クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 19 April, 2017 (追記 2017年5月28日, 10月1日、2018年1月23日、2019年12月18日、2021年12月5日)
34-3 (7)   2016年 北カフカース(コーカサス)からペテルブルク (7)
    アルドン川とテレク川
        2016年8月20日から9月4日(のうちの9月1日から9月3日)

Путешествие по Северному Кавказу и Петербурге, 2016 года (20.8.2016−05.9.2016)

1部)8月2日から8月10日 トゥヴァからサンクト・ペテルブルク
2部)8月11日日から8月20日 コミ共和国の北ウラルからサンクト・ペテルブルク
3部)8月20日から9月5日 北カフカースのオセチア・アラニア共和国からサンクト・ペテルブルク
 1) 8/20 北オセチア共和国(カフカース地図。歴史地図) ベスラン着 北オセチアの地理と自動車道 峡谷での宿敵 オセチアの宴
 2) 8/21-8/23 アスラン宅 ウラジカフカース市 アレクサンドロフスキィ大通り テレク川岸 ロシアとオセチア 南オセチア共和国
 3) 8/24-8/25 ウラジカフカースの芸術家たち  峡谷のオセチアへ(南東部地図) 納骨堂群の丘(共同体地図) 氷河に呑まれた村 グルジア軍事道(イングーシ地図) デュマやレールモントフ時代の区ルシア軍事道
 4) 8/26 イングーシ通過 チェチェンに グローズヌィの水浴場 復興グローズヌィとチェチェンの心 プーチン大通り
 5) 8/27-8/28 オセチア斜面平野(南西部地図) 正教とイスラム ディゴーラ共同体 カムンタ村着 過疎地カムンタ村 養蜂業者
 6) 8/29-8/31 マグカエフ宅 ザダレスクのナナ 失われたオセチア、ドニファルス ネクロポリス ガリアト村 テロには巻き込まれなかったが
 7) 9/1-9/3 スキー場ツェイ オセチア軍事道 カバルダ・バルカル共和国へ 保養地ナリチク市 ウラジカフカースの正教会 再びグルジア軍事道
 8) 9/4-9/5 サンクト・ペテルブルク イングリア フィンランド湾北岸の地 コトリン島の軍港クロンシュタット モスクワ発成田
ロシア語のカフスКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スと聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus
 スキー場ツェイ(地図は南西部地図を)
 9月1日(木)。 本当はこの日までカムンタにいる予定だった。そして9月2日にソスランの車でツェイに行く予定だった。ソスランも8月27日にカムンタに送ってくれるときは、そう約束してくれていた。だが、その9月2日はソスランの都合が悪く9月1日でないとソスランの都合がつかないと言うことだったので、前日の8月31日にアスラン宅に戻っておいたのだ。
 1日は午前中から出発できるようにと私はソスランにSMSメールでも頼んでおいたが、彼が現れたのは1時半で、私たち3人、つまり、私とアスランとアミーナを乗せて、繊維関係の事業とかいう自分の仕事場に寄ってから、アラギル市へ向かう連邦道A161(ウラジカフカースからアラギルまでの38キロ)を走っていたのは2時半だった。この日は雨がちで、遠くの山々が見晴らせなかったのが残念だった。ツェイはオセチアの新旧の名所の一つだ。『新』としては、有名なアルペン・スキー場がある。もちろん、夏場は、ほとんどツーリストはいない。ツェイはオセチア観光の目玉だと日本出発前にネットで調べ、必ずそこへ行くよう頼んでおいたのだ。『旧』としては、歴史的な記念物が集中している峡谷の一つでもある。アルドン川のアラギル峡谷はオセチアでも最も長く、この峡谷に沿っては2つの共同体 Обществоがある。前述のように、東からギゼリドン川岸(とテレク川など)のタガウルス共同体。フィアグドン川のクルタチン共同体、アルドンの上流の山岳地帯に入ったばかりのアラギル共同体、アルドン源流のカフカース山脈中のマミホン川(アルドンの左岸源流)のトゥアリ共同体、イラフ川のディゴーラ共同体だ。さらに、それらの川の支流や谷ごとにサブ共同体がいくつかある。
 アラギル共同体は、かつてはディゴーラ共同体と比べて貧しかったという。だから、サドン峡谷(アルドン左岸)からディゴーラのウアラグコム・サブ共同体(ガリアト村やカムンタ村)へ移住したり、東のタガウルに攻め込んだりしたとか。また、アラギル峡谷を通ってカフカース越えの古代の道がついていた。19世紀のグルジア軍事道の通るダリヤリ峡谷(ロシア帝国が目をつけて整備して車輪も通行できるようになった)と並んでカフカース越えの重要な峠道でオセチア軍事道(下記)と言った。今はそのかつてのオセチア軍事道をもとに作られた連邦道164(延長も164キロ、トランスカフカース道、略してトランスカム)がロック・トンネルを抜け、南オセチアの首都ツヒンヴァルを通り、グルジアのゴリまで通じている(現在、ツヒンヴァルの1キロ先のグルジア国境から先へは特別な許可証なしでは通行できない)。
 ソスランはアスランより2歳年下だが、一家の中では最も幅を利かせているようだった。事業をやっている(休業中だとか)。中古車でもジャガーを持ち、未修理で動かないがランクルも所有している。体格も小柄なアスランと違って大きく堂々として自信ありげに動く。ソスランの方が年上だとみんなが思うそうだ。
 アラギル市からアルドンを遡る連邦道164号線は快適な舗装道で、短いトンネルもいくつかある。左右を山に囲まれた川岸の道を行くと、前方の山の頂上にオセチアで至る所に見かける石造りの塔が見える。ふもとに廃村になった集落があるのだろうか、立派な塔はかつての有力者一家のものだ。
 アラギル峡谷で現在最も大きく、トランスカム道にへばりつくように細長く伸びているミズーリ町(3000人)には鉛亜鉛精錬工場がある。『エレクトロツィンク(ツィンクは亜鉛)』という20世紀初めからの有色金属精錬工場だ(所有者は様々に入れ替わった)。ちなみに、ディゴーラ峡谷の考古学発掘のスポンサーも同社だ。
 事実、ミズール村の背後の山の方へ3.5キロ入ったところに採掘村サドンがある。1886年にベルギーの会社が開発。19世紀、ロシア領になったカフカース山脈中の鉱物資源は華々しく開発され始めたのだ。ファスナル村の鉛亜鉛精錬工場もベルギーの企業だった。ペレストロイカのころにはほとんど閉鎖。『エレクトロツィンク』社は現在『ウラル金属鉱山会社』傘下。(19世紀に注目された『ロシア領カフカース』の地下資源参照)。

