クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
              Welcome to my homepage

home up date 19 April, 2017   (追記・校正:2017年5月25日,10月9日、2018年7月21日、2019年10月27日、2019年12月17日、2021年11月29日)
34-3 (1)   2016年 北カフカース(コーカサス)からペテルブルク (1)
    北オセチア・アラニア共和国
        2016年8月20日から9月4日(のうちの8月20日)

Путешествие по Северному Кавказу и Петербурге, 2016 года (20.8.2016−05.9.2016)

 1部) 8月2日から8月10日 トゥヴァからサンクト・ペテルブルク
 2部) 8月11日日から8月20日 コミ共和国の北ウラルからサンクト・ペテルブルク
 3部) 8月20日から9月5日 北カフカースのオセチア・アラニア共和国からサンクト・ペテルブルク
1) 8/20 北オセチア共和国(カフカース地図、歴史地図) ベスラン着 北オセチアの地理と自動車道 峡谷で出会った宿敵 オセチアの宴
2) 8/21-8/23 アスラン宅 ウラジカフカース市 アレクサンドロフスキィ大通り テレク川岸 ロシアとオセチア 南オセチア共和国
3) 8/24-8/25 ウラジカフカースの芸術家たち 峡谷のオセチアへ(南東部地図)  納骨堂群の丘 氷河に呑まれた村(共同体地図) グルジア軍事道(イングーシ地図) デュマやレールモントフの時代のグルジア軍道
4) 8/26 イングーシ通過 チェチェンに グローズヌィの水浴場 復興グローズヌィとチェチェンの心 プーチン大通り
5) 8/27-8/28 オセチア斜面平野(南西部地図) 正教とイスラム ディゴーラ共同体 カムンタ村着 過疎地カムンタ村 ミツバチ
6) 8/29-8/31 マグカエフ宅 ザダレスクのナナ 失われたオセチア、ドニファルス ネクロポリス ガリアト村 テロには巻き込まれなかったが
7) 9/1-9/3 スキー場ツェイ オセチア軍事道 カバルダ・バルカル共和国へ 保養地ナリチク市 ウラジカフカースの正教会 再びグルジア軍事道
8) 9/4-9/5 サンクト・ペテルブルク イングリア フィンランド湾北岸の地 コトリン島の軍港クロンシュタット モスクワ発成田
ロシア語のカフカースКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スとも聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus
 2016年8月2日に成田を発ち、クラスノヤルスクからトゥヴァの古墳発掘現場を回り、8月11日にはウラル山脈北西のコミ共和国を訪れた。8月17日から20日までのサンクト・ペテルブルクでは双子の姉妹に案内されて観光地を回り、8月20日カフカース(コーカサス)北麓中央の北オセチア・アラニア共和国へ行くことになる。
 前編『トゥヴァからサンクト・ペテルブルク』、『北ウラルのコミ共和国からサンクト・ペテルブルク』の続き
 カフカース(コーカサス)山脈北麓の北オセチア‐アラニア共和国
 カフカース山脈は、西が黒海から東はカスピ海までほぼ東西(より正確には西北西から東南東)に1100キロ、幅は最大180キロにわたり、ヨーロッパ最高峰のエリブルス山 Эльбурс(5642m)もここにある。カフカース山脈とその南北の山麓とそれに続く平野をカフカース地方と言う(英語読みではコーカサス)。北麓を含め北へ広がる平野は北カフカース Предкавказьеと言ってロシア連邦領、南はトランス・カフカース Закавказье(カフカース山の向こう側というロシア中心の命名)で、元はソ連邦に含まれていたが今は主権国家のジョージア(*)、アゼルバイジャン、アルメニアが位置する。
(*)ジョージア ロシアではあくまでグルジアとよぶ。ジョージアの主権の及ばないアブハジア共和国と南オセチア共和国を含む
 ロシア連邦内の北カフカース(*)にはアゾフ海と黒海に面したクラスノダール地方や
クラスノダール地方に全方向を囲まれたアディゲ共和国(1)、その東の
カラチャイ・チェルケス共和国(2)
カバルダ・バルカル共和国(3)
北オセチア・アラニア共和国(4)
イングーシ共和国(5)
チェチェン共和国(6)
ダゲスタン共和国(7)
スタヴローポリ地方の9地域がある。そのうち7共和国はかつてソ連時代の自治共和国だったが、現在ロシア連邦構成主体、つまり(民族)共和国となっている。
ロシア連邦に含まれない南カフカースの
グルジア内の(9)アブハジア共和国
(11)南オセチア共和国(10)アジャリア自治共和国。 
アゼルバイジャン内の(8)ナゴルノ・カラバフ共和国 
  (9)(8)(11)は国際的に主権国家と認められていないが独立を標榜している

