クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 19 April, 2017 (追記・校正: 2017年5月26日, 11月6日、2019年12月17日、2021年11月30日)
34-3 (2)   2016年 北カフカース(コーカサス)からペテルブルク (2)
    ウラジカフカース市
        2016年8月20日から9月4日(のうちの8月21日から8月23日)

Путешествие по Северному Кавказу и Петербурге, 2016 года (20.8.2016−05.9.2016)

1部)8月2日から8月10日 トゥヴァからサンクト・ペテルブルク
2部)8月11日日から8月20日 コミ共和国の北ウラルからサンクト・ペテルブルク
3部)8月20日から9月5日 北カフカースのオセチア・アラニア共和国からサンクト・ペテルブルク
1) 8/20 北オセチア共和国(地図) ベスラン着 北オセチアの地理と自動車道 峡谷での宿敵 オセチアの宴
2) 8/21-8/23 アスラン宅 ウラジカフカース市 アレクサンドロフスキィ大通り テレク川岸 ロシアとオセチア 南オセチア共和国
3) 8/24-8/25 ウラジカフカースの芸術家たち  峡谷のオセチアへ(南東部地図) 納骨堂群の丘 氷河に呑まれた村(共同体地図) グルジア軍事道(イングーシ地図 デュマやレールモントフ時代のグルジア軍事道
4) 8/26 イングーシ通過 チェチェンに グローズヌィの水浴場 復興グローズヌィとチェチェンの心 プーチン大通り
5) 8/27-8/28 オセチア斜面平野(南西部地図) 正教とイスラム ディゴーラ共同体 カムンタ村着 過疎地カムンタ村 ミツバチ
6) 8/29-8/31 マグカエフ宅 ザダレスクのナナ 失われたオセチア,ドニファルス ネクロポリス ガリアト村 テロには巻き込まれなかったが
7) 9/1-9/3 スキー場ツェイ オセチア軍事道 カバルダ・バルカル共和国へ 保養地ナリチク市 ウラジカフカースの正教会 再びグルジア軍事道
8) 9/4-9/5 サンクト・ペテルブルク イングリア フィンランド湾北岸の地 コトリン島の軍港クロンシュタット モスクワ発成田
ロシア語のカフカースКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スとも聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus
 アスラン宅
 8月21日(日)。長男ヘータグ君17歳の部屋が私の部屋となった。
 ウルマゴフさんがたててくれた予定では、まずはウラジカフカース市内見学をして山地に慣れることになっている。これは、ロシア中央(つまり、ヨーロッパ・ロシア)からは、伝統的にカフカースの住民を山地(山岳)人ともいうからだ。(現在大部分のカフカース人は標高700メートル以下(参考:長野市は370メートル、諏訪地域が760メートル)に住む。
 午前中、クララさんが家の近所を案内してくれた。アスラン・ジオフさんたちのこの住居は市の中心よりやや北西にあって、コリブサ Кольбуса通り39番地(*)と言う4階建てマンションの一番奥の入り口から入った1階にある。
(*)ミハイル・イヴァノヴィッチ・コリブス Михаил Иванович Кольбусと言うのはカフカース出身の革命家でソ連時代の政治家、しかし1938年の大粛清時に銃殺され、のちに名誉回復された。この通りは、19世紀中頃のウラジカフカース市の地図では『第5兵士通り』とある。その後『ラーゲリ (キャンプ) 通り』となり、1963年現行のコイブサ通りと改名
中庭のたまり場(1階の窓から)
中庭のたまり場、別の日。メンバーはほぼ同じ
コイブサ通りの豪宅の一つ