 ミズール町から4キロほど行ったところにヌザールと言う古い村があり、旧道に入らなくてはならなったので、ソスランは通過してしまったが、後で調べたところ、ここは野外博物館と言ってもいいくらいの古い村だった。遅くとも13世紀にできたそうだ。ここにはヌザール礼拝堂があり、内部の壁にはフレスコ画が残っている。20世紀半ばに考古学者が床下に棺のある事を発見した。石の棺の中に男性の遺骸が横たわっていた。これは、グルジア女王タマーラの夫のダヴィッド・ソスランかもしれない(出身氏族の墓地に埋葬されたのか)。または、モンゴル襲来の後アラン国を再興しようとしたオス・バガタル Ос Багатар(1291−1306)かもしれない。前記ドニファルス村郊外納骨堂群近くの礼拝堂は、このヌザールの礼拝堂と似ている。
高台から見たブロン村の保安局の建物
スターリン肖像画
森番・地震観測所
今は細い流れのスカズ川。アスランとアミーナ
スターリン肖像画の裏側はオセチアの偉人像

 さらに数キロ行くと500人ほどのブロン村が左に見えてくる。ここで、アルドン川を渡り、左岸支流のツェヤドン(ツェイ氷河からツェイ峡谷を作って13キロ流れ、アルドン左岸にブロン村付近で合流)を遡る道に入るが、坂はかなり急でつづれ折れに上っていく。すると今通ってきた道やブロン村が高みからよく見える。ブロン村には4階建てで屋根が青緑の新しい建物が建っていた。この屋根の色から、連邦保安局の建物とわかる。トゥヴァでもこの色は国境警備隊の哨だった。その周りに同じ規格の新しい建物が整然と並んでいた。隊員の宿舎か。後でわかったことだが、2007年に新たにできた(または整備された)国境警備の詰め所だそうだ。ディゴーラ峡谷のジナガ дзинага村とアラギル峡谷上のザラマグ村、国境のロック・トンネル近くと2007年には4カ所が整備(または新設)されたようだ。(南オセチアとグルジアの紛争に関連して)
 ツェイ峡谷へ入ると坂道は急に険しくなるが、オセチア有数の観光地で『北オセチア保護区』でもあるせいかR297道と言うアスファルト舗装道ができている。10分も登ると、ツェイ村へ入る道がある。地図によると、この道を曲がると、上ツェイ村や下ツェイ村など超過疎化の村が4個ほどあり、石造りの塔や伝統宗教の社もあるようだが行かなかった。実は、アラギル峡谷には、たくさんの歴史的記念物がる。アラギルの一部ツェイ峡谷だけでも多い。しかし、ソスラン運転のジャガーでは、ツェイ峡谷はアスファルト舗装のR297道から出なかったし、無人のアルペン・スキー場にしか行かなかった。
 途中にパーキング・エリアがあって、スターリンの肖像画が見えたのには驚いた。山側の磐の斜面を利用して描かれたものだ。最近は彫像ではなく色彩画に切り替わったのか。ツェイ・アルペン・スキー場に行くツーリストはみな目にするわけだ。今になって、なぜスターリンか、と思う。ソスランに言わせれば、スターリンは偉大だった、ソ連の国力をこれだけ挙げてくれた指導者はいない、と絶賛する。あれだけ粛清して、あれだけ強制収容所を作り、洗脳と恐怖政治を行ってもいいなら、私でも国力を挙げられる、と言いたいくらいだ。一説によると、スターリンはドイツ戦の直前に軍幹部を粛清しすぎたせいか、情勢を見余ったせいか、作戦が拙過ぎて緒戦でドイツに敗北、領土を大きく占領され、何百万の一般市民の命を落とさせるようなことにもなったとか。(スターリンのせいで死んだと言えるかも)
 軍服を着て凛としたスターリン像を過ぎてしばらく行くと、高い木々の森の道に出た。ソスランがキノコ狩りをするからと車を止める。近くに木立に囲まれた一軒家が見えた。佇まいが優雅だったので、アミーナと垣根を越えて庭に入ってみることにした。さらに、家のドアが開いていたので、アミーナと入ってしまった。玄関には子供のおもちゃや三輪車もある。廊下があって、ドアが並んでいたが、アミーナも私もドアは勝手に開ける勇気はなく「こんにちは」と何度も言ってみたが、返事はなかった。外を見ると犬が3匹、家のドアの上り口に寄ってきた。
 ここは森番小屋、地震観測所だった。宿泊施設もある。というのも、森の小径からこちらに近づいてくる男性がいて、教えてくれたのだ。彼はここの職員で、家族も住んでいる。
「今キノコ狩りに行って、ほら、キノコをたくさん採ってきたのだが買ってはくれないか。」と言う。自分もキノコ狩りに行ってあまり採れなかったソスランが200ルーブルで買う。ここに住んでいる地震観測所職員の方がキノコの生えてくる場所を知っているのだ。私は宿泊料金を聞いておいた。
 冬場は有名なスキー場となる
 この道の終点には『アルプス・キャンプ・ツェイ』というアルペン・スキー総合施設があり、その奥にはロープウェイ用の支柱やロープが見える。歩いてみたが、濃い霧がたちこめて近くしか見えない。ここはツェイ峡谷の一部スカズ峡谷 Сказкое ущелье,ущелье Сказдонと言う。カフカ―ス山脈脈のスカズホフ(ホフは山)のスカズ氷河から流れる急流スカズ川(2.5キロ)が作った峡谷で、スカズ川は傾斜が1キロについて20メートル以上の急流だ。ツェヤドンの右岸に合流する地点の高度は1895メートル(だから源の高度2410メートル)。ロープウェイでスカズ氷河まで行けるそうだが、今は稼働していない。
