クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 12 May, 2016 (追記 2016年6月15日、2017年6月8日)
北ロシア,ウラル山脈北西コミ人たちの地方 (6)
    コミの原生林を行く
           2015年7月20日から8月6日(のうちの7月31日から8月1日)

Путешествие по КОМИ 2015 года (20.07.2015−06.08.2015)

月日 目次
1)7/20 コミ共和国 S.ペテルブルク着 S.ペテルブルクの住宅事情 詩人・シュメール学博士
2)7/21-7/22 北ロシアに向かう ヴォログダからトッチマ 北ドヴィナ川流域地図
スホナ街道
大ウスチュク アルハンゲリスク州 ゥイブ大村
3)7/23-7/24 コミ地図
スィクティフカル市
コミの鉄道 幹線と支線 ウドール地図
コミ人のウドール地方へ
ウドールの地理と歴史 メゼニ川のパトラコーヴォ村
4)7/25-7/26 大プィッサ村の郷土史家ロギノフさん 郷土芸能家アンドレーエヴァさん マーガレットの絨毯 ホロムイイチゴの沼 ムチカス村
5)7/27-7/28 先祖伝来の狩場プーチキ 隣村のコンサート 天空の村 メゼニ川沿いの村々
6)7/28-7/29 菱形のコミの対角線上を行く 環境地図ロシア初の石油の町 ウラル山脈とぺチョーラ川 ヴクティル市 ペチョーラ川を下る 『ユグィド・ヴァ』国立公園
7)7/31-8/1 ユグィド・ヴァ地図 シューゲル川を遡る 『中の門』と『上の門』 大漁のアトランチック・サーモン 小パートク川 サーモンで乾杯
8)8/2-8/6 北ウラルを去る、(旧)最短の道 スィクティフカルからヴォログダ スターラヤ・ラドガ ブルーベリー
 菱形のコミの対角線上を行く コミの地図は(3)を
 7月29日(水)。ウードルのコスラン駅からからスィクティフカルには朝到着し、夕方には、セルゲイさんの車トヨタRAVで次の目的地ヴクティル市へ向けて出発していた。ヴクティルからボートでユネスコ自然保護区になっている国立公園『ユグィド・ヴァЮгыд ва』へ行くためだ。到着から出発までの数時間のスィクティフカル滞在中は、セルゲイさんたちと買い物をした。夕方からどんなところに行くので、どんなものが必要か、それはどこで売っているかはセルゲイさんが知っている。私は二人のあとについて行っただけ。食料品はどっさり買った。懐中電灯などを買いに寄ったホームセンターには、ボート用の船外モーターも売られていた。ニッサン・マリーナ41キロ・手動で発動・18馬力は94,500ルーブル。スズキ33キロ・手動で発動・9.9馬力は92,000ルーブルと値段が出ていた。(当時1ルーブルは約1.7円)
 夕方7時には私たち3人はスィクティフカルを出発した。

 コミ共和国は南西から北東に延びるひし形の形で、北緯60度から68度と言う高緯度地帯にあり、それは、カムチャッカ半島より北、アラスカと同じくらいの緯度だ。面積は日本の約1.1倍(コミ41.3万平方キロ、日本37.8万平方キロ)で、ロシア連邦では13番目の広さだが、人口は54番目の86.5万人(2015年)。人口密度は平方キロあたり2人だ。菱形の長い対角線で南西から北東までは1300キロほどの距離がある。ほぼ、その南西から北東に、ヤロスラヴリを始点とする北部幹線鉄道のうち1200キロが走っている。首都のスィクティフカル(24万人)はコミ共和国の南西の隅に位置する。人口2位のウフタ市は菱形のほぼ真ん中にあり、その北東の4万人のペチョーラ市、さらに最北東の6万人のヴォルクタ市(*)などは鉄道に沿ってある。と言うより、鉄道は、石炭、石油ガスの産地ウフタやヴォルクタに向けて敷かれた。
(*)現在北極圏内(北緯66度33分44秒、つまり、66.5622度以上)にある最大の都市は29.9万人のムルマンスク市(68度58秒)、次は17.6万人のノリリスク市(69度21秒)、それに次いでこのヴォルクタ市(67度30秒)だ。すべてロシア連邦だが、4位はノルウェーのトロムソ市で、人口5.9万人だが最北の69度41秒にある。

