クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 19 April, 2017 (追記・校正: 2017年5月26日、11月14日、2019年12月18日、2021年12月4日)
34-3 (6)   2016年 北カフカース(コーカサス)からペテルブルク (6)
    『失われたオセチア』
        2016年8月20日から9月4日(のうちの8月29日から8月31日)

Путешествие по Северному Кавказу и Петербурге, 2016 года (20.8.2016−05.9.2016)

1部) 8月2日から8月10日 トゥヴァからサンクト・ペテルブルク
2部) 8月11日日から8月20日 コミ共和国の北ウラルからサンクト・ペテルブルク
3部) 8月20日から9月5日 北カフカースのオセチア・アラニア共和国からサンクト・ペテルブルク
 1) 8/20 北オセチア共和国 ベスラン着 北オセチアの地理と自動車道 峡谷での宿敵 オセチアの宴
 2) 8/21-8/23 アスラン宅 ウラジカフカース市 アレクサンドロフスキィ大通り テレク川岸 ロシアとオセチア 南オセチア共和国
 3) 8/24-8/25 ウラジカフカースの芸術家たち  峡谷のオセチアへ(南西部地図) 納骨堂群の丘 氷河に呑まれた村(共同体地図) グルジア軍事道(イングーシ地図) デュマやレールモントフの時代のグルジア軍事道
 4) 8/26 イングーシ通過 チェチェンに グローズヌィの水浴場 復興グローズヌィとチェチェンの心 プーチン大通り
 5) 8/27-8/28 オセチア斜面平野(南西部地図) 正教とイスラム ディゴーラ共同体 カムンタ村着 過疎地カムンタ村 ミツバチ
 6) 8/29-8/31 マグカエフ宅 ザダレスクのナナ 失われたオセチア、ドニファルス ネクロポリス ガリアト村 テロには巻き込まれなかったが
 7) 9/1-9/3 スキー場ツェイ オセチア軍事道 カバルダ・バルカル共和国へ 保養地ナリチク市 ウラジカフカースの正教会 再びグルジア軍事道
 8) 9/4-9/5 サンクト・ペテルブルク イングリア フィンランド湾北岸の地 コトリン島の軍港クロンシュタット モスクワ発成田
ロシア語のカフカスКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スと聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus
 マグカエフ宅
 毎朝、窓から眺めた山々。ソングチドン川岸にはドゥンタ村
 8月29日(月)。マグカエフさん宅の1階の部屋で目覚める。カムンタ村の通りと言えば、1本の坂道があるだけで、家はその両脇にあり、どちら側の家からも谷底が見晴らせる。西側の家からはソングチドン川谷、東側も小さな枯川の谷、つまり低地の牧草地が見晴らせる。ここは狭く細長い台地のようだ。オセチア山岳地帯の谷は、何万年もの間に氷河が流れて削ってできている。そこに高原草地(アルプス草原)ができた。
 マグカエフさん宅の窓からの眺めは抜群だった。白い尖った山々やその手前の黒い山並み、近くの青々とした草原丘陵がよく見えた。窓は西に向かっているのか、向かいの草原丘陵に朝日が当たり、裾の方は私たちのいる丘陵の影が映っている。丘陵は頂上付近にだけ灌木が生えている。すそ野は石ころか、浸食に残った岩が草を拒否して散らばっている。細い径が行き来しているのは昔の牧草地か耕作地だったのか。もう放置されている段々畑も見える。こんな山間の村では養える人口も限りがあっただろう。平地へ移動したいというのは当時のオセチア人の宿願だった。
 7時半ごろマグカエフさんが朝食を準備してくれた。1泊800ルーブルは素泊まりの値段だから、これは彼のサーヴィス。一緒にテーブルに座る。バターの塊をどんとのせたそば粉のおかゆとジャムだった。ダイニング・キッチンは広くて窓も大きかった。出窓にはレーニンの胸像が飾ってある。最近ではあまり見かけなくなったものだ。オセチアにはスターリンをはじめソ連時代の大物の像が多いのだ(オセチアはロシア帝国やソ連に概ね忠実だったのかな)。
 朝食を準備してくれるマグカエフさん。
窓にはレーニンの胸像
 マグカエフさんは、自分の苗字が伝統的なものであること、18世紀にアラギル峡谷のザラマグ村出身のズラブ・マグカエフが、オセチア大使としてペテルブルグのエリザヴェータ女帝に帝国への合併を願った嘆願書を届けに行ったこと、それらは、ウラジカフカースの公園にも記念碑があって、もう知っているだろうと言われる。そうか、あの記念像で、書類を女帝に渡しているオセチア人が、目の前にいるアルトゥール・マグカエフさんの先祖なのかと感心する。ウラジカフカースにある記念碑で、父親の後ろに立つ副使と居並んでいた少年がズラフの子だが、彼は若死にしたのでズラフの兄弟の子孫が継いていると言うことになる。その傍系の子孫は100家族以上いるそうだが、アルトゥールさんもその一人だ。
 オセチア西のイラフ(ウルフ)川のディゴーラ共同体は独自の歴史を持ち、東のイロン方言を話すクルタチンやアラギル共同体などとやや異なるディゴール方言を話すが、イラフ川の支流ソングチドン川上流のカムンタやガリアト村は、ディゴーラ共同体の中でも、イロン方言の話し手が多い。峠を越えたアラギル峡谷からイロン方言を話すオセチア人がソングチドン川上流に移住してできたそうだ。だから、ディゴーラ共同体の中でもカムンタなど4個の村はウアラグコム уаллагкомサブ共同体だ。(ディゴーラ共同体には、4−5のサブ共同体がある)。つまり、ディゴーラ共同体のカムンタ村に住むアルトゥール・マグカエフさんの先祖がアラギル峡谷の上流のザラマグ村に住んでいたというのも納得だ。
  
