クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 19 April, 2017 (追記 5月25日)
2016年 北カフカス(コーカサス)からペテルブルク (1)
    北オセチア・アラニア共和国
        2016年8月20日から9月4日(のうちの8月20日)

Путешествие по Северному Кавказу и Петербурге, 2016 года (20.8.2016−05.9.2016)

1部)8月2日から8月10日 トゥヴァからサンクト・ペテルブルク
2部)8月11日日から8月20日 コミ共和国の北ウラルからサンクト・ペテルブルク
3部)8月20日から9月5日 北カフカスのオセチア・アラニア共和国からサンクト・ペテルブルク
1) 8/20 北オセチア共和国(カフカス地図、歴史地図) ベスラン着 北オセチアの地理と自動車道 峡谷で出会った宿敵 オセチアの宴
2) 8/21-8/23 アスラン宅 ウラジカフカス市 アレクサンドロフスキィ大通り テレク川岸 ロシアとオセチア 南オセチア共和国
3) 8/24-8/25 ウラジカフカスの芸術家たち 峡谷のオセチアへ(南東部地図) 納骨堂群の丘 氷河に呑まれた村(共同体地図) グルジア軍事道(イングーシ地図)
4) 8/26 イングーシ通過 チェチェンに グローズヌィの水浴場 復興グローズヌィとチェチェンの心 プーチン大通り
5) 8/27-8/28 オセチア斜面平野(南西部地図) 正教とイスラム ディゴーラ共同体 カムンタ村着 過疎地カムンタ村 ミツバチ
6) 8/29-8/31 マグカエフ宅 ザダレスクのナナ 失われたオセチア、ドニファルス ネクロポリス ガリアト村 テロには巻き込まれなかったが
7) 9/1-9/3 スキー場ツェイ オセチア軍事道 カバルダ・バルカル共和国へ 保養地ナリチク市 ウラジカフカスの正教会 再びグルジア軍事道
8) 9/4-9/5 サンクト・ペテルブルク イングリア フィンランド湾北岸の地 コトリン島の軍港クロンシュタット モスクワ発成田
ロシア語のカフカスКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スとも聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus
 2016年8月2日に成田を発ち、クラスノヤルスクからトゥヴァの古墳発掘現場を回り、8月11日にはウラル山脈北のコミ共和国を訪れた。8月17日から20日までのサンクト・ペテルブルクでは双子の姉妹に案内されて観光地を回り、8月20日カフカス(コーカサス)北麓中央の北オセチア・アラニア共和国へ行くことになる。
 前編『トゥヴァらペテルブルク』、『コミ共和国の北ウラルからペテルブルク』の続き
 カフカース(コーカサス)山脈北麓の北オセチア‐アラニア共和国
 カフカース山脈は、西が黒海から東はカスピ海までほぼ東西(より正確には西北西から東南東)に1100キロにわたり、幅は最大180キロで、ヨーロッパ最高峰のエリブルスЭльбурс山(5642m)もここにある。カフカース山脈とその南北の山麓とそれに続く平野をカフカース地方と言う。北麓を含め北へ広がる平野は北カフカスПредкавказьеと言ってロシア連邦領、南はトランス・カフカースЗакавказье(カフカースの向こう側というロシア中心の命名)で、ジョージア(ロシアではあくまでグルジアとよぶ。ジョージア・グルジアの主権の及ばないアブハジア共和国と南オセチア共和国を含む)、アゼルバイジャン、アルメニアが位置する。
グルジア内の(9)はアブハジア共和国、(11)は南オセチア
共和国,(9)はアブハジア共和国。(10)はアジャリア
自治共和国。アゼルバイジャン内の(8)はナゴルノ・
カラバフ共和国。
(9)(8)(11)は国際的に主権国家と認められていない。
 ロシア連邦内の北カフカス(*)にはアゾフ海と黒海に面したクラスノダール地方
クラスノダール地方に全方向を囲まれたアディゲ共和国(1)
カラチャイ・チェルケス共和国(2)
カバルダ・バルカル共和国(3)
北オセチア・アラニア共和国(4)
イングーシ共和国(5)
チェチェン共和国(6)
ダゲスタン共和国(7)
スタヴローポリ地方の9地域がある。そのうち7共和国はかつてソ連時代の自治共和国だったが、現在ロシア連邦構成主体となっている。
   (*)北カフカス クラスノダール地方や同地方に囲まれたアディゲ共和国は、歴史的には北カフカ―スであるが、現在、ロシア連邦カフカス管区には含まれず、南ロシア管区に入っている。(現在ロシア連邦はウクライナと係争中のクリミア連邦管区を含め9連邦管区に分かれ、大統領全権代表が派遣され、連邦構成主体を監督しているそうだ)。