 1930年代ヴォルクタ炭田が発見された。第2次世界大戦中、ウクライナと南ロシアのドンバス炭田がドイツ軍に占領されていたため(*)、当時、ソ連でも最も大規模な強制労働施設の一つが設置され、急速に関発が進められた。1942年にはヴォルクタまでの鉄道も囚人労働によって開通した。そうした強制(囚人)労働力を使って開発されたことは、ニッケルのノリリスク市や、スターリン時代の他の多くの過酷な気候の開発地と同じだ。ウフタより北東のペチョーラ、ソスノゴルスク、ウシンスク、インタ(1932年インタ炭田発見)、ヴクティルなどは、1930年代の強制労働者収容所から始まり、やがて、自由人も住む市や町になったのだ。
 (*)第3帝国のドイツにとって、ドンバスの資源がバルバロッサ作戦にとって決定的に重要とされ、ドンバスは 1941年から1942年にナチ占領下にあった。
 ウフタではロシアで初めに石油が採掘された(1597年。ウフタ川表面の油を医療用にモスクワにもたらされた。下記)。コミの東はウラル山脈で、山脈を越えてもチュメニ州のハンティ・マンシ自治地区やヤマロ・ネネツ自治地区の西シベリア油田地帯が広がる。
ウフタへ向かう。23時。空にかかるのは雲

 1980年代の採掘ピーク時と比べてソ連崩壊の後はコミでは(特に採掘地では)人口が減っている。たとえば、1990-2007年の間でも、コミの人口は22%減った。

 私たちはスィクティフカルからウフタまでの330キロはその北部幹線鉄道と並んだ『地方道25』と言う舗装道で行く。鉄道の方は、ウフタからさらにペチョーラ、インタ、ヴォルクタへと続くが、目的地のヴクティルへ行くには、ウフタから東へウラル山脈の方に曲がる。全行程は約530キロで、道路情報によると休憩なし12時間半で行けるとか。
 出発点スィクティフカル市はヴィチェグダ川の左岸支流のスィソラ川の合流点にあるので、ヴィチェグダ川を渡って北へむかう。ウフタまでの330キロの前述『自動車25』は森林沼地を突っ切る真っ直ぐなアスファルト舗装道だ。途中の食堂で夜食を食べる。客はたいていトラックの運転手だ。夕日の中を進んで行った。ウフタを通り過ぎる頃は夜の11時でほぼ暗くなっていた。
 ロシアで最初の石油採掘の町
 ウフタは石油ガス採掘の基地町だ。精製工場もあって、大きな煙突から真っ赤な炎が上がっていた。大きな炎なので、もちろん昼間の明るい時でも目立つだろうが、私たちは、往復とも夜間に通過したため、夜空に上る衝撃的な大たいまつを眺めることになった。
ウフタ市の天然ガスの炎