 ザダレスクのナナ
 9時半ごろには、絶えず故障するのもうなずけるような超高年式のウアズ(ロシア製ジープ)でルスランも到着した。10時には養蜂業者さんのところへ行って約束の巣蜜を切り出してもらった。11時前には、ルスランの車にアスランと乗って、ソングチドン川を下る道を走っていた。2日前に通ったファスナル村へ行く。ソングチドン川にミニ発電所があり、革命前にベルギー資本の鉛亜鉛精錬工場のあった村だ。
 この村のはずれにも廃墟の納骨堂がいくつも建っていた。オセチア西のディゴーラの納骨堂と、ドルガウス(8月25日に訪れた)などの東のタガウル共同体のとは少し違うそうだ。石の積み方や、屋根の形が違うと思う。
ファスナル村の納骨堂群、アスランと後方ルスラン
ファスナル村の納骨堂群
ザダレスク村
『ザダレスクのナナ』博物館
(当時の衣装の実物大人形もある)
『イザド』内部

 今残っているファスナル村の納骨堂は、入り口は猫が入れるくらいの狭いのや、木のドアのや、屋根に盛った土から木の生えているのや、屋根がなくなってブリキで蓋をしてあるようなものもある。村はずれなので、石塔のそばに現在の不燃物ゴミもあった。内部もよく見えるのもあったが、覗くのは躊躇われた、が覗いた。中に葬られた古い人々も自分の白骨を覗かれたくないに違いない。死者を火葬でも土葬でもなく、家族のために作ったこの塔に運んできて横たえておくだけ、と言う弔い方なのだ。(ヴェローナのジュリエット・キャピュレットもそうした弔い方だったのか)。オセチアでは20世紀初めまでも行われていたと言う。覗き込んだり写真を撮ったりするのはよくないと思う。が、フラッシュを焚いて何枚も撮った。一緒に見ていたアスランもだ。
 ヴァカッツ村にルスランの知り合いがいるらしい。マグカエフさんの家が空いていなかったら、トイレ不満の私をそこに宿泊させる予定だったらしい。ルスランは、車を止めてその家の人と話していた。昨日車が故障した時も、この家で修理していたらしい。
 ソングチドン川に沿った道、つまり谷底を走る。両側は山が続き、その一つの山の頂上に石の塔が建っている。典型的な眺めだ。この山の急斜面を敵が登るのは容易ではなかったし、その上にあるかなり高い塔を攻めるのも難しかっただろう。一つの村に一つ以上は必ずある砦だ。昔は絶えず攻めたり攻められたりしていたのか。事実、西の山向こうのカバルディノやバルカルの封建領主が、絶えず攻めてきたと地誌にある。

