クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 10 May, 2016 (追記 2016年6月13日,2017年3月26日,6月10日)
北ロシア,ウラル山脈北西コミ人たちの地方  (3)
    メゼニの首飾り、ウドール地方
           2015年7月20日から8月6日(のうちの7月23日から7月24日)

Путешествие по КОМИ 2015 года (20.07.2015−06.08.2015)

月日 目次
1)7/20 コミ共和国 S.ペテルブルク着 S.ペテルブルクの住宅事情 詩人・シュメール学博士
2)7/21-7/22 北ロシアに向かう(地図) ヴォログダからトッチマ スホナ街道(地図) 大ウスチュク アルハンゲリスク州 ゥイブ大村
3)7/23-7/24 (コミ地図)
スィクティフカル市
コミの鉄道 幹線と支線 (ウドール区地図)
コミ人のウドール地方へ
ウドールの歴史 メゼニ川のパトラコーヴォ村
4)7/25-7/26 大プィッサ村 郷土史家ロギノフさん 郷土芸能家アンドレーエヴァさん マーガレットの絨毯 ホロムイイチゴの沼 ムチカス村
5)7/27-7/28 先祖伝来の狩場、プーチキ 隣村のコンサート 天空の村 メゼニ川沿いの村々
6)7/27-7/30 菱形のコミの対角線上を行く ロシア初の石油の町ウフタ ペチョラ川を渡る ヴクティル市 ペチョラ川を下る 国立公園『ユグィド・ヴァ』
7)7/31-8/1 ユグィド・ヴァ地図 シューゲル川を遡る 『中の門』と『上の門』 リュブリョーヴァヤ停泊小屋 小パートク川 サーモン大漁
8)8/2-8/6 北ウラルを去る、(旧)最短の道 スィクティフカルからヴォログダ スターラヤ・ラドガ ブルーベリー
子も
コミ共和国地図、42万平方キロ(うち75%は森林。1%が農地、10%は沼地)。ひし形の長対角線・南西から北西の距離は1275キロ。南北は785キロ。東西は695キロ。共和国人口85万。人口密度1平方キロに2人。10市26兆59村
 スィクティフカル市
 7月23日(木)。朝7時半過ぎにはセルゲイさんの別荘を引き上げる。ゥイブ大村の復興中、復興済み、未復興の聖堂などを眺めて、40キロは北にあるスィクティフカルに向かう。1時間後にはセルゲイさんのマンションに着き、朝食をすませ、一休み。アンジェラさんは仕事に出かける。
戦没者慰霊碑
地元テレビのインタビュー
労働英雄表彰パネル
上記パネルの右上のはめこみ彫刻
コミ伝統意匠の鳥の胸には
フィン・ウゴル族や
北東ヨーロッパの民族の
崇拝偶像『金の女性』
(コミでは Зарни аньという)
コミ共和国の紋章になっている

 11時頃にはセルゲイさんの車にジェーニャと乗って、スィクティフカル観光に出る。
 前述のように、スィクティフカル市はスィソラ川の河口がヴィチェグダ川に合流する地点の意味のロシア語地名『ウスチ・スィソリスク(スィソラ川の河口)』と、1930年まで言われていた。『スィソラ』とは、『スィクティフ』のロシア語風の発音だった。『カル』と言うのは『都市』の意味。16世紀にはスィソラ上流(南のゥイブ大村など)からコミ人が移ってきて小さな村と教会ができたそうだ。15世紀末ごろには、コミ人たちの地はモスクワ公国の勢力範囲・支配地に組み込まれていて、ウスチ・スィソラ村は18世紀後半エカチェリーナ2世の時代には、ヴォログダ総督管区の19の郡のひとつの郡庁所在地となり、ウスチ・スィソリスク市と改めた。20世紀はじめには人口数千人程度のロシア北方の地方商業都市として栄えた。1921年からは自治州コミの、1936年からはコミ・ソヴィエト社会主義自治共和国の、1991年からはコミ・ソヴィエト社会主義共和国の、1993年からはコミ共和国の行政中心地だ。
