クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 06 April, 2017 (追記・校正: 2017年5月29日、2019年1月14日、2019年12月16日、2021年11月27日)
34-2  (4)    2016年 北ウラルからペテルブルク (4)
    再び、サンクト・ペテルブルク
           2016年8月11日から8月20日(のうちの8月18日から8月20日)

Путешествие по Коми и Петербурге 2016 года (11.8.2016−20.8.2016)

1)8月2日から8月10日 トゥヴァからサンクト・ペテルブルク
2)8月11日から8月20日 コミ共和国の北ウラルからサンクト・ペテルブルク
  8/11-8/12 スィクティフカル着 ミクニ駅から北へ(地図) 超高駆動車 ユグィド・ヴァ国立公園(地図) 水晶の道
  8/13-8/15 北ウラルのクォーツ(地図) 坑道 ツンドラ草原 亜北極圏だが 若返りの湖
  8/16-8/17 インタ市 貯水塔 パーキング コミ人の古都ィエムディン 大学博物館
  8/18-8/19 ペテルブルクの双子姉妹(地図) エルミタージュ シュメール学博士 ペテルゴフの庭園(地図) 深夜、ネヴァ川の橋
3)8月20日から9月5日 北カフカス(コーカサス)の北オセチア・アラニア共和国からサンクト・ペテルブルク
 サンクト・ペテルブルクの双子の姉妹
 8月18日(木)。早朝の5時10分にスィクティフカルの空港からサンクト・ペテルブルクに発つ。家を出たのは4時。こんな早朝なのにセルゲイさんが送ってくれる。自宅から空港まで車で10分。空港はインタ鉄道駅よりわずかに大きい程度で、この時間なのか利用客も少ないのがいい。
 到着予定の7時20分より早く、サンクト・ペテルブルクのプルコヴォ空港に着き、7時20分ごろいつもの到着ロビーに出たが、ナターリア・ラザレフスカヤさんの双子の娘さん、カーチャとダーシャらしい女性(前に写真で見た)の姿は見えなかった。早く着きすぎたのだ。しばらく待ってから電話してみる。たぶんカーチャに電話したのだろう。ダーシャが迎えに行っているはずだという返事。双子だから見分けられないが、カーチャは短髪でダーシャは長髪とナターリアさんから教わっている。(以前は服も髪型も全く同じだったが、もう彼女らも30歳だから)
 すぐにダーシャがあらわれて、黄色いキア・ソウルの車に乗る。珍しくギア・チャンジは手動の車だった。この方が値段も少し安いし、ヨーロッパ旅行で車をレンタルする時も選択肢が多いからと、ナターリアさんと双子たちはよく考え、よく選んでこの車にしたのだそうだ。それは1年前で、その前は多分国産車だった。私のサンクト・ペテルブルク滞在中、ダーシャが運転したり、カーチャが運転したりしていたが二人とも、横に乗っていてイライラしたりひやひやしたりすることもないとても快適な運転ぶりだった。ほめてあげるとうれしそうだった。彼女たちは経験がそれほど長くはない。母親のナターリアさんは運転できない。
 空港から30分ほどで、家に着いた。狭いが設備の整った2DKのアパートだった。今、母親のナターリアさんはトゥヴァにいるので、彼女の部屋を使わせてもらった。
 ナターリア・ラザレフスカヤさんとマリーナ・キルノフスカヤさんがこの年の4月に日本に来た時、ナターリアさんの双子の娘さんがエルミタージュの職員と聞いた。それで、この夏、私がサンクト・ペテルブルクへ行った時はぜひ、エルミタージュを案内してほしいと頼んだのだ。実は、一般来館者が順番をついて入るところを順番なしに入りたかったのだ。