 マツタ村の分かれ道を抜けると、舗装道になる。すぐ『ザダレスク』と標識が出て、標識の方へ曲がると砂利道になった。登っていくと石の壁のザダレスク村に入る。壁は、かつて内側が住居だった。道に沿って、石垣だけが残っている。屋根と天井は、手入れがないと最初に崩れるのだ。石の壁だけは風化されつつ何百年でも立っている。
 ザダレスク村には正教の新しい礼拝堂があった。生神女誕生祭礼拝堂 Часовня в честь Рождества Пресвятой Богородицы с. Задалескという。これは、14世紀にタメルランの侵攻で孤児になったオセチアの子供たちを救ったという伝説の女性を記念したものだ。オセチア・アランの歴史にとって13世紀のモンゴルの襲撃は致命的なものだったが、さらに後の14世紀のタメルランの襲撃は民族壊滅も同様で、かつて、9−10世紀は大国だったアラン国は領土も民族も失ったそうだ。タメルランについては抵抗する町はジェノサイドを行ったとも書かれている。オセチア史ではわずかのアラン人遺民はカフカ―ス山脈中に逃げて、かろうじて生き残ったとなっている。18世紀にロシア帝国に合併されて19世紀に平野に移住するまで、生き延びたオセチア人は狭い峡谷で発展の道を閉ざされて暮らしていた。そのオセチアの歴史の最も過酷だったタメルランの襲撃の時、ザダレスクのナナと言う女性が、17人の孤児を救い、山を越えて、この地にやってきて洞窟に住み、木の実や草の実で子供たちを養っていたという。その子供たちが大きくなって子孫を増やしたとか。
 アスランによれば、タメルラン軍に男性は皆殺しにされ、女子供は奴隷に売られ、奴隷にもならない幼い子供は廃墟に放置されたという。その子供たちを救い、生き延びさせたのがザダレスクのナナで、その言い伝えはディゴーラでは有名。敬意を持って語られている。1999年にザダレスク出身の村人が、ナナを記念して、前記の生神女誕生祭礼拝堂を建てたそうだ。オセチアには正教徒、正教に距離を置く地元神教徒、ムスリムたちがいる。正教徒であり、民族宗教も崇めているというのは矛盾したことではないとみなしている人々も多い。
 村の中ほどには『ザダレスクのナナ』博物館があって、ナナと子供たち、古い生活用具などが展示してある。ナナの時代の生活が再現されていることになっている。ナナを称える民謡もあって、歌詞が展示してある。ちなみにナナと言うのはママという意味だ。博物館の前には、『アラン人の子孫は、ナナを敬意をもって記念し、ナナの偉業を残してくれたザダレスクに感謝する』と刻まれた石がかけてあった。
 ザダレスクは上ザダレスクと下ザダレスクを合わせて50人余の村民が今も住んでいて、村内や、郊外に牛がうろうろしていた。
 『イザド』の外観。観光パンフから
 私たちはやっと動いているルスランの車を鞭打って、村の背後にある丘陵を登る。車はかなり悲鳴を上げていた。仕方がない。4輪車が通行できかねるところまで行き、私たちは車を降りて歩いて細い径を登る。急斜面なのでつづら折りの坂になっている。海抜1200メートルくらいと言うところに洞窟があって、深さは20メートルくらいと言う。入り口は大きく三角形で、石で塀ができている。ここは地元の信仰では有名な社の一つで、イザド Изад(強いて訳せば天使と言う意味、天界に住む)と言う。ここで、昔から犠牲の動物を捧げてお祈りをしたのだ。そして宗教的な宴会も開いた。洞窟内にはテーブルもある。年に2回、乾草刈の時期と収穫の時期の前に、首に木の彫像を下げ飾り立てられ1年前から選び抜かれていた家畜を連れて、村人はここに集まり、イザドに繁栄と庇護を願って宴会を開いた。犠牲動物の骨が、洞窟の中から奥へと累々と積まれている。
 参加者は男性に限られている。現在も行われていることは新しいごみでもわかる。賽銭箱があり、アスランとルスランはコインを入れていた。
 夕方の5時前にそこを去る。この険しい山々を幼い子供を連れてタメイランの軍隊から逃れてきたのかと、見上げる。ナナが、ザダレスクまで逃げて来た時、そこには先住の村があり、村人は暖かく迎え入れ、孤児たちを引き取ろうと言ってくれたが、孤児たちはナナの傍を離れたがらず、ナナ・グループは、洞窟暮らしを続けたとか。
 ディゴーラで最も有名な社イザドの東の石灰岩の岩山斜面に、要塞があり、『真昼の塔』と呼ばれている。それは、真昼頃には光が強く当たって遠くからでも白く光って見えるから、後世の地元民がそう呼んでいる。16−17世紀のものだ。そこへ上るのはパスする。後でわかったがズラエヴッフ Дзулаевыхの塔と言う。つまり、ズラエヴッフ家の家族の塔と言うことだ。
 中庭で斧でたたいて挽肉を作るアスラン