 マンションのどの入り口も広い中庭に面していて、その中庭の出口には車の通れる広いドアと歩行者用ドアがあり外部とは仕切られている。つまり、この中庭は住民だけの駐車場であり、木陰にはあずまややベンチもあって、住民のたまり場となっている。お年寄りも子供も、育休中のお母さんもここに集まって時間を過ごす(情報を交換する)。女性と子供用のベンチと、テーブルに向かってカードなどができる男性用のベンチとがあるようだ。
 クララさんと近所の通りを歩いていると、立派な門と大きな扉があり、そのドアの向こうは建物に囲まれた中庭があって、その建物には中間層の数家族(マンション)が住んでいるようだ。立派な門と大きな扉の向こうには、富裕層の1家族が住むような住居もあって、門や扉には凝った装飾が施してある。門の向こうに見える建物は大邸宅のように立派だったりする。クララさんが、「この家はバザールのボスのものよ」とか、「鉄道のボスが建てているのよ」とか教えてくれる。コリブサ通りと言うのはボスたち(新興成金、特にアルコール類販売成金、旧体制時代の幹部)が家を構える通りなのかな。普通のアパートもある。1階建ての簡素な個別住宅もあるが、どれも道路には頑丈なドアのある門を構えている。街路樹はプラムだ。実が道路に落ちて割れている。割れていないのもある。クララさんと近くの八百屋にも寄る。フルーツが安くて豊富だ。さすがカフカースだ。
 アスラン・ジオフ宅は3LDKで、居間には家族写真がある。この家の主人のルスラン・ジオフと女主人のクララの写真、ルスランの父ザンテムィル Дзантемырと母ジェーニャ Женяの写真、祖父ブムモラト Бимболатと祖母ファーティマ Фатимаの写真(アスランにとって祖父母と曾祖父母はもう故人)、ルスランの先妻の子供でクルガン市に住んでいる長男アルトゥールとその妻、後妻のクララの長男だがルスランにとっては次男のアスランとその娘の8歳のアミーナ。アスランの息子の高校生のへータグ。アスランの弟のソスラン夫妻。その息子のアラン。ルスランとクララの末娘のファーティマの写真。この名は曾祖母から受け継いでいる。アスランの妻の写真はない。別れたからだ。クララはアスランの別れた妻について、子供二人を捨てて、自分たちジオフ家のお金を持ち出して、男とスタヴローポリに住んでいると、かなり厳しい。確かに、二人の子供の親権者とはなっていない。へータグは母親の方へ行くのは拒否したそうな。当時幼児だった娘のアミーナはベスラン市の母方の祖母宅で育てられていて、土日は父親のアスランが連れてくる。クララによるとアミーナの母親はベスランにもめったに来ないとか。
 ウラジカフカース市
 アスランと市内見物に出かけたのは午後になってからだ。マハルデク・トゥガノフの像が建つ芸術家同盟会館は自宅から近いコスタ大通りにある。ちなみに、このオセチアの芸術家マハルデク・トゥガノフ(1881−1952)と、オセチア文学の創始者とされる詩人のコスタ・ヘタグロフ(1859-1906)の名前は、大学、通り、公園、劇場、博物館、村の名前など至る所についている。アスランの長男ヘータグの名も、コスタ・ヘタグロフの苗字からとっている。
 芸術家同盟の会員は、北オセチア・アラニア共和国には200人近くに上る。会員になるにはそれなりの業績と承認が必要だ。会員になると、アトリエが支給されたり、展覧会が催されたりするようだ(年金も?)。アスランによると、オセチアはカフカースでも最も文化的な共和国で、1920年創立の総合大学には芸術学部もあり、芸術専門学校もあるが、例えばチェチェンでは、芸術学部・大学はなく、会員はたったの46名しかいない、とか。(イングーシ共和国にもカバルディン・バルカル共和国にも芸術学部はなさそうだ。)
 芸術家同盟会館の2階はホールになっていて絵画が展示されている。アスランのグラフィックは、今回の展示にはない。1階には芸術家同盟会員の写真が並んでいた。ちなみに、アスランが私を受け入れてくれたために、アスランを通じて知り合った人の大部分は芸術家かその関係の人たちだった。
アレクサンドロフスキィ大通りのコスタ像

 ウラジカフカースで最も歴史的な通りというアレクサンドロフスキィ大通り(現在はミーラ大通りと言う)にバスで行き、午後2時過ぎにはその遊歩道を歩いていた。
 現代のウラジカフカースは、1784年、エカチェリーナ2世(在位1762−1796)の命により、テレク川右岸のオセチア人の村ザウジカウ(*)Дзауджикауの近くに築かれた砦から始まった。当時ロシア帝国はカルトリ・カヘチ Картли-Кахети帝国(トビリシが首都で東グルジアにあった。現グルジアの前身。当時西グルジアはオスマン・トルコの勢力下)を保護国とするゲオルギエフ条約を結び、南カフカースに進出しようとしていた。カフカース山脈を越える軍事道路の要所として、テレク川岸に砦を築いていったが、最もカフカ―ス山脈に近い砦が、ザウジカウ村の近くに築いた『カフカースを征服せよ』という意味のウラジカフカース要塞だった。ザウジカウ村は、カフカース山脈を越えるダリヤル峡谷の(ロシア・モスクワ側から来た場合の)入り口にある。ウラジカフカース要塞はテレク川沿いのダリヤル峡谷を通り南カフカース(ザカフカース、ロシアから見てカフカース山脈の向こう側と言う意味)のグルジアに出る険しい『グルジア軍事道』(18世紀末から整備)の始点ともなり、カフカース山岳民(**)からグルジア軍事道を守り、ロシア帝国のカフカース征服の拠点として発展する。
(*)ザウジカウ村(Дзауджикау 語尾の『カウ』は村の意,だから冗語になる)。クルタチン峡谷に住んでいたというザウグ・ブグロフДзауг Бугуловが『共同体』間の仇討から逃れて、テレク川ほとりのイングーシと当時のカバルダとの境に住むようになって、その名がついた(『ザウグの村』の意)。当時、オセチア人は険しい峡谷にのみ住んでいて、現在ウラジカフカースなどのあるオセチア斜面平野はカバルダの封建諸侯のテリトリーだった(後述)
(**)カフカース山岳民 
現在のチェルケス=アディゲ人やアブハジア人、ダゲスタンやチェチェン人などで、当時はまだロシア帝国の支配が及んでいなかった