   (*)ロシア連邦の管区  クラスノダール地方や同地方に囲まれたアディゲ共和国は、歴史的には北カフカ―スであるが、現在、ロシア連邦カフカース管区には含まれず、南ロシア管区に入っている。(現在ロシア連邦はウクライナと係争中のクリミア連邦管区を含め9連邦管区に分かれ、大統領全権代表が派遣され、連邦構成主体を監督しているそうだ)。

 カフカースの言語は、
・印欧語族
ではスラヴ語派のロシア語、イラン語派のオセチア語、アルメニア語派などがあり、
・カフカース諸言語ではグルジアのカルトヴェリ語族、アブハズ・アゲィゲ語族、ナス・ダゲスタン語族などがある(イングーシ、チェチェンなどはナス語系)。
テュルク諸言語系のオグズ語群(アゼルバイジャンなど)、キプチャック語群(カラチャイ人、バルカル人など)などあって
狭い地域に種々の民族がモザイク状に点在する。そのカフカース山脈北麓の中央にあるのが北オセチア‐アラニア共和国(1996年までは北オセチア共和国)だ。
4世紀、アラン人の移動 
黄色はゲルマン人の民族大移動前後の
アラニ人の居住地 赤い矢印は移動経路
409−426年スペインにあったアラン王国(ピンク)
526年の北アフリカと地中海の
ヴァンダル・アラン王国(ピンク)
水色は10-12世紀、アラニア(アラン人の国)
の範囲。黒線は現在の北オセチアと南オセチア。
*アラニアの首都マガス(?) 
**Durdzuki Kists(チェチェン人や
イングーシ人の祖先のナス語族)

 オセチアを含む現在の北カフカース一帯の地は、青銅器時代は精巧な装飾品や武器などで有名なコバン文化が栄えた。鉄器時代初期には、カフカース山麓北を含むユーラシアの草原地帯はスキタイ人の遊牧地となる。紀元前4世紀から紀元後4世紀ごろには中央アジアから東ヨーロッパはスキタイの一派でイラン系のサルマタイが遊牧するようになった。紀元1世紀ごろにはサルマート人(サルマタイ)のアオルサイ族などが、連合してアラン人と呼ばれ、現在のオセチアやその北の草原地帯をテリトリーとしていた。4世紀の民族移動時、アラン人はゲルマン人とともに西ヨーロッパ、イギリス、北アフリカへと移動し、フランスやスペインにアラン人の国家を作った。北アフリカと地中海のヴァンダル・アラン国(435−534)は長く勢力を保ったが、東ローマに滅ぼされた。ヨーロッパ各地にアラン人に関する遺跡や地名が残っている。(これらオセチアの略史は,当地で購入した本とウィキペディアにによる。下記)
 6−13世紀にはカフカース北麓に残ったアラン人は強力な国を作り、9世紀には、カスピ海のハザール・カン国、ウクライナのキエフ候国、東ローマ帝国と並んでいたが、13世紀モンゴルに征服され、首都マガスを始めとする諸都市は打撃を受けた(*)。14世紀タメルラン(びっこのティムールの意、1337-1405)の侵入でアラン人は壊滅し、豊かな山麓平野を失い、険しい山岳地方の狭い峡谷に去った。
 15,16世紀、アラン人後裔とされるオセチア人は峡谷ごとに5つの村落共同体обществоからなる部族連合を形成した。また、一部のアスィ人(オセチア人、後述)はカフカース山脈を越えて南下し、現在の南オセチアの領域に入って峡谷ごと6つの小村落共同体を立てた。山岳地帯に入った彼らは民族統一国家を打ち立てることはなかった。
 18世紀後半には、カフカースに進出しようとするロシア帝国に併合されたが、険しい峡谷から出て、当時カバルダ諸候国の勢力下だった山麓平野(オセチア斜面平野)に広がることができ、現在の北オセチアは、ロシア帝国テレク州の一部となった。ロシア革命後、オセチア人が近世以来(ロシア帝国に合併後)住んでいたオセチア斜面平野と、モンゴルによる滅亡以来住んでいたカフカ―ス山脈中程北麓とに、1924年ソ連邦に含まれる北オセチア自治州ができ、それが、1936年ソ連邦の北オセチア自治共和国になり、1993年ロシア連邦北オセチア共和国となった。中世、北カフカースに大国アラニア(アラン王国)をつくったアラン人が、現在のオセチア人の祖先とされていることから、1996年北オセチア‐アラニア共和国と改名。
 一方、南麓では1922年グルジアに南オセチア自治州ができたが、1990年解消され、ツヒンヴィル区となった。グルジアとの民族対立などで、1991年以来南オセチア共和国として事実上独立している。(グルジアの主権は及ばないが、国際的にはロシア連邦など一部にしか認められていない)。