 19世紀末には人口4500人のうち82%がコミ人だった。1959年には人口6万5千人のうち50%がコミ人だったが、2010年の人口25万人のうちコミ人は25%。
 スィクティフカルはモスクワから直線で1000キロ、自動車道では1330キロとなる。年平均気温はプラス1.3度。私たちのように、サンクト・ペテルブルクからでは、1500キロの道のりだ。
 スィクティフカル観光と言っても、教会、戦没者慰霊碑、レーニン像のある広場、地元出身の文学者クラートフ(1839-1875)の像と噴水のある広場と言ったどの地方都市にでもある『名所』の他には、スィソラ川岸しか見なかった。どの地方都市にでもあると言っても、例えば、全国どんな集落にもある戦没者慰霊碑広場だが、そこに立つ3人の像がコミ人ふうなのが、他のロシア地方都市とも違う。スィクティフカルはそれなりにコミ人のスィクティフカルらしい町だと思う。コミ風の模様をつけた公共建物もあった。しかし、外から見ただけだし、案内のセルゲイさんも郷土のことはあまり知らないようだ。ここで生まれたわけではないから。
 スィクティフカルでコミを見つけることはできても体験はできないだろう。コミ人の村へ行けば、コミのことが分かるかもしれない。スィクティフカルでは時間もなかった。と言うのは11時半ごろ、噴水広場で地元テレビ局のインタビューがあったからだ。
 インタビューは主に旅行者セルゲイさんの世界各地の旅の話と、日本にも行ったことがあり、今は日本から客が来ていると言うので、その客の私ともしばらくだけ対話があった。その間の30分ほどはジェーニャが待っていてくれた。
(帰国後のことになるが別の地元新聞社の記者からSNSでインタビュー依頼があった。10個ほど問が書いてあったので、それに答えると、数日後、私のロシア語を校正して載っている記事が送られてきた。)
 市内には『オキナワ』と言うスシ・バーがあり、セルゲイさんに促されて写真を撮る。ロシアで『トーキョー』とか『サムライ』とか言う寿司店はよく見かけるが、『オキナワ』とは珍しい。また、近くの広場にあった労働英雄の屋外パネルは新しかった。新しい大きな写真が並び、その下には業績を書いた掲示板がはめ込まれている。このような屋外パネルは、たいていの地方都市にある。多くは古く傷んでいるものだが。
 また、スィクティフカル市の中心広場の一つは『聖ステファン・ペルム』と名付けられている
 コミの鉄道、幹線と支線(地図参照)
 スィクティフカル観光にあまり時間がなかったのは、今夜出発の列車のチケットも購入しなければならなかったからだ。駅へ行く。小さな駅だった。それもそのはず、スィクティフカル駅は主要分岐点でもなく、幹線鉄道も通っていない。コミの鉄道はヤロスラヴリ駅から北東へ、白海や北極ウラル方面にまで延びる北部鉄道管区内にあるが(*)、幹線はヴォログダからコトラスを通り、天然ガスなどの大産地ウフタや、北極圏にある大炭田ヴォルクタへ向かい、スィクティフカルを通らない。しかし、その幹線鉄道上の小駅ミクニ(**)から南東に、スィクティフカルのためだけに特別に100キロほど支線が引いてある(1962年完成)。だから、スィクティフカルで行き止まりだ(盲腸の先端のようだ)。一方ミクニ駅から北西に、メゼニ川左岸のコスランまで160キロの支線が延びていて、私たちは、スィクティフカルこのコスラン駅までの260キロほどの鉄道チケットを購入したのだ。北西コスランに延びる鉄道は材木運搬のためだ(後述)。
(*)ロシア連邦鉄道はオクチャブリ鉄道管区や西シベリア鉄道管区、サハリン鉄道管区など19の鉄道管区に分かれていて、北部鉄道管区の管理本部はヤロスラヴリ市にある。北部鉄道は中でも最も古く19世紀後半から敷設され始めた。最北のヴォルクタまで1941年には敷設。