 ロシアで最初に石油採掘がはじまったのは16世紀ウフタ川岸であるという史料がある。コミのウフタはロシア初の石油産地だった。当時、水面の石油を集め、医療用、また潤滑油として使われたそうだ。1597年ウフタ川から採集した石油がイヴァン雷帝の命により、はじめてモスクワに持ち込まれたと言う。19世紀後半にはボーリング孔での採掘がはじまり、20世紀に石油精製工場もできた。ロシア革命後の1929年からは、本格的な採掘のためウフタ川合流点に、基地になる村の建設が始まった。囚人達(政治犯や刑事犯のほか、『富農』だったため撲滅されることになる旧地主・自作農階級)の矯正(強制)労働力や強制移住者の労働力を使ってなされたことは、当時の新造の採掘産業都市と同様だ。その頃、コミの沼沢森林地帯には陸上の道が全くなかったため、最初の建設隊は北極海からペチョーラ川を遡り、その支流イジマ川を遡ってやって来た。自由労働者も休日なし12時間労働で材木を伐採して住宅を建てることから始まったと、サイトにある。1933年には4666人の囚人、206人の自由労働者、421人の植民者、313の強制移住者がいたそうだ。
 1938年になると、ウフタは収容所管轄町(強制労働者・囚人の集落)から、普通の自治体の町になった。当時町民(自由者)は1200人となっていた。1939年、当時のソ連政府にはコミ・ソヴィエト社会主義自治共和国の首都をスィクティフカルからウフタに遷都する計画があったそうだ。コミ領内の強制収容所の全囚人労働を使えば3年で新首都建設が可能と見積もられ、南西の隅にあるスィクティフカルから行政中心地を地理的中央のウフタに移動することでコミ北部の開発が進むと考えていたという。しかし第2次大戦のため中止。
 1941年にはソ連邦で初めて天然ガスの工業的採掘がはじまり、戦後急速に発展して行った石油ガスの町ウフタ市だが、ソ連崩壊後の90年代後半からは人口が減っている。
コミの環境地図


 前記のように、地方道25号線はウフタで終わり、鉄道に沿っては、それでも、ペチョーラ市までの300キロはそこそこの道路はあるが、その先は陸上の自動車道はない。無人の原生林と沼沢地が続く。ペチョーラ市から真っ直ぐ北のウシンスク(石油ガス採掘のため1970年代にできた)までペチョーラ川岸に非舗装道は続いている(330キロ。冬期間のみ通行可?)。さらに北へ沼地を通りヤマロ・ネネツ自治地区のハルヤギノキイХарьягинокий(石油採掘用非定住集落)村まで、地図上には細い線が通じている。冬期間だけ通行可の氷上路だろう。コミの極北の炭田産地ヴォルクタまでは鉄道が通じている。
 ロシアの北は、ウラル山脈の東(シベリアと言う)でも西(セーヴェルと言う)でも、山地の少ない凍土、または半凍土の大平原、大沼沢地が続き、あらゆる種類の地下資源が眠っているそうだ。石油天然ガス産地の開発は西のコミのペチョーラ地方が早く(ピークは1980年代)、チュメニの西シベリア地方(1950年代から本格的採掘)が続き、クラスノヤルスクの東シベリア地方(1970年代から)、ヤクチアと東進している。

 私たちの行路、ウフタ市から東に曲がり、ウラル山脈方面のヴクティル市へと向かう道も、最近舗装されたようないい道だった。森の中に真っ直ぐ続いている。
 そのあとは夕日だか朝日だかわからないような空の下、ひたすらセルゲイさんの運転で走った。夕焼けが消えないうちに朝焼けが始まったのだろう。全空が真っ暗になることはなかった。
 ウラル山脈から流れ来るペチョーラ川
ぺチョーラ川岸に到着
始発のフェリー、車両用
始発のフェリー、乗客用
湿原
通行止めの分かれ道、ガスパイプ関係か
 7月30日(木)。朝1時半頃ペチョーラ川岸に着いた。この川を渡らなければならない。渡し船は、朝一番でも、6時出航だから、ここで3人とも車の中でまどろんだ。
 ペチョーラ川は延長1809キロで、ロシアでは黒海に流れ出るドン川に次いで9番目に長い。北極海に流れ出す川としては、シベリアのオビ、エニセイ、レナ、オレニョーク、インディギナ、コルィマに次いで7番目に長い。すぐ西のヴィチェグダ川を含めた北ドヴィナ川は1803キロ。その北ドヴィナとペチョーラの2川とその間にある857キロのメゼニ川の3本でウラル北西の森林沼沢地、つまり東ヨーロッパの北部平原の水分を分け合っている。その南に、北ウヴァーリという低い丘(300m以下)の連なりが分水嶺になっていて、東ヨーロッパの南部平原にはヴォルガが流れる。
 3本の中で最も東を流れるペチョーラ川の東側の分水嶺はウラル山脈だ。最下流をのぞくとペチョーラ川はコミ共和国から一歩も出ないで北極海の一部バレンツ海のペチョーラ湾に大きな三角州をつくって流れ出る。その最下流はネネツ自治地管区で、行政中心地ナリヤン・マル市(1.8万人1930年代にできた)がペチョーラ川出口の三角州の要のところ(バレンツ海まで110キロ)にある。ペチョーラはコミ語で、ネネツ語ではサネロと言う。
 北ウラル(ウラル山脈の5区分については下記)の山中から流れてくるペチョーラ川だが、初めの160キロぐらいだけが山川であとは延々とペチョーラ低地を流れる。ちなみに、ヨーロッパとアジアを分けるウラル山脈は、古生代の造山活動で形成されたという現存する山脈でも最も古いもので、だから、地形の侵略が進んでいる。平均標高は900mから1200mとなだらかな山地だ。最高峰は北極圏に近い1,895mのナロドナヤ山(北緯65度)