 その後、ラザレフスカヤさん親子と連絡をして、3回のサンクト・ペテルブルク通過と滞在のうち1回を彼女たちの家にお世話になることにした。双子さんから、エルミタージュの案内はたやすいこと、ほかにサンクト・ペテルブルクで見たいところはないかと尋ねられた。お勧めは、と聞いたところ、『イサク寺院、ロシア博物館、ペトロパブロフスキー要塞、民族博物館、武器博物館、フェベルジェ博物館 Музей Фабержеなど。また、興味がおありでしたら。またツァールスコエ・セロ()、そのエカチェリーナ宮殿の琥珀の間、あなたがまだ行かれたことがないようでしたらペテルゴフ(**)の噴水公園。サンクト・ペテルブルク市では、さらに、オーロラ号、運河からの水上観光、これも、もし興味がおありでしたら夜にネヴァ川のはね橋が開く様子をご覧になったらいかがでしょう。エルミタージュは、金曜日は9時まで開いています。ですから午後からエルミタージュに行き、閉館までいられます。その時間は来館者も少ないです』と言うように親切な申し出だった。どこもとても興味はあるが、2日間で市内ばかりかツァールスコエ・セロとペテルゴフまでは無理でしょうと返事を出したとこ『私たちには車があるから大丈夫』と言うお返事だった。
サンクト・ペテルブルク連邦市の18の区
10.クロルト区  14.ペテロドヴォレツ区16.プーシキン区  18.ツェントラリ区(都心、エルミタージュなどがある)  15.プリモルスク区は最も人口が多い
(*)ツァ―ルスコエ・セロ 1780年代から1917年まではツァールスコエ・セロと言ったが1937年からはプーシキン市。サンクト・ペテルブルク連邦市の18の区(右地図)のうちの一つプーシキン区の5自治体の一つ。もとの名前ツァ―ルスコエ・セロに復活しようという運動がある。
 サンクト・ペテルブルク『連邦市』と名づいているのは、普通の市とは違って、サンクト・ペテルブルクのあるレニングラード州とは独立した連邦構成主体となっている。つまり市だがロシア内の州などと同等な連邦構成主体。だが、レニングラード州の行政中心地はサンクト・ペテルブルクにある。つまり、 レニングラード州では州庁がほかの自治体にあることになる。(サンクト・ペテルブルク市はレニングラード州にはない。別個の連邦構成主体だから)。これはロシアで唯一だ。同じく連邦市であるモスクワはモスクワ州の行政中心地でもあったが、2018年からはクラスノゴルス市がモスクワ州の州庁所在地・中心となる。すでに部分的になっている。レニングラード州も、ガッチナ市を中心にしようと検討されている。(ガッチナ市はサンクト・ペテルブルク中心から42キロ南西にあり、人口9万5千人、レニングラード州では最も多い)
 1924年から1991年まではサンクト・ペテルブルクはレニングラード市と言い、州名もここからついている。市名は1914年以前のサンクト・ペテルブルクと改名されたが州名は元のまま。(ちなみに、スベルドロフ州も州庁はスヴェルドロフ市からエカチェリンブルク市と復活されたが州名はスヴェルドロフ州のまま)

(**)ペテルゴフ サンクト・ペテルブルク中心部から西に約29km離れた、フィンランド湾の南岸に面している。人口64,791人(2002年)。第二次世界大戦中の1944年1月27日、ドイツ語を語源とする『ペテルゴフ』の町名はロシア語『ペトロドヴォレツ(ピョートルの宮殿) Petrodvorets』に変更されたが、1997年、元の『ペテルゴフ』に戻された(上の図の14)。
 レニングラード州西部とサンクト・ペテルブルク連邦市
1.ゼレノゴルスク 2.カマローヴォ 3.レーピノ 4.シェストロレツク 5.ルィスイ・ノース 6.ネヴァ川 7.ストレリナ 8.ぺレルゴフ 9.ロモノーソフ 10.クロンシュタット 11.ボリショイ(大)・イジョール(ロモノーソフ市までが連邦市。大イジョールからはレニングラード州になる)
 エルミタージュ
 実は、1982年からサンクト・ペテルブルクには何度も行った(ちょうど10回)。市内の名所も、郊外の復興中の宮殿も廻った。今は、何処もほぼ復興され、新しい観光地も多くできたとは思うが、あまり興味がなかった。サンクト・ペテルブルクに3回通過・逗留するのも、コミとカフカスへ行く中継点であり、モスクワより空港の位置が便利でお世話をしてくれる知り合いがいるからだ。ただ、3回以上は見たことのあるエルミタージュだが、もう一度丁寧に見たかったのだ。