 19世紀初頭には、ロシア帝国は、カジャール朝ペルシャから、アゼルバイジャン(北部の大部分)を併合した。しかし、これらの土地が北カフカース山岳民族(前記チェルケスやアブハジ、ダゲスタンやチェチェン人など)の地によって分断されていたことから、ロシア帝国は、この分断を解消するためにカフカース全土の征服を目指して、カフカース(コーサカス)戦争(1817−1864)を展開。

この近くに住んでいたブルガーコフ
 ロシア帝国によるカフカース征服完了が見えてきた1863年、北西カフカースにテレク州が創設され、ウラジカフカースが行政中心都市(1866年の人口8000人)になった。(かつてのテレク州の領域は、現在のチェチェン共和国、イングーシ共和国、カラチャイ・チェルケス共和国、カバルダ・バルカル共和国、北オセチア共和国、ダゲスタン共和国、スタヴローポリ地方の一部を含んでいた)。テレク州は革命後の1920年に解体され、1921年-1924年は山岳自治ソヴィエト社会主義共和国(Горская Автономная Советская Социалистическая Республика)、1924年-1936年は北カフカース地方の北オセチア自治州などと、行政区分は変わっていったが、ウラジカフカースは北カフカースの行政と文化の中心都市であり続けた。
 ウラジカフカース市は、1931年には 革命家でソ連政治家グリゴーリー・オルジョニキーゼ(1886−1937)にちなんでオルジョニキーゼ市と改名。1944年にはザウジカウ市。1954年にはオルジョニキーゼ市に戻る。1990年には、18世紀からのウラジカフカース市と改名 して現在に至る。
 現在、都市近郊も含めて33万人(市だけでは30万人余)のうちオセチア人は64%、ロシア人は25%、アルメニア人、グルジア人、イングーシ人も数%。
 ウラジカフカースは、19世紀からロシア帝国にとって北カフカースの中心都市だったので(つまり周囲の山岳民と違って多少は親ロシア的だったか)、プーシキン、レールモントフ、トルストイ、チェーホブ、ブルガーコフたちが訪れている。アスランによると、当時モスクワやサンクト・ペテルブルクから南の保養地として多くの著名人が訪れていたそうだ。
 アレクサンドロフスキィ大通り
 テレク川右岸の旧市街地中心のアレクサンドロフスキィ大通り(現・ミーラ大通り)は19世紀前半からウラジカフカース要塞司令官ネストロフが整備したのでネストロフ並木道を呼ばれていた。1871年アレクサンドル2世が行幸したので、アレクサンドロフスキィ大通りと改名。革命後の1926年にはプロレタリア大通り、1936年にはスターリン大通り、1961年には現行のミーラ(平和の意味)大通りとなる(どの都市にもスターリン通りとかレーニン通りは中心部の目抜き通りの名前だった。どのスターリン通りも、たいがいミーラ通りと改名している)。
 この通りとテレク川の間はヘタグロフ公園となっている。この公園も19世紀後半ロシア帝国軍大佐のエロフェエフによって整備されたのでエロフェエフ公園と呼ばれていたが、19世紀末にはあずまや、並木道、池や噴水などが作られ、モンプレジール Монплезир (Моё удовольствиеフランス語で『私の満足』の意。サンクト・ペテルブルクのペテルゴフにもある同名の公園をまねたのだろうか)などと気取った名前で呼ばれるようになった。当時、ウラジカフカース市はカフカースのペテルブルクだったのだろう。
 アレクサンドルスキー大通りは真ん中に路面電車が通り、その横には並木道の遊歩道があり、その両外側には車道があって、古いどっしりとした由緒ありげな建物の前にも歩道がある。どの歩道を歩いてもウラジカフカースの歴史に浸れる。近くにブルガーコフが住んでいたとかで、その像もある。要塞を守ったコザックの像、ナルト叙事詩の英雄たちの像のある噴水、そしてもちろんヘタグロフの像など記念物も多い(上記写真)。
イングーシ共和国の紋章 ウラジカフカース市の紋章
 南のカフカ―ス山脈から平野に流れ出たばかりのテレク川は、ここではほぼ南北に流れ、川と平行なアレクサンドルスキー大通りから南を見ると、建物や木々に遮られないで、ちょうどカフカース山脈の山頂の一つで特徴的なスタローヴァヤ山(写真はここ)(*)が見える。これはイングーシと北オセチアの境界にあり(1944年以前はイングーシ領だった。現在は北オセチア領の東南端となってしまっているが、イングーシ共和国の紋章にも図案化されている(紋章中央の塔の背後には白いカフカース山脈、右はスタローヴァヤ山、左がカズベック山)。ウラジカフカースからもよく見えるが、イングーシの首都マナス(**)からも見える。ウラジカフカース市の紋章にもスタローヴァヤ山が図鑑化されている(黒いシルエット)。オセチアとイングーシの関係はとても微妙だ。と言うより今のところは敵対的だ。
(*)スタローヴァヤ山(3003メートル) スタローヴァヤと言うのはロシア語でテーブルの意。地形の専門語メサ (mesa) は、差別侵食によって形成されたテーブル状の台地のことで、「卓状台地」とも呼ばれる。台地と言うよりテーブル・マウンティン)さらに侵食が進み孤立丘となったものは、「 ビュート 」 (butte) と呼ばれる。
(**)マナス イングーシ共和国では1994年から新都建設が始まり、マナスと名付け、2002年それまでのナズラニからマナスに首都が移る。マナスと言うのはかつての栄光ある古代アラン族の首都名だった。8月26日に近くを通る