 7時、薄暗くなったころ、元来た道を走っていた。山岳地帯は日の沈むのも早い。カムンタ村に戻ると、オセチア伝統ピローク作りに取り掛かった。ピローグとは肉などの入ったパイ。(おなじみのピロシキというのはピローグの指小形・愛称)。オセチア風ピローグはモスクワでも有名だそうだ。本来、オセチアではこの特別なピローグは何かの行事の時に焼く。たとえば葬儀の時は2枚しか焼かない。普通は3枚焼く。だから3枚のピローグ儀式と言う熟語もある。イザドにもささげる。もちろん現代は焼きたい時に焼くが、料理は長時間に及ぶ。まずは出発前にそのために買った牛肉の塊を、細かくする。挽肉器がないので、包丁で刻む。よく切れないので斧で刻む。パイは盆くらい、またはクッションくらいの大きさで、それ以上大きくしないのは、出来上がったパイを乗せる器がないからだ。ルスラン宅には焼き釜がないので隣のアルチュール・マグカエフさんの窯で焼いてもらう。だから3枚のうち1枚はマグカエフさんに進呈する。焼きあがる前も後もバターをたっぷり塗る。私たち3人が食べ始めたのは10時半頃だった。
 失われたオセチアの一つ ドニファルス共同体
 8月30日(火)。向かいの山の頂上に朝日が当たる頃、目覚めた。マグカエフさん宅の窓からの眺めは、何度見ても素晴らしい。あの近くの山の奥の奥の白い尖った山へは真っ先に朝日が当たり、朝は特に白く輝いている。山の形と方向から後で調べてみようと何枚か写真を撮った。低い空の色と同じになって見えにくいこともあるが、日の傾きによってはよく見える頂上が台形の山がある。それが、ウイルパタ山(4649メートル)Уалпатаだと後でわかった。イラフ区で最も高い山はグルジアとの境界付近のこの山だ。神聖な山らしい。そこからソングチツェタ(ツェタは氷河の意)と言う巨大な氷河が伸びている。ソングチドン川はその氷河から流れてくる。
 アスランは、もうウラジカフカースに帰らなくてはならないそうだ。ヴァカッツ村のルスランの知り合いのハダエフ家の誰かが、車を出すので、アスランは便乗できる。それに合わせるため私たちは7時にはカムンタを出発した。ルスランの車の調子が悪いので、この日の行程は、やはり、ハダエフ家の親せきのタイムラズ・ハダエフТаймураз Хадаевさんという人に車を頼んであったらしい。彼は普段はウラジカフカースに住んでいるが、ニーヴァというロシア製小型ジープに乗って、往復している。10年程度のニーヴァで、ルスランの(廃車寸前、と私は思える)ウアズよりずっと頼もしかった。

 昨日はマツタ村からイラフ(ウルフ)川下流の右岸ザダレスク村へ行ったが、今日は左岸ドニファルス村方面へ行く。マツタ村より上流のイラフ川岸にもストゥール・ディゴーラ共同体(サブ)がある。そこはアラニア国立公園になっていて、大きなペンションもいくつかあるそうだ。しかし、この方面はグルジアとの国境に近いので、外国人には許可がいる。国境警備隊の詰め所もある。これは私には苦手。(モンゴルと接するトゥヴァでは首都のクィズィールで申請できるが、ルスランによると、グルジアとロシアの関係はよくないので、ウラジカフカースで申請できないのではないかと言う。)(後記:翌年は、ストゥール・ディゴーラ方面の詰め所のずっと手前まで行った)
 この日は、グルジアとの国境からは遠い、むしろ、同じロシア連邦のカバルディノ・バルカル共和国に近い(歴史的な)ドニファルス共同体(サブ)へ行く。つまり、山岳共同体時代のオセチアでも最も西になるので、西のバルカルの影響を受けた地域だ。ディゴーラにあった4サブ共同体の一つのそのドニファルス共同体は、『民主的』、つまり世襲の支配的な領主のいない、統率者を選挙で選ぶような共同体だったそうだ。かつてのドニファルス村、レズゴル村クムブルタ村 кумбултаなどの住民は、すでにソ連時代までに、ほとんどが平地に移住して、今は全部合わせても20人もいない。というよりルスランによると住民がいるのは1軒だけだとか。
 1990年代には、前コバン文化期、コバン文化期、サルマート期や9−11世紀の墓地、住居跡などの遺跡が発掘された。陶器を焼く炉、製鉄窯遺跡も発掘され、古代から中世の陶器と製鉄の中心地のひとつとされている。遺跡はルフタ Рутха、ガストン・ウオタ Гастон Уота、サウアル Сауар(下記)、 カリ・ツァガト Кари-Цагатなどが調査されている。 
バッロエフの別荘
ウアザ山とバロエフの別荘
バガイダ砦跡麓の石のサークル広場
左はバダイガの廃墟、ルスランとタイムラズさん
右はバッロエフの別荘、ウアザ山も遠くに見える