 カフカスでは言語も印欧語族ではスラヴ語派のロシア語、イラン語派のオセチア語、アルメニア語派などがあり、カフカス諸言語ではグルジアのカルトヴェリ語族、アブハズ・アゲィゲ語族、ナス・ダゲスタン語族などがある(イングーシ、チェチェンなどはナス語系)。また、テュルク諸言語系のオグズ語群(アゼルバイジャンなど)、キプチャック語群(カラチャイ人、バルカル人など)などあって、狭い地域に種々の民族がモザイク状に点在する。そのカフカス山脈北麓の中央にあるのが北オセチア‐アラニア共和国(1996年までは北オセチア共和国)だ。
4世紀、アラン人の移動 
黄色はゲルマン人の民族大移動前後の
アラニ人の居住地 赤い矢印は移動経路
409−426年スペインにあったアラン王国(ピンク)
526年の北アフリカと地中海の
ヴァンダル・アラン王国(ピンク)
水色は10-12世紀、アラニア(アラン人の国)
の範囲。黒線は現在の北オセチアと南オセチア。
*アラニアの首都マガス(?) 
**Durdzuki Kists(チェチェン人や
イングーシ人の祖先のナス語族)

 現在の北オセチア一帯の地は、青銅器時代は精巧な装飾品や武器などで有名なコバン文化が栄え、鉄器時代初期には、カフカス山麓北を含むユーラシアの草原地帯はスキタイ人の遊牧地となる。紀元前4世紀から紀元後4世紀ごろには中央アジアから東ヨーロッパはスキタイの一派でイラン系のサルマタイが遊牧するようになった。紀元1世紀ごろにはサルマート人(サルマタイ)のアオルサイ族などが、連合してアラン人と呼ばれ、現在のオセチアやその北の草原地帯をテリトリーとしていた。4世紀の民族移動時、アラン人はゲルマン人とともに西ヨーロッパ、イギリス、北アフリカへと移動し、フランスやスペインにアラン人の国家を作った。北アフリカと地中海のヴァンダル・アラン国(435−534)は長く勢力を保ったが、東ローマに滅ぼされた。ヨーロッパ各地にアラン人に関する遺跡や地名が残っている。
 6−13世紀にはカフカス北麓に残ったアラン人は強力な国を作り、9世紀には、カスピ海のハザール・カン国、ウクライナのキエフ候国、東ローマ帝国と並んでいたが、13世紀モンゴルに征服され、首都マガスを始めとする諸都市は打撃を受けた(*)。14世紀タメルラン(びっこのティムールの意、1337-1405)の侵入でアラン人は壊滅し、豊かな山麓平野を失い、険しい山岳地方の狭い峡谷に去った。
 15,16世紀、峡谷ごとに5つの村落共同体обществоからなる部族連合を形成した。また、一部のアスィ人(オセチア人、後述)はカフカス山脈を越えて南下し、現在の南オセチアの領域に入って峡谷ごと6つの小村落共同体を立てた。山岳地帯に入った彼らは民族統一国家を打ち立てることはなかった。
 18世紀後半には、カフカスに進出しようとするロシア帝国に併合されたが、険しい峡谷から出て、当時カバルダ候国の勢力下だった山麓平野(オセチア斜面平野)に広がることができ、現在の北オセチアは、ロシア帝国テレク州の一部となった。ロシア革命後、オセチア人が近世以来(ロシア帝国に合併後)住んでいた中央カフカ―ス山脈北麓とオセチア斜面平野に、1924年ソ連邦の北オセチア自治州ができ、それが、1936年ソ連邦北オセチア自治共和国になり、1993年ロシア連邦北オセチア共和国となった。中世、北カフカースに大国アラニア(アラン王国)をつくったアラン人が、現在のオセチア人の祖先とされていることから、1996年北オセチア‐アラニア共和国と改名。
 一方、南麓では1922年グルジアに南オセチア自治州ができたが、1990年解消され、ツヒンヴィル区となった。グルジアとの民族対立などで、1991年以来南オセチア共和国として事実上独立している。(グルジアの主権は及ばないが、国際的にはロシア連邦など一部にしか認められていない)。