 アスランはこの平和(ミーラ)通りに大きな本屋があるという。私はオセチアの本と地図を買いたかったのだ。本屋にはワイファイがあって、スマホもできた。ちなみにアスラン宅にはWi-Fiがないので、スマホを通じたいときにはここへ来るか、アスラン宅の3階に住んでいるエリザロフ Елизаровさん宅に上がって行ったものだ。

トゥガノフ美術館
 平和大通り(旧アレクサンドロフスキー大通り)は、サンクト・ペテルブルクで言えばネフスキー大通りだ。ここにトゥガノフ美術館もある。建物は20世紀初めのロシア・モダン様式で、当時のオセチアの工場主が建てたそうだ。アスランが連絡してくれて美術館の案内係の女性が現れて、館内を丁寧に案内してくれた。ファーティマさんと言うそうだ。アスランの妹も、曾祖母もファーティマだ。オセチアではよくある響きのいい名前だ。
 イスラムの預言者モハンマドの娘はファーティマと言ったし、その子孫だという10世紀初めから12世紀半ばのシーア派系(イスラム世界の少数派)のファーティマ朝 909−1171年にもその名がある。ファーティマ朝はエジプト中心に北アフリカ、中東も含んでいた。ロシア正教の国であるオセチアにも、この女性名が多い。イスラムの国に多い。
 アレクサンドロフスキー大通りから少し出たところには『啓蒙家・聖グリゴーリィ教会』というアルメニア・キリスト教会が建っている。19世紀の60年代に建てられた赤煉瓦の建築記念物で、現行の教会だ。
アルメニア教会
ゼムフィラさんのアトリエで↓
 
 近くには俳優で演出家のエヴゲーニィ・ヴァフタンゴフ(1883―1920 Евгений Багратионович (Багратович) Вахтанговの像がある。ヴァフタンゴフは、モスクワのヴァフタンゴフ劇場となったスタジオの創立者で、俳優で演出家だった。そういえばよく聞く名前だ。彼はこの近くのアルメニア通りで、アルメニア系たばこ工場主の家庭に生まれ育ったそうだ。

 アスランが自分たちは招待されているのだと、ある友達のところに案内してくれた。前述のようにアスランの紹介で、ウラジカフカースで会った人はみんな芸術関係者だ。この時会ったのもゼムフィラ・ジオヴァさんという創作人形作家だった。彼女のアトリエへ行く。そのアトリエはアレクサンドロフスキィ大通りのはずれにあって、彼女の父の画家バムラス・ジオフ Бамраз Дзиовから受け継いだそうだ。ちなみにアスラン・ジオフさんと苗字が同じだ。
 先ほどのトゥガノフ美術館にもゼムフィラさんのオセチア民族人形は展示してあった。しかし、ゼムフィラさんのアトリエには、もっと素晴らしい芸術作品の人形がいくつもある。あまり見事だったので、日本人形も見てほしいと思ったくらいだ。それで、帰国したら人形を送ると約束してしまった。(11月には実行した。受け取ったゼムフィラさんのメールによると、郵送中、破損はなかったそうだ。)
 夜の8時になって町は暗くなっていたが、オセチア出身の著名な俳優トハプサエフВ. В. Тхапсаева (1910−1981)の像があるイロン劇場(*)を通り、帰宅。中庭のベンチにはこのマンションの住民とクララさんが座っていた。育児休暇中の若い母親もいる。
(*)イロン劇場 正式には1935年開館の『トハプサエフ記念北オセチア国立労働赤旗勲章アカデミー劇場』。オセチア語には東にイロンと西にディゴーラという主な2方言がある。イロン方言が圧倒的に優勢だが、ウラジカフカースにはディゴーラ劇場(1996年設立)もある。イロン方言話し手には、ディゴーラ方言はほとんど理解できないと言われる。少数派のディゴーラ方言の話し手はイロン方言が理解できる。18世紀以前アラン人の末裔が山岳の峡谷ごとにいくつかの共同体を作って住んでいた時代、現在オセチアの中部と東部にイロン人、西部にディロン人が住んで分化していったのか。
 (後記:歴史的にディゴーラはオセチアとは別とみなされて、前記山岳自治社会主義ソヴィエト共和国(1921−1924)では8つの管区のうちの、オセチア管区やチェチェン管区などと並ぶディゴール管区があった。
1922年にはディゴールは管区はオセチア管区に合併)。
 テレク川岸 北オセチア大学
 8月22日(月)朝9時前には、まだ中庭のたまり場のベンチには誰も座っていない。ベンチはレンガの壁に沿っておかれているが、横には木が植えてあり、ツタのように枝が伸びて、たまり場はよい日陰になっている。
北オセチア総合大学
大学正面で待っていてくれたマミエフさん