 オセチア、オセチンとはロシア語にグルジア語から入った言葉で、アラン人の一部の自称アスィからグルジア人はオシまたはオヴシ≪оси≫, ≪овси≫と呼び、グルジア語の語尾エチ≪-ети≫が付き、≪Осети≫となり、ロシア語でオセチアとなった。もっとも、自称としては中世のアスの名は失われ、オセチア人のオセット語(オセチア語)による自称はイロン(Iron、東部と中部オセチア)、あるいはディゴロン(Digoron、西部オセチア)である。イロン人とディゴロン(ディゴーラ)人はオセチアの中のサブエトノスと言える。イロン方言を話す人が多いせいか、オセチア(国)をイリストンとオセチア人は呼ぶ。1921年山岳自治ソヴィエト社会主義共和国ができた時は短期間ではあるが、ディゴールとオセチアは別の国だったことさえある。(地名をオセチア、住民と言語をオセット人、オセット語と言うこともあるが、本稿ではすべてオセチアと表記)
(*)これ以来アラン人(アスィ人と中世には呼ばれていた。前述)はモンゴルの支配下に入り、モンゴルの支配を嫌って逃亡した若干のアスィ人はハンガリーに逃げ込んで同地でヤース人と呼ばれる民族集団になった。ヤース人はその後ハンガリー人への同化が進み、現在はハンガリー人の一部と考えられている。 
 また、アスィ人の一部は降伏してモンゴル軍に加えられるとそのまま中国に移住し、元に仕えるアスト人親衛軍を構成した。「アスト」は「アスィ」のモンゴル語による複数形である。メルキト部出身のモンゴル人将軍バヤンに率いられたアスト人親衛軍は元朝治下のモンゴル高原で行われた数多くの戦争で大きな戦果をあげ、南坡の変に代表される14世紀前半に頻発した後継者争いを巡る政変において重要な役割を負うことになる。こうして中国でモンゴル人の遊牧民と同化していったアストの人々は1368年に元が中国を放棄してモンゴル高原に帰ると、これに従って高原の遊牧民の一集団となり、長らくモンゴル民族の中の部族名としてアストの名が残った。例えば、15世紀前半にモンゴルのハーンを擁立してオイラトと熾烈な争いを繰り広げた有力部族長として、アスト部族のアルクタイという者の名が伝わっている。
 ヨーロッパやビザンチンへも多くのアラン人は避難した。(ウィキペディアから一部抜粋)
 オセチアの首都ウラジカフカースの空港ベスラン着
 8月20日(土)。前夜(まだサンクト・ペテルブルク滞在)と言うより、今朝3時を回ってから寝たのだが、8時過ぎには起きなければならない。11時10分発のユーティ・エアー航空のサンクト・ペテルブルクのプルコヴォ空港から、ウラジカフカース行飛行機(毎週の土曜1便しかない)に乗らなければならない。
プルコヴァ空港、搭乗口から飛行機へのバス内