 オセチア、オセチンとはロシア語にグルジア語から入った言葉で、アラン人の一部の自称アスィからグルジア人はオシまたはオヴシ≪оси≫, ≪овси≫と呼び、グルジア語の語尾エチ≪-ети≫が付き、≪Осети≫となり、ロシア語でオセチアとなった。もっとも、自称としては中世のアスの名は失われ、オセチア人のオセット語(オセチア語)による自称はイロン(Iron、東部と中部オセチア)、あるいはディゴロン(Digoron、西部オセチア)である。イロン人とディゴロン(ディゴーラ)人はオセチアの中のサブエトノスと言える。イロン方言を話す人が多いせいか、オセチア(国)をイリストンとオセチア人は呼ぶ。1921年山岳自治ソヴィエト社会主義共和国ができた時は短期間ではあるが、ディゴールとオセチアは別の地区だったことさえあるが。(地名をオセチア、住民と言語をオセット人、オセット語と言うこともあるが、本稿ではすべてオセチアと表記)
(*)これ以来アラン人(アスィ人と中世には呼ばれていた。前述)はモンゴルの支配下に入り、モンゴルの支配を嫌って逃亡した若干のアス人はハンガリーに逃げ込んで同地でヤース人と呼ばれる民族集団になった。ヤース人はその後ハンガリー人への同化が進み、現在はハンガリー人の一部と考えられている。 
 また、アスィ人の一部は降伏してモンゴル軍に加えられるとそのまま中国に移住し、元に仕えるアスト人親衛軍を構成した。「アスト」は「アスィ」のモンゴル語による複数形である。メルキト部出身のモンゴル人将軍バヤンに率いられたアスト人親衛軍は元朝治下のモンゴル高原で行われた数多くの戦争で大きな戦果をあげ、南坡の変(中国語版)に代表される14世紀前半に頻発した後継者争いを巡る政変において重要な役割を負うことになる。こうして中国でモンゴル人の遊牧民と同化していったアストの人々は1368年に元が中国を放棄してモンゴル高原に帰るとこれに従って高原の遊牧民の一集団となり、長らくモンゴル民族の中の部族名としてアストの名が残った。例えば、15世紀前半にモンゴルのハーンを擁立してオイラトと熾烈な争いを繰り広げた有力部族長として、アスト部族のアルクタイという者の名が伝わっている。
 ヨーロッパやビザンチンへも多くのアラン人は避難した。(ウィキペディアから)
 オセチアの首都ウラジカフカスの空港ベスラン着
 8月20日(土)。前夜(まだサンクト・ペテルブルク滞在)と言うより、今朝3時を回ってから寝たのだが、8時過ぎには起きなければならない。11時10分発のユーティ・エアー航空のサンクト・ペテルブルクのプルコヴォ空港から、ウラジカフカス行飛行機(毎週の土曜1便しかない)に乗らなければならない。
搭乗口から飛行機へのバス内