 トゥヴァのスキタイ時代の古墳発掘現場で知り合ったウルイマゴフさんの紹介でここへ来たので、ウルイマゴフさんは私がオセチアの考古学についてもできるだけ詳細に知ることができるようにと、オセチア大学の考古学博物館見物も計画してくれていた。それは、私が『山岳』季候に少しは慣れた到着2日目となっている。それがこの日の最初の予定だった。
 ヘタグロフ名称北オセチア国立総合大学に着いたのは1時過ぎだった。正面玄関で私たちを待ってくれている背の高い男性(身長2メートル)がいて、学内の建物を通り抜け、中庭も通り抜け、『オセチア文学部』とあるドアも通り、博物館になっているホールに案内してくれた。ミハイル・マミエフさんという研究員で、『古代アラン博物館』と書いたどっしりとしたドアの鍵を開け、警備を解錠して、中へ入れてくれた。金銀製品のような高価なものは別の場所、金庫のようなところに保管されていて、ここには学問的に貴重なものだけが展示されているそうだ。
 ミハイル・マミエフさんは1時間半ほど、青銅器時代のコバン文化、カフカースのスキタイ文化、サルマート族の一派アラン人の遺跡、モンゴルとタメイランの侵攻、山岳地方に残されたオセチア・アラニアの文化、ロシア帝国合併…などについて詳しく説明してくれた。
 最後に『アランの財宝』という写真集までくれた。こんなに長時間にわたり、詳しく説明してくれて、こんなに立派なお土産も贈呈されて、感謝の言葉も難しい。本は英語とロシア語が併記されていて、外国人用でもある。『アランの財宝』は、昨日の本屋で買おうかと思って買わなかった本なのでちょうどよかった。アスランの父、ルスランもこの本を持っていた。スーツケースに入れて日本まで持ち帰るにはかなり重いが。
 大学を出たのは4時近くで、また目抜き通りのアレクサンドロスキー通りに出て、ヘタグロフ公園を通り、テレク川岸に出る。テレク川は大カフカ―ス山脈の奥のグルジア領から流れ、ダリヤル峡谷を作って大カフカ―ス山脈を越え、北オセチアを北上し、カバルダ・バルカル共和国で東へ向きを変え、チェチェンとダゲスタンを通ってカスピ海(*)に注ぐ632キロの大河だ。河口まで530キロという、ダリヤル峡谷を出たばかりのウラジカフカースのテレク川は、まだ流れが速く川幅はそれほど広くはない。町中に車も通る大きな橋は4,5本しかないが、公園の横に感じの良い歩道橋があって、テレク川を渡る。
(*)カスピ海に流れる水量で最も多いのはヴォルガ川、次がウラル川、次がテレク川。
テレク川。背後のモスク
 川岸に建つイスラムの均整の取れた美しいモスクが見える。1908年に大富豪のバクーの石油業者ムルトゥザ・ムフタロフМуртуза-Ага Мухтаров(1855−1920)の資金で建造された2本の塔のある美しい記念物だ。宗教施設はどの教派も競って美しい建築物を建てる。カフカースに限って言えば、イスラムのモスク(礼拝堂)やミナレット(礼拝への呼びかけを流す塔)はロシア正教やアルメニア教会の寺院より壮麗で華美だと思う。ウラジカフカースで唯一の、このスンニー派のモスクはムフタロフ・モスク、またはスンニー派モスクという。
 橋の上で、テレク川をバックに何枚も写真を撮ったのを後で見ると、その美しいモスクも映っていたのだ。一神教徒たちは排他的だ。アスランは多分モスクを認めていない。彼はロシア正教からも距離を置いている。後のことになるが、市内見物でタクシー運転手(ロシア人)がウラジカフカースで最も美しいという正教会『勝利者ゲオルギア大聖堂』に案内してくれた時、彼は中に入ろうとしなかった。彼が運転手なら私をそこへ案内しなかっただろう。アスランたちはオセチア、つまり自分たちの先祖であるアラン人の伝統宗教を信奉している。
 だから、この時はモスクを遠く橋の上から偶然にも眺めただけだ。
 6時ごろ、ヴラジ―ミル・アイラロフ Владимир Мухарбекович Айларовさんという芸術家のアトリエに行く。油絵がたくさん立てかけてある。アスランが日本人を連れてお客に行くからと連絡しておいてくれたのか、コーヒーを沸かして待っていてくれた。ウラジーミルさんは三島由紀夫が好きだそうだ。一昔前までは阿部公房の愛読者が多かったが。
 ロシアとオセチア栄光の並木公園、イングーシ
 8月23日(火) 朝食はトウモロコシのスープだった。今朝も、中庭のたまり場には子供やお年寄り、育休のお母さんたちがたむろしている。彼らは普段はロシア語ではなく、イロン語、つまりオセチア語の主な方言で話すことの方が多いようだ。
 11時過ぎ、アスランとバスに乗って出かける。南方面の郊外にある広大な勝利記念公園だ。第2次大戦勝利の何らかの記念碑は、モスクワをはじめロシアではどんな小さな村にもある。ウラジカフカースに2005年(戦勝60周年)できたという『栄光の記念』広場と建造物の規模はロシアで第3の大きさだとか。凱旋門風のアーチもあれば、北オセチア出身の英雄戦士の名を彫った長い長い壁(パネル)もある。
 ウラジカフカースの第2次世界大戦勝利記念広場には、『友好の記念碑』つまり、『(オセチア)大使によるエリザヴェータ女帝へ国書(信任状)の授与』という群像もある。これは1751年ズラフ・マグカエフ(*)を主とするオセチアからの使者団が、当時ロシア帝国首都のペテルブルクへ行き、オセチアを帝国に併合してオセチア人が平地へ移住することを可能にしてほしいという国書を女帝に手渡したことの記念碑だ。当時オセチア人(前述のように古代、中世のアラン人の子孫とされる)はカフカース山岳地帯のいくつかの深い峡谷に住んでいた。アラン王国時代はカフカース北麓とその平原一帯が領土だったが、1238年のモンゴル軍の襲来や、1395-1400年のタメルランの征服により、アラン人の遺民はカフカース山脈中の南斜面と北斜面の深い峡谷に逃げ込むしかなかったのだ。タメルランの後は南斜面のオセチア人はグルジア帝国の勢力下にあり、北斜面峡谷のオセチア人はカバルダ諸侯の勢力下にあり、平地に自分たちの集落が作れないでいた。また東からはイングーシの勢力に侵攻されていた。それで、ズラフ・マグカエフたちはロシア帝国の保護下に入り、イングーシの侵攻から守ってもらい、祖先からの領土(とみなされていた)を取り戻させてほしいと頼んだわけだ。深い峡谷では養える人口も限りがある。現在オセチア領となっているオセチア斜面平原(地図は前ページ)は、当時小カバルダ諸侯国の領土だった。ちなみに、現在のカバルダ・バルカル共和国の北部平原は、当時大カバルディノ諸侯の勢力圏だった。
(*) ズラフ・マグカエフЗураб Магкаев 苗字が、エリハノフ Елихановまたはエゴロフ Егоров、アゾゾフ Азозовという資料もある。その傍系の子孫の一人と言う人にカムンタ村で会うことになるのだが、それは後述。ズラフ・マグカエフはグルジアの宮廷で教育を受けたといわれ、グルジア語、ロシア語、カバルダ語が自由に話せた。同時代人の評価でも、マグカエフは、チェルケスからオセチアにかけて最も優れた政治家で外交官だったと言う。18世紀前半からオセチアの諸共同体をまとめ(山岳地帯に入ってからのアラン・オセチア人は民族統一国家を作ることはなかった)、共通の問題の解決にあたってきた。モンゴル襲来によって失われた故地の回復はロシア帝国の全面的な庇護なしでは不可能とみなしていた。ペテルブルクから帰国後も、各共同体を回って説得していたという。