 『アルプス・キャンプ・ツェイ』の背後の尖った石の間の急斜面を今は細く流れているスカズ川が見えたが、あたり一面の霧だった。霧がなければ霊峰モナフ Монах山も見えただろう。
 シーズンオフでも事務所だけは開いていた。カフェでお茶を飲みたいと言うと、一応承知してくれた。客がいないのでカフェも明かりがなく寂しいが、私たちはソスランが買ってくれた板チョコでお茶を飲んだ。
 5時半ごろには元来た道を下っていた。帰りに気が付いたのだが、来るときに目に止まったスターリンの肖像画の描かれた岩板の裏側には、コスタ・ヘテグロフの肖像画が描かれていた。オセチア文学の基礎を築いたヘタグロフはアルドン川の源流ナル川のほとりナル村に1859年生まれた。ちなみに、連邦道164はアラギル峡谷の出口アラギル市から国境のロック・トンネルを越え南オセチアのツヒンヴァルを通り、グルジアのゴリ市まで164キロあるが、終点のゴリ市はスターリンの誕生の地だった。(しかし、前述のように、ツヒンヴァルからの南オセチアとグルジアの国境は2008年8月の紛争以来閉鎖されている)
 ソスランは私の質問に応じて偉大なアラン人について説明してくれる。3世紀(235−238年)の最初のローマ軍人皇帝のマクシミヌス1世(マクシミヌス・トラクス)は属州トラキア出身(最初の蛮族出身皇帝)で父はゴート人、母はアラン人だった。
 5世紀前半ガリア(フランス)のアラン国の王だったゴアルГоар、その後継者サンギバンСангибанが歴史に残っている。ちなみに、フランク族のクローヴィスのメロヴィング朝は5世紀末だ。
 またダヴィド・ソスラン Давид Сослан(?−1207)は中世アラン国の皇子で、グルジア女王タマーラ(1184-1213)の2番目の夫だった(前記、ヌザールの礼拝堂・納骨堂の男性の遺骨はダヴィッドのものともいわれている。(ダヴィドの出身はアラギル共同体だった)。中世グルジア王国は11−13世紀が最盛期で南カフカースの大国だった。タマーラの父で、グルジア王ギオルギ3世の妻で女王タマーラの母はアラン女性だった。ちなみに1892年発見の小惑星は『タマーラ』と言う。グルジア女王タマーラは、一時滅亡したビザンチンが13世紀初めに小アジアにできた亡命政権のひとつトレビゾンド帝国の建国を援助している。
 また、ソスランは5世紀前半フン族のアッチラと戦ったローマの将軍アエティウス Аэцийの母はアラン女性だったと言っているが、後でネットで調べたところ、そうではなさそうだった。しかし、東ローマ皇帝の何人かの母や母方の祖母はアラン国出身だったと出ている。
 オセチア軍事道
 ツェイ峡谷から降りてアルドンに沿う連邦道164に戻る。前記のように、戻ったところがブロン村で、つづれ織りの坂道の上からの眺めた国境警備の哨がある。連邦道164をさらに40キロほど進んでいくと、ロック・トンネルがあるが、そこを抜けると南オセチア共和国だ。ロシア人は ビザなしで南オセチアへ行けるようだが、ロシア・ビザだけを持つ日本人は入国できない。しかし、行けるところまで行ってみたいものだ。せめて、国境まで25キロほどのザラマグ・ダム湖まで行ってみたい、と頼んでみた。ザラマグ・ダム湖もそこまでの道のりも素晴らしい景色のはずだ。
 ジリンドゥアルに残っている
かつての擁壁(ようへき)
オセチア写真集から

ジリンドゥアルに残っている
かつての擁壁(ようへき)

 ブロン村からダム湖までの20キロ弱の連邦道には村がない。と言うのも、カッサル峡谷Кассарское ущельеと言うアルドン川までの深さが1000メートルで傾斜が45度以上もあるような絶壁の谷が続いているからだ。かつては、通行困難カ所だった。ここで南のグルジアに近かったトゥアリ共同体と、北のアラギル共同体が分かれていた。トゥアリ共同体とその南のウルス・トゥアリ共同体はカフカ―ス山脈脈の分水嶺で分かれている。
 現代のカッサル峡谷を行く連邦道にはジリンドゥアルЗилин дуар(歪んだドア・門の意)と言うところにトンネルがある。旧道の方には石壁や見張塔があったそうだ。旧道は1千年紀中頃からの隊商道だったと旅行案内書に書かれている。今でも擁壁(とどめ壁)がのこっている。アルドン川の峡谷に沿った2つの共同体の境界だ。
 私たちは南オセチアへの現代の連邦道を通る。アスランのマンションの3階に住むエルザロフさんが南オセチアへ行く道は天下の絶景だと言っていたが、本当にそうだ。しかし、曇り空だったので厳しい絶勝だった。エルザロフさんは、将来南オセチアが北オセチア同様ロシアに合併されれば、私でも自由に行き来できると言っていた。2008年以来、南オセチアにはグルジアの主権は及んでいない。だからグルジア側から入国するのも難しそうだ。
手前がザラマグ発電所。奥にダム湖。右の山手の道が
オセチア軍事道でトンネルに通じるている。
ダム湖に突き出る半島にはマグカエフ像
ソスラン。ダム湖の向こうにはザラマグ村