 シベリアの遺跡からの主要で価値のある発見物はエルミタージュへ、普通のものは地方の中心都市の博物館へ、写真のみか、または同種のものが多くある(それほど価値がない)かしたものだけが地元の博物館に残っている。(最近は地方の中心都市、例えばクィズィール市などの国立博物館へエルミタージュから返却されることもあるそうだが)。だから、エルミタージュへ行けば最上のものが展示してあると思っていたのだ。エルミタージュではシベリアの考古学ホールを見たいと強調した。ダーシャもカーチャもシベリアの考古学は専門ではなく、ダーシャはロシア文化、カーチャはヨーロッパ中世が専門だという返事だったが。
 サンクト・ペテルブルク人は、自分たちの町へやってくる外国人が見たがるような名所はよく知っていて、自分たちは多分何度も見ているが、ご案内しますと言ってくれる。親切な双子だ。何十年ぶりかでピョートル1世の噴水も見てこようと思った。夜中にネヴァ川のはね橋が上がるのも、昔は見なかった。なぜなら、当時はその時間、町は治安が悪いと言われたからだ。
 サンクト・ペテルブルクでラザレフスカヤさんの双子の家に着いた日は、第一の目的のエルミタージュを見ることにして、10時ごろ、黄色のキア・ソウルに乗って宮廷広場へ向かったのだ。エルミタージュは彼らの職場であり、ナターリアさんもその隣の建物『ロシア科学アカデミー有形文化史研究所』で働いているので、毎日3人で車で通勤しているから、この時間、どの通りのどこに駐車すればいいかは、よく知っている。後に感心したことだが、車を止めたり、止めた車を私のいるところに運転してきたり、一人が運転してもう一人が様子を見に行ったり、いつの間にか私の案内者が入れ替わったりして、無駄なく、快適に、見事に私を大都会で案内してくれたのは、双子の携帯を使った絶妙な連係プレーによる。
 11時には、エルミタージュの宮殿前広場の正面からの入り口からではなく、ネヴァ川に向いた宮殿川岸通りの職員用入り口から入る。もちろん無料で順番もない。
 エルミタージュは展示品ばかりか宮殿の立派さも、たぶん1週間は毎日見ても見飽きないだろう。ダーシャとカーチャがエルミタージュの職員になれたとはなんと幸運だろう。ナターリア・ラザレフスカヤさんの知り合いが尽力してくれたからだそうだ。ロシアでも就職難で自分の専門の場所へ就職できるとは限らないのだ。
たまたまグループが去って前が空いたので
 職員用玄関、つまり裏口もなかなか立派だった。考古学ホールをまず見たいのです、と双子に告げてはいたが、たどり着くまでに1時間以上かかった。と言うのも、あまりにも有名な絵画の前を素通りすることもできなかったからだ。また、戻ってみればいいことだが。
ふと窓の外を見下ろすと
職員食堂で
ティツィアーノ

 レンブラントの『放蕩息子の帰還』の前には人だかりがあった。この絵の前では足が止まってしまう。18世紀の3メートルもの精巧な黄金クジャクの時計と言うのを双子(のどちらだったか忘れた)が丁寧に説明してくれた。
 ヨルダニ(ヨルダン川からついた名)の正面階段は、1982年初めて来たときは息をのむほど立派だと思った。これは18世紀には「大使の階段」と呼ばれていたが、イエスの洗礼祭で(新約聖書にイエスがヨルダン川にやってきて洗礼を受けたとある故事)、この階段を通ってネヴァ川に出て、宗教儀式を行うことから、1月6日(旧暦19日)に行うその儀式をヨルダニと呼び、祭日名も階段名もヨルダニとなった。今、階段の上から見下ろすと、大勢の外国人観光客も見とれていた。居間でも客間でもなくただの階段なのに立派すぎる。『紋章のホール Гербовый зал』や『黄金の客間 Золотая гостиная』やコブランの廊下を心残りしながら通り過ぎ、ふと窓から外を見ると、玄関に向かって傘をさした人たちの長い列が見えた。