 ロシアにとっては、オセチアを通ると、カフカース超えでグルジアへ出る最も便利な道、つまりダリアル峡谷を通る道が確保でき、また、オセチアの山岳地帯に豊かな鉛・亜鉛鉱山が当時発見されていたので、オセチア合併は有利だったが、ペルシャやトルコはロシアのカフカース進出を警戒していたので、帝国としてはすぐには合併の条約を締結しなかった。締結されたのは公式には1774(1775)年だったが、事実上の合併は19世紀30年代以後とされる。
ズラフが国書を女帝に手渡す

 『友好の記念碑』群像では、ズラフ・マグカエフが1段高い台に立つエリザヴェータ女帝のまえで胸に手を当てて立っている。女帝は巻物を手にしてズラフを見ている。ズラフの後ろには副使だったという2人とズラフが同伴したというまだ少年の息子が立っている。周りには高いアーチがあり、オセチアからペテルブルクまでの大使たちの道のりがレリーフされている。
 アスランによると、ロシアと合併したことはよい面と悪い面があるという。ロシアの庇護のおかげで、オセチアは山岳の峡谷から平野に移住できたという。それは、ティムール(タメルラン1336−1405)軍に打ち破られ、先祖からの土地を奪われ、全滅寸前のアラン人が狭い峡谷に逃げて暮らさざるを得なくなって以来の自分たちの宿願だった。峡谷ではどうしても面積が足りず、産業も商業も発展させることができず、人口も増えなかった。当時(タメルランの後)、前述のように、山麓の平野(現在のオセチア斜面平野)はカバルダの封建領主のテリトリーだった。ロシア帝国に併合されたため、平地にオセチア人の村を作ることができたが、しかし、オセチアはロシアの主権を受け入れなくてはならなくなった。ロシア化されていった。
 アスランはカフカースの国々の中でオセチアとアルメニアのみが印欧語族だという。確かに、オセチアの西のカバルダ語(チェルケス語やアディゲ語と同じ)は北西コーカサス語族(またはアブハズ・アディゲ語族)、東のチェチェンやダゲスタンは北東コーカサス語族(またはヴァイナフ・ダゲスタン語族)、南はカルトヴェリ語族(または南コーカサス語族、カルトヴェリ語はジョージア国の公用語)、また、チュルク語系を話す民族(バルカル、カラチャイなど)も多い。では、周りの民族より、自分たちオセチア人はロシアにより近いと思うのかと聞いてみる。いやそうではない。スラヴ人のロシアと自分たちは決定的に異なる。では誰に最も近親感を持つのか。それはペルシャかもしれない、という答えだ。ペルシャ、しかしイスラム化される前のイランだという。古代の遊牧サルマート人はイラン系とされる(*)。サルマートの一部であったアオルサイ族、その流れの中世のアラン人も、古代のイラン人の子孫と言える。そのアラン人のカフカースに残った遺民がオセチア人なのだから。
(*)メソポタミアの歴史にもイラン系とされる『野蛮人』遊牧民が北や北西の山々からたびたび登場し、メディア王国など、オリエントに国を作っている