 私たちはタイムラズ・ハダエフさんのニーヴァで、イラフ川沿いのアスファルト道から離れ、急な坂を上って、ドニファルス共同体がかつて栄えた高原草地(アルプス草原)に出る。特徴的な形の3個の白い高峰が遠くに見える高原だ。
 その一つがウアザ山(Уазахох、オセチア風発音ではワザ山 Вазахох、3529メートル)と言って、ドニファルス高原の西にある。この山の頂上にはさらに92メートル(3529メートルに含まれる)の磐の残丘が聳えていて、神秘な、いかにも伝説が生まれそうな形をしている。案の定ナルト叙事詩の舞台にもなっている。
 クムブルタ村は行政的には廃村となっている。今は荒野になっている谷の、塀で囲まれた敷地に中世の城のような建物が建っていた。立派な塔もある。これは、ルスランとタイムラズ・ハダエフさんが忌々しそうに話していることによると、ここ10年程前から建てているヴァイナフ様式(チェチェン・イングーシ)の塔だそうだ。なぜ、オセチアのディゴーラにヴァイナフ様式か。ルスランによると、設計者がヴァイナフ出身だったから。また、この『別荘』はサンクト・ペテルブルクで『バルチク』と言うビール会社(ロシアではとても著名、現在はカールスバークの商標あり)で大成功を収めたタイムラズ・カズベコヴィッチ・バッロエフ Таймураз Казбекович Боллоевが建てているそうだ。1991年から2004年まで『バルチカ』社長だったタイムラズ・バッロエフ自身はウルフ川下のハズニドン村で生まれているが、出身はドニファルス共同体だ。ハズニドン村は、イラフ区行政中心チコラ村の西7キロにあり、18世紀と言う早い時代から、ディゴーラ峡谷からの移住者村だった(そこへはイスラム教徒のみが移住した。キリスト教徒は別の町へ)。本人はめったにここまでは来ないのか、敷地にはあまりひとけがない。大富豪の別荘らしく豪華でもない。むしろ廃墟かと思ったくらいだ。ルスランによれば守衛ぐらいは住んでいるだろうとのこと。(繰り返しになるが、なぜ、ここにチェチェン様式かと言うと、オセチアは、一応ロシア正教で、チェチェンはイスラムだ。バッロエフがハズニドン村生まれと言うことはイスラムだ。)
 高原を進むと、羊の群れと羊飼いに出会う。羊飼いは都会風のいでたちをしていた。ルスランによれば、バッロエフほどの長者でなくとも別荘族が土地を購入しているという。近くまでアスファルト道はついているし、アルプス高原の絶景地だから、富裕になった出身者たちは先祖代々の土地に、瀟洒な別荘を建てたがる。青銅器時代人やアラン人の遺跡の近くだが。
 低い丘の上に住居跡のような石垣が残っていた。これはバガイタ Багайта住居兼砦跡だそうだ。つまり、ここはバガイタ村の一部の廃墟だった。小高い場所にあるので、はるか下のバッロエフの別荘のヴァイナフ様式の塔も、円形の白いウアズ山や二股に分かれたサルダリ・ホフ(Салдари хох ホフは山の意、3167メートル)がよくみえる。丘のふもとに大きな丸い石がサークル上に並んでいた。これは集会場の跡だと言う。ルスランによれは、ここでもめ事も裁いたという。遠方の村でも裁ききれない事例はここへもってきて、最終的に裁いたそうだ。今は住居跡すらわずかに残る完全廃墟だが、かつては権威ある村だったのか。『18、19世紀にはドニファルス共同体はディゴーラでも最も大きな共同体だった。現在は最も大きな野外博物館である』と言われている。
カヌコフ・エセの塔

 高原についているわずかな道を頼りに、ドニファルス村へ行く。ごつい塔があって、これはハタゴフ家 Хатаговыхの塔と言う。村は崩れた石垣だけが残っているように見えるが、数軒は新しそうな家もあるから、住民なのか、別荘族なのか。バッロエフや、マグカエフさんもそうだが、先代はもう去ってしまった自分たちの出身地に新たな家を建てる場合が多い。(山岳村から去って平野に移るとき、古い土地家屋はただ放置しただけだったから)。成功した子孫が先祖の地に第2の家を建てるのだ。土地が遺産として残っていれば、新たに購入する必要もないし、元々村があったところだから考古学的遺跡を破壊するわけでもない。 
 村には新しい戦没者記念碑があって、60人くらいの名前が刻まれていた。20世紀半ばにはまだ村人は多かったのか。村の高台には半分以上崩れた塔があって、遠くからでもよく見えた。上がってみると、半壊(4分の3壊と言いたい)の塔の前に特別に看板が立っていて、『中世、カヌコフ・エセ Кануков Есеの塔。連邦指定考古学記念物』とあった。カフカースにある塔は見張りと防御、避難場所として建てられた。エセ・カヌーコフというのは18世紀初めに、カバルディノの候がカヌーコフを自分の家来に、ディゴーラの地を自分の領土にしようと攻めてきたが、戦わずして撃退したという伝説的な英雄だった。つまりドニファルスの独立を守った英雄の塔だ。
 ネクロポリス
 ドニファルス村とレズゴル村の間の丘には西オセチアで最も大規模な納骨堂墓地が広がる。64基以上の納骨堂が現存している。オセチア東のタガウルス共同体(ギゼリドン川)にあるダルガヴス納骨堂群(ネクロポリス、死者たちの町)とは違った建て方だ。半地下になっているもの、三角の屋根があるもの。屋根を持ちこたえられないほど崩れたものもある。
ドニファルスの納骨堂群原
キリスト教の納骨堂『サタイ・オバイ』