 プルコヴォ空港のウラジカフカス行き搭乗口近くには、やはり、カフカス系容貌の乗客が集まっていた。初めて行くところであり、会ったこともない人が迎えてくれ、会ったこともない人の家に逗留することになっているので、かなり不安だった。だから、計画を立ててくれたウルイマゴフさんや、彼が紹介してくれたルスラン(未知、工芸家)やアスラン(未知、グラフィック作家)には確認のショート・メールを数回は打っておいた。空港に迎えてくれるのはアスランの兄弟のソスランだという。空港で彼をどうやって見つけるのか。「心配ご無用、小さな空港です。ソスランの方があなたを見つけます」と言う返事。
 プルコヴォ空港離陸からから3時間後、ウラジカフカス空港に到着。ウラジカフカス空港と言う名だが、実際はウラジカフカス市から16キロ北のベスラン市の近くにある。ベスランは2004年に学校占拠事件で386人もの死者を出した。ベスランの人口は37,000人で、40,000人のモズドク市に次いで共和国では第3位。ベスランは東のイングーシ共和国の国境から10キロしか離れていない。首都ウラジカフカス市の人口は30万人余。
 確かに小さな空港だった。荷物を受け取ろうとターン・テーブルに向かうと、私の携帯が鳴って、それはソスランからだった。ターン・テーブルに私のトランクが現れた頃、きょろきょろしていた私と目が合ったのは重役風の男性だった。未知のお互いがお互いを見つけた形だ。空港前広場のソスランの車に向かう。白のセダンで、私が乗ろうと助手席のドアを開けると、ステップに『JAGUAR』とロゴがあった。中古とはいえ、私はジャガーに乗るのは初めてだ。彼はランクルも持っているが、それは故障中だとのこと。故障中とは言え、中古とは言え、ここではスターテス・シンボルのような車を運転するソスランは羽振りが悪くないのかな。
 空港からウラジカフカスまでの十数キロは、立体交差もある新しい広い道だった。町に近づくとあの独特の目線のプーチンの写真と“ВЕРИМ(『私たちは彼を信頼する』の意か)”の文字の入った大きな看板が目立った。
 ソスランは私に飛行機で疲れているかと聞く。いや、夜中に跳ね橋を見て少し寝不足だが、まだ午後4時前、疲れてはいない。ではフィアグドンにある彼の知り合い宅へお客に行こう、と提案される。実は2週間のオセチア滞在のだいたいの予定をウルイマゴフさんは立ててくれたのだが、それは、
「到着したらアスラン・ジオフ宅へ案内します。彼の両親ルスランとクララもあなたを待っています。そこで26日まで滞在し、市内観光や、ダルガウス、ツェイ、アルホンへも足を延ばしてください。アルホン村は私の友人が住んでいて、とても美しいところです(追記。これだけはできなかった)。それから、ディゴーラ峡谷のカムンタ村に案内します。そこでルスラン・バグラエフが修復している家で過ごしてください。ディゴーラ峡谷には興味深いところが多いです。9月2日には、ルスランがあなたをウラジカフカスまで送ります。9月3日の出発前に一休みしてください」と言うものだった。
 北オセチアの地理と道路 
1.ウラジカフカス市 2.マズドック市 3.ベスラン市 4.アラギール市 5.アルドン市 6.エリホトヴォ村 7.ディゴーラ市 8.チェルメン村 9.ジゼリ村 10.チコラ村 11.テレク川 12.アルドン川 13.ウルッフ川 14.フィアグドン川 15.ギゼリドン川 
16.ナルザニ市 17.マガス市 18.ナリチク市 19.ジュアリカウ村 20.レスケン村 21.コバン村 22.ヴァルフニィ・フェアグドン村 23.ミズール村 24.(山岳)カルツァ村 25.ダルガウス村 26.(古)サニバ村 27.オクチャブリスコ村 28.カムンタ村 29.ゲナルドン川 30.ロック・トンネル