 やがて、ザラマグ・ダム湖が見えてくる。発電所は1976年から建設していて、一部は稼働しているが、完成は2018年だそうだ。堤防で止めたダム湖の水を導水トンネル(674メートル)で主要発電所まで流し、さらに(圧力なしの)導水路で、14,226メートル下方のミズーリ村近くの第1発電所まで流す。さらに、ウナル村近くの第2発電所まで流すという複雑な構造の水力発電所だ。
 ザラマグ・ダム湖はアルドンの流れをせき止めてできたくねくねと稜角のある折れ曲がった形をしていて、あまり大きくはない。これより上流のアルドンはナルドン(ナル川)とも呼ばれている。ダム湖がとげとげの多角形をしているのは、南東からのナルドン川(4キロ、それより上流はザッカ川が23キロ)、南西からのマミフドン川、西からのツィムドン川、北西からのアダイコムドン川(10キロ)が流れ込み、それらの川の流入口、つまり、合流点付近の高台が残っているからだ。それら4本の川はアルドンの源流とされる。公式の河川地理ではアルドン102キロはマミフドンを含む。つまりマミフドンはアルドンの最上流と言うことになる。
 アダイコムの合流点付近にはザラマグ村があり、ザラマグ谷を見晴らせる高台には1751年、オセチア代表としてペテルブルクへ行き、エリザヴェータ女帝にオセチアのロシア帝国への合併(1774年形式的に合併)とオセチア人の山岳から平地への移住(の援助)を申し出たズラプ・マグカエフの像が立っている。そこにはかつてマグカエフ家の塔が立っていたそうだ。あまり大きくはないザラマグ・ダム湖だが、水没した遺跡は多い。なぜなら、4本の川が集まってアルドンになるこの谷は、特にアダイコム川の合流点ニジニー(下)ザラマグ付近は石器時代から中世の遺跡が多いからだ。
http://ossetiatourism.ru/doc/Voenno-Osetinskaya_doroga.pdf#search=%27%D0%B7%D0%B5%D0%BC%D0%B5%D0%B3%D0%BE%D0%BD+%D0%B4%D0%BE%D0%BD%27
 連邦道164はアルドン川のアラギル峡谷を登り、ダム湖東岸を通り、そしてその先のナルドン、ザッカドンへと通じているのだが、ダム湖上の展望台に立ってみると、対岸(西岸)にも立派な道がある。それはダム湖の向こう側のアダイコム川辺のザラマグ村を通り、アルドンの本流とされているマミフドンの左岸を登り、カフカ―ス山脈をマミホン峠(2911メートル)で越え、南オセチアを3キロほど通り抜けグルジアの旧都クタイシに通じる19世紀末にできた歴史的な軍事オセチア道だ。始点はアラギル市から20キロほど北の当時鉄道の駅のあったカルジンКарджин(交通の要所エリホトヴォ門の南7キロでもある)で、全距離は275キロ。第2次世界大戦の時と2008年の南オセチア紛争の時は、マミホン峠は重要地点だった。現在はマミホン峠の国境は閉鎖されている。ロック・トンネルで南オセチアに通じる連邦道164(トランスカフカース道)ができた現在、軍事オセチア道路は交通路としての意味を失ったとされる。ザラマグ湖西のマミフドン川谷とアダルコム川谷には現在13の村がありあわせて100人弱の住民が住んでいる。半数以上がヴァルフニ(上)ザラマグ村に住んでいて、マミフドン川谷は、石の塔、城壁の廃墟、つまり、野外博物館となっているらしい。外国人がマミホン川を遡れるのかどうか知らない。この道の入り口のザラマグ村には国境警部の哨がある。

 ダム湖の上の展望台は、この日は風が冷たかった。建設中らしい発電所と、高台に建つマグカエフの像、雲が低くかかっている山々を見て、6時半ごろ、帰途に就いた。
 夕食はツェイ峡谷で採ってきたキノコの料理だった。
 カバルダ・バルカル共和国へ
 9月2日(金)。カムンタから早めに引き上げ、1日にはツェイにも行ったので、この日の予定はなかった。出発は明日だから、今日は、カバルダ・バルカル共和国の方へ行ってみたいと、アスランに頼んでみた。アスランの両親たちはスターリィ(古い)サニバ村に行ったらどうかと勧めてくれた。ギゼリドン峡谷の古サニバは8月24日にダルガヴス(死者たちの町)に行った帰り道で、近くを通り過ぎただけだった。アスラン・ジオフさんたちはサニバ出身だ。大部分のオセチア人は、現在は平地に住んでいるのだが、祖父の代より前には山村に住んでいたのだ。だから、たいていのオセチア人は自分たちの家族の出身村をなつかしむ 。 
 が、オセチア東のナフ語族系チェチェン共和国は見たので、西のアディゲ人(カバルダ人やチェルケス人は同じ歴史を持ち、アディゲと自称)のナリチク市へも行ってみたかった。カバルダ・バルカル共和国首都ナリチクへはウラジカフカースから120キロだ。
 北カフカースは中央にオセチア、西にアブハズ・アゲィゲ語族、東はナフ・ダゲスタン語族が主に住んでいる。北西カフカースは、行政的には、西からクラスノダール地方、同地方に囲まれてアディゲ共和国、カラチャイ・チェルケス共和国、カバルダ・バルカル共和国となり、その北にスタヴローポリ地方があり、ロシアの歴史ではすべてチェルケスと呼ばれ、先住民はアディゲ人と自称する。ソ連時代からアディゲ人は政治的に3つの民族共和国に分断され、おまけにティルク系のバルカル人とアディゲ人が組み合わされてカバルダ・バルカル共和国を作らされたり、同じくティルク系のカラチャイ人といっしょのカラチャイ・チェルケス共和国を作らされたりしている。小さなアディゲ共和国はクラスノダール地方に周囲を囲まれている。
エリホトヴォの戦勝記念碑
オセチア共和国からカバルダ・バルカル共和国へ