 興味深いのは、ここに12−13世紀の礼拝堂(と今は言っている、つまりキリスト教会)があることだ。アラン人社会にはローマ帝国の傭兵だった時にキリスト教が入ってきた。また中世にビザンチンやハザールと並んで北カフカースに勢力を張っていた時もキリスト教が入ってきたが、あまり普及しなくて伝統宗教が長く残っていた。18,19世紀ロシア帝国に合併されて以後、ロシア正教の教会が多く建てられた。宗教地図などを見るとオセチアはロシア正教とされている。しかし、当時は、ディゴーラにはムスリムが主導的だった。全体的に現在はロシア正教徒であるが、伝統宗教を尊重しているというオセチア人が多いようだ。(伝統宗教はオセチア人のアイデンティティだから)。19,20世紀以後の教会なら平地の都市に多い(それらの多くは1930年代のソ連時代いったん破壊されたが、1990年代以降に再建された)。ドニファルス高原にある12−13世紀という礼拝堂は前に立っている説明看板によると文化遺産「サタイ・オバイ Сатай Обаиディゴーラ方言でサタ家の(地上)納骨堂の意」と言う。十字架が打ち付けられた木のドアを押して中に入ってみると、新しそうなイコンがかけてあった。キリスト像と聖母子像、そして聖ニコライ像らしい。内部にボロボロ朽ちてはいるが、漆喰が塗られている建物が数百年前のものかどうかわからない。現在の外観ではこのオバイは、ほかの納骨堂らしくなくて、かつて納骨されたかどうかもわからない。また、64基の納骨堂のある草原から離れて絶壁近くにある。伝統宗教またはイスラムだと言うディゴーラのドニファルスに、こんなに古いキリスト教の礼拝堂とは珍しい。

 12時過ぎ、車で少し行ったところの木陰で私たち3人はランチにした。
 レズゴル村は一続きの石垣でできた要塞・城・住居群だ。ランチにした木陰にも低い石垣が伸びていた。レズゴル村の『本城』はそんなものではない。よく見えるところに立つと、崩れた高い城壁が累々と伸びている。背後に岩山の無慈悲な垂直の斜面があり、前方はイラフ川の深い谷が近くまで迫っている。この巨大な半壊(以上)の石の家に今でも住んでいる一家族がいるはずだそうだが、会わなかった。家畜がいた。白い素晴らしい馬が数頭、私達を無視してじゃれあっていた。犬もいた。たぶん夏場だけでも住んでいる人はいるのだろう。気分がハイならば、住むのも悪くない。しかし、沈み込んでいるときは家畜の糞で沼地になっている地面を歩くのは、たとえば私には心理的に毒だ。
 ルスランもタイムラズ・ハダエフさんも半壊の石垣の間を興味深く歩いていた。内部は部屋のように区切ってある。石の門を通ると、次の門や窓のある壁がある。雑草が生い茂った門を抜けると、石垣に囲まれた狭い通路に出る。屋根は全くなくて、ただ壁だけが残っている。私は、ただ二人の跡について行った。犬も付いてきた。イラフ川谷を見落とせるところまで出ると、草の上に座って、長く景色を楽しんだ。
 2時過ぎにはそこも引き上げて私ちはニーヴァで坂を下っていく。途中に考古学キャンプが張られていた。 近くに、『考古学調査。モスクワ歴史博物館。スポンサーは有限会社エレクトロツィンク』と書いた立札がある。すごく日焼けした男性が歩いていたので呼び止めて遺跡の名前を聞いてみる。サウアル Сауарと言う。彼によると前7−5世紀のコバン文化遺跡だそうだ。前6−5世紀の大規模な住居跡サウアルの発掘のことは、のちにネットでも読んだ。古代サウアル村の50分の1の模型もあって、モスクワやウラジカフカースの博物館には展示されたそうだ。冶金と製陶の当時は大中心地だった。カフカースはメソポタミアの時代から地下資源の産地だった。

修復済みの塔なので、こうやって
上に上っていける

 イラフ川を渡り帰途につく。マツタ村の分かれ道でイラフ川の支流ソングチドン川に入ると、マヒチェスク村があるが、これは古い村で、かつてタパン(平面の)・ディゴーラ共同体(サブ)の中心だった。この村の手前の奥の高台にアビサロフ家の塔 Абисаловыхがある。
アビサロフ家の塔
最上階の銃眼から下のソングチドンの流れを見る