 ダーシャとカーチャが考古学ホールに案内してくれる。エルミタージュは5棟の建物(冬宮1762年、小エルミタージュ1775年、大エルミタージュ・旧エルミタージュ1787、新エルミタージュ1851、エルミタージュ劇場1787年にそれぞれ築)があり、階によっては繋がっていたりいなかったりするので、よく知っていないと目当てのホールにはなかなかたどり着けない。
 考古学ホールには、イルクーツクのマリタ遺跡やクラスノヤルスクのアフォントヴォ・ガラ遺跡(新石器時代)の発掘物があった。アルタイの自然冷凍されていたパズィルク古墳5号基(スキタイ時代)からの発掘物は、エルミタージュでしか見られない。ほとんど破損されていない状態で見つかった450センチと650センチの大きな絨毯は、エルミタージュのシベリア考古学の誇りだ。
 3時も過ぎたのでみんなでお昼を食べることにする。エルミタージュのカフェは満員なので、職員用食堂に行く。双子はそこで鮭の巻きずしを注文する。寿司コーナーだけはほかのメニューと違って、ちょんまげを結った男性がカウンターで注文を取る。(髪を頭頂部で一つに結んでいるヘアスタイル)私は試しに別の寿司を注文したが、それは慣れない味だった。
 ホールに戻って一応ダ・ヴィンチや、ティツィアーノの『ダナエ(プラド美術館のダナエとは右手の持物が違うのか)』も見る。『十字架を運ぶキリストнесение крест』にははっとする。この絵の前に何時間もたっているわけにいかないのでキリストの視線を振り切って立ち去る。オリエントも廻って外へ出る。ずっと、カーチャとダーシャ、またはカーチャのみ、時にはダーシャのみが私についていてくれた。
 シュメール学博士ヴェロニカさん
 雨がちだったが、宮殿広場やネヴァ川通りなどを歩いてから、『工科大学』メトロ駅()まで車で送ってもらう。この駅の出口で、アレクサンドル・ウルイマグティさんと待ち合わせる約束だったからだ。去年も訪れた『ギンガメシュ叙事詩』のアッカド語からロシア語への翻訳者で歴史学博士のヴェロニカ・コンスタンチーノヴナ・アファナーシエヴァさんに会うためだ。彼女は電子メールは使わないが、アレクサンドル・ウルイマグティさんと連絡を取り、私がサンクト・ペテルブルク滞在する18日か19日に会うことになっていた。
()後記: 2017年4月3日、この駅とひとつ前のセンナヤ広場駅との間の地下鉄で爆破、14人死亡、負傷者数十人という事件が起きた

 ダーシャたちは、メトロ駅近くに何とか車を止める場所を見つけ、一人が車に残り、もう一人が私を駅出口まで送ってくれた。アレクサンドル・ウルイマグティさんが現れるまで私についていてほしいと頼んだものだ。もし、現れず、ここで一人ぼっちになると今夜の宿泊所まで自力で帰るのは難しい。だが、ちゃんと現れたウルイマグティさんは、一緒にいるダーシャ(もしかしてカーチャだったかも)に、一緒にお客に来るようにと勧める。車の番をしているカーチャと言う姉妹もいることを告げると、みんなで来てほしいというお誘い。これで、私も帰りが安心だ。
ダーシャ、ヴェロニカ博士、カーチャ、前列アレクサンドル

 アファナーシエヴァさんは1933生まれ。最近まで入院していたのかもしれない。部屋着姿だった。それでも、ウルイマグティさんと私を迎える準備をしてくれていたのだ。去年と同様、私だけではなく、突然、未知の若い女性がついてきても驚かなかった。『菊と蝶』と言うエルミタージュ出版の日本の詩画集も、お手紙とともにプレゼントされた。ウルイマグティさんが作ったというボルシチを食べる。去年、アファナーシエヴァさんに会って以来、私はネットで彼女のインタビュー記事を読んでいたが、その話を彼女はしたがらなかった。1930年代彼女の父親が、マンデリシュターム(1891-1938)の詩の朗読会に学生と出席して反ソ思想を若者に宣伝したという罪で逮捕されたという記事だった。