 アスランはロシア正教徒ではない。隣国のチェチェンやイングーシ、カバルダのようなイスラムでもない。古代のペルシャのゾロアスター教でもない。宗教については非常に微妙なものがあると言う。アスランはオセチアの古代からの伝統的な宗教、神話に親近感を感じているそうだ。それはつまり、『ナルト叙事詩』の世界だ。ナルト叙事詩はオセチアのみでなくカフカースに広く伝播している。登場人物(神も)名は、それぞれの民族語だが、平行している。ナルト叙事詩の基礎はサルマート・アラン系と言われている。しかし、オセチアでは叙事詩の失われた部分も多いが、その失われた部分が、他民族に残っている場合もあり、その逆もあって、断片をつなぎ合わせることができるそうだ。
 ちなみにナルト叙事詩の基礎は、コバン文化の担い手の神話だったともいわれている。そしてコバン文化は土着カフカース人(つまり、カフカース語族、英語ではコーカサス語族)の祖先が担ったともいわれている

 勝利公園の広い敷地には、オセチアの『英雄』や著名人たちの墓もある。また、2004年のベスラン学校襲撃事件の犠牲者を悼むモニュメントもある。学校を襲ったテロリストたちは、強力にドーピングされていたという。強い薬のため、たとえ体が半分なくなっても腕さえ残っていれば銃を撃つことができたとか。ベスランの学校を襲撃したイングーシ人のテロリストたちは、オセチアを憎み、オセチア人を絶やすために学校の子供たちを襲ったのだという。
 オセチア人のアスランはイングーシのことはよくは言わない。近世以来あまり友好的でない関係だったのだろう。もともとテレク川がオセチアとイングーシの住み分けの境界(地図)で、右岸(東)の村々ではイングーシ人が多く、左岸(西)はオセチア人が多かった。しかし、かつてはどんな国境線もなかった。
 18世紀、テレク川の上流のダリヤル峡谷を通ってグルジア軍事道ができた頃も、テレク川右岸辺にできたウラジカフカース要塞はオセチアの最東端にあった。ほとんどイングーシ人のテリトリーともいえた
 ソ連時代、前記山岳ソヴェト社会主義自治共和国(1921−1924)から1922年11月30日にはチェチェン自治州が、1924年7月7日にはイングーシ自治州が分離された。1934年、2自治州が合併し、チェチェン・イングーシ自治州となり、1936年にはチェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国に昇格した。
 しかし、スターリンによって1944年から1956年までイングーシ人やチェチェン人はカザフスタンなどに強制移住させられ(スターリンたちにとって好ましくない少数民族とされ、ジェノサイドされたと見なせる)、チェチェン・イングーシ自治共和国は廃止され、テレク川右岸も北オセチア自治共和国に合併されプリゴルスク区東部となった。1957年、チェチェン・イングーシ自治共和国が復活され、イングーシ人は故郷に戻ることが許されたが、元イングーシ領だったテレク川右岸は北オセチア領のままだった。つまり、オセチアはイングーシに彼らの土地を返還しなかったわけだ。
 1991年ソ連崩壊、1992年 、チェチェン・イングーシ共和国が分かれて、イングーシ共和国が創設されたが、ロシア連邦の中でも最も面積が小さかった。新イングーシ共和国は1944年以来北オセチア共和国に帰属していた旧領の、現北オセチア共和国プリガラド区東部、つまり、テレク川右岸(タルスコエなどノイングーシ伝統的な村々がある)などを取り戻そうとしたが、北オセチアが反発。1992年10月 北オセチア共和国とイングーシ共和国の間で武力衝突が勃発(オセチア・イングーシ紛争)。ロシアが武力介入し、現在停戦中。テレク右岸は依然としてプリガラド区として1944年以来のオセチア領のままになっている。イングーシは依然として、自分たちの故地を要求している。
街角でクワス(穀物から作る発酵飲料)や すいかが売られている

 アスランはベスランの学校を襲撃したテロリストはオセチア人を撲滅しようとしていたと、イングーシに対して反発している。「栄光の並木道公園」に2004年の悲劇を悼む記念碑が作られ、そのそばには「受難者聖イオアン・ヴォイン」教会が建てられている。
 この2005年にできた記念公園はウラジカフカース観光名所の一つとなっている。