A161道ーー1のからテレク川沿いにカフカス山脈を越えてグルジアのトビリシ市へ向かうかつての『グルジア軍事道』。現在国境までの33キロ。
A162 (旧297) 1から4へ。4でA 164とつながる。
R217道『カフカス』ーークラスノダール地方から、18、6、3の近く,16とチェチェンのグローズヌィを通り、アゼルバイジャンとの国境までの1118キロ。
A164 『トランスカム』ーー2018年までロシア部分はR297ともいう。6の近くから4と30を通り、南オセチアのツヒンヴィリを通ってグルジアのゴリ市まで。現在はツヒンヴィリまで。
 北オセチア・アラニア共和国の面積は7,987平方キロ、(参考、静岡県は7,780平方キロ)。人口は70万と小さな共和国だ。ロシア連邦構成主体は、クリミア共和国とセヴァストーポリ連邦市を含めると85になるのだが、そのうちの3個の連邦市(モスクワ市、サンクト・ペテルブルク市、セヴァストーボリ市)を除くと、最も面積の小さいのはイングーシ共和国(3,628平方キロ)、次に小さいのはアディゲア共和国(7,792平方キロ)。次はこの北オセチア、同じく北カフカスのカバルダ・バルカル共和国(*)がその次、カラチャエフ・チェルケス共和国がそれに続き、その次の次がチェチェン共和国だ。カフカス山脈北麓のロシア連邦内共和国は小さな共和国に分かれ、同じ民族が別名で呼ばれて別れさせられたり、異なる民族と同じ共和国を作らされたり、同化されたり、中東などに移住して少数しか残っていなかったりする複雑な民族事情だ。。
(*)カバルダ・バルカル共和国  カフカス系のカバルダ人(Кабардинцы)とテュルク系のバルカル人(Балкарцы)の民族自治共和国で、オセチアの西にあって、同じく大カフカ―ス山脈の分水嶺の北にある(上の地図の3)。(カバルダ・バルカルの首都ナリチクについては後述)。バルカル人はティルク化してしまったアラン人の末裔と言われる。

 北オセチア共和国の南方は大カフカス山脈脈の分水嶺になっていて、共和国内はテレク川(623キロ)とその支流のウルフ川урух(第2音節に力点があるのでウルッフとも聞こえるが、オセチア語の発音ではイラフИраф川。104キロ)やウルスドン(48キロ)、とアルドン(102キロ)などが流れている(*)。南に大カフカス山脈が東西にわたって横たわっているので、川はほぼ南から北に峡谷を作って流れる。流れ出たところがオセチア斜面平野でその北にスンジェン丘陵Сунженский хребетがあり、流れを止めるが、エリホトヴォに切れ目(エリホトヴォ門Эльхотовские ворота)があって、南からの流れ、つまりアルドンの支流などのすべての流れがこの直前にテレク川に合流して、狭い門を通り抜け北へ向かう。出たところはカバルダ・バルカル共和国だ。
(*)『ドン』はオセチア語で川・水の意だから、たとえば、ウルスドン川は『ウルス川川』と冗語になる。ちなみにロシア語地名から日本語地図にも乗っているドン川もドナウ川もドニエプル川もドニエストル川も冗語だ。本稿では、ロシア語地名に従って、(冗語になるが)語尾に「川」をつける

 エリホトヴォの切れ目を通る直前に、アルドンに合流してくる支流とはフィアグドン(75キロ)とギゼリドン(80キロ)だ。どちらもオセチアの歴史では有名な川だ。ソスランの友達と言うのは、そのうちフィアグドン上流の峡谷に瀟洒な家を建設中。今日は何かの宴を張っているそうだ。オセチアに滞在中の2週間はできるだけ多くを見たいと思っていたので、1日目にフェアグドン峡谷を訪れる機会があって、私は大喜びで賛成。