 ヴェロニカさんの健康があまりすぐれなかったようだが、1時間半ほどもいた。記念写真を何枚もとって、10時過ぎに去る。ヴェロニカさんはエルミタージュのオリエント部の研究員だが、同じエルミタージュのダーシャもカーチャも彼女に会ったことがないそうだ。不思議だわと言っていた。
 ペテルゴフの9カ所の庭園
 8月19日(金)。朝9時半ごろ、双子の一人が朝ご飯を作ってくれる。出発したのは11時半頃だったのは、彼女たちは外出前にはシャワーを浴び、髪を乾かさなければならないからだ。
 サンクト・ペテルブルクへ久しぶりに来て驚くことは郊外の道路が整備されていることだ。郊外へ出ると、広くて新しく快適な道になり、多層階の住宅がぎっしり建ち並ぶ新団地も見える。道の周りに何もないと、遠くに高層住宅の塊が見えるのだが、これだけの高層で、これだけお互いに近くに立っていると、各戸に駐車場は難しそうだ、と思える。何車線もの道路や新しい長い橋はできても。
 1時間余りでペテルゴフに着いたが、駐車できる道路のスペースを探すのが難しい。有料駐車場もあるにはあるが、彼女たちの好みではない。
 ペテルゴフ(人口7万人)は、市の中心つまり、冬宮などのある地区から西へ29キロ離れたフィンランド湾南岸にあり、サンクト・ペテルブルク市の18ある行政区の一つのペテロドゥヴォレツ区(人口14万人)の3つある自治体(市内地区)の一つだ。つまり、サンクト・ペテルブルク(連邦)市ペテロドヴォレツ区ペテルゴフ市となる。ペテルゴフとは「ピョートル邸・屋敷」の意。
 フィンランド湾に面するペテルゴフ
1.下の公園 2.アレクサンドリア公園 3.上の庭園 4.アレクサンドロフ公園 5.コロニスト公園 6.イギリス式公園 7. ルゴーヴォイ公園 8.ソブストヴォ別荘(セルギエフカ公園はこの西) 9. ピョートル大宮殿 10.マルリ宮殿 11.海の運河 12.エルミタージュ 13.ペテルブルクからの水中翼船離着着波止場 14.オリガ池 15. ロプシン丘陵からストレルカ川の水を引いてくるロプシン運河 16.ペテルゴフ鉄道駅
 ペテルゴフには、国立博物館・保護区『宮殿と公園アンサンブルДворцово-парковый ансамбль』となっている宮殿のある(あった)庭園は9カ所もある。そのうち、18世紀からと最も古く、美しい噴水の多いことで有名な『下の公園ニージニィ・パーク Нижный парк』は有料。外国人は500ルーブル、ロシア人と独立国家共同体CIS(現在旧ソ連からの9か国)の市民は平日300、休日400ルーブル。しかし噴水が止まる冬季は(2016年なら10月17日から)外国人100ルーブル、ロシア人と独立国家共同体CISの市民50ルーブル。双子はエルミタージュの職員なので証明書を見せると無料となる。(無料となるのは世界大戦参加者、障害者、孤児、国家公務員、博物館職員、徴兵中の兵士など)
 ペテルゴフではどこも「ロシア人とCISの市民」が同じ入場料だ(エルミタージュではロシア連邦人とベラルーシア人が安い料金。それ以外の「外国人」はやや高い料金)。
 『下の公園』の東にある『アレクサンドリア公園』はフィンランド湾に面していて有料(外国人は200ルーブル、ロシア連邦人とCIS市民は平日100ルーブル、休日は150)。『アレクサンドリア』と言うのは、ピョートル1世以来持ち主が変わり荒れていた庭園をニコライ1世が妃アレクサンドラに贈り、整備したので、その名がある。(アレクサンドリア公園内の「コッテージ」宮殿に入るには外国人400ルーブル、ロシア人とCIS市民250ルーブル)。
 『下の公園』に入ると、『ピョートル大宮殿』と、サムソンの噴水のある『大カスケード(段をなす滝)』を伝ってフィンランド湾に向かう『海の運河』があり、これが入り口から入ってきた観光客の目を奪い、最も混んでいる。ピョートル大宮殿に入るには順番をつき外国人なら550ルーブル、ロシア人とCISの市民は400ルーブル。奇異なことに550と400ルーブル入場者の入場時間帯はわかれている。意図は何だ?