 プルコヴォ空港のウラジカフカース行き搭乗口近くには、やはり、カフカース系容貌の乗客が集まっていた。初めて行くところであり、会ったこともない人が迎えてくれ、会ったこともない人の家に逗留することになっているので、かなり不安だった。だから、計画を立ててくれたウルイマゴフさんや、彼が紹介してくれたルスラン(未知、工芸家)やアスラン(未知、グラフィック作家)には確認のショート・メールを数回は打っておいた。空港に迎えてくれるのはアスランの兄弟のソスランだという。空港で彼をどうやって見つけるのか。「心配ご無用、小さな空港です。ソスランの方があなたを見つけます」と言う返事。
 プルコヴォ空港離陸から3時間後、ウラジカフカース空港に到着。ウラジカフカース空港と言う名だが、実際はウラジカフカース市から16キロ北のベスラン市の近くにある。ベスランは2004年に学校占拠事件で386人もの死者を出した。ベスランの人口は37,000人で、40,000人のモズドク市に次いで共和国では第3位。ベスランは東のイングーシ共和国の国境から10キロしか離れていない。首都ウラジカフカース市の人口は30万人余。
 確かに小さな空港だった。荷物を受け取ろうとターン・テーブルに向かうと、私の携帯が鳴って、それはソスランからだった。ターン・テーブルに私のトランクが現れた頃、きょろきょろしていた私と目が合ったのは重役風の男性だった。未知のお互いがお互いを見つけた形だ。空港前広場のソスランの車に向かう。白のセダンで、私が乗ろうと助手席のドアを開けると、ステップに『JAGUAR』とロゴがあった。中古とはいえ、私はジャガーに乗るのは初めてだ。彼はランクルも持っているが、それは故障中だとのこと。故障中とは言え、中古とは言え、ここではスターテス・シンボルのような車を運転するソスランは羽振りが悪くないのかな。
 空港からウラジカフカースまでの十数キロは、立体交差もある新しい広い道だった。町に近づくとあの独特の目線のプーチンの写真と“ВЕРИМ(『私たちは彼を信頼する』の意か)”の文字の入った大きな看板が目立った。
 ソスランは私に飛行機で疲れているかと聞く。いや、夜中に跳ね橋を見て少し寝不足だが、まだ午後4時前、疲れてはいない。ではフィアグドンにある彼の知り合い宅へお客に行こう、と提案される。実は2週間のオセチア滞在のだいたいの予定をウルイマゴフさんは立ててくれたのだが、それは、
「到着したらアスラン・ジオフ宅へ案内します。彼の両親ルスランとクララもあなたを待っています。そこで26日まで滞在し、市内観光や、ダルガウス、ツェイ、アルホンへも足を延ばしてください。アルホン村は私の友人が住んでいて、とても美しいところです(追記。アルホン村へ行くことだけはこの年にはできなかった、2017年には訪れたが)。それから、ディゴーラ峡谷のカムンタ村に案内します。そこでルスラン・バグラエフが修復している家で過ごしてください。ディゴーラ峡谷には興味深いところが多いです。9月2日には、ルスランがあなたをウラジカフカースまで送ります。9月3日の出発前に一休みしてください」と言うものだった。
 北オセチアの地理と道路 
1.ウラジカフカース市 2.マズドック市 3.ベスラン市 4.アラギール市 5.アルドン市 6.エリホトヴォ村 7.ディゴーラ市 8.チェルメン村 9.ジゼリ村 10.チコラ村 11.テレク川 12.アルドン川 13.ウルッフ川 14.フィアグドン川 15.ギゼリドン川 16.ナルザニ市(イングーシ共和国) 17.マガス市(イングーシ共和国首都) 18.ナリチク市(カバルダ・バルカル共和国首都) 19.ジュアリカウ村 20.レスケン村 21.コバン村 22.ヴァルフニィ・フェアグドン村 23.ミズール村 24.(山岳)カルツァ村 25.ダルガウス村 26.(古)サニバ村 27.オクチャブリスコ村 28.カムンタ村 29.ゲナルドン川 30.ロック・トンネル 31.ダリヤル峡谷