 前日に電話してタクシーの予約をした。往復が3000ルーブルで、待ち時間が1時間は無料、それ以上は5分ごとに5ルーブルとか。(結局3760ルーブルだった)。26日にフェアグドンとギゼリドン峡谷を行った時のように道路は険しくなく、すべてアスファルトだ。アスランはナリチクに知り合いがいるはずだが、通じなかったので、自力で観光することになった。
 9時過ぎに予約してあったタクシーが来る。運転手はオレーグと言うロシア人だった。聞いてみるとクリミア生まれだとか。先日の運転手はオセチア人だったのでアスランとオセチア語で話し、私にはちっともわからなかった。(アスランと私との間にオセチア人が入ると、その二人と私は等距離に感ずるが、アスランと私の間にロシア人が入ると、なぜか、そのロシア人がアスランと私との距離の遠さを和らげてくれる、つまりオセチア人のアスランと日本人の私の中間にロシア人の運転手がいるように感ずるのだ。)
 アミーナと3人で出発する。ナリチクへ行くにはウラジカフカースを出ると20キロ北のベスランまで行き、そこで北カフカースを縦断する連邦道R217『カフカース道』(*)に乗り移る。
(*)R217『カフカース道』はモスクワから黒海の重要港ノヴォロシイスクまで1544キロを南北に延びてくる連邦道M4『ドン道』の途中(1200キロの地点、パブロフスカヤ)でつながり、北カフカースを東西に走り、カスピ海のアゼルバイジャン共和国のとの国境まで行く。)
 ベスランの北には140キロにわたって東西に細長にスンジェン山脈(丘陵600以下)がカフカ―ス山脈と平行に走り、カフカースから流れ出たテレク川やその支流を止める。しかし、前述のように、丘陵には切れ目があって、ウルスドンやアルドン、フィアグドン、ゲゼリドンと言った支流はみなそこでテレク川に合流して、その切れ目を通り抜けて北へ流れる。その切れ目がエリホトヴォ門と言い、幹線道路も鉄道もここを通るという要所となっている。古代から重要な場所だったらしく、門の北斜面や南斜面には石器時代からの遺跡が多い。特にズメイナヤ村にはアラン国の遺跡・城塞跡が最近発掘された。
 しかし、考古学遺跡と言っても、アスランもオレーグも知らないが、第2次世界大戦の遺跡にはオレーグは自分から車を止めた。ここで、ソ連軍はドイツ軍を大激戦の末食い止めた、という目立つモニュメントが道路わきに設置してあった。凛々しいソ連軍の4人の兵士の顔と1942と言う年号、『自由と祖国の独立を守り抜いた英雄たちへ永遠の栄光を』と言った文字盤と当時の戦車がかざってあった。祖国の独立か。チェルケス人(アディゲ人)は本当のところどうみなしているのだろう。19世紀カフカース戦争で北カフカースがロシア帝国領となったが、帝国政府によるチェルケス(アディゲ)人の民族虐殺があった、とアディゲ人は主張する。事実だと思う。大部分のチェルケス人は故地を離れ、トルコなど中東に移住した(追放されるか虐殺されるか)。現在チェルケス(アディゲ)人は350万人とされ、そのうち150万人はトルコに住む。ヨルダンに17万人など。カバルダ・バルカル共和国にいるのはたった50万人だ。11万人がアディゲ共和国に、6万人がカラチャイ・チェルケス共和国に、2万5千人がクラスノダール地方に住む。それ以外のロシア全体には1万人いる。
地平線まで続くトウモロコシ畑 の中の私

 エリホトヴォ村を過ぎテレク川を渡りズメイナヤ村を通り過ぎるとすぐ、連邦道はカバルダ・バルカル共和国との国境に出る。高い大きな装飾のないアーチが道路をまたぐように立っていて、カバルダ・バルカル共和国と遠くからもわかるように書かれている。ここでは乗客は降りて、保安局小屋の中の窓口でパスポートを提示しなくてはならない。窓口の職員は、何も言わず顔も上げずにパスポートをちらりと見ただけで返してくれた。
 この先は首都のナリチクまでカバルダ・バルカル平地を行く。一面のトウモロコシ畑だった。ひまわり畑もあった。ところどころ網で囲ったリンゴの果樹園もある。
 保養地ナリチク市
 カバルダ・バルカル共和国の首都ナリチクは19世紀はじめロシア帝国の要塞としてできた町で、現在の人口は24万人。まずは国立博物館へ行くことにしよう。地の人に聞きながら、博物館を探す。バザールの近くに迷い込んだりして、やっと到着。
 博物館は行政府や劇場と同じ、市の中央のゴーリキー公園にある。
バザール近くの街角
町中でよく見かけた『永遠にロシアとともに』
の標語
ソスルーコの像の中はレストラン
鉱泉水浴場
ホテル・サナトリフム区にある石の塔の上で、
運転手のオレーグ、アミーナ、アスラン