 私はこの日『下の公園』入場外国人用の500ルーブルのチケットのみ購入。
『下の公園』双子の姉妹と
フィンランド湾を見晴らす

 フィンランド湾に沿って広がっている『下の公園』はこのサムソンと『海の運河』両岸にある小径で東西に分かれている。カスケードや小径にも一つ一つ名前の付いた彫像や噴水がある。第2次大戦中消失してしまって再制作したもののほかは、ピョートル大帝当時の芸術家たちのオリジナル作や、古代ギリシャ・ローマの有名な彫像のコピー作品だ。ロシアではギリシャ・ローマ風の彫像がなければ庭園とは言えないのか、と思う。サンクト・ペテルブルク市内にある『レットニィ・サッド夏の庭園』もそうだったし、地方都市はサンクト・ペテルブルクを理想としているから予算のある限り彫像を立てているのか、と思う。
 『下の公園』の西半分にも、『金の山』カスケードや、池、噴水、彫像、宮殿がいくつもある。そのうち、ルイ14世のマルリー・レ・ロア宮殿に真似て当初設計されたという広い池に囲まれたマルリ宮殿(1982年再建、外国人は250ルーブル、ロシア人とCIS市民150ルーブル)やフィンランド湾岸近くの四方が掘に囲まれたパビリオン『エルミタージュ』(『隠者の庵』の意で、1721−1725年築。ドイツ軍に占領され破壊されていた第2次大戦終了後、1952年にペテルゴフの博物館としては最初に復興された。現在入場料、外国人は250ルーブル、ロシア人とCIS市民150ルーブル)がある。ここにはフィンランド湾に沿って、堤防のように土塁が築かれている。このマルリ土塁には(80年代の写真では)蔦を這わせてある長い手すりが美しく続いているが、今は修復中。
 マルリ宮殿の池はピョートルの時代から宮廷の食卓用の養魚場だったそうだ。2001年に復活され、チョウザメなどが放流されて、有料の釣り堀となっている。
 『下の公園』東半分にも池や彫刻、ローマの噴水、いたずら噴水などの観光案内書には必ず乗っている由緒ある噴水や、『モンプレジール』宮殿(フランス語の『mon plaisir、私の満足・喜悦』と言う名前をピョートル1世はつけた。 外国人400ルーブル 、ロシア人とCIS市民250ルーブル)。『チェスのカスケード』、『バンナヤ・コルプス』(外国人400ルーブル、ロシア人とCIS市民250ルーブル)、 『エカチェリニン・コルプス(エカチェリーナのパビリオン)』(外国人4ルーブル、ロシア人とCIS市民250ルーブル)などがある。エカチェリーナの名がついているが、これを建てたのはエリザヴェータ1世(ピョートル1世の娘、在位1741−1761)だ。1762年エリザヴァータの甥ピョートル3世をクーデターで廃位したピョートル3世の皇后エカチェリーナが、この宮殿からペテルブルクへ行き、エカチェリーナ2世(在位1762-1796)として帝位を宣言したので、この名がついた、と案内書にはある。ピョートル3世は1週間後死亡。
 『下の公園』には多くの噴水と池があるが、この水路はすでにピョートルの時代にできていたそうだ。『上の庭園』から24キロ離れたロプシン丘陵からストレルカ川の水を自然の流れで運河や池を作って水を引いてきている。ヴェルサイユの噴水は低地から高所へ水を挙げなくてはならなかったので非常に高価についたが、ピョートル1世はヴェルサイユをまねて作ったのだが、ずっと安価で容易だった、とペテルゴフ関係のどのサイトにもある。1721年から着工、毎日4000人の農奴や兵士が劣悪な環境で働かされたそうだが。
 噴水の『下の公園』、『上の庭園』、『アレクサンドリア』のほかに、18世紀末のエカチェリーナ2世の『イギリス式』公園がある。これは、面積はペテルゴフ諸公園のうちで最大で、イギリス式庭園と言うのは、フランス平面幾何学式庭園に対してイギリス風景式庭園だから。イギリス庭園内のイギリス宮殿は第2次大戦中破壊され、現在復興されていない。『コロニスト公園は、はじめは『狩猟の沼』と呼ばれていたが、1830年代ドイツからの植民者・コロニストの家々があったのでそう名付けられた。公園の大部分はオリガ池が占め、島には皇后(ニコライ1世の妻)の楼と皇女のオリガ(ニコライ1世の娘)の楼が建つ。『ルゴーヴォイ公園』、『アレクサンドロフ』公園(元は皇室狩猟用御料だった)、『セルギエフカ』公園なども9カ所の「宮殿と公園アンサンブル」に含まれている。『セルギエフカ』公園はニコライ1世の娘マリアとその夫のロイヒテンベルク公Лейхтенбергских(ナポレオン1世のまま子の次男)の屋敷だった。現在、屋敷Дворецは生物学部の建物の一部となっている。さらに、現在修理中の『聖トロイツァ教会』のある『ソブストヴォ別荘』もある。