 ソスランは、まず道端の店に入り、彼らへの手土産も含めて大量の食料品を買い、ウラジカフカス市へ寄り、同じく招待されている男性を乗せ、西に向かう。ウラジカフカス市に出入りする道はテレク川に沿った南北の道、カフカ―ス山脈に平行な東西の道が主だ。正確には、テレク川は北北西に向かう。だからテレク川に沿ったウラジカフカスからベスランへの道も北北西に向かっている。また、ベスランへの道と、西のアラギル市へのA162 (旧R297道)との間には北西のアルドン市へむかうR295道がある。ちなみにどの道を通っても出入りには必ず戦没慰霊碑や、戦う兵士、英雄の像がある。
 西へ向かうR297道は、ギゼリ村を通り、さらにジュアリカウ村を通り過ぎアラギル市でトランス・カフカース幹線道(A164道)と接続し、南オセチアに向かう。しかし私たちはジュアリカウ村で山川フィアグドン川に沿ってR299道に曲がる。南のカフカ―ス山脈から流れてくるフィアグドン川はオセチアの名所の一つクルタチン峡谷Куртатинское ущельеを作ってオセチア斜面平野へ向かうのだ(そして、アルドン川に合流し、そのアルドンがテレクに合流する)。フィアグドン川のクルタチン峡谷にできた村々はクルタチン共同体という。

 前述のように、北オセチアは大カフカス山脈の分水嶺の北側にあり、国土の南半分は5千メートル級から千メートル級の山地が占める。ちなみに、大カフカ―ス山脈の南麓はグルジア(ジョージア)とアゼルバイジャンが占める。前記のように、カスピ海から黒海へ1100キロ以上にわたって東西に横たわる大カフカス山脈は、ヨーロッパ最高峰エルブルース山(5642メートル)やオセチアとグルジアの境界にあるカズベック山(5047メートル)を含む主カフカス(分水嶺カフカス)と副カフカースБоковой(標高4千から5千メートル級)、それらを大カフカスとも言うが、それと並行してその北の岩カフカスСкалистый(平均標高1740メートル)、 その北の牧場カフカスПастбищный(平均標高1060メートル)、さらに北の森林カフカスЛесистый(平均標高810メートル)と、ほぼ並行して北へ行くほど次第に低くなっていく。それらの山地を南北に貫いてテレク川とその支流の山川が流れ、峡谷をいくつも作っている。山川が北のオセチア斜面平野に出たところにあるウラジカフカス市、ギゼリ村、アラギル市、ディゴーラ市、チコラ村などを東西に結んで前記の連邦道A162(ウラジカフカス‐アラギール)や共和国道R295(ウラジカフカス‐チコラ‐レスケン)がのびている。それらと交差して南北に延び、大カフカ―ス山脈脈を峠やトンネルで越えてグルジアへ出る連邦道『グルジア軍事道A161』と南オセチア共和国経由グルジアのゴリ市へ出るへ出る『トランス・カフカース幹線道A164』(2018年まではロシア部分はR297 とも呼ぶ)がある。ちなみに、南から北へ延びる峡谷同士を東西に結ぶ道はクルタチン峡谷(フェアグドン川)とカルマドン峡谷(ギゼリドン川)を結ぶR299道(ジャウリカウ、ダルガブス、カルマドン、ギゼリ)のほかはない。(車輪が通れない峠道なら、もちろん昔からある)
 キャニオンで出会った宿敵
 ソスランの友達の家はクルタチン峡谷の入り口近くにあるのだが、ソスランは私のために特別に、少し奥のキャニオン・カダルガヴァンКаньон Кадаргаван(*)と言うところに寄ってくれる。フィアグドン川によってクルタチン峡谷が特に深くえぐられた一角が伝説的なカダルガヴァン峡谷と言われているところだ。現代の道はフェアグドンに沿って順調に伸びているが、昔はこの個所で道は途切れていた。川が、険しい岩山をナイフのように真ふたつに削って流れている、と言い表されている。川は狭く深く、逆巻く急流となっている。崖の高さは60メートル、幅は2−3メートルだそうだ。昔は、山人たちはそれでも絶壁の上をヘアピンカーブの細い径に沿って通っていたそうだ。当時カフカスでは宿敵には必ず血で報復するという習慣だった。ある時、この径を敵同士の二人のオセチア人騎士が鉢合わせしそうになった。騎士たちは遠くから敵を認めたが、二人は血を流したくはなかった。そこで下の道から近付いてきた方の騎士が、高い崖の間の轟音を上げて流れる急流に危険を冒して馬を乗り入れ、敵から遠く離れて岸に上がった。そこへ騎馬の足音がして避けたはずの敵が現れたが、武器を向けられる代わりに手を差し出されたのだ。二人ともが白髪になっていた。一人は危険な急流を渡ったために、もう一人は宿敵が危険を冒して急流を渡っているのを見て心配のあまりに。このように不屈さと勇気とキャニオン・カダルガヴァンが敵同士を仲直りさせたのだ。別の伝説では、一人の山人が自分の宿敵をここで救った。その宿敵は感謝し、相手を許し、仲直りの印に自分の剣を岩に突き刺した。
(*)キャニオンも峡谷だが、普通は、峡谷はウシェリエущельеと言う。キャニオンと言う外来語は、特に深い所を指すらしい。ウシェリエは狭いが平地があり集落ができるが、キャニオンは通行すら困難。
http://otpusk21.ru/russia/kurtatinskoe-ushhele-i-tropa-chudes
キャニオン・カダルガヴァン、
下方の白い流れがフィアグドン川