A161道ーー1のウラジカフカースからテレク川沿いにカフカース山脈を越えてグルジアのトビリシ市へ向かうかつての『グルジア軍事道』。現在国境までの33キロ。
A162 (旧297) 1から4へ。4でA 164とつながる。
R217『カフカース道』ーークラスノダール地方から、18、6、3,16とチェチェンのグローズヌィを通り、アゼルバイジャンとの国境までの1118キロ。
A164 『トランスカム』ーー2018年までロシア部分はR297ともいう。6から4と30のトンネルを通り、南オセチアのツヒンヴィリを通ってグルジアのゴリ市まで。現在はツヒンヴィリまで。
 北オセチア・アラニア共和国の面積は7,987平方キロ、(参考、静岡県は7,780平方キロ)。人口は70万と小さな共和国だ。ロシア連邦構成主体は、クリミア共和国とセヴァストーポリ連邦市を含めると85になるのだが、その85の主体のうちの3個の連邦市(モスクワ市、サンクト・ペテルブルク市、セヴァストーボリ市)を除くと、最も面積の小さいのはイングーシ共和国(3,628平方キロ)、次に小さいのはアディゲア共和国(7,792平方キロ)。次はこの北オセチア、同じく北カフカースのカバルダ・バルカル共和国(*)がその次、カラチャエフ・チェルケス共和国がそれに続き、その次の次がチェチェン共和国だ。カフカース山脈北麓のロシア連邦内共和国は小さな共和国に分かれ、同じ民族が別名で呼ばれて別れさせられたり、異なる民族と同じ共和国を作らされたり、同化されたり、中東などに移住して(強制的に移住させられて)少数しか残っていなかったりする複雑な民族事情だ。。
(*)カバルダ・バルカル共和国  カフカース系のカバルダ人(Кабардинцы)とテュルク系のバルカル人(Балкарцы)の(民族自治)共和国で、オセチアの西にあって、同じく大カフカ―ス山脈の分水嶺の北にある。カバルダ・バルカルの首都ナリチクについては後述。バルカル人はティルク化してしまったアラン人の末裔と言われる別説もある。

 北オセチア共和国の南方は大カフカース山脈脈の分水嶺になっていて、共和国内はテレク川(623キロ)とその支流のウルフ川урух(第2音節に力点があるのでウルッフとも聞こえるが、オセチア語の発音ではイラフ川 Ираф。104キロ)やウルスドン(48キロ)、とアルドン(102キロ)などが流れている(*)。南に大カフカース山脈が東西にわたって横たわっているので、川はほぼ南から北に峡谷を作って流れる。流れ出たところがオセチア斜面平野でその北にスンジェン丘陵 Сунженский хребетがあり、流れを止めるが、エリホトヴォに切れ目(エリホトヴォ門 Эльхотовские ворота)があって、南からの流れ、つまりアルドンの支流などのすべての流れがこの直前にテレク川に合流して、狭い門を通り抜け北へ向かう。出たところはカバルダ・バルカル共和国だ。
(*)『ドン』はオセチア語で川・水の意だから、たとえば、ウルスドン川は『ウルス川川』と冗語になる。ちなみにロシア語地名から日本語地図にも乗っているドン川もドナウ川もドニエプル川もドニエストル川も冗語だ。本稿では、ロシア語地名に従って、(冗語になるが)語尾に「川」をつける。

 エリホトヴォの切れ目を通る直前に、アルドンに合流してくる支流とはフィアグドン(75キロ、地図で14)とギゼリドン(80キロ、地図で15)だ。どちらもオセチアの歴史では有名な川だ。ソスランの友達と言うのは、そのうちフィアグドン上流の峡谷に瀟洒な家を建設中。今日は何かの宴を張っているそうだ。オセチアに滞在中の2週間はできるだけ多くを見たいと思っていたので、1日目にフェアグドン峡谷を訪れる機会があって、私は大喜びで賛成。

 ソスランは、まず道端の店に入り、彼らへの手土産も含めて大量の食料品を買い、ウラジカフカース市へ寄り、同じく招待されている男性を乗せ、西に向かう。ウラジカフカース市に出入りする道はテレク川に沿った南北の道、カフカ―ス山脈に平行な東西の道が主だ。正確には、テレク川は北北西に向かう。だからテレク川に沿ったウラジカフカースからベスランへの道も北北西に向かっている。また、ベスランへの道と、西のアラギル市へのA162 (旧R297道)との間には北西のアルドン市へむかうR295道がある。ちなみにどの道を通っても出入りには必ず戦没慰霊碑や、戦う兵士、英雄の像、プーチンの顔写真がある。
 西へ向かうR297道は、ギゼリ村を通り、さらにジュアリカウ村を通り過ぎアラギル市でトランス・カフカース幹線道(A164道)と接続し、南オセチアに向かう。しかし私たちはジュアリカウ村で山川フィアグドン川に沿ってR299道に曲がる。南のカフカ―ス山脈から流れてくるフィアグドン川はオセチアの名所の一つクルタチン峡谷 Куртатинское ущельеを作ってオセチア斜面平野へ向かうのだ(そして、アルドン川に合流し、そのアルドンがテレクに合流する)。フィアグドン川のクルタチン峡谷にできた村々はかつてクルタチン共同体だった。(北オセチアのかつての共同体)