 タイムラズ・ハダエフさんはニーヴァでその塔の入り口まで登ってくれた。坂はかなり急でニーヴァも苦しそうだった。ここまで登ると、ソングチ川谷は川上も川下もよく見えるし、谷を囲む山々も中腹ぐらいまでは見渡せる。下の村や道、川が小さく見える。塔は4階建てて、修復がしてあり、中からはしごを1階ずつ伝って4階までもぼれるようになっている。4階には狭い窓、銃眼が四方に開いていて、今は鳩の休憩場になっている。3階以下には、窓は一方にしかない。マヒチェスク村には大きな納骨堂もある。ちなみに豪族アビサロフ家の子孫は19世紀半ばにトルコへ移住した。というのもロシア帝国による支配とキリスト教布教からのがれる難民となったのだろう。また1918年ロシア革命後にも残っていたアビサロフの子孫もトルコに亡命したそうだ。今回、石の塔は山岳村々の至る所で目にしたが、中に入って上まで登ったのはアビサロフ塔だけだった。多くの塔は崩れていて上までは登れない。
 4時過ぎにはヴァカッツ村のハダエフ家に戻っていた。が、ルスランのウアズの修理がまだできていないそうだ。招かれて私も中庭に入る。ルスランはハダエフ家の中庭の椅子に腰かける。ここでは作業用の椅子でなければ、テーブル周りの椅子しかない。そしてテーブル前に座るだけで、黙って食べ物が盛られた皿が前に出てくる。パンかごとサラダボールと蜂蜜の小鉢が前に出てくる。この家の主人はアルトゥールと言い、主婦はリューダ、息子はアスランと言う。タイムラズは主人の弟だそうだ。彼は、ルスランを通じて「今日の行程は悪路だったので」と、車代3000ルーブル(当時7000円)を払ってほしいと言う。すぐ支払うと、とても感謝された。前もって、車は有料ですと、本当は言ってもらいたかったが。
 7時ごろ出発しようとしたが、車がまた動かなくなったので、さらに2時間ほど修理をしていた。その間、私は、リューダさんに案内されて家の裏庭にあるプレハブのような小屋の一室で寝かせてもらった。プレハブの離れのような感じだ。最近、息子が数日で建てあげたのだそうだ。ここがツーリスト用ペンションかもしれない。そこで9時ごろまで寝て待っていた。帰り道は暗かった。
 ガリアト村
高台から見下ろしたガリアト村
ガリアト村
ガリアト村の通り
カタエフさんと
フルタでウィルパタ山の氷河などの
スケッチを描いてくれるルスラン。
背後にはキオン・ホフ
 8月31日(水)。毎朝6時には起きて窓から朝日に輝くウイルパタ山を、目を凝らして探した。カムンタ村は高い台地にあるから見晴らしがいい。
 やっと修理したウアズでルスランとサングチ川谷と反対側にあるガリアト谷へ下りてゆく。ガリアトはかつて栄えたウアルラグコム共同体(サブ)の中心で、豪族の屋敷や、伝統宗教の社(アヴァル・ズアル Авл дзуар、 ファロン・ズアル Фарон дзуар)、納骨堂など、すべて大規模なものがそろっているし、20世紀前半でも、この一帯の村々の行政中心地で、学校もあった。今は高い窓のある塔や、石の壁、石垣だけが残っている。豪族の邸宅跡はまだ高い壁が残り、かつて窓だったところやドアだったところもわかる。この家のドアは、はずされて大学付属考古学博物館に保存されている。ドアにはこの家を訪れた賓客が自分たち一家のタムガを刻んでいったからだ。タムガは標、印、紋章で、ティルク語。モンゴルからカフカースまで中世の遺跡には刻んである。
 今は無人で廃墟だけが残っているが、ガリアトは最も大きい。無人と言っても数人は住み続けている。または、都会から戻ってきているか、時々戻ってきている。その一人がゲオルギィ・カタエフ Георгий Катаевさんと行って、ルスランの遠い親戚だ。ルスランの母方の祖父はガリアト出身だった。カタエフさんが住んでいるのは石壁の一部を古い時代に修復して、住めるようになった住居だ。家の前の敷地は物置だった。家の中も物置だった。家内外で最も多いのは薪だった。ルスランによると彼の家はウラジカフカースにあるが、冬でもガリアトに住んでいるという。カタエフさんは長いひげを蓄え、裸足で歩いている。19世紀のガリアト村の写真があった。
 前述のように、オセチア中央と東はイロン方言を話し、西のディゴーラ谷はディゴーラ方言を話す。が、ディゴーらにあるにもかかわらずウアルゴム共同体では、イロン方言を話す人が多いのは峠を越えて東のアラギル共同体から古い時代に移住してきたイロン人が多いからだ。ディゴーラはオセチアの峡谷の中でも気候が穏やかで住みやすかったからとか。
 ガリアト村をあとにして、山へ向かう。石の野原に出たので車を置いて歩く。氷河が運んできた石だろう、巨大なものもある、隙間に鳥が巣を作っていた。この野原はルスランに聞いてみるとフルタ Хуртаという。それは石という意味だ。正面に見える岩山はバルゾンツァグヴェリ Барзондцагвери3128メートルという山の一部だそうだ。
 この山に向かっていくとキオン・ホフ Кионхох(3425メートル)があり、それを超えると東のアラギル川の左岸川のサドン峡谷に出る。そこにはズギッドと言う村がある。ウアラグコム共同体からキオン岬を越えていくとアラギル共同体の西まで、半日で行きつけるそうだ。距離は16キロほどという。
 少し小高いところに上ると4峰の山々が見渡せた。今は見えないが、日が当たれば反射して見えるはずのウイルパタ山の方向からソングチ氷河の長い舌が伸びている。カイサル Кайсар氷河も多分あの辺にある。カフカ―スは氷河で有名な山だ。
 テロには巻き込まれなかったが
伝統衣装のルスラン
 2時過ぎには家に帰り、マグカエフさんに1泊800ルーブルの3泊分を払い、ルスランも家を掃除して、カムンタを後にした。しかし、ヴァカッツ村で再度車の整備をしたにもかかわらず、マツタ村を過ぎてアスファルト道とへ出たところで、車は動かなくなってしまった。ガスまたはガソリン(ディーゼル)で動くはずだが、ガソリンは切れた。しかし、ガスにシフトできない(その逆だったかも)と言うことだった。ルスランは通りがかりの大きめの車を止めて、けん引してくれるよう頼むが、牽引ロープがないと断られる。それで、私を車に残し、通りがかりの車に乗せてもらって、ヴァカッツ村まで行ってロープを借りてくると、去っていった。雨も降っていた。ルスランのウアズのボディは目も当てられないくらい古いので、雨も漏ってくる。30分ぐらいで、また通りがかりの車に乗せてもらって戻ってきたルスランが、ロープはなかったと言う。私一人でウラジカフカースに戻ることになるかもしれないと言う。たいていの車は、牽引は難しくても、短距離なら乗客一人ぐらいは乗せられるからだ。 
 幸い、バン車が止まってくれて、黒いひげのカフカース人の運転手が牽引ロープはあると、荷台を開いて探し出してくれた。チコリ村まで引いてくれると言う。チコリ村にはガソリン・スタンドがある。そこまでは35キロほどの道のりだ。黒いひげの運転手さんに手伝ってもらってルスランがロープをつないで出発。 
 その運転手は急いでいたのかスピードが好きなのか、自分の腕前を見せたかったのか、疾走した。その1時間半の間、私は一言も言葉を発せず、息を殺してルスランの横の助手席に座っていた。この道はイラフ川岸にできたかなり険しい部分もあり、特にキャニオン・アフシンタを通り過ぎる時は、目がくらくらする。のに、その運転手はスピードを緩めない。牽引されている後ろの車でもルスランがハンドル操作を誤ると崖下の川に落ちる。ロープが切れなければ、黒いひげの運転手のバンもロープにひかれて落ちるではないか。絶壁の上ではなく下の道でも、曲がりくねっていると片側の岩陰にぶつかる。ところどころアスファルトも切れて砂利道になっている。何度もロープが切れてつなぎなおした。この35キロの道を無事に通れるかどうか、わからないと思い続けた。
ロープをつないで牽引してくれた