(**)ミクニは北部鉄道建設のために1930年代末にできた鉄道城下町。ミクニと言う名は近くにミクニと言う村があったからだ。ミクニとはもともとギリシャ語の男子の名ニコラスがロシア語でニコライ、その派生語がミコライ、ミコラ、ミクニとなったものからだ。人口1万人。鉄道建設には多くの囚人・政治的に弾圧された強制労働者たちが従事。近くに被弾圧者たちが合葬されている大規模な墓地があるとか。ミクニ市には鉄道博物館のほか、強制移住させられた著名な建築家設計の文化宮殿もあるそうだ

 スィクティフカルを17時15分に出てコスランに0時40分に到着すると言う列車が、週6本ほど出ている。チケットは896ルーブル(当時、約2200円)で、クペー(コンパートメント)ではなくプラツカルタだった。つまりドアもカーテンもない2段ベッドで一区画4人のほか、通路の窓際に2段ある。通路側下段は通る人にまともに見られるし、上段は落ちるのが怖い。クペーを買いたいと、セルゲイさんに頼んでみたが、男性たちはプラツカルタで十分らしく、無視された。確かに7時間余しか乗っていないのだから、横になって運ばれると言うだけで十分だ。ちなみに、この列車にはプラツカルタ券(寝台)のほか座席指定券(横にはなれない)、自由座席券(満員のときには立ち席か)やクペー券があって、料金は、クペーがプラツカルタの2倍、座席は指定も自由も同額でプラツカルタの3分の2くらいだ。
 チケット購入の次は、セルゲイさんの用事でアンジェラさんの仕事場に行く。私立の認可保育所で補助金が支給されているらしい。『コンサルタント・センター、特別早期教育』をもすると表の看板にある、普通のマンション改造の小規模保育園で、中に入れてもらったのだが、たぶん10人くらいの児童がいて、今はお昼寝中らしかった。
 この日、国立博物館の分館の民俗博物館にも行く。国立博物館は休館だった。
 そして、17時15分発の列車に乗って、コミ人の村々と言うウドール区へ出発する。無論、各駅停車だ。列車はほぼ満員だった。プラツカルタでも私たち3人の寝台が近いところで購入できてよかった。
 コミ人のウードル地方へ
ウドール区 (黒線は鉄道、支線の終点はウソゴルスク)
 7月24日(金)。早朝0時40分に、コスラン駅へ着く。23日の深夜と言ってもいい。コミではコミ民族を知りたいと言う私の前もっての希望で、セルゲイさんはコミ共和国のウードル区、メゼニ川岸のパトラコーヴォ村の観光付きゲスト・ハウスを4日間予約しておいてくれたのだ。プログラムの期間が4日間となっていたからだ。パトラコーヴォ村まではもちろん鉄道はなく、ミクニ駅から延びている支線の終点コスランで降りて、130キロほど、メゼニ川岸を下って行かなくてはならない。
 コミ共和国には20個の自治体(区)があり、コスランが行政中心地となっているウードル区は最も西にあってアルハンゲリスク州に3方が囲まれている。人口は2万人ぐらいで過疎化が進んでいる。ウードル区東半分を『首飾り』のように一周してアルハンゲリスク州を通り白海に流れ出る上記メゼニМезень川(966キロ、ウードル区内は540キロ流れる)と、東半分を南から北へ流れ、アルハンゲリスク州でメゼニ川に合流するヴァシカВашка川(605キロ)の2本とその支流が区内を流れる。13世紀にはコミ人の祖先たちが両川沿いに住んでいた(後述)

 夜中の0時40分に、史料の初見では1554年というコスラン村に列車が到着すると、これから向かうゲスト・ハウスからの迎えの車が待っていた。実は、コスラン駅はコスラン村にはなく、隣のウソゴルスク市にあるのだが。(これには事情がある。後述)。