 その中でも、普通は、観光客が訪れるのは『下の公園』『ピョートル大宮殿』『上の公園」『アレクサンドリア』だ。

 もともと、サンクト・ペテルブルクやペテルゴフのあるフィンランド湾の奥、ネヴァ川河口にはフィン・ウゴル人が住んでいたが、8−9世紀には東スラヴ人が移ってきた。その頃、この地はノヴゴロド国やスウェーデンの勢力範囲に入っていて、ネヴァ川河口や南方はイジョール(イングリア)の地、北方はカレリアの地と呼ばれた。当時、ネヴァ川はスカンジナヴィアから東ヨーロッパを経てビザンチンへ行く交易路『ヴァリャーグからギリシャへ』の要地だった。1240年頃にはイジョールの地はノヴゴロドの勢力下(15世紀にはノヴゴロドを滅ぼしたモスクワ公国領)になったが、17世紀初めにはスウェーデン領インゲルマンディアとなる。18世紀初めの大北方戦争でロシア帝国領()となり、1704年、河口のデルタの島に後にペトロパヴロフスキィと呼ばれるようになった要塞を起工したのがサンクト・ペテルブルク創立とされている。翌1704年にはフィンランド湾のコトリン島(ここから湾の奥のサンクト・ペテルブルクまで30キロ)にクロンシュタット要塞を起工して、ペテルブルクを守備し、ロシアからヨーロッパへの通行を確保した(**)。1710年にはサンクト・ペテルブルクからフィンランド湾南岸のペテルゴフやストレリナを通ってオラニエンブルク(現ロモノーソフ)までの40キロの道(のちに『ペテロゴフ道』と呼ばれる)が起工される。オラニエンブルクからコトリン島まで11キロを渡し船で行くためだ。(2011年開通のサンクト・ペテルブルク大環状線ではトンネルなどで通行可)。ピョートルは、この道を通って若い都サンクト・ペテルブルクから、コトリン島に建設中のクロンシュタット要塞に通ったのだが、途中に滞在した荘園・屋敷の一つが後にペテルゴフとなった。ピョートル1世は離宮として、ヴェルサイユに匹敵する噴水庭園と宮殿建築を計画し、場所は大帝自身によって慎重に選ばれたそうだ。(上の地図参照)
(*)1547年にイヴァン4世がツァーリの称号を帯びてから1721年にピョートル1世がロシア帝国と称するまではロシア・ツァーリ国だった。
(**)ここ現在のレニングラード州の住民や支配勢力は変遷があったと言うことだ。

 このサンクト・ペテルブルクからフィンランド湾南岸を行くストレルナ町とペテルゴフ市を通り ロモノーソフ( オラニエンブルク)市まで40キロの『ペテロゴフ道』には、帝政時代多くの屋敷や宮殿、教会、個人の別荘があった。そのうちの上記『ペテルゴフ宮殿と公園アンサンブル』が現在ユネスコ『サンクト・ペテルブルク歴史地区と関連建造物群』に登録されている36件の一つだ。17−20世紀の歴史的建造物は『エカテリンゴフ』、『アーネンゴフ』、『ストロガノフ家別荘』、『エリザヴェトゴフ』、『ヴォロンツォフの別荘』などなど520を数えるそうだが、多くは第2次世界大戦で全壊、半壊されたそうだ。何カ所かは復興されている。
 だが、私たちが訪れたのは噴水の『下の公園』と、車を止めたペテルゴフの通りから下の公園までの途中の『上の公園』だけだった。それだけでも4時過ぎには足が棒のようになってしまった。ダーシャたちの予定ではこの日はペテルゴフだけでなくもう一つの名所ツァールスコエ・セロも行く予定だったが、それは次回と言うことにした。サンクト・ペテルブルクへ来た目的のエルミタージュへ、もう一度行ってほしいと頼む。

 エルミタージュでダーシャたちがカフェで食事をしている間も、昨日の場所をもう一度回る。しかし、フランスなどヨーロッパ近代絵画はどこにあるのだろう。アルタイ考古学ホールでダーシャたちと待ち合わせ、聞いてみると、それは宮殿広場の向かいの『参謀本部』東翼に2014年から移ったということだ。時計を見て、まだぎりぎりで間に合いそうというので、東翼入り口に走る。