 日本出発前、外務省の海外安全情報には、カフカース地方はレヴェル3だった。つまり、(どのような目的であれ)渡航中止勧告がだされ、「すでに滞在中の方は、退避手段等につきあらかじめ検討してください」というものだった。それは、「ジョージアと国境を接する北コーカサス連邦管区では,武装勢力による襲撃や自爆テロ事件,誘拐が発生していますので,渡航は止めてください」、「北コーカサス地域を拠点とする武装勢力が『ISILコーカサス州』と称して活動していると報じられています。渡航は止めてください。」という内容だ。テロや武装勢力にやられそうになったこともないし、そんな雰囲気も全くなく、オセチアもイングーシもチェチェンも無事廻ったのに、ここで交通事故で死傷するかもしれないと思い続けていた。安全情報を無視してテロに巻き込まれるのも不面目だが(自己責任と言われる)、海外で交通事故なんてもっと不面目だ。こんなところだから死ななくてもいい負傷で死んでしまうかもしれない。
 チコラ村の家々が見えてきたころには、本当にほっとした。多分村で唯一のスタンドで止まった時、ルスランもほっとして降りたようだ。私も降りた。途中何度もロープが切れたのに、そのたびに止まってルスランと一緒に繋いでくれたごつい感じの黒い運転手さんに感謝して、思わず、牽引の謝礼はどうしましょうかと聞いてしまった。不要と言われて、なんだかきまり悪かったので日本からのボールペンを進呈。日本から持ってきたというので、感謝された。
 ルスランが燃料を入れてエンジンをかけ、動くようだと確かめると、黒い運転手さんは去っていった。「スリルのある運転だった」などとルスランも言う。
 私は燃料代にルスランに1000ルーブル渡す。それ以外にカムンタの彼の宿の1泊宿泊や観光代などは不要と言われた。出発前に購入していった肉などの食糧3000ルーブルと、マグカエフさんへのペンション代2400ルーブル、ハダエフさんの車代3000ルーブル。つまり、ディゴーラ5日間の支出は1万ルーブル程度だった。
 チコリ村からウラジカフカースまでは西から東へ、右手にカフカ―ス山脈を見ながら、ほぼまっすぐな道を通る。雨も上がり、私たちは夕日を背に走った。バックミラーから金色と赤い雲の空がずっと見えていた。

 7時ごろ、アスランの家に帰ってみると、アスランはいなくて、ヘータグが年下のいとこと遊んでいた。間もなくアスランが娘のアミーナを連れて帰ってきた。ベスランの母方の祖母宅にいるアミーナを迎えにいってきたのだ。アミーナは黒い髪、黒い眼のぽっちゃりとしたかわいい8歳の子で、その日のうちに私になついてくれた。 
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