 過疎化が進み無人となっている村もあるメゼニ川沿いには、まともな道はないと、セルゲイさんは思って列車で来たのだ。だが、コスランからパトラコーヴォ村までの130キロはそれほどの悪路でもなかった。メゼニ川岸には幾つもの古い村があり、朝霧のメゼニ川も美しいのだが、私はだいたい眠っていた。

朝霧のメゼニ川
『パンと塩』儀式
朝3時過ぎ7人で囲んだ歓迎夜食会
姪孫のナターシャ、孫のアンドレイも
私の部屋の蚊帳つきベッド
 目的のパトラコーヴォ村のゲスト・ハウスに着いたのは午前3時少し前。後でわかったのだが、運転していたのはゲスト・ハウスの女主人ディーナ・チュプローヴァさんの息子でコスランに住んでいるドミートリーさん。
 ディーナさんの家がゲスト・ハウスであり、65歳くらいのディーナさんはそこに夏場だけ住んでいる。旅行者の私たち3人の宿泊と観光予約が入ったので、夏休み中の大学生の孫たちを助っ人に呼んである。孫たちは田舎の祖母のところで逗留でき、お手伝いをして、お小遣いももらえるわけだ。
 ドミートリーさんの車で到着すると、玄関先でディーナさんに、ロシア風にパンと塩で迎えられた。賓客を両手でささげたパンと塩で迎えるという『パンと塩』儀式は元々ヨーロッパの風習だそうが、今行われているのはロシアとその周辺だけらしい。私はスラヴだけの風習と思っていた。コミもロシアから様々な習慣を取り入れている。
 夜中の3時過ぎだと言うのに、私たち7人、ディーナ・チュプローヴァさん、ドミートリーさん、孫のアンドレイと姪孫のナターシャ、それに私たち3人は食卓を囲む。朝食なのか夜食なのかわからないが、来客と主人はまず食卓を囲むことが大切だ。
 そして、明け方4時近く(と言っても、もう真っ青な空)、本格的に今日の分を眠るために、私はこの家に用意された蚊帳付きベッドのある寝室へ、そして、セルゲイさんとジェーニャは別の家へ引き上げたのだ。

 10時半に起きて、ウードル区パトラコーヴォ村での第1日目が始まった。別の家に案内されていたセルゲイさんとジェーニャも集まって、朝食(昼食)を食べる。
 ツアーの主催者であり、私たちの宿泊所のオーナーでもあり、食事を作り、ガイドもするディーナ・チュプローヴァさんは、郷土誌家らしい。ウソゴルスク市(行政中心地コスラン村に接してある)の児童会館のようなところで指導員の仕事をしているそうだ。同市の児童が郷土史を学ぶ時や、メゼニ岸の見学旅行などの時、ディーナさんは指導者として活躍している。話し方が教師っぽかった。年に何組ほどのツーリストが来ているのかと聞いたところ、私たちの前の訪問客は数年前だったと言うから、ゲスト・ハウス経営とガイド(インスペクター)は副業のようなものか。ゲスト・ハウス、つまり民宿を経営しているのはこのあたりではディーナ・チュプローヴァさんだけだ。
 パトラコーヴォ村には夏場の今でも、数家族しか住んでいない。統計によると村の住民は10人(1926年には28軒あり、140人が住んでいた)。数キロ離れたところにパリートヴォ村(56人)、その下流に小プィッサ村(64人)、対岸の大プィッサ村(338人)、数キロ下流のアルハンゲリスクとの境にパチユーガ村(36人)と、5つの集落で一つの小さな地方自治体(村ソヴィエト)をなし、村役場は大プィッサ村にある。
 ディーナ・チュプローヴァさんは無人となった家も購入(借家)して第2ゲスト・ハウスとしている。第3ゲスト・ハウスもあると言う。たいていの家は2部屋から2部屋半くらいしかないので、自分たちの住む部屋の他、男女3人もの客を快適に宿泊させるには、第2ゲスト・ハウスも必要だ。つまり2軒分の暖炉を焚かなくてはならない。そこは孫のアンドレイ(車を運転してくれたドミートリーさんの息子)が手伝う。食事は、第2ゲスト・ハウスに泊まっているセルゲイさんとジェーニャは、ディーナ・チュプローヴァさんの家(彼女の父からの家)まで来てみんなで食べる。