 前述のように、北オセチアは大カフカース山脈の分水嶺の北側にあり、国土の南半分は5千メートル級から千メートル級の山地が占める。ちなみに、大カフカ―ス山脈の南麓はグルジア(ジョージア)とアゼルバイジャンが占める。カスピ海から黒海へ1100キロ以上にわたって東西に横たわる大カフカース山脈は、ヨーロッパ最高峰エルブルース山(5642メートル)やオセチアとグルジアの境界にあるカズベック山(5047メートル)を含む主カフカース(分水嶺カフカース)と副カフカース Боковой(標高4千から5千メートル級)、それらを大カフカースとも言うが、それと並行してその北の岩カフカース Скалистый(平均標高1740メートル)、 またその北の牧場(草原)カフカース Пастбищный(平均標高1060メートル)、さらに北の森林カフカース Лесистый(平均標高810メートル)と、ほぼ並行して北へ行くほど次第に低くなっていく。それらの山地を南北に貫いてテレク川とその支流の山川が流れ、峡谷をいくつも作っている。山川が北のオセチア斜面平野に出たところにあるウラジカフカース市、ギゼリ村、アラギル市、ディゴーラ市、チコラ村などを東西に結んで前記の連邦道A162(ウラジカフカース=アラギール)や共和国道R295(ウラジカフカース=チコラ=レスケン)がのびている。それらと交差して峡谷沿いに南北に延び、大カフカ―ス山脈を峠やトンネルで越えてグルジアへ出る連邦道『グルジア軍事道A161』と南オセチア共和国経由グルジアのゴリ市へ出る『トランス・カフカース幹線道A164』(2018年まではロシア部分はR297 とも呼ぶ)がある。ちなみに、南から北へ延びる峡谷同士を東西に結ぶ道はクルタチン峡谷(フェアグドン川)とカルマドン峡谷(ギゼリドン川)を結ぶR299道(ジャウリカウ、ダルガブス、カルマドン、ギゼリ)のほかはない。(昔は車輪が通れない峠道しかなかったが、現在、天候によっては高駆動車なら通れる道はある。何しろそんなところにもかつては山岳村が造られ、今でも数人の住民が住んでいるところもあるから)
 キャニオンで出会った宿敵の話
 ソスランの友達の家はクルタチン峡谷の入り口近くにあるのだが、ソスランは私のために特別に、少し奥のキャニオン・カダルガヴァン Каньон Кадаргаван(*)と言うところに寄ってくれる。フィアグドン川によってクルタチン峡谷が特に深くえぐられた一角が伝説的なカダルガヴァン峡谷と言われているところだ。現代の道はフェアグドンに沿って順調に伸びているが、昔はこの個所で道は途切れていた。川が、険しい岩山をナイフで切ったようにまっふたつに削って流れている、と言い表されている。川は狭く深く、逆巻く急流となっている。崖の高さは60メートル、幅は2−3メートルだそうだ。昔は、山人たちはそれでも絶壁の上をヘアピンカーブの細い径に沿って通っていたそうだ。当時カフカースでは宿敵には必ず血で報復するという習慣だった(実行された犯罪に対して被害者側一族が加害者側に復習するという習慣が犯罪抑止の機能を果たしていた、などというカフカス人もいる)。ある時、この径を敵同士の二人のオセチア人騎士が鉢合わせしそうになった。騎士たちは遠くから敵を認めたが、二人とも血を流したくはなかった。そこで下の道から近付いてきた方の騎士が、高い崖の間の轟音を上げて流れる急流に危険を冒して馬を乗り入れ、敵から遠く離れて岸に上がった。そこへ騎馬の足音がして避けたはずの敵が現れたが、武器を向けられる代わりに手を差し出されたのだ。二人ともが白髪になっていた。一人は危険な急流を渡ったために、もう一人は宿敵が危険を冒して急流を渡っているのを見て心配のあまりに。このように、不屈さと勇気と険しいキャニオン・カダルガヴァンが敵同士を仲直りさせたのだ。別の伝説では、一人の山人が自分の宿敵をここで救った。その宿敵は感謝し、相手を許し、仲直りの印に自分の剣を岩に突き刺した。
(*)キャニオンも峡谷だが、普通は、峡谷はウシェリエ ущельеと言う。キャニオンと言う外来語は、特に深い所を指すらしい。ウシェリエは狭いが平地があり集落ができるが、キャニオンは通行すら困難と解釈できそうだ。
http://otpusk21.ru/russia/kurtatinskoe-ushhele-i-tropa-chudes
キャニオン・カダルガヴァン、
下方の白い流れがフィアグドン川