 運転手のオレーグは車で待っている。1時間半ほど館内にいた。実はタクシー代が待ち時間のせいで高くなるかと心配していたからだが、もっと丁寧に見てもよかった、8歳のアミーナも飽きてきていた。展示品や説明は、カフカースについてはオセチアのことが少しわかっただけの私には未知のことばかりだった。古代、中世はカフカースでは、現在の国境や地名で区切りがつけにくい。前記青銅器時代のコバン文化はカフカース一帯に普及している。スキタイの影響ももちろんカバルダ・バルカル共和国だけではない。中世は広くアラン国だった。モンゴルやタメルランの征服も北カフカースに共通だ。15世紀までは同じ歴史を持つと言えるかもしれない。同じような歴史だが言語も出身も異なるのか。
 カバルダ・バルカル共和国の山岳地方にいるバルカル人は、近世にティルク化したので、元々はアラン人の末裔、オセチアと同じ印欧語族イラン系のアラン語を18世紀までは話していた、という。別説もある
 カフカ―ス戦争の前後のカバルダ・バルカルも、とても興味深いが、ゆっくりとは説明文を読めなかった。あまりタクシーを待たせられない。
 見終わった後、受付で自分は旅行者だがナリチクはどんなところへ行ったらいいだろうか、と聞いてみた。横にいた女性が、思い出すように場所の名をいくつか言ってくれたが、彼女は用事で国立博物館に来ていた別の博物館の職員だった。私が遠くから来たと知り、書類を届けに共和国庁に戻らなければならないが、車があるのなら、また自分を送り届けてくれるなら案内してあげると言ってくれた。イネッサ・ラジャラエヴァ Инесса Лажо Лажараеваさんと言う。マルコ・ヴォヴチョク Марко Вовчок文学博物館館長だった。マルコ・ヴォヴチョクとはウクライナ女性の詩人文学者らしい。自分の博物館も勧めてくれたが、カバルダ・バルカルでウクライナ文学は次回にしよう。未知のカバルダ・バルカルを未知のヴォヴチョクからはじめてもよかったが。
 ナリチク市を見下ろせる小高い丘キジロフカ Кизиловка(600メートル)へ案内してくれる。ナリチクと言うのは蹄鉄という意味だ。この丘を囲んで半円形に延び広がっているからその名がついたという。丘の頂上付近にはソスルーコ Сосрукоと言うレストランがある。オセチアのナルト叙事詩ではソスランと言うが、カバルダ語ではソスルーコと言うらしい。近くで見ると分からないが、大きなソスルーコの頭部があり伸ばした手にはたいまつを掲げている。ナルト叙事詩はカスカーズの多くの民族に伝わっていて、自分たちに伝わるものこそが本来のものと主張している。

 アスランはナルト叙事詩は自分たちの先祖のアラン人のもの、と言っている。オセチアで発行された文献を読むとその通りに思える。アラン人の子孫と言っているのはオセチア人だけではない。民族がモザイクのように複雑に入り込んでいるカフカ―スでは、自分たちのアイデンティティを堅持し、伝統を守らなくてはならない。
 カフカース系言語、またはティルク系言語の中で、現在はオセチアだけが印欧語を話す。ナルト叙事詩は自分たちに伝わっているのが本来のもの、しかし、脱落している部分もあり、そこは周囲の民族に伝わったもので推測する、と言っているアスランだ。
 ソスルーコの頭部はレストランになっているらしい。そこから、ナリチクの町がもっと見晴らせるだろう。

 下に降りてみるとバルカル人強制移住(1944-1957)犠牲者記念館があった。1944年3月8日午前2時から、ほぼすべてのバルカル人がほんの数日の間に集合させられ、家畜用貨車の乗せられ延々とカザフスタンなどに強制移住させられたのだ。その日から、カバルダ・バルカル自治共和国はカバルダ自治共和国となった。イネッサさんは、「ふん、バルカル人」と、不快そうだった。現在、カフカース中央のこの地方は、カバルダ・バルカル共和国と長い名前になってはいるが、元々歴史的には別の地域だった。繰り返しになるが、カバルダ人はカフカース古来のアゲィゲ語を、カバルダ人はテュルク語を話すテュルク化したアラン人?だ(西のカラチャエヴォ・チェルケス共和国のカラチャイ人もテュルク語系)。
 革命後の1921年、かつてのロシア帝国のテレク州(1860ー1920、現在のオセチア、チェチェン、イングーシ、カバルダ、バルカルなど)とクバン州(現在のクラスノダール地方)の一部から、ソヴィエト社会主義山岳自治共和国(首都ウラジカフカース)が生まれ、1922年、カバルダは自治州として分離、その後、山岳自治共和国から分離したバルカル自治管区と合併して、カバルダ・バルカル自治州が生まれたのだ。当時60%がカバルダ人、16%がバルカル人だった。1936年カバルタダ・バルカル自治共和国になったが、1944年から1956年までは、バルカル人の強制移住のためバルカルの文字が消えて、カバルダ自治共和国となったのだ。
 オセチア人のアスランもチェチェン人のマゴメドも、カバルダ人のイネッサも、先日のチェルメン交差点を通りすぎたところのイングーシ人も、たぶんバルカル人も、自分たちの伝統文化を大切に誇りに思っていると、この民族と言語のモザイク地域では実感できる。
 強制移住記念館またはホールはシベリアの各地の博物館にも多い。シベリアに移住させられたからだ。移住先でも移住元でも記念館があるということだ。ナリチク市にあるバルカル人強制移住記念館では、移住の実態、そして2階にはいかにバルカル兵士がドイツ軍と戦ってソ連を守ったがという展示があった。1944年スターリンによるバルカル人、イングーシ人、チェチェン人、カルムィク人などカフカースやカスピ海の民族ごとの強制移住(本当はジェノサイド)の政府側から言われている罪状はバルカル人たちの利敵行為というものだった(*)
(*)ウィキペディアでは、1920−1930年代の大粛清時期に、多くのバルカル人が粛清されたが、独ソ戦で、利敵協力をしたという理由で、スターリンとベリアは、当時カバルダ・バルカル共和国にいた37103人を含む禅バルカル人をカザフスタンやキルギスへ強制移住させたが、のちに、ソ連最高会議は、強制移住は不法であり民族絶滅を図ったものであったと認めた、と書かれている。