 ウードルの歴史
 朝食(昼食)を終えると、私達の観光はまずは自宅の小博物館の案内から始まった。ウードル地方の歴史も初めて知った。ロシア人なら普通に知っていることでも、外国人の私は知らない。ディーナ・チュプローヴァさんの説明は、全くロシア人向けだった。だから、その時はわからないことが多く、帰国後本やネットで調べたものだ。

 13世紀には、南のヴィチェグダ川下流や西のピネガ川(現アルハンゲリスク州)からの移住者(フィン・ペルム諸語の中でもペルム諸語を話す)が、ヴェプシ族(フィン・ペルム諸語の中でもバルト・フィン諸語を話す)やカレリア族(同左)と、ヴァシカ川沿い(当初はそこをウードルと言った)に住んでいたと言う記録がある。ウードル方言にはヴェプシ語やカレリア語からの借用が多いそうだ。
 ウードルの南の、ヴィチェグダ川下流やその右岸支流ヴィミВымь川(500キロ)沿いや左岸支流スィソラ川沿いは、ペルム・ヴィチェグダ(古ペルミ、小ペルム)と歴史的に呼ばれ、ノヴゴロド国がモスクワ大公国に滅ぼされる前まで、ノヴォゴロド国に貢納していた、つまり、ペルム・ヴィチェグダ国は独立していが、当時の北ロシアの多くと同様、ノヴゴロドの勢力下にあった。モスクワ大公国が東北に膨張し、合併されるまではコミ人の(独立)国だったのだ。
 14世紀末にはロシア正教の伝道(16世紀初めにはモスクワ公国に合併されるのだが、征服に先立って前記ステファンによってこの地方に住むコミ人のロシア正教化が行われた)が南のヴィチェグダ川沿いのコミ人の間で進んだので、正教を受け入れないコミ人たちが、より北のヴァシカ川沿いに移住してきた。史料に載っている最も古い集落は15世紀末のヴァシカ川のヴェンヂンガとされている。
 15,16世紀にはメゼニ川岸にも、ヴィミ川から移住してきたコミ人の集落ができた。ヴィミ川がヴィチェグダに注ぎこむところにはイエムドゥンと言うコミ人の村があり、コミ人の民族宗教(つまり、モスクワから見ると異教)の大聖堂があった。ヴィチェグダ川とその支流は、前記のように『ペルミ・ヴィチェグダ』と言う歴史的地名を持つ地方で、『大ペルミ(*)』と並び、『小ペルミ』または『古ペルミ』とも呼ばれていた。
(*)大ペルミ公国  中世に現在のぺルミ地方やカマ川上流にあったコミ・ペルミャク人の国。ヴィチェグダ川の小ペルミと同様、9-10世紀ころよりノヴゴロド国に貢納していた。ヴィチェグダの小ペルミがステファンによってキリスト教化された後も、16世紀初めにモスクワ大公国に合併されるまで、ロシア正教を受け入れることなく、ノヴゴロド国やカザン・ハン国の間である程度独立していた。
 イエムドゥンの『異教』聖堂は正教伝道師(有名なステファン・ペルムスキィ)によって破壊され、正教化がすすめられた。ヴィチェグダ川とその支流のスィソラ川やヴィミ川にいたコミ人の多くは、ステファンの伝道から追われてウードルの地に避難したわけだ。それら古い集落はウードルのヴァシカ川とメゼニ川に沿ってある。
 やがてウードル地方(ヴァシカ川とメゼニ川上流)もキリスト教化される。キリスト教伝道と言っても、ローマの有名な殉教者時代とは違って伝道師側に権力がついているのだ。自宅の小博物館でのディーナ・チュプローヴァさんの講義はいきなり聖ステファン賛歌にいったので、実はその時はよくわからなかったのだが、帰国後ネットなどで調べたのが、下記の通り。