 現代は安全な高い道路上から深いキャニオン・カダルガヴァンを見下ろすことができるばかりか、もっと近くまで『奇跡の道 тропа чудес』とかいう橋や階段がついた見晴らし台に行ける。しかし、そこへは50ルーブルの入場料を払わなければならない。50ルーブル払うと見晴らし台と岩の間にできた小動物園までも見られる。なぜ、ここに動物園か。はじめに檻に入っている熊を見たとき、たまたまここで保護された動物を飼っているだけなのかと思ったが、豹もいたので、まさか保護されたわけではないだろう。北オセチアの紋章はカフカース山を背景にカフカース豹(ユキヒョウ)が描かれている。だから、それに倣ったのかもしれない。(岩の隙間を怒涛のように流れる深い急流は豹のようだ、というのかも)。天井がわずかに開いたトンネルのなかを、両壁にぶつかりひしめきながら入っていく流れだった。
 キャニオン・カダルガヴァンに30分ほどはいた。ソスランの友達は、早く目的の家に行こうとせかす。もうとっくに羊は屠殺して宴会は始まっているから、と言う。
 オセチアの宴
 私たちはクルタチン峡谷を5,6キロも戻り、砂利のわき道に入った。フィアグドンの左岸支流でできた小さなカルツァ渓谷だ。5,6キロほどこの砂利道を行ったところにあるのがゴールヌィ・カルツァ(山岳カルツァ*)村だ(別ページの詳細地図では31)。 
 *カルツァ(山岳とはつかない)区と言うのがウラジカフカース市内の西にある。市内に含まれているが、オクチャブリスコ村に近い。現在の(新)カルツァ区もオクチャブリスコエ村も、1944年まではショルヒШолхиと言ってイングーシの村だった。
http://onkavkaz.com/news/1235-novaja-draka-v-karca-minnac-ingushetii-ne-skryvaet-vozmuschenija-deistvijami-osetinskoi-policii.html
 オセチアでは同じ名前で前綴りに「山岳」とか「上」とか「古」とかつく地名が多い。たとえば、サニバと古サニバなど。これは19−20世紀に生活に不便な山岳地帯にあるサニバ村から平地に、ほぼ村ごと移ってきたからだ。新しいサニバは新サニバと言ったが、そのうち新が抜け、もとのサニバは山岳サニバ(古サニバ)といわれるようになった。カルツァも新カルツァからは『新』が抜け、元のカルツァには『山岳』と付くようになった。

