』もコミ語で水・川の意か)。コシユ川も、亜北極圏ウラルの西側分水嶺、最高峰ナーロドナヤ山(1895m)から260キロ流れ、インタ市より50キロ北の沼地でウス川の左岸に合流する。ウス川はヴォルクタ市より北の北西ウラルのすべての水分を集め、565キロ流れてペチョーラ川右岸に注ぎ込む。ペチョーラ川は、流域面積32万2千平方キロの(日本の全面積は37万8千平方キ)のヨーロッパ最大の一つで、1800キロ流れてペチョーラ湾(バレンツ海の一部で同海の南東にある)に注ぐ。コジム川岸やその支流では1970−90年代には砂金を洗っていた。当時のキャタピラ車がつけたような道をもとに、このインタ街道もできている。

 もともとウラル山脈の東西に広く住んでいたのは、北はウラル語族のサモディーツ語系ネネツ人、その南はウラル語族のウゴル語系マンシ人ハンティ人(*)
(*)ウラル語族 サモディーツ語群 ネネツ語など
フィン・ウゴル語派 ウゴル諸語 ハンティ語、マンシ語など
フィン・ペルム諸語 コミ語、フィンランド語など
現在のコミ共和国でも20世紀初めごろまでは、北半分以上がネネツ人のトナカイ遊牧地で、東半分以上がマンシ人のテリトリーだった。コミ・ジリャーン人は、15世紀ごろまで南西の片隅とその西、つまり現在はアルハンゲリスク州などに住んでいた。(ロシア人に追われて)東進するコミ人に追われて、ネネツ人は北へ、マンシ人はウラルの東へと移動していき、ウラル西はコミ人も住む土地になった。ペチョーラ川からウラルを超えて西シベリアへの交易路ができるとロシア人も現れるようになった。また16世紀ごろ、コミ・ジリャーンとネネツ人から、コミ・イジマ人というサブ・エトノスも形成され、現在のコミ共和国北部で、トナカイ遊牧に従事するようになった。だから、地名はすべてコミ語、ネネツ語、マンシ語から来ている。たとえば、コジム川はコミ語で『細かい石』の意味だ。コジムと呼ばれる前は、トロヴェイ川といった。これはネネツ語で『浅いところ』の意味で、トラヴィヤはマンシ語では『浅い川』の意味だ。ちなみにコシユ川もトロヴェイ・ヤガといった。時代によって地図上の記載はネネツ語だったり、マンシ語だったり、コミ語だったりしていた。
コジムの渡河箇所対岸には別の大型トゥレコルが
止まっていた
そのトゥレコルが川を渡る

 私たちのジェランナヤ・ペンションへ行くには、『ユグィド・ヴァ』国立公園内でも最も清く美しいと言われる川の一つ、コジム川を渡らなくてはならない。亜北極圏西麓のすべての水分を南のコシユ川上流と北のレムヴァ川と分けて200キロも流れるコジム川は、水量も多く流れも速い。だが、出発点のインタから75キロ来たところで、トゥレコルなら渡れるというところへ着いた。運転手のイーゴリは川岸についているタイヤの跡をよく見て、そろそろと水に入る。川幅はかなり広い。深いところがあっても、車内の足までは水は上がって来ない(1メートルから130センチの深さ。増水期の4月後半から5月と10月後半から11月は、渡河は不可)。浅いところは川底の石が、透明な水を通して見える。透明で冷たそうな川面に大きな波を立ててゆっくりと渡り切る。
 対岸に上がったところに小屋があって、別の大型トゥレコルが止まっていた。この先には営業中のペンションがジェランナヤを含めて3カ所はある。その一つからツーリストを運んできたのだろう。私たちは4人グループだが、彼らは、大型トゥレコルの荷台の窓に頭が見えただけでも5人以上はいる。彼らは、私たちと入れ替わりのように、コジマ川に入っていった。向こう岸へ上がり、やがて木立に隠れ見えなくなった。もしかして、ジェランナヤ・ペンションに私たちと入れ替わりだったかもしれない。
 この川岸の小屋で一休みする。11時過ぎだったが、家から持ってきたものやインタ駅で買ったものなどを広げて軽食にする。吸血昆虫さえいなかったら、ここは素晴らしいところだ。ちなみに、インタ駅周辺にも不快昆虫がうじゃうじゃいた。
 この浅瀬から少し離れた高い岸部にはパラボラ・アンテナと太陽光発電パネルのある小屋があった。ガリーナさんたちは、グリーンピースの監視小屋だ、と言ったが、帰国後詳細地図を調べても漁師小屋としかない(地図が古かったのだろう)。漁師小屋にしては設備がよさそうだ。(後で、セルゲイさんのメールでわかったことだが、その小屋は『ペレプラヴァ(渡河の意)』と言って、翌年の3月には、国際環境保護のボランティアとしてロシア人4人、日本人4人が滞在していたそうだ。)
 水晶のジェランナヤ・ペンション
バルバニユ谷を行く
 コジム川辺で30分ほど休憩して出発する。川向こうの道に出ると、そこはインタ街道は『コジム街道』とあわさる。コジム川左岸の山岳凍土地帯を行く。インタ駅から105キロ走ったところで、バルバニユという延長60キロの左岸支流に出る。これもネネツ語ではハイ・ヤガという。(ヤガはネネツ語で川)。バルバニユ川はウラル山脈の最高峰Народаナーロダ山麓から流れてくる。ウラル山脈は北東ヨーロッパと北西アジアの境界でもあり、つまり、北東ヨーロッパを流れる川と北西アジアを流れる川の分水嶺でもある。バルバニユだけでなく、ペチョーラ川のすべての支流はヨーロッパとアジアの境界(ほぼ分水嶺)の北西側からながれ、その境界の北東側の水分はすべてオビ川に注ぎ込む。
 ちなみにウラル山脈の最高峰1895メートルのナーロダ(ナーロドナヤ)山だが、この地名は東斜面を流れるナーロダ(ナーロト)川(140キロ。オビ川の7世代支流、語源不明、マンシ語か)から来ている。ソ連時代は力点が第2音節にあるナロードナヤ山(ロシア語で人民の山。初登頂された1930年代のソ連時代にちょうどその名が合致)と呼ばれていた。私も、この名だけはロシア語だと思っていた。
 バルバニユ川の左岸を行く。サナ・ヴォジСана- Вож基地がある(ここも最近国際ボランティア団が宿泊しているそうだ)。これは1970年代に作られた砂金採集業『ペチョーラ組』の基地で、1996年まで営業していた。今はペンションか砂金採集博物館になっているらしい。このサナ・ヴォジ基地からバルバニユ川左岸を30−35キロも行くと、目的のジェランナヤ・ペンションに着く。
 しかし、ペンションはバルバニユ川右岸のバルコヴァ山(1321m)の麓にあるので、バルバニユ川を渡らなくてはならない。幅10メートル深さ50センチ程度の浅瀬を渡る前から、もうジェランナヤ基地の小屋群が見える。浅瀬と言っても、トゥレコルでなくては渡れない。川を渡ると、驚いたことに純白とも思える道が基地まで続いている。その基地の小屋群の上にある坑道入り口らしいバルコヴァ山中腹へ向かってもきらきら光る純白の道が続いている。バルコヴァ山斜面で水晶を採掘していて、不要な水晶が、ぜいたくにも道に敷いてあるからだ。道がぬかるまないように砂利を引くものだが、ここでは水晶の砂利を敷いた方が簡単だったのだろうか。
水晶の道を通ってペンションへ
大バルバニユ湖