 大伝道師ステファン(この名はコミの歴史で最もよく出てくる)は、今までのスィソラ川やヴィミ川での布教がうまくいったので、ウードルでもうまくいくと思ってやってきた。しかし、ザルニ・アニ(Зарни-Аньコミ語で『金の女性』の意)というこの地方の女王が、先祖からの宗教(ロシア側から見て異教、つまり邪悪)を守るため、つまり、モスクワ公国の勢力下・管轄下に入ることを拒否し、ステファンの伝道を阻もうとした。毎朝ステファンはヴァシカ岸に出て布教したが、毎回ザルニ・アニは川の真ん中までボートで出てきて、先祖伝来の自由をほめたたえる歌を歌うのだった。ステファンは怒って水面を歩いてザルニ・アニに近づいて行った。別の言い伝えによると、石を浮かべその上に乗って彼女に近づいて行った。その奇跡を見た誇り高いザルニ・アニは川に身を投げた。それ以来、ヴァシカ川岸には異教はすたれ、キリスト教会が建てられるようになった。(ザルニ・アニについては、ウィキペディアによるとスカンディナヴィヤのサガにも言及され、東ヨーロッパ北部や西シベリア北部に広まっていた伝説的な崇拝対象だった。文学作品も多い)
自宅の小博物館で説明するディーナさん

 ディーナ・チュプローヴァさん自宅の小博物館の壁にはメゼニの首飾りと言われるウードル西半分を一周するメゼニ川の写真をはじめ、この地方の特産物(シラカバなどの細工品)の写真や説明文の掲示が20枚くらい掲示されていた。ザルニ・アニ女王の掲示もあった。独立国であったペルミ大公国やペルミ小公国(ペルミ・ヴェチェグダ公国)のコミ人が、政治的な征服にやや先立って宗教的に征服され、やがてモスクワ大公国の支配下に入ったことは、コミ人にはどう考えられているのだろうか。ウードル地方のロシア正教普及に反対し、敗北したザルニ・アニのことを、ディーナ・チュプローヴァさんは誇り高い女王なので、と敬意をこめて言っていたが、コミをキリスト教の世界にした偉大なる聖ステファンも拝められている。コミではどこへ行っても聖ステファンだ。一神教のキリスト教にとって民族宗教などの異教は邪悪なもので、異教から救ってくれたステファンは大聖人だ。
 しかし、熱心なロシア正教信者のセルゲイさんやジェーニャの前で、やはり敬虔なロシア正教信者のディーナ・チュプローヴァさんは強調するのは、モスクワ大公国に併合され、ロシア帝国の一地方となっても、ウードルは形式的に独立国であったというのだ。最後のウードル大公がニコライ2世だったと、強調する。それは、最後のロシア帝国皇帝ニコライ2世は、同時にポーランドのツァ―リ(王)であり(それは1831年からロシア皇帝がポーランドの支配者を兼ねたから)、フィンランドの大公(1808年から兼任)でもあるだけでなく、かつてのカザニ・ハン国やシベリア・ハン国(17世紀以前に征服)のツァーリや、リトアニア大公国やスモレンスク大公国などなどの大公の称号を持っていて、その中には確かにウードル大公位も入っている。

 フィン・ペルム諸語の中のペルム諸語には、ウドムルト語とコミ語があり、コミ語もコミ・ペルミャク語(現ペルム地方東北などで話し手6万3千人)とコミ・ズィリャーン語(コミ共和国で話し手16万人)、コミ・ヤジヴィン語(ペルム地方北で話し手2千人)に分かれている。コミ共和国のコミ・ズィリャーン語も、いくつかの民族誌学・エスノグラフィー的なグループがある。それは、例えば、ロシア人の移住のため先住のコミ人が分断されて独自の集団になったからだ、と言われている。ウードルにはウードル・コミ人の方言があり、現代のコミ共和国内でコミ人の地方として残っているスィソラや上ヴィチェグダ、下ヴィチェグダ、ペチョーラ川やイジマ川沿いなどにも、それぞれ方言がある。

 ディーナ・チュプローヴァさん自宅の小博物館には、古い道具などが玄関ホールに展示されていて、前記のように、壁には写真や地図などが貼ってある。彼女から白樺の皮のひしゃくの作り方を習う。学校や児童会館から来る子供たちも、こうしてディーナさん指導のもと、伝統的な道具を作るのか。大小のかごなども白樺の皮を編んでつくる。人形や装身具もだ。日本にだって昔は竹細工のざるもあった。竹でつくった家具類もあった。