 ペチョーラ川流域には古くはネネツ人やオビ・ウゴール(ハンティ人、マンシ人)が住んでいたが、彼らは次第にコミ・ジリャーンによってウラルの東、つまりオビ川流域に移っていったのだ。20世紀後半、豊富な地下資源が発見されるとロシア人も多く住むようになった。だから、地名にも先住民の言葉が表れていて、たとえば、ナロドナヤ山はロシア語だが(後で、語源が分かった)これも、マンシ語ではポエン・ウル、サブリャ山はサウク・パイなど。

 ウフタからヴクティルへは、ペチョーラ川の河口から1100キロほど上流にある渡し場をフェリー船で渡るという唯一の道があるだけだ。川岸にバス停のような小屋があった。渡し船の乗客用待合小屋だろうか。春の雪解け洪水時期には、その小屋は水没すると思う。
 朝6時前になると車がそろそろ集まってきて、始発のフェリーが出発する頃には車の列ができた。車の渡河用の筏のような船と、乗客用船室付きのフェリーは、数10メートルほど離れた別の場所から出る。運転手は車を乗せ終わると、一度川岸に上がり、やや離れた乗客用船着き場から別の船に乗る。川幅は700mくらいだ。ペチョーラ川を渡っても、同じくペチョーラ川の右岸にあるヴクティル市まで、まだ50キロも行かなくてはならない。
 ここまで来ると地の果てに来た気分になれる。道は、間違いなく沼地を突っ切ってできていた。遠く地平線近くまで広がっている湿原だった。低い草の間から水面も見えた。道路近くの乾いた日の当るところには紫の花のヤナギランが群生している。湿原が過ぎると森に入る。また湿原に出る。所々に分かれ道があった。その道には通行禁止のマークがついている。ガス採掘基地がこの先にあるのかと思ったが、コンプレッサー・ステーションがあるのだ。УКПГとある。Установка комплексной подготовки газаの頭文字だ。
コンデンサート
конденсат