 現在、ゴールヌィ・カルツァ村には40人ほどのオセチア人のみが住む。クルタチン峡谷の入り口に近く、首都のウラジカフカースに比較的近いので観光地になりつつある。私たちをお客に招いてくれたソスランの友達カズベック(5021メートルのオセチアとグルジアの国境にあるカズベック山の名からとった名の男子は多い)と言うのは、自宅兼瀟洒なゲストハウスを建設中だったのだ。(小金のある人は大きめの自宅を建て、需要に応じてゲストハウス業も営む)。夕方5時半ごろ私たちは到着したのだが、すでに長いテーブルを囲んで十数人の老若男女が座っていた。この席順にはカフカースの決まりがあって、男性は上座、女性は下座、子供も下座、この家の主人は最も上座のテーブルの短辺、その横の長辺が一番の客、その向かいが2番の客、一番の客の隣が3番の客と言う順だ。男性の最後尾が終わると女性の上席が始まる。夫婦で並んで座りたいときは夫が男性の下座、妻が女性の上座に座るといい。この宴に成人男性は7人ほどいた。子どもの数はわからない。テーブルの上にはぎっしりと料理の皿が並び、私が座ると、すぐに小皿に取ったピロシキなどやコップが前に置かれた。テーブルの上にはピロシキやサラダの皿の他に、お酒の瓶やミネラル水のペットボトル、マヨネーズやケチャップのチューブが樹立している。このチーズや肉、野菜などが入ったオセチア・ピロシキ(パイ、パンケーキ)というのが有名らしい。オセチア・チーズというのも、モスクワでは特別に売られているくらい有名らしい。
テーブルの上座(男性のみ)
主人が犠牲動物の耳を切り取る

 宴会と言うのは一度座ったら勝手に帰ってはいけない。10時ごろまでそこにいた。みんなしゃべっては食べては飲み、飲んでは食べて話している。飲むときは必ず誰かが乾杯の辞を述べる。その順番もきっと席順の通りだろう。子どもは食べると席を離れ、子供同士で遊ぶのか、また戻ってきて食べる。数人の青年もいる。彼ら同士で離れて固まっている。ギターを抱え常に演奏している中席くらいに座っている男性がいる。ミュージシャンとして招待されたのか、音楽好きの客なのか。
 宴もたけなわのころ、皿に盛った牡羊の頭部が運ばれてくる。後で教えてもらったことだが、オセチア(カフカース全体かもしれない)の習慣で、犠牲動物、つまり捧げものの家畜は牡牛であったり牡羊であったりするが、豚は絶対にいけない。儀式用の犠牲動物の血液は飲んではいけない。頭部は年長者、最も敬意を払われる人物、つまりこの家の主人が食べる。しかし耳は切り取られ、3切れに切り分けられ、末席に座っている年少者に与えられる。年少者は席から立って感謝の言葉を述べ、座って食べる。これは年少者が年長者のことを聞く、つまり従うということを表しているとか。
 この日はこの家の息子の誕生日、たぶん成人になった誕生日のようだった。耳を食べたのも彼と、弟だったようだ。小さな弟は嫌がっていたが、周りの女性からまねだけでもしなさいと言われていた。

 ゴールヌィ・カルツァ村へはフィアグドンの支流に沿って道がある(前記、カルツァ峡谷)。家々はその1本の道路に沿ってあり、家の終わるところで道路も終わる。(追記:2017年さらに奥まで行ってみる。カルツァ川の上流には素晴らしい滝があった)。家々の裏手は山の斜面か、その向かいの家では川だ。間口の広さは決まっているが奥行は好きなだけ入り込んでもよさそうだ。利用できる分はどれだけでも自分の占有地になるのだろう。しかし山の向こう側は、また別の峡谷でそこはまた別の持ち主がいる。(または、もっと高い山で生活の場にはならない)。
 この家の道路を挟んだ向かいには古い小屋が建っていて、裏が川になっている。周りの草地には何頭もの牛が寝そべっていた。こちらの持ち主は観光用ゲストハウスを建てようとは思っていないようだ。
 10時近くなって、やっと終わりかけた。ソスランは私だけでなく、何人かの出席者をウラジカフカースまで送っていくことになり、ジャガーには定員オーバーで乗った。後ろの席に詰めて乗っていた私はうつらうつらとしてしまう。
 ウラジカフカースのアスラン・ジオフ宅に着いたのは11時過ぎだった。ウルイマゴフさんからメールで紹介されている40代のアスラン(元美術教師、失業中)、その母のクララ(元薬剤師。年金受給)と父のルスラン(軍事学校学部長退職。年金受給)、長男の専門学校生ヘータグ Хетагが早くから待っていたらしい。クララとルスランの次男(長男がアスラン)のソスランに連れられてカルツァへ行っていたが、アスラン宅でもご馳走を作って待っていてくれたのだ。
HOME  ホーム トゥヴァからペテルブルク 北ウラルからペテルブルグ BACK 前のページ ページのはじめ NEXT 次のページ