 アスランもアミーナも入りたがらなかったし、イネッサさんは、戻らなくてはならないと言うので、私だけが30分ほど館内を見て回った。あるカザフの地は17,352人の強制移住者を受け入れた、そのうち男性は3116人、女性は5055人、子供が9181人だった。

 カフカース山麓には温泉、鉱泉が多い。キスロヴォドスク(酸性の水の意)市やピチゴルスク(5つの山の意)市、その名もミネラリヌィ・ヴォドィ(ミネラル水)市といった有名な療養地がカバルドとスタヴローポリ地方の間に多い。上記の市はすべてスタヴローポリ地方に入るが、それでも、ナリチク市は多分その続きの鉱泉療養の地であり、市の4分の1はそうしたサナトリウムの団地になっている。約40の施設があるそうだ。それは南西ドリンスク区にある。イネッサさんが別れる前に教えてくれた方へ行ってみると、サナトリウムや滞在型ホテル、公園、カフェなどが並んでいる。療養客(観光客)の目にとまるような大きな水車があり、その奥が公園になっているので、入ってみると水浴のできる池(後で知ったことだが、ただの水ではなく、湧き水、つまり鉱泉の池だそうな)があり、カフカースでは至る所に見かけるような石のかつての見張り塔があって、だれでも登れるよう修理されている。登ってみると先ほどのキズロフカ山のレストランになっているソスルーノの頭部とたいまつが見えた。このくらい遠くから見た方が、頭部らしく見える。見張り等の下を見下ろすと動物園があった。ドリンスク区は何でもあるところだな。
 ナリチクはムスリムの町だが、ヴェール(ヒジャブ)の女性はいない。チェチェンほど戒律が厳しくないそうだ。モスクの美しい建物が見えた。
 4時少し前に、私たちはナリチクを後にして、元来た道を通って帰った。地平線が見晴らせるようなトウモロコシ畑が両脇に広がる道を通って。
 ウラジカフカースの正教会
 9月3日(土) ベスランから出発する飛行機は午後4時なので、午前中は、ウラジカフカース市を回ろうと思って、またアスランにタクシーの注文をしてもらった。
 約束の10時に来たタクシーは、昨日と同じ運転手のオレーグのものだった。タクシー会社が車を所有しているわけではない。自分の車で稼ぎたいというオーナーがタクシー会社に登録して、配車してもらうのだ。タクシー・メーターはない。初めの注文の時に行先と値段を配車係と電話で決める。オレーグは配車係から町名と番地を聞いて、昨日の私達だと気づいたそうだ。
 オレーグはロシア人なので、ウラジカフカースの観光地と言うと、ロシア正教の聖堂へ案内する。ロシアの町ではどこでも、聖堂、教会が最も美しく、ソ連時代の栄光を称える記念碑を抑えて、第一の名所となっている。だが、宗教関係の建物はほぼすべて、ソ連崩壊後の再建だ。
ゲオルギィ大聖堂、前に立っているのはアミーナ

 聖凱旋者ゲオルギイ大聖堂 Кафедральный собор святого Георгия Победоносцев は20世紀初めにウラジカフカースにあった同名の聖堂をもとに2003年再建されたものだ。ロシア正教には距離を置いているアスランとアミーナが外で待っているというので私とオレーグで入る。宗教設備にはすべて敬意を払うべきと思っているので、ローソクをともして手を合わす。キリスト教もそうだが、1信教でも多神教でも、ほかの集団の神は多かれ少なかれ排除する。または伝来宗教を土着宗教と気づかないうちに融合させこともある。実はゲオルギィというのはキリスト教の方に近いが、融合聖人のようだ。ゲオルギィを祭った新しいオセチア風の聖所もディゴーラへの道中にあった。しかし、このウラジカフカースの大聖堂はロシア正教様式の建物だ。
 アスランやアレクサンドル・ウルイマゴフさん達はオセチアの伝来宗教を守ることは、自分たちの伝統を守ること と思っているだろう。ロシアのサンクト・ペテルブルクで暮らすウルイマゴフさんは、伝統宗教を守り、かつロシア正教徒であってもそれほど矛盾することではないと遠慮がちに言っている(本当は、厳しい一信教のキリスト教を信ずる限りそれは不可)。民族共和国北オセチア・アラニアで暮らすアスランやルスランはロシア正教の教会へは入ろうといない。オセチア人が多数のウラジカフカースで暮らすロシア人の運転手イーゴリは、もちろんロシア正教の信徒だ。
 次に訪れた預言者イリア教会は、古い建物で、付属墓地があった。この教会はソスランの事務所の隣にある。
 次いでオレークは、ウラジカフカースで最も古い寺院『生神女誕生祭教会』に案内してくれる。その教会はウラジカフカース市内を見晴らすことのできる小高い『オセチア丘』の上にあり、1812年からあった木造の教会の場所に1823年建てられたそうだ。ソ連時代は文学博物館だった。教会付属墓地には、コスタ・ヘタグロフはじめ、オセチアの有名人が葬られている。
 まだ11時半で、もう1カ所くらいは回れそうだった。ダリヤル峡谷の方へ廻ってほしいと頼む。後部席のアスランは、そこへは先日行ったったではないかと言うが、歴史的に有名なグルジア軍事道をもう一度見てみよう。
 再びグルジア軍事道
 ウラジカフカース市内を南から出て、連邦道161号線(軍事グルジア道のロシア領内)に入ると、左には広いテレク川、右は絶壁が続く。この絶壁はロック・クライミング場らしく標識が立っていた。そこを過ぎると、右の山への上り坂があって、ハルハ・ウアストィルジ Харха Уастырджとオセチア語で書いてあたった。ウアストィルジはオセチア風のゲオルギィだ。
ウアストィルジ教会の建つ丘から
ダリアル峡谷を望む.アミーナと
19世紀のバルタ村(ウイキペディから)
国境へ向かって順番待ちのトラックの列
ジオフさん一家