 広い三叉路に出た。ヴクティルに行くには左折するが、直進すると150キロほどでウラルを越えて、西シベリア石油産地につながる。ここに『シヤーニエ・セーヴェラСияние Севера北方の明かり(地図)』ラインと言うガスパイプが通っている。三叉路近くに目立つ標識が立っている。黄色地に黒の絵とコンデンサートконденсатと言う文字もある。ガス管の圧力調整弁かと思った。たぶん、バルト海底を経由してロシア・ドイツ間をつないだ天然ガスのパイプラインのノルド・ストリームNord Streamの陸上部分のパイプだろう。バルト海まではまだ遠いが。
*『北方の明かり』Сияние Севера これは語順を変えて、セーヴェルナエ・シヤニエсеверное сияниеならオーロラとなる。直訳すればどちらも北方の明かり。ヴクティル開発と同じ1970年台から稼働が始まったと言うガスパイプライン。世界で最も北を通る。ヴクティルやウフタから、また、チュメニ北部からロシア中央部へ、さらに西ヨーロッパへと通じている。』
 ヴクティル市
 ヴクティルに近づくと、雨風にさらされっぱなしの槌と鎌のソ連マークの絵や、『開発45年』と書いた看板も現れる。ヴクティルはピークを越えた石油ガスの町だ。
 1960年代石油ガス炭田が発見されたことから、ヴクティル川がペチョーラ川に注ぐ合流点に労働者の集落がつくられた。1984年には市となり、80年代末には人口は2万人近くなったが、現在(2015年)にはその半分の1万人。ヴクティル川の語源は古フィン・ウゴル語のオフトまたは、ウフト(川、支流、川と川を結ぶ陸路の意)から来ている。コミ語流にヴクトとなった。語尾ィルはコミ語の小川の意のョリから。
 ペチョーラ川の渡し船を降りて、沼沢地や森の中を一直線に走る何か後ろめたい快適な道路を通って(自然の一部を破壊して道路を作り、そこを快適に走ることになって申し訳ない)、コンデンサーの基地らしいところも通り過ぎ、1時間ほどでヴクティルの役所の前に到着。それは7時半と言う早い時間だった。この5階建ての建物には、入口にある標識を見ても、国立保健局や森林局、税務署、年金局、市役所、市議会と何でも入っているらしい。私たちに用事があるのは国立公園『ユグィド・ヴァ』の管理局だ。『ユグィド・ヴァ』は保護区なので入園許可をもらわなくてはならない。
 ありがたいことに事務所は8時頃には開いた。9時前には役所と言うものは開かないのかと思っていたのに、北緯64度にあって、年平均気温がマイナス1.3度のこの町は、朝が早いのか。『ユグィド・ヴァ』の管理局は5階にあった。登って行ってパスポートを渡すと、
 「さあ、お茶をどうぞ」と言われた。お茶を飲み、お菓子を食べ、管理局の人と知り合いになるために5階まで上って来たかのようだ。所長はタチヤーナ・フォミチェヴァさんと言う。
『ユグィド・ヴァ』所長フォミチェヴァさん
ヴクティル市にも新築教会が

 『ユグィド・ヴァ』の展示室にもなっている部屋で、お茶を飲んだり、展示品の写真を撮ったり、また、所長室でフォミチェヴァさんと写真を撮ったり、売店でロゴマーク入りのTシャツを買ったり、最も重要なことだが、『ユグィド・ヴァ』の地図を買ったりしている間に、許可証ができたらしい。
 許可証には、『グループは3名で、うち1名は外国人。7月30日から8月2日まで。ガイド(インスペクター)はヴラジーミル・コルクシェンコКоркушенко В.С.』とあった。セルゲイさんとジェーニャのパスポート情報は詳しく書かれているが、私のはパスポート番号だけだった。この役所には、セルゲイさんの知り合いもいて、なかなか便宜も払ってもらえたらしい。ニコライ・ミハイロヴィッチ・ダニーロフさんと言って、昔、ガス産出のピーク時はここに住んでいたセルゲイさんと一緒に働いていたそうだ。
 管理局を出ると、買い物をした。男性たちのヴォッカをたっぷり買う。食料は、ボートで出かけるので魚を釣ればいくらでもあるが、川にヴォッカは泳いでいないからという訳だ。
 セルゲイさんには、誰と打ち合わせをして、どこで何を買い、ボートに燃料をどれだけ用意して、自分たちの乗ってきたトヨタRAVはどこに置いて、どこへ行くかと言うことは、すべて計画済みのようで、後ろについて行くだけだった私は何のために何をしているのか、よくわからなかった。ジェーニャは、セルゲイさんに教えてもらって、まだわかっているらしい。ボートの燃料代に数千ルーブル渡す。
 11時頃には持ち物をすべて持ち、誰かのウアス(ロシア製大型ジープ)に乗っていた。運転手さんはなぜか私に親しそうに話しかけてくれたので、この先ずっと彼と一緒なのかと思ったくらいだ。ヴクティルで会った人はみんなめちゃくちゃに愛想がよかった。私がセルゲイさんの知り合いで、おまけに日本人だったからか。皆私が来るのを待ち構えてくれていたかのようだった。
 ペチョーラ川を下る
 向かったところは、かつて立派だった船着き場の横の砂浜だった。延長1809キロのペチョーラ川は河口から1643キロのウスチ・イニヤ村まで(つまり、かなり上流まで)、春の満水期には航行ができ、1360キロのトロイツコ・ペチョールスク町まで定期航路があり、110キロのナリヤン・マルまでは海洋船でも寄港できるくらいだから、河口から1100キロのヴクティル市にも立派な河川港があったのだ。
ヴクティルの河岸港
ボート内の水を捨てる
車両をはこぶ平底荷船
シューゲル川の河口、国立公園入り口