 トゥレコルは、基地の数棟の小屋の中でも、こぎれいな2階建て建物の前で止まった。これが私たちの4日間住むことになっているジェランナヤ・ペンション第1棟だった。運転手のイーゴルは「ホテル」という。玄関を入ると、短い廊下が続いて、2つ目のドアを開けると本当の玄関になる。これは北方の住宅では、外から入ってきた寒気を和らげるために、どの家にでもある二重玄関だ。玄関横には濡れた靴や外套を乾かす部屋もあり、中央に広い居間があり、大きな暖炉もあって、蒸し風呂ボックスやシャワーボックスのある浴室と、トイレ、ダイニング・キッチンに通じている。玄関ホールからはツイン・ルームや4人部屋などへ、階段を上ると6人部屋などのある寝室にいける。宿泊料金は、一人当たりではシングル・ルームが一番高い。グループで来た場合、大部屋をとった方が割安だ。私たちには女性用の3人部屋と、セルゲイさんの一人用ツイン・ルームが用意してあったが、アンジェラさんが用意されていた寝具(宿泊予定者の分だけシーツが出してある)をもってセルゲイさんのツインに行ってくれた。
 到着したのは、午後1時という早い時間だった。部屋に落ち着いて、ダイニングで軽食を済ませて、私たち4人が外へ出てみたのも2時半という早い時間だ。
 水晶採掘坑道はバルコヴァ山の中腹に開いていて、そこまで純白の道がつづれ坂に登っているが、そのメインの見どころへは明日探検に行くことにして、バルバニユ川が膨らんでできている大バルバニユ湖に降りていく。大バルバニユ湖の少し上流には小バルバニユ湖もある。さらに、もっと上流のナーロドナヤ山の分水嶺近くには小さな湖が3個続いた『上流バルバニユ湖特別保護区』がある。そこがバルバニユ川の水源だ。
 私たちは足元に敷いてある水晶の中に透明で美しいかけらを見つけて喜んだり、こんな水晶敷きの下の地面からでも生えてくる草に感心したり、無言の大バルバニユ湖を眺めたり、緩い起伏の続く夏のツンドラ(凍土帯)草原を見晴らしたりしてぶらぶらと歩きまわった。ウラルの西は、東のシベリアとは同じツンドラでもちょっと景観が違うかも。
 大バルバニユ湖近くへ下りてゆくと、道はもう水晶敷きではなく、ぬかっていた。先へ行くには、道を横切って流れてくる水場を渡らなくてはならないところもあった。石の上を飛んで渡る。水たまりの周りには慎ましい白い花が咲いていた(地図は次ページ)。
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