 現代は安全な高い道路上から深いキャニオン・カダルガヴァンを見下ろすことができるばかりか、もっと近くまで『奇跡の道тропа чудес』とかいう橋や階段がついた見晴らし台に行ける。しかし、そこへは50ルーブルの入場料を払わなければならない。50ルーブル払うと見晴らし台と岩の間にできた小動物園までも見られる。なぜ、ここに動物園か。はじめに檻に入っている熊を見たとき、たまたまここで保護された動物を飼っているだけなのかと思ったが、豹もいたので、まさか保護されたわけではないだろう。北オセチアの紋章はカフカス山を背景にカフカス豹(ユキヒョウ)が描かれている。だから、それに倣ったのかもしれない。岩の隙間を怒涛のように流れる深い急流は豹のようだ、というのではない。天井がわずかに開いたトンネルのなかを、両壁にぶつかりひしめきながら入っていく流れだった。
 キャニオン・カダルガヴァンに30分ほどはいた。ソスランの友達は、早く目的の家に行こうとせかす。もうとっくに羊は屠殺して宴会は始まっているから、と言う。
 オセチアの宴
 私たちはクルタチン峡谷を5,6キロも戻り、砂利のわき道に入った。フィアグドンの左岸支流でできた小さなカルツァ渓谷と言う。5,6キロほどこの砂利道を行ったところにあるのがゴールヌィ・カルツァ(山岳カルツァ*)村だ。 
 *カルツァ区と言うのがウラジカフカス市内の西にある。市内に含まれているが、オクチャブリスコ村に近い。現在の(新)カルツァ区もオクチャブリスコエ村も、1944年まではショルヒШолхиと言ってイングーシの村だった。
http://onkavkaz.com/news/1235-novaja-draka-v-karca-minnac-ingushetii-ne-skryvaet-vozmuschenija-deistvijami-osetinskoi-policii.html
 オセチアでは同じ名前で前綴りに「山岳」とか「上」とか「古」とかつく地名が多い。たとえば、サニバと古サニバなど。これは19−20世紀に生活に不便な山岳地帯にあるサニバ村から平地に、ほぼ村ごと移ってきたからだ。新しいサニバは新サニバと言ったが、そのうち新が抜け、もとのサニバは古サニバとなった。カルツァも新カルツァからは『新』が抜け、元のカルツァには『山岳』と付くようになった。