 その横の砂浜には、幅のやや広いモーター・ボートや細長いボートが何隻か停泊していた。そのうちの一隻の細長いコミ風のボートを、男性たち4人で「せいのっ」と裏返しにして中にたまっていた水を捨てた。それに、モーターをつけ、燃料の缶と私たちの荷物を積み込み、出航したのは12時過ぎだ。
 停泊する度に一杯やるそうだが、最初の停泊地は出航15分後だった。かつての立派な船着き場が、岸辺に隠れてすぐだった。ペチョーラ川はナビゲーションがなされていて456と書いたブイが浮いている。曇り空だった。30分後のブイの番号は451だった。時々大きなトラックを2,3台乗せた筏船が通り過ぎて行った。やがて、雨模様になった。
 ペチョーラ川はペチョーラ低地を蛇行して緩やかに流れる。川幅も広い。河川は古くからの交通路なので、所々に古い集落がある。ウラル山脈に近いペチョーラ川岸にはフィン・ウゴル語族の中でも、ウゴル諸語のマンシ族が住んでいた(昔からマンシ族の狩猟と漁業のテリトリーだった)。マンシ族は、現在は西シベリアのハンスィ・マンシ自治地区の先住民とされているが、コミ族によってウラルの東に追われたのか(18−19世紀)。
 ポトチェーリエПодчерье川(178キロ)の合流点にはポトチェーリエ村(600人)がある。ここも沼地に囲まれた川岸の高台にあり、18世紀の半ばにコミ人がはじめに住みついたらしい。広い川の岸辺にポトチェーリエ村が見えた。その先にキルィタと言う小さな村(60人)が地図には載っているが川岸からは気がつかなかった。川は何度も蛇行して、おおむね北へ向かって流れている。
 出発から、『一杯やる』ための一時停泊も含めて4時間ほど、ガイド(インスペクター)のヴァロージャ・コルクシェンコさんの操るモーター・ボートで進んだところに、村らしくないボートの停泊場があった。後にペチョーラ川のサイトを見てわかったことだが、67キロほど進んだようだ。私たちもその近くに自分たちのボートを寄せた。川が蛇行していて気がつかなかったが、シューゲル川という右岸支流の入り口(川の流れから言うと出口)に入っていた。
 ウラル山脈は、前記のように南北に2500キロにわたって延び、ユーラシア大陸をヨーロッパとアジアに分ける境界線の北側を形成している。幅は狭いところでは40キロ。東ヨーロッパ平原と西シベリア平原を分けるとも、ペチョーラ川やヴォルガ(その支流のカマ)川流域(ウラルの西側)とオビ川(東側)流域の分水嶺をなすとも言える。
 ウラルと言う語は、現在もウラル南部に住むバシキール人(チュルク系)から、16世紀中ごろにロシア語に入ってきたのだろうと言われている。古いバジキール語(古代チュルク語)ではウラルは高所と言う意味だそうだ。ウラル山脈に古くから住むハンティ人、マンシ人、ウドムルト人、コミ人、ネネツ人たちは、それぞれ、自分たちの地名があったが、現代のようにウラル山脈と呼ぶようになったのはロシア語の影響で19世紀末から20世紀だ。
 ウラル山脈は、石炭紀後期にできた古期造山帯で、前述のように地球上に現存する山脈でも最も古いもので、地形の侵食が進んでいる。特に中部ウラルはなだらかだ。南北に長いウラル山脈は、北極ウラル(長さ400キロ、幅25キロから)、亜北極ウラル(最も高いナロドナヤ山脈1895mの周辺)、北部ウラル(東経59度周辺をほぼ南北に延び、最も長い)、中部ウラル(長さ400キロ、幅25キロ)、南ウラル(長さ550キロ、幅150キロと広がる)に分かれる。コミ共和国は、北極ウラルの南部、亜北極ウラル全と北部ウラルの北半分までの西斜面を占める。シューゲル川は亜北極ウラルのナロドナヤ山脈より南のウラル西斜面(つまり、北ウラル)の水分をほとんど集めてペチョーラ川に合流するという300キロの大河だ。
 北部ウラル山脈西のコミ共和国内には3.2万平方キロと言うヨーロッパの原生林としては最大の『コミの原生林』と言うユネスコの世界自然遺産がある(中西部ヨーロッパにはすでに原生林はない)。7千平方キロの『ペチョーラ・イルィチПечоро-Илычский自然保護区(1930年設立)』と、その北の1.9万平方キロの『ユグィド・ヴァЮгыд Ва国立公園(1994年設立)』を含んでいる。1995年ユネスコ自然遺産に登録された(ロシアでは初の自然遺産)。ペチョーラ・イルィチ自然保護区は北部ウラル山脈西斜面のペチョーラ川最上流とその右岸支流イルィチ川などの流域で、『ユグィド・ヴァ』はその北のシューゲル川やポトチェーリエ川の上流や亜北極ウラルの南部西斜面などを含む(『ユグィド・ヴァ』北部の亜北極ウラルへは2016年に訪れた)。
 シューゲル川はペチョーラ川の右岸支流だ。合流点の左岸にはウスチ・シューゲルと言う18世紀の中ごろできた寒村がある(2010年人口27人)。ウスチ・シューゲル村が有名なのは、1978年12月31日のカラ海寒波で、ヨーロッパでの最低気温零下58.1度を記録したからだそうだ。例年では、この村の12月の平均気温は零下28度。
 『ユグィド・ヴァ国立公園』
 夕方の4時過ぎ、ヴォロージャがボートを岸辺に寄せた場所は、シューゲル川のペチョーラ川への合流点、つまり、ウスチ・シューゲル村(ここからは見えない)の対岸だった。岸を上がって行くと最近できたような小屋が1軒あった。それは『ユグィド・ヴァ国立公園』管理事務所だった。つまり、今まで航行して来たペチョーラ川はまだ『ユグィド・ヴァ』領内ではなく、シューゲル川に入ってからが『ユグィド・ヴァ』なのだ。(地図)
 ヴァロージャの予定では、この日は次の小屋まで行き、そこで宿泊することになっていた。しかし、そこには今、別のグループがいるようだと、レンジャーが言う。そのうち雨も降ってきた。だから、ここで宿泊させてもらうことにした。