双子の一人が撮ってくれた

 ちなみに、エルミタージュは冬宮など4棟の本館のほか、分館の『参謀本部』、『ピョートル1世冬宮』、『メンシコフ宮殿』、『皇帝陶器工場博物館』も付いて、入場料が国籍に関係なく600ルーブル、エルミタージュと参謀本部、ピョートル1世冬宮のみだとロシア連邦人とベラーシ人には400ルーブル。分館の博物館1回入場券では300ルーブル。入場無料なのは国籍にかかわりなく学生と生徒、児童、ロシア連邦の年金生活者、軍や治安関係者、身障者、博物館関係者など。各月の第1木曜日は全員無料。インターネットでは続けて2日間本館・分館に入場できるチケットが1000ルーブルで売っている。
『参謀本部』東翼は、内部は完全に改装され、展示物と階段以外には驚嘆するものがない。最近開館したらしい。双子たちも関与したらしい。引っ越しに動員されたと言うことらしい。
 深夜に開くネヴァ川の橋
 この日の夜ネヴァ川にかかる橋が開くシーンを見物する予定だった。サンクト・ペテルブルクの観光写真といえば、白夜に宮殿橋やトロイツキー橋が開いているシーンが必ずある。ネヴァ川を通行する船舶のために橋が開くのは深夜の1時や2時だ。この時間に合わせてネヴァ川遊覧さえある。当初私たちはその遊覧ボートのチケットを購入しようかと言っていたが、2日間の観光で疲れてしまった。その時間にだけ川岸まで行って見物することにしよう。深夜の観光のために家で一休みすることにした。
宮殿橋
青銅の騎士

 サンクト・ペテルブルクには342(うち歩道橋は24)の橋があり、そのうち21の橋が跳ね橋だそうだ。開く時間には、差がある。たとえば最も川下のヴラゴベヴェシェンスキィ(海軍中尉シュミット)橋とその一つ上流の宮殿橋は1時25分、さらに上流のトロイツキー橋は1時35分、さらに上のリテイネィ橋は1時40分と言う順で開くので、車で川岸を走れば何カ所もの開く様子を見ることはできる。が、観光客で混んでいるのでそうはいかない。最も美しいという宮殿橋の近くは特に混んでいる。橋は通行止めになっていて、川岸通りは路上駐車で狭いのはいつもだが、この時刻はごった返す観光客で一層狭い。それでも何とか水たまりの中に車を止め、川岸の堤防まで行く。よい場所は団体の群れに占領されている。それでも、青いネオンの付いた宮殿橋が音楽とともに真ん中が開くという私たち観光客のための見せ場を見ることができた。急いでトロイツキィ橋(1918年−1934年は『平等』橋、1935−1991年は『キーロフ』橋)に走る。トロイツキィ橋は5枚(6枚)のスパン(橋の径間)のうち1枚だけが跳ね上がる。72度まで上がるそうだ。行った時はもう上がっていた。次いで、リテイネィ橋(旧アレクサンドル2世橋)に行くと、こちらの方もすでに白いネオンの付いた1枚が大きく開いていた。この橋は6枚のスパンがありそのうち最も川底の深い部分にかかる1枚のスパン(3225トン)が2分間で67度の角度に上がるそうだ。
 ちなみに宮殿橋は1917−1944年間だけ『共和国』橋と呼ばれていたそうだ。構造は(39+47+59+47+39)メートルとシンメトリックな5スパン橋で、真ん中のスパン(59メートル)のその真ん中が2枚の翼のように開くので美しい。
 こうして私たちは必至で2時過ぎまで翼のように開く橋を見て、写真やビデオに撮り、私は珍しいことにそれをfacebookに投降さえしたのだ。

 昨夜と言うより、今朝、8月20日(土)の3時を回ってから寝たのだが、8時過ぎには起きなければならない。11時10分発のユーティ・エアー航空のウラジカフカス行き飛行機(毎週の土曜1便しかない)に乗らなければならない。前日に双子の一人がネットで搭乗手続きをしてくれた。そのやり方も教えてくれたので、この先3機の飛行機の搭乗手続きも自力で、ネットでできた(ウラジカフカスからサンクト・ペテルブルク、サンクト・ペテルブルクからモスクヴァ、モスクヴァから成田の3機)。空港では荷物を預けるため、どちらにしてもカウンターに行かなければならないが、前もってネットで席を選んでおけるところがいい。
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