 現在、ゴールヌィ・カルツァ村には40人ほどのオセチア人のみが住む。クルタチン峡谷の入り口に近く、首都のウラジカフカスに比較的近いので観光地になりつつある。私たちをお客に招いてくれたソスランの友達カズベック(5021メートルのオセチアとグルジアの国境にあるカズベック山の名からとった名の男子は多い)と言うのは、自宅兼瀟洒なゲストハウスを建設中だったのだ。(小金のある人は大きめの自宅を建て、需要に応じて簡易宿泊、つまりゲストハウス業も営む)。夕方5時半ごろ私たちは到着したのだが、すでに長いテーブルを囲んで十数人の老若男女が座っていた。この席順にはカフカースの決まりがあって、男性は上座、女性は下座、子供も下座、この家の主人は最も上座の短辺、その横の長辺が一番の客、その向かいが2番の客、一番の客の隣が3番の客と言う順だ。男性の最後尾が終わると女性の席が始まる。夫婦で並んで座りたいときは夫が男性の下座、妻が女性の上座に座るといい。この宴に成人男性は7人ほどいた。子どもの数はわからない。テーブルの上にはぎっしりと料理の皿が並び、私が座ると、すぐに小皿に取ったピロシキなどやコップが前に置かれた。テーブルの上にはピロシキやサラダの皿の他に、お酒の瓶やミネラル水のペットボトル、マヨネーズやケチャップのチューブが樹立している。このチーズや肉、野菜などが入ったオセチア・ピロシキ(パイ)というのが有名らしい。オセチア・チーズというのも、モスクワでは特別に売られているくらい有名らしい。
テーブルの上座(男性のみ)
主人が耳を切り取る

 宴会と言うのは一度座ったら勝手に帰ってはいけない。10時ごろまでそこにいた。みんなしゃべっては食べては飲み、飲んでは食べて話している。飲むときは必ず誰かが乾杯の辞を述べる。その順番もきっと席順の通りだろう。子どもは食べると席を離れ、子供同士で遊ぶのか、また戻ってきて食べる。数人の青年もいる。彼ら同士で離れて固まっている。ギターを抱え常に演奏している中席くらいに座っている男性がいる。ミュージシャンとして招待されたのか、音楽好きの客なのか。
 宴もたけなわのころ、皿に盛った牡羊の頭部が運ばれてくる。後で教えてもらったことだが、オセチア(カフカス全体かもしれない)の習慣で、犠牲動物、つまり捧げものの家畜は牡牛であったり牡羊であったりするが、豚は絶対にいけない。儀式用の犠牲動物の血液は飲んではいけない。頭部は年長者、最も敬意を払われる人物、つまりこの家の主人が食べる。しかし耳は切り取られ、3切れに切り分けられ、末席に座っている年少者に与えられる。年少者は席から立って感謝の言葉を述べ、座って食べる。これは年少者が年長者のことを聞く、つまり従うということを表しているとか。
 この日はこの家の息子の誕生日、たぶん成人になった誕生日のようだった。耳を食べたのも彼と、弟だったようだ。小さな弟は嫌がっていたが、周りの女性からまねだけでもしなさいと言われていた。

 ゴールヌィ・カルツァ村へはフィアグドンの支流に沿って道がある(前記、カルツァ峡谷)。家々はその1本の道路に沿ってあり、家の終わるところで道路も終わる。家々の裏手は山の斜面か、その向かいの家では川だ。間口の広さは決まっているが奥行は好きなだけ入り込んでもよさそうだ。利用できる分はどれだけでも自分の占有地になるのだろう。しかし山の向こう側は、また別の峡谷でそこはまた別の持ち主がいる。(または、もっと高い山で生活の場にはならない)
 この家の道路を挟んだ向かいには古い小屋が建っていて、裏が川になっている。周りの草地には何頭もの牛が寝そべっていた。こちらの持ち主は観光用ゲストハウスを建てようとは思っていないようだ。
 10時近くなって、やっと終わりかけた。ソスランは私だけでなく、何人かの出席者をウラジカフカスまで送っていくことになり、ジャガーには定員オーバーで乗った。後ろの席に詰めて乗っていた私はうつらうつらとしてしまう。
 ウラジカフカスのアスラン・ジオフ宅に着いたのは11時過ぎだった。ウルイマゴフさんからメールで紹介されている40代のアスラン(元美術教師、失業中)、その母のクララ(元薬剤師。年金受給)と父のルスラン(軍事学校学部長退職。年金受給)、長男の専門学校生ヘータグХетагが早くから待っていたらしい。クララとルスランの次男のソスランに連れられてカルツァへ行っていたが、アスラン宅でもご馳走を作って待っていてくれたのだ。
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