  私たちは保護官(レンジャー)さんから大歓迎を受け、テーブルの上に、男所帯のここでいつも食べているらしいご馳走が並んだ。缶詰の肉と生や薄塩の魚(サケ)、パン、キュウリ、タマネギ、塩、それに飲物だ。私はどれも少しずついただいた。飲物と言うのを一口だけでもと、しつこく勧められて飲んでみると、ひどい味だった。後でわかったことだが、ヴォッカではなく医療用のアルコールだった。私以外の男性たち、セルゲイさんや、ジェーニャ、ガイド(インスペクター)のヴァロージャ、保護官のミハイロヴィッチさんは、「乾杯」、「乾杯」と言って何杯も飲んでいた。保護官の助手の男の子は未成年なのか、助手だからか、ふるまわれなかった。ミハイロヴィッチさんはベラロシア出身だそうだ。少し酔って私にモーションを掛けそうになって、みんなに笑われていた。
 「ベラロシア出身者はみんないい人間だ、ヴァロージャもそうだ」と言っていた。そう言えば二人とも、今は深いしわが寄っているが、とても切れ長の目をしている。いい人間かどうかわからないが、若い時は美青年だったかもしれない。
管理小屋
管理小屋前に置かれたカヌー
ヴォロネジ大学院の院生たちと