 2時ごろ市の南に広い面積を占めるその公園を出て、またバスに乗って行ったのはアスランのアトリエだった。かなり広くて、今、アスランはここを別宅としてリフォームしている。つまり寝台とバス・トイレ(未完)があり、小さなキッチンもある。もともとアトリエには水道とトイレはついているが、アスランはより快適な仕事場兼住居にしようとしている。アスランはグラフィックの作者だが、今は木工芸をやっている。木を彫り磨いて作った様々な容器、食器を見せてくれた。オセチア(カフカース全体かも)では伝統的に3脚の低い椅子を用いた。それは、木の幹から枝が伸びている部分を切り取れば、「く」の字型の座席ができ、両端と真ん中の曲がり角に足をつけるだけで椅子になる。昔、山岳地帯の村々では、このまま森の中の生活に用いていただろう。今は、幹と枝の自然のままの形を生かして芸術的な民芸品が作られている。また、古い3脚いすも骨とう品として重宝されている。アスランのアトリエには両方あった。
 アトリエがあるのは、自宅からやや遠い通りにある6階建て建物の5階で、この建物の5,6階のみがオセチア芸術家同盟員のアトリエとなっている。同盟員のアトリエ群は、市の別のところにもあって、それは後日訪れた(次ページ)。
 アスランは自分のアトリエのリフォームに凝っていて、オセチア(アラン)伝統宗教のミニ祭壇も作ろうとしている。どんな祭壇でもそうだが、不可欠の付属品というのがあって、それはオセチアでは3枚のピラギ(ピローグの複数形。肉や、果実、チーズなどのパイ)だそうな。
 南オセチア共和国
 夕方、家に帰り、夕食後、3階に住むイナル・エラザロフ Инал Владимирович Эладзаровさん宅にWi−Fiをつながらせてもらいにクララさんと上がっていく。奥さんはゼーマ Земаさんという。「ぜひ」といわれて、御馳走になる。
エラザロフさん宅、イナルさんの右はクララ、左はゼーマ

 エラザロフさんは南オセチア出身だそうだ。モンゴルやタメルランに追われて、かつてのアラン人は大カフカ―ス山脈の奥へ奥へと移住していかなければならなかった。さらに一部は大カフカ―ス山脈脈の分水嶺を超え、南麓(グルジア)の山中にも住むようになった。前記のように、オセチアと言うのは、かつてのアラン人、当時のアス人(As)をオウス(Ovs)と呼んでいたグルジア人が、アス人の居住地域を指してOvsetiと言っていたのがロシア語に取り入れられて広まった他称だ。
 現在、大カフカース南麓のオセチア(南オセチア)は事実上グルジア(ジョージア)から独立していて、ロシア連邦からはビザなしで入国できる。つまり、南オセチアは、ソ連時代はグルジア・ソヴェート社会主義共和国の自治州だった。が、グルジアが独立後、南オセチア自治州は廃止され、グルジア化が行われたがそれに反発してか、2008年南オセチア紛争(ロシア・グルジア戦争と言うが被害を受けたのは当事者南オセチア人だ)で、アブハジアと同様、グルジアの主権の及ばない地域になった。グルジアによるとロシアの傀儡政権ができているそうだ。エラザロフさんの息子さんは南オセチア共和国首都のツヒンヴァリに住んでいる。いつでも自由に、短時間で往復できるという。確かにウラジカフカースからツヒンヴァリへ毎日定期バスが7便も出ていて、料金は260ルーブル。ツヒンヴァリからは5便でバス代は200ルーブル。(2015年9月の情報)。距離は163キロ。バスはウラジカフカースからA164号線でアラギルまで行き、そこからはR197(トランスカム道)でカフカ―ス山脈のロック・トンネル(*)を超え、国境の検問も含めて3時間半で行く。しかし冬季積雪量が多くて除雪できない時期は閉鎖。
(*)ロック・トンネル 1984年完成、長さ3780メートルで、北側入り口は標高2040、南側は2112メートル。当時、ソ連邦で最も長いトンネルだった。

 エラザロフさんは国境付近のカフカ―ス山脈は、バスの窓からの眺めだけでも抜群だ。と強調する。私もぜひそんなバスに乗ってトンネルと国境を越え南オセチアに行ってみたくなるが、それは、現在は不可能。日本は南オセチアを認めてはいないので、国交がない。だからビザも発行できない。日本と国交のあるグルジアへは行けるがグルジアから南オセチアへはまず入れない(*)。「南オセチアにグルジア人はいないの」と聞いてみると「いない。自分たちが追い出した」と言うことだ。
(*)グルジアと南オセチア間の境界はほぼ閉鎖されているが、ツヒンヴァリ(南オセチア共和国でも最も南にある)から1キロ南のグルジア領エルグネチ村の国境から特別許可があれば、南オセチアに入ることができる。
http://www.kavkaz-uzel.eu/articles/236745/

 後日だが、トランスカムを、トンネルまであと10キロという地点まで行ってみた。確かに、山々の景色は荒涼でそれなりの趣があった。
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