 メゼニ川のパトラコーヴォ村
 1時過ぎには、私たち3人の大きな『児童』、つまりディーナ・チュプローヴァ学級の生徒は自作のひしゃくを持ち、蚊よけ対策をしてパトラコーヴォ村探検に出発する。
 この蚊よけは私には重要だった。半砂漠のトゥヴァには蚊はほとんどいないが、半沼地のコミはシベリア同様、蚊や吸血昆虫の大群がいる。蚊よけのネットの帽子をかぶる。養蜂業者のような防具だ。蚊のえさ場にならないよう肌は一寸も露出させない。地元の人はあまり刺されない。セルゲイさんもジェーニャも私と比べると準地元なので、暑苦しいネット帽はかぶらず、スカーフやタオルで頭を包むだけだ。(ネット帽は一つしかなくて、それを私が独占)。ジェーニャはスカーフを巻いた女の子のように見えるが、蚊の餌食にならないためには、格好なんてどうでもいい。
自作のひしゃくで湧水を飲むジェーニャ
蚊除けのネッカチーフを頭に
村の空き家

 田舎で名所と言えば覆水がわき出ている所。そこで手製のひしゃくでお味見する。ディーナ・チュプローヴァさんによると、腎臓にも胃にも薬効のあるミネラル水だとか。洗眼しても効き目がある。
 メゼニ川やヴァシカ川岸に点在する村々には、たいてい自分たちの泉(湧水)が数か所ある。それら泉の水は、どれもそれなりの薬効があるとされている。事実、薬草の生える沼沢地を通る地下水から湧き出る泉の水は、薬効がある。伝説や民間信仰でジバヤ・ヴァダживая вода(生きている水)と言われている湧水もある。それは超自然の薬効を持つ水のことだ。例えば、死人を生き返らせたりもする(と信じられていた時代もあった)。パトラコーヴォ村のこの湧水は、それほど超自然ではないが、『若返りの水』とされている。
 村人はここから車輪付きの大きなバケツで家に飲み水を運んでいる。村にはもちろん水道はないし、村の井戸は枯れている。メゼニ川まで降りるのは遠い。これら湧水や泉の水は小川となってメゼニ川に流れ込む。どの川もそうだが、メゼニ川も地下水起源の支流が多い。
 村には距離を置いて数軒の家がある。太い丸太を横に積み上げ、四方の壁を作り、屋根を置いた直方形に窓をつけたものだ。土地はいくらでもあるが、年輪が何重にも見える太い丸太をそろえ、組み合わせた家は高価だ。しかし、どの家も無人だった。ディーナ・チュプローヴァさんによると、住民がいなくても、家はちゃんと立っていなければならないとか。パトラコーヴォ村は、周りを沼地に囲まれたメゼニ川の高い段丘にある。(パトラコーヴォ村だけでなく、多くの村は高台にある)。北極海に流れ出るメゼニ川をヨーロッパで一番清い川とディーナ・チュプローヴァさんが言うが、それを、セルゲイさんが最も美しい川の一つと訂正したメゼニの流れを見渡せる丘には先祖代々の墓地がある。村人の苗字は数種類しかない。現住民は少ないがかつての住民は多かった。パトラコーヴォ村ではほとんどがブシェネフさんとロギノフさんだ。メゼニ川沿いの村々ばかりか、ウードル区ではソ連時代の新規移住者以外は、この二つに加え数個しか苗字がない。墓地はきれいに整備されてあった。
 4時に昼食をとったが、8時半には夕食が出された。夕食の時は、姪孫ナターシャの祖母、つまりディーナ・チュプローヴァさんの妹のリュツィアさんも一緒だった。この地方の特産と言う、熟した(発酵させた)小魚イオスйосも出された。日本にも熟鮨がある。だが、こちらのは米飯に漬けたのではないらしい。この特産グルメのお味見をしたのはジェーニャだけだった。
                   パトラコーヴァ村
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