 この管理小屋の河岸段丘には岸辺から上がるとすぐに『ユグィド・ヴァ国立公園』地図の看板がある。と言うのは公園内には旅行者用のルートがあって、それ以外の園内には立ち入ってはならないからだ。公園内での禁止事項、例えば、動植物の保護とか、森林火災を防ぐためとかを書いた看板が立っていた。その先に管理小屋があり、高台にはあずまやがある。そこからシューゲル川が一目で見おろせる。北方民族の円錐形の移動用住宅チュムもあって、管理人の話では、数十人が泊まれるそうだ。本当のチュムなら樹皮や獣の皮でつくるのに、白い大きなテント布でできた清潔な住居だった。もちろん小屋の奥の草はらには蒸し風呂小屋とトイレ小屋もあった。
 この日、小屋の周りには10人余りの他のグループもいた。上がって来たとき見かけた男性たちだ。彼らはモーター・ボートではなく、カヌーで旅している。公園内は、本当はエンジンなど使ってはだめで、カヌーかゴムボートでなければならないのだ。グループはロシア南のドン川ほとりのヴォロネジ大学院の先端科学技術関係の院生たちで、教授もいた。彼らは小屋には入らずに、自分たちのテントに泊まる。彼らは、毎年、こうやって研究室のグループで、『野性的な』旅に出て、日ごろの緊張を解いている。彼らは、全シューゲル川を航行したそうだ。ヴァロージャによると、シューゲル川最上流のアジアとヨーロッパのほとんど境にも『ユグィド・ヴァ国立公園』管理事務所(小屋)があり、そこまではヘリコプターで行く。または、陸上からだと、チュメニ石油天然ガス田から、ウフタ、ロシア中央(からさらにヨーロッパ)へ通っているガスバイプ『北の明かりСияние севера』があるが、(ヴクティルへ来る途中に圧力弁のある場所を見た)、そのパイプ沿いに高駆動車ならたどり着けるという。その最上流地点から331キロを12日から14日で川下りをして、このシューゲル川の終点でペチョラ川との合流点にある管理小屋まで来たらしい。その331キロは原生林で人は全く住んでいない、木を切っても、草を刈っても、放牧しても、漁をしても、狩猟をしてもいけない。陸上を通行してもいけない。シューゲル川岸には許可があれば宿泊できるところが始点と終点の他に数か所ある。しかし、彼らは、12日間もの間、それ以外のところにもテントを張って焚火をしただろう。焚火の火は消したことをよく確認してこなくてはならない。
 夕方の8時になっていて川面には夜中までも、翌朝までも長く続く夕焼けが始まっていた。ヴォロネジ大学院生のグループはウスチ・シューゲル村から調達して来たらしい(強アルコールの)飲料を飲んでいる。セルゲイさんやジェーニャにも勧めて「カンパーイ」とやっている。ヴォロージャも加わっている。皆カメラで川に映る夕焼けを撮ったり、仲間を撮ったりしている。一人の院生と夕日のシューゲル川をバックに写真を撮り合ったあと、酔っ払っている人たちを残して、私は小屋に入った。
 3台のベッドのうち1台に寝てもいいと言われた。セルゲイさんやヴァロージャはテーブルを寄せて、床で寝る。保護官のミハイロヴィッチさんとその助手は壁際にある自分のベッドで寝る。私は2台のベッドに挟まれて寝ることになった。ミハイロヴィッチさんは、このベッドはめったに誰でも寝かせない。あなたは特別だと繰り返し言っていた。私は、寝袋を広げマスクをして眠剤を飲み、ベッドから落ちないようにと願ってすぐ眠って、あとのことは何も知らない。ジェーニャは、ヴォロネジ大学院の青年たちと最後まで付き合って飲んでいたそうだ。
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