 急な坂だったので車から降りて登ってみる。道は八端十字架(主にロシア正教会で用いられる端が8点の十字架)が聳える礼拝堂に通じていた。外見だけが修復済みのようだった。少し離れたところに建物があって、そこで法会もできそうだった。もしかしてオセチア伝統宗教の法会かもしれない。八端十字架は極めてロシア正教風だ。(当時のロシア政府も、オセチアの民族感情に配慮し、伝統宗教と融合させようとした。一方オセチア人もロシア正教を受け入れる形をとった方がよかったのだろうか)
 そこは見事な見晴らし台だった。眼下にはテレク川の河原と川床が見え、川床を曲がりくねって流れる水面が光っている。両岸には河原を挟むように山が突き出ている。ここからダリヤル峡谷が始まるのだ。連邦道が左岸をはしっている。峡谷から流れ出てくるテレク川と、左岸の絶壁の間を縫って続いている。向こう岸、右岸ぎりぎりに迫ってくる山は、イングーシ領だ。川上の方、河原が広くなって、つまり山々が退いて谷間ができたところは、その谷間だけ、現在はオセチア領となっている。テレク川の向こう岸なので橋がある。この谷からさらに山手へ行くとイングーシの大きな村があるので、橋には内務省の哨がある。テレク川の流れ来る方には黒い山が見える。その向こうは雲のかかった山々。カズベック山の続きだろう。
 礼拝堂横の草原はとても気持ちよかった。青空の下、白い雲のカフカースの山々と、グルジア領から流れてくるテレク川、自分たちのいるオセチアと対岸に見えるイングーシの山々を背景にアミーナと何枚も写真を撮った。
 山を下りて、連邦道をさらにグルジア国境の方に進んでもらった。アスランは、もう行ったことがあるではないか、と言い続けているが、もう一度この歴史的な道を見てみよう。
 この日、国境近くは長い長い大型トラックの列が続いていた。今日中には越せないかと思うくらいだ。ロシア側のヴェルフナヤ(上)ラブス国境検査を過ぎても、グルジア側に入ると、カズベキ哨もある。
 今回あまり国境へは近づかずに引き返した。ウラジカフカースに近いバルタ村(*)では学校帰りの制服の生徒たちがぞろぞろ歩いている。この日は9月3日なのに入学式だったらしい。ベスラン学校襲撃事件が2004年9月1日の入学式の時にあったので、犠牲者を悼んで、オセチアでは入学式は9月3日となったのだ。
(*) バルタ村 20世紀初めはイングーシ人の村だった。今はグルジア人が大多数。イングーシ人もいる、オセチア人はわずか。元々19世紀、グルジア軍事道の守備のためロシア軍が駐屯していた。
 飛行機は15時40分なので、昼食を食べて、飛行場に向かわなければならない。それもオレーグのタクシーにしよう。というわけでオレーグにアスランの家に入ってもらって、みんなで食事をし、2時過ぎには出発した。へータッグも一緒に乗って、アミーナ、アスランと送ってくれた。ベスラン市の空港への道も周りが一面のトウモロコシ畑だった。
 駐車場に止めて出発ホールに入ってみると、乗客でごったがえっていた。搭乗窓口には大きなスーツケースを引き子供を抱いた乗客の長い列ができている。私は前日のパソコンで搭乗手続きをして、座席も採っ取ってあるが、荷物を預けなくてなならないので、順番に並ぶ。かなり時間がかかりそうなので、みんなには帰ってもらう。オレーグには、今日の分と、アスランたちを家まで送っていくタクシー代として2000ルーブル渡す。おつりはいいよ。
 長い間待って、予定より1時間以上遅れて16時ごろ離陸。
 飛行機の中にはかわいい赤ちゃんが何人か乗っていた。カフカ―ス地方の赤ちゃんはなんて可愛いのだろう。
 後部席のスペインからの友達

 サンクト・ペテルブルクのプルコヴォ空港にはほぼ時間通りの17時過ぎに着。約束通りジェーニャが迎えてくれる。ジェーニャの車に乗ってみると後部座席にスペインからの旅行者夫婦が乗っていた。彼らとはジェーニャは東京で知り合ったそうだ。この年の4月の花見ごろ、ジェーニャは私の家に来て、その後、新幹線で京都や東京を回っていたのだ。彼が私の家に滞在中は私が案内したが、東京や京都は自力で回っていた。
 スペイン人夫婦をホテルに送り届けると、カーチャ・ゴルブノヴァさんが住むマンションに送ってくれた。カーチャは、卒業して今就職活動中だ。後でカーチャの父のセルゲイさんに教えてもらったのだが、希望通りリクルートの会社に就職できたという。
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